大湫宿・細久手宿 (恵那駅 → 大黒屋旅館) <旧中山道24回目>

 

2011年5月2日(月) 晴 

 恵那駅に7:54到着して弁当を購入後、2007年10月21日に終えた「中央通1交差点」を8: 10スタート。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「中津川宿・大井宿」 ← 「目次」 → 「御嵩宿」

 

 2009年1月から我が家の建て替えのため街道歩きを中断していた。更に9月に仮住まい先の家で荷物整理をしていたところ、ひどい腰痛を起こし救急車で入院する羽目になってしまった。一週間激痛で全く起き上がれない状態が続き、椎間板がへたっているとの診断を受けた。退院しても腰に一触即発の爆弾を抱えている状況で、暫くは街道歩きをやめて足腰を鍛えることにした。

 2010年5月に入り、それまで大きな腰痛も起こらなかったので久しぶりに歩くことにした。 しかし、いきなり十三峠を越える自信がないので、この区間(大湫宿・細久手宿・御嵩宿)をパスし、平らな伏見宿〜愛知川宿を先に歩いた。

 御嵩宿の先を歩いている合間に細久手宿の大黒屋を予約しようとした が、タイミングが合わずに泊れなかったりして、 気がついたらあと2宿(一日半の行程)で ゴールしてしまうことになった。

 途中の行程を抜いて草津に着いてしまうのでは喜べない為、10連休が取れた2011年のゴールデンウイーク中になんとかしたいと思っていたところ、やっとこの日に十三峠越えが実現する運びとなった。

 今回、下記の理由から通常7:00〜7:30で歩ける距離を9時間も掛けて歩いているので、各到着時間は参考として見て頂きたい。

@前日は横浜から名古屋まで夜行バスで移動して睡眠不足であること。

A腰をかばいながらの歩きで休憩が多いこと。

Bこのルートは、名所・旧跡が沢山あって説明板等が充実しているので立ち止っている時間が多いこと。

 (「○○跡」と書いてある小さな杭だけも含め、全ての箇所で写真撮影とメモ取りで 2分〜5分は止まっており、撮影した写真の枚数は265枚)

C途中、想定外の出来事が発生してかなりの時間をロスしたこと。


 大井宿〜御嵩宿の間の峠越えルートは、道案内板がしっかり立っているので地図を持っていなくても道に迷うことがない。

 また、トイレと東屋等の休憩施設が一定区間毎に配置されているのでこちらも心配はいらない。

 但し、食事が出来る施設はないため、事前に弁当の準備は必要である。


 大井橋から進んだ場合、恵那駅入口の「中央通1交差点」を左折した次の通りの左側に「中山道広重美術館」があるが、開館が9:30の為、残念ながら寄ることが出来なかった。

 広重美術館は、平成13年9月にオープンし、恵那市内在住の収集家田中春雄氏から寄贈された歌川広重などの浮世絵版画(田中コレクション)を核としている。広重「木曽海道六拾九次之内」、「東海道五十三次之内(行書東海道)」や「京都名所之内」をはじめ、広重とともに幕末の浮世絵界を彩った歌川国芳による「木曽街道六十九次之内」など、主に「広重」と「木曽街道(中山道)」をテーマとしている。特に、原寸大浮世絵版画 重ね摺り体験コーナーが人気とのこと。


【中野村庄屋の家(本酒屋)】 浸水防止壁】 (左側) 8:18

 「中央通1交差点」を渡った左の古い菓子店「菊水堂」を見て、銀座商店街の外れ 「長島橋」手前の左側に建つ黒い屋敷が中野村庄屋の家で屋号を本酒屋と言う。

 また、この屋敷の西端に浸水防止壁という道を仕切る板をはめる為の溝を掘った石が残っている(右下の写真)

 

 中野村庄屋の家で、屋号を本酒屋といいました。文久元年(1861)、皇女和宮が降嫁し、中山道を通って江戸へ下ることになりました。その準備に中山道の各宿場はおおわらわでした。当時、大湫宿の助郷村であった野井村が、和宮が通行するということで岩村藩代官より強制的に賄役(まかないやく)につかせられました。このことを不満に感じた野井村百姓代表熊崎新三郎は、和宮の通行が終わったあと、中野村庄屋宅に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵に斬りつけました。これは後に事件となりましたが、代官による強制的な賄役の負担が野井村の今後の慣例となることをおそれた野井村は、岩村藩相手に裁判に訴えました。最終的には野井村の勝訴となり代官は罷免され、野井村に金25両が下付されました。

【浸水防止壁】

 田違川は長島橋の近くで永田川に直角に流れ込んでいた。そのため洪水のたびに田違川は永田川を堰き止め、水は道路にあふれて本通りへも流れて付近の人家に浸水した。そこで、道の両側に石柱を立て、板をはめて浸水を防ぐことにした。

 長島町はこの水害防止のため、昭和10年、田違川を中央線沿いにつけかえた。

     恵那市・恵那市教育委員会


【中野観音堂】 【秋葉灯篭】 中野村高札場跡】 (左側) 8:22

 中野村庄屋の隣で「長島橋」の手前に中野観音堂が建っており、堂の左側に秋葉灯篭、その左下に中野村高札場跡と書かれた大小の木柱が立っている。

 2.5×2間の大きさで、入母屋造、回り縁のある建物です。この建物がいつごろ建てられたのかは、手がかりがないためによくわかりませんが、江戸時代よりこの場所にあることは古地図や古文書によりわかっています。当時観音堂の近くには、中野村高札場と永田川にかけられていた洗橋(後に中野橋。現在の長島橋)がありました。中野観音堂のご本尊は阿弥陀如来立像でその他に弘法大師像、三十三観音像などが祭られています。観音堂の前に秋葉灯篭がありますが、これは寛政8年(1796)に建立されたものです。

 中山道沿いにあることから、中野観音堂は多くの人々の信仰を集めた事でしょう。そして現在も地元の人々の手により守り続けられています。


【西行硯水】  (左側) 8:40

 「長島橋」を渡り、その先の信号を左折すると道路が五叉路になっている所に出る。ここは真直ぐ方向、右から二番目の道で西行硯水の案内板が示す方向に進むと、左側に東屋の建っている西行硯水公園が現れる。その公園内に西行法師がこの水で硯を摺ったと伝わる小さな泉(右 下の写真)がある。

 文治二年(1186)西行は二度目の奥州の旅に伊勢を出発した。鎌倉で源頼朝に会い、平泉で一年滞在した後、木曽路を経てこの地を訪れ、三年暮らしたといわれる。歌人である西行は、多くの歌を詠み、こんこんとわき出るこの泉の水を汲んで、墨をすったと伝えられている。

 「西行ゆかりの水」

     岐阜県の名水 昭和61年12月認定

   道の辺に 清水 ながるる柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ   西行

   陽炎や ここにも ふじ見の 筇(つえ)の跡   奚花坊

 奚花坊(本巣郡)の句は、天保十四年(1843)馬籠新茶屋の芭蕉句碑建立句会に来訪したときに、ここで詠み、地元の弟子に与えたものである。

     恵那市 恵那市教育委員会


【西行塚道標】  (右側) 8:52

 西行硯水公園の少し先で JRの踏切が見える右角に「西行塚 西に一丁」と刻まれた大きな道標が立っている。

 中山道はここを右折して踏切を渡り、すぐ左折するが、踏切の手前に大井宿の案内と地図の石板が立っている。

【中山道 大井宿】

 中山道は江戸幕府が定めた五街道(東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)の一つで、中部山地を越えて江戸から京都へ通じていた。この街道は木曽を通るため木曽街道とも呼ばれ、また、江戸の将軍家へ嫁ぐ公家の姫宮が通行したので姫街道ともよばれた。姫宮の通行では、文久元年(1861)の和宮降嫁の大通行が名高い。

 東海道が海沿いの平坦な街道であるのに対して、中山道は山間部を通るため道が険しく、距離も長い中山道の宿駅は江戸の板橋宿から近江の守山宿まで67宿であるが、東海道の宿駅である草津、大津の両宿をいれて69宿という場合もある。江戸から京都までは132里10町(約520Km)で一日7里から10里(28Km〜40Km)歩いたとして13日から18日の行程である。

 大河川を渡ることが少ない中山道では川止めを受けることはまれで、好んでこの道を通る人もあった。しかし、碓氷峠・和田峠・鳥居峠・十三峠といった険しい峠や山道が多く旅人にとって困難な街道であった。

 美濃を通る中山道はおよそ30里(約120Km)で、落合・中津川・大井・大湫・細久手・御嵩・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・垂井・関ヶ原・今須の16宿あった。大井宿は、名古屋、伊勢に向う下街道の分岐点に位置する交通の要衝であり、中山道46番目の宿場として41軒の旅籠が立ち並び、美濃16宿中随一のにぎわいを誇った。

 現在、かつての大井宿は恵那市街地の一画を成しているが、今でも他の宿場には例がない6か所の枡形、本陣の門と松、旧旅籠屋などの建物が見られる。大井宿から西の武並町深萱までの中山道は借日の面影をよく残し、西行硯水・西行塚・槙か根一里塚・槙か根追分・姫御殿跡・紅坂一里塚などの史跡も多い。

     恵那市 恵那市教育委員会


【十三峠碑】 (左側) 9:00

 JRの踏切を渡ったらすぐ左折すると「西行塚350m」の案内板が立っている。次いで中央自動車道を潜ると左カーブして高速道に沿うように山道を登って行く

 山道の途中から石畳道になる所に「是より西 十三峠」の道標が、その隣には「中部北陸自然歩道」の真新しい木の道案内が立っており、右「JR恵那駅2.0Km」、左「中山道十三峠みち 西行の森0.8Km 西行塚0.1Km」と標示されていた。

 この先、この木の道案内が要所毎に立っており冒頭で述べた通り安心して峠越えが出来る。そしてここからいよいよ「十三峠」に挑戦する。この辺りから大湫宿までの三里半は、十三どころか二十余りの厳しい峠道を登り下りするが、現在は殆んど「中部北陸自然歩道」・「東海道自然歩道」として整備された道を辿ることになる。


【西行塚】  (右上) 9:06〜9:18

 石畳道を登って行くと間もなく駐車場が現れ、トイレ、中山道案内図、西行苑の説明板がある。西行塚はここを更に右に登って行くが、途中で石畳から階段になると右側に芭蕉句碑、左側に西行歌碑がある。そして 登りきった所の石杭で囲われた室町時代の五輪の塔が伝西行塚である。

 西行塚のうしろの広場には西行展望台がある。この展望台からは恵那市や恵那山・中央アルプス等が眺望できる。

【西行苑】

 西行苑は、平安時代末の高名な歌人西行(法名円位、俗名 佐藤義清1118−1190)をしのんで整備された公園で、ここには西行が葬られたという岐阜県指定史跡西行塚(五輪塔が立つ)や、西行の歌碑、芭蕉の句碑が並んでいます。

 定説では、諸国を行脚した西行は、晩年になって河内国(大阪府)弘川寺に身を寄せ、文治6年2月16日(1190)になくなったといわれています。

 しかし、全国には様々な形で西行の伝説が残されており、その終焉の地にしても十を下らない数の場所が知られています。この恵那市においても古くから西行の伝説がいくつか知られています。その伝説の一つによれば、西行は、諸国行脚の途中、この地に立ち寄り、竹林庵を結び3年暮らしたという。西行は、そこで自分の死期を悟り、自分が死んだらその遺骸をこの中野坂に埋葬するよう村人に頼んだ、そして建久9年2月14日(1198)に亡くなり、村人たちは遺言通りに中野坂の傍らに西行を埋葬し、五輪塔を建てたという。

 事実はともあれ、富裕な北面の武士(院を警護する武士)で妻子もあった西行が、すべてを投げ捨て、僧となって諸国を行脚し、数々の歌を詠んだ(新古今和歌集に94首が入る随一の歌人であった)。こうした西行の人となりが、多くの人々の共感を呼んだり、あるいはある種の憧れにも似た気持ちを生み、それが各地に残る伝説となったのではないでしょうか。

     恵那市教育委員会

【松尾芭蕉句碑】

   西行の わらじもかかれ 松の露

【西行歌碑】

   待たれつる 入相のかねの音す也 あすもやあらば きかむとす覧

【伝西行塚】

 恵那市の市街地を一望できる小高い丘の上に築かれたこの塚は、歌聖西行法師の供養のために造られたといわれています。小さな塚の上には、高さ約1.4mの五輪塔が立っており、形式的には、室町時代末期のものと推定されます。

 西行がこの地で入寂したという伝説は古くからあり、慶長十九(1614)年に書写された当市大井町の長国寺に伝わる『長国寺縁起』に終焉の様子が細かく記されています。

 西行塚は、太田南畝(蜀山人)の旅行記『壬戌紀行』(1802)や秋里籬島の『木曽路名所図会』(1805)など、江戸時代の出版物に登場し、古くから中山道の名所の一つとして有名で、今も大切に祀られています。

     平成十八年三月 恵那市教育委員会


槙ケ根一里塚】  (左右) 9:23〜9:28

 西行坂を登りきると西行の森公園に出て、その入口に左右共良く残っている槙ケ根一里塚がある。

 この公園は「桜百選の園」と言われ桜の名所となっている。この時期染井吉野は終わっているが八重桜と緑色の桜が見事だった。

 また公園の駐車場に東屋とトイレが完備している。 

左側の塚
 

西側の駐車場から写した右側の塚で

東屋の後ろに左の塚の斜め松が見える

公園内の八重桜
 

 

【槙ケ根一里塚】 岐阜県史跡(昭和34年11月16日指定)

 一里塚は、一里(約四キロ)ごとに街道の両側に土を盛り、その上に榎を植えて旅人たちに里程を知らせた塚である。戦国時代の末(十六世紀後半)には、山陽道の備中の河辺から北九州肥前名護屋のあいだに築かれていたといわれるが、一般的には、慶長九年(1604)、徳川幕府が江戸日本橋を起点として、東海道や中山道などの主要な街道に設けさせ制度化したものをいっている。しかし、百八・九十年後の天明年間(1780年代)のころには、姿を消したものがかなりあったという記録が残っている。

 県内の中山道には、全部で三十三か所あったが、現在はそのほとんどがとりこわされ、現存しているのは、当市内のこの槙ケ根一里塚と紅坂一里塚のほかに瑞浪市内の権現山一里塚など五カ所の合わせて七カ所にすぎない。また、全国的にも現存する数はきわめてすくなく、一里塚は江戸時代の街道の面影を今に残す貴重な文化財である。

 この槙ケ根一里塚は、北の塚が高さ約3.5m、幅は9.9m、南塚は北塚より少し大きく高さは3.9m、幅は10.1mある。塚の頂上に植えられていたといわれる榎は両塚とも残っていない。

 近年の土地開発が進む中で、この附近の中山道は開発から免れており、この槙ケ根一里塚のほかに西行塚や西行坂なども原形をとどめ往時の中山道を偲ぶことができる。

     恵那市教育委員会 恵那ライオンズクラブ


【茶屋榎本屋跡】 (右側) 9:43 【茶屋水戸屋跡】  (左側) 9:4

 

 公園を後にするとしばらく平坦なドウダンツツジの並木道になり、こちらも花が咲き誇って見事だった(左の写真)

 この先一旦ゆるやかな下り坂になるが、再び上って舗装道路に出た所に茶屋榎本屋跡と書かれたの小さな 黒い杭のみが立っていた。

 舗装道路を少し行くと今度は左側に茶屋水戸屋跡の杭が立って おり、その1〜2分先にも2本目の茶屋水戸屋跡の杭が立っていた。水戸屋は大きな敷地だったのか、場所が特定出来なかったのか、2軒あったのかは不明。


【茶屋松本屋跡】 (右側) 9:50

 2本目の茶屋水戸屋跡のすぐ先に「東海道自然歩道」と「中部北陸自然歩道」の合流点という「長距離自然歩道」と書かれた説明板がある。

 その先「セントラル建設」の門前から、青い道標に従って石垣に沿った右の平らな道に入る(左の写真)

 山道になるとすぐ右側に茶屋松本屋跡の黒い杭が立っている(右の写真)

【長距離自然歩道】

 ここは、東海自然歩道と中部北陸自然歩道の合流する恵那市槙ケ根地内です。

 ここから東海自然歩道は西と南へ続きます。西は旧中山道沿いに恵那市武並、瑞浪市方面へ、南は恵那市三郷、岩村町方面へ向かいます。

 また、中部北陸自然歩道は東へ続き、西行の森や西行塚を経由してJR恵那駅に到着します。


【槙が根立場 】 伊勢神宮遥拝所 】  (左側) 9:53

 茶屋松本屋跡の少し先、左側の木立の中に「かまど跡」等様々な跡が石で囲われている(下の写真で中央部に見られる)場所に出る。ここが槙ケ根立場跡で右側に説明板が立っている。立場跡には伊勢神宮遥拝所の礎石もある。

【槙が根立場の茶屋】

 江戸時代の末頃ここには榎本屋・水戸屋・東国屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九戸あった。そして店先にわらじを掛け餅を並べ、多くの人がひと休みして、また旅立って行ったと思われる(旅人の宿泊は宿場の旅籠屋を利用し、茶屋の宿泊は禁止されていた)。

 これらの茶屋は、明治の初め宿駅制度に変わり、脇道ができ、特に明治三十五年大井駅が開設され、やがて中央線の全線が開通して、中山道を利用する人が少なくなるにつれて、山麓の町や村へ移転した。

 そして今ではこの地には茶屋の跡や古井戸や墓地などを残すのみとなった。

【伊勢神宮遥拝所】

 京都から江戸へ旅をした秋里離島は、その様子を文化二年(1805)に「木曽名所図会」という本に書いた。

 そしてその挿絵に槙が根追分を描き、追分灯籠の横に注連縄を張った小社を書いている。

 ここにある礎石は絵にある小社遺構であろう。

 伊勢神宮参拝の人はここで中山道と別れて下街道を西へ行ったが、伊勢までの旅費や時間のない人は、ここで手を合わせ遥拝したという。

【槙が根立場】

 ここは中山道槙が根追分である。

 東へ七本松坂や西行坂を下って中野村を過ぎ、阿木川を渡れば大井宿であり(この間約一里)、西へ約二里半(約10Km)深萱立場や炭焼場の十三峠を越せば大湫宿である。

 ここで中山道に分かれて西に下る道は、竹折や釜戸を経て内津峠を越せば名古屋や伊勢方面に行くことができ「下街道」と呼んでいた。

 江戸時代ここは中山道の通行者に加えて、木曽や尾張方面の商人荷、それに善光寺や伊勢神宮等の参拝者が行き交い、付近一帯に道をはさんで多くの茶屋があり、巻が根茶屋とか槙が根立場と呼んでいた。

 享和二年(1802)三月にこの地を通った太田南畝は、著書「木曽の麻衣」にこのあたりの様子を次のように書いている。

 「石ばしる音すざましき流れにあり、わたせる橋をみだれ橋という。みたらしの坂というを上る事五六町にして、山のいたゞきより見れば、左右の山ひきく見ゆ、ややくだりゆきて右の方に石の灯籠ふたつたてり。いせ道と石にゑれり、ここに仮屋して伊勢大神宮に棒納の札をたつ。道のへに一重桜さかりなるは遅桜なるべし。一里塚をへて人家あり。巻かね村という。追分立場というは木曽といせ路の追分なるべし。こゝにもお六櫛をひきてひさぐ。なおも山路をゆきゆきて又一里塚あり。はじめの道にくらぶれはいと近し。松の間をゆきて六七町も下る坂を西行坂という。左の山の上に桜の木ありて西行の塚ありという。円位上人は讃岐の善通寺に終わりをとりぬときくに、こゝにしも塚あることいかがならん。折から谷の鶯の声をきくもめづらしく、頃は弥生の末なるに遺覧在野という事も引いでつべし。砂石まじりに流るゝ水にかけし板橋を渡りて中野村あり・・・・」と。

 中山道の整備は初め慶長七年(1602)、徳川幕府役人大久保石見守を総奉行としてなされた。

 その時の道はこの槙が根追分から西に下り、竹折−釜戸を経て御岳宿へ出た。ところがその翌年こゝから西へ真っ直に行く道が改修され、慶長九年(1604)十三峠を越す道が完成し、大湫宿が設置された(細久手宿の設置は慶長十一年である)。

 その後一里塚を築き塚の上には榎や松を植え、街道の両側に松などの並木を植えて完備した。

 その後にこの地の藩主や村々の農民の手による補修により、江戸と京都を結ぶ幹線道路として、その機能をはたしていた。

     平成三年三月 文化庁 恵那市教育委員会


【追分道標】 【下街道】 (左側) 9:57

 槙ケ根立場跡のすぐ先、左側の草むらの端には『右西京大坂 左伊勢名古屋 道』と刻まれている鳥居の絵が彫られた道標が立っている(下の写真手前の石碑)

 次いで、左に笹やぶの下り道が見え、竹折、釜戸、土岐、多治見を経て名古屋へ続く下街道と呼ばれた道がある(下の写真奥の説明板が立っている所から左に下って行く)。下街道の入口に「国道19号 1Km」の道案内も立っている。

【下街道】

 中仙道を上街道といい、ここで分かれて下る道を下街道と呼んだ。

 下街道は、竹折・釜戸から高山(現土岐市)・池田(現多治見市)を経て名古屋へ行く道である。

 この道は途中に内津峠の山道があるが、土岐川沿いの平坦地を進み、付近には人家も多い。そのうえ名古屋までの距離は上街道より四里半(約十八キロ)近かった。そのため下街道は一般旅行者に加えて商人や伊勢神宮の参拝者も多く大変にぎわった。

 しかし幕府は中仙道の宿場保護のため下街道の商人の通行を禁止し、尾張藩も厳しく取り締まったが徹底することができず、幾度も訴訟裁定を繰り返した。


【姫御殿跡】 (右上) 10:10

 少し進んだ下り道の右側に立つ馬頭観音を見たすぐ 先の階段上に、姫御殿跡大きな石碑が立っている。皇女和宮の休憩の為のみに建てられたという朱塗りの御殿があった場所で、現在もベンチが置かれて休憩が出来る。

 ここを祝峠といい、周囲の展望がよいので、中仙道を通る旅人にとってはかっこうの休憩地だった。この近くに松の大木があり、松かさ(松の子)が多くつき、子持松といった。この子持松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため、子と孫が続いて縁起がよい場所といわれていた。 そのためお姫様の通行のときなどに、ここに仮御殿を建てて休憩されることが多かった。

 文化元年(1804)十二代将軍家慶のもとへ下向した楽宮(さぎのみや)のご通行ときは、六帖と八帖二間の仮御殿を建てた。文久元年(1861)十四代将軍徳川家茂のもとへ下向した和宮のご一向は、岩村藩の御用蔵から運んだ桧の無節の柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建てて御休みになった。

 地元の人たちは、この御殿は漆塗りであったといい伝え、ここを姫御殿と呼んでいる。


【子持松跡】  (右側) 10:17

 姫御殿跡のすぐ先に松ぼっくりが鈴なりに付いている幹が二股になっている松があり、その前に子持松跡の黒杭が立っている。

 跡と書いてあるが、目の前の松は何代目かの子持松だろうか。


【首なし地蔵跡】  (左側) 10:19

 子持松跡のすぐ先に屋根のみがかかっている地蔵堂があり、二体の地蔵が祀られているが、左の 大きい方の地蔵の首がなく石が乗っていた。その脇に説明板と首なし地蔵跡と刻まれた大きな標柱が立っている。

 この地蔵様は宝暦六年(1756)地元(武並町美濃)の人たちが、旅行者の道中安全を祈って立てたものである。

 その後地蔵様は、下街道ぞいの丘の上に移され、春の桜の頃に地元の人たちが集まって、盛大な祭典を行っている。

 この地蔵様にはこんな話が残っている。

 昔、二人の中間(ちゅうげん)が、ここを通りかかった。夏のことで汗だくであった。「少し休もうか」と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった。しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいた。びっくりしてあたりを見回したがそれらしき犯人は見あたらなかった。怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵様の首を切り落としてしまった。

 それ以来何人かの人が首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったという。


【下座切場跡】  (右側) 10:23

 首なし地蔵跡を過ぎると乱れ坂と呼ばれる急な下り坂になる。次項の説明にあるように現在でも大変な急坂で、西側から登って来る人は本当に息が乱れると思う。

 その坂の途中に下座切場跡の黒杭が立っている。村役人が裃を着て、土下座をして役人を迎えた場所とのこと。


【乱れ坂と乱れ橋】 10:26

 乱れ坂を下った所に現在も土橋である乱れ橋(下の写真)が架かっており、下を流れる四つ谷川は橋の少し下流で段差が続き勢いよく流れていた。その橋の袂に乱れ坂と乱れ橋の説明板が立っている。

 大井宿から大湫宿までの三里半(約14Km)には、西行坂や権現坂など数多くの坂道があり、全体をまとめて十三峠という。乱れ坂も十三峠の一つで、坂が大変急で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れるほどであったために「乱れ坂」と呼ばれるようになったという。このほかに「みたらし坂」とか「祝い上げ坂」ともいう。

 坂のふもとの川を昔は乱れ川といい、石も流れるほどの急流であったという。ここに飛脚たちが出資して宝暦年間に長さ7.2m、幅2.2mの土橋を架けた。この橋は「乱れ橋」あるいは「祝橋」といい、荷物を積んだ馬(荷駄)1頭につき2文ずつを徴収する有料橋のときもあったという。

     平成15年3月 恵那市教育委員会


【お継原坂】  【四ツ谷無料休憩所】 (左側) 10:35〜11:00

 乱れ橋を渡ると道は水田の中を登って行き、民家が現れた丁字路右の道標(東海道自然歩道)の脇に石州さまの黒杭が立っていた。「石州」は今の島根県で、石見国銀山の人がここで亡くなって葬ったとのこと。

 そこから4分程進んだ左側、道が平らになる直前にお継原坂の黒杭が立っていて、平らになった左側に四ツ谷無料休憩所がある(左の写真)

 トイレがあり手も洗えるので、昼時に着いた人はここで弁当を広げると良い。私達もここで昼食休憩とした。休憩所には自販機がないが、このすぐ先の右側にあった。


【竹折村高札場跡】  (左側) 11:03 かくれ神坂】

 更に水田道を進むと、田んぼの縁に竹折村高札場跡の黒杭が立っている。その先のY字路は道標に従って左に行く。

 山道を下り、細い国集川に架かる国集橋を渡った所で右へ進むとかくれ神坂の黒杭が現れる。


平六坂】 【平六茶屋跡】  (右側) 11:14

 かくれ神坂から平六坂(石碑あり)の上りが続く。

 平六坂を上り切った右側に平六茶屋跡の黒杭が立っており、広々とした田園風景になる(次項の写真参照)


【びやいと茶屋跡】  (右側) 11:17

 左の写真の建物の前(停まっている車の向こう側)にびやいと茶屋跡の黒杭が立っている。

 『枇杷湯糖(びやいと)』は、枇杷(びわ)の葉に薬草を入れて煎じたもので、疲れを癒すと言われる薬湯。


【夫婦岩跡】  (右側) 11:20

 2〜3分進んだ木立の前に夫婦岩跡の黒杭が立っているが、それらしい岩は見当たらないので文字通り跡である。


【紅坂一里塚】  (左右) 11:22

 夫婦岩跡のすぐ先に、左右とも原型を残す紅坂一里塚が現れる。日本橋から八十九里目。

 一里塚は、慶長9年(1604)徳川幕府の命によって東海、東山、北陸の3道に各一里(約4Km)ごとに築かれた里程標で、土くずれを防ぐために頂上には榎の木が植えられました。ここは、紅坂一里塚といいここから江戸へ89里、京へ45里といわれます。

右側の一里塚

 

 


【紅坂石畳】 ボタン岩】  11:27 

 紅坂一里塚を過ぎるとすぐ紅坂石畳の下りになる。一里塚から3分程下った石畳の途中、気をつけて下を見ていると写真のように花びらに見えるボタン岩が見つかる(左の写真)


【でん坂】 【うばが茶屋跡】  (右側) 11:31

 紅坂石畳に続いて、でん坂の石畳となる。ボタン岩から3分程下った右側にでん坂の黒杭が立っている。

 でん坂石畳が終わる直前右側に、東海自然歩道の標柱とうばが茶屋跡の黒杭が一緒に立っている。


【馬茶屋跡】 (左側) 11:33

 薮の中ではなく木の上から鳴く鶯の声を聞きながら小さな「紅坂橋」を渡った左側民家の前に馬茶屋跡の黒杭が立っていた。


【黒すくも坂】 佐倉宗五郎碑  (左側) 11:39

 馬茶屋跡から2分進んだ下り坂途中に中山道 黒すくも坂という石碑が立っている。

 黒すくも坂を下りきった十字路左側に鳥居とやや小高い塚の様な上に小さな祠(佐倉宗五郎大明)があり、手前道際に佐倉宗五郎碑の黒杭が立っている。

 元禄年間(1700年頃)、岩村藩で農民騒動が起きそうになった時、竹折村庄屋田中与一郎が将軍に直訴して農民を救ったが、本人は打ち首になった。この話が佐倉宗五郎事件に似ていることからこの名前で祀ったのではないかと云われる。


三社灯籠  (右側) 【神明神社】 (右奥) 11:41

 佐倉宗五郎大明神の反対側に大きな三社灯籠が建っていて、そこを右折して100m程奥に進むと神明神社があり、沢山の歌碑や句碑が並んでいた(真中の写真)

 その中、前列一番右(神社側)に芭蕉の句碑が建っている。

 石段を上ろうとしたとき左脇の石垣の上に70〜80cm蛇が日向ぼっこをしていたのには驚いた(右下の写真)

      

【恵那市武並藤 深萱神明神社前句歌碑郡について】

 当所に建つ十四基の句歌碑については、『恵那市史』(恵那市史委員会)『たけなみの句歌碑額』(武並町史委員会)に記述があります。

 なぜ句歌碑を此処に集め並べたのか、その経緯は既に判らなくなっています。

 ただ、「人夫寄付」の碑に明治四十四年仲春の刻字があり、それを手がかりにして、

@俳諧美濃派傘下の藤村俳壇の宗匠が三世まで逝去したことを受けて、

A五世までと和水の発句の代表句を残そうとしたと推測できます。

B加えて、長生きが出来た「けふ子」「辰太郎」もまた、藤村俳壇の有力な一員でした。

 つまり、当所の句歌碑群は、「幕末から明治期に至る藤村俳壇のモニュメント」であるのです。なお、当所の近くにある観音堂「若林庵」に奉納されている『文政句額』に俳名を残す村人たちは、歌碑を残した村人たちより一世代前の人たちです。

 以下、各句歌碑についての簡略な説明です。

 とあり、けふ子、辰太郎等十四基全てについて解説が書かれていたが、芭蕉の記述のみ記載する。

    山路来て何やらゆかし 寿美連艸   はせ越 

 山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉 (野ざらし紀行)

 「美濃派」の俳人たちは、松尾芭蕉を「祖師」と称して尊崇し、句碑を建立し、俳聖を偲ぶ縁とした。


【藤村高札場】 【庚申塚】 (右側) 11:49

 「藤大橋」を渡る手前右側に「よごれ茶屋跡」があるはずだったが見逃した。

 「藤大橋」を渡って県道418号を左へ行くと復元された藤村高札場があり、その横に庚申塚が並んでいる。

 高札場は、村のうち人通りが多く目につきやすい場所に、一村一か所建てるのが普通であるが、この藤村や竹折村のように二か所に建てた村もある。高札には親子・キリシタン・毒薬・火付・徒党・駄賃銭などの多くの札があるが、藤村のこの高札場には二枚掛けてあった。[享和元年(1801)頃]

 高札場の管理は藩に命じ、村人にはきまりを厳しく守らせ、この前では笠などを取らせ礼をさせるなど厳重に取り締らせていた。

(この高札は当時の大きさで尾張藩用のものを書写したものである。)

     恵那市 恵那市教育委員会

【一枚目の高札に書いてあること】

        定

一、きりしたん宗門ハ年御制禁たり、自然不審成もの有之ハ申出へし、御褒美として、

   えてれんの訴人    銀五百枚

   いるまんの訴人    銀三百枚

   立帰者の訴人     同   断

   同宿・宗門の訴人   銀百 枚

 右之通下さるへし、たとひ同宿宗門の内たりといふとも、申出る品により銀五百枚下さるへし、かくし置他所あらハるゝにおゐては、其所之名主并五人組迄一類共に可罪科者也、

  正徳元年五月日

     奉行

【二枚目の高札に書いてあること】

        定

一、火を付ける者をしらハ早々申出へし、若隠置におゐてハ其罪重かるへし、たとひ同類たりといふとも、申出るにおゐてハ其罪ゆるされ、急度御褒美下さるへき事、

一、火を付ける者を見付は、これをとらへ早々申出へし、見のかしにすへからさる事、

一、あやしき者あらハせんさくをとけて、早々御代官・地頭へ召連来るへき事、

一、火事の節、鑓・長刀・刀・脇差等ぬき身にすへからさる事、

一、火事場其外いつれの所にても、金銀諸色ひろひとらは御代官・地頭へ持参すへし、若隠し置他所はらハるゝにおゐてハ、其罪重かるへし、たとひ同類たりといふとも、申出る輩は其罪をゆるされ、御褒美下さるへき事、

 右條々可守之、若於相背む可罪科者也、

  正徳元年五月日

     奉行


【深萱(ふかがや)立場】 (右側) 11:52

 高札場を過ぎると、民家の生垣の前に深萱立場の説明碑がある(下の写真)

 この民家の角を右折すると、目の前の三角地に新しい東屋と綺麗なトイレがあったので5分休憩。

 東屋には『岐阜県七宿 散策ガイド』が置いてある。このパンフレットは旧中山道を歩く人にとってルートと役に立つ情報が得られるので、是非手に入手することを薦める。かなり前の宿場になるが、西側から歩いて来たウォーカーに一冊分けて貰ったことがあり、ここで入手したものだと納得できた。

 立場とは、宿と宿の間にある旅人の休息所で、「駕籠かき人足が杖を立てて、駕籠をのせかつぐ場所」と言われている。

 深萱立場は大井宿と大湫宿の中間にあり、茶屋や立場本陣、馬茶屋など10余戸の人家があって、旅人にお茶を出したり、餅や栗おこわといった土地の名物を食べさせたりしていた。立場本陣は、大名など身分の高い人の休憩所で、門や式台の付いた立派な建物である。馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くして、雨や日光が馬に当たらないよう工夫されていた。

     平成15年3月  恵那市教育委員会


【山形屋 渡邊】 (右側) 12:00  【中山道 道案内板】 (右側) 12:02

 東屋を出た右側に白い塀に囲われた渡邊家の立派な家があるが、その塀の角に山形屋渡邊と刻まれた石碑のみが立っていたが何屋なのかは不明。

 渡邊家のすぐ先に屋根が掛かった「ここは中山道の深萱立場」の大きな道案内板とその下にベンチが置かれていた。そこには、東の「下座切場」から西の「ばばが茶屋跡」(恵那市と瑞浪市の境)迄の旧中山道絵地図が描かれていて下記の案内も書かれていた。

 深萱立場には数軒の茶屋があり、多くの旅人の憩いの場となっていた。

 特に立場本陣は和宮をはじめ多くの姫君や大名行列の殿様が御小休みされて家である。この道は大井宿と大湫宿の三里半(約14Km)を結び十三峠という。

 尾根づたいの展望のよい、土道が続き、途中には一里塚や石仏や多くの茶屋跡などが残り、今でも往時の面影のよく残る道である。

     恵那市・恵那市教育委員会・武並地区中山道保存会


西坂】 【馬茶屋跡】 【みつじ坂】  12:20

 道案内板のすぐ先、右への登り道が西坂で、その途中左奥に「ちんちん石」なるものがあるはずだが、気をつけていたのに入口が分からなかった。案内が立っていると言われるが見つけられなかった。

 「ちんちん石」は、第11回(松井田宿)で出合った「茶釜石」と同じで、小石で叩くと良い音がする石とのこと。「茶釜石」を経験したので諦められるが、チョット残念!

 道の両側から犬に吠えられる民家を過ぎた左側に馬茶屋跡の黒杭が立っていた。

 変則七叉路に出たら、更に左の石畳道を登る。すぐ石畳が終り土の道になるが、この上り坂がみつじ坂で右側に黒杭が立っている。さきほどの道案内板には「みつじろ坂」と書かれていたが黒杭にはみつじ坂と書かれていた。


【三城峠】 【ばばが茶屋跡】  (左側) 12:22

 きつい坂を登り、みつじ坂の杭が現れたら程なく三城峠に到着し、右側に三城峠の黒杭、左側にばばが茶屋跡の石碑が立っている。

 


【茶屋坂】 【中山道碑】 (右側) 12:27

 三城峠からの下り坂は茶屋坂。5分ほど下ると舗装道路に出て、左に進むと石の大きな中山道碑が建っている。

 左の写真は、西側から写したもので、下って来た茶屋坂は、奥の緑色と茶色の林の間の道。


【大久後(おおくご)の向茶屋跡】  (左側) 12:33

 蛇行している道の先を道標に従って右に進む。上り坂を登りきる左側に大久後の向茶屋跡と書かれた白い木の標柱が立っている。


【観音坂と馬頭様】 (右側) 12:44

 大久後の向茶屋跡を過ぎると下り坂になり、Y字路は左の草道を行く。すぐ砂利道になりやがて観音坂の上り道に入る。

 Y字路から3分で左側に大久後観音坂の石の標柱を見て、更に3分きつい観音坂を登ると右側に観音坂と馬頭様の案内板が立っている。そこにはびっしりと史跡が記入されている十三峠の地図も載っていた。

 大井宿と大湫宿の間の三里半(約十三、五Km)は、起伏にとんだ尾根道の連続で、「十三峠におまけが七つ」とも言われ、中山道の中でも難所の一つでした。

 ここは「観音坂」と呼ばれ、瑞浪市の東の端、釜戸町大久後地区に位置しています。

 坂の途中の大岩の上には、道中の安全を祈念する馬頭観音像が立ち、坂の西には天保二年(1841)銘の「四霊場巡礼記念碑」が建っています。

 さらにその西に連なる権現山の山頂には刈安神社が祀られ、山麓には往時駕籠などを止めて休息した、大久後・炭焼の二つの立場跡が残っています。

     瑞浪市


【観音坂の霊場巡拝碑】 (右側) 12:48

 案内板のすぐ先左側に東屋が、右側に観音坂の霊場巡礼碑と書かれた白木 標柱と、その後に石碑が立っていた。

 ここから下り坂になる。


【灰くべ餅の出茶屋跡】 (左側) 12:51

 先ほど観音坂手前のY字路で別れた新道と再び合流したすぐ先左側に、灰くべ餅の出茶屋跡と書かれた白木標柱が立っている。

 ここから2分程進んだ、大久後駐車場に『東海道自然歩道案内』板が立っていた。

【中山道宿場めぐりの道】

 この恵那市武並町から瑞浪市細久手までのコースは、豊かな自然の中、大部分が中山道と重複していることから史跡・石仏も多く残っており、自然と歴史が楽しめます。

●ここ(大久後駐車場)から西(大湫方面)へ向うと、山頂に岩倉がある刈安神社、炭焼立場跡、樫の木の石畳、一里塚、巡礼水、三十三観音などの史跡が続き、途中ゴルフ場の脇を通過したりもします。さらに、山坂をぬけると中山道江戸から47番目の宿場町である「大湫宿」に到着し、ここでは問屋場跡、脇本陣などを見学できます。さらに進むと、苔むした日本一長い石畳の残る「琵琶峠」を越えます。頂上には和ノ宮の歌碑があり、ここからの眺望は良く、遠くは加賀白山も眺めることができます。その先、石畳を通り抜けて北野神社を過ぎると、中山道のオアシスともいえる「弁財天の池」があります。池の中央には弁財天の石仏が祀られ、池には美しいカキツバタなどが見られます。そこからさらに進むと、次の宿場町である「細久手宿」に到着します。

●ここから東(恵那方面)へ向うと恵那市武並地内(恵那市武並支所付近)で、本線と支線(JR武並駅まで)のコースに分岐しています。本線を更に進むと、槇ヶ根地内では、「東海自然歩道」と「中部北陸自然歩道」の合流点があります。


【大久後の観音堂と弘法様】 (右側) 12:55  【権現坂】 【鞍骨坂】 【刈安神社】 (右側) 13:05

 大久後駐車場を過ぎた上り坂の途中右側に大久後の観音堂と弘法様の 白木標柱が立っていて、数段上った大きな岩の前に三方が剥きだしの祠が建っている。

 ここには公衆便所もある。

 観音堂を過ぎ、更に急できつい権現坂を上る。権現坂に続いて鞍骨坂の上りが続く。

 鞍骨坂を登り切った右側に刈安神社の長い階段が現れるが、とても上る気にはならない。

 


【炭焼立場跡】  (右側) 13:05

 刈安神社からは下り坂だが45秒で下り切り、そこに炭焼立場跡の案内板が立っていて、中山道案内図 が載っている。

 立場というのは、馬のつなぎ場を備えた休憩所のことです。小さな広場と湧水池があり、旅人や馬の喉を潤しました。

 太田南畝(蜀山人)が享和二年(1802)に著した『壬戌紀行』に「俗に炭焼の五郎坂といふを下れば炭焼の立場あり左に近くみゆる山は権現の山なり。」という記述があります。十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場でした。

     瑞浪市


五郎坂】 【樫ノ木坂】 【権現山一里塚】  (左右) 13:20〜13:32

 炭焼立場跡からすぐ上りの五郎坂に、続いて樫ノ木坂(石畳)の連続する上り坂を行くと、左右に塚が現存する権現山一里塚に着く。日本橋から九十里目。

 右塚の横に綺麗なベンチとテーブルが置かれており、きつい坂を上って来る昔も今もここで休憩出来るのが嬉しい。

 ここでトラブル。樫ノ木坂を上っている途中(13:15) 、道の傍らに清水が流れており、そこに「何やらゆかしすみれ草」を想像する小さな青い花(左の写真)が咲いていたので、写真を撮ろうとしゃがんだ時に、大事な記録用ノートを落としてしまった。

 一里塚まで登った時に気が付いて戻ったところ、花の傍に落ちていたのを発見。ホッとしたが、急坂を往復10分上り下りしたのは想定外の労力だった。

【十三峠の内中山道 樫ノ木坂】 (樫ノ木坂の石碑に刻まれていた文字)

 一里塚を過ぎ 樫ノ木坂を下りて 俗に炭焼の五郎坂と云うを下れば炭焼の立場あり

 左に近く見ゆる山は権現の山なり しばし立場に輿立てて憩う

     太田南畝 壬戌紀行

左側の塚

【権現山一里塚】 県指定史跡

 江戸へ90里、京へ44里という道標で樫ノ木坂一里塚とも呼ばれ石畳とともに中山道当時の姿を偲ばせてくれます。この一里塚は慶長8〜9年十三峠の施設工事とともに築かれたものですが、瑞浪市内の4ヶ所のように完全に残っている例はなく貴重です。

右側の塚


【巡霊水】  (右側) 13:38

 権現山一里塚の先で「中仙道ゴルフ倶楽部」が現れ、中山道はゴルフ場の間を進む。

 OBのゴルフ玉が幾つも落ちている小道を歩いて行くと、小さな水溜りの様な巡礼水に出会う。その上段には壊れかけた石仏が倒れていた。

 巡礼水の説明は新旧二つの案内板と石碑に刻まれたものがあった。

【巡礼水と馬頭様】 (新)

 大湫宿と大井宿の三里半(約十三、五km)は「十三峠におまけが七つ」と呼ばれ、二十余りの山坂道をいい、中山道の中でも難所の一つでした。十三峠は、大湫宿東端の寺坂から、巡礼水の坂、権現山の一里塚、観音坂を過ぎて恵那市へと続きます。

 この地には、お助け清水・巡礼水と呼ばれる小さな池の跡が残り、その上段には、宝暦七年(1757)銘の馬頭観音が祀られています。その昔、旅の母娘の巡礼がここで病気になったが、念仏によって目の前の岩から水が湧き出し、命が助かったと言い伝えられています。

     瑞浪市

【十三峠の巡礼水】 (旧)

 旅の巡礼がここで病気になったが、念仏によって水が湧き出して生命が救たったと伝えられています。

 僅かな清水ですが8月1日に枯れることはないといい、旅人たちから「十三峠のお助け清水」として大切にされてきたものです。

【中山道 巡礼水】 (石碑)

 坂を下りゆくに 左の方の石より水流れ出るを巡礼水という

 常には さのみ水も出ねど 八月一日には必ず出するという

 むかし巡礼の者 此の日此所にて なやみ伏しけるが この水飲みて命助かりしより今もかかることありといえり

     太田南畝 壬戌紀行


【びやいと坂】 【曽根松坂】 【阿波屋の茶屋跡】 【十三峠の三十三所観音石窟】 (右側) 13:52

 巡礼水から少し進むとびあいと坂(白木 標柱)の下りになり、続いて曽根松坂(石碑)を下ると、少し開けた所に阿波屋茶屋跡の石碑がある。また、その奥に十三峠の三十三観音と言われ、中に三十三体の馬頭観音が祀られている石窟がある。

【中山道曽根松坂】

 少し下りて また芝生の松原を登りゆくこと四 五町 あやしき石所々にそば立ちて赤土多し 曽根松の坂という

     (壬戌紀行より)

三十三所観音石窟

【十三峠の三十三所観音石窟】 

 大湫宿と大井宿の三里半(約十三、五km)は険しい山坂の連続する「十三峠」と呼ばれる尾根道で、中山道を行き交う人馬が難渋した場所でした。

 ここには、道中安全を祈って天保十一年(1840)に建立された観音石窟があり、三十三体の馬頭観音は、大湫宿内の馬持ち連中と助郷に関わる近隣の村々からの寄進です。なお、石窟前の石柱には、大手運送業者の定飛脚嶋屋・京屋・甲州屋を始め、奥州・越後の飛脚才領、松本や伊那の中馬(ちゅうま)連中が出資者に名を連ね、中山道の往時を偲ばせる貴重な史跡です。

     瑞浪市

石窟の内部


十三峠尻冷しの地蔵尊】 (左側) 13:57

 三十三観音から2分ほど下った左側に石で囲われて清水が湧いている場所があり、杉の木の下に地蔵が祀られている。地蔵が尻を冷しているように見えることから尻冷やしの地蔵尊という名が付いた。

 昔の旅人にとって道中の飲み水は大切でした。山坂の多い十三峠では特に大切であり、ここの清水は大変貴重とされました。この地蔵尊は、そんな清水に感謝して建てられてものですが、ちょうど清水でお尻を冷やしているように見えることからこんな愛称で親しまれてきました。

 

 道中の飲み水が大変貴重であることが、このあとの大湫宿で痛切に感じた出来事が起こる。


【しゃれこ坂】 【八丁坂の観音碑】 (左側) 14:06  【山の神坂】 【童子ヶ根】 (右側) 14:13

 杉林の道を下って行き、広い道を横断したらしゃれこ坂を上る、途中しゃれこ坂の石碑が現れたら1分で左側に十三峠八丁坂の観音碑に着く。石碑と白木標柱が立っている。

 少し平らな道になるが、すぐ山の神坂(石碑)の上りになる。

 再び平になった右側に童子ヶ根の石碑があった。

【中山道しゃれこ坂(八町坂)】

 曲がりまがりて登り下り猶三、四町も 下る坂の名を問えばしゃれこ坂という

 右の方に南無観世音菩薩という石を建つ

 向こうに遠く見ゆる山は かの横長岳(恵那山)なり

     太田南畝 壬戌紀行


【寺坂の石仏群】 (右側) 14:17

 童子ヶ根の石碑から最後の寺坂を下って行くと、突然眼下に大湫宿が現れる(左の写真)

 更に下ること1分で右上に寺坂の石仏群が見える。白木標柱の横に南無阿弥陀仏等の文字碑が2基、馬頭観音等が3基あった。


【十三峠碑】 【大湫宿碑】 14:17

 苦しかった十三峠も石仏群を過ぎた所で終わり、右側に中山道十三峠の石碑が立っている。

 左側の大湫宿東駐車場入口に中山道大湫宿の石碑が2基立っている。

 手前は道標になっており、真ん中に「中山道 大湫宿」、「右 京へ 四十三里半」、「左 江戸へ 九十里半」と刻まれていた。

【中山道十三峠】

 これよりいわゆる十三峠とやらんを越えゆべきに 飢えなばあしかりなんとあやしきやどりに入りて昼の○偏にという字)す 庭に石○の右上がでなくぐさの盛りなるにも わがやどの花いかがならんとしのばし 道の右に山之神の社あり例の輿より下りて歩む

 輿かくものに委しを問いて十三峠の名をもしるさまほしく 思うにただに十三のみにはあらず 詳しくも数えきこえなば 二十ばかりもあらんと 輿かく者いう

 はじめてのぼる坂を寺坂といい 次を山神坂という

     太田南畝 壬戌紀行より

【中山道 大湫宿】

 中山道の宿駅にて京の方細久手宿より一里半余江戸の方大井宿より三里半の馬継ぎなり 尾州御領 名古屋まで十六里あり 十三嶺は宿の東方大井宿との間 琵琶坂は細久手に至る大道の坂を云う 西に伊吹山も見えて好景なり

     新撰美濃志


【大湫宿】 日本橋 から91里12町(358.7Km)、京へ44里22町(175.2Km)
 天保14年(1843)で人口338人、総家数66軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋30軒。

 海抜510mの高地に、江戸から四十七番目の宿として、慶長九年(1604)に新たに設けられた。東の大井宿へは三里半、西の細久手宿には一里半と、美濃十六宿の中でも最も高く、それだけに人馬ともに険しい山坂が続く難所に開かれた宿でした。東に枡形を設けた宿の中心には、今も神明神社の大杉がそびえ、古い町並みがよく残っています。

 脇本陣の保々家(江戸中期)、旅籠の三浦家(江戸末)、問屋の丸森森川家(江戸末)、新森森川家(明治)の四棟は、建造物として国の登録有形文化財に登録されています。

     高札場手前に立っていた大湫宿の案内板より

木曽海道六拾九次之内 大久手 (広重)

 大湫宿を出て、琵琶峠へ向かう途中の二つ石(母衣岩・烏帽子岩)のうち、広重は母衣岩を描いたと思われる。

 

二つ岩のうち母衣岩

(西側から撮影)
 


【旅籠 三浦家】 (国有形文化財) 【問屋 丸森 森川家】 (国有形文化財) (左側)

 宿に入ったら大湫郵便局の所を左折する。ここが東の枡形で大湫宿内は県道394号線になる。

 郵便局を左折した所に古民家が2棟並んでいる。

 宿の終わりに立っていた大湫宿の案内板で、その2棟が旅籠三浦家問屋 丸森 森川家であることが分かり良く見るのであったと後悔。


【大湫宿本陣跡】 【皇女和宮御歌】 (右側) 14:22

 問屋 丸森 森川家の斜め向かいの駐車場入口に大湫宿本陣跡の説明板が立っており、奥に姫様の可愛い人形が3体並んでいた(左の写真)

 駐車場の脇のスロープを上がると大湫小学校の校庭になり、校門左に皇女和宮御歌の碑が建っている(右の写真)

【皇女和宮碑】 

    遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり

    思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは

【大湫宿本陣跡】

 大湫宿本陣は現小学々庭にあり間口二十二間(約四十メートル)奥ゆき十五間(約二十七メートル)部屋数二十三畳数二百十二畳、別棟添屋という広大な建物で公卿や大名、高級武士たちのための宿舎でした。

 また 此ノ宮 (享保十六年・1731年)

     眞ノ宮 (寛保元年・1741年)

     五十ノ宮 (寛延二年・1749年)

     登美ノ宮 (天保二年・1831年)

     有 姫 ( 同 年       )

     鋭 姫 (安政五年・1858年)

などの宮姫のほか皇女和ノ宮が十四代将軍徳川家茂へ御降家のため(文久元年・1861)十月二十八日その道中の一夜をすごされたのもこの本陣です。

  和ノ宮御歌

      遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり


【おもだか屋】 (右側) 14:26

 駐車場から一軒おいたおもだか屋は、かつての旅籠屋、現在は無料休憩所になっている。

 覗いただけで中まで入らなかった。

 


【大湫宿問屋場跡】 (右側) 14:27

 おもだか屋の隣が白山神社でその入口に大湫宿問屋場跡の説明板のみがある。

 問屋場とは問屋役、年寄役、帳付役、人馬指図役などの宿役人が毎日詰めていた宿役所のことで、公用荷物の継立てから助郷人馬の割当て大名行列の宿割りなど宿の業務全般についての指図や業務を行っていた。


【大湫宿脇本陣】 (右側) 14:28

 白山神社から2軒おいた先右側の階段を登った保々家が大湫宿脇本陣で、往時の門が残っている。

 民家として使用中なので一般公開はしていない。

 本陣、脇本陣は大名や公家など身分の高いものの宿舎として建てられたものです。この大湫宿脇本陣は部屋数19、畳み数153畳、別棟6という広大な建物でした。今は壊されて半分程度の規模になっていますが宿当時を偲ぶ数少ない建物の一つとして貴重です。


【神明神社】 (右側) 14:31

 大湫宿脇本陣すぐ先に神明神社があり、鳥居の後ろに杉の巨木が聳えている。

【大湫神明神社の大杉】 県指定天然記念物

 この大杉は大湫宿のシンボルで宿時代から神明神社の御神木として大切にされてきました。推定樹齢千二百年、まさに樹木の王様といったところで、蜀山人の旅日記にも「駅の中なる左のかたに大きなる杉の木あり、木のもとに神明の宮たつ」とあります。


【大湫宿観音堂】 (右上) 14:40

 しばらく進むと右後ろに上る坂があり、その上に観音堂が建っている。堂の後ろには枝垂れ桜の花が残っていた(下の写真は少々ピンボケになってしまった)

 この観音堂の天井は絵で埋め尽くされているが、扉が開いておらず、ガラス越しでは見にくかった。

 芭蕉句碑もあるとのことだが見逃した。

〔大湫宿観音堂〕

 道中安全、病気全快の観音様として知られ、宿内、近郷はもちろん旅人からも厚い信仰を受けて賑わってきた観音堂です。現在の建物は、弘化4年(1847)に再建されたものですが、境内に並んでいる数多い石造物とともに盛大だった宿当時を偲ぶことができます。

〔大湫観音堂の絵天井〕 市指定

 この絵天井は、虎の絵で著名な岸駒に師事した現恵那郡付知町の画人、三尾静(暁峰)の描いたものです。花鳥草木を主に六十枚描かれており、出来も色彩もうよく百年の歳月を感じさせない逸品です。

 この大湫観音堂は、宿の大火で類焼して弘化四年(1847)に再建されましたが、難病平癒の霊験があり近郷近在の崇敬を受けています。

     瑞浪市教育委員会


大湫宿高札場跡】 (右側) 14:44

 大湫宿の西の外れに復元された高札場が建っている。中山道では大きなものである。

 この高札場の手前には、上記【大湫宿】に記した「中山道 大湫宿」の案内板が立っていた。

【大湫宿高札場跡】

 高札場とは江戸時代に三定など幕府からの村民心得や板書札を掲示した場所のことで、宿の場合は旅人の道中心得や人馬賃銭など道中奉行所からの高札も掲げられたから大湫宿の場合もこのように立派なものであった。


【小坂の馬頭様】 (左側) 14:54

 宿場も西の外れに近いて、丁字路で県道394号線が終り、左から交わる県道65号線に変わる。

 中山道は真っ直ぐ方向の県道65号線を進むが、ここで左手を見ると「大湫コミュニティー消防センター」にトイレがあったので立ち寄る。

 丁字路から少し進むと、左側に大きな岩が2個並んで、それぞれの岩の上に馬頭観音が乗っていた。

 岩の真ん中に小坂の馬頭様と書かれた白木標柱が立っている。


【大洞の馬頭様】  (左側) 14:56

 道は二つに別れ、左が県道、短いが右に迂回するのが旧道で、その三角点に東屋がある。

 右の道の一番ふくらんだ所に馬頭観音が岩の上に乗って、その左側に中山道 大湫宿大洞・小坂と刻まれた石碑が、右側に大洞の馬頭様と書かれた白木標柱が立っている。

 石碑には、また、次のように刻まれていた。

 安藤広重画木曽街道六十九次の大湫宿の絵はここから東方を描いたものである


【中山道 二つ岩】 (右側) 14:58

 大洞の馬頭様からすぐ県道に合流しした右側に大きな岩が二つせり出している。

 中山道の二つ岩と言われ、手前の岩が高さ6m、幅18mの母衣(ほろ)、その先にあるのが高さ6m、幅9mの烏帽子岩で、名所と呼ぶに相応しい壮観さである。

烏帽子岩

 道の左に立てる大きなる石二つあり 一つを烏帽子石という高さ二丈ばかり巾は三丈に余れりまた母衣石というは高さはひとしけれど巾は是に倍せり いずれもその名の形に似て 石のひましまに松その外の草木生いたり まことに目を驚かす見ものなり

     大田南畝 壬戍紀行

 上記【大湫宿】の現代の写真も参照

母衣岩


 ここで、2回目の想定外の寄り道。

 十三峠を歩いている途中(1時間半位前)に飲料水が無くなって辛い思いをしながらここまで来た。大湫宿には自販機があるだろうと期待してきたが、信じられないことに街道筋には一切置いてなく、細久手宿まで無かったら脱水症状になってしまうのでは心配になってきた。

 その時、妻が病院なら自販機か売店が有るのではないかと気がつき、二つ岩の先右側にある大湫病院へ寄った。

 病院はかなり奥にあり、この様な状況で歩くとかなり長く感じた。やっと病院の玄関に着いて、向かいの建物の入口に飲料自販機を発見したときは涙が出るほど嬉しかった。

 この寄り道で10分近くロスした。


【琵琶峠】 (右側) 15:12〜

 大湫病院前にさしかかると、右側に石畳道が見えてくる。ここが難所といわれた琵琶峠の東上り口である。

 登り口には、馬頭観音が2躰、中山道 琵琶峠 東上り口の石碑、琵琶峠の石畳の説明板、瑞浪市史跡(琵琶峠を中心とする旧中山道)の石柱が建っている。

 木立の中、かなり大きな石で敷き詰められ、一部階段状もある石畳道を登って行く。側溝も同じ石で組まれて清水が流れているが、その中で小さな蛙が一生懸命鳴いていた。

〔中山道 琵琶峠 東上り口〕 

 これより坂を下ること十町ばかり山には大きなる石幾つとなく 長櫃の如きもの 俵の如きもの数を知らず

     太田南畝 壬戌紀行より

 左の写真は東上り口で、石碑には上記文章が刻まれている。

 右の写真は登っている途中。

【琵琶峠の石畳】 岐阜県史跡 

 中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などにより江戸時代当時の原状を残すところが少なくなっております。こうした中で、瑞浪市内の釜戸町・大湫町・日吉町にまたがる約13kmの中山道は、丘陵上の尾根を通っているため開発されず、よく原形をとどめています。

 特に、この琵琶峠を中心とする約1kmは、八瀬沢一里塚や馬頭観音などが現存し、当時の面影を残しています。昭和45年には500m以上にわたる石畳も確認され、峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め・側溝なども残されています。

 歴史の道整備活用推進事業の一環として、平成9年度から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を行い、江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。

     岐阜県教育委員会 瑞浪市教育委員会

 

 登ること10分。峠の頂上には和宮歌碑が建っており、その隣には琵琶峠頂上の馬頭様も祀られている。

 頂上は左の写真で御覧の通りかなり狭い。こんな所を姫や大名の駕籠が通ったのかと思うと、担ぐ人も大変だったろう。また、和宮の行列は荷物も多く大人数だったので、ほぼ一人ずつしか通れないこの峠を、全員が越えるのに何時間掛かったのだろうかと想像するだけで気が遠くなる。

 この上の展望台から御嶽山・白山・伊吹山が良く見えたというが現在は樹木が多い為あまり眺望は良くない。

 頂上で15:23。

【和宮歌碑】 

  皇女和宮御歌

    住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび 


【八瀬沢(やせざわ)一里塚】 (左右) 15:26

 峠から下り初めて1分で左右とも同じ高さの綺麗な八瀬沢一里塚が見えてくる。

右側の塚の後ろから見た左側の塚

【八瀬沢(やせざわ)一里塚】 市県指定史跡 (古い案内板)

 江戸へ91里、京都へ43里という道標で「琵琶峠の一里塚」とも呼ばれています。一里塚のあるこの琵琶峠は、けわしい反面景色にも恵まれ、江戸時代の旅日記にも峠からのことが多く書かれて中山道の名所の一つにも数えられていました。

峠から下って来て最初に見えた右側の塚

〔琵琶峠の石畳と一里塚〕(左右) 15:26

 大湫(大久手)宿と細久手宿の間は一里半(約6Km)。琵琶峠は、美濃十六宿で一番高い所にある峠(標高558m)で長さは約1Km、古来より中山道の名所の一つです。

 ここにには日本一長いとされる石畳(全長約730m)が敷かれ、峠開削時のノミ跡を残す岩や、峠頂上の馬頭様(宝暦十三年・1763)東上り口の道標(文化十一年・1814)等の石造物があります。

 なお、「八瀬沢一里塚」はほぼ完全に残っており、江戸へ九十一里、京都へ四十三里を示す道標です。

     瑞浪市

 舗装道路と交差する手前に綺麗なトイレがあるが、冬期は閉鎖するので注意。

 舗装道路に出たら、往時の中山道は右へ少し迂回するルートであったらしいが、現在は舗装道を横切り真っ直ぐ下って行く石畳道が整備されている。

 石畳はやがて草道になり、大湫病院から分かれた県道65号線と合流する。

 その合流する所に琵琶峠西上り口の石碑が建っている(左の写真)

 ここで15:43。

 この 先、細久手宿までは県道を行く。


【一つ家茶屋跡】 (右側) 15:58

 県道へ出ると上り坂なって小川を越え、養鶏場を左に見て北野バス停でY字路。ここに「左中山道」、「右 細久手近道」と案内板が立っていたが、地図をどう見ても近道ではなく、反対に遠回りと思える。ともかく、ここは中山道が示す左方向直進の県道を進む。

 Y字路から200m強、上り坂の頂上付近左側に「国際犬訓練所」の建物が建っている。その少し先に一つ家茶屋跡の白木標柱が立っている。


【天神辻の地蔵尊】 (右側) 16:03

 一つ家茶屋跡から5分進むと右側に天神バス停の待合所が建っており、その左横の大杉の根元に天神辻の地蔵尊と白木標柱が立っている。

 地蔵は、左の写真で待合所の左に見える白木標柱の所にピンクの前掛けを着けて建っている。


【焼坂の馬頭様】 (右側) 16:02

 焼坂の下り道の途中左側に焼坂の馬頭様と白木標柱が立っている。


【弁財天の池】 (右側) 16:18

 天神坂で、北野バス停で別れた道が右後ろから合流してくる(16:15)。

 更に坂を下って行くと、睡蓮や芽吹き始めた杜若(かきつばた)が茂る弁財天の池が見えてくる。池中央の小さな島に建つ小さな祠に弁財天が祀られている。

 ここから細久手宿入口まで約2Km

【弁財天の池】 (判読が困難になってきた古い案内板)

 山丘上でありながらいつも水をたたえているこの池は古くから旅人に愛されてきました。蜀山人も「左の方に小さき池あり、杜若生ひ茂れり、池の中に弁財天の宮あり」とその旅日記に書いています。

【弁財天の池】 (新しい案内板)

 享和二年(1802)に太田南畝(蜀山人)が著した『壬戌紀行』に「左の方に小さき池あり。杜若生ひ茂れり。池の中に弁財天の宮あり」との記述があります。常に水をたたえカキツバタやジュンサイの自生地になっています。弁財天は通常は琵琶を持った天女姿ですが、ここでは八臂の立像が祀られています。

     瑞浪市


南垣外ハナノキ自生地】 瑞浪市天然記念物 (左側) 16:30

 弁天池から先の県道は、赤松の林の中を穏やかな上り下りが続き、その途中左側に南垣外ハナノキ自生地の白木標柱が立っていたが、説明も無くどんな木なのかは不明であっった。


【女男松の跡】 (左側) 16:33

 南垣外ハナノキ自生地のすぐ先に女男松の跡と書かれた白木標柱が立っていたが、こちらも説明も無く、松らしきものは無かったので、何であるかは不明。


【奥之田一里塚】 (左右) 16:37

左側の塚

 細久手宿への最後の上り坂を登りきった右手に「瑞浪モーターランド」の入口があり、その手前の左右に奥之田一里塚がある。瑞浪市では四つの一里塚が連続して残っており、ここはその三番目である。

【奥之田一里塚】 (古い案内板)

 江戸へ92里、京都へ42里という中山道の奥之田一里塚です。一里塚は道の両側に築かれ、高さ4m、直径12mあります。

 この一里塚は、ほぼ、完全にもとの姿をとどめています。

右側の塚

〔瑞浪一里塚〕 (新しい案内板)

 中山道の一里塚は、大湫宿が開宿した慶長九(1604)年から整備が進められ、岐阜県内には三十一箇所の一里塚が築かれました。一里塚には榎や松が植えられ、松並木も整備されました。一里塚は、現在ではほとんど荒廃し、瑞浪市のように連続した四箇所が当時のまま残っている例は全国的にも稀です。

 市内には、東から西へ順に、権現山(樫ノ木坂)一里塚、琵琶峠(八瀬沢)一里塚、奥之田一里塚、鴨之巣一里塚があり、高さ約3m、経10m程の大きさで、自然の地形をうまく利用して築かれています。

 なお、鴨之巣一里塚は、地形の制約を受け、塚は尾根沿いに東西16m程離れています。

     瑞浪市


【三国見晴台馬頭様】 (右側) 16:48

 サーキット入口から坂を下ってゆく途中に、馬頭観音と三国見晴し台馬頭様と書かれた白木標柱が立っている。


【細久手宿】 日本橋 から92里30町(364.6Km)、京へ43里4町(169.3Km)
 天保14年(1843)で人口256名、総家数65軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋24軒。

【細久手宿】

 標高約四百二十メートルにあって、江戸から四十八番目(距離約九十二里)、京から二十二番目(距離約四十二里)に位置する宿場です。中山道の開設当初、東の大湫宿から西の御嵩宿までの道程が四里半(約十七・七キロメートル)もあったことから、尾張藩によって設置されました。慶長十一年(1606)の開宿当初は、七軒屋と呼ばれる小さな仮宿で、その後放火により全焼し、慶長十五年(1610)に正規の宿場として再整備されています。宿場の規模については、天保十四年(1843)の記録に「町並み三町四十五間(約四百十メートル)、家数六十五軒、旅籠屋二十四軒、総人数二百五十六人」の記録があります。

 細久手宿は、仮宿の全焼のほか、寛政十四年(1802)、文化十年(1813)、安政五年(1858)の三度にわたって大火に見舞われ、大きな被害を受けました。現在の町並みは安政の大火以降に形成されたものです。

     細久手公民館の前に立っていた瑞浪市製作の説明板より

木曽海道六拾九次之内 細久手 (広重)

細久手宿の東の高台から宿の入口を望んでいる絵。
 

 

 広重が描いたと云われる場所は、現在工場が建って旧道が分断されている為行くことが出来ない。仕方がないので旧道入口と思われる「細久手宿もうすぐ」と書かれた案内板の所を撮影したが、この先の街並みが見える所を写しておけば良かったと後悔している。


【細久手宿高札場跡】 【細久手宿の庚申堂】 (右上) 16:57

 上記〔細久手宿〕の現在の写真の緩い上りを越えると程なく細久手宿の入口になる。

 往時の中山道は上の写真の辺りから左へ入って行ったが現在は工場が出来て旧道は消滅している。

 現在の道はこの先、工場の右側を反時計回りの様に弧を描いて進む。

 上記写真の場所から7分程進むと、右側に庚申堂の標示が立つ細道がある。その入口に細久手宿高札場跡と書かれた白木標中が立っている(左の写真で手前に立っている標柱)

 その細道を少し登ると庚申堂が建っていて、境内に古い石仏が沢山並んでいる(小屋の真後ろの石垣の上)

 庚申堂の更に上には展望台があって、細久手宿を一望できると云われるが、木も茂り、近くの民家の屋根しか見えなかった。

〔細久手宿の庚申堂〕 (古い説明板)

 宿内はもちろん近郷や旅人からも「細久手のこうしんさま」として親しまれたお堂で、ここからは宿内が一望されます。境内には石造物が多く残っており300年余り前のものもあって宿当時の賑わいぶりが偲ばれます。


【細久手宿碑】 (左側) 17:00

 庚申堂のすぐ先左側に細久手公民館があり、その前に東海自然歩道 細久手宿と刻まれた石碑、東海自然歩道瑞浪コース案内図、細久手宿の説明板(上述)が立っている。

 また、公民館隣の土蔵の壁に大きな「お伊勢参り」の絵が描かれていた(左の写真で右後ろ)


【旅館 大黒屋】 国登録有形文化財 (右側) 17:00

 公民館の向かいにある旅館・大黒屋は、大井宿から太田宿間で宿泊できるのはここしかない為、貴重な存在である。大井宿から御嵩宿まで歩くと、どうしてもここで泊まらざるを得ない。

 大黒屋は客室が6部屋(12名迄)と多くないので、近年の街道ウォークブームでは、連休ともなると予約が取りにくくなる。バスの便も少ない為、ここで泊まることが出来なければタクシーを呼ぶしかない。私達も 予約依頼3回目にしてでやっと泊まることが出来た。

 この日は、ゴールデンウィーク中だが休日と休日の間の平日だったので、私達を含めて泊まり客は2組だけであった。ただ、3月11日に発生した未曾有の東日本大震災で、自粛ムードや地震の不安から旅行を控えた人が多かったこともあったのかも知れない。おかげで、居間と寝室という形で2部屋ずつ使わせて貰えたのは嬉しかった。

 もう1組は、中山道沿いの鴻巣市にお住まいの御夫婦で、私達より遅く出発されたのに大黒屋には先に着いたとのこと。大湫病院に寄り道している時に追い越されたと思われるが、健脚には感心した。

 大黒屋は、玄関からすぐ奥に上段之間があり、こちらで食事を頂いた。箱階段があったり、梁には刀傷があったりして、往時の雰囲気が十分味わえ、更に山菜や川魚料理も美味くて満足できた。

 宿泊は2組だけだったので、夕食時にはお互いに街道歩きの話が弾んだことは言うまでもない。

【大黒屋について】

 大黒屋は、尾州家が他の大名との合宿を避けるために作った専用の本陣であった。

 創業は慶長年間。現在の建物は安政六年(1859)建設の木造2階建。

 宿泊料は一泊 朝・夕二食付きで、9,345円から、チェックイン15時、夕食6時〜7時・朝食7時〜8時となっている。

外観

上段の間

箱階段


〔尾州家定本陣大黒屋〕

 細久手宿の本陣・脇本陣が手狭になリ、他領主との合宿を嫌った領主尾洲家が、問屋役酒井吉右衛門宅を「尾州家本陣」として定めたのが、『尾州家定本陣大黒屋』のはじまりである。

『大黒屋』の特徴は、軒廂付切妻造の2階建で、両端に本卯建を上げ、2階が1階に比して目立って低いことは、家の古さを示し、宿場時代の遺構とみられていたが、近年奥座敷前の緑東に「安政6年(1859)12月6日清七 米9合」の墨書銘が発見され、安政5年(1858)の大火類焼直後に再建された家であることが確証された。

 旅籠屋で年代の判明した唯一の例として貴重であるとのこと。

 意匠的にもすぐれ、とくに2階奥座敷の床・棚・書院の構えある室では床柱に太目の丸柱を用い、半丸の長押を用いるなど、この辺で見かけぬ数寄屋造であるうえに、次之間とともに障子腰板に松、秋草を描き、次之間の床壁にも杉らしい樹木を描き、剥落がはなはだしいが、品雅な筆致であるなど、江戸後期には見難い意匠である点、注目すべきことである。

 また一階奥座敷には数寄屋がないが、2間の付書院の上方は雲形板となり、床は7尺5寸の大床であり、棚構えでは斜めに向いた地袋上に棚を置くなど創意に富み、天井高がとくに高いことは武士や高貴な客を泊めた特殊な工夫とみられる。

 かくてこの部屋は、すべて大らかな雅味を感ずる。

     大黒屋さんの了解を得て、HPから転載させて頂きました。



 24回目の旅終了(17:00) 細久手宿「大黒屋旅館」。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、19.0Km(恵那駅入口「中央通1交差点」〜細久手宿「大黒屋旅館」)

          日本橋から九十二里三十二町(364.8Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、21.4Km(恵那駅〜大黒屋旅館) 累計432.6Km

          8時間55分 34,670歩。

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