河渡・美江寺・赤坂宿 (前半) ( 東鏡島バス停 → 美濃赤坂駅) <旧中山道29回目>

 

2010年6月20日(日) 雨時々曇

 岐阜駅より岐阜バスで東鏡島バス停に戻り、ここを8:00スタート。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「加納宿」 ← 「目次」 → 「赤坂宿(後半)・垂井宿」

 

 出発前にホテルで見た天気予報では曇りとのことだったが、今日も外れて殆ど雨だった。

 一時は雨宿りするところがない場所で強く降り大変だった。

 西鏡島行きのバスは岐阜駅前ローターリー7番ポールのG51系統で15分おき位に出ている。 


【乙津寺(おっしんじ) (右奥)

 東鏡島バス停を過ぎ、追分橋を渡った突き当たりで左折する。

 中山道は鏡島弘法前バス停前を直進するのであるが、乙津寺と小紅の渡しに行くためバス停前を右折する。

もう一つ右折すると前方に乙津寺の山門が見えてくる。

 写真で、本堂の左手前に植わっている梅の木が、下記縁起の中で「弘法大師が挿した杖から梅が生じた」と伝える木。

【日本三躰除厄弘法大師 瑞甲山 乙津寺(梅寺)】

 奈良時代、七三八年行基菩薩が乙津島に着船されここを仏法縁由の地と定め、自ら十一面千手観音像を刻み草庵に安置されました。

 八一三年弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の勅命を受け、当地で秘法を尽くし天に誓い地に伏し祈祷すること三十七日間行い、宝鏡を龍神に手向けますと忽ち滄海変して桑畑と成りました。よってこの地を鏡島といゝ、寺を乙津寺と名付け七堂伽藍塔頭五ヶ寺鎮守等、多数が造営されました。大師は開山堂前に梅の杖を上下逆にして挿し「仏法この地に栄えばこの杖に枝葉も栄ゆべし」と仰せられました。すると不思議にも杖に枝葉が生じ花をつけましたので、梅寺とも呼ばれています。八五三宇多天皇より下賜された「霊梅場」の額を楼門に掲示していました。その時の「下乗」の石標が現在もあります。

 古くは真言宗で鎌倉・室町のころは、京都御室御所(仁和寺)が、乙津寺住職を兼務され、老後は当寺に専任されました。関白太政大臣一条兼良公は「応仁の乱」を避けて幼年文学の友であった住職又妻子に会いに来て滞在され、妻子は当寺に残されました。よって兼良公の正室東御方の墓(宝篋印塔)があります。なお連歌師宗祇法師など著名人が参詣祈願しています。

 天文の大洪水と重なる政情不安で寺門が衰微した時、鏡島城主石河駿河守光清は伽藍を再建し、一五四五年京都妙心寺より孤岫禅師を招いて禅密兼学の道場としました。二世蘭叔禅師は「酒茶論」を著した高僧であります。

 織田信長公、豊臣秀吉公、江戸時代には梅寺瀬踏開運地蔵尊霊験なりと徳川将軍家の信仰厚く、朱印状により寺の建物境内樹木が保護され寺領五十五石を頂いております。又雪舟を含む多くの書画古文書を保持していました。

 一九四五年、第二次大戦中の岐阜空襲で堂塔の全てを失いましたが、国重要文化財と弘法大師像は奇跡的に難を免れました。

 今は国や十万信徒諸氏のご協力、法灯が受け継がれております。

【弘法大師梅の杖】

 弘法大師ここにさし立てた梅の錫杖が芽ぶき聖なる力をもつ霊梅と言い伝えられています。

 弘法大師御自詠歌

  さしおきし 杖も逆枝て 梅の寺 法もひろまれ 鶯のこえ


【小紅(おべに)の渡し】 (長良川)

 乙津寺の山門前を左折(寺から出てきたら右折)して観音寺の墓地に沿って右に回ると墓地の端に小紅の渡しの説明板が立っている。そこを左折して前方の土手に上がる階段を登ると川原が見える。階段からはペンキの矢印が付いているのでそれをたどれば渡し場に着く。

 今回の旅で一番楽しみにしていた長良川の舟渡しであったが、ここ数日の雨で川が増水し流が早い為か真に残念ながら欠航になっていた。

 舟は常時対岸の河渡宿側に停泊しており加納宿側からは手を振ると向って来ることになっている。

 私達も手を振ったが、船頭が手で×印をして舟が出せないことが分かった。そのあとで対岸の待機小屋の横に赤旗が掲げられていたのに気が付いた。

 この赤旗は河岸まで下りなくとも階段を上がった土手から見えるので、赤旗が掲げられていたら乗れないものとあきらめるしかない。

 

 ここには、江戸時代から長良川の対岸とを結ぶ交通路として「小紅の渡し」が設けられています。この小紅の渡しは、古くから鏡島弘法(乙津寺)への経路として、約1Km下流にあった中山道の河渡の渡しとともに栄えていました。現在では県道文殊茶屋新田線の一部になっています。近代的な橋の施工技術が発達する以前は各地に渡しがありましたが、現在では、小紅の渡しが岐阜市内で現存する唯一の渡しとなりました。

 なお、小紅の名の由来については、様々な説があり、お紅という名の女性の船頭がいた、川を渡る花嫁が水面に顔を映して紅を直した、紅を採る草が生えていた、等の言い伝えがあります。

     平成十五年三月 岐阜市教育委員会

「小紅の渡し」の情報を下記に示す

 運航時間   4月〜9月  8:00〜17:00

         10月〜3月  8:00〜16:30

 料金     無料

 休航日    毎週月曜日及び12月29日、30日、31日(月曜日が休日の場合その翌日)、悪天候日

         休航日には赤旗を掲げる

 その他    小紅の渡しは県道の一部であり遊覧運航はしない

 乗船場所  北岸:岐阜市一日市場

         南岸:岐阜市鏡島(鏡島弘法 乙津寺 北)

 アクセス   北岸:JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から岐阜バス「K25又はK26東改田」行で27分

          片道200円 「一日市場」下車徒歩5分

         南岸:JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から岐阜バス「G51西鏡島」行きで19分

          片道200円 「鏡島弘法」下車徒歩5分

 問合せ先  岐阜市土木管理課 058−265−4141


【観音堂】 (右側) 9:00

 渡し舟に乗ることが出来なかったので土手道へ戻り、河渡橋に向って意気消沈しながら歩く。

 橋の右側を歩くと、対岸の土手に着いた所で右に下りる道があるので、これを下りて橋の下を潜り、橋から見て左土手道を進む。

 橋を潜ったらすぐ車道を渡って土手下の道を進むか、そのまま土手上の道を進んでも良い。

 土手下を進んだ場合は、右手方向を気にして観音堂が見えたら右に入る(『中山道→』の案内あり)。土手上の道を進んだ場合は、祠が建っている所から階段を下り土手下の観音堂を目指す。

 観音堂の前には、河渡宿のモニュメント(大きな木製の常夜灯)が建っている。

【観音堂縁起】

 聖徳より天保年間にかけて徳川幕府太平の記録に中山道六十九次之内第五十四河渡宿大概帳に本陣水谷治兵衛問屋久右衛門 八兵衛庄屋水谷徳兵衛とあり本陣一軒旅籠屋大四軒中九軒小十一軒あり酒屋茶屋豆腐屋煙草屋など建ち並び西國諸大名の江戸幕府への参勤交代時には御転馬役歩行役の命令あり東へ加納一里半西へ美江寺一里七丁この荷駄の送迎旅人の往来宿泊に賑わいこの荷駄役の人達が天保十三年に銭百文づゝ寄進し道中と家内安全五穀豊穣祈願し愛染明王を奉祀す地元では馬頭観音さんと仰ぎ猿尾通稱お幕場に六間四面の堂宇を建立毎年九月十七日を祭日と定め祖先は盛大に賛仰護侍し来れりその後明治二十四年十月二十八日午前六時三十七分濃飛大震災に倒壊同二十九年九月大洪水に本堂流失す堤外中段渡船場右側に再建昭和二十年七月九日大空襲に戦禍を免る同二十二年四月新堤築造により堤内に奉遷安置同五十六年本川拡幅に伴ふ遷座となる島川東洋子氏御一家の篤志を受け現聖地三十七、三坪に奉遷新築す町民の総意と協力により工事費金壱千壱百六十五万七千円にて完成

     昭和五十九甲子年九月吉日 河渡町内中


【河渡(ごうど)宿碑(一里塚跡)】 【松下神社】 (右側) 9:10

 観音堂の前を左折して土手下の道に戻り、軽く坂を上がった所を右折すると河渡宿に入る。

 ほどなく河渡宿(一里塚跡)の石碑が立っている一角が現れ、奥に松下神社がある(下記写真で、奥にある二つの小さな祠)

【中山道河渡宿】

 碑文は、下記【河渡宿】に記載。

【松下神社】

 中山道河渡宿は、東に長良川、西南に糸貫川、北に根尾川があり土地も低く、白雨雪舞の折には泥沼となった。特に文化十二年六月には、未曾有の洪水にみまわれ、このままでは宿も絶えるのではと時の代官松下内匠が、宿中を五尺あまり土盛をして、その上に家屋を改築し、文化十五年に工事を完成させた。

 この功績に村人は、松下神社を建立し、碑を刻んで感謝をした。

 碑は太平洋戦争の戦災で焼きこわれ、今は一部しか残っていない。

     平成五年五月 中山道河渡宿文化保存会 記


【河渡宿】 日本橋から106里22町4(418.7Km)、京へ29里12町 (115.2Km)
 天保14年(1843)で人口272名、総家数64軒、本陣1軒、脇本陣なし、旅籠屋24軒。

 江戸時代、江戸と京都を結ぶ重要な街道として中山道が整備され六十九の宿場が設けられた。河渡宿は江戸から百六里二十七町、五十五番目の宿場であった。

 加納宿へ一里半、美江寺宿へは一里六町を経て、長良川の渡しを東に臨み、大名行列や旅人が往来宿泊して大いに繁盛した。

 ここはかつての一里塚でもあった場所である。塚は道の両側に夫々あり榎が植えられて、塚の大きさは五間四方であった。

     平成五年五月 中山道河渡宿文化保存会 記

岐阻路ノ駅 河渡 長柄川鵜飼船 (英泉)

長良川で有名な鵜飼の様子を描いている。

河渡橋から見た長良川。

奥が小紅の渡し、手前が往時の渡し場辺り。


【本田(ほんでん)地蔵堂(延命地蔵 )】 (左側)  9:50

 河渡宿は長さ3町(約330m)の小さな宿なので河渡宿碑を過ぎるとすぐ終わってしまう。河渡宿と書かれた木製ミニュチュア灯籠が何基か置いてあるのがかろうじて宿場だった雰囲気を出しているだけだった。

 「慶応橋」を渡り、両側にトヨタの店がある「生津(なまず)交差点」を越えたら街道は右にカーブして行く。

 「生津小学校」の前を通り、突き当りの祠がある所を左折する。ここは馬場の追分で一段高い所の祠は馬場の地蔵さんか?

 糸貫橋を渡ったすぐ左側に本田地蔵堂が建っている。

 この地蔵は、高さ九十センチメートルの石仏坐像で掘りが美しく優雅な面相である。背面に「石工名古屋門前町大坂屋茂兵衛」、台座には「文化六巳巳歳(1809年)八月二十四日建立濃州本巣郡上本田村」と刻まれている。

 毎年八月二十四日に盛大な地蔵祭が行われる。かつては、尾張・美濃・江州の三国素人相撲が行われたが、現在は子供相撲が行われている。

 江戸時代この中山道を往来した旅人はここで一休みして、このお地蔵様に旅の安全を祈ったのであろう。

     瑞穂市教育委員会


【本田代官所跡】 (右側)  9:55〜10:05

 本田立場跡は気が付かなかったが、小さな橋を渡ったすぐ右側の「本田バス停」横の民家の前に本田代官所の説明板が立っていた。

 このバス停のベンチに腰掛けてしばし休憩。

 江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地の代官所があったが、詳細は定かでない。しかし、古文書等から推測すると、寛文十年(1670)、野田三郎左衛門が初代代官に任ぜられ、この地に陣屋を設けたと思われる。本田代官は後に川崎平衛門定孝(十一年間在任)という名代官を迎えるなど、この地の人々に大きくかかわった。明和七年(1770)大垣藩に預けられるまで続いた。今も「代官跡」「御屋敷跡」「牢屋敷跡」という地所が残っている。

     瑞穂市教育委員会


【高札場跡】 (右側)

 代官所跡のすぐ先の小川の袂に高札場の説明板が立っている。

 きりしたん制札など幕府や領主が行政的に周知の必要な事項を木製の高札に書いて掲げ住民に知らせる場所であった。江戸時代の中山道分間延絵図によると、このあたりに高札場があった。

     瑞穂市教育委員会


【さぼてん村】 (左側)

 三甲(株)の前を通り、「五六橋」を渡ると瑞穂町の看板が立っている。そこには本陣1.3Kmとあった。

 「美江寺五六町交差点」の左奥に「さぼてん村」と書かれた大きなハウスがあり、あたり一帯はサボテンを育てているビニールハウスが見渡す限り並んでいる。

 聞くところによると「さぼてん村」は広さ10万mで、生産面積は世界一。国産サボテンの約90%がここで栽培されているとのこと。営業時間9:00〜16:00(日曜定休)で見学自由・購入可だそうだが交差点からは少し遠い。但し、この時期入口のビニールカーテンが開けられて、中にびっしりと並んでいる小さなサボテンを街道から見ることが出来る。

 写真で、右隅に見える道が中山道。


【美江寺(みえじ)宿】 日本橋から107里29町(423.4Km)、京へ28里5町 (110.5Km)
 天保14年(1843)で人口582名、総家数136軒、本陣1軒、脇本陣なし、旅籠屋11軒。

 美江寺は既に、天正十七年(1589)豊臣秀吉の下知によって、問屋場が設けられ、往還の荷物中継ぎの業務に当っていたが、江戸時代になって中山道が整備されるに及んで、近世宿場制による駅伝業務を担当する宿場となった。寛永十四年(1637)四月伝馬役家と歩行役家各々二十五軒を定めて問屋の支配下に置き、交通業務に当ったのが、美江寺宿の公式開設である。

 宿場の機関の一つである本陣は、宿場開設より三十二年後の寛文九年(1668)春、時の領主山本金兵衛が管理を兼ねた。以後、山本家が世襲して宿駅制度廃止まで継承した。

 一般旅人のための旅籠や茶屋は年代により増減があったが、これは幕政改革の影響であろう。

 文久元年(1861)十月二十六日の和宮親子内親王江戸下向の途次、当宿小憩と、慶応四年(1868)二月二十・二十一両日、当宿を発信地とした、東征軍東山道鎮撫隊のことは、当宿交通史の特記事項である。

 明治三年(1870)閏十月、民部省布告による宿駅制度廃止に伴い、宿場の歴史を閉じた。

     美江神社境内の案内板より

木曽海道六拾九次之内 みゑじ (広重)

美江寺の西の中山道沿いに流れていた犀川。

広重が描いたのとほぼ同じ場所で撮影した現在の風景。
 


【美江寺一里塚跡】 (右側)

 樽見鉄道の踏切を渡って、右130mに「美江寺駅」。

 踏切を渡ったすぐ先の水路脇に道標『右 岐阜加納ニ至ル、左 北方谷汲ニ至ル』が立っている。

 道標の目の前の民家に「美江寺宿名所・遺跡図」が立っていて、宿内は枡形道で構成されていることが良く分かる。

 そのまま直進し「美江寺大門裏交差点」越えたすぐ右に美江寺一里塚跡の石柱が立っている。

 私達は行かなかったが「美江寺大門裏交差点」を右折して120m程で芭蕉等の句碑群がある「瑞光寺」に行ける。


【自然(じねん)居士之墓】 (右側)

 一里塚すぐ先の酒井電機サービス店右横の生垣の中に自然居士之墓の石柱が立っている。自然居士が誰なのかはこの先の「千体寺」で判明する。


【美江神社】 【高札場跡】 (右側) 10:45

 

 両側に古い民家が数軒建ち並ぶ間を進むと、ほどなく美江神社に到着する。街道はこの美江神社前を左折して行く。

 神社の街道側に高札場の簡単な説明板が、境内に復元された高札がある。

 また、美江寺宿跡の石碑と案内板(上記【美江寺宿】参照)も置かれている。 奥には美江寺観音堂もある。

【高札場跡】

 江戸時代は、ここに高札場がありました。美江神社境内に当寺の姿を復元してあります。

 上の写真は、美江神社手前の町並。家の途切れた木があるところが美江神社。

 下の写真は、美江神社の入口。

 美江神社から左折した右側に旧庄屋・和田家の大きく立派な建物があり、その隣にうなぎの店があったので入ろうと思ったら予約のみとのことで食べることが出来なかった。事前調査で今日の行程の中では食堂やコンビニが無いことが分かっていたが、予想通り今日は最後まで昼食をとる事が出来なかった。岐阜駅で弁当を買おうと考えたが、肩の傷みからリュックが重くなることを避けたため辛い思いをしてしまった。


【美江寺城址】 (左奥)

 美江神社前を左折した次の道を右折して100m行った「中小学校」の校庭がかつての美江寺城である。

 今日は日曜日で休校だが門が少し開いていたので中に入らせて貰った。校門を入ってすぐ左手に小さく石垣が築かれていて、城址の碑になっている。

 室町時代に美濃国守護職であった土岐氏の武将和田八郎が応仁文明の頃(1460年代)本巣郡舟本庄十六條に居館を構えたこれが美江寺城の創始である。

 その後八郎の子和田佐渡守次いで和田伊代守高成 和田将監高行と代々此処に掾って土岐氏に従った。

 斉藤道三が擡頭して守護土岐頼藝と軍を構えたとき美江寺城主は和田将監高行であった。天文十一年(1542)道三の軍勢が美江寺城を襲い九月三日夜これを攻略し城は灰燼に帰した。

 何時の頃か城址に神明神社と八幡神社が祀られたが大正三年(1914)神社を美江神社に遷してここに船木小学校が建てられた。

     昭和五十三年六月吉日 巣南町長岡田守謹記


【美江寺本陣跡】 (左側)

 小学校から街道に戻り、すぐ先「美江寺中町バス停」前の立派な屋敷の入口に美江寺本陣跡の石柱が立っている。


【開蒙学校跡】 (右側)

 本陣跡の向かい側に開蒙学校跡の石柱が立っている。


【道標】 (左側)

 店の窓に各地の一里塚の写真が飾ってある「みかどや」の前を右折する。店の前のバス停右横に「美江寺宿名所・遺跡図」、左横に大正十年建立の道標『右 大垣赤坂ニ至ル、左大垣墨俣ニ至ル』が立っていた。


【美江寺千手観音堂】 (右側)

 川を渡る手前に美江寺千手観音像堂があり、観音様は優しく微笑んでいるように見える。

 


【千躰寺と千躰仏】 (右側)

 新日橋を渡り突き当りを左折する。その突き当たりに千体寺があり、そこに千躰仏を作った自然居士の説明板が立っていた。

 千躰寺は、浄土宗西山派に属し、現在、養老郡の円満寺の末寺である。千躰寺には高さ12センチメートルから23センチメートルの桧材一木像の阿弥陀如来立像、千体が八段に並べまつられている。

 仏像は、千躰仏と呼ばれ、寺の名の由来となった。千躰仏は、禅僧、自然居士の作で、仏像の姿・形から鎌倉時代後期〜南北朝時代のものと伝えられている。自然居士は、和泉の国(大阪府)に生まれ、京都の東福寺大明国師のもとで修行したが、奇行遊行僧のようである。遊行の途中、自然居士は美江寺の地にとどまり千躰仏を造立した。

     瑞穂市教育委員会

 写真は、説明板に添付されていたもの。


【犀川(さいかわ) (右側)

 犀川に接したところに神明神社が建っている。

 広重はこの辺りの犀川を美江寺宿の浮世絵に描いている(上記【美江寺宿】参照)

 街道は犀川沿いを下り、JAの前を過ぎると右に急カーブする。すぐ県道156号線を左折して赤い橋を渡る(右の写真)

 渡った右側にある「瑞穂市西部複合センター」(写真で赤い橋の後ろの建物)内の2F図書館でトイレを借りる。丁度雨脚が強くなってきたのでホールで雨宿りし、わずかばかりのお菓子で昼食の代わりとする。


【中山道跡地】 (右側)  11:35〜12:10

 「センター」の隣は「大月浄水公園」なっていて、中山道の説明板と各宿場の石柱が立っていた。公園の向かいは「巣南中学校」。

 瑞穂市内の中山道は、幕府へ降嫁された皇女和宮の遺徳をたたえて建設された呂久(ろく)の「小廉紅園」から揖斐川の「呂久の渡し」、田之上(新月)にある鎌倉時代後期の自然居士作の千躰仏をまつった千躰寺、天保四年創建の美江寺千手観音堂前、美江寺宿の本陣跡地、明治三十五年再建の美江寺観音、明治十四年改名の美江神社を経由したのち、五六川を渡り、高札場跡地、寛文十年設立の本田代官所跡地、文化六年建立の本田地蔵堂(延命地蔵)がある本田地内を通過し、河渡宿(岐阜市)に通じていました。終戦直後までは、現在の呂久から田之上(新月)に至る両側には江戸時代初期に植えられた松並木が素晴らしい景観を保ち、当時の旅人の心に安らぎを与えていましたが、その後の土地改良等により、残念ながら当時の松並木は消滅してしまいました。

 また、中山道は東海道に比べ水の難が少なく、江戸へ嫁いだ姫君も頻繁に往来したため、別名「姫街道」と呼ばれました。

 写真は、京側から写したもので正面の建物が「巣南中学校」。江戸側から来る場合は、左奥から中学校の前を通り、この道を手前に進む。

 この道の入口左側に立っている案内板が「中山道跡地」の上記解説文で、松並木が残っていた戦前の写真が添付されていた。

 また、この道の両側に立っていいる石柱は、美濃路の宿場名が記されている。

 中山道はこの橋を渡って道路に出たら、すぐ左斜めの道へ入る。

 または、中学校前の道を真直ぐ進むとこの写真の右手写っていないすぐの所に右折道があり、その角には「小簾紅園」の案内板が立って いる。それには中山道の道筋が角度の付いた矢印で示されている。その案内板を右折してすぐ左斜めの道に入る。

 斜めに進んだ道の真ん中で「←小簾紅園」の案内板が出てくるが、これは車の為の案内板なので中山道を歩く人は無視して直進する。

 何も無い畑道で再び雨が強く降ってきたのには難渋した。

 やがて土手にぶつかるので左折する。往時はここから真直ぐ鷺田橋下を斜めに横断するような道になっていたが、現在は川が流れているので橋を渡るしかない。

 土手で左折したら「鷺田橋」の下をトンネルで潜り、すぐ左折する。次いで後ろに戻るように橋の上に出る道があるのでこれを登り、橋を渡る。


【良縁寺】 (右側) 12:40

 「鷺田橋」を渡り終える手前に左方向へ下りることが出来る歩道橋があるのでこれを利用して土手下の道に下りる。

 下りるとすぐ良縁寺に着く。

 「良縁寺」の前のY字路を写真で妻が行く方向に進み、その先の殆ど突き当たりに等しい道を右カーブして行く。


【明治天皇御小休所跡】  【長屋門】 (右側)

 蓮生寺の2軒隣に長屋門があり、その前に明治天皇御小休所跡の石柱が立っているのでここは格式の高い家なのだろう。

 明治天皇御小休所跡 」碑は、赤いポール(消火栓と表示)の後ろに立っている石柱。

 この長屋門の前に「←中山道」の案内があるのでここを左折。


【小簾紅園(おずこうえん)(和宮遺跡)】 瑞穂市指定史跡 (左側) 12:50〜13:05

 

 長屋門前を左折して、すぐ右折すると小簾紅園の裏出口に至る。園内にトイレあり。

 金紋先箱を先頭に、警護の武士団や、色鮮やかな装束の宮中人の絢爛豪華な大行列が蜿蜒と続いた。

 公武合体のため仁孝天皇の第八皇女和宮が、徳川十四代将軍家茂に嫁ぐため、中山道を御降嫁されて時のようすは想像を絶するものであった。

    惜しまじな 君と民との為ならば

       身は武蔵野の 露と消ゆとも

と悲壮な御決意をなされた宮は、文久元年(1861)十月二十日京都を出発され、同十月二十六日瑞穂市呂久の呂久川(現在の揖斐川)を御座舟でお渡りになられた。その時、対岸の馬渕孫右衛門の庭に色麗しく紅葉しているもみじをお目にとめられ、一枝お望みになった。これを舷に立てさせられ、玉簾の中からあかずに御覧遊ばされ

    おちてゆく 身と知りながら

       もみじ葉の 人なつかしく

                 こがれこそすれ

と御感慨をお詠いになられた。

 この御渡船を記念し、歴史ゆかりの呂久の地に和宮遺跡を保存したいと気運があがり、昭和の初め当時の郡上郡長、本巣郡南部の村長等多くの人々が並々ならぬ努力をされた。昭和四年四月その名もゆかしい「小廉紅園」が見事に完成し、除幕式が立派に行われた。

 その後、毎年春と秋の二回、宮の遺徳をしのび例祭が行われている。

 昭和五十一年十月には、皇女和宮百年蔡が秩父宮妃殿下の御来臨を仰ぎ、岐阜県知事を始め多数の御臨席を得て盛大に挙行された。

     昭和六十年十月 瑞穂市


【呂久(ろく)渡船場跡】 (左側)

 小簾紅園の中を通って正門に出ると呂久渡船場跡の説明板が立っている。

 往時は揖斐川(呂久川)が小簾紅園の前を流れていた為にここから船渡しになっていた。

 天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通がひんぱんとなり赤坂−呂久−美江寺−河渡−加納の新路線が栄えた。

 これが江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。

 慶長十五年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、十三を数え、中でも船年寄馬渕家には、船頭八人、助務七人が置かれていた。

 その頃の川巾は、平水で九○メートル、中水で一二○メートル、大水では一八○メートルに及んだといわれている。

 文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道をご降嫁の折この呂久川を渡られ、その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺めこれに感懐を託されて「落ちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」と詠まれた。

 後に、和宮様のご遺徳をしのび、昭和四年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした小廉紅園が建設され昭和四五年(1970)には巣南町指定の史跡となった。

 この地呂久の渡船場は、大正十四年(1925)木曽川上流改修の揖斐川新川付替工事完成によりこの地より東へ移り現在の揖斐川水流となり長い歴史を閉じることとなった。

 昭和四五年(1970)呂久渡船場跡碑建立。

     瑞穂市


【道標】 (左側)

 平野井川に架かる「新橋」を渡ると大垣市。渡って右折し土手の上に登った所に大きな道標『左木曽路、右 すのまた宿道』が立っている。

 更に登りきると道は左カーブしている。登りきった所で、橋を渡った対岸の神社の境内に一里塚跡があるとのことに気が付いた。一里塚好きだが、雨の中を下の道に戻るのも面倒くさくなり行くのをやめた。


【中山道三回り半】 (右側)

 このまま土手の上を行く道には歩道が無く危険なので、「←中山道」の案内に従って左下の道へ下りる。下りたら右折し、もう一度右折すると上の道と合流し県道の下を潜る。

 少し進むと右の植栽の中に中山道三回り半の石柱が立っているので、ここを左折してS字カーブしている「素盛鳴社」の前を進む。


【道標 聖観音菩薩】 (右側) 14:00

 「長徳寺」の前を進み次の十字路の右角に道標 聖観世音菩薩と彫られた石柱と祠が建っていた。


【中山道七回り半】 (左側)

 更に進むと両側田んぼの間にS字カーブが見えてきて、最初のカーブ左側に中山道七回り半の標柱が立っている。

 写真で、左のブロック塀前に立っている石柱が「中山道七回り半」の標柱。


【加納薬師如来の道標】 (右角)

 次の大きな十字路は渡ってすぐ「中山道→」の案内に従って右折する。次いでパチンコ屋の前を左折する。更に案内に従ってセンターラインの付いている道へ右折し、続けて左折する。

 この左折道の角に祠があり、「加納薬師如来 是より北八丁」の道標が立っていた。祠が薬師なのか北約900に薬師堂があるのかは不明だった。

 上記七回り半の標柱が立っている手前の軽い曲がりを含めると文字通りここまで7回半曲がったことになる。その前の三回り半も軽い曲がりを入れると3回半曲がっているので、往時の道も同じ曲がり方で名称の意味も理解できた。

 最後の曲がりから5分で養老線の「東赤坂駅」前の踏切を渡る。この駅で時刻表を見たら大垣行き電車が来るまで40分も時間があるので、雨だが赤坂まで歩くことにした。しばし無人駅のベンチで休憩(14:20〜14:35)。


【一里塚跡】 (左側)

 踏切を渡って5分進んだ左斜めの道に入る。左折して6分程で「白山神社」が左側に見えてくる。

 神社の直ぐ先の民家前に一里塚跡の石碑が立っている。


【道標】 (左側)

 一里塚からしばらく進むと、左後ろからくる国道417号線と合流する。その合流点を振り返ると交通安全の道標が立っている。

 道標には『左 なかせんどう、右 おおがきみち』と彫られていた。


【抗瀬(くいせ)川の蛍】  大垣市指定天然記念物 (右奥)

 合流したところで渡る橋が抗瀬川に架かる「赤坂大橋」で、渡る手前で右を見ると、抗瀬川の蛍と書かれた標柱と案内板が立っている。

 市内北西部に位置する南市橋町の中央を流れる抗瀬川とその支流である奥川には、ゲンジボタルが生息しています。

 ゲンジボタルは体長が十二〜十八ミリメートルにもなる我が国最大のホタルで、広く本州・四国・九州に分布しています。

 幼虫のときから清流に住み、カワニナやタニシなどの巻き貝を食べ、水中で過します。成虫は五月下旬から発生し、卵、幼虫、蛹、成虫と生涯を通じて発光します。

 戦後の急激な河川汚染や乱獲に伴い、一時期絶滅の危機に瀕していましたが、地元自治会らの尽力により環境整備が図られ、美しい姿が再び見られるようになりました。

     大垣市教育委員会


【赤坂宿】 日本橋から110里1町(432.1Km)、京へ25里33町 (101.8Km)
 天保14年(1843)で人口1,1129名、総家数292軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋17軒。

 赤坂宿は、かつて中山道六十九次の57番目の宿場町として栄え、東西に連なる町筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠屋17軒と商家が軒を並べ、美濃国の宿場町として繁盛していました。

 現在もその古い建造物や数多くの史跡が多く残されています。また、赤坂宿には谷汲街道・養老街道が通っており、分岐点である四ツ辻には道標が建てられています。

 明治年間には杭瀬川の豊富な水量を利用した舟運交通が最盛期を迎え、赤坂宿の東端にある赤坂港が重要な役割を果たしていました。

     本陣公園の案内板より

木曽海道六拾九次之内 赤坂 (広重)

赤坂宿の東を流れる抗瀬川に架かる土橋を描いている。

橋の袂に傍示杭、その後ろは赤坂宿。

赤坂港跡。


【赤坂湊跡】 (右側)

 

 「赤坂大橋」を渡った先に火の見櫓のモニュメントが見えてきて、そこが赤坂港跡である。

 現在は公園となっているが、江戸時代には抗瀬川がこちらを流れており、ここに河港を設けて、赤坂特産の石灰や大理石を積み出す港として賑わっていた。(上記【赤坂宿】の現代の写真参照)

 隣接する洋館はかつての警察署だが現在は資料館となっている。トイレは資料館の裏にある。

 常夜灯は往時の名残りである。

 左上の写真:後ろの白い建物が旧警察署。

 左下の写真:火の見櫓のモニュメントと常夜灯。

 1530年まではここが揖斐川の本流でした。明治になって500隻余の船が石灰を運ぶために利用していました。

 現在は親水公園として親しまれています。


【赤坂本町駅跡】 (左側)

 西濃鉄道一橋線の線路を渡った所に赤坂本町駅跡の石碑が立っている。

 この線はJR美濃赤坂駅から出て金生山の石灰石を積み出す貨物線だが、戦前の一時期(1930〜1945年)に旅客列車も運行されていて、ここに旅客専用駅があった。


【赤坂宿本陣跡】 (左側) 15:25

 踏切を渡ってほどなく公園があり、その入口右に本陣跡の石柱と説明板、その隣に『和宮之碑』と碑文がある。また、入口左に『中山道赤坂宿散策マップ』が掲げられている。

【本陣跡】

 当所は、江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣であった。間口二十四間四尺、邸の敷地は二反六畝ニ十九歩、建物の坪数は、およそニ百三十九坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。

 寛永以降、馬渕太郎左ヱ門に次いで、平田又左ヱ門が代々本陣役を継ぎ、天明、寛政のころ暫く谷小兵衛が替ったが以後、矢橋広助が二代に及んで明治維新となり廃絶した。

 文久元年十月二十五日、皇女和宮が、ここに泊した事は余りにも有名である。

     昭和六十年八月 大垣市赤坂商工会観光部会


【四ツ辻周辺】 

 次の十字路は「四ツ辻」と呼ばれ、中山道は直進、右は「谷汲街道」、左は「養老街道」となっている。

 ここは、谷汲の道標をはじめ、矢橋家や脇本陣など歴史的な建物や史跡が集積し、宿場風情が最も色濃く残っている場所だが、電車の出発時刻が迫っている為、詳しくは次回 赤坂宿(後半)に回す。この十字路を左折するとJR「美濃赤坂駅」に突き当たる。



 29回目の旅終了(15:30) 美濃赤坂駅入口四ツ辻

  JR美濃赤坂から大垣経由で名古屋まで行き、新幹線で帰宅。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、16.0Km(東鏡島バス停〜美濃赤坂駅入口四ツ辻)

          日本橋から百十里四町(432.4Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、18.6Km(東鏡島バス停〜美濃赤坂駅) 累計522.5Km

          7時間30分 29,580歩(東鏡島バス停〜美濃赤坂駅)

 

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