加納宿 (各務原町交差点 → 東鏡島バス停) <旧中山道28回目>
2010年6月19日(土) 晴時々曇
新幹線と名電を乗り継いで各務原町交差点に戻り、ここを9:40スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
「鵜沼宿」 ← 「目次」 → 「河渡・美江寺・赤坂宿
(前半)」
出かける前までは今日・明日とも曇り時々弱い雨との天気予報で、なんとか厳しい暑さに合わないと思い出発した。
ところが意に反して午前中は強い日差しで蒸し暑くなっていつもより疲労が増し、また、夕方には大雨となる様な散々な一日となった。
【昭和食堂】 (右側) 9:55
引き続き国道21号線を進んで行くが、各務ヶ原駅から15分程の左側に私達の年代には懐かしい映画の看板ポスターが掲げられている「昭和食堂」なる昭和時代をイメージした食堂が現れる。
外壁に掲げられたポスターは、「嵐を呼ぶ男」「月光仮面
魔人の爪」「怒れ!力道山」「緋牡丹博徒」の4枚であった。
食堂のすぐ先にある「ニトリ」の前に「二十軒」というバス停がある。かつての立場があった場所とか。
【三面六臂像】 (右側)
「マクドナルド」がある次の交差点で地下歩道を使って対角線側に渡ると小さな祠が建っている。中に祀られているのは阿修羅の様な三面六臂の仏像で穏やかな顔をしている。
【川崎重工内の戦闘機】 (右側)
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「三柿野駅前交差点」から右側に川崎重工の大きな工場がある。ここから線路を越える為に車は上を越えるが人は側道を行く。右側の側道に入ってすぐフェンスの中を覗くと建物の前に古い戦闘機が展示されている。
三柿野駅前から人も階段を上って名鉄の線路を越えるようになる。 |
【六軒一里塚跡】 (右側)
名鉄の線路を越えたところから10分で、「各務原市街」と書かれた右方向へ国道21号線と別れて行く。但し国道が左にカーブしているので、中山道は真直ぐ進むことになる。
国道から分かれて5分で六軒一里塚に着く。標柱が立てられているだけだが、往時は六軒茶屋があった所。
<昼食> 11:05〜11:50
右側「神明神社」の前を通り、各務原市役所の1ブロック手前の「ガスト」で昼食。朝6時前に家を出て来たことと暑さの中休憩したかったことで早めの昼食とした。
【各務原市民公園】 (右側)
立派な各務原市役所のすぐ先が各務原市民公園となっている。大学の跡地だったことからかなりの広さがある。炎天下、公園内の樹木の下をしばらく歩けるのが助かった。
公園の外れを右折して線路を渡り、右に入って行くと「ねずみ小僧次郎吉の碑」があるとのことだが、冒頭で述べた通り暑さにまいったので予定していたにも関わらず行かなかった。
【日吉神社】 (右側) 12:25
市民公園が終わった所の「那加橋」を渡り、五叉路の「新加納町交差点」を真直ぐ方向(右から二本目)へ進む。
進むとすぐ右側に酒造の林本店があり、その隣が日吉神社の参道となっている。
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境内に沢山並んでいる燈籠の先に狛蛙が一対。社殿の前に狛犬もいるが、何故蛙もいるのだろうと思っていたら、二宮神社の由緒を読んで納得がいった。(写真
の親蛙には背中に子蛙が乗っている) 当神社の本宮は滋賀県大津市の山社が平安時代に各地に勧請されたといわれており、当神社の創立年代は不詳であるがその頃建立されたものと推察される。 昭和三十四年までは、境内一帯に樹齢数百年の檜・杉の大樹が林立していたが未曾有の伊勢湾台風により倒木した。その後昭和三十六年に拝殿を再建復旧し植樹をおこなった。また境内には昭和四十七年頃まで瓢箪池があり多数の蝦蟇が生息し、四月の例祭は「がえろ祭り」と通称され親しまれていた。 このように当神社は我々の遠い祖先の時代からこの地の守り神として崇められてきたものである。 |
【新加納立場跡】 【新加納一里塚跡】 (正面) 12:35
二宮神社すぐ先のY字路の先端に説明板が立っており、添付されている古地図によるとこの場所に一里塚が、その手前に立場があって、新加納村は「間の宿」だった。
【中山道新加納立場】 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに勝利をおさめた徳川家康は、全国的な封建支配体制の確立を目指し、主要な街道整備事業を行った。 中山道は東海道の裏街道として京都と江戸を結ぶ幹線道路となり、全長百三十四里(約536Km)の間に六十七の宿場が設けられた。 各務原市内には鵜沼宿が置かれていたが、鵜沼宿と加納宿の間は四里十町(約17Km)と距離が長いため立場(たてば)【建場茶屋】と呼ばれる小休所が、ここ新加納に設けられていた。 皇女和宮の降嫁の際にも休息所とされた新加納は、正規の宿場ではないとは言え、長すぎる鵜沼宿と加納宿のちょうど中間に位置することや、小規模ながら旗本・坪内氏の城下町的な意義を持つことなどからも、中山道の「間の宿」として栄えていたのである。 平成元年度 各務原市 |
【今尾家】 (左側)
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立場跡から真直ぐ進んだ突き当りに御典医だった今尾家がる。先ほどの古地図にも御典医として載っているし、現在も病院を経営している。
突き当りを左に回り込むと近代的な医院の後ろに大きな屋敷があり、門の上には鯱、塀の上には七福神が乗っていた。 |
【少林寺】 (左奥) 〜12:55
今尾家の門前を真直ぐ進むと突き当りが少林寺。山門を入る手前右側に市指定重要文化財の「稲荷堂」が建っている。
また、稲荷堂の脇には、岐阜県指定重要文化財の『紙本墨書東陽英朝筆辞世偈、東陽英朝筆公案』、及び市指定重要文化財の『東陽英朝禅師塔所』と書かれた標柱が立っている。
東陽英朝は大徳寺や妙心寺の住持を務めた高僧で少林寺を開創している。また、太田宿祐泉寺の創建者でもある。
広い境内には前掛けを掛けた地蔵が沢山並んでおり、「なんじゃもんじゃ」の木が植わっている。
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【なんじゃもんじゃの木】 なんじゃもんじゃの名前の由来は水戸黄門が家来にこの木は「なんじゃ」とたずねたところ「もんじゃ」ですと答えたところからと言ふ話があります。 日本では木曽川の近くと対馬の一部しか自生していないめずらしい木です。 この木は豊田久次郎氏の御厚意によりゆづり受け少林寺の境内に植えたものです。
平成元年三月 龍慶山少林寺 |
【浄慶寺】 (右側) 13:35〜13:50
街道は今尾家の前を立場跡から見て右折しすぐ左折する。「東海北陸道」の高架下を潜り、「高田橋駅」傍の境川を渡り、「高田3交差点」次の十字路を左折すると200m強で火祭りが有名な「手力雄神社」がある。十字路を右折すると「手力駅」。この神社も予定していたが行かなかった。
更に道なりに進むとほどなく左カーブしてT字路に突き当たるのでここを右折する。
そのT字路で左を見ると「手力雄神社」の鳥居が道をまたいで建っている。ここからだと神社まで500m強ある。
右折するとすぐ右側に浄慶寺があったので本殿の階段で休憩を取らせてもらった。
【市場山浄慶寺沿革】
当山浄慶寺は、もとは天台宗の寺院でしたが、文明十八年(1486)五月本願寺第八世蓮如上人に深く帰依した上人直弟子である正専坊が開基した浄土真宗本願寺派の寺院です。
宗祖親鸞聖人の教えを蓮如上人は、広く民衆にわかるように御布教されました。「いかなるものをも救う本願念仏の教え」に正専坊は、歓喜帰依し、浄土真宗に転派しました。
本願寺第八世蓮如上人より名号等を賜り、文亀元年(1501)三月本願寺第九世實如上人より新筆の六字名号を拝領、元和七年(1621)九月四日、十二世准如上人より木仏・寺号を賜りました。
浄慶寺は中山道に面し、戦国時代には、尾張清洲城の織田信長と斎藤義龍・龍興との合戦、天下分け目関ヶ原合戦の前哨戦・米野の戦い、江戸時代には朝鮮通信使節団、皇女和宮下向、幕末の騒乱など、数多くの歴史上の出来事を数百年に渡り見つめてきました。
【切通陣屋跡】 (右側) 13:50
浄慶寺の隣の「岐阜信用金庫切通史店」前の一角に中山道の石碑とともに陣屋跡の案内板が立っている。
また、ここにはベンチが置いてあったので寺でなくこちらで休憩すれば良かったと思った。
【切通の由来】
切通は境川北岸に位置し地名の由来は岩戸南方一帯の滞溜水を境川に落としていたことによると言う。
文治年間(1185)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。延元二年(1337)美濃国守護二代土岐頼遠が土岐郡大富より長森に居を移し長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。
江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり以後幕府領・大垣藩預り地と変わり享保三年(1802)盤城平藩の所領となるに及びこの地に陣屋が設けられ幕末までこの地を治めた。
切通は古来東西交通の要路にあたり江戸初期中山道が開通されるや手力雄神社前から浄慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋等が設けられ旅人の通行で賑わいを見せ各地の文物が伝来し文化の向上に大きく寄与した。
【馬頭観音と道標】 (右側) 14:00
10分弱進んだ伊豆神社の手前の祠の中に馬頭観音が祀られて、その左横に道標が立っている。
道標には「右 江戸ミチ、左 京ミチ」と刻まれていた。
【馬頭観世音菩薩】
煩悩・濁悪の世にあってひたすら衆生の苦を救うことを本願とする観音です(広辞苑)
交通安全・赤ちゃんの夜泣き封じに霊験あらたか!!とか(古老談)
一九九七、八
【伊豆神社】 (右側)
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【由来】 当神社の創立年代は不詳であるが、御祭神は大山祗神の娘石長姫命で生命は岩の如くゆるぎないようにと健康長壽をつかさどる神であり、全国主要神社でこの神を主祭神とする神社は皆無である。 また天手力雄命(手力雄神社の御祭神)が男の荒神であり、この神をおいさめするため往時の長森細畑字石長あたりに鎮座されていたのを水害等のため当地に遷されたと伝えられている。
平成四年三月吉日 氏子中 |
伊豆神社から20分程行った国道156号線の「長森細畑交差点」を横断する。この辺りの両側には雰囲気のいい大きな旧家が建ち並んでいる。
交差点を越えたすぐ先右側の旧家の屋根には「明治水」と書かれていた看板が乗っており、裏には倉が建っていた。「明治水」とは何か?
その右隣は「小木曽薬局」でこの辺りには「小木曽」という名前の家が密集していた。
【細畑(ほそばた)一里塚】 (左右) 14:25
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「長森細畑交差点」を越えて5分で左右に塚が残っている細畑一里塚に至る。両塚が残っている一里塚は久しぶりに見た。 街道の両側に五間(約九.一メートル)四方に土を盛って築かれ、多くはその上にエノキが植えられた。 細畑の一里塚は慶長九年(1604)、中山道の他の一里塚とともにつくられた。東方の鵜沼宿から三里十四町(約一三.三キロメートル)西方の加納宿まで三〇町(約三.三キロメートル)の位置にあり、中山道の風情を今に伝えている。 |
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【延命地蔵菩薩と道標】 (正面)
一里塚のすぐ先がY字路になっており、中山道は右の道を進む。 そのY字路の先端に延命地蔵堂が建っており、左脇には道標も立っている。 道標の正面には『伊勢 名古屋ちかみち笠松兀一里』、右面に『西 京道加納宿兀八丁』、左面に『木曽路 上有知道』
裏面に『明治九年一月建之』と彫られている。 この先の通りも古くて大きな屋敷が多く残っている。 |
【加納宿碑】 (左側)
東海道本線の高架を潜り、名鉄名古屋本線「茶所(ちゃじょ)駅」横の踏切を渡る。渡ったすぐ左側に平成六年五月建之だが『中山道加納宿』の石碑が立っている。
【加納宿】 日本橋から105里4町(412.8Km)、京へ30里30町
(121.1Km)
天保14年(1843)で人口2,728名、総家数805軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋35軒。
加納城下町の建設は、関ヶ原の合戦から半年後の慶長六年(1601)三月、十万石の領地を与えられた奥平信昌が地元の有力者たちを指揮し、整備したことから始まります。
その後、寛永十一年(1634)には中山道の宿場に定められました。
城下町であり宿場町でもある加納宿は、二十一の町からできており、中山道に沿って軒が並ぶ細長い町でした。
宿場の中心部では、岐阜町から名古屋の熱田へ続く御鮨街道(岐阜街道・尾張街道)と交わっており、交通の要となっていました。
加納大橋に掲げられていた案内板より
木曽海道六拾九次之内 加納 (広重) 中山道の南にあった加納城を北東から描いたもの。 加納宿の中心はこの絵の右側になる。 |
広重が浮世絵に描いた場所は、専福寺の少し先であったが
今は何の面影もない町並みなので、加納城址を現在の風景とした。 |
【鏡石と道標】 (左奥) 14:55
「茶所(ちゃじょ)駅」の踏切を渡ってすぐ左に曲がると鏡石と隣に道標が立っている。
曲がり道の右側には、なんとも美味しそうな『←御鮨街道』と書かれた標柱が立っていたが、説明は後述の【岐阜問屋跡】を参照。
【ぶたれ坊と茶所】 この、ぶたれ坊と茶所は、江戸時代の相撲力士「鏡岩浜之介」にちなむものです。 伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を次いで力士になりましたが、土俵の外での行いが悪かったことを改心して寺院を建て、ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて罪滅ぼしをしました。また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。 ここの少し北にある東西の通りは、昔の中山道であり、加納宿として栄えていました。江戸時代には多くの人たちが訪れたことでしょう。現在では、歴史的な町並と地名等に当時の様子を伝えていますが、ここにあった妙寿寺は廃寺となり、「ぶたれ坊」の像は岐阜駅南口に近い加納伏見町の妙泉寺に移されています。 平成十四年三月 岐阜市教育委員会 |
【だんごや】
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鏡石から元に戻り、次の角を右折する。右折した左角には「だんごや」があるがこれは往時からあった団子屋なのかは不明。その「だんごや」の店の前に置いてあるプラスチックボックスに加納宿散策ガイドなる資料が入っているので貰っておくと便利である。
また、ここから宿内の旧中山道はカラー舗装されているので迷わずにたどれる。中津川でもあったが街道ウォーカーにとって実に有難い配慮である。 (左角の家が『だんごや』。写真で分かる通り、ここからカラー舗装されている) |
【宿場案内】 (右側)
「だんごや」前を右折するとすぐ「加納大橋」を渡る。橋手前右詰に加納宿の地図と案内板が立っている。
【枡形道の道標】 (右角)
橋から二本目の道(枡形)を左折するが、その角に『右 岐阜 谷汲路、左 西京路』と彫られた丸石の道標が埋まっている。
【東番所跡】 (右側)
県道14号線を渡り、次の枡形道の曲がり角に加納宿東番所跡と記された標柱が立っている。
【加納柳町】 (左側)
東番所跡を左折し、正面に見える善徳寺前を右折する。右折した先の左側に『中山道加納宿 加納柳町』の標柱が立っていて側面にこの辺りの説明が書かれている。
このあたりは加納宿の中でも、中山道が最もカギ状に曲がりくねっているところです。河渡宿方面(西方)は大通りを横切り、鵜沼宿方面(東方)は善徳寺前を直進し、安良町を経て加納宿東入口八幡町へ続きます。
【専福寺】 (左側)
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信号のない道が斜めで交わっている所を自動車に注意しながら渡ると左側に専福寺がある。 この街道から、広重が現在は見ることが出来ない加納城の浮世絵を描いている(上記【加納宿】の浮世絵参照)。 |
【専福寺文書】 岐阜市指定重要文化財
専福寺には、戦国期を中心とした文書が多数残されている。その内、織田信長朱印状・豊臣秀吉朱印状・池田輝政制礼状と伝えられる三通が岐阜市重要文化財に指定されている。
織田信長の朱印状は、元亀三年(1572)の石山合戦に際し、信長から、専福寺に出されたものとされている。
元亀元年九月、織田信長が石山本願寺を攻撃した際、本願寺法主顕如は教書を各地の門末に下し、末寺の蜂起を促した。美濃においても多くの寺院がそれに呼応している。
同三年、専福寺の僧忍悟が、石山合戦で戦死し、顕如より追悼の御書を給ったと伝えられる。
本寺に伝えられる信長の朱印状は、その際、専福寺及びその門末が石山本願寺へ加担することを禁ずる内容になっている。本状の信長発給については検討の余地があるものの、石山合戦当時の緊張状態を伝える内容となっている。
その他、豊臣秀吉・池田輝政の発給とされる文書も伝えられるが、いずれも本寺と、当時の政治権力との関係を考える上で重要である。
平成三年八月一日 岐阜市教育委員会
【岐阜問屋跡】 (右側)
次の左折道の手前民家の壁に岐阜問屋跡の説明板が掲げられている。
加納新町の熊田家は、土岐・斎藤時代からこのあたりの有力者で、信長が岐阜にあったころには加納の間屋役をつとめていました。江戸時代に入ると、全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぐようになり、「岐阜問屋」と呼ばれるようになりました。
江戸時代、岐阜問屋は岐阜の名産品であり、尾張藩が将軍家へ献上する「鮎鮨」の継ぎ立をしており、御用提燈を許されていました。
献上鮎鮨は岐阜町の御鮨所を出発し、岐阜問屋を経由し、当時、御鮨街道と呼ばれた現在の加納八幡町から名古屋へ向う道を通り、笠松問屋まで届けられました。
岐阜問屋には特権が与えられていましたが、それは献上鮎鮨が手厚く保護されていたことによるものでした。
平成十一年三月 岐阜市教育委員会
【枡形道の道標】 (右側)
正面「太田薬局」前を左折するが、店の前に道標と説明板が立っている。
【中山道の道標】
この道標は、江戸中期(1750年頃)新町と南広江の交わる四ッ辻東南隅にたてられ中山道を往来する旅人の道案内の役目を果たしてきました。
最初は「左中山道」「右ぎふ道」の道標でしたが、明治初年に「左西京路」「右東京道」の標識が追加されました。
この四ッ辻は中山道と岐阜道の分岐点で、かつては交通の要衝でありました。
昭和五十九年三月 中山道加納宿文化保存会
寄り道として、この「太田薬局」前を右折すると家康の長女である亀姫の墓に行ける。名鉄の線路を越えた先を左折して線路に沿って右カーブして行くと右側の「光国寺」に亀姫之墓がある(太田薬局から370m)。
ここも行く予定だったが、忘れてしまい行かなかった。
【加納宿高札場跡】 (右側)
清水川に架かる橋を渡った左側に高札場の説明板が立っている。
ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせるために人通りの多い通りや辻や市場などに立てた板で作った立札のことです。
加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・二メートルもあるものでした。正徳元年(1711)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚も高札が掲げられました。
平成十ニ年三月 岐阜市教育委員会
【加納城大手門跡】 (左側) 15:25
中山道は「加納大手町交差点」の手前で右折するが、その交差点の歩道橋下に加納城大手門跡の碑が建っている。
【加納城跡】 (左奥) 15:33〜15:53
「加納大手町交差点」から直進し450mで加納城跡に行ける。現在は本丸跡と石垣が一部残っているのみである(上記【加納宿】の現代の写真参照)。
昼食をとった「ガスト」からここまで4時間近くの間トイレが全く見つからなかった。今日は暑くて汗を沢山かいたのでなんとか持ち応えたが普通だったらとても我慢できない距離だった。但し、ここの簡易トイレは汚くて臭いので覚悟が必要。
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【加納城跡】 国史跡(昭和58年10月28日指定) 本丸跡の石垣前に立っていた説明板 徳川家康は、慶長六年(1601)三月、娘婿の奥平信昌を加納城主として十万石を与え、また亀姫の粧田として二千石を給した。 築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築した。本丸、二之丸、三之丸、厩曲輪、南曲輪(大藪曲輪)などを備え、関ヶ原戦後初の本格的城郭であった。 加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏。戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎えた。明治二年加納城第十六代城主、永井肥前守尚服が版籍を奉還し、加納城は同年七月十四日に廃藩に至った。 加納城は、この本丸のはかは二之丸北側の石垣をわずかに残している。 岐阜市教育委員会 |
【加納城】 入口にあった説明板
加納城は、徳川家康が慶長5(1600)年関ヶ原合戦の直後、築城を命じた城です。北から南へ5つの曲輪(三の丸、厩曲輪、二の丸、本丸、大藪曲輪)があり、それらは堀と川に囲まれ、「水に浮かぶ城」という景観でした。また、石垣などは関ヶ原合戦で落城した岐阜城から運んだと伝えられています。
初代城主は徳川家康の長女「亀姫」の婿、奥平信昌で10万石が与えられ、それ以降代々城主は普請大名が勤めました。明治維新の後、建物はすべて取り壊されてしまい、堀も埋められ、今では、本丸の石垣と土塁、二の丸や三の丸の北側石垣や、三の丸北東部分に当時をしのぶことができます。
今あなたが立っているところは本丸の北門にあたります。本来の出入り口である大手口は東側凸字形に出っ張った部分にありました。これは「外枡形」という、徳川氏が初期に作った城の特徴といわれる形です。
昭和58(1983)年に本丸が国の史跡に指定されてから、発掘調査が行われ、江戸時代の加納城の地面の下に戦国時代の加納城の土塁が埋もれているのが確認されました。
城下町は加納城の北から西にかけて造られました。町の北部を「中山道」が東西に通り、寛永11(1634)年には「加納宿」が設置され、城下町と宿場町が一つになりました。岐阜と名古屋を結ぶ「尾張街道」(岐阜街道、御鮨街道)が町の東で中山道と交差する交通の要衝でもありました。町の北西部と南西部に寺社が集中して置かれ、城の北と西側一帯、北の町外れにも武家屋敷がありました。
美濃傘と呼ばれる「和傘」の生産は、宝暦年代(1760年頃)、当時の藩主永井氏が財政の助けとするため奨励し、武士と町民の分業作業として発展しました。明治以降も加納の伝統産業として受け継がれてきています。
【旧加納町役場】 文化庁登録有形文化財 (左側) 16:00
大手門跡に戻り、再び中山道を進む。
「加納大手町交差点」の手前を曲がるとすぐある、今にも崩れそうな建物が“岐阜市が誇る歴史的建造物”の旧加納町役場である。
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国内屈指の和傘の町、文教の町として繁栄した稲葉郡加納町を象徴する建物で、大正15年(1926)竣工。 京都帝国大学武田五一教授の設計。 構造・様式は「イスパニヤ式」手法を加味した鉄骨鉄筋コンクリートで耐震耐火構造、基礎工事は、「フーチング式」鉄筋コンクリート、当時の最先端技術を駆使し、旧岐阜県庁と共にデザイン感覚に優れた建造物として、多くの専門家から高い評価を受ける。 同教授の手になる名和昆虫記念館、同博物館、大垣市の旧浅沼銀行本店などは当地にも縁も深く、広く知られている。 昭和15年(1940)合併に伴い岐阜市役所加納支所となり、幾多の変遷を経て今日に至る。 今日でも往時をしのぶ歴史的建造物として、中山道を散策する人々や建築関係の専門家たちが立ち止まって目を凝らす姿が印象的である。 現在は耐震不足の為、立入り禁止となっております。 中山道加納宿文化保存会 岐阜市加納東自治会連合会 岐阜市加納西自治連合会 加納まちづくり会 |
【二文字(にもんじ)屋】 (左側)
ほどなく左側に二文字屋の看板が見えてくる。和宮が加納宿に泊った時の食事を作った旧旅籠屋、現在はうなぎがメインの料理屋となっている。「てくてく旅」で勅使河原さんが和宮に出した朝食(再現したもの)を食べていたが、内容は超大盛りの御飯・赤だし味噌汁・香の物・鯛の焼き物・小芋の煮付け等であった。 昔当店のあたりは中山道加納宿でございました 当店の初代上野長七朗がこの場所で旅籠ニ文字屋を始めましたが元和六年今から三百七十五年程前のことでございます 月夜に川原で餅をつくウサギはご存知左甚五郎が二文字屋に泊まり彫ってくれた欄間でございますが火事のとき欄間の川原から水が吹き出し一瞬のうちに火を消したと伝えられます 十二代当主 |
【当分本陣跡】 (右側)
宮田家の駐車場の左端に当分本陣の標柱が立っている。宮田家は現在も豪邸である。
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【加納宿本陣跡・皇女和宮御仮泊所跡】 (右側)
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国道157号線を渡るのであるが、交差点内に横断歩道がなく、左右どちらかに遠回りしなければならないのが不便。せっかくカラー舗装までしているのに、ここだけは中山道散策者にとって冷たい。 国道を渡ったすぐ右側の青木家が本陣跡。「料理仕出し魚増」の向かいである。
門前に表記の石柱、玄関敷地に和宮の歌碑が建って塀に説明板が掲げられている。 仁孝天皇の皇女 和宮親子(ちかこ)内親王は将軍徳川家茂との結婚のため、文久元年(1861)十月二十日京都桂御所を御出発、中山道を通行して江戸に向かわれた。 同年十月二十六日当地加納宿本陣の松波藤右衛門宅(現在地)に宿泊された。その時、自分の心情を詠まれたという歌が伝えられている。 遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 立うかりかり この歌は「宮内庁書陵部所蔵の静寛院宮御詠草」に収められており和宮の直筆である。 本年は中山道宿駅制度が設置されてから四百年記念に当り、幕末の日本の国難を救ったと言われる公武合体のため、結婚された和宮の遺徳を偲んで、本歌碑を建立する。 平成十四年六月吉日 中山道加納宿文化保存会 |
【西問屋場跡】 (右側)
本陣の隣に標柱が立っている
西問屋は加納の宿問屋でした。万治元年(1658)松波清左衛門が開業しました。ここでは西は河渡宿から、東は鵜沼宿から加納宿へ出入りする人馬の継ぎ立てをしていました。
【加納宿脇本陣跡】 (右側)
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西問屋場跡のすぐ先の黒塀に黒門という家の門前に石碑が立っている。 |
【加納宿脇本陣跡】 (右側)
現在タワーマンション建設中の囲い前にもう一つの脇本陣跡の石柱が立っている。
【加納宿西番所跡】 (左側) 16:40
中山道は脇本陣跡の先で岐阜駅へ続く大通り(加納栄町通)を横断する。
大通りから10分程進んだ左側の秋葉神社内に西番所の石碑が立っている。ここまで秋葉神社が50mおき位に沢山あった。
【一里塚跡】 (右側) 16:55
「加納本町9交差点」を横断して3つ目の十字路の右角に「中華料理ほりい」があり、そこの十字路を左に入ってすぐ右側の空地と民家の間に一里塚の石柱が立っている。 |
中山道が東海道線に接したら、「清水町2交差点」で右折して東海道線の下を潜り、斜め左の太い道を行く。
次の「清水町10交差点」は七差路になっていて迷うところだが、今来た道から右3本目になる真直ぐの道を進む。400mで「本荘町交差点」に着けば間違えていない。
やや蛇行している道が突き当たったら左折して道なりに行き、「鹿島町8西交差点」、「鏡島大橋南交差点」と続けて横断する。
ここまで来る途中、雨足が強くなってきたのでビルの庇を借りて10分程雨宿りをした。
東鏡島(ひがしかがしま)バス停を過ぎ追分橋を渡ったら左折して鏡島弘法前に進むが中山道。
ところがこの雨が非常に激しくなってきたことと、バスの時間を確かめるとあと2分でバスが来ることが分かり、予定より一つ手前の東鏡島バス停で本日の旅を終了して宿泊先の岐阜駅に戻ることとした。
ここの路線はバスが10分間隔くらいで走っているので夕方になって駅から離れても安心してここまで歩けた次第である。
28回目の旅終了(17:40) 岐阜交通・東鏡島バス停
乙津寺まで行く予定だったが、このバス停で本日の旅を終了してJR
本日の記録
: 街道のみの距離は、16.9Km(各務原町交差点〜東鏡島バス停)
日本橋から百六里一町(416.4Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、20.2Km(名電各務原駅〜東鏡島バス停) 累計503.9Km
8時間 32,300歩(各務原町交差点〜東鏡島バス停)