板鼻宿・安中宿・松井田宿 (高崎駅前ホテル → 西松井田駅) <旧中山道10回目>
2006年5月2日(火) 雨 (気温17℃)
ホテルを7:45スタートし、昨日終わった新町交差点から再開。
本日は終日雨、気温も昨日より大幅に下がり肌寒いくらいの日となってしまったが、歩くには丁度良い気温だった。
今日も、番外編で述べた通り、前もって3月18日に訪れた所が沢山あります。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
「新町宿・倉賀野宿・高崎宿」 ← 「目次」 → 「松井田宿(後半)」 「番外編」
新町交差点の次の連雀町交差点を右折して250mほどで「大信寺」に、左折すればすぐ高崎城跡に行ける。
「大信寺」には、三代将軍家光の弟である大納言忠長の墓があるが私達はパスした。
その先、本町三丁目交差点を左折する。
【連雀町の由来】
連雀町の由来は、行商人が各地から蘞著(れんじゃく)(荷物を背負う道具で連尺とも書く)で荷物を背負って城下町に集まり、商いが行われた町を蘞著町と名付けられ、俗に連著町・連雀町と書かれるようになったと伝えられており、時の城主井伊直政が箕輪から高崎へ移城するとともに高崎城大手門前に移し、旧名をそのまま変えず連雀町とした
ここは高崎城下の中央に位置し城主から特に優遇された街で、町割りを決める時、最初に連雀町の位置を決めそれから南北に各町の地割りをした。
さらにこの町の店は、清潔な品物を売買するよう城主から決められていた。また一時この地に本陣がおかれ、ここを通過する諸大名が休憩したり宿泊をした。
【山田家(旧山源漆器店)】 たかさき都市景観重要建築物第6号(平成16年12月指定) (左側)
本町三丁目交差点を左折すると、すぐ左側に写真の山田家がある。 この建物は店蔵及び主屋からなり、明治15年頃に建てられたと伝えられています。特に通りに面した店蔵は、慰斗瓦積みの棟瓦、鬼瓦及びカゲ盛りを見せる屋根、それを受ける3段の軒蛇腹、2階の2つの窓に設けられた軸吊り形式の観音開き扉、そして漆喰で仕上げ、更に黒く塗られた外壁等、重量感あふれた外観を持ち、通行する人々が思わず足を止めるほど、印象深い景観を創っています。関東地方の店蔵造りの特徴を今も大切に残している建物として、貴重な存在といえます。 |
【高崎神社】 (左側) 8:05
本町一丁目交差点を直進するとすぐある。
【高崎神社の鰐口】 高崎市指定重要文化財(昭和60年2月指定)
鰐口とは神社の軒先につるし参詣者が綱をふり打ち鳴らす金属製の道具。下辺の大きく口を開いた形からこの名が出た。
この鰐口は鋳金したあと黒漆をぬり銘文を刻している。直径17.5cm、厚さ1.8cmの円盤状。周縁に四十八字の銘文がある。
「更正高崎旧事記」によるとこの鰐口は旧高崎城内榎廊の二之宮大明神社殿に掛けられていた。銘文によると武州秩父郡の住人荒船和泉守善慶が同郡小坂下村菊水寺に天文三年(1534) 奉納したものである。しかし菊水寺から二之宮大明神社殿に移された経緯は不明である。
鰐口は仏像などと異なり信仰の対象としてあまり珍重されず名品も少ないが中世の銘文が刻まれていることは極めて貴重である。
【山田文庫】 (右側)
高崎神社の先の左側に古い「岡醤油醸造」があり、その右側に写真のレンガ塀の中の民家に文庫があるとのことだが、朝早いため 入ることはできなかった。
このレンガ塀は、1998年「たかさき都市景観賞」受賞。 屋敷蔵、土蔵二棟、明治16年移築の茶室、九蔵町の茂木銀行から移築されたと伝えられるレンガ塀などが近代商都高崎の歴史を物語っています。 |
【清水家】 (右側)
山田文庫の角、常磐町交差点を左折。 まもなく、写真のように鯱が乗っている天守閣がある清水家が見えてくる。
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【君が代橋】 8:35
国道354号線にぶつかったら児童公園前の横断歩道を渡り、左手君が代橋の一番右側の歩道橋を渡る。
渡り終わった右下に「万日堂」がある。
最初の信号のY字路に左方向「安中」の標識があるが、ここは曲がらず直進(右方向)し、次のY字路を左折する。曲がるとすぐ右側に小さな「八坂神社」がある。 |
【若宮八幡宮】 (左側) 9:00
八坂神社から700mほどにある。
当社は平案末期、永承六年(1051)源頼義・義家父子が建立したと伝えられている。即ち、前九年の役が勃発するや、頼義・義家勅命を奉じ奥州の安倍氏の反乱を鎮圧する途次、この豊岡の地に仮陣屋を設けて暫く逗留、軍勢を集めると共に、戦勝を祈願するために当社を建立、乱収まり帰還の折りに再び当社に寄り戦勝を報告、額を奉納したという。
以来、武将、兵士、一般大衆の尊崇厚く、鎌倉時代には里見太郎義俊の三男豊岡三郎という者、此の地におり当社を崇敬した。
寛文二年(1662)ニ月、幕府代官諸星惣左衛門政明らが中心となり、社殿を大修築し、盛大な祭典を挙行した。
江戸末期には江戸の火消し新門辰五郎、明治期には乃木大将の参拝などあり、常時参拝者が絶えなかった。
境内には義家の腰掛石、社宝として市重要文化財蕨手太刀がある。
なお当地区には、「土用寒村」「十八日村」などの伝説、古跡が多い。
【上豊岡の茶屋本陣跡(飯野家)】 (左側)
若宮八幡宮から250mほど。
開館が、月・火を除く9:30〜16:00の為、内部を見学することができなかった。 宿場と宿場の間に設けられたもので、宿泊できる本陣とは異なる。
日光例幣使の公家や、文久元年(1861年)には皇女和宮降嫁の際に立ち寄ったとことも分かっている。
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【二十三夜塔・馬頭観音】 (右側)
本陣跡のすぐ右側にある。
【藤塚一里塚】 (左側) 9:30
国道18号線に合流したら横断歩道で左側に渡ると前方に見えてくる。日本橋から二十八番目の一里塚。
この辺りから、土手の上に上がると気持ちが良い。 一里塚とは江戸時代に街道の両側に一里ごとに築いた塚で、距離を知る道標とも言える盛り土のことです。徳川家康は、慶長9年(1604)子秀忠に命じて江戸日本橋を起点とする東海道と中山道、さらに北陸道の3街道に一里塚を築かせ、全国に広めさせました。 一里塚は、5間(約9m)四方の盛り土をし、中央に榎を植えるのが一般的でした。街道を往来する旅人にとっては、行程の目安となるとともに。夏には木陰のあるよき休憩所にもなりました。 ここにある一里塚は、中山道に設けられたもので江戸から28里(約112km)の距離にあります。南側のものは、旧状をよくとどめ、塚の上にある推定樹齢200年を越えると思われる榎の大樹が歴史の重みを伝えています。北側のものは、道路拡幅により原位置を移動していますが、中山道では唯一、両側の塚が残るものとして、全国にも全国的にも大変貴重なものです。 |
【一里塚の整備】
南の塚の整備に先立ち確認調査を実施したところ、北辺の石積みの一部は後世のものの、もともとは一辺約9mの隅丸の正方形をしたものであることが判明しました。また、東辺の石積みの最下段からは、一里塚の築造当時と思われる巨石を用いた基壇部が検出されました。さらに基壇部を取り囲む幅30cmほどの犬走り状の石の列が巡ることも確認されました。
今回の整備では、これらの調査成果を基にできる限り一里塚が造られた当時の姿に近い形に復元整備しました。
【達磨寺】 (左奥) 3月18日に訪れた場所
右側「だるまの大門屋」を過ぎた左手に見える鼻高橋を渡り、対岸を250mほど戻ると山門(写真)に達する。黄檗宗(禅宗)の少林山達磨寺といい本殿等は階段をかなり登る。 縁起だるま発祥の寺。また、観音堂は開創当時(約300年前)の姿を保つ達磨寺最古のお堂である。
境内の東側にドイツの建築家ブルーノ・タウト夫妻が1934年から2年強住んだ「洗心亭」がある。
【達磨寺縁起】 昔、碓井川のほとりに観音様のお堂がありました。ある年、大洪水のあと川の中に光るものがあるので、里人が不審に思ってみますと香気のある古木でした。これを霊木としてお堂にお納めて置きますと、延宝八年(1680)一了居士という行者が信心を凝らして一刀三礼、この霊木で達磨大師の座禅像を彫刻してお堂にお祀りしました。まもなく、達磨大師の霊地少林山として知られると、元禄十年(1697)領主酒井雅楽頭は、この地に水戸光圀公の帰依された中国の帰化僧心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じ、少林山達磨寺(曹洞宗)を開創しました。 享保十一年(1726)水戸家は、三葉葵の紋と丸に水の微章を賜い永世の祈願所とされました。 のち、隠元禅師を中興開山に仰ぎ、黄檗宗に改め以来法灯連綿として今日に至っております。 |
【達磨堂縁起】
縁起だるまは、江戸時代に庶民の縁起ものとして作られはじめました。それがたちまち全国に普及し、各地でそれぞれ風土の素材を生かして、張子・焼物・木・石などを用いて由緒ある姿に作られてきました。また達磨の名は七転び八起き、不撓不屈の精神にあやかって物産や商品の名前・商標あるいは屋号などにまで及んでおります。
当寺は、縁起だるま発祥の寺として全国のだるま、およびその資料の収集保存に努めて来ましたが、この度、縁あって大阪在住の大山立修氏から永年収集されただるまのご寄贈を頂きましたので、収蔵する各地各様のだるま及びその資料を展示して、ご参詣の皆様に達磨大師信仰のひろがりを紹介し、更に達磨大師のご縁を広めるため、ここに達磨堂を開堂しました。
昭和61年10月
【タウトと少林山】
世界的建築家、ブルーノ・タウトは、ナチス政権を逃れるため、故郷のドイツを離れ、かねてから憧れていた日本に亡命した。はじめは仙台で工芸の指導をするが、高崎市在住の実業家・井上房一郎氏の知遇を得て、群馬県工業試験場高崎分場の嘱託として赴任し、エリカと共に、昭和9年8月から11年10月までの2年3ヶ月を少林山達磨寺境内にある洗心亭で過ごした。
日本では建築の仕事はできず、高崎では木工家具、漆工芸、竹工芸、竹皮細工などの工芸指導を行い、また各界著名人たちとの交流や各地への旅行などを通して日本の建築やさまざまな文化に触れた。
そして「日本文化私観」「日本の家屋と生活」「ニッポン」「日本美の再発見」など、数々の著作によって日本の文化の素晴らしさを世界に発表した。
【洗心亭】
境内の東側にあり、六畳と四畳半しかない日本家屋である。日本におけるタウトの著書の大部分はここで執筆された。
タウトは、伊勢神宮や合唱造り民家の簡素だが歴史が組み込まれた建築的な構造美や、桂離宮を日光東照宮と対比させ、自然と建物の融合がすばらしいと絶賛した。後者は世界のどこにでも見られる権力者好みの建築的俗悪さがあると切り捨てている。
前にも述べたが、残念ながら日本人は、桂離宮の伝統美をタウトから言われて気がついたように、建築物だけでなく自国の伝統的文化を外国人から指摘され てはじめて見直したというものが多いと思う。歴史的文化財を保護をせずに、外国かぶれや経済成長ばかり重視して破壊してきたツケは大きい。それでも、遅きに失したが最近になってやっと景観を守ろうという機運が出てきたことは喜ばしい。
かつて、タウトや小泉八雲が「このままでは日本人は皆アメリカ人になってしまう」と危惧していたことが現実となっているようだ。
【寒念仏(かねつ)橋供養塔】 安中市指定史跡(昭和55年12月指定) (右側) 9:55
鼻高橋で歩道橋を渡り、国道18号線の右側へ行くと、すぐの八幡大門に八幡宮の大きな赤い鳥居が立っているが、社までは約700mある。
西濃運輸の先の橋の上に供養塔がある。
板鼻宿市の念仏講中が寒念仏供養で得た報謝金を蓄積して享保十七年(1732)に石橋を改修し、旅人の利便に共した。その後年月を重ねて破損したので、享和二年(1802)板鼻宿の木嶋七郎左衛門が亡父の意思を継ぎ、堅固な石橋に改修し、その近くに供養記念塔を建てて後世に遺したものである。地元ではこの橋を「かねつ橋」と呼んでいる。
「寒念仏」とは、寒中30日の間、山野に出て声高く念仏を唱えること。後には、寒夜に鉦(かね)をうちたたいて仏寺に詣で、または有縁(うえん)の家や付近の地を巡行することとなった。
【道祖神】 (右側)
板鼻下町交差点のY字路を一旦右に行き、すぐ左に入る。三本道の真ん中を行く
ことになる。
この先、同じように男女が寄り添っている双対道祖神に何度かお目にかかれる。 信越本線の第九中山道踏み切りを渡り、板鼻二丁目交差点の角に文政12年建の道標。 板鼻宿交差点の近くに脇本陣があったとのことだが、注意してみていたが案内板等は見つからなかった。交差点の左側に道路元標があった。 |
【板鼻宿本陣跡・旧本陣書院】 (右側) 10:20〜10:45
板鼻宿交差点のすぐ先、板鼻公民館の前の植え込みに「板鼻宿本陣跡」の碑、公民館の後ろに写真の旧本陣書院があり、公民館に声をかければ内部の資料が見られる。 開館は、平日の9:00〜16:00(土・日・祭日は休館)。
公民館が管理する施設で休日は休館の為、今日が平日で良かった。
【旧本陣書院(皇女和宮泊所)】 この建物が、板鼻宿本陣に付属した書院であった。書院建設年代は、寛永説と寛政説とある。 幕末に皇女和宮が十四代将軍家茂へ輿入れのため、京都から江戸への下向途次、文久元年(1861)十一月十日に、一夜を昔日の面影がしのばれるよ性向は控えめとしたこの書院で過ごされた
本陣敷地が公民館用地となり、書院はここへ曳移転され、外装等に補強の手を加えたが、昔日の面影が偲ばれるよう施行は控えめとした。 |
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公民館の西隣に、今は花屋になっているが、江戸時代末期の土蔵造りの建物があり、「ちょうちん屋」と呼ばれていた。
【板鼻堰用水路】
書院の横には板鼻堰用水路が流れている。右下の写真は本陣から少し行ったところの街道に接していた用水路。
板鼻堰用水は、鷹巣山麓の堰口から碓氷、九十九両川の水を取り入れ、安中市板鼻、高崎市八幡町、剣崎町、藤塚町、上豊岡町、中豊岡町、下豊岡町を経て、烏川に落水する延長15km、灌漑面積150ヘクタールの用水路である。
この用水路は今から凡そ四百年前の慶長年間中期から後期(1604〜1614)に開鑿されたものと推定される。
【板鼻宿】 日本橋から28里25町(112.7Km)、京へ107里9町
(421.2Km)
天保14年(1843)で人口1422名、総家数312軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋54軒。
木曽海道六拾九次之内 板鼻 (英泉) 宿場東側の板鼻堰用水路に架かる寒熱橋を描いている。 |
板鼻宿本陣跡付近を流れる板鼻堰用水路(板鼻川) |
東西1Km余りの短い板鼻宿は県道に合流した所で終り鷹巣橋を渡る。橋右側の土手にレンガ造りの旧橋脚が残っていた。
旧道は鷹巣橋の100mほど上流で碓氷川を渡り、中宿に入り、そのまま直進して再び碓氷川を渡って安中宿へ向かう。
現在は、鷹巣橋を渡った中宿交差点で右折し、すぐ突き当りを左折する。そのまま道なりに行き、久芳橋でもう一度碓氷川を渡る。
久芳橋のたもとがJR安中駅前である。
駅の南側には「東邦亜鉛」の精錬所が見える。かつて会社の仕事仲間と通った時、塔や太い配管が入り組んで蒸気が吹き出しているさまは、東邦亜鉛には申し訳ないが、まるで悪の巣窟のようだと冗談で話したものだった。
駅前から少し東にある「マクドナルド」で昼食とした。11:20〜12:05まで休憩。
久芳橋を渡ってすぐの、下野尻交差点を左に入ると間もなく安中宿となる。
【安中宿下ノ木戸跡】 (左側) 12:28
100円ショップ斜め前、「Beautyアミノ」隣りの床屋の前に『中山道安中宿』の木柱と共に『下の木戸跡』の看板のみが ある。
安中宿の江戸側入口である。
【安中宿本陣跡】 (左側) 12:33
伝馬町交差点手前の安中郵便局駐車場に『本陣跡』の看板と石柱が 建っている。
【安中宿】 日本橋から29里19町(116.0Km)、京へ106里15町
(417.9Km)
天保14年(1843)で人口348名、総家数64軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋17軒。
木曽海道六拾九次之内 安中 (広重) かなり西へ行った郷原村と思われるところを描いている 。 |
八本木あたりの坂道 |
【旧碓氷郡役所】 (右側) 3月18日に訪れた場所
伝馬町交差点で右折すると突き当たりにある。
【旧碓氷郡役所の復元について】 この建物は、創建当時の状態がよく残されており、当時の写真や建物の痕跡調査に基づいて、創建時の姿に復元しました。 ・建築材はほとんど現在のものを修理して使用してあります。 ・土台、柱、梁などはすべて当時のものです。 ・外側の南側、東側、西側の腰板は当時のものです。安中杉並木10本が、材木として使われたと言 われています。 ・格天井などの天井板、窓枠、一部のガラスは当時のものです。 当時のガラスは吹きガラスでゆがみがあります。 ・屋根瓦、庇、床、畳は新しい材料を用いました。 |
休館日:毎週月曜、年末年始、祝日の翌日 開館時間:9:00〜16:00 入館料:無料
【安中教会】 登録有形文化財(文化庁) (右側) 3月18日に訪れた場所
旧碓氷郡役所の隣りにある。 〜安中教会ホームページより抜粋
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【安中城址】 (右側) 3月18日に訪れた場所
安中小学校の校門左側に『安中城阯』と彫られた石碑がある。
安中城は、武田信玄の進出で安中氏が軍事的圧力を受けることになった為、永禄2年(1559)に安中忠政によって築城された。
しかし、同6年には信玄によって落城した。
一時廃城になっていたが、江戸時代の慶長19年(1596)伊井直勝が再建し、その後、水野、堀田、板倉氏等が城主となり行政的な陣屋形式で明治まで続いた。
【旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家)】 安中市指定重要文化財(平成4年4月指定) (左側) 3月18日に訪れた場所
小学校の次の交差点にある。 郡奉行とは、安中藩の民政をつかさどる役職で、安中藩には三人の郡奉行とその配下に四人の代官がいて年貢の割り当てから徴収、お触れの通達、領内の治安・裁判などの仕事をしていました。 このたび、猪狩芳子氏から安中市へ建物が寄贈されたのを機会に、安中市の重要文化財に指定しました。 復元に際しては、都市計画道路を避けるため、約6m南へ移転し、現在の平面図と建物調査結果を参考に平成5、6年度に復元しました。 母屋は、県内でも珍しい曲がり屋形式で、上段の間、土間、式台付きの玄関、茅葺屋根、武者窓、砂ずりの壁など、いずれも素朴で重厚な地方武家屋敷の姿をとどめています。 この役宅は、安中城址の南西の部分に位置しており、この役宅の西には「旧安中藩武家長屋」や旧安中城西門枡形、役宅の長屋門の北には大名小路・袋小路や藩士の学校である造士館跡及び安中藩会所跡があります。 |
観覧料:市民は無料、市外の方(大人)¥210-
【旧安中藩武家長屋】 安中市指定重要文化財(平成4年3月指定) (左側) 3月18日に訪れた場所
奉行役宅のすぐ先にある。 江戸時代末期に建てられたものと推定されています。なおこの四軒長屋の東には五軒長屋が続いていました。 |
休館日:毎週月曜、年末年始、祝日の翌日 開館時間:9:00〜16:00 入館料:市民は無料、市外の方は有料
旧中山道に戻ると、群馬銀行安中支店の横に「安中宿高札場跡」。
その先、安中地域福祉支援センター前に「安中宿上ノ木戸跡」。
すぐ先に「あおやぎ質店」、坂を登った所に「サカウエ薬局」等の古い蔵がある。
これから最後まで、街道のいたるところに、「日本マラソン発祥 安政遠足」の幟旗がひらめいていた。 記録を競う遠足はこれが初めてで、日本におけるマラソンの初めである。 当時の記録が昭和30年、碓氷峠の茶屋から発見され、昭和50年に安政遠足保存会を組織し復元させた。 この遠足は、毎年5月の第ニ日曜日に開催(雨天決行)され、今年(2006年)の5月14日が第32回となる。 侍の格好だけでなく、その年話題の人物等の仮装姿で走るユニークなマラソン大会として、テレビ・新聞等でも全国的に報道されている。 |
【便覧舎跡】 (左側)
ブロック造りの蔵の前に石柱が 建ってる。
湯浅一郎設立。日本最初の図書館と云われる東京書籍館の創立と同年なり、図書三千余無料で自由に閲覧させた。
便覧舎のすぐ先、右側に「有田屋醤油醸造所」があり、そこから5分ほどの左側、安中上野尻郵便局前に「史跡 安中大木戸跡」の石柱が建っている。上ノ木戸の外に、更に大木戸があったのか。
途中の神社で10分休憩。
【新島襄旧宅】 (左奥) 3月18日に訪れた場所
上野尻郵便局前の少し先、左へ入る道の入口に「新島譲旧宅」の案内板がある。少々入り組んだ西方向にあるので注意が必要。
新島襄先生は1843年江戸神田一ツ橋安中藩邸に生まれ、21歳の春、危険を冒して函館から日本を脱出、翌年7月アメリカ合衆国のボストンにつき、フィリップス高校、アーマスト大学、アンドーウァー神学校を卒業、1874年11月26日横浜着、同月29日朝、10年余待ちわびた両親をこの家に訪ね、互いに喜びきわまる。
滞在約3週間、家人郷党に西洋文化とキリスト教を語り、時に龍昌寺を借りて演説し、上州伝道の基礎を置く。 |
【安中原市杉並木】 東側案内石柱13:25〜西側案内石柱13:45
安中実業高前交差点で国道18号線を渡り、原市(はらいち)へ入って行く。
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【原市村戸長役場跡】 (右側) 13:50
現在は民家になっており、門に「原市村戸長役場跡」の案内板が掲げられてあった。 |
【原市高札場跡・明治天皇原市御小休所】 (左側) 13:55
「原市村戸長役場跡」から5分程で、「原市高札場跡」の案内板と「明治天皇原市御小休所」の石碑が建っている。
門と塀に雰囲気が残っていた。 この先、安中市原市公民館入口にある公園にトイレがある。 |
【眞光寺の鐘】 安中市指定重要文化財(昭和52年12月指定) (右側) 14:00
眞光寺の鐘は、板鼻の称明寺の鐘、下秋間の桂昌寺の鐘とともに第二次世界大戦において安中市で供出を免れた三鐘の一つである。 先に仁井興惣右兵衛門が眞光寺に寄付していた鐘を安中藩第十二代藩主板倉勝暁(在位安政九年(1780)〜寛政四年(1792))の代に時の鐘として許可されたので、鋳直して鐘楼を建て直し天明元年(1781)七月ニ日に撞初めを行った。(中略) 天保三年(1832)に本堂、鐘楼が、焼失したあとも、時の鐘なので男二人を雇って昼夜怠らず時を知らせ続けた。こうした由緒をもって供出を免れることができた。 なおこの鐘がつるされている鐘楼は現在は本堂の左側にあるが、元々は中山道からの入り口のすぐ東側にあった。 |
【八本木旧立場茶屋】 (左側)
原市小と安中第二中学校を過ぎるとすぐある。 「八本木延命地蔵堂」の向かいにあり、「八本木旧立場茶屋跡」の案内板が掲げられていた。 今は民家となっているが、ここが旧立場茶屋山田屋であった。
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【八本木延命地蔵】 安中市指定重要文化財 (右側) 14:20〜14:35 休憩。
当地蔵堂の御本尊延命地蔵菩薩像は、大永五年(1525)松井田小屋城主安中忠明が、原市に榎下城を築いて移り住むとき、かつての故郷越後国新発田より、近戸明神、米山薬師と共に城の守護仏として勧請したと伝えられている。
像は木造寄木造で、総高1.15m、金箔半跏趺坐像で室町時代初期の作と推定される。霊験灼かな秘仏として百年に一度御開帳される。
なお日本三地蔵(新発田、八本木、壬生)の一つとして善男善女の崇敬を集めた。とくに江戸時代、高崎城第二代城主酒井家次(慶長九年〜元和三年)は、この地蔵菩薩に深く帰依した。ある夜夢のお告げにより、御堂を改築、秘仏の前立ち地蔵尊像を寄進し信仰を怠らなかった。
参勤交代の為中山道を往来の諸大名も下乗下馬(騎乗のまま通れば、仏罰より落馬するという)して参詣したと伝えられる。
御利益は、除厄消災、子育安産、延命招福その他私たちの諸々願望を叶えて下さる有難いお地蔵さまである。
【郷原の妙義道常夜燈】 安中市指定重要文化財(昭和60年6月指定) (左側) 15:15
郷原に入り、日枝神社、自性寺を通り過ぎると国道18号線に合流する。合流したら無理しても反対側に渡ると、写真の常夜燈がある。
この常夜燈は、文化五年(1808)に、地元の碓氷郡郷原村(現安中市郷原)を中心とする「妙義講」の人々が、当時、原市村(現安中市原市)に仮住まいしていた「信州伊那郡手良郷野口村向山民吉」という石工に建立させたものである。 また、台石には「是より妙義道」と刻まれており、妙義神社への参詣者のための道しるべとなっていたことがわかる。切石積みの台座には、妙義講中六十七名と石工の名前が刻まれている。当時の妙義山への深い信仰心を示している。 なお、元々この常夜燈はここから東へ50mの中山道から妙義道への入り口にあったが、昭和六十年三月に現在地に移転したものである。 |
【神明神社】 (右側) 15:30
旧道は、国道18号線の合流点より、国道の右側を通り「神明神社」(右下写真のこんもりした場所)につながっていたが 写真の通り今は無い。
「神明神社」は鳥居と小さな祠程度である。鳥居の前には、「歌川広重の中山道六十九次 松井田のモデルの地」という案内板がある。
この写真を写した地点(常夜燈のすぐ先左側)に「郷原村戸長役場跡」の標柱がある。
また、ここから左手に妙義山が見えるはずであるが、残安ながら本日は雨で何も見えなかった。
【松井田宿】 日本橋から31里35町(125.6Km)、京へ103里35町
(408.3Km)
天保14年(1843)で人口1009名、総家数252軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋14軒。
旧中山道は、「神明神社」の前を斜め左へ入る。国道の標識には「松井田市街(県道33号線)」とある。妙義山の案内も掲げられていた。
松井田下町交差点少し手前の下町郵便局辺りで松井田宿に入る(11:50)。この辺りが「下の木戸跡」であるが、案内板等は見つからなかった。
下町交差点のすぐ先右側が「脇本陣跡」、次の仲町交差点手前左側の県信用金庫辺りが「金本本陣跡」、仲町交差点の一つ先の道辺りの右側が「松本本陣跡」、右側八幡宮入口辺りが「下の木戸跡」とのことだが、これらにも案内板等は見つからなかった。
商工会の建物は立派であっただけに、文化遺産を町の発展に利用することも少しの考えていないのは残念だった。
木曽海道六拾九次之内 松井田 (広重) 松井田宿入口の逢坂を描いている。後ろの山は碓氷峠か。 |
広重が描いた浮世絵の現在の風景 |
10回目の旅終了(16:25) 西松井田駅前交差点。
西松井田駅16:36の電車で帰宅
本日の記録 :
街道のみの距離は、22.0Km(あら町交差点〜西松井田駅前交差点)
日本橋から三十二里三十三町(129.3Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、23.8Km(高崎駅前ホテル〜西松井田駅) 累計:165.3Km
8時間40分 36,000歩。(高崎駅前ホテル〜西松井田駅まで36,840歩)