沓掛・追分・小田井・岩村田宿 (中軽井沢駅 → 佐久平駅) <旧中山道13回目>
2006年9月23日(火) 曇のち晴
自宅から中軽井沢駅まで自家用車で行き、駅前の格安駐車場 (8時間で\300-)に置いて、9:15スタート。
スタート時の気温は12℃。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
「坂本宿・軽井沢宿」 ← 「目次」 → 「塩名田宿・八幡宿・望月宿・芦田宿」
長い夏休みも終り、街道歩き再開。私事ですが 定年で3ヶ月程のんびりしていたが、9月11日より再就職し、また休日しか歩けなくなってしまった。
休日歩きの欠点は、郵便局が休みで風景印が貰えないこと、帰りの高速道路が渋滞することである。
【沓掛宿】 日本橋から38里18町(151.2Km)、京へ97里16町
(382.7Km)
天保14年(1843)で人口502名、総家数166軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠屋17軒。
沓掛宿の面影はほとんどない。 中軽井沢駅手前の長倉神社に「沓掛の時次郎碑」があるとのことだが、行きそびれてしまった。 また、駅近くの右側が本陣跡とのことだが、探しても何も見つからなかった。
後で分かったことだが、街道沿いの普通の民家(本陣・土屋家)が旧本陣とのこと。 |
中軽井沢駅を過ぎて間もなく、斜め左へ下る道を行く(国道18号線は登っている)。 入ったところが古宿。 右側「廿三夜供養塔」を見て、ゆうすげ温泉の看板で再び18号線に合流。 そのまま真直ぐ18号下り線に沿って行き、バイパスの下を潜ったら左へ入る。 (左の写真で説明) 家内が歩いている道が国道18号の下り線でここを行く(左の登り道へ行かないように)。右上に見えるガードレールが18号上り線。正面に見える高架はここで合流している18号線のバイパス。 旧中山道は、この高架下を潜ったら左に入って行く。 バイパス先の左方向が「借宿」と書かれているので、中山道はその通りに標識の太い道を行く。 |
【女街道入口】 (左側 へ入る道) 9:55
間の宿、借宿に入って行くと程なく説明板がある。左へ直角に入って行く道である。
江戸時代に「入り鉄砲」「出女」といって当時恐れられていた武器鉄砲の動きや江戸屋敷に住まわせていた諸大名の奥方は人質的意義を持っていたので女人の出入りは厳重に取り締まった。したがって女人は関所を避けて裏街道を通るようになった。これを女街道、または姫街道ともいう。
この街道はこれより本街道と別れ油井釜ヶ淵橋を渡り風越山、広漠たる地蔵ヶ原をよこぎり和美峠または入山峠を往来したものである。
「関所さけて女人が多く往来せし女街道といふは寂しも」
【遠近(おちこち)神社】 (右側) 10:00
村社。林の中にある赤い鳥居と赤い屋根の神社。右隣にはベンチ付きの大変綺麗な公衆トイレがある。
【馬頭観音碑】 (右側) 10:10
古宿、借宿は、信州と上州を結ぶ物資輸送の中継点で、馬とともに生きてきたので馬頭観音碑が多く残っている。特にここは立派である。(写真参照) 左の灯籠には馬の絵が彫られている。 信濃追分駅入口の追分交差点で10:20。 ここの左側に「おぎのや」があり、釜飯を食べたかったが昼食には少し早かったのでパス。 |
【追分一里塚】 (両側) 10:25
国道に接して両側に残っており、写真は、左側の塚。
「江戸へ39里、京へ91里14町」と書かれていた。
今はこの街道の塚が大部分崩壊してしまったが、この追分一里塚はよくその原形を保って当時をしのぶことのできる貴重なものである。 |
【浅間(あさま)神社】 (右側) 10:30〜10:45
御影用水が前を流れている「追分公園」となっており、左奥に「追分郷土資料館」、右奥に「浅間神社」があり、公園内に「芭蕉句碑」と「追分発祥の地碑」、資料館の横に大きな「馬頭観音碑」がある。芭蕉句碑前のベンチでしばし休憩(おやつ)。
道筋に常夜燈が置かれて追分宿の入口。
【御影用水】
神社の前を流れている川は、御影用水といって下流の佐久平の用水路として作られたもの。
【浅間神社】
本殿は室町時代のもので、町内の木造建築としては最古のものである。浅間大神遥拝の里宮で大山祇(おおやまつみ)神と磐長姫(いわながひめ)神の二神が祀られている。明治二年五月より浅間山の鳴動が特に激しく鎮静祈願のため同年九月明治天皇の勅祭が行われた社として有名である。
境内にある「ふきとばす石も浅間の野分けかな」の芭蕉句碑は寛政五年(1793)春秋庵二世長翠の書で浅間焼石におおわれた追分原に野分吹くころの風情がしのばれる。
【浅間神社本殿】
当社は、流造で、海老虹梁、宝珠の彫が大変良く、木鼻(象鼻)の出張りも応永様式(1394〜1427)の室町時代初期の様相をよく残している。懸魚のさがりに六葉が付いていて室町時代のものである。
南北佐久郡内では、臼田町の新海神社東本殿に次いで古い建築の神社で、町内最古である。
【芭蕉句碑】 この句碑は、大自然石に雄揮な文字で、更科紀行中の句が刻まれ、芭蕉の百年忌にあたる寛政5年に佐久の春秋庵の俳人たちにより建立されたものといわれています。 吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉
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【追分節発祥の地碑】
江戸時代、主要道路の一つ中山道を利用した旅人は、難所である碓氷峠を通過し、江戸と京都の間を往復した。この碓氷峠を中心に駄賃付けの馬子達が仕事歌として「馬子唄」を唄いつづけてきた。この元歌は「軽井沢宿」「沓掛宿」「追分宿」の飯盛女たちの三味線により洗練され、(追分節)として成立した。馬子唄に三味線の手が入り、座敷歌になったことより。諸国に広く伝播され有名になったものである。追分、浅間神社に平成7年、石碑建立実行委員会により建てられる。
【追分郷土資料館】
浅間神社の東隣りにあるが、入館料400円とのことで、入口から覗いただけで入らなかった。
【馬頭観世音碑】
追分宿で問屋を営んでいた人々により役馬の安全・供養を祈願し、寛政六年(1794)六月に建立された。
「地所寄付・小川要蔵世話人とし、土屋新九郎、関 卯右衛門、土屋源五右衛門、内堀九郎次」の銘が彫られる。
高さ約3mあり軽井沢町の文字碑としては規模が大きな碑である。
明治十五年の北陸後御巡行の折りに、道路改修により破壊され、郷土館会館に伴い改修展示する。
【堀辰雄文学記念館】 (左側)
下の写真の本陣門の奥が、堀辰雄文学記念館(入館料400円)。あまり好きな作家ではないのでパス。
堀辰雄は、大正末から昭和初期にかけて30年あまりをここで過ごした。
また、高札場先の右側の泉洞寺に堀辰雄が愛した半跏思惟の小さな石仏があるが、何故かここもパスし てしまった。
【追分宿本陣門(裏門)】
〔本陣〕 追分宿の本陣は歴代土屋市左衛門を世襲した。追分が宿場の機能を持つのは慶長七年(1602)中山道の伝馬制度を徳川家が整備した以降である。本陣文書に「定路次駄賃之覚(慶長7年6月10日)」の記録があり、本陣が問屋を兼ね宿継、伝馬人足の継立も生業とした。本陣の建坪は、238坪あり中山道の宿場中、塩尻宿・上尾宿に次ぐ大きな宿泊施設を備えていた本陣である。 |
〔本陣門の移築〕
明治11年9月、明治天皇の北陸御巡幸により追分宿本陣が行在所として明治天皇に使用されるが、明治26年に信越線が全面開通すると追分宿を利用した宿継ぎの荷駄・旅人は他の交通手段に代わり、宿場としての機能を失う。本陣は明治の末期頃、追分宿に近い御代田町塩野地区の内堀家表門として移築される。内堀家では追分宿本陣の門として大切に扱い、門に覆屋をかけて約100年間の間、内堀家の門として役割を果たしてきた。
内堀家においては、本陣門が軽井沢の歴史遺産であることをご理解され、平成17年に内堀家より軽井沢町へ寄贈された。
〔軽井沢の歴史的建造物『本陣「門」』〕
軽井沢3宿のうち、本陣の遺構を残し面影をたどれるのは追分宿に限られる。追分宿本陣の門(裏門)は宿場に残る歴史遺産として、軽井沢の宿場(江戸)文化を学び伝えてゆく貴重な建築文化財であることを考え、追分宿の往時をしのび、過去・現在・未来を通して宿場を語るシンボルとなる様、軽井沢町・軽井沢教育委員会は、旧中仙道に面したこの地に本陣「門」を移築する。
〔門の構造(追分宿郷土館に展示)〕
材料は全て欅材、一間冠木付き門・切妻造(桟瓦葺)・妻蛙股・二軒繁垂木・背面控柱。
棟札・・維持 天保二 辛卯仲秋二十四日・大工 越後国 片桐伴と明記された建築年と大工の棟梁名が分かる。
【脇本陣・油屋】 (右側)
現在も旅館を経営している。 |
【旧本陣】 (右側) 10:55
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軽トラックが止まっているところが、旧本陣(土屋家)。 左塀の中に建っているのが「明治天皇追分行在所碑」。 左端が高札場。 |
【高札場】 (右側) 上の写真左側
追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあった。法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を記し、高くかかげた板札を高札という。
寛永十年(1633)の古文書によると、広さ九尺、横一間、高さ三尺の芝土手を築き、高札場の柱は五寸角のものを使用し、駒よせ柱は四寸角で、高さ六尺の規模であった。
昭和五十八年、当時の古文書等から、高札場を復元した。
ここに掲示してある高札は、複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている。
【追分宿】 日本橋から39里21町(155.5Km)、京へ96里13町
(378.4Km)
天保14年(1843)で人口712名、総家数103軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋35軒。
木曽街道 追分宿 浅間山眺望 (英泉) 分去れから南へ行った追分原の風景。 |
現在の風景は、午前中曇りで浅間山が全く見えなかったため、 晴れてきた午後に、追分宿よりかなり先に行ったところから写したもの。 |
【枡形の茶屋・つがるや】 史跡 (左側) 10:50
国道18号線に合流。右下の写真は「つがるや」の前から江戸方向を写したもので、左方向が歩いてきた旧中山道。右方向が国道18号線。櫓には「追分宿」と書かれている。
寛永十二年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ約2.5m)を築いて宿内の警備取締りをした。 今、その面影を見ることはできないが当時の枡形の敷地内にあって茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。
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【分去れ(わかされ)】 史跡
「つがるや」のすぐ先にあり、中山道は左方向に行く。
中山道と北国街道の分岐点である。 「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを 追分の宿」 とうたわれているように、ここを右すれば北国街道の名所の更科や越後路に、左すれば桜の名所吉野や関西方面に分かれたところである。ここに幾多の旅人がさまざまな感慨をこめて左右に袂を分かったことであろう 安置された石仏、石碑、石燈籠等に昔がしのばれる。 【分去れの道標(わかされのみちしるべ)】 「右、従是北国街道 左、従是中仙道」 中山道と北国街道分岐点に位置する「分去れ」は、今も賑わったありし日の面影をとどめている。 右は北国街道姥捨山の「田毎の月」で知られる更科へ、左は中山道で京都へ、そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である。 |
【中山道69次資料館】 長野県史跡 (左側) 11:15〜12:20
「分去れ」から85mで、「旧中山道」の標識に従って斜め左へ入る。
入った三角地に江戸から京都までのミニ中山道が作られており、たどって行くと結構楽しいものである。その中央に「中山道69次資料館」がある。中山道の全ての宿について沢山の史料が展示されて、 岸本館長が一つ一つ丁寧に解説してくれる。全部聞いていたら半日くらいかかると思われ、その収集努力には感心した。主だった宿のみ解説して貰ったが1時間もたってしまった。もっと聞きたいところだったが本日の歩く予定があるため、後ろ髪を引かれる思で退館した。
入館料が500円で少々高いがチケットは期限なしでもう1回利用できるし、展示が充実しているので宿場情報を得るにはお薦めである。
目次にも載せているし、街道歩きをしている人には既に分かっていることと思われるが、中山道の情報を追加する。
中山道で標高差が一番高い宿は、追分宿(海抜1,000m)。五街道で一番高い地点は中山道の和田峠(海抜1,600m)。
当時中山道を利用した人は、江戸・京都間を15日で歩いた。ちなみに東海道は川留めがなければ13日間だが、中山道は予定がある旅人には多くの峠越えで難儀しても確実性を選んだのだろう。皇女和宮も嫁入り儀式の予定がたっていたのだろうから中山道を選んだと思われる。
中山道は和宮や女性が多く利用したので、別名姫街道とも呼ばれた。
「中仙道」とも呼ばれたが、江戸中期(1716年)に新井白石が中筋(山の中)の道だからという理由で「中山道」とした。以降、幕府も国も公式名称は「中山道」を用いている。
見学しているとき、「旧中山道」を「いちにちじゅうやまみち」と読んだアナウンサー(名前は特に秘す)がいたことを思い出した。
資料館に入る前まではどんよりと曇っていて今にも雨が降りそうであったが、外へ出たら良く晴れて暑い位になっていた。しかし、残念ながら浅間山山頂には雲がかかったままでこの後も取れることはなかった。
ここから塩名田宿まで、街道は下り坂が続く。途中の道端に栗が沢山落ちていたので拾って持ち帰ったが、小粒ながら美味しかった。
【御代田一里塚】 長野県史跡 (右奥) 13:05
途中「千ヶ滝湯川用水温水路」があったので期待して川の水に触ったが、温かくはなかった。 この川を渡り、左へ大きくカーブするとまもなく大きな水音のする用水路に出合ったら右側に「一里塚」の案内板が見つかる。右奥に入ると街道から外れているため良く保存されている一里塚がある。 日本橋から四十番目の一里塚。 中山道は、江戸幕府の置かれる前年の慶長七年(1602)に整備され、寛永十二年(1635)に改修されるが、本一里塚はその改修以前に構築されたものである。 本一里塚は、西塚で径13m、周囲40m、高さ5mを測る。隣接するのは東塚で径13m、周囲40m、高さ4.5mを測る。 これらは現中山道より7m離れた畑中に位置するため、遺存状態もよく貴重である。 ちなみに、国十八号線の北には北国街道に沿う一里塚「馬瀬口の一里塚」が二基保存されており、町指定の史跡となっている。
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<昼食> 13:16〜13:40
街道に戻るとやがて「しなの鉄道」の線路に当たるので、歩行者用地下歩道を潜る。線路の反対側に出ると右斜め前方にそば屋「なかや」が見えるので、その左側を行くのが中山道である。御代田駅へは右へ300m行く。
そこのそば屋「なかや」で昼食。手打蕎麦(600円)は美味しかった。
そば屋を過ぎたところで大きな龍が練り歩く「龍神まつり」のポスターが貼ってあった。
私達は行かなかったが、地図で調べたら御代田駅入口の右手に「龍神の杜公園」があり、公園内の「龍神の館」にはお祭り用の龍が保管されていると思われるので帰ってからインターネットで調べてみた。
【龍神まつり】
真楽寺の大沼池の
「甲賀三郎伝説」を発展させた龍神まつりは、昭和57年から始まり、毎年7月の最終土曜日に行なわれる。
町の観光行事の目玉になるものを作りたいという、当時の観光協会と青年団連絡協議会の青年たちが考え出した祭り。
龍神は、体長が45m、太い所の胴回り約3.3m、担ぎ手50人で日本一大きな龍と言われている。
まつりは、真楽寺の『龍神開眼式』から始まり、爆竹や太鼓の音が響きわたると、とぐろを巻いていた龍神が1年間の眠りから目覚め、龍神の舞を始める。
【甲賀三郎伝説】
むかし、『甲賀太郎、次郎、三郎』の3人の兄弟がいた。
末弟の三郎は頼もしい若者であったので兄たちより先に美しい妻を迎えて幸せに暮らしていた。二人の兄は三郎を羨み、三郎の妻を横取りしようと企み、三郎を誘って蓼科山に登った。紫煙のかすみに立ち昇る深い穴ほとりに三郎を導き、穴の底には宝物がいっぱいあると偽り、三郎を籠に乗せ穴の中に降ろした。二人は頃合いを見はからって綱を切ったので三郎は地底深く転落してしまった。正気を取り戻した三郎は地下の世界をさまよい歩いた。そして、地下のある家の娘の危難を救ったことが縁となって、その家の婿養子となり、子どもまで生まれたが、地上の我が家が恋しくなって憂いに沈む日が続いた。
妻が心配して事情を尋ねたところ、望郷の思いに苦悶していることを打ち明けた。妻は別離を悲しんだが、夫の心情を察して旅装を整えた。
三郎は困難な旅を続けた末、ある日子どもたちの声を聞いて懐かしい地上へ頭を出した。そこは浅間山の麓、真楽寺の大沼池のほとりであった。池のほとりにいた人々の驚き、おののく様子に三郎は池の水に自分の姿を映してみて自分でも驚いた。
いつの間にか自分の姿が龍になっているではないか。
悲歎のあまりふるさとの妻の名を呼んだ。すると、蓼科山の彼方の諏訪湖の方から妻の返事が返ってきた。三郎の妻も三郎を探し求め、諏訪湖に身を投じて龍となっていたのである。三郎は喜び勇んで諏訪湖に行き、妻とめぐり逢って湖の中で仲睦まじく暮らした。
それから二人は諏訪湖の守神となって人々から「お諏訪さん」として祭られ、現在でも御代田町の人々を暖かく見守っているそうな。
【小田井宿入口】 14:00
御代田駅入口から20分で江戸側の「中山道小田井宿跡 入口」の木柱と「塩名田 10.0Km」の標識が立っている場所に到着。
慶長七年(江戸時代前夜1602年)に中山道が整備された。小田井宿は、その六十九次のうち日本橋から数えて二十二次、江戸から四十里十四丁の距離にある。軽井沢町追分宿、佐久市岩村田宿の間の宿であり、比較的こじんまりとした宿場で、婦女子が多く泊まったことから別名を「姫の宿」ともいう。本陣、問屋、旅籠等の建物が現在残っている。
【小田井宿】 日本橋から40里31町(160.5Km)、京へ95里3町 (373.4Km)
天保14年(1843)で人口319名、総家数107軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋5軒。
小田井宿は天正年間(1573〜92)に誕生し、慶長(1596〜1615)以降、宿駅としての機能が整えられました。
昭和に入って数度の工事で、道の中央を流れていた用水路も南側に寄せられましたが、東・西の入り口にあった枡形もわずかにその形を留め、上の駅・下の駅は茶屋など小商売が多く、中の駅にあった本陣・問屋・旅籠などが残り、当時の面影をしのばせてくれます。
文久元年皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君の休泊に利用され、「姫の宿」とも称されています。街道の繁盛期であった文化・文政期には、文政五年(1822)で一九九戸・人口五二四人を数えていますが、他の時代には小さな規模のお伝馬に生きた宿場であったようです。町並みは寛延元年(1746)で七町二十三間(805m)ありました。和宮より拝領の人形が残され、それにちなんで八月十六日には小田井宿祭りが行われます。
木曽街道 追分宿 浅間山眺望 (広重) 皎月原から浅間山を望んだもの。 |
現在の風景は、小田井宿西の外れから振り返って写した浅間山。 皎月原は、ここより更に西に行ったところ にあるが、 そこからは浅間山が見えないのでこちらで代用。 |
【本陣跡(安川家住宅)】 町指定史跡 (右側)
安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣をつとめた。現在、その本陣の客室部を良好に残している。 客室部は切妻造りで、その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入側などは原型をよく留めており、安川家文書で宝暦六年(江戸時代1756年)に大規模改築が行われたと記されていることから、その際の建築と考えられる(長野県史跡編纂時の調査による)。また、湯殿と厠は、幕末の文久元年(1861)の和宮降嫁の際に修築されたものであろう。 厠は、大用所・小用所ともに二畳の畳敷となっている。 |
【上の問屋跡(安川家住宅)】 町指定史跡 (右側)
江戸後期(享保・文化の頃)もの。切妻造りで、屋根はえ板葺。 天保二年(1831)道中奉行に差出した図面とほぼ変わりない旧状を呈し、荷置場・帳場・客室部・廐・土間などがよく保存されている。
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【脇本陣跡】 町指定史跡 (左側)
建物は現存していないで、民家の庭先に案内柱のみある。
小田井宿脇本陣は、すはま屋又左衛門宅で承っていたが、その建物自体は現存していない。ただし、文久元年(江戸時代末1861年)当時の屋敷図は現存しており、その間取り等を窺い知ることができる。
【下の問屋跡(尾台家住宅)】 町指定史跡 (左側)
明和九年(江戸時代1772)の大火以降のもの。切妻造り、屋根は元板葺石置、三室続きの客室をそなえた良質の建物である。荷置場と問屋場には門の左右の建物を使用した。 |
【胶月原(こうげつはら)】 市文化財(昭和53年2月指定) 名勝 (右側)
県道9号線に合流したところにある。広重の浮世絵はここから浅間山を望んだ。
皎月原は旧中山道沿い、小田井宿と岩村田宿の中間、小田井宿よりの草原で、古くから指定地に関する古記録や伝説があって、中山道に於ける著名な名勝として知られている。伝説によれば用明天皇(586年)皎月という官女が、おとがめを受けて佐久郡の平尾へ流されてきた。いつも白馬を愛していた官女はある時、小田井の原へ馬を引き出して乗りまわしていた。ところが天の竜馬だった白馬は、空へかけ上がり、東西南北をかけまわった後、平尾山の頂上に立ちどまった。そこで官女は「吾は唯人ではない。白山大権現だ」と云って光を放って岩の中へ入ってしまった。その後女官は白山大権現と云うようになり、時々小田井の原へ来て馬の輪乗りをし、其跡には草が生えなかったので、其処を皎月の輪と呼ぶようになったと伝えられている。 只「村上家伝」の村上其国の伝記には全くの異説が載っている。 |
【胶月歌碑】 旧跡
上の写真の奥にある。
享保七年(1723)小諸藩の馬術師範で皎月原で押兼流馬術を習得したと伝えられる押兼団衛門長常という人が、当時の小田井本陣主安川庄右衛門に送った文書「夢想皎月記」の中に見られる。
この古歌を昭和十年当時の御代田村が浅井洌氏に揮毫を依頼して建立したのがこの歌碑である。
この先の横断歩道で左へ渡ると良い。
【鵜縄沢端一里塚】 市文化財(昭和45年10月指定) 旧跡 (左側) 14:55
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「← 桃の里」の看板が出ている交差点を渡った左角の林に一里塚の説明板がある(写真)。 手前には「中部北陸自然歩道」の案内板があり、左「小田井宿を経て追分7.4Km」、右「岩村田を経て塩名田7.9Km」と書かれていた。 この一里塚は慶長年間(1596〜1614)中山道開通の当初に設置されたものである。その後道路改修によって街道からはづれてしまったが両塚の間の道路は中仙道の旧い道筋を示すもので貴重なものである。 |
一里塚を過ぎ、りんご園の脇を通り、信越自動車道の陸橋を越える。
佐久インター近くのコンビニでアイスクリームを買い、コンビニ前のベンチで休憩(15:15〜15:35)。インターの周りには大型店が並んでいる。
「ファッションセンターしまむら」の道路沿いにトイレあり(店内ではない)。
【従是善光寺道碑】 (右側) 15:47
住吉神社を過ぎた右側に大きな「従是善光寺道」の石柱が立っている。これは平成8年に建立したもので、古いものは住吉神社にある。
この辺り、蔵付きの豪邸が多い。
【龍雲寺】 曹洞宗 (左奥) 15:55
右手から来る国道141号線(善光寺道)と合流した左手奥にある。
武田信玄の遺骨が出土した寺である。
当寺院は鎌倉時代の初め、地頭天井氏(甲斐源氏)の菩提寺(臨済宗)として創建されたが。その後戦火のため荒れ果て、位置も現在地に移った。 時あたかも甲斐国主・武田信玄が、信州の経略が一段落した永禄三年(1560)中興開基となり、北高全祝禅師を迎えて興隆をはかった。 一、 信玄公の遺骸が霊廟に安置されている。(昭和六年五月二十九日境内にて遺骨発見) 一、 武田家三代(信虎・信玄・勝頼公)が厚く帰依した名僧北高禅師の墓碑がある。(長野県史跡) 一、 正親町(おおきまち)天皇の勅額「東山法窟」(東山道第一の道場)が掲げられている。 一、 信玄公が上洛の際、必勝祈願の千人法幢(多勢の僧が道場に籠もって行われる宗教上的大行事)を元亀三年四月から七月にかけて執行した。 一、 武田文書を中心に、三十八通の佐久市指定文化財の古文書、その他が保存されている。 |
正和元年(1312)大井美作守入道玄慶の開創。大井氏の滅亡後も武田信玄の帰依が厚く、寺領を寄進し堂宇を再興、更に越後雲洞院から北高禅師を招いて住職とした。天正元年(157 3)4月12日信玄が駒場で病死した際、遺命で喪を秘し、北高禅師が遺骨を龍雲寺に持ち帰り密かに埋葬したという。昭和6年骨壺が発見され、中から骨と島田助宋作の短刀、「大壇越信玄千時天正元年酉年四月十二日於駒場卒戦時為舎利納慈、北高和南頂百拝」と記された袈裟環が発見され、言い伝えが確認された。
龍雲寺から400m行った右奥に武田信玄開祖という「西念寺」がある。私達は寄らなかったが、後日インターネットで調べたところ岩村田藩内藤氏の菩提寺で、巨大な五輪塔、古い鐘楼、数多くの円柱で立てられた珍しい楼門等があり、楼門の写真を見て寄ればよかったと思った。
中山道は、相生町交差点を右折して、小海線の踏切を渡り、左手八幡神社を見ながら塩名田宿を目指す。
【岩村田宿】 日本橋から42里2町(165.2Km)、京へ93里32町
(368.7Km)
天保14年(1843)で人口1637名、総家数350軒、本陣なし、脇本陣なし、旅籠屋8軒。
木曽道中 岩村田 (英泉) この浮世絵には何の副題もないので、場所が特定できない。 |
松が描かれているようなので「相生の松」を現代の風景とした。 |
【相生の松】 県指定天然記念物 (左側)
小海線の踏切を渡り、右手岩村田高校を過ぎ、左手浅間総合病院に沿って左へカーブすると突き当たりに「相生の松」がある。
記録によると、文久元年(1861)に皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁するため、旧中山道のこの場所を通り、休憩されたと言われている。「相生の松」は岩村田地域にとって、シンボルのような存在で、相生町という地名も松にちなんで名づけられたという。
初代の松は、樹齢二百年以上。男松女松が一緒に植樹され、地上1mで双幹になり、高さは13mにもなった。しかし、昭和40年に枯れ、現在では高さ約1.3mで残されている。昭和42年には二代目を植樹するが、2年で枯れた。
三代目は、昭和58年に相生町公民館の盆栽教室のメンバーを中心に植樹。以来、年に2回の草刈りと手入れをしてきた。三代目も初代にふさわしい成長ぶりで、高さは約15mで、胴回りもしっかりとしている。 (小諸新聞より)
13回目の旅終了(16:35) 浅間病院西交差点(国道141号線との交差点)。
佐久平駅まで歩き、小海線にて小諸経由で中軽井沢に戻り、車で帰宅。
本日の記録 :
街道のみの距離は、15.9Km(中軽井沢交差点〜浅間病院西交差点)
日本橋から四十二里三十三町(168.5Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、19.0Km(中軽井沢駅〜佐久平駅) 累計:211.8Km
7時間20分 28,700歩。(中軽井沢駅〜佐久平駅まで31,500歩)