御嵩宿 (大黒屋旅館 → 顏戸駅) <旧中山道25回目>

 

2011年5月3日(火) 晴 

 大黒屋を7:00スタート。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「大湫宿・細久手宿」 ← 「目次」 → 「伏見宿・太田宿」

 

 大黒屋さんの朝食は通常7:00〜8:00だが、早く帰らなければならない事情があって、少し早めに宿を出たい旨話したら、6:20頃に朝食を出して頂いた。

 申し訳ない思いで頂いたが、おかげで7:00に宿を出発出来た。朝食は品数が多く美味しかった。


【細久手宿本陣跡】 (右側) 7:02  【脇本陣跡】 (左側)

 大黒屋のすぐ先の民家の前に細久手宿本陣跡の石標が立っている(左の写真)

 本陣向いの草むらの奥に蔵が建っている場所が脇本陣跡だが、標柱等は見つからなかった(右の写真)


【愛宕神社】 (右側) 7:0

 宿場の外れにある日吉・愛宕神社は石段をかなり登った所にあるので社殿までは行かなかったが、数段上った鳥居の右後ろに古い石灯籠が建っている。


細久手坂の穴観音】 (右上) 7:14

 日吉・愛宕神社から5分程進んだ右側の一段高い所に細久手坂の穴観音がある。

 馬頭観音と思われる石仏が文字通り穴の中に祀られており、九万九千日穴観音様とも呼ばれている。


【津島神社】 (右側) 7:17

 穴観音のすぐ先に小さな祠だけの津島神社が建っている。

【津島神社(天王様)由来】

 尾張津島神社、京都八坂神社、東京天王社の分祀(ぶんし)である。

 十二世紀後半より津島神社として文献に、また室町時代より牛頭天王社、津島様と呼ばれる。

 牛頭天王は朝鮮新羅の牛頭山の神、インド祇園精舎の守護神、地獄の念怒鬼神の変化等と伝えられるが本来は防疫の大神である。

 牛頭天王が旅に飢え、金持ちの巨里将来に宿を乞うがことわられ、弟の蘇民将来に迎えられて、わらのふとんにアワの飯をごちそうになる。その礼に護符を与え、旅の災と疫病が発生してもこれをもつ者は助かると告げた。

 以来この護符を「蘇民将来」と呼び疫病徐けは勿論、交通安全の護符として信仰される。

  「蘇民将来」の希望者は細久手宿郵便局へ


【旧中山道道くじ場跡】 (右側) 7:22

 津島神社すぐ先のY字路を右へ進むと程なく石垣の前に旧中山道くじ場趾の石標のみ立っている。

 説明等はないが、駕籠かきが順番を決めた場所とか、または、一部の旅籠に客が片寄らないようにくじで決めた場所とのこと。


【平岩辻】 (右側) 7:30 〜7:35

 くじ場趾の先右側に石仏が数躰あるのを見て、しばらく進み、「平岩橋」渡った県道366号線と交差している所が平岩辻と呼ばれる。

 橋を渡った右側に長短二本の道標と交通安全の石柱が立っており、長い道標には、『土岐頼兼公菩提所 曹洞宗開元院 是ヨリ○○』と刻まれている(距離は写真で読み取れなかった)。開元院は平岩辻から約1Kmもあるので勿論行ってない。

 短い道標には、『北 たこうど やをつ道』『西 つばし みたけ道』『南 まつのこ おに岩道』と刻まれていた。

 「平岩」の地名は、近くに露出している十数mの大きな岩があることから名付けられたもので、その岩が平岩辻を右折したすぐ先の「八幡神社」近くにあるとのことで寄り道した。

 ところが、平岩公民館の左後ろにある八幡神社の階段を登ってみても見当たらず、やむ無く引き返したたがリサーチ不足で残念な思いをした。帰宅後調べたら公民館の裏側らしいが、確信は無い。

 平岩公民館の前には復元した常夜灯が建っていた。

 左の写真で、右の建物が平岩公民館、鳥居の後ろの石段を上がった所が八幡神社。

 露出している岩は公民館の右後ろか?、八幡神社の奥か?


【西の坂・道標】 (左側) 7:43

 中山道は平岩橋を渡り、県道366号線を横断して直進するとすぐ上り坂。

 左カーブして150m程登ると、左側に「左仲仙道西の坂」と刻まれた道標が現れるので、道標に従って左の山道へ入る。この道標には『旅人の上り下りや西の坂』の句も刻まれているが下部は埋もれていた。

 道標は山道の入口右側に立っているが、左側には「瑞浪市内旧仲仙道の影」と題する石碑も立っていて、これから向かう名所が刻まれていた。

【瑞浪市内仲山道の影】

之より先千三百米一里塚迠瑞浪市日吉町平岩地内旧幕当時に開いた仲山道は昔其侭の姿を今尚残して居り此間に次の様な地趾が残って居る一里塚より先は可児町に通じて居る

一.道が東西南北に向て居る珍しい所

一.石室の中に観音像三体祭る

一.旧鎌倉街道へ行く分岐点日吉辻

一.切られヶ洞

一.一里塚京へ四十一里、江戸へ九十三里

    路上及び一里塚附近よりの眺め

一、東に笠置山恵那山駒ケ岳

一、西に、伊吹山鈴鹿連峰

一、北に、木曽の御嶽山加賀の白山

一、南に、遠く濃尾平野に尾張富士又快晴の日には尾張熱田の海を見る事ができる


【秋葉坂の三尊石窟】  (右上) 7:46

 山道に入り、左カーブすると右の石垣の上に三つに分けられた石室が現れる。

 それぞれに石仏が安置されており、秋葉坂の三尊石窟と呼ばれて秀逸である。

 細久手宿と御嶽宿の間は三里(約11.8Km)。細久手宿から中山道を西へ、平岩の辻から西の坂道を登ると三室に分かれた石窟があります。

 右の石室に祀られているのは、明和五年(1768)の三面六臂(頭が三つで腕が六本)の馬頭観音立像。中央には一面六臂の観音坐像が、左の石室には風化の進んだ石仏が安置され、石窟の右端に残る石灯籠の棹には、天保十一年(1840)の銘があります。

 なお、ここは、石窟のすぐ上に秋葉様が祀られていることから、秋庭坂とも呼ばれています。

     瑞浪市


【鴨之巣道の馬頭文学碑】 (左側) 7:51

 三尊石窟から山道を少し上って、平になった左側に鴨之巣道の馬頭文学碑と書かれた白木標柱が立ち、その後ろの一段高くなった上に石碑が見える。


【鴨之巣辻の道祖神碑】 【旧鎌倉街道への道標】 (左側) 8:00

 気持ちのいい平らな林間をしばらく歩くと、左斜め後ろに分かれる道がある追分に出る。

 その入口に鴨之巣辻の道祖神碑と書かれた白木標柱が立ち、その後ろに「右 旧鎌倉街道迠約一里余」と刻まれた道標が立ち、更にその後ろに道祖神碑が建っている。

 道標の側面には「施主 平岩小沢千城」と刻まれていた。平岩の小沢さんがこの地区の殆どの碑を建てたらしく、この名はこの先何度もお目にかかることになる。

 左の写真は西側から写したもので、左の道が中山道細久手方面、右が旧鎌倉街道迄1里という道。


切られヶ洞】  (右側) 8:07

 やがて右側に「花の木ゴルフクラブ」が垣間見えてくる山道に切られヶ洞と刻まれた石碑が立っている。

 昔牛を追ってきた村人が盗賊に切られた所と云われている。


【鴨ノ巣一里塚】 県指定史跡 (左右) 8:12

 切られヶ洞から5分程進むと、左右がずれている珍しい鴨之巣一里塚が見えてくる。

 江戸へ93里、京へ41里という道標の中山道鴨ノ巣一里塚です。一里塚は道の両側に一対づつ築かれましたが、ここの場合地形上北側の塚が16m東方にずらされているのが特徴です。ここからは鈴鹿、伊吹や北アルプスの山々が一望できます。

左側の塚

右側の塚

西側から写したもので左右の塚がずれているのが分かる


【竹林道】 津橋(つばし)の町並】  8:33 

 鴨之巣一里塚から下りになり、数分先のY字路を右に取ると瑞浪市と別れ御嵩町に入る。長い下り坂を15分ほど下って行くと、雑木林が竹林になる(左の写真)

 そのまとまった竹林を過ぎると、ものすごい急坂(藤上坂)になる。登りでなくて本当に良かったとつくづく思うほどの急な下り坂である。

 急な坂も終わりに近づき、S字カーブを曲がると突然眼下に津橋の町並が見えてくる(右の写真)


【山内嘉助屋敷跡 (右側) 8:39

 「津橋迄1Km」の標識が立つ所に出ると、立派な石垣が現れる。

 津橋集落に出る手前のこの石垣跡が江戸時代に酒造業を営んでいた山内嘉助屋敷跡

 現在は何も残っていないが、中山道を通行する諸大名の休憩場所として、また旅する人々を泊めたとも伝えられている。


【津橋】 

 山内嘉助屋敷跡のすぐ先左側に中山道の道標が立っている所を真直ぐ、民家の庭先を通り、平岩の「西の坂・道標」で別れた広い県道65号線に再び合流する。

 合流した右手バス停の傍に綺麗なトイレがあったので利用する。

 中山道は広い道を横断して直進する。県道65号線も右から来てここで中山道と一緒に曲がって行く。

 橋を2つ渡った先の五叉路は県道と分かれ右から2番目の細い坂道を上がる。小さな集落の前を通って登る坂を諸木坂という。


【物見峠】 【馬の水のみ場】 【馬頭観音像】 【展望台】 【御殿場】 (右側) 9:17〜9:32

 諸木坂を登りきった所が物見峠(諸之木峠)で、小さな水溜りの様な馬の水飲み場、その隣に文政二年の小さな馬頭観音像、更に右に20段ほど上った所は展望台となっている。展望台からは御嶽山と恵那山が見えるとのことだが、木が大きくなっているので見えにくい。

 また、ここは御殿場といい、和宮が休憩するためだけに高台に御殿が建てられた場所でもある。

物見峠(右端の窪みが「馬の水飲み場」)

展望台

馬頭観音

【御殿場】

 文久元年(1861)、皇女和宮の行列が中山道を下向し、十四代将軍徳川家茂公のところへ輿入れしました。その際、一行が休憩する御殿が造られたことから、ここを御殿場と呼ぶようになったといいます。

 和宮の行列は姫宮としては中山道最大の通行といわれ、四千〜五千人にも及ぶ大行列でした。近隣では十月二十八日の早朝に前日宿泊した太田宿(現美濃加茂市)を出発し、昼には御嶽宿にて休憩、そしてここ御殿場でも再び休息をとったのち、大湫宿(現瑞浪市)で宿泊しました。

 中山道が別名「姫街道」と呼ばれるのは、こうした姫宮の行列が多く通行したためです。

     瑞浪市

【馬の水飲み場】

 ここは物見峠といい、道路の両側に計五軒の茶屋があり、十三峠前後のこの地であれば往来の馬もさぞかしのどが渇いたであろう。

 存分のみなさいと北側に三カ所の水飲み場が設けてあった。


【森のケーキ香房 ラ・プロヴァンス】 (左側) 9:32

 峠の左側には、「こんな山の上にケーキ屋?」と思わず言ってしまう、森のケーキ香房ラ・プロヴァンスがある。

 甘党でもある私は是非ここでケーキを食べたかったが、開店が10:00であることを聞いていたので展望台の方でおやつ休憩した。

 斜面に展開する手入れの行き届いた広い庭があり、30分前にも関わらず沢山の人が開店を待っていて、順番待ちのノートには数組の名前が記入されていた。広い駐車場もあり、車で来られるので、美味しければ辺鄙なところでも繁盛することが分かった。

 早くから待つ人を見て、益々味わいたかったが先を急ぐ旅なので後ろ髪を引かれながらここを後にした。


【唄清水】 (左側) 9:43

 物見峠(ラ・プロヴァンス)から下って、変則十字路を真っ直ぐ進むと左側に唄清水と 云われる小さな湧き水がある。

 往時は旅人の喉を潤しただろうが、現在は『この水は、生水での飲用はしないで下さい。御嵩町』の立札が立っていた。

 ここの右側には、巡礼記念碑が立っていたが、字がかすれて何の記念か分からなかった。

 


【一呑清水(ひとのみのしみず) (左側) 9:50

 舗装道路に下りると、左手前方に屋根付きの一呑清水が見える。

 水の中に二躰の石仏が立っていて、「銘水の泉」の名札と柄杓が置かれていたが、水はあまり綺麗でなく、ここにも『この水は、生水での飲用はしないで下さい。御嵩町』の立札があった。

 中山道を旅する人々にとって、一呑清水は喉の渇きを潤し、旅の疲れを癒す憩いの場所でした。

 江戸時代末期、将軍家降嫁のために江戸へ向かった皇女和宮は、道中この清水を賞味したところ大層気に入り、のちの上洛の際、永保寺(現岐阜県多治見市)にてわざわざここから清水を取り寄せ、点茶をしたと伝えられています。

 岐阜県 名水50選のひとつ。

 一呑清水の前から真っ直ぐ方向に上る山道があり、その山道と右へカーブして行く車道の間に道標が立っていた。

 道標には、向って正面に「↑左舳五山茶園」、右側面に「右 中山道石畳→」と刻まれていた。


【十本木立場】 (右側) 9:55

 一呑清水を後に車道を2分下ると、右手山裾に中山道 十本木立場の標柱と説明板が立っている(左の写真で、右側に標柱が立っている場所)

 宝暦5年(1756)刊の「岐蘇路安見絵図」にも記載があるこの十本木立場は、もともと人夫が杖を立て、駕籠や荷物をおろして休憩した所から次第に茶屋などが設けられ、旅人の休憩所として発展したそうです。

 一方で古老の話しでは、参勤交代の諸大名が通行する際にはここに警護の武士が駐屯し、一般の通行人の行動に注意が払われたそうです。


【一里塚 (謡坂十本木)】 (左右) 9:59

 十本木立場から左手に見える道標がある所で左の細い道に入る(上の写真で、左に妻が立っている所)

 2〜3分進むと右側一軒家の前に謡坂(うとうざか)十本木の一里塚が復元されている。左側は完全ではないが、塚らしき跡が見られる。

左側の塚

 慶長九年二月、徳川幕府は東海道・中山道・北陸道に江戸日本橋を基準として、道の両側に五間四方(約16メートルほど)の塚を築造させました。これが一里塚です。

 一里塚は、一般的に一里ごとに榎、10里毎に松を植えて旅人に里程を知らせる重要なものでした。

 現在の御嵩町内にその当時四ヵ所あった一里塚は、幕藩体制崩壊後必要とされなくなり、明治四十一年にこの塚は二円五〇銭で払下げられ、その後取り壊されました。

 この一里塚は昭和四八年、地元有志の手でかつての一里塚近くに復元されたものです。

右側の塚


【十本木の洗場】 (右側) 10:02

 一里塚のすぐ先右側には十本木の洗場の立札が立っている白く濁った池がある。

 広重の御嵩宿の浮世絵には川で米研ぎをする老婆が描かれているが、まるでこの池に研ぎ汁を流した様な色をしていた(【御嵩宿】の項を参照)

 慶長九年二月、街道の両側に一里塚が造られ、その付近に十本の松の大木があったことから、此処を十本木の立場と呼ばれるようになった。道中の人足が駕籠や荷物をおろして休息した所から発展して茶屋や木賃宿が設けられ旅人の休息所となった。  この池は当時の共同洗場である。

 安藤広重の木曽街道六拾九次の内 “御嶽宿” の画はこの場所がモデルとも云われている。

     御嵩町観光協会


【安藤広重「木曽海道六拾九次之内 御嶽」モデルの地】 十本木茶屋跡】  (右側) 10:02〜10:08

 十本木の洗場の隣に安藤広重「木曽海道六拾九次之内 御嶽」モデルの地が現れる。

 前に川が流れていないだけで、前方に下り坂があり、右手に広重が木賃宿に見立てた立場茶屋の建物が建っていて、正に浮世絵そっくりの地である。広重の「木曽海道六拾九次之内 ○○」の現在の写真の中で一番撮影したかった場所なので、興奮して12枚も写してしまった。(【御嵩宿】の項を参照)

 写真の建物の向かいに十本木茶屋跡の古い説明板が立っていたが、擦れて判読不能であった。

 江戸時代、浮世絵の世界で名を馳せた人物に安藤広重(1797〜1857)がいました。その作風は、情緒性を高め静の中に動を表現する独特の手法で風景画に新境地を開きました。代表作に「東海道五拾三次(全五十五枚)」のほか、この「木曽海道六拾九次(全七十一枚)」があり、御嶽宿では当時の庶民の旅で多く利用された「木賃宿」を中心に、囲炉裏を囲んだ旅人たちの和やかな会話が聞こえてきそうな様子を見事に描写しています。そして、作品のモデルとして選んだ場所がこのあたりだといわれています。

 広重の作品のなかに「木賃宿」が登場する例は非常に珍しく、軒下にいる二羽の鶏もまた、作品に描かれることはごく稀です。

     御嵩町


【謡坂石畳】  10:10〜

 十本木茶屋跡から下りて行くとすぐ、更に左へ下がる石畳が見えてくる(左の写真)

 綺麗に整備された石畳を3分程下ると右手に謡坂石畳の説明板が立っている(下の写真)

 謡坂の地名の由来は、このあたりの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らしたことから、「うたうさか」と呼ばれていたのが次第に転じ、「うとうざか=謡坂」になったのだともいわれています。険しくつづく山道、道の上をおおうようなたくさんの木々、足元に生える草花など、謡坂の風景は今も当時の中山道の風情を色濃く残しています。

 この謡坂石畳は、平成九年から十二年度にかけて「歴史の道整備活用推進事業(整備)」として修復整備したものです。

     御嵩町


【正岡子規 歌碑】 (右奥) 10:17

 謡坂石畳の説明板が立っている左脇に道標が立っており、「右御殿場」、「左マリア像」と刻まれている。

 また、その足元に「平和の祈り聖母マリア像 ←御手洗」と書かれた看板も置かれていた。

 左とは謡坂石畳を下から登ってきた場合を示し、十本木茶屋跡から下りてきた場合は、細道を右へ入ることになる。

 道標に従って、マリア像を見に行くために右の細い草道に入る。細道は右、左、右とカーブしながら車道に下りて行く。

 車道に出たら右折しすぐ先に見える十字路に向かうと、その十字路右角に正岡子規の歌碑とかなり擦れた説明板が立っている(下記の説明文は他のHPも参考にして記した)。

 刻まれている歌は、「撫(なで)し子や 人には見えぬ 笠のうち  子規」。

 十字路の右側には綺麗なトイレが設備されている。

 俳聖正岡子規が病躯を押して都より岐蘇路を経て故郷松山へ向かう吟行文かけはしの記に依れば当地についたのは明治二十四年五月末日の昼頃のことである。

 「暫らくは小山に沿ふて歩めば山つつじ小松のもとに咲きまじりて細き谷川の水さらさらと心よく流る。そぞろにうかれ出でたる鶉(うずら)の足音聞きつけて葎(むぐら)より葎へ逃げ迷うさまも興あり」と。

 当地上之郷村にて、撫し子や 人には見えぬ 笠のうち の一句を残して伏見宿へ向かう。

 左の写真で、右端にある白っぽい石が子規の歌碑。その傍に説明板が立っている。

 妻が見ているのが下記「七御前とキリシタン信仰」の説明板。


【史跡 七御前】 【マリア像】 (右奥) 10:18

 正岡子規の歌碑のすぐ先に七御前とキリシタン信仰」の説明板が立ち、その右下に「史跡七御前」と刻まれた三角の石碑が置かれている。

 説明板の隣の二段高い所に白いマリア像が鐘や「平和の像建立趣旨」の石板と共に建っている(下の写真)

 マリヤ像の後ろには、小さな石塔(五輪塔)が沢山並び、史跡 七御前の白木標柱が立っていた(左の写真)

【七御前とキリシタン信仰 御嵩町謡坂

 「七御前址、謡坂村にある、あるいは古き五輪塔、あるいは古樹あり、しかれども其所の由、知れず」と宝暦六年(1756)に尾張藩士松平君山が編集した「濃陽志略」に記されたように、仏教の墓石である五輪塔が多数あり古い樹木が生い茂った場所で、この地の由来はわかっていませんでした。

 ところが、昭和五十六年(1981)三月、道路工事による五輪塔の移転が行われた際に、その下の地中から数点の十字架を彫った自然石が発見され、ここが仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡であったことがわかったのです。

 不幸なことに日本では一時期キリシタンを信仰することが固く禁止され、密かに信仰していることが発覚すると命を奪われることもありました。

 この遺跡からは命をも顧みることなく信仰に打ち込んだ郷士に生きた先人の生き様が伝わってきます。

     御嵩町御嵩町観光協会

【平和の像建立趣旨】

 昭和五十六年三月 謡坂地内で道路工事中にたまたまキリシタン信仰の遺物が発掘されました

 その後の調査で 小原 西洞 謡坂地内で、数多くの貴重な遺物が相次いで発見され この地に多くのキリシタン信者が居たことが判明し 歴史上大きな資料ともなりました 幕府の過酷な弾圧の中で発覚もせず ある期間信仰が続けられたのは 奇跡であると想います

 こうした例は全国でも非常に珍しく 広く話題を呼び 遠くから多くの人が来訪され 又 東海自然歩道(中山道)に沿う地でもあり 関心を寄せる人も数多くなりました

 この度 御嵩町観光協会の発案とその趣旨に賛同された多くの方からの浄財により 当時の辛苦に耐えた先祖の慰霊の意味と現世及び 今後の人々の幸福と平和を願って ここに聖マリア像を建立いたしました

     昭和六十二年八月二十三日 御嵩町観光協会


【耳神社(御嵩町西洞)】 (右側) 10:39

 謡坂石畳に戻った所で10:30。新芽から紅い葉のモミジが綺麗な石畳を下り、車道に出たら左折する。

 しばらく進み、道路際から右に上がる階段を登ると、すだれ状の錐(きり)が沢山供えられた耳神社がある。

 全国的に見ても珍しい耳の病気にご利益があるといわれる神社です。平癒の願をかけ、お供えしてある錐を一本かりて耳にあてます。病気が全快したらその人の年の数だけ錐をお供えしました。奉納する錐は本物でも竹などでまねて作ったものでもよく、紐で編んですだれのようにしてお供えしました。小さな祠には奉納された錐がいくつも下げられ、人々に厚く信仰されていたことがうかがえます。また、戦前には遠く名古屋方面からの参拝もありました。

 元治元年(1864)、武田耕雲斎が尊皇攘夷を掲げて率いた水戸天狗党が中山道を通った時、耳神社ののぼりを敵の布陣と思い、刀を抜いて通ったと伝えられています。

     御嵩町御嵩町観光協会


【丸太の道】 10:48

 耳神社の先、右側に新しい道標が立っている所を右に入る(ここで10:44)。

 道標には「右 細久手宿 七七〇〇米」、「左 御嵩宿 四一〇〇米」と刻まれていた。御嵩宿迄あと一里強である。

  3分進んだY字路で右の上り坂を登ると丸太で土留めされた珍しい山道になる(左の写真)


【寒念仏供養塔】 (右側) 10:52

 草道を下る途中に、切石で造られた石窟に納められている寒念仏供養塔がある。

 石窟におさめられている三面六臂の馬頭観音像は、台座正面に「寒念仏供養塔」、左側には「維持明和二酉年」、右側に「八月彼岸珠日」と刻まれている。

 寒念仏は一年で最も寒い時期に、村人が白装束で集まり、鉦を叩いて念仏を唱えながら村中を練り歩く修行のことで、心身を鍛え願いを祈念したという。

     御嵩町教育委員会発行のパンフレット「中山道往来」より


【牛の欠け鼻坂(西洞坂)】 10:54

 寒念仏供養塔からカーブを曲がるとすぐ牛の鼻欠け坂の説明板が立っていて、ここから西洞(さいと)坂は急になる。石がゴロゴロしており、正に下述の様に牛の鼻が欠けてしまうような急な坂を下る。

 左の写真は説明板のある所から写したもので、左上のカーブしたすぐ先に寒念仏供養塔がある。

 「牛坊(うしんぼ) 牛坊 どこで鼻かかいた 西洞の坂で かかいた」という言葉が残るように、ここ西洞坂は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な登り坂でした。

 中山道全線を通してみると、ここ牛の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸へと向かう東は山間地域の入り口となり、京へと続く西は比較的平坦地になります。したがって地理的には、ちょうどこのあたりが山間地と平坦地の境界線になっているのも大きな特徴といえます。

     御嵩町


【道標】 (左側) 11:00

 大井宿を出てから二つの宿場町を除けば峠の連続で、長かった山道も西洞坂を下ればやっと終わりになる。

 平らな田圃道に出て右折すると広い道に突き当たり、ここを左折する。

 その広い道の左端に道標が立っていて、「左 細久手宿 八三〇〇米」、「右 御嵩宿 三五〇〇米」と刻まれていた。

 この道標で、中山道を西から自転車で走っている青年と出会った。荷物を背負わなくて良いという利点はあるが、この先碓氷峠を下るまで、急で細い峠道が沢山あるのでさぞかし難渋することであろう。


【和泉式部廟所 (右奥) 11:17

 道標から国道までのあいだ右へ左へと数回曲がるが、ここでも案内板が整備されているので心配ない。

 やがて国道21号線に出たら右折すると、すぐ右側に和泉式部廟所の案内板が立っている。そこを少し入ると屋根つきの石碑が建っている。

 泉式部(いずみしきぶ)は、平安時代を代表する三大女流文学者の一人といわれ、和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、恋多き女性としても知られています。

 波乱に富んだ人生を歩んだ彼女は、心の趣くままに東山道をたどる途中御嵩の辺りで病に侵されてしまい。鬼岩温泉で湯治していましたが、寛仁3年(1019)、とうとうこの地で没したといわれています。

 碑には「ひとりさえ渡ればしずむうきはしにあとなる人はしばしとどまれ」という歌が刻まれています。


【中山道追分の道標】 (右側) 11:20

 国道に戻ると、和泉式部廟所入口のすぐ隣に大きな中山道追分の道標が立っており、「右 中山道(大文字) 中山道 大井驛へ(小文字) (大文字)と刻まれていた。


【御嵩宿】 日本橋 から95里30町(376.4Km)、京へ40里4町(157.5Km)
 天保14年(1843)で人口600人、総家数66軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋28軒。

 慶長五年(1600)九月、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は直ちに宿駅伝馬制へと着手し、慶長七年(1602)には中山道筋でもいち早くここ御嶽宿に「伝馬掟朱印状」を下したことから、重要な拠点とみなしていたことがうかがえます。

 御嶽宿は江戸から四十九番目の宿場にあたり、天保年間の『中山道宿村大概帳』には、宿内町並四町五十六間(約五百四十メートル)、家数六十六軒(内旅籠屋二十八軒)、このほか本陣・脇本陣が各一軒、問屋場、高札場などの存在が記載されています。

 宿場は西端の天台宗の古刹大寺山願興寺から鉤の手を抜けて東へと続き、大名や公家あるいは一般庶民の通行とともに、情報や文化の交流する場所として大いに賑わいました。

     御嵩町・御嵩町観光協会 (御嵩宿内「中山道みたけ館」の外壁に掲示されていた説明板より)

木曽海道六拾九次之内 御嶽 (広重)

 詩坂村にある十本木立場の風景。広重は立場茶屋を木賃宿に見立てて描いたと思われる。宿の前の小川で、老婆が米を研いでいる。

 

安藤広重「木曽海道六拾九次之内 御嶽」モデルの地で、

浮世絵と同じ様に、妻を旅人に見立てて坂に配してみた。

顔出し看板が多数立て掛けてあるのが美観を損ねて残念。


【御嵩宿入口の道標】 (左側) 11:38

 しばらく国道21号線を進む。途中、「井尻交差点」で昨年秋に開通したばかりの「可児御嵩バイパス」が左へ別れるが、ここも真っ直ぐ旧21号線を進む。

 「長岡交差点」を過ぎ、左側に「有限会社御嵩電気」があり角に道標が立っている所を左折する。

 道標には、「左 細久手宿」、「右御嵩宿」と刻まれている。


【東の枡形】 【用心井戸】 (左側) 11:43

 御嵩宿に入った道が県道341号線。橋を渡って左折しすぐ右折する。ここが東の枡形である。

 枡形を抜けた先左側に「正一位秋葉神社上町組」と刻まれた石柱が立っていてその後ろに屋根付きの井戸がある。

 これは上町に残されている用心井戸と呼ばれるもので、万一の火災に備えた防火用として、また普段の飲料用として利用されていた(左の写真)

 町の中を進んでいると右手に標高292mの綺麗な御嵩富士が見えてくる(右の写真)


商家竹屋 御岳町指定有形文化財 (平成9年指定)  (右側) 11:52〜12:00

 郵便局の先、町の中ほどに商家竹屋がある。建物の構成は、主家・茶室・土蔵・展示棟(新築)・トイレ棟(新築)より成っており、無料で見学できる。

〜以下は竹屋資料館のパンフレットより〜

 「中山道御嵩宿商家竹屋」は、江戸時代の主要街道「中山道」の宿場町、「御嵩宿」のなかに位置します。

 主屋は明治10年(1877)頃の建築と推定され、街道を人や物資が往来し、大きく賑わいを見せていた頃からの豪商として、宿場内での役割を果たしてきました。そのたたずまいは、商家にふさわしい質素で風格のある造りが成され、今日では徐々に姿を消しつつある江戸時代の建築様式を色濃く残す建物といえ、平成9年には、このうち「主屋」並びに「茶室」が御嵩町指定有形文化財になりました。

【旧野呂家】

 「商家竹屋」は江戸時代末期、本陣職を勤める「野呂家」から分家し、商いを中心として代々受け継がれてきました。

 天保13年(1842)の「御嵩宿並絵図」によれば、本陣の東隣に組頭としての記載がみられるほか、宿内で2軒ある商家にうちの1軒でした。

 竹屋の商いは、通常想像するような店先に商品をならべた販売形態ではなく、金融業をはじめとして繭・木材・綿布などを取扱い、後年にはアメリカ製自動車の輸入販売、名古屋では「竹屋街」と呼ばれる借家街の経営、あるいは佐渡金山への投資など、幅広い商売を手がけていたとされ、現代のいわば「総合商社」の先駆けであったといえます。

【主屋】 切妻2階建 延床面積92.74坪

 「中山道」の北側に面する「商家竹屋」は、中央の土間をはさむ東側に「店」「中の間」「居間」「表座敷」「奥中の間」「奥座敷」と整形6間取りし、西側には「下店」「板の間」「台所」があります。また北奥には明治末から大正期にかけて、分棟式ながら主屋にうまく接続された「炊事場」が増築されています。

 この建物は店舗を目的としており、いわゆる一般の住宅とは異なる建物ということができます。

【開館時間・休館日〕

 平日:午前10時〜午後6時、土・日・祝日:午前9時〜午後5時、


【御嵩宿本陣跡】  (右側) 12:01

 商家竹屋の隣が「みたけ館第二駐車場」で、それに続いて本陣門が建っている。

 御嵩宿本陣は宿場の西寄りに位置し、代々野呂家がその職務にあたっていました。残された図面によると前後二棟で構成され、前棟が住居棟、後棟が上段の間のある宿泊棟に利用されていたようです。

 『中山道宿村大概帳』によれば、門構え・玄関付きで建坪百八十一坪と記されているほか、寛保年間(1741〜44)の「御嵩宿本陣坪書」によれば、間口十三間、平坪七一五坪、建坪五十五坪とあり、部屋数は、住居棟が十室、宿泊棟が十三室だったようです。また、土蔵三棟、物置三棟があり。いざというときの碑難所として、本陣北にある宝積寺があてられ ていました。

 現在の建物は明治・大正の二度にわたって建て替えられていますが、江戸期の本陣の風格を感じさせる門構えを遺しています。

     御嵩町教育委員会発行のパンフレット「中山道往来」より


【中山道みたけ館】  (右側) 12:04

 本陣跡の隣に中山道みたけ館があり、脇本陣跡と思われる。

 入場無料で、御嵩町の歴史が分かりやすく展示されているというが、冒頭に述べた通り早く帰らなければならない事情が出来て内部は見学していない。


<昼食> 12:06〜12:55

 本陣前の細道を左に入った川沿いの「味和居 江戸川」で昼食をとった。

 料理が出てくるまで時間が掛かったが、頼んだ海鮮丼はボリュームがあり美味しかった。

 料理を待ちながら30分程たった頃、昨日大黒屋で一緒になった御夫婦がそろそろ追いつくのではないかと話していたところへお二人が入って来たのには驚いた 。

 私達の30分後に宿を出られたとのことで、相席にして再び歩き談議に花が咲いた。


【願興寺  (右側) 13:02

 旧中山道は川を渡って名鉄広見線の御嵩駅に突き当たり、ここを右折するが、その右角に願興寺がある。

 弘仁六年(815)、伝教大師によって創建されたといわれる天台宗の古刹「大寺山願興寺」。二度にわたる兵火により本堂等は焼失しましたが、幸いにも本尊・薬師如来像をはじめ諸仏像は焼失をまぬがれました。本堂も地頭・纐纈源吾盛康の力によって再興され、二度目の焼失後も近在の農民・玉置与次郎らの発願により、素朴な造りではあるものの、板一枚、柱一本を持ち寄って見事再建されました。

 このあたりでは通称「蟹薬師」と呼ばれ、広く親しまれています。現在、薬師如来像ほか二十四躰及び本堂が国指定の重要文化財に、また、鐘楼門が県指定文化財になっています。

     御嵩町教育委員会発行のパンフレット「中山道往来」より


【愚渓寺(臥竜石庭)】  (右奥) 13:17〜13:25

 御嵩駅前で右折した中山道は、右角に「原写真館」のある十字路を左折する。更に、8分ほど進んだ左側に「菓子司松月堂」の前を右折して国道の「中交差点」で左折する。

 私達は、国道の北側にある愚渓寺の石庭を見に行くために、中山道から外れて道草をした。

 「原写真館」前の十字路を左折して250m(4分)、左側に古民家が建っている所を右折して真直ぐ進み更に8分。国道を横断して「御嵩小学校」前の坂道を上ると、小学校の北側に愚渓寺がある。

 本堂等は新しいものであるが、京都竜安寺のモデルになったと云われる臥竜石庭は素晴らしく、御嵩町に来られた人は是非寄り道することを強く薦める。これだけの石庭を見られて拝観料が必要ないのは嬉しい。

【大智山愚渓寺と禅の庭「臥竜石庭」】

 愚渓寺の創建は古く、応永三五年(1432)頃に臨済宗妙心寺派の高僧「義天玄承禅師」が先師の足跡をたどり鈴が洞の地に愚渓庵を開創したことに始まる。

 その後、永正年中(1504−3)初頭に愚渓寺となり、東美濃における名刹としてその名を今に残している。

 愚渓寺において義天禅師は「臥竜」と名づけた石庭を作庭し、禅の世界を表現するとともに、禅行の道場としての位置づけを与えたとされる。

 江戸時代天保年間(1830−44)になり愚渓寺は現在地に移築され、二重塔を含めて伽藍が整えられるとともに石庭も再現され、今日に至っている。

 優美な姿の御嵩富士を背後にいただき、厳粛な風の流れる大方丈と京都竜安寺の石庭の原型と称されるその前に広がる石庭の姿は、中世の禅の世界を語りかけてくれる。

     御嵩町・御嵩町観光協会


【鬼首塚遺跡』 町重文 【正岡子規歌碑】 (右側) 13:37

 愚渓寺からは中山道まで戻らず、国道21号線を右折して次の「中交差点」で中山道に合流した。

 この「中交差点」からすぐの右側に鬼首塚遺跡とその左隣に正岡子規の歌碑が建っている。

 遺跡には鬼首塚遺跡と刻まれた石柱と、その後ろの祠の中に「関ノ太郎首塚」と刻まれた丸い石碑が納められていた。

 正岡子規の歌碑には、次の歌が刻まれていた。

   草枕むすぶまもなき うたヽねの ゆめおどろかす野路の夕立  子規

【鬼の首塚(天神塚)】

 伝説によれば鎌倉時代の建久、正治の頃(1190〜1200)頗る凶暴で悪業三昧の男が次月の鬼岩の岩窟に住み着き乱暴狼藉を極め住民を大いに大いに悩ませました。

 この者は西美濃不破の関の生まれであったため、住民はこれを「関の太郎」とか「鬼の太郎」と呼び怖れていました。そこで正治元年(1199)人々はこの地の地頭交告源吾盛康にこの惨状を訴え退治してもらうことにしましたが盛康は京の地にあり、おいそれと帰ることができませんでした。そこで自分の家臣四名に太郎の退治を頼み御嵩の地に帰しました。ところが、なかなか太郎を討つことができなかったため、蟹薬師に祈願したところ、太郎が女装し祭礼に来るとのお告げがあり、そのお告げのとおりに四月一日の祭礼の日に女装した太郎が現れ、それを捕らえ首を切ることができました。

 四人の者は太郎の首を首桶に入れ、検分のため都へ運ぼうとしたところ急に首桶が重くなり一歩も進むことができなくなりました。すると首桶を縛っていた縄が切れ中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことができなくなったため、それをこの地に埋めました。

 これが「鬼の首塚」の由来といわれています。首塚のあるあたりを「桶縄手」と呼び、木曽街道膝栗毛の著者十返舎一九もこの地のことを詠んだ歌を残しています。

    桶縄手 今もその名を 朽ちさりき 塩漬にせし 鬼の首かも

     御嵩町御嵩町観光協会


 鬼首塚遺跡をあとに国道21号線を進み、次の「大庭交差点」を渡っ た少し先を斜め右へ入る。

 8分ほど住宅地を丸く迂回するように進んで再び国道に戻る。

 国道に戻ったら次の「顔戸交差点」を右に入ると顔戸城址、左に6分程入ると顔戸駅傍に在原行平卿之墳がある(何れも次の26回目を参照)



 25回目の旅終了(14:10:) 顔戸駅入口「顔戸交差点」。

  顔戸駅より名鉄電車に乗り名古屋経由で帰宅。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、14.0Km(大黒屋旅館〜顔戸駅入口「顔戸交差点」)

          日本橋から九十六里十七六町(378.8Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、17.4Km(大黒屋旅館〜顔戸駅) 累計450.0Km

          7時間10分 27,160歩。

 

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