赤坂宿(後半)・垂井宿・関ヶ原古戦場 (美濃赤坂駅 → 関ヶ原駅) <旧中山道30回目>

 

2010年10月2日(土) 晴

 美濃赤坂駅を9:40スタート。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「河渡・美江寺・赤坂宿(前半)」 ← 「目次」 → 「関ヶ原・今須・柏原・醒井宿」

 

 腰の状態に全く問題が無くなったので、十三峠越えの大湫宿・細久手宿に戻りたかったが、細久手の大黒屋旅館の予約が取れない為、前回の続きを歩くことにした。なかなか予約が取れない旅館なので草津宿に先に到達し、十三峠越えは最後になってしまいそうである。

 本日は、関ヶ原駅で街道歩きを中断して道草。念願の一つ関ヶ原古戦場を尋ねる。


【お茶屋敷跡(ボタン園)】 (左奥) 9:45〜9:55

 美濃赤坂駅を出て、二本目の道を左へ180m入って行くと、お茶屋敷跡の入口に着く。

 街道からは、「宿場の駅五七処」の次の道で正安寺入口を左に入るとお茶屋敷跡の生垣に突き当たり、直ぐ右手に入口がある。

 風情のある茅葺屋根の門を入り左手に進むと、樹木の中に古井戸の跡や大手門の跡の説明板が立っているのみであった。

 奥に進むと植物園になっており、牡丹が有名とのことだが今は季節でないので何の花も咲いていな かった。それどころか今年の異常な猛暑で多くの葉が枯れていた。

 我が家のカツラの木もハート型の葉が生い茂っていたのに猛暑で枯れてきたのには驚いたものだ。少し涼しくなったら新しい葉が芽吹いてきたのには再びビックリ!

【史跡 お茶屋敷跡】

 ここは慶長九年(1604)徳川家康が織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた将軍専用の休泊所跡である。
 お茶屋屋敷は中仙道の道中四里毎に造営され、周囲には土塁、空濠をめぐらしその内廓を本丸といい厳然とした城郭の構えであった。
 現在ここが唯一の遺構でその一部を偲ぶことができる交通史上重要な遺跡である。

     大垣市教育委員会


【たにくみ道標】 (右側) 10:00

 本陣跡の次の十字路(四ツ辻)右角に立っている。 道標は天和二年(1682)に建立されたもの。

【赤坂宿】

    東 美江寺へ二里八町

    西 垂井へ一里十二町

 近世江戸時代、五街道の一つである中山道は、江戸から京都へ百三十一里の道程に六十九次の宿場があり、美濃赤坂宿は五十七番目に当たる。

 大名行列や多くの旅人が往来し、また荷物の輸送で交通は盛んであった。

 町の中心にあるこの四ッ辻は北に向う谷汲巡礼街道と、南は伊勢に通ずる養老街道の起点である。

 東西に連なる道筋には、本陣、脇本陣をはじめ旅籠屋十七軒と商家が軒を並べて繁盛していた。

     昭和五十八年三月 史跡赤坂宿環境整委員会 大垣市赤坂商工会 大垣市


【矢橋家住宅】 (左側) 

 

 四ツ辻の左角に建っている大きな古民家が、最後に本陣を務めた矢橋家で、左の写真には写しきれないが左奥にも右側にも延々と家が続く程の広大な屋敷である。東西南北100m四方あるとのこと。

 国登録有形文化財となっている。

 
(右の写真は左の写真から街道筋を脇本陣まで続いている矢橋家)


脇本陣(榎屋旅館) (左側) 

 矢橋家 に続く矢橋グループ本社の隣が、飯沼家が務めていた脇本陣跡

 母屋が明治以降から現在まで榎屋旅館を営んでいる。

 江戸時代、中山道赤坂宿の脇本陣は、当家一ヶ所であった。大名や、貴族の宿舎である本陣の予備に設立されたもので、本陣同様に処遇され屋敷は免税地であり、領主の監督を受けて経営されていた。
 当所は宝暦年間以後、飯沼家が代々に亘り脇本陣を勤め、また問屋、年寄役を兼務して明治維新に及び、その制度が廃止後は独立し、榎屋の家号を用いて旅館を営み今日に至っている。

     昭和六十年八月 大垣市赤坂商工会観光部会


【五七処(宿場の駅)】 (左側) 

 脇本陣から一軒おいたお休み処で土産店であるが、営業時間が11:00〜18:30の為、開店前だった。

 赤坂宿が五十七番目であったことから屋号を五七としたのだろう。


【お嫁入り普請探訪館】 (左側) 

 五七の隣だが、ここも開いていなかった。

「お嫁入り普請」とは
 慶長七年(1602)に中山道の宿駅として指定された赤坂宿は、江戸から数えて57番目の宿場町です。
 町並みは、金生山を背にして、東西に一筋にのびています。文久元年(1861)の和宮降嫁のとき、大行列一行が宿泊しましたが、赤坂宿ではそのために54軒もの家が建て直されました。それを「お嫁入り普請」と言います。短期間での建築工事であったため、街道沿いの表側だけが二階建てという珍しい家であり、数は少なくなりましたが、現在も残っている家があります。

     中山道赤坂宿まちづくりの会

 和宮が平屋だけしかない宿場に入った時に、たいそう田舎に来てしまったと落ち込むのではないかと、急遽平屋を二階建てに見えるように普請し直したのである。

 その改築費用は幕府からの長期借金だったが、幕府が数年で崩壊したために完済せずに済んでしまったという。


【妙法寺】 (右側) 10:10

向かいの妙法寺入口の街道沿いに「史跡 所郁太郎墓」と「史跡 戸田三弥墓」の石柱と説明板が立っていた。

【所郁太郎の墓】 大垣市指定史跡
 所郁太郎は天保九年(1838)に中山道赤坂宿の酒造家矢橋亦一の四男として生まれ、幼少にして揖斐郡大野町西方の医師所伊織の養嗣子となった。
 その後、勤王の志を胸に国事に奔走し、長州藩遊撃軍参謀となった。井上聞多(後の元老井上馨)が刺客に襲われ、重傷を負うと外科手術を施し一命を救った。
 元治二年(1865)山口市吉敷の陣営において二十八歳の若さで病没した。
【戸田三弥の墓】 大垣市指定史跡
 戸田三弥(寛鉄)は文政五年(1822)に大垣藩家老の家に生まれ、幕末維新の際には藩老小原鉄心と共に紛糾する藩論を勤王に統一するのに尽力した。
 また、戊辰戦争では大垣藩が東山道先鋒を命じられると軍事総裁として東北各地を転戦し軍功をあげた。
 明治維新後は新政府の要職を歴任した。

     大垣市教育委員会

 妙法寺すぐ先右側の子安神社入口に憂国の青年志士 所郁太郎生誕地の石柱が立っていた。


【兜塚・御使者場跡】 (左側) 10:20

 西濃鉄道貨物線(廃線)の手前にある石段入口に史跡 赤坂宿御使者場跡の石柱と兜塚説明板が立っていて、ここが赤坂宿の西の入り口。この時期、曼珠沙華(彼岸花)の花が綺麗に咲いていた。

 写真の石段を上ると兜塚の石碑が建っている。

【兜塚】
 この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(一六〇〇年九月十四日)、杭瀬川の戦に笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将の一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと伝えられている。
 以後、この古墳は兜塚と呼ばれている。

     大垣市教育委員会

 廃線に上に立って右手を望むと、肌がえぐれた金生山が良く見える。

 廃線の左側には踏切番小屋と手動式遮断機開閉器が寂れて残っていた。


【中山道休憩所】 (右側) 

 廃線を渡るとすぐ休憩所の案内板があったので一段高い所に上がってみたら、ゲートボール場のような広場でトイレも無く日当たりにベンチが並んでいるだけだった。

 ただ中山道関係としては、西美濃歴史街道地図が掲げられていた。

 ここを過ぎると昼飯(ひるい)の町に入る。この町は早野の姓が数多く見受けられる。


【二ツ塚古墳】 (左奥) 10:30  

 右側にある河合石灰工業を過ぎた次の道を左に入った突き当たりに小さな古墳がある。入口に石碑が立っていて街道から塚が見えるのですぐ分かる。

 説明板等はなかった。


【昼飯大塚古墳】 国史跡(平成12年9月指定) (左奥) 〜10:40

 二ツ塚古墳の前を右折するとすぐ大きな古墳が目に入る。

 現在、塚の改修中で回りは網フェンスで囲われ、一部ブルーシートに覆われていたり作業員が登って仕事していたりとチョット残念な風景だった。

 古墳保存整備工事の第2期工事で、工期は平成22年6月28日〜平成23年3月4日。請負契約は10,180,000円とのこと。

 塚を見ながら右回りに進んで街道に戻るが、裏側はブルーシートが見えないので比較的良かったので、こちらの写真を載せる。

 案内石碑は、掘り起こされて作業小屋傍に置かれていたが、説明板等はなかった。


【如来寺】 (右側) 10:45

 大塚古墳から街道に戻り5分程行くと如来寺があり、参道入口に 如来寺と昼飯町の由来が書かれた説明板が立っている。

【如来寺の由来】

 善光寺如来が、難波より信濃へ向う途中、昼飯の供養をした関係から、建久六年に僧の定尊が村東の花岡山の上に三尊仏を安置し、名を如来寺といいました。後年、織田信長の兵火にあい当地に移り、秘仏となりました。また、御本尊の開帳は八年目毎に行われています。(大垣市史 青墓篇より)
 御本尊は善光寺の分身仏としては日本で最初ですから特に一体分身の如来といい、現在は大垣市重要文化財の指定を受けています。(昼飯善光寺分身略縁起より)

     大垣市立青墓小学校

【昼飯町の由来】

 むかし、善光寺如来という仏像が大阪の海から拾いあげられ、長野の善光寺へ納められることになりました。
 その仏像をはこぶ人々が、青墓の近くまで来た時は五月の中頃でした。近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花が咲き乱れ、すばらしい景色です。善光寺如来を運ぶ一行も、小さな池のそばで、ゆっくり休み、美しい景色にみとれました。一行はここで昼飯(ひるめし)をとりました。
 それからこの付近を昼飯(ひるめし)と言うようになりましたが、その名が下品であると言うので、その後、飯の字を「いい」と音読みにして、「ひるいい」と呼ばれるようになりましたが、「いい」は言いにくいので、一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。又、ここの池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」と言われ、記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。(大垣市史 青墓篇より)

     大垣市立青墓小学校


【照手姫水汲井戸】 (左奥) 11:00 

 荒尾町で二つに分かれて単線になっている東海道線本線のガードを潜ると青墓町に入り、右手に史蹟の里・青墓の碑が現れる。

 青墓を地元では「あおはか」ではなく「おおはか」と呼ぶとのこと。岐阜県最大の前方後円墳で、古墳時代前期の東海地方で真っ先に作られた昼飯大塚古墳が「おおはか」の名前の由来となっている。この地方の王様の大きいお墓という意味の「王墓」「大墓」から「おおはか」、つまり「青墓」という地名になったとのこと。

 この辺りの右手奥に粉糖山古墳があるはずだが、それらしい雰囲気が感じられなかったので寄らなかった。

 ガードから7分程の青墓小学校を過ぎたら、左手を注意していると電柱に照手姫水汲井戸の看板が掲げられて、電柱の後ろに隠れるように 石碑が立っている。看板が無かったら多分見落としてしまうだろう。

 ここの細道を左にはいると程なく石碑・井戸・説明板の立っている一角照手姫水汲井戸がある

 現在、井戸は角材で4段に組まれ青い網蓋が掛かけられていた。

【伝承地 照手姫の水汲み井戸】
伝説 照手姫
 昔、武蔵・相模の郡代の娘で照手姫という絶世の美人がいました。この姫と相思相愛の小栗判官正清は郡代の家来に毒酒を飲まされ殺されてしまいました。照手姫は、深く悲しみ家を出て放浪して、青墓の大炊長者のところまで売られて来ました。
 長者は、その美貌で客を取らせようとしますが、姫は拒み通しました。怒った長者は一度に百頭の馬にえさをやれとか、籠で水を汲めなどと無理な仕事を言いつけました。
 一方、毒酒の倒れた正清は、霊泉につかりよみがえり、照手姫が忘れられず、姫を探して妻にむかえました。
 この井戸の跡は、照手姫が籠で水を汲んだと伝えられるところです。

     大垣市教育委員会


【よしたけあん跡・小篠竹の塚】 (右側) 

 街道に戻ってすぐ 西町集会所の前に傘をかぶった地蔵像が立っていて、その後ろに五輪塔が並んでいる場所がよしたけあん跡である。

 五輪塔の左には大きな葦のような竹が生えている(下の写真)


青墓のよしたけあん】

 牛若丸(後の義経)が、京都の鞍馬山で修業を終え金売吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ちのびる時、円願寺(円興寺の末寺)で休み、なくなった父や兄のれいを供養し、源氏が再び栄えるように祈りました。その時江州(今の滋賀県)から杖にしてきたあしの杖を地面につきさし、「さしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば、よし竹となれ」の歌を詠み東国へ出発しました。
 その願いが仏様に通じたのか、その後、杖にしてきたよしが、大地から芽をふき根をはりました。そしてみごとな枝に竹の葉が茂りましたが、しかし根や幹はもとのままのよしでした。このめずらしい竹はその後もぐんぐんと成長し続けました。それでこのめずらしい竹を「よし竹」と呼び、この寺をよしたけあんと呼ぶようになりました。(青墓伝説より)

     大垣市立青墓小学校

 また、ここは照手姫の墓と云われる?

【小篠竹(こざさだけ)の塚】
 青墓にむかし照手姫という遊女あり。この墓なりとぞ。

 照手姫は東海道藤沢にも出せり。その頃両人ありし候や詳ならず。(木曽路名所図会より)
 一夜見し 人の情に たちかえる 心に残る 青墓の里   慈円(後の慈鎮)
              〔天台宗座主、愚管抄の作者でもある〕

     大垣市立青墓小学校

 街道に面して古い石碑が建っており、次の様に彫られていた。

 美濃國青墓里長者屋敷

 照手姫の汲給ひし清水

 源義経の挿給ひし芦竹

 照手姫守本尊千手観音

     昭和五年木山書


【中山道青墓宿】 ( 右側) 

 「よしたけあん」の直ぐ先に架かっている橋の袂に中山道青墓宿と 書かれた木柱が立っている。これは東山道時代の宿場を指す。


【美濃国分寺跡】 国指定史跡 (右奥) 11:15〜11:25

 旧中山道はこの先で県道216号線を斜めに横断するように直進するのであるが、美濃国分寺跡に寄り道する為、県道を右折する。約10分で国分寺跡入口に着く。広大な敷地に点在して門跡などの説明板が置いてある。

 また、北東には金生山も良く見える。

【美濃国分寺跡附瓦窯跡(美濃国分寺歴史公園) 岐阜県大垣市青野町

国分僧寺と国分尼寺

 天平13(741)年、聖武天皇は諸国に「金光明四天王護国之寺」(僧寺)と「法華滅罪之寺」(尼寺)建立の詔(みことのり)を下しました。僧寺には僧20人、尼寺には尼僧10人を置き、それぞれに水田10町(天平19年に僧寺90町・尼寺40町加増される)、さらに僧寺には封戸(ふこ)(その戸の租税が収入となる制度)を50戸あてて、寺院運営の経済的基盤とさせました。 

美濃国分寺

 美濃国分寺は、美濃国府(不破郡垂井府中)や不破関(同郡関ヶ原町松尾)に近い、ここ青野原の景勝地に建立されました。背後に青野山がひかえ、南は東山道に面して建てられた国分寺は、わずかに塔跡を残すのみで地中に埋もれていましたが、昭和43(1968)年度から始まった発掘調査によって、伽藍の大部分が明らかとなりました。伽藍の範囲は東西230m、南北250m以上で、周囲には築地大垣をめぐらせていました。

 発掘調査では、金堂、塔、講堂、鐘楼、西面僧房などの遺構を確認しています。伽藍配置は大官大寺(奈良県高市郡明日香村)のものと類似します。上総・甲斐・讃岐国分寺などにも同様の伽藍配置が採用されています。美濃国分寺の主要な堂塔はおそらく8世紀中頃までには整備されていたと考えられます。なお、伽藍北東方の丘陵斜面には瓦を焼いた窯跡(未調査)が確認されています。

 壮麗な伽藍も、仁和3(877)年の火災によって全てが焼失し、一時席田(むしろだ)郡(現本巣市の一部)の定額尼寺に、その機能が移されます。再びこの地に戻ったという歴史的な記録は認められませんが、発掘調査の成果から10世紀前半〜中頃にはこの地に再建されたと考えられます。南門の正面付近には10世紀中頃のものとみられる参道と、儀式の際に幢竿(どうかん)支柱遺構、庇付掘立柱建物跡、井戸跡が確認されています。しかし、12世紀末頃までには国分寺としての機能は失い、青野山山麓に所在する現美濃国分寺は元和元(1615)年に再興されたものです。美濃国分尼寺跡は西南西約1Km不破郡垂井町平尾に所在します。

環境整備と歴史公園

 美濃国分寺は大正10(1921)年に国指定史跡となりました(ただし塔跡と金堂周辺のみ)。昭和46(1971)年には、伽藍域の大部分と瓦窯跡が追加指定されました。昭和49(1974)年度からは、発掘調査によって伽藍状況を明らかにするとともに、発見された建物基壇を中心に、その構造をできる限り地上に復元して史跡整備を行いました。史跡指定地内に樹木の植栽と遊水地を設けて修景整備し、歴史学習の場として活用しています。なお、平成19(2007)年には、都市公園法にもとづく歴史公園に指定されました。

 指定年月日:大正10年3月3日 追加指定:昭和46年7月22日・昭和49年5月22日 指定面積:58,456.98m (国分寺伽藍域:54,219.95m2 瓦窯跡:4,237.03m) 都市公園開園日:平成19年8月31日 面積:5.40ha

     大垣市教育委員会


【教覚寺・稲葉正休公碑】 (右側) 

 県道に戻ると県道を横断する直進道があるので、真直ぐ行けば旧道に戻れる。戻る少し手前に教覚寺があり、その門前に稲葉石見守正休公碑と彫られた大きな石碑が建っている。

 稲葉正休(まさやす)は、江戸時代前期の美濃青野藩(当初5000石、その後加増されて1万2000石)藩主。貞享元年(1683)江戸城中で治水事業から外された恨みからか堀田正俊を刺殺。正休もその場で老中に殺され、稲葉家は改易となった。

 境内の鐘楼の石垣に貝の化石が残っている。

【化石の鐘楼石垣】
 この石垣には “フズリナ” という化石が一ぱい付着しています。これは今から約二億五千万年前の大昔、赤坂の金生山がまだ海底であった時に繁茂した貝の一種です。それが長い間に土地が隆起して現在に至ったのです。陸地では巨大な恐龍たちが生息していました。幸いなことに、大正十三年に、故松波氏がこの化石の寶庫、金生山の石を使用したため、ここに残っているのです。

     平成四年十月書之

 すぐ突き当りを右折すると、県道216号線を横断した旧中山道に戻る。


【青野一里塚跡・常夜灯】  史跡 (右側) 11:35

 教覚寺から数分で常夜燈が建っている青野一里塚跡に着く。日本橋から111里目。

 石柱に「史跡 中山道一里塚」と彫られているだけで説明板はなかった。


<昼食> 11:45〜12:35

 一里塚から10分弱進んだ右側の「伽草子」で昼食。左側には「本陣」という会社がある。

 地元の車が沢山止まっていたので間違えないと思って入ったら正解。喫茶店と思われるが、650円〜850円でスープ・サラダ・飲み物付ランチが充実している。

 私達は日替わりの弁当を注文したが、本日はメインがコロッケと焼肉で、その他少量ずつだが、鶏フライ、玉葱の卵とじ、さつまあげ、サラダが入って味噌汁と食後の飲み物付きで750円。特に、揚げ立てサクサクで中はクリーミーなコロッケは最高だった!

 街道ウォーカーとしては、安くてボリュームもあり美味しいこのような店には、★★★★あげたい。


【垂井追分道標】 垂井町指定史跡(昭和62年4月8日指定) (左角) 12:50

 追分交差点を過ぎるとまもなくT字路に当る。このぶつかった道を左に行くと東海道の宮宿へ続く。

 ここの角に自然石の道標が建っている。

 また、道標の後ろには「お休み処 追分庵 井っ福」があり、利用しなかったのにもかかわらず呼ばれて垂井宿の資料を頂いた。

 垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、たいへんにぎわう宿場でした。

 追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。道標は高さ1.2m、幅40cm、表に『是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たに ぐみみち』とあり、裏に『宝永六年己丑十月 願主奥山氏末平』と刻まれている。

 この道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で七番目ほどの古さである。また、ここには高さ2mの享保三年(1718)の角柱の道標もあった。

     平成二十一年一月 垂井町教育委員会


【中山道ミニ博物館】 (左奥) 

 追分から左へ1分行った、自転車屋の隣の個人宅に中山道ミニ博物館があるが、原則として日曜 ・月曜10時〜15時だけ開館している。

 てくてく旅で勅使河原さんが見学していた。


【相川の人足渡跡】 (左側) 

 追分を右折して「追分橋」を渡り、すぐ右へ曲がり「相川橋」を渡る。

 橋を渡った左詰に相川の人足渡跡の説明板が立っている。

 相川は、昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。そのため、江戸時代初期には人足渡しによる渡川が主でした。

 川越人足は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていました。

 一方、姫宮や朝鮮通信使など特別の大通行のときには木橋がかけられました。

     垂井町


【東の見付・垂井宿碑】 (左側) 13:00

 相川橋を渡りきった所に、東の見付の説明板、垂井宿の石碑垂井宿案内マップが並んでいる。

 いよいよ見所満載の垂井宿に入る。町に入ると全ての家には屋号が掲げられていた。

【東の見付】

 垂井宿は中山道の始点、江戸日本橋から約四四〇キロメートル、五八番目の宿になります。

 見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、非常時には閉鎖したりしました。

 ここ東の見付から約七六六メートルにわたり垂井宿が広がり、広重が描いたことで知られる西の見付に至ります。

     垂井町


【垂井宿】 日本橋から111里13町(437.3Km)、京へ24里21町 (96.5Km)
 天保14年(1843)で人口1,179名、総家数315軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋27軒。

木曽海道六拾九次之内 垂井 (広重)

 松並木から雨の中を垂井宿に入ろうとしている大名行列を正面から描いており、宿役人がこれを出迎えている。門のように見える両側の石垣を見付という。

西の見付跡(左側に説明板が立っている所)

手前の両側の家はかつて餅屋だった。見付跡等は後述。
 


【用心井戸】 (左側) 

 宿に入るとすぐ道は三叉路になり、旧中山道は右へ進む。

 その三叉路を右に入ったすぐ左側に、トタンの蓋が被っているが井戸の石組みが残っている。


【紙屋塚】  町指定史跡(昭和32年6月15日指定) (左奥) 

 

 三叉路を右折したらすぐ次の細い道(左の写真の細道)を左に入り、次のY字路を右に進むと紙屋塚がある。

 古来紙は貴重品であり奈良時代には紙の重要な生産地を特に指定して国に出させた。国においては、戸籍の原簿作成に重要な役割をはたした。ここの紙屋も府中に国府がおかれた当時から存在し、室町頃まで存続したと考えられる。

 又当初は国営の紙すき場と美濃の国一帯からあつめられた紙の検査所の役割をはたしてものと考えられる。一説には美濃紙の発症地とも言われている。

     垂井町教育委員会


【東の枡形・亀丸屋旅館】 (左側) 

 街道に戻るとすぐ東の枡形があり、その右角に江戸時代から現在まで旅館を営んでいる旧旅籠の亀丸屋が建っている。

【旅籠 亀丸屋】

 亀丸屋西村家は、垂井宿の旅籠として、二百年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業している貴重な旅館である。

 安永六年(1777)に建てられた間口五間・奥行六.五間の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅館であった。当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓が残る珍しい造りである。

     垂井町


【問屋】 (左側) 

 亀丸屋のすぐ先にある格子戸の建物が、かつて問屋で あった金石家である。

【垂井宿の問屋】

 間口五.五間、奥行七.五間の金岩家は、代々彌一右衛門といい垂井宿の問屋、庄屋などの要職を勤めていた。

 問屋には年寄、帳付、馬指、人足指などがいて、荷物の運送を取りしきり、相川の人足渡の手配もしていた。

 当時の荷物は、必ず問屋場で卸し、常備の25人25疋の人馬で送っていた。大通行が幕末になると荷物が多くなり、助郷の人馬を借りて運送した。

     垂井町


【垂井宿本陣跡】 (左側) 

 その先、栄松堂菓子店の手前、安田歯科が本陣跡。 ここには何も残っておらず、菓子店との間に石碑と説明板が立っているのみである。

 本陣は、宿場ごとに置かれた大名や公家など重要な人物の休泊施設です。

 ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政十二年(1800)の記録によると、建物の坪数は一七八坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものでした。垂井宿の本陣職をつとめた栗田家は、酒造業も営んでいました。

 本陣の建物は焼失しましたが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。

     垂井町教育委員会


【南宮大社大鳥居】 (左側) 

 本陣跡から1分で、県道257号線を跨いでいるのが南宮大社の大鳥居。両脇に常夜燈が立っている。

 南宮神社は、南に1.5Km程行った所にある。

 寛永十九年(1642)徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居は約四〇〇両の金で、石屋権兵衛が建てた。

 横幅(内側)454.5cm、頂上までの高さ715cm、柱の周り227cm。

 正一位中山金山彦大神の額は、延暦寺天台座主青蓮院尊純親王の筆蹟である。

     垂井町


【垂井の泉】 岐阜県指定史跡 岐阜県の名水(昭和61年12月12日指定) (左奥) 13: 20〜13:25

 大鳥居を潜って左へ2分入ると右側に垂井の泉があり綺麗な水が湧き出ている。また、正面には大杉が聳え、芭蕉句碑もある。

 

【垂井の泉と大ケヤキ】

 この泉は、県指定の天然記念物である。大ケヤキの根元から湧き出し、「垂井」の地名の起こりとされる。「続日本紀」天平十二年(740)十二月条に見える、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられており、古くからの由緒がある。近燐の住民たちに親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ、はやく藤原_隆経は

   昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける 『詞花集

と詠んでいる。のちには芭蕉も

   「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」

という一句を残している。岐阜県名水五十選(昭和61年)に選ばれている。

 この大ケヤキは、樹齢約八百年で、高さ約20メートル、目通り約8.2メートル。このようなケヤキの巨木は県下では珍しい。この木にちなんで、木が堅くて若葉の美しいケヤキを垂井の「木」とした。

 

【脇本陣跡】 (左側) 

 街道に戻った鳥居のすぐ左側あたりが脇本陣跡とのことだが、今は何も残っていないし説明板などもない。


【旧旅籠長浜屋(お休み処)】 (右側) 

 往時は旅籠だった長浜屋が現在はお休み処となっている。飴と垂井宿の資料が貰える。

 覗いただけで、内部をゆっくり見学していない。


【江戸時代の商家(油屋)】 (左側) 

 長浜屋の直ぐ先にあり、江戸時代の代表的な商家建物。

【垂井宿の商家】

 この商家は、文化末年(1817年頃)建てられた間口5.5間、奥行6間の油屋卯吉(宇吉)の家で、当時は多くの人を雇い、油商売を営んでいた。明治以後、小林家が部屋を改造し亀屋と稱して旅人宿を営んだ。

 土蔵造りに格子を入れ、軒下にはぬれ蓆をかける釘をつけ、宿場時代の代表的商家の面影を残す貴重な建物である。

     垂井町


【本龍寺】 (右側) 13:35〜13:45

 商家の向かい側にあり、街道に面して明治天皇垂井御小休所の石柱が建っている。 また、ここは高札場跡でもある。

 この本龍寺の山門(左の写真)と 奥の玄関(右の写真)、文化十三年(1816)頃より西町にあった建坪135坪の金岩脇本陣門及び玄関を明治初期移築したもの。

 境内左奥には芭蕉句碑と説明板が立っている。また、句碑の横に時雨庵が建っているが、獅子門の化月坊が芭蕉ゆかりのこの寺に安政二年(1855)に庵を建立したもので、芭蕉が此処で冬篭りした建物ではない。

【本竜寺史跡案内】

 一、蓮如上人御旧蹟(上人直筆本尊)

 一、蓮如上人真筆火除の名号

 一、徳川三代将軍家光御留錫

 一、芭蕉翁冬籠(作り木塚翁木造重文)

 一、徳川幕府高札場

 一、垂井宿脇本陣玄関

 一、明治天皇御行幸(明治十一年十月廿二日)

【作り木塚と芭蕉翁木像】 垂井町指定史跡(昭和32年6月15日指定)

 俳人松尾芭蕉は、本龍寺の住職玄潭(俳号、規外)と交友があり、元禄四年(1691年)冬に本龍寺で滞在し、

   作り木の 庭をいさめる しぐれ哉

などの句を残している。

 本龍寺には文化六年(1809)芭蕉のほか美濃派ゆかりの比俳人傘狂(さんきょう)らの句碑を建て、作り木塚とよばれている。

 安政二年(1855)時雨庵 ができ美濃派十五世国井化月坊ゆかりの芭蕉翁木像も大切に保管されている。

     平成二十一年一月 垂井町教育委員会          


【西の見付跡】 (左側) 13:50

 本龍寺を出ると緩やかな上り坂になり、少し行くと西の見付跡がある。(上記【垂井宿】の浮世絵と現在の写真参照)

 広重が垂井の浮世絵に描いた場所がここ。雨の中を大名行列が松並木の中から宿入口に到着し、宿役人が出迎えている情景で、両側に餅屋が二軒描かれている。浮世絵に描かれているのと同じ場所にある現在の民家にも屋号が掲げられており、右側の家の屋号には「餅屋」、左側の家の屋号には「餅飯売り やまや」とあった。

【垂井宿 西の見付と広重の絵】

一、西の見付
 垂井宿の西の入口で大名行列を迎えた。非常事態発生の時、閉鎖した。

二、安藤広重の垂井宿の絵

 広重がこの付近から西を見て、雨の降る中山道松並木の中を、大名が行列をつくり、西より垂井宿の西の見付へ入ってくる様子や本陣からの出迎え、茶店の様子も左右対称的によく描いた版画の傑作である。

     垂井町


【日守の茶屋跡】 (左側) 14:15

 西の見付を後にして前川橋を渡り、街道は左に曲がって行く。11分ほど進んだら東海道本線の踏切を渡り、斜めに交差する国道21号線を歩道橋で越える。 

 国道を越えて旧道に入り2分程の所に修復されたのか比較的綺麗な建物が建っており、脇に日守の茶所の説明板が立っている。

【日守の茶所】

 江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に秋風庵を建てた。それを明治になって、一里塚の隣りに移し、中山道を通る人々の休み場として、昭和の初めまで盛んに利用された。

 また、大垣新四国八十八ヶ所弘法の札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物である。

     垂井町


【垂井一里塚】 (左側) 

 茶屋跡の隣に垂井一里塚が現存している。 ここの説明板には、一里塚と浅井幸長陣跡が併記されていた。

【垂井一里塚】 史跡(昭和5年10月3日指定)

 徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(四キロ弱)ごとに、五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約三メートル)、頂に榎を植栽した塚が道を挟んで二基ずつ築かれた。

 垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っている。

 旅人にとっては、人夫や馬を借りる里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休所となった。

 国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村のそれと二か所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。

 写真で一里塚に接している建物が、上記の日守の茶所

【浅野幸長陣跡】 関ヶ原の戦い

 幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐府中十六万石の領主であった。

 関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。

 戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。

     平成十八年十一月 垂井町教育委員会


縣社 伊富岐神社鳥居と常夜灯】 (右側) 

 一里塚から数分で国道を渡り、国道右側の旧道を進むと「これより中山道 関ヶ原宿野上 関ヶ原町」の標柱が現れる。さらに8分ほど進むと伊富岐神社の鳥居と 二基の常夜燈が建っていた。神社はここから900m奥にあるので行かなかった。


【野上の七つ井戸】 (右側) 14:35

 伊富岐神社の鳥居から5分程で復元された新しい井戸に出合う。

 井戸の所から左の細道を2〜3分入るとしゃもじ塚が、右へ5分行くと大海人皇子行宮跡へ行けるが、我々は垂井宿で見学予定時間をオーバーしていたので両方とも行かなかった。


【六部地蔵】 (左側) 14:50〜15:00

 街道はやがて松並木道になり、国道に接してきた辺りに広場が現れ六部地蔵が祀られている。また、此処にはベンチとテーブール、水飲み場があったので暫し休憩をとった。 かなり前から飲み物が切れていたので水道水でも助かった。但しトイレは無い。

【六部地蔵】

 六部とは「六十六部」の略で、全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修業している「人」ということで、厨子を背負って読経しつつ行脚中の行者が「宝暦十一年頃」(1761年)この地で亡くなられたので里人が祠を建てお祀りされたといわれております。

 この六部地蔵さんは、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と読まれているように、痛みのひどい病気をなおすことで名を知られています。

     関ヶ原町

 写真は関ヶ原側から写したもので、右に見える祠が地蔵堂。

【旧中山道松並木】 町指定天然記念物 

 江戸時代には、一里塚をつなぐ街道の両側に、松・杉・楓などの並木があって、その木蔭は旅人のしばしの憩いの場所となっていました。

 しかし、近年虫害や台風などによる松並木の減少が目立ってきました。

 そのため町では、天然記念物に指定し、防虫対策や補植により、その保護につとめています。

     関ヶ原町


【桃配山(徳川家康最初陣跡)】 (左奥) 15:10〜15:20

 六部地蔵から数分で街道が線路に接してくる辺りから、左手国道脇に桃配山の幟が見えてくる。

 国道に出られる道を探して、国道を横断すると徳川家康最初陣跡への階段( 上の写真)があるのでこれを登ると見晴の良い陣跡がある。

(下の写真は、家康がテーブルか腰 掛に使用した石)


【桃配山】

 天下をわける壬申の大いくさは千三百年ほどまえであった。吉野軍をひきいた大海人皇子は、不破の野上に行宮をおき、わざみ野において、近江軍とむきあっていた。急ごしらえの御所に、皇子がはいったのは、六月の二十七日である。野上郷をはじめ、不破の村びとたちは、皇子をなぐさめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上した。「おお、桃か。これはえんぎがいいぞ!」皇子は、行宮につくがはやいか、桃のでむかえにあって、こおどりしてよろこんだ。くれないのちいさな山桃を口にふくむと、あまずっぱい香りが、口のなかいっぱいにひろがる。皇子は、はたとひざをたたき、不破の大領をよんだ。

 「この不破の地は、山桃の産地であるときく。なかなかあじもいい。どうだろう。わたしはこの桃を、軍団兵士みんなに一こずつ配ってやりたい。戦場における魔よけの桃だ。これをたべて戦場にでれば、武運百ばい。もりもりとはたらいてくれよう。大領、この近郷近在の山桃をすべて買いあげ、軍団兵士みんなに、わたしからの桃だといって、配ってくれ。」

 大領、宮勝木実は、胸をうたれて平伏した。木実は行宮所在地の大領(郡長)として、御所をたて、皇子をおまもりしている。 「ありがたいことでございます。戦勝につなぐえんぎのいい桃。兵士のいのちを守る魔よけの桃。天子さまからたまわった尊い桃。全軍の兵士はもちろん、村のものたちも、涙をながしてよろこび存分のはたらきをしてくれるでありましょう。」 このとき、木実が確信したとおり、この桃をおしいただいた数萬の将兵の士気は、いやがうえにもたかまり、連戦連勝、ついに大勝を果たしたのであった。

 この桃の奇縁により、この桃を配ったところを桃配山とか、桃賦野とよんで、いまにつたわっている。九百年のあと、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣をしき、一日で、天下を自分のものとした。

 階段を登るとそれほど広くない敷地に、「史蹟関ヶ原古戦場 徳川家康最初陣地」と刻まれた大きな石碑と「桃配山 徳川家康古趾」の石柱が建っており、周りには葵の御紋を染め抜いた幡が数本立っていた。また、石碑の前には家康が使用したと云われる大小二つの岩があった。テーブルにしては凸凹しすぎるが。

【国史跡 家康最初陣地】

 慶長五年九月十五日未明に、家康の配下三万余は、ここ桃配山周辺に陣取り、家康はこの山頂において、大馬印を高々と掲げ指揮にあたりました。

 最後の陣地に移るまで、各陣営からの報告をもとに、しきりと作戦会議が開かれたと思われます。ここにある二つの岩は、家康がその折にテーブルと腰掛に使用したと伝えられています。

     関が原町


【関ヶ原醸造】 (左側) 

 街道に戻り、一ツ軒交差点で国道に接するが、旧中山道は国道に出ないで右の旧道を進む。しかし、すぐ国道に合流する。

 右手「若宮八幡神社」を過ぎ、「東公門交差点」に着いたら左側面に廻って見上げると、かすれているが「宮内庁御用 関ヶ原たまり」と書かれた古びた看板が目に入る。ここは味噌・醤油の関ヶ原醸造であるが、たまり醤油を造っているのだろうか、黒板の古い建物で雰囲気が実にいい。


【桝屋旅館】 (右側) 

 次の交差点が「関ヶ原駅前」で、ここを右折すると関ヶ原駅である。この交差点右角に桝屋旅館があり、創業永長元年(1096)とのことだが、建物は新しく旅籠の雰囲気はない。



 本日の街道歩きはここ「関ヶ原駅前交差点」で終了し、この後、関ヶ原古戦場の見学をする。

 関ヶ原駅に行くと駅横には大きな古戦場の案内板があり、駅前には観光案内所があるが、9:00〜14:00と閉まるのが早い。

 関ヶ原駅のホームに掲げられていた武将の名前を記す。

  東軍の主な武将(徳川家康・井伊直政・加藤嘉明・細川忠興・黒田長政・福島正則・竹中重門)

  西軍の主な武将(石田光成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家・大谷吉継・小早川秀秋・平塚為広)


【松平忠吉・井伊直政陣跡】 

 関ヶ原駅も前を左折し、次の道を右折して線路を越えた左側に広場があり、入った所に松平忠吉陣跡と井伊直政陣跡の説明板が立っている。

 慶長五年九月十五日の合戦の役に中山道の敵を目標とする福島,藤堂、京極隊、北国街道を黒田、竹中、細川等の隊、その中央にあたるこの地に家康の四男、松平忠吉後の彦根城主、井伊直正が約六千の兵で陣を構えた。

 午前八時頃、軍監、本多忠勝より開戦を促され、直正、忠吉を擁して前進し宇喜多秀家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られた。


【東首塚・首洗い井戸】 

 一段下がった所の大木の右側に東首塚が、左側に首洗い井戸がある。広場にはトイレもある。

 また、供養のため朱塗りの山王権現社本殿と唐門が移築されている。

  

【東首塚】 国史跡(昭和6年3月30日指定)

 この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実検された将士の首が、ここに眠っています。

 文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和十七年には、徳風会によって、名古屋から山王権現社本殿・唐門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。

     関ヶ原町 

【首洗いの古井戸】

 合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実検され、その後塚を造ってねんごろに葬られました。

 首実検に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられています。

 戦国期の戦場では、首実検後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというのがならわしだったのです。

     関ヶ原町


【田中吉政陣跡】 

 東首塚の西門を出て、陣場野公園の道標に従って北上すると陣場野公園手前右側に田中吉政陣跡がある

 田中隊はここから石田隊に向って兵を進め、笹尾山山麓より討って出る先手の兵と激突。本隊が二・三百米ほど引き下がる。そこに他の東軍諸隊の兵が食らいつく。というように、両軍間で激しい白兵戦が展開されたのです。

 光成が自分の意思で、残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは、合戦後六日目のことでした。

     関ヶ原町


【徳川家康最後陣地・床几場】 

 陣場野公園内に竹垣で囲われた土塁が家康の床几場(左の写真中央奥、高台の上に石柱が立っている所)

 高台の石柱には「床几場 徳川家康進旗驗馘處」と刻まれている。

【徳川家康最後陣地】 国史跡(昭和6年3月30日指定)

 戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の南東1キロのこの地点に進出させました。

 ここで、家康は陣頭指揮に当るとともに、戦いが終わると、部下の取ってきた首を実検しています。

 周囲の土塁や中央の高台は、天保十二年(1841)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いたものです。

     関ヶ原町

史上最大のドラマを史蹟とともに見る 関ヶ原大合戦】

 天下分け目の合戦で有名な関ヶ原合戦は、豊臣と徳川がその運命をかけた一大決戦であった。慶長5年9月15日、午前8時頃井伊、松平が先ず進出して宇喜多の隊に向って戦端を開いた。これを見た福島の隊は、宇喜多の隊を攻撃した。かくて戦機を得た東軍右翼の諸隊は石田、小西の隊を攻撃、左翼の藤堂・京極の隊も大谷の隊と交戦し、戦いはいよいよたけなわとなった。

 家康は最初桃配山にあったが、午前11時頃には、陣馬野に進出して全軍を指揮した。

 松尾山上の小早川秀秋はかねてから家康に反応の約があったので、遂に反旗をひるがえして大谷の隊を突いて来た。

 小早川等の反応で大谷の隊が潰滅すると形勢は逆転した。そして最後に福島惟新は東軍の中央を突破し、伊勢街道への脱出に成功した。

 その結果東軍が大勝し、徳川家康は、2世紀に渡る泰平の世を実現することとなった。


【歴史民俗博物館】 

 陣場野公園の東側にある。館内には、合戦に関する展示品や地図上でどのような動きがあったかを再現する映像が放映されている。


【関ヶ原古戦場・最後決戦地】  

 更に北へ8分程進むと、見晴らしの良い所に旗が翻っているのが見え、石碑が立っている。

【決戦地】 国史跡(昭和6年3月30日指定)

 西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。

 小早川勢の太谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。

     関ヶ原町


【石田光成陣地】 

 最後決戦地から北北西の笹尾山に旗が翻って見えるが石田光成の陣跡である。

 左の写真で山裾に矢来が並んでいる所が島左近陣跡。その上が笹尾山で1本の旗が立っている所が石田光成陣跡。右の写真は左近陣跡の矢来

【島左近(勝猛)陣跡〕

 光成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。

 前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいいます。

 鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれています。

     関ヶ原町

【矢来(やらい)

 竹や丸太を荒く組んで作った臨時の囲いのことです。竹矢来・丸矢来(馬防柵とも)、組み方によって角矢来・菱矢来などがあります。

 これは敵の容易な進入を防ぐのに利用したもので、光成は正面にこの柵を二重にめぐらし、嶋と蒲生の指揮する二隊を前面と中間に配し、自分自身は警護の兵と山頂に陣取りました。

     関ヶ原町

【関ヶ原合戦のあらまし】

 西暦1600年(慶長五年)九月十五日(現在の暦では10月21日)、徳川家康率いる東軍と石田光成率いる西軍がここ関ヶ原盆地で激突した。

 豊臣秀吉亡き後、自らの時代を開こうとした徳川家康は、同年六月会津上杉攻めを口実に大坂を離れ光成の挙兵を誘い込んだ。八月会津攻めから引き返した家康は、九月一日江戸を発ち、十四日には美濃国赤坂に着陣した。この間家康は豊臣政権内の諸将の反目や政治的矛盾を利用し、豊臣恩顧の武将の多くを東軍に引き入れた。一方豊臣家への義を重んじた光成は八月下旬から大垣城に立てこもっていたが、急遽十四日の夜大垣城を出て早朝には関ヶ原に布陣し、本陣をここ笹尾山に置いた。一方東軍も西軍の動きに呼応し、午前七時頃には家康は関ヶ原の桃配山に陣取った。

 午前八時、東軍の先鋒福島正則隊を出し抜いて井伊直正隊が発泡し、かくして決戦の火ぶたは切られた。地形を利用して東軍を誘い込み、包囲攻撃の陣形をとった西軍が有利な様相だったが、一進一退の攻防が続いた。しかし、かねて家康と通じていた松尾山の小早川秀秋が一向に反応しないことに業を煮やした家康が、小早川の陣に向けて誘い鉄砲を打たせると、気が動転した小早川は味方の大谷吉継隊を襲い吉継は自刃、ここに形勢は逆転した。

 正午過ぎ家康は総攻撃を命じ、小西行長隊、宇喜多秀家隊と崩れ、頑強だった石田隊も敗走をはじめた。桃配山家康本陣背後の南宮山の毛利隊も、内応した吉川広家に阻まれ最後まで参戦することなく陣を引いた。最後に残った西軍の島津義弘隊は、正面からの的中突破を敢行し、太良方面へ去り、家康の追撃中止命令が下った。時に午後二時半のことであった。

 天下分け目の合戦を制した家康は、西軍諸将の内、八十八家を改易にし、五家の所領を大きく削ったという。その後の大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川三百年の太平の基礎を築いたのであった。



 30回目の旅終了(17:40) 関ヶ原駅

  JR関ヶ原駅から大垣駅まで行き、駅傍のロワジールホテル大垣に宿泊。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、10.1Km(美濃赤坂駅入口四ツ辻〜関ヶ原駅前交差点)

          日本橋から百十二里二十四町(442.5Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、17.5Km(美濃赤坂駅〜関ヶ原駅) 累計540.0Km

          8時間 31,200歩。

 

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