板橋宿・蕨宿 (板橋駅 →
蕨本陣跡) <旧中山道2回目>
2005年10月1日(土) 晴
板橋駅を10:00スタート。 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
数年前からJRの湘南新宿ラインの本数が増加して、横浜方面から埼京線・高崎線などの乗り入れが便利になったので助かる。
【平尾追分】 (板橋3−1)
板橋駅の踏み切りを渡って「板橋駅前本町通り商店街」を過ぎると国道17号線に接する。
ここが中山道と川越街道が分岐していた場所で、現在のりそな銀行板橋支店の付近である。
そのすぐ先で国道が二股に分かれているので、右中山道、左川越街道 となる現在の追分だろう。
【東光寺】 (右奥)
国道17号線に接したら反対側に渡り、「スカイラーク」の右横を入るとすぐ右側に東光寺がある。
境内に入るとすぐ説明板とその隣りに彫りが深く立派な『庚申塔』(左の写真)や『宇喜多秀家の供養塔』
(右の写真)が建っている。 創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳3年(1491)に入寂した天誉和尚が開山したといわれています。当初は、船山(現、板橋3−42)あたりにありましたが、延宝7年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町家が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、たび重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。 境内には、昭和58年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文2年(1662)の庚申塔と平成7年度、板橋区の有形文化財に登録された石造地蔵菩薩坐像、明治になって子孫が供養の為に建立した宇喜田秀家の墓などがあります。 |
【観明寺】 (右側)
旧中仙道は国道17号線から別れ、アーケードに『板橋宿』の標示や旗がある「板橋宿不動通り商店街」に入って行く。
商店街に入ってすぐ 観明寺があり、入口に『庚申塔』(写真の妻の前)がある。
【観明寺と寛文の庚申塔】 当寺は、真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元年(1338)と伝えられていますが、不明です。『新編武蔵風土記稿』には、延宝5年(1677)10月に入寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの信仰を集めました。 明治6年、当寺の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勘請しました。現在も、出世不動と呼ばれて親しまれています。なお、不動通りの名称は、この」お不動様に由来します。 境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。 また参道入口にある庚申塔は、寛文元年(1661)8月に建立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和58年度に板橋区の指定有形文化財となりました。 |
観明寺前に『地蔵通りの地図』と近隣の説明がある。
【加賀藩下屋敷】
板橋宿の旧街道に面した町場部分の外は畑と水田が広がり、南東部一帯は二十二万坪(約76.2ha)におよぶ加賀藩の下屋敷が広がっていた。この下屋敷が板橋宿に移ってきたのは、天和3年(1683)とされる。
明治維新により、江戸間の藩邸や武家地が官有地となった時、加賀藩下屋敷も没収された。一部の領地は払い下げられたが、広い敷地は陸軍に移管され、火薬製造所が造られた。これが明治9年(1876)のことである。
これにより、それまで農耕が主であった板橋に初めて工場が進出し、後に軍の下請け工場が付近に集積する契機となった。
【板橋宿平尾町脇本陣跡】 (右奥)
「花の湯」右横の道を入ってすぐ、右側のマンション前の植え込みに板橋区教育委員会が建てた、石柱のみある。
【いたばし観光センター】 (右側)
「花の湯」の次ぎの道を右折したところにある。中山道や板橋宿関連の資料が展示されており、資料も貰える。
また、東光寺にあった「庚申塔」のレプリカが置いてあり、女性の職員が丁寧に案内してくれた。
【中山道板橋宿の成立】
慶長8年(1603)に将軍となった徳川家康は、江戸に幕府を開き、同地を中心として交通網の整備を始めます。中山道板橋宿は、同15年に出された継立荷物の賃銭の定書にその名がみられ、この時すでに宿駅としての機能が整っていたことがうかがえます。しかしながら本格的な宿場の整備は、元和年間以降(1615〜)に行われたと考えられています。
宿場の整備が始まる前後には、板橋を舞台として将軍秀忠・家光の二代にわたり、一回の獲物が数百頭にのぼる大規模な鹿狩りが行われています。その場所は宿場の西方に広がっていた御林が中心であったと考えられます。後にこの御林40町歩(約12万坪)は、番場村(後の板橋宿中宿)の名主であった飯田家(問屋兼務)に下賜されたといわれています。これにより下板橋村(宿)は中宿を中心として開発や整備がすすめられました。宝永元年(1704)、飯田家は本陣をつとめる新左衛門家と名主・問屋・脇本陣をつとめる宇兵衛家に分かれ、以降幕末まで両家によって板橋宿の宿場機能の中心であった中宿を管理する体制となりました。
一方で、平尾村(後の板橋宿平尾宿)には三河国出身で家康の関東入国とともに移住してきたという豊田孫右兵衛門家があり、その子孫とされる豊田市右兵衛門家が平尾宿の名主・問屋・脇本陣をつとめ、「平尾の玄関」と呼ばれていました。また上宿には中世武士、豊嶋氏の出自である板橋市左衛門家があって、後に板橋宿上宿名主・問屋・脇本陣をつとめました。
【偏照寺】 (右側)
「中宿商店街」に入ってすぐで、参道左側に馬頭観音(写真)がある。 境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬などがつながれていた。境内にまつられる寛政10年(1789)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである。 また、堂内には上宿に居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本遊女道中の扁額が納められている。 |
【板橋宿本陣跡】 (右側)
「本陣跡」(写真)は、スーパー・ライフ右隣りの飯田不動産前に教育委員会が建てた石柱のみある。 平尾宿・中宿・上宿の三宿からなっていた板橋宿の本陣は中心部の中宿に1軒で、脇本陣は三つの宿に一軒ずつあり、ともに名主を兼務していた。 中宿の脇本陣跡は、スパーライフのすぐ先の左側に、上宿の脇本陣は下記「板橋」の手前右側にあったそうだが、2つとも碑などは見つからなかった。
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【高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)】 (左側)
スーパー・ライフ前の「石神医院」の入口に説明板がある。
幕府の対外政策を批判し、永牢の身となった蘭学者高野長英(1804〜50)は、弘化元年6月晦日小伝馬町獄舎の火災により切り放しのときに脱獄、そして逃亡した。出牢後の1ヶ月は幕府の厳しい探索にも拘わらず消息不明であったが、7月下旬の或る夜、彼の門人である医師水村玄洞宅を訪れた。
玄洞は身の危険を知りながら一両日長英を奥座敷にかくまい、7月晦日の深夜には北足立郡尾間木村に住む同門で実兄の医師高野隆仙宅へ人をして逃れさせた。
長英はその後郷里水沢に老母を尋ね、さらに江戸、近畿、四国、九州と逃亡生活を続け再び江戸に舞い戻ったが、寛永3年10月30日青山町の隠れ家を幕吏に襲われて自殺した。
【文殊院】 (右奥)
「スーパー ・ライフ」の後にある。
江戸初期、本陣飯田家の菩提寺として、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内を広げて建立された。開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都慶恵と伝える。天保6年に全焼し、安政以降正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺ヘ転住し、出世寺とも呼ばれた。
山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る魔堂、足腰の守り神と知られる子の権現がある。魔堂内には、文化年間に番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀られている。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓がある。本堂内には、板橋七福神の毘沙門天が奉安されている。
飯田家墓地の飯田静の墓碑は昭和63年度に、また本尊文殊菩薩は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録された。
【いたばし七福神】(観明寺前にあった案内板に記載されていたもの)
いたばし七福神は、昭和12年(1937)に、現在の熊野町に住んでいた彫刻師・田中金太郎が製作し、各寺へ寄贈したものといわれる。いたばし七福神の所在は次ぎの通りである。
・恵比寿 観明寺(板橋三丁目)
・大黒天 西光院(南町)
・毘沙門天 文殊院(仲宿)
・弁財天 安養院(東新町二丁目)
・福禄寿 長命寺(東山町)
・布袋尊 西光寺(大谷口二丁目)
・寿老人 熊満寺(練馬区旭ヶ丘二丁目)
【板橋宿】 日本橋から2里半(9.8Km)、京へ133里16町(524.1Km)
天保14年(1843)で人口2448名、総家数573軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠屋54軒。
木曽街道 板橋之驛 (英泉) |
板橋宿は文化・文政期(19世紀初頭)に記された『新編武蔵風土記稿』に「中山道第一之宿駅」とあるように江戸日本橋から数えて最初の宿駅でした。江戸の出入り口に当るところから、東海道品川宿などとともに「江戸四宿」の一つに数えられました。宿高は1087万石で、伝馬として50人・50疋が常備されていました。宿駅業務を行う問屋場に加えて、輸送荷物の重さ(貫目)を取りしまる貫目改所も置かれていました。宿場は南から平尾宿・中宿・上宿に三分されており、宿場全体の長さは15町49間(約1.7Km)で、現在のJR板橋駅西口から環状7号線周辺まで及んでいました。平尾には川越往還(街道)との追分があり、また石神井川を渡るところには「板橋」がかけられていました。 天保2年(1831)の段階での板橋宿の家数は475軒で、そのうちわけは本陣1軒(中宿飯田家)、脇本陣3軒(平尾宿豊田家・中宿飯田家・上宿板橋家)、宿役人7軒、寺院10軒(乗蓮寺・智清寺・東光寺・観明寺・文殊院・遍照寺・本寿院・日曜寺・玄宝院・香林庵)、百姓272軒、地借58軒、店借124軒となっていました。人口は2448人で、男女のうちわけは男性1053人、女性1396人と女性が多くなっています。文政12年(1829)の段階では「農業間商ならびに諸職人渡世」の家が全体の82%に上がっており、宿場の大多数の住民は旅籠・茶屋・料理屋・居酒屋・髪結・湯屋・遊女屋・質屋などの商売をしていました。 ≪いたばし観光センターの展示資料より≫ |
【板橋】 10:40
日本橋から二里二十五町三十三間(10.6Km) の木柱と説明板があった。この橋を渡ると「板橋本町商店街」となる。
この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。 板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2,2Km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所絵図」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。(右下の銅版画参照) 江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の二度改修が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。 |
【中山道板橋宿上宿】 (右側)
やがて交番が現れ、その
うしろ「本町にぎわい広場」の奥に櫓(左の写真)が建っており、櫓の正面に「江戸名所絵図」の『板橋宿駅』(右の写真)と『乗蓮寺』が掲げられてい
る。 石柱の正面に『中山道板橋宿 ここは上宿』、左側面に『これより北約330mまで板橋宿』、右側面に『これより南830m 平尾宿』『これより南約250m 中宿』と書かれていた。 |
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【中山道板橋宿上宿】
江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などをささえてきました。
板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、その長さは十五町四十九間(約1.7Km)でした。天保14年(1843)には人口2448人、家数573軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、石神井川にかかる板橋から現在の環状7号線あたりまでが上宿でした。
平成14年(2002)は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長7年(1602)から400年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立しました。
【縁切榎】 (右側) 10:55
交番のすぐ先にある。この辺りから「坂町商店街」となる。 この伝説の起こりは、初代の榎が槻の木と並んで生えていたため「エンツキ」と言われ、所在地である岩ノ坂を「イヤナサカ」としゃれ、これを縁切りに通わせたとする説と、富士に入山した伊藤身禄がこの木の下で妻子と涙の別れをしたからとする説がある。 現在の榎は三代目であるが、この木に祈ると男女の縁が切れるという信仰は今でも続いている。 |
【南蔵院】 (蓮沼町48) (右側)
環七通りを渡り、国道17号線に合流してそのまま右側を歩いていると、都営三田線「本蓮沼」駅を過ぎた所にある。
御本尊は十一面観世音菩薩。寺伝によると、新井盛久によって志村坂下に開創されたが、度重なる荒川の洪水により、享保年間に隣りの氷川神社とともに現在の地に移転してきたと伝えられる。享保7年(1722)の鷹狩の際に将軍徳川吉宗が、当寺で食事をしたと伝えられている。
【志村一里塚】 (両側) 11:25〜11:35
「志村警察署」先で13Kmポスト。そこからほどなく歩道をさえぎっている志村一里塚に到着する。左側にも完全に塚が残っている貴重な一里塚である。(写真は、右側 にある一里塚) 日本橋から三番目の一里塚。
江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の塚が江戸日本橋を起点として一里ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。 志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目に築かれたもので、天保元年(1830)の『新編武蔵風土記稿』では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。 幕末以来、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積がなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保存され、現在に至っています。 今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。 |
<昼食> 11:45〜12:10
しばらく食事処を探したが、結局志村一里塚までもどって右側にあった「モスバーガー」で昼食とした。
【富士・大山道の道標と庚申塔】 (左側)
一里塚で左側に渡り、すぐ先の交番の左横の道を行く。その交番の後に公衆トイレがある。
すぐ「清水坂」の石柱が現れ、その角の「庚申庵」の前に道標と庚申塔があ る。
富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川の大山に通じる道です。この場所は中山道から富士・大山道が分岐する場所でした。
向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政4年(1792)に建てられたもので、正面には「是より大山道 并(ならびに) ねりま川こへ(川越)みち」と刻まれています。右側の庚申塔は、万延元年(1860)に建てられたもので、左側面に「是ヨリ富士山大山道」とあり、練馬・柳沢(西東京市)・府中への距離が示されています。
この二基の石造物は、江戸時代の交通や進行を物語る上で貴重な存在であり、昭和59年度に板橋区の文化財に登録されました。
【清水坂】
写真は、清水坂を下り終えたところにある石柱と説明板。 日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代と共にその呼び名を変えました。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています。坂の下には板橋・蕨両宿をつなぐ合いの宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。この辺りは昭和30年代頃までは旧街道の面影をのこしていましたが、地下鉄三田線の開通など、都会化の波によってその姿を変えました。 国道17号線に出たら、環八の交差点で反対側に渡り、斜め右の道に入る。入り口に「三清酒店」があり、その先に「竹川病院」があれば旧中山道で間違いない。 |
再び国道17号線に合流。志村坂下交差点を過ぎ、志村橋を渡る。
渡ったら、平行している一本右の道を行くのが旧道である。
荒川土手前で国道に戻り、階段を登って戸田橋を渡る。階段を登る前に公衆トイレあり。
【戸田の渡しの碑】 (右 奥) 13:13
戸田橋を渡ったら、すぐ左折し歩道のない車道を200m弱ほど下ると左側にある。
旧街道に戻るには、車道をそのまま下り、この下の道に戻って来て、丁度写真の石碑で見えないところにある道を北に行く。
この碑を探すのには苦労した(橋を渡り終えたのが13:06、碑が見つかったのが13:13)。
初め、車道を150m位行ったが見つからず、引き返して戸田橋の付け根でうろうろしていたら、歩道の階段を下の道におりていた妻が下から発見し、携帯電話で連絡を してもらいやっと辿り着いた。
大型車が走っている非常に危険な道で、そのうえ碑が看板(写真左端の黄色)や雑草の陰で途中までは見えなかった為、私の前を同じように歩いていた人も見つけられず途中で引き返し たほどだった。途中で引き返えさずそのまま行っていたらと思うと悔しかった。
水神社も近くにあるはずだが、碑だけで苦労したのでこれ以上探さなかった。
【戸田の渡し】 中山道は木曽街道・木曽路と呼ばれ、山々の間を縫う街道として、京と江戸を結んでいました。街道として整備されたのは、慶長7年(1602)のことです。宿駅は六十七、越える川は大小十以上を数え、荒川は江戸を出るところにありました。この荒川には江戸防衛の意から橋が架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道戸田の渡しです。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次ぎの蕨宿の間にあり、交通の要所でありました。 この渡しは、資料によると天正年中(1573〜91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。そのなかには、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742)に3艘だったものが、中山道の交通量の増加にともなって、天保13年には13艘と増えています。 また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。天保3年(1832)には5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。これらの渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。 やがて、明治になり中山道の交通量も増え、明治8年(1875)5月に木橋の戸田橋がついに完成。ここに長い歴史をもつ「戸田の渡し」が廃止となりました。 |
下の道を右折するとすぐ小公園があり、「歴史のみち 中山道」の説明板がある。近くに戸田市内最古の木造建築といわれる地蔵堂がある。
【歴史のみち 中山道】
この道は、江戸時代の中山道の一部といわれています。
中山道は、慶長7年(1602)に整備が始められ、日本橋を起点に、武蔵・上野・信濃・美濃の諸国を経て、京都まで百三十五里余り、宿場は板橋宿から東海道と重なる草津・大津宿を含めて六十九宿ありました。
戸田渡船場から北に約200mほど残るこの中山道の道筋は、文化3年(1806)に作成された「中山道分間延絵図」にも、現存する地蔵堂とともに描かれています。
渡し口には渡船を取り仕切る川会所がおかれ、その西方には、かつて羽黒権現がありました。街道筋には、渡船にも携わる家々や通行人を相手に商う茶屋などが立ち並んでいました。江戸と京都を結ぶ主要街道として、大名や公家の行列も通行し、文久元年(1861)最後の大通行といわれる皇女和宮の下向にも利用されました。
しかし、菖蒲川を越えたところからの道筋は、現在まったく失われてしまいました。旧中山道はしばらく北上した後、昭和の初期まであった荒川の旧堤防を斜行しながら横切り、ほぼ現在の国道17号線に沿っていました。国道とオリンピック通りとの交差点付近には一里塚の跡ではないかといわれる場所もありました。そして再び旧中山道は国道から離れ、下戸田ミニパークの脇を西に曲がり、蕨市に残る旧中山道へとつながっていきます。
上記解説にもある通り、道はすぐ菖蒲川にさえぎられるので、左に廻り、小橋を渡ってしばらく国道17号線を行くことになる。
【蕨宿東入口】 13:50
シェル石油のスタンド前に大きな「中仙道蕨宿」の石碑がある二股の右の道を行く。(左側の写真)
その入口に中山道と蕨宿と書かれた冠木門風の柱が建っている。(右側の写真) |
【蕨宿】 日本橋から4里28町(18.8Km)、京へ131里6町(515.1Km)
天保14年(1843)で人口2223名、総家数439軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋23軒。
江戸時代の蕨宿は町並みが南北10町(約1,090m)で、周囲は用水堀で囲まれていた。天保14年(1843)の人口は2,223人、家数は430軒、本陣2軒、脇本陣1軒、それに問屋場と高札場が1ヶ所ずつ あった。また旅籠が23軒あるほか、豆腐屋・煙草屋・髪結など様々な職業の人々が暮らしていた。
蕨宿では、問屋3人・年寄3人・帳付4人・馬指4人の宿役人がおかれ、交代で問屋場に勤務して、人馬の継立や物資の輸送などの業務を行っていまた。また、旅人の休泊のための旅籠や、大名・公家などの身分の高い人々の休泊施設である本陣・脇本陣が あった。
蕨宿の成立の時期には、慶長11年(1606)、同17年(1612)、同19年(1614)、元和年間(1615〜1624)などの諸説があるが、現存の史料からみると、慶長17年成立説が有力と考えられている。 ≪歴史民族資料館の展示資料より≫
木曽街道 蕨之驛 戸田川渡 (英泉) |
現在の戸田橋 |
【歴史民族資料館 分館】 (左側) 14:00〜14:07
郵便局の前に『蕨宿界隈史跡めぐり』の絵図があ る。 郵便局からほどなくして、明治時代に織物買継商をしていた家をそのまま利用した「蕨市立歴史民族資料館の別館」がある。入館無料。 休日と月曜休館。午前10時〜午後4時。 分館は、明治時代に織物の買継商をしていた家をそのまま利用したものです。敷地は、516坪(1,705m2)あり、建物は床面積95坪(313m2)の木造平屋、寄棟造りで、中山道に面した店の部分は明治20年(1887)に作られたものです。また、蔵には「わらび文庫」があります。
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【歴史民族資料館】 (左側) 14:12〜14:30
蕨宿の模型や資料などが沢山展示されている。
【蕨宿本陣】
加兵衛家と五郎兵衛家の2家が代々つとめた蕨宿本陣は、蕨宿の中央部に中山道をはさんで向かい合うように建っていました。両家とも建坪が150坪(約495m2)、門構・玄関附で、加兵衛家は問屋と蕨宿名主を、五郎兵衛家は問屋と塚越村名主を兼ねていました。
加兵衛家(現・岡田民雄家)に残る史料によると、老中水野忠邦や松平加賀守、皇女和宮などの大名や公家が休泊し、明治元年(1868)には、明治天皇も氷川神社行幸の途中に休憩しています。
【蕨宿の助郷】
中山道の各宿場では、常備人馬は50人・50疋と定められていましたが、宿場で対応しきれない場合は、周辺の指定された村々から人馬を動員し継立役を負担させていました。これらの村は助郷村といわれ、交通量が増えるにつれて負担が重くなり、村人のくらしを苦しめました。このため、宿場と助郷村の間では助郷役の負担をめぐってしばしば対立が起きました。
蕨宿では、元禄7年(1694)に周辺19ヶ村が助郷村に指定され、安永4年(1775)には改めて17ヶ村が指定されました。これらの村は重い負担に耐えかね、しばしば蕨宿と対立し、論争を繰り返していました。
【旅行用心集】
文化7年(1810)に八隅藘庵によって著された宿屋や旅先での注意、病気や乗り物酔いの手当ての方法、旅の持物などを解説したガイドブックです。その中からいくつか紹介してみると。
(1)道中での持物はなるべく少なくすること。
(2)旅籠へ到着したら、まず宿の構造や出口を調べておくこと。
(3)道中では、神社・仏閣に落書きや張札をしないこと。
など現代の旅にもじゅうぶん通用する事柄が書かれています。
【蕨本陣跡】 蕨市指定文化財 (右側)
歴史民族資料館の隣りにある。
蕨宿は、江戸時代に中山道第二の宿駅として栄えたところである。 慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣・問屋・名主の三役を兼ねたと伝えられる。 その後、その役は子孫にうけつがれ明治維新まで続いた。 蕨本陣の建物は、今は同家にのこる本陣絵図面などによって知る外はないが公家大名などが休泊し、文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折には御休息の場となり、ついで明治元年(1868)同3年には明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。 現在、岡田家には古文書・古記録・歴史的遺品などわが国近世交通史の研究に重要な資料が多数保存されている。 |
本陣の先の交差点を右折すると、市役所の先に「和楽備神社」と「蕨城址」があるが、次回訪れることとする。
2回目の旅終了(14:
30) 蕨本陣跡。
天気予報では午後から曇ると言っていたので浦和駅まで歩くつもりで出かけたが、曇らず暑さが厳しかったことから少々疲れたので本日はここで終了とした。
歴史資料館の職員に蕨市役所前から蕨駅行きのコミュニティバス(100円が10分位で来ることを聞き、駅までの約20分を歩かないで済んだ。
本日の記録
: 街道のみの距離は、10.2Km(板橋駅東口入口交差点〜蕨本陣跡)
日本橋から四里三十町(19.0Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、12.2Km(JR
4時間30分 19,100歩。