須原宿・野尻宿 (田政旅館 → 十二兼駅) <旧中山道21回目>
2007年10月7日(日) 晴
上松の宿を7:55スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
「宮ノ越宿・福島宿・上松宿」 ← 「目次」 → 「三留野宿・妻籠宿・馬籠宿・落合宿」
前回もそうだが、今回も旧中山道は国道19号線を縫うように左右の細道へ入ることが多いため、曲がり角で通り越してしまうおそれがある。
赤い矢印テープには頻繁にご厄介になるので、ガードレールや柱等に常に注意を向けている必要がある。テープが剥がれている箇所もあるが、糊跡が残っているので良く見れば分かる と思う。
ここが中山道かと思われる非常に細い道も多くあり、また、民家の庭先を通る道も多いのが特徴。本当に玄関前や庭の中を通過するので、誰もいなくとも頭を下げ申し訳ない気持ちで通るように心がけた。
更に、地元住民は見ず知らずの旅人にも必ず挨拶してくれ 、大都会では得ることができない触れ合いに心が和む。
【斎藤茂吉・島崎藤村文学碑】 (左上)
上松駅入口を過ぎ、歩道橋が見えたら手前の左の道(清水屋酒店前)を登って行く。更に階段道を上がると上松小学校に出る。
小学校の角に「茂吉碑」、校門内に「藤村文学碑」がある。
【尾張藩直轄 上松木材役所跡】 (左側)
小学校敷地の外れの生垣に石柱が立っている。諏訪神社鳥居の手前である。
県道266号線に出たら左折。「寝覚の床」まで1.2Kmの標識が立っている。
寛文三年から四年にかけて尾張藩は木曽総山の検見を実施し、その大半が伐られ、尽山も多いことに驚き山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ、上松の原畑の地に直轄の材木役所を作ったといいます。
この役所は、南北六十五間・東西五十五間で三千五百坪という広さです。また、周囲を高土手や丸太で囲い、大砲まで備えた堅固な陣屋でした。中には、奉行屋敷・東長屋・中長屋・奥長屋があって奉行・吟味役・調役・目代・元締・同心が常時詰めていました。
また、陣屋内には、水天宮・三島大明神・伊勢神宮・熱田神宮・御岳大権現の五社を祀ってありました。
【寝覚の床】 (右奥) 8:25
中沢橋を渡って、国道19号線を越えるとまもなく左下の写真の古い二軒の建物が見えてくる。「寝覚の床」入口である。
二軒の建物は、「たせや」(手前)と「越前屋」という古い茶屋。現在「たせや」は民宿、「越後屋」は旅館となっている。
この二軒の間の細い道を150m程下ると国道19号線に出る。
9月15日に訪れたばかりなので今回は素通りしたが、右下の写真が15日に写した「寝覚の床」である。
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その国道の角にある「越前屋そば店」は量も味も最高★★★★。歌麿も描いた店は創業三百余年で、昭和41年より旧街道から国道に移った。 そば白くやくみは青く入れものは 赤いせいろに黄なるくろもじ
十返舎一九(木曾街道膝栗毛) |
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【謡曲と木曽路の寝覚の床】
木曽路随一の景勝地寝覚の床は、昔役の行者が修行した地で、不老長寿の霊薬が採れたとの伝承から、浦島太郎や三帰(みかえり)の翁の不老長寿の伝説が生まれた。
謡曲「寝覚」では、長寿の薬を三度飲んで三度若返り千年生きたという三帰の翁のところに、霊薬を貰い勅使が遣わされます。三帰の翁は実は医王仏の仮の姿で、喜んで霊薬を天子に捧げます。
謡曲「飛雲」では、羽黒山の山伏が木曽路を旅して老いに疲れた老人に逢います。夜が更けると老人は鬼神と化し、盤石を砕いて襲いかかり、山伏は必死に経を読み、役の行者に祈って鬼神を退けます。
謡曲史跡保存会
臨川寺内には「弁天堂」、「芭蕉歌碑」、「宝物館」がある。宝物館には浦島太郎が愛用した称する釣竿が飾ってあるのは笑ってしまう。
【弁才天堂】
尾張藩主四代徳川吉通が、正徳元年(1711)寝覚の地に立ち寄った折に、母堂の長寿を祈願して弁才天堂を建てるよう上松の役人に命じ、翌正徳二年に完成したお堂です。
現存する上松町の建築物では最も古い物で、大工の棟梁は、名古屋の岩崎治兵衛他四名で当時の木曽では珍しいお堂の造りといわれています。石屋は三名で高遠から来ています。
【芭蕉句碑】
昼顔に 昼寝せふもの 床の山
明和七年(1770)八月建立。貞亨五年夏、彦根から岐阜への途中、床の山から彦根の門人李由宛に送った書簡。
あなたがいらっしゃる床の山にお寄りして、いっしょに昼寝でもして友好を温めたいのですが、残念ながらお会いできません。立ち寄ることが出来ない言い訳の挨拶句。
床の山は鳥籠山(とこさん)のことで近江の国の枕詞である。滋賀県彦根にある鍋尻山(838m)をいう。
【浦島太郎の伝説】
こんな山の中に、浦島太郎の伝説があるなんて、ちょっとおかしいことであるが、浦島太郎が龍宮へ行ったという話は、やはり海岸のことで、今の京都の天の橋立である。この海岸で亀を助けてやり、その亀につれられて、龍宮へ行ったのであるが、龍宮での話や、龍宮から帰って来るまでは、おとぎ話しにある通りである。ところが帰ってみると、親、兄弟はもちろん、親族隣人誰一人として知っている人はなく、我が家もないので、そこに住むことが出来ず、昔のことで何処をどう通ったともなく、この山の中にさまよいこんで来た。この木曽路の風景に淋しい一人をなぐさめられながら、好きな釣りをしたり、或いは村人に珍しい龍宮の話をしたりして暮らして居ったところ、フッと思いついたように、土産にもらってきた玉手箱をあけてみたらば、一ぺんに三百歳のおじいさんになってしまい、ビックリして眼が覚めた。眼をさましたというのでここを寝覚という。ところで、ただでさえ変わったこわい人だと思っていた村人は、この有様に驚いて近寄らないようになってしまったので、ここに住むことも出来なくなり、その行方を消してしまったのである。その跡を見ると龍宮から授かったきた弁財天の尊像や遺品があったので、これを小祠に納め寺を建ててその菩提をとむらったという。約千二百年前のことである。今の寝覚山臨川寺がその始まりである。
パンフレットより
【石畳の道】
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寝覚床入口から最初のY字路を右へ、上松町天然記念物「桂の木」の前を通り、次の「寝覚簡易郵便局」がある分岐を左に入る。 「上松中学校」の前を真直ぐ進むと「石畳の道」となる。
短い石畳だが県道に下りたらそのまま左方向へ行く。 左の写真は、県道に下りてきた所。
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【小野の滝】 (左側) 8:55
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川の左右の景観が美しい「滑川橋」を過ぎて下り坂。そのまま右方向に道なりに進み、JR線と平行し たら少し先でJRのガードを潜る。潜ったらすぐ左折するのが旧中山道であるが、民家の庭先を通るので気が引け人はそのまま国道に出て左折する。
民家の前を通ってもすぐ国道に出る。国道に合流した駐車場の所に「小野の滝」がある。(前回「上松宿の現在の風景」写真も参照) 明治四十二年鉄道の鉄橋が真上に架けられ、残念ながら往年の面影はなくなりました。 かつてここを旅した細川幽斎は「老の木曽越」のなかで「木曽路の小野の滝は、布引や箕面の滝にも、をさをさおとらじ、これほどの物をこの国の歌枕には、いかにもらしける」と。手放しで誉めています。 また、浅井洌は、この地を訪れて ふきおろす松の嵐も音たえて あたりすずしき小野のたきつせ と詠んでいます。今も上松の旧跡にかわりありません。
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【荻原一里塚跡】 (右側) 9:10
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小野の滝から700m程で左に入る。入ったすぐの所に一里塚の石碑と説明板が建っている。 左の写真が分かれ道で、照明灯の後に石碑、木の下の白い立て札が説明板である。 ここから短い荻原の集落に入る。 この一里塚の位置は 京へ六十四里 江戸より七十三里です。 残念ながら現存しません。 |
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国道に戻って、橋を渡るとすぐ左に木曽古道の標識が出てくる。また「倉本駅2.3Km」の道標も立っている。 そこから200m程で左に入り(左の写真)、すぐJRのガードを潜って反対側に出たら、右折し線路に沿って進む。 再び国道に戻るまでの間、高台なので景色が良い。 道なりに上り坂と下り坂を経て、数軒の民家の庭先を通る(右の写真)。宮戸の集落である。 民家を抜けると、右下に木材の集積所が見えてくる。
下りきってJRのガードを潜り国道に戻る。
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【明治天皇立町御小休所】 (右側) 9:48
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宮戸集落から国道に出たらまたすぐ左の線路沿いの道に入る(左の写真)。 用水路のある道だがすぐ国道にぶつかる。 国道は曲がらずに横断して真っ直ぐ行く 。
国道を渡った歩道橋の下に「明治天皇立町御小休所址」の石柱が建っている。 右手に大きな吊り橋(右の写真)を見て国道に合流。 |
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【庚申塔】 (左側) 10:18〜10:35(道を間違えて戻ってきた時間)
倉本駅(駅は左上に見える)で左折してガードを潜る。テープの目印あり。道なりにS字カーブを登って、「空木岳登山道登り口」の前を通過。
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しばらく行った下り坂の途中に「庚申塔と常夜燈」が建っている(左の写真)。 中山道はこの常夜燈を過ぎたらすぐ右折(右の写真の妻が行ってる方向)して草道を下りるのであるが、私達は間違えて左方向の舗装道に行ってしまった。 しばらく行った所でおかしいことに気づき右の写真の位置に戻り草道を下る。戻ったとき気が付いたのだが、右折した所の電柱に赤テープが貼ってあった。 草道を下りたら右へ行く。JRのガードを潜り、国道に出たら左折する。 |
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暦の上で六十日に一度めぐってくる庚申(かのえさる)の日に、その夜を眠らずに過して、長寿を願う信仰を庚申待(こうしんま)といいます。
人間の身中には、誰でも三尸九虫(さんしきゅうちゅう)が宿っていて、この虫は庚申の夜に人が寝た時、天へ上って天帝に、人間の罪過を告げて、人の生命を縮めるといいます。この虫の報告が五百条になると、その人は死ぬそうです。
そこで、庚申の日に、三尸の虫が寝ている時、天へ上がらぬように、夜起きているわけです。
普通、庚申塔と刻まれた塔が多いが、倉本のこの塔は「除三尸の罪」と彫られていて、年号も享保十二年(1727)で
右手にある徳本行者の、特徴ある文字で書かれた、(南無阿弥陀佛)の名号塔(みょうごうとう)も木曽では大変珍しいものです。
昭和五十八年五月二日
【倉本一里塚跡】 (右側) 10:40
大沢橋を渡ると、国道右側のパーキングエリアに説明版と草むらの中に小さな石碑が建っている。
上松で北から四番目の一里塚です。一つの町村で四つも一里塚のある所はありません。
現在地より南へ、二十メートルほどの地点、左右に一里塚がありました。
今でもこの民家は、屋号を「一里塚」と呼んでいます。
この一里塚の位置は
京へ六十三里
江戸より七十四里です。
残念ながら現存しません。
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「池の尻」信号で右の道を下りて行く。やがて草道になり、廃業したレストラン「ていしゃば」の左脇の細道を上って国道に出る。ここで標高588mの道標があった。 京都側から来た人は、「大桑生コン工場」入口に架かっている橋を渡ったら、レストランの右脇を通って草道を下りて行く。
左の写真は京都側から撮ったもので、倉本から来た人は矢印先へ出てくる。須原から来た人は矢印の通りに入って行く。 |
【エドヒガン】 大桑 村天然記念物 11:05
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ここから命がけの旧道を行く。 A左下の写真の踏切のない線路を渡る。「危険につき線路横断禁止」の看板が立っている。 B平らな道に出たら少し左へ行き、養魚池の所を右折して写真の白い蔵の方へ登って行く。 C上がるとすぐ右の写真の「エドヒガン」の大木が見える。(右の写真は反対側から写したエドヒガン) D黄色い矢印の通り右下の崖を下りる。エドヒガンの標柱に矢印赤テープが貼ってあったが、道とは言えないしろものである。 今回は草刈りした直後だったので分かりやすかったが、通常なら藪の中の崖と思われるので下りるのは大変だろう。 E途中小さな沢に架かっていた丸木橋は朽ちかけており、乗るとしなるのが恐かった。
F平らな所に出たら右下の草道を行き、再び踏切のない横断禁止の線路を渡って国道に合流する。 |
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<昼食> 11: 20〜11:55
「阿寺渓谷・フォレスパ木曽・のぞきど森林公園」の大きな道標の所を右に入る。砂利道だがすぐ国道に出てしまう。
国道に出てすぐ右側にあったコンビニのベンチで、ここで買ったサンドイッチを食べる。道路上の温度計で25℃。
【須原宿】 日本橋から75里12町(295.9Km)、京へ60里22町
(238.0Km)
天保14年(1843)で人口748名、総家数104軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋24軒。
木曽海道六拾九次之内 須原 (広重) |
現在の風景として、須原駅の反対側にある「鹿島神社」を写すつもりであったが、行きそびれた為、無し。 須原宿は、正徳五年(1715)の木曽川大洪水で流失し享保二年(1717)に現在地に移転しました。 江戸時代には、木曽十一宿の一つとして繁盛し、本陣・問屋のほか三十余軒の旅篭・茶屋が立ち並び、多くの旅人が行きかってにぎやかな宿場でした。 また、文化の中心として、重要文化財の浄戒山定勝寺があり、その中に素朴な民謡「須原はねそ」が庶民文化として現在も唄い踊り継がれ、ゆったりとし、街道とともに古くからの文化が伝わってくる宿場です。 大木をくりぬいて作られた水舟は、昔も今も人々の憩いの場であり、清水が湧く宿場として知られた面影を今日に伝えています。
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「水舟の里・須原宿」の看板が出てきたら左に上がる。本来の旧中山道はここでなく50m先の石垣の道を左に上がるのが正解であるが、看板の所を上がったほうが「一里塚跡」や「幸田露伴の碑」が見られる。
【大和屋】 (右側)
看板の所から上がるとすぐ右側にある。「桜の花漬」で有名な店。
【須原宿一里塚跡】 (右側) 12:35
「大和屋」の隣に昨日立てたばかりのような真新しい案内板のみ立っている。
江戸へ七十五里、京都へ五十七里。
【幸田露伴と須原宿】 (左側)
駅前に案内板と碑が建っている。
文豪幸田露伴は明治二十二年冬の頃木曽路を旅して須原に泊る。
彼は此の地を訪ねた縁を基にその出世作小説風流佛を著す時に二十二歳
ここに文中の一部を抜粋して記念碑として文豪露伴を偲ぶ
「名物に甘きものありて空腹に須原のとろゝ汁殊の外妙なるに飯幾杯か滑り込ませたる・・・」(以下略)
平成五年十月吉日
【黒塀の家】 (右側)
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本来の中山道を行くと雰囲気のある黒塀の横を通るが、駅前の先で一緒になるので、上から行っても見学できる。
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【須原宿本陣跡】 (左側)
案内板のみ立っている。主 木村平左衛門。
【旧脇本陣西尾家】 (右側)
本陣の向かいの立派な屋敷の前に石碑と説明板が建っている。
西尾酒造は「木曽のかけはし」という酒を造っている。
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旧脇本陣西尾家の祖は代々菅原の氏を名乗る族柄にして大永、天文年間(1522〜1554年)の頃、此の地信濃の国須原に住し地域の開拓に力を尽す。西尾家は木曽屈指の旧家にして木曽家の家臣として重きを為す。殊に西尾丹波守は馬術又武芸に優れ木曽義昌公の信頼極めて厚く鳥居峠又妻籠城の合戦等に参画転戦しその武功著しきものありと伝えられる。 天正十八年木曽義昌公は豊臣秀吉の命により突然下総の国網戸に移封せらるヽも、西尾家は依然此の地に留まり、その後は木曽代官山村家に仕え尾張藩の山林取締役等の重責を担う。 慶長五年(1600)中仙道宿場の出来るに伴ひ須原宿の脇本陣、問屋、庄屋を兼ね宿役人として重きを為し、地域の発展に貢献せり。 その後寛延、慶応の二度に亘る火災に遭遇し記録の一部を焼失するも今尚当時の隆昌を物語るに足る古文書、書画、什器等多数蔵することは文化財として貴重な存在である。 酒造業は古く江戸時代の創業にして現在に至る。 |
【水舟】
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須原宿内の水場で、数ヶ所あった。 この写真は、西尾家の反対側にある水舟で、水は飲むことができる。
てくてく旅で勅使河原郁恵さんが桜湯の接待をうけた所である。 「水舟のきをめぐりて」と歌われているように須原宿は中仙道に面して数多くの井戸があり、生活の場として親しまれた。この水舟もその面影を残す。 |
【清水医院跡】 (右側)
案内板のみ立っている。
文豪島崎藤村による「ある女の生涯」の舞台となった清水病院跡。
現在、
【柏屋】 (左側)
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西側から撮影した柏屋(手前右側)と須原宿の町並み。
柏屋はかつての旅籠屋で、二階軒下に「三都講」の看板がある。 最初に曲がった所が「鍵屋の坂」で水路の両側が道になっている珍しい景観である。
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【定勝寺】 国指定重要文化財(昭和27年3月指定) (左側)
柏屋から真っ直ぐ行くとすぐ左奥にある。山門、本堂、庫裏は桃山時代の建築で、重要文化財になっている。
当寺は臨済宗妙心寺派に属し、木曽三大寺中の最古刹です。嘉慶年間に木曽家第十一代の源親豊公が木曽川辺りに開創し、その後木曽川の洪水による流出の後、当地に慶長三年(1598)に移建したものが現在の諸堂宇で、本堂、庫裏、山門何れも桃山建造物として国の重要文化財に指定されています。鶴亀蓬莱庭園も美しく、近世禅宗寺院の姿を示しています。
木曽七福神布袋尊霊場であり、定勝だるま大坐像、香取正彦平和余韻第十号の大梵鐘のほか木曽氏歴代による寄進物も数多く木曽の古い姿を知る重要な資料となっています。
【岩出観音堂】 (左奥)
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JRの踏切を渡り、左に大きくカーブしたら、赤いポストが立っているところを左折すると写真の「岩出観音」が見えてくる。左の写真は公園の滑り台の上から撮ったもの。
清水寺の様な寺の舞台と同じ懸崖造りの建物である。 元の道にもどり、「伊奈川橋」を渡る。この橋からも岩出観音が良く見える。 渡ったら右折して振り返ると、英泉が描いた「野尻宿」の浮世絵とそっくりの景観に出会える(下記「野尻宿」の写真参照)。 |
【天長院】 (左奥) 13:50〜14:05
伊奈川橋先のY字路を左に進み、次の橋が見えたら橋の手前の十字路を左折する。曲がった所で左角の家に水場がある。
しばらく行き「天長院」の道標に従って右折する。一緒に「岩出観音1.6Km」の道標も立っている。右折した先にある道標に従って左に入ると、門前にユニークな地蔵群がある「天長院」に着く。写真以外にも寝転がっている地蔵などあり微笑ましくなる。 ここで休憩。 その後、文禄年間(1594〜)定勝寺七代天心和尚を開山として旧地に禅宗地久山天長院として開かれ、街道の変遷により、寛文年間(1662〜)地蔵堂のあった合いの宿平沢の現在地へ移転し現在に至っています。 |
「天長院」を出て、突き当りを左折すれば大桑駅入口である。駅でトイレ休憩して14:25発。
【高札場跡】 【イボ石】 (左側) 15:05
大桑駅前から国道に合流して左折。「道の駅大桑」の前を通り、「のぞきど森林公園」の看板がある所を右に下りる。
JRの踏切を2回渡ったら上り坂になり、赤レンガの建物が見えたら、手前を更に左へ 登る。そしてすぐ右の細い道に入る。
細い道に入ってすぐ右カーブの所に「高札場跡」の説明板と通称「イボ石」の石碑が建っている。
このイボ石は「南無妙法蓮華経」と髭題目で彫られた石碑で、これにさわるとイボが取れると云われる。
高札場の説明板は字がかすれて判読できなかった。
【野尻宿】 日本橋から77里6町(303.1Km)、京へ58里28町 (230.8Km)
天保14年(1843)で人口986名、総家数108軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋19軒。
野尻宿は、木曽十一宿の中で奈良井宿につぐ長さを誇り、外敵を防ぐための「七曲り」がある宿場として有名。
木曽路駅 野尻 伊奈川橋遠景 (英泉) 伊奈川に架かる伊奈川橋と岩出観音を描いている |
現在の伊奈川橋と岩出観音(左後)。
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【本陣跡】 (左側) 15:15
「本陣跡」の隣に「明治天皇御小休所址」碑が建っている。
明治二十七年の火災で焼失、再建
この先、野尻駅前を通過。
【西のはずれ】 (左側)
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野尻宿は「七曲り」と云われているように左右に曲がりながら進むと、郵便局の先に屋号が「はずれ」という家と説明板が立っている。 ここが野尻宿の西の口である。
高札場を曲がったすぐ左手に「東のはずれ」もあるはずだが見逃してしまった。 野尻宿は木曽十一宿のなかでも旅篭茶屋など三十余軒をもって繁栄した場所である。 野尻宿の特徴は外敵を防ぐため「七曲り」として知られ、ここが西の宿のはずれで、この家の屋号も「はずれ」という。 |
その先、公民館の前が一里塚跡とのことだが、標識等は見つからなかった。
真正面に三角形の「飯盛山」が見えている。
やがて国道に接するが、そちらに行かず真直ぐ下って行く。次に踏切が出てくるがそこも渡らずに左の道に入る。線路沿いの道を行くと右手川向こうに「フォレストスパ木曽恋路の湯」が見えてくる。立派な建物が並んでいるが、こんな場所で繁盛しているのかと心配になる。
「第13仲仙道踏切」「第14仲仙道踏切」とJR線を2回渡る。
【木曽熊野神社】 16:15
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国道に出て右折し、橋を渡ったらすぐ左のZ形の上り坂を行くとやがて「熊野神社」境内に入って行く。 神社の正面階段を降りて国道に出たら「十二兼北」の信号を渡り、すぐ左下の沢と一緒に歩道が設えてあるトンネルを潜ってJR線の反対側に出る(左の写真)。 車道を左へ行けば5分で「十二兼駅」に到着する。
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21回目の旅終了(16:20) 十二兼駅。
17:08発の電車で宮ノ越駅に戻り車で帰宅。
帰りの中央高速道が大渋滞で帰宅したのは翌日になった夜中の1:20。
本日の記録
: 街道のみの距離は、24.1Km(上松宿「田政旅館」〜十二兼駅)
日本橋から七十八里十一町(307.5Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、25.5Km(「田政旅館」〜十二兼駅) 累計370.5Km
8時間25分 40,300歩。