中津川宿・大井宿 (落合宿 → 恵那駅) <旧中山道23回目>
2007年10月21日(日) 晴
中津川駅7:40発の馬籠行き濃飛バスで「診療所下」下車。
昨日日没で中断した「おがらん橋」を7:55スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
「三留野・妻籠・馬籠・落合宿」 ← 「目次」 → 「大湫・細久手宿」
落合宿から気が付いたのだが、大井宿まで中山道の登り道には必ずと言っていいほどオレンジと白の細かい石が敷き詰められている道がある。中山道をたどれるように最近改修されたようである。ただの滑り止めで中山道以外にも施工されているのかは不明であるが、少なくとの今回の歩いた範囲では中山道だけと思われた。
大井宿の先にもあるのか分からないが、この道に出会えば中山道に間違いなかった。
中津川宿は上り下りが多いので、滑り止めにもなって有り難い。
【落合五郎城跡(おがらん様)】 (右側)
「おがらん橋」を渡ると中山道の道標が2方向に分かれていた。真っ直ぐ方向と、右に登って「落合五郎城跡」経由の道である。
木曽義仲の家臣で“四天王”のひとりといわれた落合五郎兼行が、美濃の勢力に備えてこの地に館を構えたとされる。地元では「おがらん様」の名で親しまれている。ここからは、縄文土器をはじめ八世紀から九世紀のものと思われる幣(ぬさ)の石製模造品、古代掘立柱建築遺構などが発見され、東山道と深いかかわりがあった場所であると推定される。
歴史の道推進協議会
【与坂立場跡】 (右側)
「おがらん様」の先で左に下りて上の写真のオレンジ道に戻り少し登ると国道19号線が見えてくる。
再び国道を渡るのであるが、登った所で国道を渡ることはできない。そのまま真っ直ぐ行き次の角で左折して国道下のトンネルを潜る。
反対側に出たら、青い中山道の道標に従って右折すると、ここからもの凄い登り坂になる。
朝一番の元気な時間にもかかわらずかなり息が上がってしまった程で、長い間歩いてきた人には心臓破りの坂となるだろう。
昨日は無理をしないで落合宿で終了して正解だった。
登り切って少し行くと今度はもの凄い下り坂になる。京側から来た人も江戸側と同じ苦しい経験をすることになる。登っただけ下りるなんて・・・
坂の上に住んでいて車を運転出来ない人や年寄りは、買い物等どうしているのかと人ごとながら心配になる。
この下り坂手前の立派な屋敷の前に「与坂立場跡」の石柱が立っている。
【子野(この)の一里塚跡】 (左側) 8:25
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急坂を下り小さな「五三沢橋」を渡るとまた上り坂。その上り始めの左側にややこんもりした所に一里塚の石柱が立っている。 |
【覚明神社・御嶽神社】 (右側)
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短い坂を登り切った所に二つの神社が並んで建っている。 写真で奥が「覚明神社」、手前が「御嶽神社」。
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【小野の地蔵堂石仏群】 (左側) 8:43
「覚明神社」から坂を下ると左側に出来たばかりの綺麗なトイレとベンチがある。
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その先「子野橋」を渡り少し行くと大きな枝垂れ桜(右の写真)が現れ、その下に石仏群(左の写真)がある。 中山道を通る旅人の心を和ませたといわれるしだれ桜の名木が境内にあり、街道まで枝が延びて趣があります。 ここは無縁の石仏を集めた所とも伝えられ、元禄七年(1694)の庚申塚や地蔵、観音像等が数多く祀られています。 また、文政五年(1822)の「南無阿弥陀仏」と独特な文字で書かれた高さ約2.0mの徳本行者の名号石があり、生き仏と言われた彼が文化年間(十九世紀初め頃)この地に逗留して、「称名念仏 」を布教したことを偲ばせます。 |
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【尾州白木改番所跡】 (右側)
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「第二地蔵堂橋」を渡り、X字路をUターンするように右後ろに登る。すぐ国道にぶつかるが地下道を潜って反対側に出ると「中山道上金かいわい」の説明板が立っている。 オレンジ道を6分ほど行くと大きな木の下に「白木改番所跡」の石碑が立っていた。 |
【芭蕉句碑(俗称 すみれ塚)】 (右側) 9:05
「白木改番所跡」のすぐ先左側にある「旭ヶ丘公園」の前を右カーブしたところに説明板と石碑が建っている。
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山路来て 何や羅遊かし 寿み蓮草 (やまじきて なにやらゆかし すみれぐさ) はせを
松尾芭蕉の句、貞享2年(1685)の3月27日ごろの吟、前書きに「京都より大津に出る道山路をこえて」と「甲子(かのえね)吟行、別名野ざらし紀行」にある句で、碑は大津出身の菅井家先祖が、ここから見た宿場のたたずまいが近似しているところから常に、その情景を孫、子に語り伝えてきました。三代菅井嘉兵衛高伯のとき郷愁にふさわしいこの秀句を選び、安永2年(1772)芭蕉の八十回忌に父祖の慰霊を兼ね、中山道に面して建てられましたが、30年前に保護するため、道筋からはずし、昭和53年(1978)3月、昔の面影を残すため、この場所に移しました。 大津へ出る山路にて詠んだ句で、『野ざらし紀行』中最も人々に愛された句の一つ。 山路に咲いている紫の可憐な花びらを見て、思い出の人に似て「何やらゆかし」となった。 |
【高札場・常夜燈・二十三夜塔】 (左側)
芭蕉句碑の所で左の小道を下りるとそのまま歩道橋に乗れて県道を渡れる。歩道橋を渡ったら右下の道へ行き最初の角を左に下りる。
句碑から茶屋坂である。
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(左の写真)歩道橋から撮った中津川の町並みで、手前からNTTのアンテナに向かっている道が中山道である。真中の大きな建物は「プラザホテル」で中山道に接している。私達が泊まった「タウンホテル」は、ここの交差点を少し左に行ったところにある。 (右の写真)茶屋坂の途中にある高札場・常夜燈・二十三夜塔である。ここが中津川宿の入口である。 高札場の所を右に折れるとほぼ真っ直ぐな宿内の町並みが続く。 |
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【高札場】
(前略)
この制札(高札)を建てた場所を高札場といい、中津川宿での高札場は茶屋坂にありました。
その位置は、この案内板に向かって左約40m隔てた道路左側にあり、高札は道に面して掛けられていました。
高札場に掲げられた高札は、年代によって、内容、札数等はそれぞれ異なりますが、ここに掲げられてあるものは、正徳元年(1711)に公布された高札の複製で、その文言は中津川宿本陣の記録に残っているものを今様に読み下し文にしました。
【中津川宿】 日本橋から85里30町(337.1Km)、京へ50里4町
(196.8Km)
天保14年(1843)で人口928名、総家数228軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋29軒。
木曽海道六拾九次之内 中津川 (広重) 中津川に架かる中津川橋を描いており、後ろは中津川宿と木曽の山。 |
現在の風景は、中津川橋を撮り忘れたため無し。 寛政年間(1789〜1800)には、町の長さ十町七間(約1.0Km)、家数百七十五軒、人口千二百三十人となり、中山道の中でも大きな宿場であった。 宿の町筋は、江戸方より淀川町、 本町をはさんで京方筋には旅籠屋、馬宿、茶屋その他物を商う店、職人の家も並び人馬の継立と休憩、宿泊を中心とした町があり、江戸方にかけては商家を主とした町並みがあった。 今でも鉤の手に折れ曲がった横町あたりには古い伝統を受継いだ宿場町の面影が残されている。
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【すや本店】 (左側)
プラザホテルが建っている「新町」交差点を渡った所にある『栗きんとん』で有名な老舗。
お土産に6個入り(1,365円)の栗きんとんを購入。純粋に栗だけでできている上品な和菓子である。
創業は元禄年間。江戸からきた赤井九蔵という武士が、この宿場町に住みつき、「十八屋」の屋号で酢の店を開いたのが始まりで、この酢屋が百年後に菓子屋に変わったとのこと。
膝栗毛の弥次さん喜多さんが江戸への帰り道に中山道六十九次を歩いたのと同じ頃、享和二年(1802)にここを通った蜀山人大田南畝は、『壬戌紀行(じんじゅうきこう)』の中に「あんもち松屋と云るあり・・・二八うどんそばと云るもあり・・・十八屋と云る家三戸斗(ばかり)見えたり」と書いている。その「十八屋」のひとつが「すや」の前身。
【桂小五郎隠れ屋跡】 (左奥) 9:20
「すや」のすぐ先の左側に立っている「桂小五郎隠れ家跡」・「この奥(料亭やけ山跡)」の案内板の矢印が示す細道を奥まで入って行くと、写真の建物のあたりが料亭「やけ山」跡だったという説明板が出てくる。 文久二年(1862)六月、長州藩士桂小五郎(木戸孝充)は、京都に向かう藩主毛利慶親公の行列を待つ間、幕吏の目をのがれて中津川の平田門人間秀矩(はざまひでのり)や市岡殷政(しげまさ)の好意で密に「やけ山」に隠れ待機した。 やがて「中津川会談」三日の結果。桂の主張によって長州藩は、尊王倒幕へと決断した。明治変革の秘史を物語る場所である。 |
【間家大正の蔵】
「桂小五郎隠れ家跡」立札のすぐ先にある。
表門からながめていたら、高齢の管理人が出て来て長々と説明を始めた。恵那駅から電車に乗る予定で指定券まで取ってある為、一箇所で長居したくなかった。しかし一所懸命説明してくれるので聞いていたが、年寄りの説明はくどくて参ってしまった。おかげでこの先少々焦って歩くことになってしまった。
かつては3000坪の土地に8つも蔵があったような広大な屋敷だった。現存する蔵はその内の一つである。
この「間家大正の蔵」(旧間家倉庫)は大正6年頃に建てられた鉄筋コンクリート構造の建物で、平成4年11月に間家から市に寄贈された後、市の有形文化財(平成7年2月16日)に指定されています。
蔵の所有者であった間家は、江戸時代の初め頃に中津川村に移り住み、中津川宿
蔵の構造的特長としては、明治以降の近代的工法と従来の土蔵造りが混在した建築方法が用いられ、当時の鉄筋コンクリート構造の過渡的な状況を如実に現しています。
敷地内の庭園は一部失われ小さくなっていますが、ほぼ当時のままの姿を伝え豪商の庭園らしい雰囲気を持っています。また間家の別荘に措かれていた織部燈籠(中津川市指定文化財)が庭園内に移転されています。
パンフレットより
【間家敷地】
この倉庫は所有者であった間杢右衛門の家の敷地は現在の中津川郵便局を中心として約3,000m2ありました。
家は大きく中山道に面して12間、9間の総二階の母屋と、客人を泊めるための庭園付の座敷からなり、この他には8つの土蔵や倉と4つの作業所(物置)、茶室等が設けられていました。
母屋は昭和28年頃に取り壊され、現在は指定された「倉庫」と、移築された「茶室」、「庭園」が残るのみです。
「間家大正の蔵」として公開されている倉庫は屋敷の西端にありました。
パンフレットより
開館時間/9:30〜17:00 休館日/毎週水曜日・年末年始(12月27日〜1月5日) 入場料/無料
【往来庭】 (右側)
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大正の蔵の向かいにある「町の博物館」とのことだが、表から見ただけで入らなかった。 当時の趣を現代風にアレンジした憩いの場とのこと。
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【中津川脇本陣跡】 (左側)
「四ツ目川橋」を渡ったすぐ先のNTT脇に石柱のみ立っている。
【中津川本陣跡】 (右側)
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NTT向かいの車庫の前に黒塀と瓦屋根を模した所に石柱と説明板のみ立っている。 表庭の左手に中門があり、その左に番所も置かれ、庭は高塀で囲まれていた。玄関の奥には玄関の間、ついで三の間・次の間・中の間・上段の間へと続いた。上段の間は九畳で、床の間を設け、備後表で大紋縁付きの上畳が二畳置かれていた。上段の間には湯殿、上り場、雪隠などがついていた。裏も庭となり高塀で囲われ、御退路の門戸があり、非常の時は近くの大泉寺へ避難できた。 |
【庄屋跡(曽我家住宅)】
NTTの隣にある古い建物。
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塀に掲げられていた説明板は字がかすれて判別不能の箇所があるので割愛するが、本陣・脇本陣の説明と主人の名前が書かれており、庄屋の項では肥田九郎兵衛の住宅で登山家ウエストンも泊まったとのこと。また、肥田九郎兵衛は、「夜明け前」に小野三郎兵衛の名で登場する平田門人であったことも書かれている。 建設年代は不明であるが、構造体の部分は江戸中期にさかのぼると推定される。 曽我家住宅は、江戸時代においては旧中津川村の庄屋・脇本陣を務めたこともあった肥田家(田丸屋)の建物であり、やや数奇屋がかかっている「上段の間」の細工がよく「上段の間」からの庭の眺望も素晴らしい。 明治中頃、曽我家が入居し、医院として用いて近代医療に貢献された。 現在は、曽我家の専用住宅となっている。 |
【松霞堂(可児家)】 (右側)
庄屋の斜め向かいの家。
江戸期のこの家は、米屋であったという。傾斜地を利用して米を搗き、雨戸をあけるには、二つ折りにして上へ持ち上げ、固定するもので、柱や梁とともに今も残っている。また、屋根裏には隠し部屋が残っており、博奕部屋であったという。裏庭に残る石垣は、桝形ができた頃のもので、川上川(中津川)の氾濫にそなえたものであった。ここの字名を下川原という。
当家は元々苗木藩士であった家系で、裏庭には樹齢150年以上の松の木があり、この松の木に霞がかかったさまから、松霞堂と呼ばれる表具店を営む。
【桝形と家並み】
中津川宿は江戸日本橋から数えて四十六番目の宿駅で、本陣、脇本陣、庄屋、二軒の問屋場が置かれていた。
本陣は武家が常に軍旅にあるとの考えから、主人が休泊するところを本陣といい、家臣が宿泊する場を下宿といった。
本陣が置かれていたところは、中津川宿でも最も微高地にあり、水害などの災害にあうことはなかった。
大名などが休泊する場合は、常に敵の攻撃に対する防御や退却方法が考えられており、町々には自身番も置かれていた。桝形はこのために人為的に造られたもので、本陣や脇本陣のある宿場の中心部が直線的に見通すことができないように造られていた。
横町の角を曲がり、下町へ通じる角を曲がるという鉤形の道の造りを桝形という。
【十八屋(間家)】 (左側)
道は桝形になり、左折すると次々と古い建物が並んでいる。旅籠。
江戸中期に園田大学が建てたと伝えられおり、上がり框や天井の梁などは当時そのままである。屋号を十八屋山十といい、中津川の豪商であった間杢右衛門家の流れをくむ家で、そこより分家した間五兵衛家から出た間武右衛門が移り住み、旅籠を営んでいた。当時の記録によると、旅籠は宿役人しか営むことができなかった。
元治元年(1864年)十一月水戸天狗党が中津川を通行した際、和田峠の戦で負傷した若き武士を、武右衛門が当家の隠し部屋に匿うが、病没した。当家にはその若者の遺品が今も残されている。
皇女和宮の下向のときには、京都御供が宿泊しており、その時の記録には当家の間取りなどが克明に調べられている。
【天満屋(吉井家)】 (左側)
格子や軒先の低さ、瓦のない屋根など中津川宿の家並みを彷彿とさせるつくりの商家で、築後150年以上は経ているものと思われる。二階部分がないため、どの部屋にも明り取りの天窓が付いている。
古井家は馬籠の出で、天満屋という小間物を商ってきた。天満屋の謂れは、中川萬兵衛が古事を記した「中川旧記」によると、当家の裏に天満宮が祀られていたことによるもので、裏庭には、丸い大きな切石づくりの天満宮の井戸が今も残されている。
「中川旧記」には、次のように記されている。「川に神様が流れてきた。子供が拾いあげ、毎日願い事をしていた。近所の者たちが、これを見て、祠を造ったという。」これが天満宮である。
寛文四年(1664)になって東
【白木屋(横井家)】 (左側)
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江戸時代の面影を残す建物。卯建も残っている。 江戸時代の面影を如実に残す建物。この家は、当家の先祖宮大工横井弥左衛門(藤原朝臣真行)が天保十三年(1842)に建てたもので、百五十年以上を経過している。その時の施主は、山科屋遠山林蔵という。 四畳ほどの中二階が今も残されている。ここへは、梯子を懸け、中二階に登ると梯子を取り外し鉤に収納すると外からは部屋のあることが全く分からない仕組みになっている隠し部屋である。 遠山家は明治末期頃まで住んでいたが、現在は駅前の「山品」といううなぎ屋である。横井家が購入し、大正年間には足袋の注文製造販売を商っていた。 |
【旧中川家(杉本屋)】 (右側)
中津川村や子野村の庄屋であった中川萬兵衛の屋敷の一部。中川家の屋敷は、ここより東側一帯にあり、広壮な屋敷であったものと思われる。歌舞伎絵で著名な中川とも画伯は、この中川家の出である。この屋敷は南に向かって西生寺下の土蔵がある辺りまで建っていた。現在東西に延びる旧
明治の代になって原作吉が購入し、呉服商を営んでいたが、大正年間には薪炭、荒物商となり、現在に至っている。昭和三十年代の初め頃までは江戸時代の面影を残す帳場があり、これを舞台に映画「青い山脈」のロケが行われた。
【卯建のある家(吉本屋・太田薬局)】 (左側)
この二軒は長屋になっており、中川家の一部であった。卯建は隣家からの類焼を避けるために設けられた防火壁で、隣家との境に高い壁をつくり、その上端に小屋根を置いた。「うだつがあがらない」という言葉は、裕福な家でなければ卯建を上げることができなかったことから転じたもので、富裕者のシンボルであった。卯建は中津川でも、ここ横町通りの数軒しか見られなくなり、宿場町の面影を今に伝える貴重な財産である。
道角にある石の道標は恵那神社への道しるべで、慶應元年(1865)に建てられたもの。式内とあるのは、延喜式(10世紀初め)に記されている神社のことで、格式のある神社だけに限られている。恵那神社へ向かう道を川上道(かおれ道)といい、細い野道であった。
【はざま酒造】 (左側) 9:57
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桝形を右折した所にある。清酒『恵那山』の蔵元。 |
【中津川宿の家々とにぎわい】
中津川宿の家々はすべて板葺きで、屋根には石がのっていた。
当時の中津川宿の様子を記した「壬戍紀行」(太田蜀山人記)によると、次のように記している。
「駅舎のさきにぎはゝし すべて此わたりより家居のさまよのつねならず 屋の上には大きなる石をあげて屋ね板をおさふ寒さ甚しければ瓦を用ひがたく 壁の土もいて落つるにや板をもてかこめり」とあって、余りの凍みに瓦が割れてしまうことから、すべて板屋根であった、という。本陣とて例外ではなかった。
また、寛政年間(1800年頃)に記された「濃州徇行記」によると「是は豊穣なる処にて商家多く町並み作りよし」という街並みで「三八の日に市立て」とあってこの地方の商業の中心地であった。
【下町かいわい】
中津川宿の西口にあたるここ下町から、広重が画いた「中津川」(旧・川上川)までの中山道の道筋は現在はなく、昔の姿をほとんどとどめていません。
時の道中奉行により、文化三年(1806)に完成した「分間延絵図」には見られないが、かつてこのあたりにも高札場があったと伝えられています。
【駒場村の高札場跡】 (左側)
「中津川橋」を渡り、突き当りに「津島神社参道」の石碑が建っている所で中山道の青い標識に従って左折する。
県道を横断して再び青い標識で右折する。
曲がるとすぐ、3枚の小さな高札が民家の木壁に掲げられている。
【小手 ノ木坂】
「上宿橋」を渡ると目の前に階段が現れてくる。登り口に「小手ノ木坂」の石碑と「坂本駅」の説明版が立っている。
【坂本駅(
古代、近江と陸奥を結ぶ官道として拓かれた東山道は、都から美濃の国・坂本駅を経て信濃の国阿智駅へと通じていた。この二駅間は、距離が長い上に急峻な神坂峠越え(標高1595m)を控え、道中でも名の知れた難所であった。このため両駅には特例として通常の二〜三倍、三〇疋の駅馬が用意され、また、輸送にあたる駅子にも免税の恩典が与えられていた。その坂本駅が置かれていた場所は現在特定されていないが、この辺りであったと思われる。
歴史の道推進協議会
【双頭一身道祖神】
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小手ノ木坂はS字になっているが、階段を登ればショートカットできる。
登りきった所に沢山の石碑と共に胴体が一身で頭が男女二人の珍しい道祖神が建っている。 文化13年(1816)に建立され、男女別々の頭部を持ち、肩から足元にかけて一体となっている珍しい形態の石像物である。 |
【上宿の一里塚】 (右側)
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道祖神のすぐ先にあり、北側だけが復元されている。 一里塚は旅路の行程の目安を与えるとともに、休息の場としても利用され、市内には4カ所あった。 この上宿にあった塚は、江戸から数えて85番目にあたり、両側とも榎が植えられていた。 現在南側の塚は消滅し、北側にあった塚が昭和9年に復元されている。 規模としては往時の約1/3の大きさである。
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【小石塚の立場跡】 (左側)
一里塚先の左側民家の前にご自由にと書かれた箱の中に中山道のパンフレットが置かれていたので有難く頂いた。
坂を登ってコンビニ「タイムリー」前の植木の中に立場跡の石碑のみ立っている。
【嵐讃岐(あらしさぬき)の供養碑】
コンビニ敷地外れの一段高い所に石碑が建っている。
嵐讃岐は木曽家の有力武将の一人で、千旦林に居をかまえ、千旦林八幡宮(八幡神社)の再建につくした人と伝えられている。
この供養碑は、寛永3年(1626)に嵐讃岐を供養するために建てられたもので、墓石様式の変遷をあらわすものとして貴重であり、岐阜県下でも希な様式である。
【中山道案内】
「嵐讃岐の供養碑」の傍、国道に下りるところにあった案内板。
現在地付近は、山村甚兵衛等木曽衆の領地であった千旦林村(村高五五二石)と手金野村(村高四四六石)との境になっていました。
ここから大井宿に向かって約四百メートル間は、道路改良のため昔の中山道の面影を残していません。
近くの中山道筋には茶屋等が営まれた小石塚の立場跡があり、寛永三年(1626)に立てられた板碑も移設されています。
【六地蔵石憧(せきどう)】 (右側) 10:57
「嵐讃岐の供養碑」左脇の階段を降りて国道に出たら中央道中津川IC入口である。そこのバス停で右折しJR線とインター進入路の壁に挟まれた道を行く。コンクリートの壁が終わっても国道に出ずに真直ぐ行き「六地蔵橋」を渡ると説明板と共に六地蔵が彫られた石憧が建っている。
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寺院や墓地の入口に置かれる石佛がこの六地蔵であり、ここでは南へ百米程参道を入った処に大林寺(現中洗井)が寛永十年(1632)に創立しています。この石幢は大林寺の入口として寺の創立二四年後、明暦三年(1657)に造立されています。中山道から寺の分岐点に立てられたのは、その入口としての役割と共に、当時しばしば見舞われていた水害を佛にすがって避けることと、極楽往生を願うものでした。その上中山道を行き交う旅人が道中の安全を祈り、心の安らぎを得ていく為でもありました。 地蔵菩薩は古くから多くの庶民にしたしまれ、広く信仰されている佛像であります。釈迦入佛後、無佛の間この世に現れて衆生を救済する菩薩とされ、常に六道を巡って衆生を救い極楽に行けるよう力を貸してくれると信じられていました。更に六ツの分身を考えて六地蔵としての信仰が平安末期に始まったといわれています。石幢は六地蔵信仰と結びつき龕部に六地蔵を彫るものが多く、室町末期から普及していますが、この地域では数少ないものの一つです。 平成二年二月一〇日 坂本地区文化遺産保存会 |
【千旦林村の高札場跡】 (右側)
右手坂本神社八幡宮前を過ぎた畑の中に石柱のみ立っている。
【将監(しょうげん)塚】 (右側) 11:20
やがて小さな石碑が建っているところで道は二又になるので左の道を行く。
左側「中平神明神社」の説明板が立っている先に「将監塚」の大きな説明板が現れる。後ろに小さな燈篭が建っている。
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岡田将監善同(よしあつ)は慶長十八年(1613)より寛永八年(1631)まで二代目美濃代官でありました。 善同は織田信長に仕え、加藤清正に従って加藤姓を名乗ったこともありましたが、関が原戦では東軍(徳川方)に属しました。 慶長六年(1601)六月采地五千石を与えられ可児郡姫村に住み慶長十年から初代美濃代官であった大久保長安の配下であったが、長安の死去により二代目美濃代官になりました。 当時大井村には名古屋築城の際の「材木番所」があり、木曽材持出奉行として当地方に駐在していたようです。 善同の子善政も寛永八年(1631)父の死後、美濃代官を勤め、正保二年(1645)には幕府の命により美濃国図を調整して提出しました。 恵那郡史には、坂本千旦林に岡田将監の墓と伝えるものが間地三ツ屋地内にあって、旧中山道の北の一小丘で五輪の石塔(実際は宝筺印塔)が建っている。 これを「ショウグン塚」と呼んでいるが「将監塚」の訛伝であろうと記されているし併せて、この付近には将監乗馬の塚と云うのがあり他名を岡田ということも記されています。 平成元年八月二十六日建之 坂本地区文化遺産保存会 |
【三ツ家の一里塚跡】 (右側) 11:25
開けた所の右奥に石柱のみ立っている。
【坂本立場跡】 (右側)
坂を登ってやや広めの道を横断した右角に石柱のみ立っている。そのまま竹林の道を下る。
【茄子川村の高札場跡】 (左側)
「坂本橋」を渡って少し行った一段高い畑の中に石柱のみ立っている。
【尾州白木改番所跡】 (左側)
畑の中に説明板と石柱が立っている。
この番所がいつ設けられたかは詳しい記録はないが、尾張藩が享保十六年(1731)茄子川下新井に「川並番所」を設置した記録があるのでこれに対して設けられたものであろう。
寛政元年(1789)の「中山道筋道之記」には「番所錦織役所支配」とあります。尾張藩の直轄地であった木曽山から採伐した材木の輸送は重量材(丸太類)は木曽川を利用して流送し、軽量材の榑(くれ)、土居(どい)等白木類は牛、馬による駄送の方法が採られていました。
木曽川筋には各所に「川番所」が、中山道には「白木改番所」が設けられ、抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行われていました。
これ等の施設は明治四年(1871)廃藩置県の措置によって廃止されました。
平成六年四月十五日建之 坂本地区文化遺産保存会
【茄子川小休所(篠原家)】 (左側) 11:45
間の宿である茄子川の集落に入って県道410号線道標の先にある。
正式な門の前には「明治天皇茄子川御少休所附御膳水」の石碑が建っている。
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篠原家は、加賀前田家の重臣篠原一孝の子、弥右衛門が、17世紀の初め頃当地に移り住んだことに由来します。 篠原家の当主は代々「長八郎」と名乗り、茄子川村の村方役人、尾張藩の庄屋、戸長等を歴代にわたり務めていました。 ここから中津川宿へは一里23町(約6.4Km)、大井宿までは一里(約4Km)の距離にあり、家の脇には中山道から遠州秋葉道への分岐点を示す大燈籠が置かれています。 篠原家は中山道通行時の休泊施設として本陣や脇本陣と同様な役割をにない、様々な文人、墨客の足跡も残されています。 和宮、明治天皇が御小休した建物が現存し、休憩した部屋、厠、表門等は当時のままに保存されています。 |
【茄子川(なすびがわ)村】
江戸時代初期の茄子川村は、御三家筆頭の尾張徳川家・その給人の山村氏(木曽方)・千村氏(久々利方)・それに旗本馬場氏ら八名の入相支配地であり、村高千三百六十八石余は、この付近でも大きな村の一つであった。
中山道は村内を東西に縦貫し、
ここから、中津川宿まで一里二十三町十一間(約6.4Km)、大井宿までは一里(約4Km)の距離であった。両宿間二里半六町(約10.5Km)、中津川・落合両宿間一里弱とくらべると、長丁場のため、ここに茄子川御小休所(篠原家)がおかれ、大名・姫宮通行などの休憩所の役割を果たした。
【茄子川焼】 (左側)
坂を登り、更に下った左側民家の壁に説明板が立てかけられていたのは、支柱が折れてしまった為か。そのうち修理して街道筋に立てられるのだろう。
茄子川焼は天正六年(1587)の頃、瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場に来て、施釉(ゆう)陶器を焼いたのがはじめといわれています。
天保三年(1832)広久手の丹羽九右衛門が先年より始めた陶器作りの改良を図り、土岐郡妻木村の加藤喜兵衛を師匠に迎えて磁器製造を起こしました。同八年篠原利平治が同じ広久手で陶器作りをはじめ、同十四年には諏訪の前で安田新吉が土地の人々に呼びかけて、磁器製造を興しました。
茄子川焼が発展したのは弘化二年(1845)篠原利平治が越中(富山県)から来た水野粂造と共同で五室の連房式登り窯を築いてからであります。人気があったのは陶土になまこ釉をかけて焼成した、独特の風雅な味をつくり出した奥州の相馬焼に似た「茄子川相馬」でありました。
明治に入って窯株制度が廃止になると、鯉ヶ平の藤井久左衛門が鈴木栄八と共同で、九谷の職人を呼び寄せて、茄子川ではめずらしい九谷風の茶器などを焼きました。
販路は木曽、伊奈、松本方面が多く、中山道を旅する人々には峠の茶屋や窯元でも売っていて、村の重要産業として明治末期まで続きました。
平成元年八月二十六日建之 坂本地区文化遺産保存会
【中山道石碑】 (左側)
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登り坂手前に「中山道 是より大井」と彫られた大きな石碑が建っている。 ここから ここの この先、大井宿寺坂上にある「中山道大井村内の図」より |
【中山道岡瀬澤(碑)】 (左側)
「広久手坂」登り口右側にかわいい馬頭観音を見て進むと、「岡瀬沢交差点」に共に大きな石灯籠と「中山道岡瀬澤」の石碑が建っている。
【岡瀬沢】
江戸時代の初期には、岡瀬沢新田とか大井村枝郷といっていたが、次第に中山道沿いに家が集まり、茶屋や馬宿もできた。
この先、大井宿寺坂上にある「中山道大井村内の図」より
碑のすぐ先の濁川に架かる「筋違橋」を渡るとやがて「甚平坂」に至る。
【筋違橋】
この橋は長さ六間・幅二間で、欄干付の板橋であった。川に斜めに架けてあったので筋違橋の名がついた。
この先、大井宿寺坂上にある「中山道大井村内の図」より
【甚平(じんぺい)坂】 12:27
「甚平坂」を登って行くと頂上間際にある「甚平坂公園」の下に説明板が立っている。
説明板から公園まではショートカットできる道がある。説明板の右側にある会社入口の自販機は通常120円の飲料が100円だった。
公園内にはトイレや屋根付きのベンチと広重が描いた「大井宿」の浮世絵を彫った石碑がある。下記「大井宿」の写真参照。
「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道は・・・」(夜明け前)
中山道も木曽路を過ぎて馬籠宿から中津川宿・大井宿に来ると、小高い丘をいくつも横切って進む道となり、起伏は多いが空が広く展望の良い道となり、恵那山や御嶽山を見続けて歩くことのできる道となる。そのため昔の旅人はこの道を「尾根の道・眺めよし」といっている。
ところがこの甚平坂は距離は短いが急な坂道で、長い間旅人には嫌われていたが、明治になってようやく少しなだらかな坂道となった。
明治十三年六月、明治天皇が伊勢方面視察のために中山道をお通りになることになった。そこでこの地の人たちは総出でこの坂の頂上を二メートルほど掘り下げて坂の傾斜を少しなだらかにした。それによって天皇のアラビア馬二頭だての馬車も無事に坂を越すことができた。
甚平坂は根津甚平是行(禰津次郎惟之)に由来する名称である。
根津甚平は鎌倉時代頼朝の家臣で信濃根津の郷の城主であった。その頃大井に長興寺という寺があり、一体の観音仏をまつっていた。この観音様は昔聖徳太子が百済の香木に彫ったものといい、太子は法隆寺の夢殿に安置してまつっていたが、ある日突然空に舞い上がり東方に飛び、大井の里へ来た。里人は是を寺に移したが、「総ての願いに御利益があるが特に子供に恵まれない人が祈るとすぐに子宝が授かる」と評判になり、ひとびとはこの観音を「妊観音」といった。
根津甚平は数々の忠功があったが四〇歳になっても子供がなかった。ある日この話を聞いた甚平はさっそく妻と共に大井の長興寺へやって来て妊観音に七夜の祈りを続けた、そして観音の霊光を得て長子根津小次郎惟清を授かることができた。
喜んだ甚平は長興寺の和尚と相談して「昔行基が創建したという長谷教寺を再興する」こととし、寺の名を稲荷山長国寺とした。そして甚平の守り本尊の運慶作の地蔵菩薩と夫人の聖観音等を寄進したという。
今長国寺には根津甚平の「長国寺殿根津是行居士」の位牌と乗馬に使用した馬の鞍と鎧が残っている。(長国寺縁起による)。
岐阜県
【馬塚と犬塚】 (左側)
甚平坂説明板から公園へ登るショートカット道を登りきった左側に立っている。
むかしの信濃国の桔梗が原に八重羽のきじという化け鳥がいた。
口ばしは槍のようにとがり、羽根は刃のように鋭く、羽風にあたると災いが起きるといい、里人や旅人のうちで命をうばわれる人が多かった。
困った鎌倉幕府は根津甚平に化け鳥退治を命じた。甚平は馬に乗り、犬と鷹を連れ、多くの家臣と背子をひきつれてきじを追った。
きじは羽音高く飛び立って西の空に姿を消したが、数日ののちにこの坂に追いつめた。しかし、馬はここで倒れ、犬と鷹はなおも追い続けたが、犬は日吉(現
岐阜県
【関戸一里塚跡】 (左側) 12:40
甚平坂を登りきった所に石碑のみ建っている。
江戸日本橋より八十七里目の一里塚で、塚の上には松と榎が立っていたが、大正の頃に取り払われ消失した。
この先、大井宿寺坂上にある「中山道大井村内の図」より
【中山道大井宿 上宿石仏群】 (右側) 12:45
突き当たったT字路を左に下りて、中央高速道の上を渡ったら県道を行かずに真直ぐ方向の階段を降りる。すぐ先、寺坂の途中に石仏群。
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昔の人は神仏に病気の治ることを祈ったり、村境に地蔵菩薩や塞神を立てて、病魔が村に入らないように願うことが多かった。 ここは上宿で大井宿を一望できる位置である。そこで宿の人達はここを宿場外れとして数多くの石仏を立て、病気平癒とともに悪病や悪人の侵入を防ぎ、宿内の無事息災を祈ったのである。 特にここにある痰切地蔵は「がいき(風邪)をひいたらたんきり地蔵さまを拝め」といい昔から多くの参拝者があった。 一番左側に立つ碑の徳本は、紀州(和歌山県)日高で宝暦8年(1758)に生まれ、文化・文政(1804〜1830)の頃この地方に来て念仏教化を行い、多くの信者を得た高僧である。 恵那市・恵那市教育委員会 |
【大井宿】 日本橋から87里30町(344.9Km)、京へ48里4町 (188.9Km)
天保14年(1843)で人口466名、総家数110軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋41軒。
中山道大井宿は、江戸から87里(344Km)46番目の宿場で、京へは47里(188Km)のところにある。中山道と名古屋・伊勢に向かう下街道の分岐点である槙ケ根追分に近く、中山道の旅人のほか、伊勢参り・善光寺参りや尾張商人、尾張に向かう木曽の牛馬の荷などが通り、美濃16宿中随一の繁栄を誇っていた。
宿は東から横町・本町・竪町・茶屋町・橋場という5町に分れ、東の高札場から西の大井橋まで6丁(710m)であった。それぞれの町は、街道が直角に曲がるいわゆる桝形によって区切られていた。大井宿ではこの桝形が6か所もあった、中山道随一の整然とした町割りを形成していた。
宿内には本陣や脇本陣・問屋のほか・旅籠屋・茶屋・商売屋など天保14年(1843)の記録では家数110軒(466人)が軒を並べていた。本陣、脇本陣は大名や公家の姫君が宿泊するため門構えと玄関を備え、書院付き上段の間のある豪壮な建物であった。旅籠屋は41軒あり、寺社などの参詣費用を積み立てる講の指定宿である講宿や近江商人の定宿も多くあった。旅籠屋の中には門構えや式台、特別な客室のある大型の旅籠屋もあって一般の旅人ばかりでなく武士も利用したと思われる。草鞋や蓑、砂糖もち、果物などを売る茶屋は8軒あった。宿場は旅人が宿泊するだけの場所でなく、街道を往来する諸荷物の集積、中継という重要な役割をになっていた。この役割を果たすのが問屋で、大井宿には本町に上下二つの問屋があり、半月交代で宿役人が詰め、仕事の指図をしていた。
大井宿の西側を流れる阿木川にかかる大井橋は長さ23間(41m)、幅2間(3.6m)の欄干付きの木橋であった。この橋ができる天保年間以後は阿木川の真ん中に石の小島を作り、そこの両側から橋をかけて川を渡っていたので中島橋ともいった。
木曽海道六拾九次之内 大井 (広重) 甚平坂を登ってくる馬子と旅人を描いている。 |
甚平坂頂上付近の休憩所で、左図の石碑が建っている。 右下に見えるのが中津川から登ってくる坂道。 |
【大井宿高札場】 (右側) 12:50
明智鉄道のガードを潜り、五妙坂の途中に高札場が建っている。ここは大井宿の東の入口である。
高札は制札ともいい徳川幕府が、農民や商人を取り締まる基本的なきまりを公示したものである。
高札場は村のうち人通りの多い目につきやすい場所に建て、幕府の権威を誇るように石垣や土盛りを築き、ときには矢来で囲むこともあった。そして管理の責任を藩に命じ、村人にきまりを厳しく守らせ、付近の掃除や手入れもさせた。
高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、年号の変わるたびに行われたが、あまり頻繁であったため、8代将軍吉宗以後は書き換えず、正徳元年(1711)5月付の高札が幕末まで維持された。そして慶応4年(1868)明治新政府は新しい高札に掛け替えたが、明治3年に高札制度を廃止した。
大井宿の高札場はこの坂の上にあり、高さ2間(3.6m)巾2間半(4.5m)の大型のものであった。(この高札場は原寸を3/4に縮小したものである。)
【大井宿本陣跡】 岐阜県史跡 (左側)
「延寿院」前の1番目の桝形を左折すると本陣門が見えてくる。
大井宿は中山道46番目の宿場で、整然とした6箇所の桝形のある独特の町並みをしていました。最盛期には45軒余の旅篭があったといわれています。 本陣とは大名や公家、幕府の公用役人などが休泊するところで門構えや玄関、式台があり他の旅篭屋とは大きく違っていました。本陣は各街道の宿場に1軒あるところや2軒あるところなどがありました。本陣が満員の時は本陣に準じた施設である脇本陣に休泊しました。大井宿本陣は、残念ながら昭和22年に母屋部分は火災で焼失してしまいましたが、幸いにも本陣の表門周辺は焼け残り、安土桃山様式を伝えるこの門を今に見ることができます。表門は他の本陣に比べるとやや小ぶりですが、屋根は反りをもたせた瓦葺で破風板や小屋組みの細工や彫刻も丁寧に仕上げられています。門の傍らに立つ松は樹齢300年を越すと思われる老松で幾多の大名や公家の姫君達がこの門をくぐったのを見ていた事でしょう。 平成4年12月 |
【大井村庄屋古山家(ひし屋
資料館)】
本陣跡を右折(2番目の桝形)すると本町。曲がった所にあり、入口で大井宿の資料が貰える。
【大井村庄屋古谷家】 古谷家は江戸時代に屋号を「菱屋」といい、酒造と商売をしていました。そして享保年間から幕末まで約一五〇年間、大井村の庄屋を勤めた旧家である。 屋敷は間口一〇間半(約19m)・奥行三五間(約63m)の敷地の中に、一四畳・一〇畳・八畳の部屋など合計八室、それに土蔵をもち広大な建物であった。 今の建物は明治初年に上宿より移築したもので、前面に太い格子をはめ、はねあげ式の大戸が付き、奥座敷には床の間・違い棚・書院・入側廊下のある一〇畳二間が続き、江戸時代の雰囲気を色濃く残している。 |
【中山道ひし屋資料館】 豪壮な町屋建築の典型
中山道ひし屋資料館は、古山家住宅を改修・復元し、大井宿の町屋を体験してもらう施設として平成12年9月に開館しました。
建物そのものを最も重要な展示品ととらえ、整備にあたっては、過去の改築の痕跡などに注意を払いながら解体修理を進め、可能な限り建築当初の状態に近づけています。
パンフレットより
入館料/200円 開館時間/9:00〜17:00 休館日/月曜日、祝日の翌日、年末年始(12月28日〜1月3日)
【宿役人の家】 (右側)
史料館の斜め向かいにあり、写真では手前から2番目の家。
林家は文化二年(1805)に本陣家より分家して以来、明治に至るまでの六〇余年間、代々大井宿役人の問屋役を務め、名字帯刀を許された家柄である。 当家は間口七間半奥行二五間あり、一一・一〇・八・六・四畳などの部屋が一四室もある大型旅籠屋であった。 そのうち東側二間は土壁で境をして、土間に続いて式台付の八畳の部屋三室が特別室となっていた。 尚宿役人は問屋(最高責任者)・年寄(問屋の補助役)、その下役人に人足指(人足の指図をする役)・馬指(馬の指図をする役)・書役などがあり、幕府道中奉行の命をうけ道中の荷物や人の輸送・飛脚などの継立事務を行う、宿場の最も重要な役人であった。 |
【大井宿下問屋跡】 (左側)
大井宿問屋場は本町上(上問屋)とここ(下問屋)の二か所にあった。
問屋場は人や荷物の継立事務を行うところで、宿役人(問屋・年寄)や下役人(人足指・馬指・書役など)が月を半分にして、上問屋と下問屋に交代して勤務していた。
宿役人は、大井宿が幕府の命により毎日用意している人足五〇名と馬五〇頭を使い、これでも不足するときは助郷村の人馬を集めて、隣宿の中津川宿や大湫宿まで、主として公用荷客の輸送にあたっていた。
(大井宿助郷村=東野村・正家村・中野村・永田村・姫栗村・毛呂窪村・
【明治天皇大井行在所】 (右側) 13:00
大きな石柱が立っている家で、奥座敷・次の間が残っているそうだが非公開。
明治天皇が宿泊したのは、明治十三年六月二十八日。
【旅籠屋角屋(見付屋)】 (左側)
3番目の桝形の角にあり、左の写真で現在「旅館いち川」となっている建物の壁に説明板が掲げられている。
「大井橋300m→」に従って右折すると竪町。
【旅籠屋と木賃宿】 食事付で泊まるのは旅籠屋だが、食事無しの宿泊は木賃宿である。 写真(右の写真)は旅籠屋角屋の正面だが、木曽路に多い出桁造りとなり、取外しのできる格子戸がはまり、軒には講札が多くかけてある。その右側は特殊な方の出入り門となっていた。 |
【大井宿旅籠屋】
旅行者には休息や宿泊の施設を整えておくことは、宿場の大切な任務であった。そのため、本陣、脇本陣ほのか、一般旅行者のために、茶屋・木賃宿・旅籠屋などがあった。
大井宿は下街道の追分に近いことから旅行者が多く、宿泊地として栄えた。文化元年(1861)の旅籠屋数は、専業が41軒、茶屋や商家の兼業が3軒と1軒あり、合わせて45軒であった。この数は中山道の宿場では9番目、美濃16宿の中では最も多い。
【大井村庄屋古屋家】 (左側)
上記写真の矢印を曲がってすぐ、大きな松の木がある屋敷。
当家は江戸時代には商業を営み、天保元年から二〇年間ほど庄屋を勤めた家柄である。 この家は間口一五間(約27m)・奥行三一間半(約65m)の敷地で、街道に面した右側に表門があり、その奥に玄関・式台がつき、茶室に続いて一五畳二間続きの特別客室がある。この部屋は二室共に床の間と違い棚がつき、畳敷廊下の外が庭園に続く広大な屋敷であった。 母屋や塀は柱・梁・たる木も土壁で塗り、北側屋根に卯建をつけ、そのうえ北側の土塀は厚さ約三〇cmの火防壁として、全体が火災予防の建物となっている。 |
【白木番所跡】 (左側)
「市神神社」の前を左折(4番目の桝形)すると茶屋町。マンションの壁に番所跡の説明板がある。
この小路を番所みちといい奥に尾張藩の白木番所があった。
この番所には尾張藩の役人が常駐して、木曽の材木流しや木材製品の監視のはか、領内の山林の見回・各村村の木材の伐採申請の検分などを行っていた。木曽の木材は木曽川を流し、錦織(現
そのためこの付近の木曽川沿いに奥戸・久須見・小僧が屋敷・横樽等の川並番所があり、その取締りもこの番所が行っていた。
5番目の桝形を左折、次いで6番目の桝形を右折すると「大井橋」に出る。橋の欄干には「落合宿・中津川宿」などの浮世絵が掲げられている。
大井橋は大井宿の西の入口である。
23回目の旅終了(13:10) 恵那駅入口「中央通1交差点」。
恵那駅よりJRにて塩尻経由で帰宅。塩尻で念願の「はまかいじ号」に乗り換え、横浜駅まで直行。
本日の記録
: 街道のみの距離は、14.5Km(「おがらん橋」〜恵那駅入口「中央通1交差点」)
日本橋から八十八里二町(345.8Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、16.2Km(「落合」バス停〜恵那駅) 累計411.2Km
5時間15分 27,000歩。