旧中山道
道草ハイク
<2011年7月3日改訂>
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【番外】
「御朱印でめぐる鎌倉三十三観音」
目 次
【江戸から京都まで六十九次
135里36町(533.9km)】
各回の最後に通算距離と当日の歩行距離を載せていますが、距離計測は、Mapionの「キョリ測」を利用しました。
街道のみの距離は、江戸時代の道を計測しています。従って現在消失している道や川渡しも往時の道程で測りました。
実歩行距離は、当地の駅・ホテルの出発地から到着地迄の全ての
寄り道(見学地・施設等)を含めた歩行距離です。
1回目 江戸 〔2005.9.17〕 日本橋(道路元標) → 板橋駅(JR東日本:埼京線)
2回目 板橋宿・蕨宿 〔200510.1〕 板橋駅 → 蕨駅(JR東日本:京浜東北線)
3回目 浦和宿・大宮宿〔2005.10.28〕 蕨駅 → 大宮駅(JR東日本:高崎線)
4回目 上尾宿・桶川宿〔2005.11.5〕 大宮駅 → 桶川駅(JR東日本:高崎線)
5回目 鴻巣宿〔2005.11.26〕 桶川駅 → 吹上駅(JR東日本:高崎線)
6回目 熊谷宿〔2005.12.23〕 吹上駅 → 籠原駅(JR東日本:高崎線)
7回目 深谷宿 〔2006.2.15〕 籠原駅 → 岡部駅(JR東日本:高崎線)
8回目 本庄宿〔2006.2.25〕 岡部駅 → 新町駅(JR東日本:高崎線)
番外編 〔2006.3.18〕
9回目 新町宿・倉賀野宿・高崎宿[2006.5.1] 新町駅 → 高崎駅前ホテル
10回目 板鼻宿・安中宿・松井田宿[2006.5.2] 高崎駅前ホテル → 西松井田駅(JR東日本:信越本線)
11回目 松井田宿(後半) [2006.6.20] 西松井田駅 → 横川駅(JR東日本:信越本線)
12回目 坂本宿・軽井沢宿 [2006.6.21] 横川駅 → 中軽井沢駅(しなの鉄道)
13回目 沓掛宿・追分宿・小田井宿・岩村田宿 [2006.9.23] 中軽井沢 → 佐久平駅(JR東日本:小海線)
14回目 塩名田宿・八幡宿・望月宿・芦田宿 [2006.10.8] 佐久平駅 → 笠取峠
15回目 長久保宿・和田宿 [2006.10.20] 笠取峠 → 和田宿「本亭旅館」
16回目 下諏訪宿 [2006.10.21] 「本亭旅館」 → 下諏訪駅(JR東日本: 中央本線)
17回目 塩尻宿・洗馬宿[2006.11.3] 下諏訪駅 → 洗馬駅(JR東海:中央本線)
18回目 本山宿・贄川宿[2006.11.25] 洗馬駅 → 木曽平沢駅(JR東海:中央本線)
19回目 奈良井宿・藪原宿[2007.6.2] 木曽平沢駅 → 宮ノ越駅(JR東海:中央本線)
20回目 宮ノ越宿・福島宿・上松宿[2007.10.6] 宮ノ越駅 → 上松宿「田政旅館」
21回目 須原宿・野尻宿 [2007.10.7] 「田政旅館」 → 十二兼駅(JR東海:中央本線)
22回目 三留野宿・妻籠宿・馬籠宿・落合宿 [2007.10.20] 十二兼駅 → 落合宿「診療所下」バス停(濃飛バス)
23回目 中津川宿・大井宿 [2007.10.21] 「診療所下」バス停 → 恵那駅(JR東海:中央本線)
24回目 大湫宿・細久手宿 [2011.5.2] 恵那駅 → 細久手宿「大黒屋旅館」
25回目 御嵩宿 [2011.5.3] 「大黒屋旅館」 → 顔戸駅(名鉄電車)
26回目 伏見宿・太田宿 [2010.5.30] 顔戸駅 → JR太田駅前ビジネスホテル
27回目 鵜沼宿 [2010.5.31] ホテル → 犬山遊園駅(名鉄電車)
28回目 加納宿 [2010.6.19] 名電各務原 → 岐阜バス・東鏡島バス停
29回目 河渡宿・美江寺宿・赤坂宿(前半) [2010.6.20] 岐阜バス・東鏡島バス停 → 美濃赤坂駅(JR東海:美濃赤坂支線)
30回目 赤坂宿(後半)・垂井宿・関ヶ原古戦場 [2010.10.2] 美濃赤坂駅→ 関ヶ原駅(JR東海:東海道本線)
31回目 関ヶ原宿・今須宿・柏原宿・醒井宿 [2010.10.3] 関ヶ原駅→ 醒ケ井駅(JR東海:東海道本線)
32回目 番場宿・鳥居本宿(前半)・彦根城 [2010.11.3] 醒ケ井駅→ 彦根駅(近江鉄道)
33回目 鳥居本宿(後半)・高宮宿・愛知川宿 [2010.11.4] 鳥居本駅→ 五個荘駅(近江鉄道)
34回目 武佐宿[2011.5.14] 五個荘駅→ 野洲ビジネスホテル
35回目 守山宿・草津宿・竹生島[1011.5.15]
ホテル → 草津駅(JR東海道線)
中山道も旧道は頻繁に国道から離れたり戻ったりとジグザグに縫っているが、ほとんどの曲がり道にはガードレール等に赤いビニールテープの矢印が貼ってある。たまに剥がれている所もあるが糊の跡が残っているので分かる。特に木曽路はこれが街道かと思われる超細道が多いのが、赤テープが充実しているので良く注意していれば旧道を間違わずにたどれるのが嬉しい。
美濃路や近江路に入ると赤テープは無くなるが、旧中山道の道標(標識)が整備されているので安心して歩ける。
【中山道について】 (本庄市立歴史民族資料館の資料より)
江戸幕府によって整備された五街道(東海道・中山道・甲府道中・日光道中・奥州道中)のひつとして、江戸日本橋より武蔵(東京都・埼玉県)・上野(群馬県)・信濃(長野県)・美濃(岐阜県)・近江(滋賀県)の五カ国を通り、京都を結ぶ街道で、最後の草津・大津のニ宿は東海道と重なっています。
幕府はこれらの街道を管理するため、万治2年(1659)に道中奉行を設置し、街道の改修・整備・架橋・並木・一里塚・宿駅・助郷・人馬賃銭に関することなど幕領・私領を問わず管轄し、諸街道には、関所を設け人改めなどを行いました。これらは、公用旅行者・御用荷物を優先させる宿駅制度でしたが、街道の整備につられて庶民の旅行も安楽となり、物資の流通・通信の発展のほか文化の伝播にも大きな役割を果たしました。
中山道は「中仙道」とも呼称されましたが、享保元年(1716)に江戸幕府は東山道の内の中筋の道であるから、「中仙道」を中山道と名称を統一することとしました。(御触寛保集)。また、信濃国木曽路を通るので、木曽街道・岐蘇路、岐粗路などともいわれました。
宿場は、戦国時代末期にはすでに成立していた宿駅も少なくありません。慶長6年(1601)には木曽路の集落に対して大久保長安が伝馬掟状を出しており、翌7年(1602)には徳川家康の朱印伝馬掟書を与えたところもあり、駄賃や渡船賃も定められていることから、両年間に宿駅制が整ったと見ることができます。しかし、下諏訪と贄川(にえかわ)との間には小野峠・三沢峠・牛首峠を越える道で、間に小野宿が設けられましたが、慶長19年(1614)に塩尻峠を越す道に改め、塩尻・洗馬(せんば)・本山の三宿を加えました。
本庄宿と倉賀野宿との間は、はじめ本庄から玉村を経由して倉賀野に出ましたが、慶安4年(1651)に落合新町、応承2年(1653)に笛木新町が伝馬役を命じられたとされ、新町宿は中山道の中で最も遅く成立した宿場となりました。これによって板橋より守山まで六十七宿となりましたが、東海道と重なる草津・大津のニ宿を加えて中山道六十九次と呼ぶのが通例とされています。
この街道は、上野・信濃・越後・越中・加賀国などの三十余の大名の参勤交代のほか、日光例幣使の下向などもあり、また比宮(さぎのみや・徳川家重室)・五十宮(いそのみや・徳川家重室)・楽宮(さざのみや・徳川将家重室)など徳川将軍家の夫人となるため東下りした皇族や摂家の女性の多くは中山道を通りました。中でも、文久元年(1861)の和宮(徳川家茂室)の通行は前例のない設備・警備となりました。
1.版画「木曽街道六十九次」
2.参勤交代の経費節減方法
3.日本橋の空 取り戻せ
4.「見返りの松」二代目