番場宿・鳥居本宿(前半)・彦根城 (醒ケ井駅 → 彦根駅) <旧中山道
32回目>
2010年11月3日(日) 雨後晴
泡子塚の先、県道17号線と交差する十字路を10:15スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
「関ヶ原・今須・柏原・醒井宿」 ← 「目次」 → 「鳥居本(後半)・高宮・愛知川宿」
パスしている十三峠越えの大湫宿・細久手宿に戻りたいが、今夏は猛暑のためドングリなどの実のりが悪く、各地で熊の出没騒ぎが例年と桁違いに増加しているとのことで、今年の秋の山は怖いため前回に引き続き平地を歩くことにした。
従って、峠越えは最後に持ち越し予定。
醒ヶ井駅を降りたら雨が降ってきた。ところが空を見上げると、左右や後方には晴れ間が見えるのに我々が進んでいる方向のごく狭い真上だけに雨雲があるではないか。
街道歩きでは傘をさしていてもカメラや資料、メモ帳などが濡れてしまい困ることが多いので、雨の降らない日を選んで日程を決めているが、本日は一日曇りという予報が外れたか。と思っていたら、20分くらい行った茶屋道館というお休み処を過ぎた辺りから急に晴天になり、さすが二人で出かけると何時も晴れる晴女と晴男のタッグは強いと再確認した。
過去最大の晴は、ドイツ・スイス(一部フランス)旅行で一日も雨に会わず、特に三大名峰(ユングフラウヨッホ・マッターホルン・モンブラン)では全て快晴、最高の景色を見られたことだった。三大名峰に何回も来たと言うベテラン添乗員も「過去に三つとも晴れた事は無かった。かならず一つか二つは何も見えない状態で、今回の様な晴、まして快晴は初めてだ」と興奮して話していたくらいだった。
【六軒茶屋】 (右側)
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県道17号線と交差する十字路の先すぐ右側にある赤い屋根の家(左の写真)が、往時六軒あった茶屋の内、唯一現存する一軒である。 幕府の天領(直轄地)であった醒井宿は、享保九年(1724)大和郡山藩の飛地領となった。藩主・柳沢候は、彦根藩・枝折との境界を明示するため、中山道の北側に、同じ形の茶屋六軒を建てた。この「六軒茶屋」は、中山道の名所となり、安藤広重の浮世絵にも描かれている。 |
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(右の写真の説明・家の玄関横に貼られていた資料)
標記の建物は江戸時代に建てられた六軒の茶屋のことで、以来、誰いうこと無くこのいったいを六軒町と呼んでいた。
資料は、昭和30年代の金融機関のカレンダー用写真で、本作品は、更に数年前の風景を描いてみた。この茶屋も現在最後の一軒を残すのみで、街道の松並木も一本又一本と次々に枯れて、茶屋の前の一本を残すのみとなった。
右下に見える祠は今ものこっている。
【茶屋道館】 (左側) 10:35
程なく国道21号線に合流するので左折するとすぐ「丹生川橋」を渡る。歩道の無い国道を更に数分行くと右斜めに入る道があるので、そちら(河南集落)へ進む。
集落の途中に茶屋道館(いっぷく場)という民家を改修した資料館を兼ねたお休み処があったが、開いていなかった。ここを過ぎた辺りから急に晴天となる。
【茶屋道館の由来】
この家屋は一見平屋つくりのように見えるが二階建てになっている。その理由として考えられることは、明治以降生活の洋風化の中で従来のかや葺きの屋根をこわし瓦葺きに変えた際、旧来の柱組みを利用したため低い二階造りとなったと思われる。裏側には土蔵が二棟ある。当時は財産として、米、骨董品、諸道具などを保管する金庫のような考え方であったものが二棟も現存するのは近隣では例が少なく、この家の主はかなりの財産家であったことが伺える。
この家屋は永らく空き家になっていたものを当自治会が買いとり、この地の小字名「茶屋道」をとって「茶屋道館」と名付け歴史的資料を集めると共に中山道醒ヶ井宿と番場宿の中間に位置することから中山道散策者の一時の「憩」と「いっぷく場」として利用されることを期し中山道四百周年事業を記念して開館した。
平成十四年十一月二十三日 米原町河南区自治会
【久禮(くれ)の一里塚】 (左側) 10:55
茶屋道館を過ぎると「樋口交差点」で国道を横断する。
息郷小学校前を通過し、突き当りの道を左折して名神高速道路「米原ジャンクション」で北陸自動車道に分かれた高架の下をくぐる。
くぐると正面に日本橋から117番目の久禮一里塚の石碑があり、手前に休憩できるテーブルとベンチがある。
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江戸へ約百十七里(459.5キロメートル) 京三条へ約十九里(74.6キロメートル) 江戸時代には、三十六町を一里とし、一里毎道の両側に盛土して塚が築かれていました。川柳に、 「くたびれた やつが見付ける 一里塚」 とありますが、旅人は腰を下ろして一息し憩いの場にしたことでしょう。 久禮の一里塚には右側には「とねり木」、左側には「榎」が植えられていました。
平成七年七月 米原町史談会 |
【問屋場跡】 (右側) 11:05
一里塚をあとに枝垂桜や楓並木もある静かな道を進むとやがて右側に、イルカの形をした流木の様な板に「ここは番場宿です」と手書きされた看板が立っていた。
そのすぐ先右側に中山道番場宿 問屋場跡の新しい石標が民家の低いブロック塀に上に乗っていた。
その先、左カーブしている右側民家の塀の前にも同 問屋場跡の石標が立っている。
【番場宿碑】 (右側) 11:10
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問屋場跡を過ぎると県道240号線と交差する。 交差点右角のベンチもあるポケットパークに自然石の中山道番場宿碑が建っている。その右前に「分間延絵図」も添えられている。 |
【米原汽車汽船道】 (左側)
県道を渡った反対側に右を指差している手の彫刻と米原 汽車汽船 道と彫られた道標が立っている。
その脇に蓮華寺の看板が立っていた。
【番場宿】 日本橋から117里9町(460.5Km)、京へ18里25町
(73.4Km)
天保14年(1843)で人口808名、総家数178軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋10軒。
木曽海道六拾九次之内 番場 (広重) 見付から番場宿内を見通ししたもの。入口右側の店には「一膳めし」と書かれた提灯と「いせや」の看板が掲げられている。左側中央の茶屋の看板にはヒロの紋に「歌川」と書かれて、歌川広重を暗示している。 |
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蓮華寺先、番場の町並外れ
左側の3軒目は、一膳めしの「いせや」だったとのこと。 |
【脇本陣跡・問屋場跡・本陣跡等の石標】 (全て右側)
県道を渡ってすぐ右側の民家の前に中山道番場宿 脇本陣跡、その隣の民家前に同 問屋場跡、そのまた隣の民家前に同 本陣跡、そのまた隣の民家前に同 問屋場跡と明治天皇番場御小休所の石碑、そのまた隣の民家前に同 問屋場跡が並んでいる。
番場宿に入り問屋場だけで合計5件あった。中山道近隣からの物資をこの番場宿に集め、米原汽車汽船道を通って米原湊に運ばれる為、多数の問屋場があったのだろう。 |
【蓮華寺】 (左奥) 11:20〜12:20
最後の問屋場跡を過ぎると左奥に続くに広い蓮華寺の参道があり、その左角に「境内在故六波羅鎮将北条仲時及諸将士墳墓」、「瞼の母番場の忠太郎地蔵尊」「南北朝の古戦場 蓮華寺」、右角に「史跡 蓮華寺」の石柱が立っていた。
この参道を蓮華寺の山門に向って進む途中、右側に入る小道があり、その入口に鎌刃城跡の案内板が立っていたので右に入ってみたら山道が現れ鎌刃城跡約2.3Km→とあったので もとの参道に引き返す。
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山門(勅使門)前に到着すると右が駐車場で、参詣者は勅使門の左側の細道から入る。 【血の川】
元弘三年五月、京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は、北朝の天子光厳天皇及び二上皇・皇族等を奉じ、東国へ落ちのびるために中山道を下る途中当地にて南朝軍の重囲に陥り、奮戦したるも戦運味方せず戦いに敗れ、本堂前庭にて四百三十余名自刃す。鮮血滴り流れて川の如し。滴り流れて川の如し。故に「血の川」と称す。時に元弘三年五月九日のことである。 【蓮華寺】 寺伝によれば聖徳太子の建立でもと法隆寺と称したが、鎌倉時代一向上人が土地の豪族土肥元頼の帰依を受けて再興し時宗一向派の本山となり、幾多の変遷を経て現在では浄土宗となっている。 北条仲時以下430余名自刃にまつわる過去帳や墳墓に悲哀を物語り、あるいは長谷川伸の「瞼の母」で有名な番場の忠太郎や、斎藤茂吉ゆかりの寺としてその歴史にふさわしい数々の逸話を秘めている。 |
更に、入ると蓮華寺の文化財についての説明板が立っている。
蓮華寺
寺伝では飛鳥時代に聖徳太子が創建し、法隆寺と称していたと伝えています。弘安七年(1284)諸国を遊行教化していた一向上人が錫を留め、念仏を広めました。時の領主土肥三郎元頼は深く上人に帰依して、堂宇を建立し、八葉山蓮華寺と改称し、一向上人を開山の祖としました。
陸波羅南北過去帳(国指定重要文化財)
元弘の変で京都を追われた六波羅探題北條仲時は中山道を下って鎌倉へ向いましたが、京極導誉や五辻宮守良親王の軍に囲まれ、番場一向堂の前において総勢四百三十余人が自刃しました。元弘三年(1333)五月九日のことです。時の蓮華寺住職同阿上人は深く同情し、菩提を弔うため自刃した人達の姓名と年令、法名を書き留めたものが、陸波羅南北過去帳です。
梵鐘(国指定重要文化財)
蓮華寺の梵鐘は銘文によると弘安七年(1284)に蓮華寺の二法師が諸檀家を廻って勧進し、大檀家道日(土肥三郎元頼)の援助を得て鋳造されたものです。
本尊木像阿弥陀如来・釈迦如来立像(米原市指定文化財)
同一厨子内に安置された双像は共に檜材の寄木造り。阿弥陀如来像は彫眼で眦(めじり)が上り、頬をひき締めた面相に特色があります。釈迦如来像は玉眼で、両肩をおおう衲衣(のうえ)を着け、施無畏印(せむいいん)、与願印を結んでいます。いずれも鎌倉時代に刻まれたものと考えられます。
石造宝篋印塔(米原市指定文化財)
銘文は認められませんが、鎌倉時代末期から南北朝時代に建立されたものと考えられます。相輪の一部は欠けていますが、町内に遺存する数少ない宝篋印塔のうち最大のものです。寺伝では土肥三郎元頼の墓と伝えています。
平成四年三月 米原市教育委員会
境内に入る前の左手にトイレがあり、境内に入ると集金箱と寺のパンフレットが置いてある。入山料は300円。
本堂正面に掲げられている寺額「蓮華寺」は、後水尾天皇直筆の勅額で、元禄五年十一月十六日御下賜されたもの。
この寺の住職は常駐しておられないとのことで、管理人に庫裏・庭園・本堂・宝物館を案内して頂いた。
本堂内部は立派で厨子内に双像が安置され、その裏にある宝物館には国重文の「陸波羅南北過去帳」、曼荼羅などが展示されていた。
庫裏の前に大きな斉藤茂吉の歌碑が建っている。
松風のおと聴く時はいにしえの 聖のごとく我は寂しむ 茂吉
庫裏を出て、本堂の右側に重要文化財の宝篋印塔が一基建っている。これは前述の開基鎌刃城主(九万三千貫領主)土肥三郎元頼公の墓という。
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宝篋印塔の右横を通って山道を登ると、途中の左側斜面に多数の五輪塔が並んでいた。432基あるそうだ。
米原教育委員会・菊華会 |
五輪塔の横を更に階段を登って行くと、開祖 一向俊聖上人の廟所がある。
【ご開山 一向上人の御廟】
この坂を登りつめた所に御廟があります。
一向上人は、浄土宗第三祖良忠上人のお弟子で、教えを説き人を導くため、北は奥州から南は九州までの各地を遊行し、ここ番場の地で一生をおえた高僧です。梵鐘は一向上人の時代に鋳られたものです。
元の宝篋印塔に戻り、今度は本堂の右横を通って裏に上がると番場の忠太郎地蔵尊が一段高い所に建っている。
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【忠太郎地蔵尊の由来】 昭和三十三年八月三日 文壇の雄長谷川伸先生が南無帰命頂禮 親をたづぬる子には親を 子をたづぬる親には子を めぐり合わせ給えと悲願をこめて建立された地蔵尊である このお地蔵さまを拝めて 親子の縁はもとより あらゆる縁が完全に結ばれて 家庭円満の楽しみを受ける事ができる それにはお互がいが をがみ合うすなをな心が大切である それをこのお地蔵さまは 合掌せよとお示しになっている 番場史跡顕彰会 |
番場の忠太郎が主人公の「瞼の母」は長谷川伸の戯曲で自らの身の上を投影した作品という。
幼くして母と生き別れ、父とも死別した無宿渡世人番場の忠太郎が、母を探し求め江戸へ出て、料亭の後妻となった母親を尋ね当てる。しかし母親は我が子と知りながらも追い返す。「瞼をつむれば、昔のやさしいおっかさんの面影が浮かんでくる」と忠太郎は有名な科白を言い残して、またあてのない旅に出るという物語。
フィクション上の人物であるが、庫裏には忠太郎の人形と母の似顔絵が飾られていた。
番場の忠太郎地蔵尊の右手には一向杉と名付けられた杉の巨木がある。
【滋賀県指定自然記念物】
滋賀県自然環境保全条例第21条第1項により指定
1.名 称 蓮華寺の一向杉
2.所在地 坂田郡米原町大字番場字蓮華寺511番地
3.大きさ 幹周 5.53m 樹高 30.7m 樹齢 およそ700年(推定)
4.指定理由 蓮華寺を開山した一向俊聖上人が弘安10年(1287年)に亡くなられ、荼毘に付した地にスギを植樹したものと伝えられています。地域の人達からは、一向杉(いっこうすぎ)と呼ばれて親しまれており、県下有数の巨木です。
5.指定年月日 平成14年5月7日
滋賀県
寺の見学を終えたところで勅使門の裏側にベンチがあったので、米原駅で買った弁当で昼食をとった。
【鎌刃城跡】
蓮華寺を後にして、番場の街並が途切れる辺りに往時一膳めしのいせやがあり、ここを広重は番場宿の浮世絵とした。ここで上記【番場宿】の現代の写真を撮り、菜種川を渡る。
渡った所に鎌刃城跡の説明板が立っている。
【鎌刃城跡について】
鎌刃城跡は滋賀県米原市番場の標高384mの山頂に位置する典型的な戦国時代の山城です。
ここは戦国時代、江北と江南の境目にあたることから鎌刃城も国境を警備する目的として、応仁の乱の頃には築城さていたようです。城主堀氏は当初浅井氏の家臣でしたが、元亀元年(1570)織田信長に与したため、信長軍の最前線基地となります。このため浅井長政や一向一揆勢に度々攻められ、木下籐吉郎(後の豊臣秀吉)の援軍によってかろうじて落城が食い止められています。
平成10年より実施されて発掘調査で、門柱の基礎を伴う見事な枡形虎口(出入り口)や、御殿の基礎をはじめ中心部の周囲が高さ3mを越える石垣によって築かれていたことが明らかとなりました。
平成15年3月 米原市教育委員会
【番場宿碑】 (左側) 12:42
菜種川を渡ってゆるい登り坂を進み、西番場に至ると名神高速道を反対側にくぐれる所に比較的新しい番場宿の石碑がある。
【小摺針峠】 12:55
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登りがきつくなる手前で後ろを振り返ったら、前回見られなかった伊吹山が真正面に見えた。
芭蕉が「伊吹山は、花や雪や月の借景がなくても、ただ単に聳立する孤山としてだけで、立派に眺め賞し得る山容を備えている」と褒めている山も近年山肌が剥きだしになっている姿が痛々しい。 |
【泰平水】 (右側)
峠を過ぎて名神高速の側道を下る途中の山際に湧水が出ている樋と祠が建っていた。
現在は飲料に適するのかは分からなかったが、往時は旅人の喉を潤したことであろう。
【道標】 (左側) 13:04
小摺針峠を下りきった所に三叉路があり、その左側に新旧2本の道標が立っていた。
古い道標の正面に「摺針峠 彦根」、左面に「番場 醒井」、右面に「中山 鳥居本」と刻まれていた。新しい方は右も左も中山道と刻まれていた。
この三叉路で右折し、再び登り坂となる。
【摺針峠】 13:12〜13:20
民家の中を登って行くと、やがて左側に鳥居が見え、摺針峠に到着する。
鳥居は神明宮で、鳥居の右脇に復元された望湖堂が建っており、その前に明治天皇摺針峠御小休所の石柱が建っている。
広重は鳥居本の浮世絵としてここ摺針峠から望む琵琶湖を描いた。(下記【鳥居本宿】参照)
出だしは雨で心配したが、良く晴れて琵琶湖が望めたのは良かった。
ただ、世界最大級の高さ(170m)と規模を誇っていると言う、フジテックのエレベーター研究塔が正面に聳えていて景観を損ねていることだけが残念である。
【望湖堂跡】
江戸時代、摺針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていた。峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打った。参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の和宮降嫁の際も当初に立ち寄っており、茶屋とは言いながらも建物は本陣構えで、「御小休御本陣」を自称するほどであった。その繁栄ぶりは、近隣の鳥居本宿と番場宿の本陣が、寛政七年(1795)八月、奉行宛に連署で、望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように訴えていることからも推測される。
この望湖堂は、往時の姿をよく留め、参勤交代や朝鮮通信使の資料なども多数保管していたが、近年の火災で焼失したのが惜しまれる。
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摺針峠を下るとすぐ左に、「旧中山道・鳥居本宿」の木製案内板が立っていて、青い手すりが付いている下りの細道がある(左の写真)。この急な山道をジグザグに少し下りると一旦別れた車道に出るが、これを横断して反対側から再び下る山道に入る。車道は大きくUターンするが、旧道はこれをショートカットして直線的に下ることになる。 竹林(右の写真)を抜けると右手に国道8号線が見えてくるがここでは国道に出ずに、十字路を真直ぐ進み、川に突き当った所で少し戻るように国道に出るのが旧道である。 |
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国道に出て橋を渡ったら再び左斜めの旧道へ入って行く。 入るとすぐ左側に「おいでやす彦根市へ」と刻まれた高い石柱が3本立ち、その柱の上に旅姿の像が3体それぞれ乗っているモニュメントに出合う(13:35)。 モニュメントの所から松並木になるが、「彦根八景旅しぐれ 中山道松並木(平成7年5月1日制定)」の看板は大げさで、松は若く本数も少ない。 鳥居本の町に入るとすぐ左手に今にも崩れそうな古民家の前に鳥居本宿の説明板が立っている。内容は下記【鳥居本宿】に記す。 |
【鳥居本宿】 日本橋から118里10町(464.5Km)、京へ17里24町
(69.4Km)
天保14年(1843)で人口1,448名、総家数293軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋35軒。
鳥居本は、江戸から数えて中山道六十七次の第六十三にあたる旧宿場町です。当時旅人に道中合羽を製造販売していた店の古い木製看板や、万病に効くといわれる道中薬を江戸時代から製造販売している有川家などに旧街道の名残りがみられます。
旅人たちに木陰を提供した松並木や格子構えの家が並ぶまちをぶらり歩いてみてはいかがでしょう。
木曽海道六拾九次之内 鳥居本 (広重) 中山道一の絶景として有名な摺針峠の立場茶屋で「すりはり餅」を頬張りながら景色を眺める旅人を描いている。 |
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摺針峠
神明宮から復元された望湖堂と琵琶湖を望む。 |
【赤玉神教丸有川家】 右側 13:43〜13:50
鳥居本宿案内板から3分で枡形になり、右カーブした所に建つ大きな屋敷と店が赤玉神教丸本舗の有川家である(左の写真)。
本陣門に匹敵する立派な門の前には「明治天皇鳥居本御小休所」の石碑が立っている(右の写真)。
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万治元年(1658)創業の赤玉神教丸本舗は、今も昔ながらの製法を伝えています。 有川家の先祖は磯野丹波守に仕え、鵜川氏を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で有川姓を名乗るようになりました。 近江名所図会に描かれたように店頭販売を主とし、中山道を往来する旅人は競って赤玉神教丸を買い求めました。 現在の建物は宝暦年間(1751〜1764)に建てられたもので、右手の建物は明治十一年(1878)明治天皇北陸巡幸の時に増築され、ご休憩所となりました。 彦根市指定文化財 |
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店内に入ると赤玉神教丸が並べられており、薬の製造道具や古い看板などが展示されていた。
また、店の中から表門の裏側に出ると、式台のある立派な玄関があり、傍らに文部省の説明板が掲げられていた。
【説明】
明治十一年北陸東海巡行ノ際十月十一日及同月二十二日ノ両度御小休所トナリタル處ニシテヨク奮規模ヲ存セリ
昭和十四年十一月三日 文部省
【上品寺】 (右奥)
有川家の左横から真直ぐの路地を入り国道を渡った所に上品寺の鐘楼が見える。
【上品寺と法海坊】
古くは天台宗に属していましたが、明暦二年(1656)に浄土真宗本願寺派となりました。
鐘楼につられる鐘は、七代の了海(法海坊)が江戸市中を托鉢して作ったもので、周囲には新吉原の遊女、花里・花扇姉妹ら協力した人々の名前が刻まれています。了海の托鉢の様子は歌舞伎のモデルにあるほど有名だったので第二次世界大戦にも供出されることはありませんでした。
【湖東焼「自然斎」旧宅】 (右側) 13:56
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江戸時代「米屋」という屋号の旅籠で、ここに住む岩根治右衛門は、若い頃より直弼の絵の師匠である中島安泰に学び、直弼から自分に自然であるようにと自燃斎(じねんさい)の号を賜り、絵付け師として精進してきました。 安政三年(1856)には普請方の許可を得て、民間で湖東焼の絵付けを行っていましたが、街道の往来が少なくなった明治初期に安曇川に移り明治十年(1877)に亡くなりました。建物内はかつての旅籠の風情を残しています。 |
【合羽所「木綿屋」】 (右側) 13:58
鳥居本宿の名産であった、合羽屋が現存している。「本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と書かれた当時の看板も家の前にそのまま吊り下げられている(右の写真)。
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享保五年(1720)馬場弥五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向う旅人が雨具として多く買い求め、文化・文政年間(1804〜30) には十五軒の合羽所がありました。 天保三年(1832)創業の木綿屋は鳥居本宿の一番北に位置する合羽屋で、東京や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院、商家を得意先として大八車などに覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造していましたので、合羽に刷り込んださまざまな型紙が当家に現存します。 |
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【旧本陣 寺村家】 (左側)
合羽所の斜め向かい、鳥居本駅入口十字路の手前角に説明板が立っていて、現在、住居部分は洋館に建て直されている(左の写真)。
庭に建っている倉庫の扉に本陣門(右の写真)がかろうじて残っているのみ。
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鳥居本本宿の本陣を代々務めた寺村家は、観音寺城六角氏の配下にありましたが、六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を務めました。佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長八年(1603)鳥居本に宿場が移るとともに鳥居本宿本陣役となりました。 本陣屋敷は合計二〇一帖もある広い屋敷でしたが、明治になって大名の宿舎に利用した部分は売り払われ、住居部分が、昭和十年頃ヴォーリズの設計による洋館に建て直されました。倉庫に転用された本陣の門が現存しています。 |
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【脇本陣・問屋場】 (左側)
鳥居本駅入口十字路を挟んで本陣の隣にある。 本陣の向いにも脇本陣があったとのことだが、現在は消滅している。
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鳥居本宿には脇本陣が二軒ありましたが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた高橋家のようすは、上田道三氏の絵画に残されています。それによると、間口のうち左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇本陣の施設で、奥には大名の寝室がありました。そして屋敷の南半分が人馬継立を行う施設でる問屋場です。人馬継立とは当時の輸送システムで、中山道では宿ごとに五十人の人足と五十疋の馬を常備するよう定められていて、次の宿まで常備した人や馬を使って荷物を運んでいました。 |
【近江鉄道 鳥居本駅】
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本陣と脇本陣跡の間の十字路を右折するとすぐ可愛い鳥居本駅に着く。
こんな狭い駅舎で長時間のコンサートが良く開けたとビックリしてしまうくらいである。 その後建替えられましたが、今も建設当時の全国の平均的な建築様式をそのまま継承しています。 平成八年にはこの駅舎で百八十四時間におよぶ世界最長コンサートが開催されギネスブックに登録されました。 |
中山道歩きは、鳥居本駅入口の十字路で終了し、ここ鳥居本駅から近江鉄道で彦根駅へ行き、彦根城、玄宮園、埋木舎を見学してホテルに入る。
中山道からから彦根城まで歩くとすると、鳥居本駅の先の彦根道分岐点より佐和山多門櫓迄3Km(1時間弱)ある。
【彦根城】
彦根駅東口から15分程で彦根城の佐和山多門櫓に着く。
この日は、彦根城祭りの開催中で天守閣の周りにある多くの櫓・馬屋等が無料開放されていた。全国「ゆるキャラ」ランキングで上位に入っている「ひこにゃん」には会えなかったが、以前私がここに来た時には見学することが出来なかった建物内が見られて良かった。
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この彦根城は、慶長5年(1600)井伊直正が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田光成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601)上野の国高崎城から佐和山城へ移ってきた。 その後直正は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死し、慶長8年(1603)その子直継が父直正の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。時の将軍家康は特に奉行を差し向け、7ヶ国12大名にも応援させ、元和8年(1622)現在の彦根城が完成、築城をはじめてから実に20年の年月を要したもので、城地面積約0.25Km2(75,800余坪)周囲約4Km(1里)高さ約50mの彦根山に築城した平山城である。 昭和26年(1951)に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓門櫓・三重櫓・佐和口多門櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952)には天守閣を国宝に、同31年(1956)には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。また、新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られている。 |
彦根城の隣(北東)には、井伊直興(なおおき)によって造られた大名庭園玄宮園がある。
大老井伊直弼が文化十二年(1815)に生まれた槻(けやき)御殿は改装中であった。
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玄宮園は、四代藩主井伊直興が延宝五年(1677)に、中国の湖南省洞庭湖(どうていこ)の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景、竹生島や沖の白石などをを模してつくられた約6300坪の大池泉回遊(だいちせんかいゆう)式の旧大名庭園である。 大きな池に突き出すように臨池閣(りんちかく)が立ち、築山には鳳翔台(ほうしょうだい)がある。この鳳翔台は、彦根藩の賓客をもてなすための客殿で、ひなびた趣のある建物 である。
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玄宮園を出ると冬(11月〜1月)と春(4月〜5月)の年2回開花する二季咲桜が少し咲いていて、井伊直弼大老像も建っている。
佐和山多門櫓を出て堀を左折すると埋木舎がある。
十四男であるにもかかわらず、長兄が次々と亡くなった為に思いがけず第十三代藩主となった井伊直弼が青年時代を過ごした家である。説明板は新旧二枚あった。
御存知の通り、直弼は幕末期の江戸幕府で大老職を務め、日本の開国近代化を断行した。そして安政の大獄の反動を受けて桜田門外の変により暗殺される。
下の写真は埋木舎内の奥座敷で、直弼が日常の生活や勉学をした居室。対談相手は長野主膳と書かれていた。
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【埋木舎】 大老、彦根藩第十三代藩主井伊直弼公は文化十二年(1815)に第十一代藩主、直中公の十四男として生まれた。五才のとき生母を十七才のとき父をうしない、藩の掟によって僅か三百俵の捨扶持を給せられてここに移った。 弘化三年(1846)、第十二代藩主である兄直亮の嗣子になるまでの青年時代(十代〜三十二才)をこの埋木舎で過ごした。この間に刻苦勉励して学内武芸に打ち込んだが、将来の藩主たるためのものでなく、ただ与えられた窮庶子の地位において安住する精神を求めたに他にならなかった。 嘉永三年(1850)藩主に、更に安政五年(1858)四月に幕府の大老職になるや翌々年の六月には幕府の祖法を排して日米通商条約調印に続いて、英、仏、露、蘭の四ヶ国と開港条約を結んで国難を救った英断には、この埋木舎における生活のたまものといえよう。 昭和五十四年十月 彦根市 |
井伊直弼が17歳から32歳までの青年時代を300俵の捨扶持で過ごしたところで、直弼は自らを生涯花の咲くこともあるまいと埋もれた木にたとえて埋木舎と呼んだ。ここで彼は茶道、華道、禅、歌道、武術などの研究に励んだ。
茶道では石州流を学び裏手にある茶室は澍露(じゅろ)軒と名づけ数多くの弟子に一期一会の茶道精神を伝えた。
この建物は昭和60年度から6年間に亘って修復しました。
32回目の旅終了(16:45) 彦根駅。
彦根駅東口のコンフォートホテルに宿泊。
本日の記録
: 街道のみの距離は、8.1Km(醒井宿・県道17号線と交差する十字路〜鳥居本駅入口)
日本橋から百十八里十町(464.5Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、14.5Km(醒ケ井駅〜鳥居本駅9.6Km+彦根駅〜彦根城〜ホテル4.9Km) 累計570.0Km
6時間30分 29,400歩。