熊谷宿 (吹上駅 → 籠原駅) <旧中山道6回目>

2005年12月23日(金) 

  吹上駅前交差点を10:00スタート。 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

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 2005年の12月は、気象庁の暖冬予想が外れて猛烈な寒気に襲われた。

 12月13日以降、日本海側のみならず西日本の太平洋側でも12月としては記録的な大雪となり、全国39ヶ所で記録更新となった。

 現地の高齢者が「12月にこれほど積もったのは経験したことがない」と言わしめたほどの大雪で、岐阜では80年ぶり、東京では12月に入ってから、最低気温が平年を上回ったのはわずか2回という寒さである。

 北からの強烈な寒気団が日本全国を覆ったこと、日本海の水温が通常は10℃なのに対し今年は12月に入っても12〜13℃と高い為、 寒気団が水分を沢山含んだことが大雪の原因の一つとのこと。

 平均気温が1℃下がると、一冬で1700億円(ひと月で約600億円)の経済効果があると言われているが、12月だけでも1000億円以上いっているのではないかと思われる。


【吹上神社】 (右側) 

 旧中山道は、吹上駅前交差点を過ぎ、本町交差点を左折する。

 左折して、東曜寺の門前を右カーブするとすぐ吹上神社がある。


【吹上 間の宿】 (左側) 

 すぐ高架の県道 とその真下に歩道橋が見えてくる。

 その足元に 「中山道 間の宿」の石柱と説明板がある (上の写真)。

【吹上「間の宿」】

 中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣と熊谷の「間の宿」として発展した街ですが、江戸期、幕府公認の宿場ではありませんでした。
 しかし、それにもかかわらず重要視されたのは、日光東照宮を警護する。武士たちの「日光火の番道」と、中山道が町の中央部で交差すること。また鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として「お休み本陣」や馬次ぎの「立場」を設置する必要があったからです。
 年に30家もの大名が江戸や国元へと行列を飾り、多くの文人や墨客たちも足をとどめた「吹上宿」。中でも信濃の俳人小林一茶や加舎白雄、狂言師で戯作者でもあった太田南畝、浮世絵師の池田英泉などはそれぞれ特異な作品を残しています。そして江戸以来、吹上の名物は「忍のさし足袋」と荒川の「うなぎ」、「榎戸の目薬」も街道の名品にかぞえられていました。
 この場所は、かっての中山道が鉄道の開通によって分断された地点にあたっています。

 下の写真で、 赤い線が本来の旧中山道であるが、JR線で分断されているので、上の写真の歩道橋を反対側に渡り、斜め左の道を荒川の土手まで道なりに行く。

 

 


【榎戸堰公園】 (右側) 

  熊谷堤の手前300mにあり、トイレの案内が出ている。ここを逃すと熊谷駅まで約7Kmトイレはないので、必ず寄っておくことをすすめます。綺麗なトイレです。


【権八地蔵堂】 (左側)  10:35

 熊谷堤に登る手前にある。

 平井権八は、鳥取藩士の父が同僚を殺害したため藩を脱走して江戸に出て浪人となった。美男子だったため、吉原の三浦屋の遊女小紫となじみになり、追いはぎをして金を工面しては通っていた。しかし人を殺したり、縄抜けなどを重ねた罪で延宝7年(1679)に品川で磔刑となり、鈴が森で晒されたという。
 その権八が鳥取から江戸に出る途中、金に困って辻斬りをした。その現場をお地蔵様にみられたため、「この事を誰にも言うな」と地蔵に言ったところ、地蔵は「わしは言わぬがお前も言うな」と答えたという。それゆえ、この地蔵は「権八ものいい地蔵」と呼ばれている。このことは、後に権八が捕らえられで取り調べを受けた際に自白したことだという。


【熊谷堤】 

 左側に富士山が見えてくるが、埼玉県は快晴にもかかわらず、富士山の周りだけ雲が発生しており、かろうじて右側の稜線が見えただけであった。写真を撮ったがはっきりしないので残念ながら載せられなかった。

 また、ここを歩いている間、川までは遠いため流れを見ることはできなかった。

 かつては桜並木が続いていたとのことだが、現在は一本もない。

 堤に上がった時は、無風状態でこれは快適だと思っていたところ、途中から風が吹き始め、最後は強くなってきて鼻水が 止まらず困った。

 


【荒川決壊の跡】 (右側) 

 レンガ色マンション(ライオンズマンション)の手前の土手上にある(写真で木が植わっている所)。

【荒川の水害】

 荒川は埼玉県の中央を流れる母なる川として広く地域の人々にして親しまれていますが、反面古来から荒れる川として洪水により沿川の住民を苦しめてきました。
 近年には、昭和22年9月のカスリーン台風による洪水のため熊谷市久下地先のこの時点で濁流が堤防を越え決壊しました。
 流れ出た洪水は埼玉県北部の村を次々と襲い、おりしも利根川の決壊した濁流と合流し、はるか東京まで達し尊い多くの命を奪うとともに付近一帯に甚大な被害を与えました。
 あの恐ろしい洪水から約半世紀経った現在、決壊跡付近の整備は概成しましたが、昭和57年の洪水の時のように、水位が堤防天端近くまで達したことを考えると、いつまた大災害が起きないともかぎりません
 沿川の都市化進展により、氾濫区域内の人口や資産はさらに増加しています。このため、堤防や護岸等を整備し、周辺の環境にも配慮した河川改修を推進して、地域の発展を支えています。


【久下一里塚跡碑】  久下新田 (右側土手下) 11:00

 ライオンズマンションの2棟目と3棟目の間(土手下)にあり、フェンスに囲われている中に小さな稲荷神、松の木と共に説明板が ある。日本橋から十四番目の一里塚。

 江戸の日本橋を起点する中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久長安に命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方五間(9m四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり憩いの場所にもなった。
 柳樽には、
  “くたびれた奴が見つける一里塚”
 という句もある。


 その先、斜め右に下りていく道があるのでそちらに行くのが旧中山道で、すぐ久下小学校に接する久下神社があるのだが、私たちはそこを何気なく通り過ぎてそのまま土手を行ってしまった。途中で気がつき新しく出来たばかりの大きな 新久下橋の手前で土手を降りて旧中山道に 戻った。 


【権八地蔵】 (右側) 11:40

 久下橋へ続く新しい高架道路をくぐり、「上久下」バス停の先のY字路を左方向に行くとすぐ「久下権八公園」と共にある。

 ここに伝わる伝承も、吹上の「権八地蔵」と同じである。

【久下の渡し 冠水橋跡碑】 (右側) 

 「権八地蔵」から「みかりや跡」へ行く本来の旧中山道は途中で途切れている為、堤の上を迂回しなければならない。 

 その堤を登るとすぐ碑がある。ここでやっと川の流れを見ることができた。

 この川に江戸時代にあったような木製の仮橋(久下橋)が最近まで架かっていたが、すぐ傍に立派な新久下橋ができたため撤去されてしまった。

 右の写真が説明板に載っていた冠水橋で、この目で見たかったが、数ヶ月の差で撤去されてしまい、残念!

 ここに「思いやり橋」呼ばれた、久下冠水橋がありました。

 幅2.7m、長さ282.4m、制限重量3トン。中央部99.4mの区間は、幅4.5mの待避所あり、4種類不揃いな44本の橋脚。ムカデに似た貴重な冠水橋でした。
 昭和30年県道、冑山熊谷線として大里と.久下を結んで架設され48年間、地元の生活道路として利用されました。平成15年6月の新久下橋完成とともにその役目を終えました。


【みかりや跡】 (右側) 

 すぐ右へ下りる道があり、下りた所の民家の塀に説明板がある。

 写真は下記「熊谷宿」の項参照。英泉の 「木曽街道六拾九次」はここにあった茶屋を描いているので、浮世絵に対する現在の風景としてそちらに載せた。

 中山道を往来する旅人相手の茶店で「しがらぎごぼうに久下ゆべし」の言葉がある通り「柚餅子(ゆべし)」が名物だったのだろう。
 また忍藩の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので「御狩屋(みかりや)」と呼ばれたという。


【東竹院】 (左奥) 12:00

 「東竹禅院」の石柱があるので入って行くと左側に寛政5年建の庚申塔と仏像がある。そこを右折したところが寺である。

 久下村の領主であった久下直光が開いた寺で、一族の墓(本堂左手の木の下)がある。

 


【元荒川ムサシトミヨ生息地】  埼玉県指定天然記念物(平成3年3月指定) 12:15

  やがて小川のような元荒川を渡るが、湧き水を水源としているので東海道の三島で寄り道した「柿田川」に匹敵するほどの綺麗な水が流れている。水草も繁茂して、いかにも貴重な生物が棲息していそうである。事実、世界でもここにしか見ることができなくなった「ムサシトミヨ」というトゲウオ科に属する絶滅寸前の淡水魚がすんでいる川である。

 ムサシトミヨは、トケウオ科に属する淡水魚です。以前は埼玉県の熊谷市及び本庄市・川越市、東京都西部などに生息していましたが、環境が悪化し、川が汚されてしまったので、現在では世界で熊谷にしか見られなくなってしまいました。

 体長4〜6cmで、背ビレ・腹ビレ及び尻ビレに、刺状(きょくじょう)と呼ばれるトゲがあります。体には鱗がなく、体色はくすんだ暗緑色です。
 冷たくきれいな湧水を水源とする細い川で、水草が繁茂しているところに生活します。水温は10〜18度が適温です。産卵期は3月〜10月で、雄が水草の根などを使ってピンポン玉ぐらいの大きさの巣を作り、稚魚が巣立つまで巣と子供を守ります。そして、たいてい1年で障害を終えてしまいます。
 ムサシトミヨは、貴重な魚であり、また絶滅寸前の状態なので、平成3年3月15日に埼玉県指定天然記念物に指定され、平成3年11月14日の県民の日には、清流のシンボルとして県の魚に選定されました。


【八丁の一里塚跡】 (右側) 12:25

 元荒川通りを横切り、仏説寺を過ぎると曙・万平自治会館が見えてくる。その隣りの街道筋に一里塚の説明板がある。 日本橋から十五番目の一里塚。

 久下新田の一里塚から、ここまで一里ある。いま英泉描くところの「八丁堤の景」という浮世絵があって、当時の風景や風俗を偲ぶことができる。

 「ホテルサンルート」の前を右折し、秩父鉄道とJRの踏切を渡り、国道17号線(銀座一丁目)に当ったら左折する。

 私達は昼時だったので、JRの踏切を渡ったところで街道をそれて左折し熊谷駅方面へ行った。

<昼食> 12:40〜12:20

 熊谷駅東口の「王将」で食事。うれしいことに本日は餃子が半額(¥100)の日に当たり、久しぶりの王将の餃子が相変わらず美味し かったので二重に満足した。


【熊谷駅北口 熊谷次郎直実像】 13:25

 昼食後、東口からそのまま北に進み北口へ行くと、ロータリー内に大きな騎馬像が見えてきた。熊谷直実の騎馬像である。

【熊谷市のあゆみ】

 熊谷の歴史は古く、縄文・弥生時代ににまでさかのぼります。8世紀ごろに敷かれた条里制が今も、別府・奈良・中条・星宮地区に残されています。また、平安時代から鎌倉時代にかけて、関東地方で武士が台頭し始めると、熊谷地方の武士は、“武蔵武士”としてめざましい活躍をしました。その中でも一の谷の合戦で平敦盛を討ち取った熊谷次郎直実(正面の銅像で北村西望作)は余りにも有名です。
 江戸に幕府が移されると、江戸の日本橋から熊谷を通り、長野・木曽を経て京都に至る中山道が主要な道路となり、それ以後、熊谷は重要な宿場町として栄えました。中山道と合わせ秩父街道への分岐点「熊谷宿」として交通の要衝の役割を担い、また商業都市としての形態も整え大きく発展しました。同時に荒川その他の河川を利用した舟運によって江戸をはじめ各地と交流しており、現在の商業都市としての機能はすでにこの時代から備えていたという言えます。
 明治16年7月に上野−熊谷間61.1kmの鉄道が開通し、中山道の宿駅であった熊谷は、交通手段が徒歩から鉄道へ移り、さらに発展を続けて行きました。
 昭和8年に県下で2番目に市制を施行し、秩父や県北地域の広域圏の商業中心都市として機能してきました。第二次世界大戦の末期には戦災を受け、市街地の大半を消失しましたが、いち早く戦災復興計画基本方針に基づき特色ある都市づくり行い、見事に復興を遂げ、今日では県北の中核都市、新幹線都市として発展しています。


【高城神社】 (右奥) 

 

  熊谷駅北口から国道17号線に向かい「筑波交差点」で中山道に戻る。

 駅に曲がらずに中山道を歩いてきた場合、「熊谷直実像」を見に行くにはこの交差点を左折する。

 「市役所入口交差点」を過ぎると右手に鳥居が建っている高城神社の参道が見えてくる。ここには信号がないので、神社へ行くには「市役所入口交差点」で右側に渡っておく。

 150名ほどの紺屋業者が奉納した青銅製の大きな灯籠(写真)が境内に入るとすぐ右にある。

【高城神社】

 平安時代延喜5年(905)宮中において延喜式、式内社に指定された、大変古い神社です。

 現在の社殿は、寛文11年(1671)に忍城主、阿部豊後守忠秋公が厚く崇敬され運営された建物です、「えんむすび」「安産」の神であり「家内円満」「営業繁盛」に導く神として崇敬されている。

【常夜燈】 熊谷市指定有形文化財(昭和45年11月指定)

 この燈籠は高さ275cmという青銅製の大きなもので、天保12年(1841)に建てられました。燈籠の台座には県内はもとより江戸・川崎・桐生・高崎・京都など、広範囲に及ぶ150名もの紺屋(藍染業者)の名前が奉納者として刻まれています。このうち、熊谷の奉納者は約40名に及んでいます。
 当地では江戸時代中頃から藍染業が活況を呈していたことが知られており、明治時代後半は紺屋の最盛期であったと言われています。
 常夜灯は高城神社が藍染業者から厚い信仰を受けてきた事実を語る資料として、また、藍染業の盛況を知る記念碑ともいえる貴重なものです。

【末社 天神社】

 御祭神「少名彦名大神」は医薬、子育ての守護神として、厚く崇敬され、特に当社玉垣内の赤石は御神徳、御神威の宿った御石として、往吉よりこれを拝借し「丈夫な歯がはえますように」との願いをこめてお食初めの儀式を行い、赤石は2個(倍にして)返納する風習が受け継がれております。

【熊野神社の由緒】

 栄治年間、此の付近一帯に猛熊が往来し庶民の生活を脅かし悩ましました。熊谷次郎直実の父直貞この猛熊を退治して、熊野権現堂(現在箱田に熊野堂の石碑あり)を築いたと伝えられる。
 明治維新の後、熊野神社と称し、その御祭神伊邪那岐命をまつり、明治40年1月14日に当高城神社境内地に遷し祭られた。
 また同年4月20日に熊野神社地62坪(現熊野同敷地)を高城神社に譲与された。
 この熊野神社(熊野権現)と千形神社(血形神社)そして圓照寺の関係は深く、直貞によって築かれ、熊谷の地名を産んだとも伝えられる。


【辻の札跡】  熊谷市指定文化財(昭和29年11月指定) 史跡 (左側) 

 「市営駐車場交差点」手前に石柱と説明板がある。

 札の辻は、高札の設置場所で高札場とも言われた。高札は、掟・条目・禁令などを板に書いた掲示板で、一般大衆に法令を徹底させるため、市場・要路など人目を引く所に掲示された。
 熊谷宿の高札場は、宝永年間(1704〜1711)に作られた「見世割図面写」により、場所・大きさなどが推定できる。
 場所は本町長野喜蔵の前の道路中央にあり「町往還中程に建置申候」と記され、木柵で囲まれた屋根のある高札場が描かれているので、今の大露地と中山道の交差する、この説明板付近と推定される。
 大きさは、
  一、高さ  一丈一尺  (約3.3m)
  一、長さ  ニ間四尺  (約5m)
  一、横    六尺四寸  (約2m)
とある。
 現在高札は本陣であった竹田家に14枚残っている。


【本陣跡】  熊谷市指定文化財(昭和29年11月指定) 史跡 (左側)  

 「鎌倉町交差点」手前に石柱と説明板がある。

 本陣は、江戸時代初期の寛永12年(1635)諸大名に対する、参勤交代制度が確立されてから、各街道の宿場町に置かれたものである。諸大名や幕府役人・公家貴族などのための特別な旅館であり、門・玄関・上段の間を具えることができて、一般の旅館(旅籠屋)とは区別されていた。
 したがって本陣の経営者も土地の豪家で苗字帯刀を許されるものが多かった。
 熊谷宿の本陣は、明治17年(1884)の火災と、昭和20年(1945)の戦災で跡形もなく灰燼に帰してしまったが、嘉永2年(1849)一条忠良の娘寿明姫宿泊の折、道中奉行に差し出した、本陣絵図の控えが、竹井家に残っており、その絵図によって内部の模様が細々と分かる。中山道に面し、間口14間5尺(約27m)で奥は星川にまで至り、上手の御入門・下手の通用門・建坪・部屋数・畳数など全国に現存する旧本陣と比べても規模・構造共に屈指のものである。

【熊谷宿】 日本橋から16里14町(64.4Km)、京へ119里20町 (469.5Km)

 天保14年(1843)で人口3263名、総家数1075軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋19軒。

 熊谷宿には遊女がいなかったので、人口は他の宿と異なり男性のほうが多かった。 

岐岨街道 熊谷宿 八丁堤景 (英泉)

 「御狩屋」と呼ばれた茶店を描いている。

現在の「みかりや跡」


【熊谷寺】 (右奥) 13:55

 「鎌倉町交差点」を左折し、八木橋デパートの前を行くと突き当たりにある。但し、境内には入ることができない。


【星渓園】  熊谷市指定文化財(昭和29年11月指定) 名勝 (左奥) 14:00〜14:10

 「鎌倉町交差点」を左折して一本目を右折するか、次ぎの交差点を左折するとすぐある。

 星渓園は回遊式庭園で、熊谷の発展に数々の偉業をなした竹井澹如翁によって、慶応年間から明治の初年にかけて作られました。
 元和9年(1623)、荒川の洪水により当園の西方にあった土手(北条堤)が切れて池が生じ、その池は清らかな水が湧き出るので「玉の池」と呼ばれ、この湧水が星川の源流となりました。

 澹如翁がここに別邸を設け、(玉の池)を中心に木竹を植え、名石を集めて庭園としました。、
 明治17年に時の皇后(照憲皇太后)がお立寄りになり、大正10年には秩父の宮がお泊りになるなど、知名氏の来遊が多くみられました。

 昭和25年熊谷市が譲り受け、翌年星渓園と名付け、昭和29年市の名勝として指定されました。

 建物の老朽化が著しかったので、平成2年から4年にかけて建物の復元と庭園の整備がなされました。


【八木橋デパート 旧中山道跡】 (右側) 

 旧中山道は、八木橋デパートの中を縦断しているので、「鎌倉町交差点」に戻り、デパートの中を通ることにした。

 デパートの前に「旧中山道跡」の石碑がある。

 裏口にでると、そこにも「旧中山道跡」の石柱がある。

 デパートを出て信号を渡るとY字路になるので右方向に行く。

 ほどなく国道17号線に合流するのでしばらく進む。

 歩道橋の左下に「秩父道」道標など3基の石碑が建っているはずなのだが、見逃してしまった。

 


【新島の一里塚】  熊谷市指定文化財(昭和29年11月指定) 史跡 (右側) 15:50

 熊谷警察署を右に見て、お菓子の「梅林堂」が見えたらそこのY字路を左方向に行く。

 すぐ一里塚のケヤキの巨木が見えてくる。日本橋から十六番目の一里塚。

 この一里塚は、旧中山道の東側に築かれたもので、今でも高さ12m、樹齢300年以上のけやきの大木が残っています。
  慶長9年(1604)江戸幕府は江戸日本橋を起点に、東海道・中山道など主要な街道沿いに旅の道のりの目印とするため、一里(約4km)ごとに一里塚を設けました。
 当時は中山道の両側に五間四方の塚を築き、榎など植えられたと言われますが、西側の石原分の塚は現在残っていません。
 宝暦6年(1756)の「道中絵図」には、熊谷地区では、久下新田・柳原(現在は曙町)・新島に一里塚が描かれ、「榎日本づつきづく」とあるが、現存する新島の大木は不思議なことにけやきです。

 


【忍領石標】  埼玉県指定文化財(昭和38年8月指定) 旧跡 (左側) 

 一里塚のすぐ先に石碑と説明板がある。

 「従是南忍領」と掘られたこの石領は、忍藩が他藩の土地との境界を明らかにするため、藩境の16箇所に建てたものの一つです。始めは木材を用いていましたが、安永9年(1780)に石標として建て直されました。その後、明治維新の際に撤去されることとなりましたが、昭和14年にこの石標が 再発見されると、保存の道が講じられ、元の位置に再建され現在に至っています。
 また大字石原字上植木には、「従是東南忍領」と彫られた石標がもう一基ありましたが、そちらは現存していません。


【庚申塔と地蔵堂】 (右側) 15:45

 宮塚古墳通りを横断し、Y字路を右方向に行くと国道17号線に合流する。日本橋より70Kmの標示あり。

 ここで歩道橋を渡り斜め右の道へ行く。

 途中小公園で5分程休憩。

 石丸病院の先に庚申塔と地蔵堂がある。

 スーパー「ベルク」の先の交差点が籠原駅入口である。



 6回目の旅終了(15:55) 旧道籠原駅入口交差点。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、14.5Km(吹上駅前交差点〜旧道籠原駅入口交差点) 

          日本橋から十八里八町(71.6Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、17.2Km(吹上駅〜籠原駅) 累計:89.2Km

          6時間 27,000歩。

 

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