塩名田・八幡・望月・芦田宿 (佐久平駅 → 笠取峠) <旧中山道14回目>
2006年10月8日(日) 晴 向い風強し
4時半に 起床して自宅から 佐久平駅まで自家用車で行き、駅前の駐車場 (8時間以上で\900-)に車を置いて、前回終えた浅間病院西交差点を8:30スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
「沓掛
宿・追分宿・小田井宿・岩村田宿」 ← 「目次」 → 「長久保宿・和田宿」
終日向い風が強かった。背中は太陽の熱で熱く、胸は風で寒くて上着の調節に苦労した。
【駒形神社】 (右側) 9:10〜9:20
浅間病院西交差点を過ぎるとすると田園地帯になり、稲刈りの季節になった田圃とりんご畑が続く県道154号線を下る。
黄金色の稲、赤い林檎、ピンクの秋桜とコントラストが美しい中を40分ほど歩くと右側にこんもりとした森が見え、「重要文化財 駒形神社」の大きな石碑が現れる。この入口まで来ると森は小山であることが分かり、登って行くとこぢんまりとした拝殿と本殿が林の中に佇んでいる。また、小山をとり巻いて裏から前面に小川が流れ落ちている。
境内右手の物置小屋裏手に綺麗ではないが簡易トイレがある。
駒形神社の創立については記録に乏しく明らかではないがこの地方は、いわゆる信濃牧の地であり、祭神には騎乗の男女二体神像を安置しているので牧に関連した神社と推定されている。
昭和24年5月30日国宝保存法により国宝の指定を受けたが、文化財保護法の施行により現在は重要文化財に指定されている。
再建は文明十八年(1486)と伝えられているが、形式手法からみてもその頃の建物と考えられている。
構造形式は、一間社流造り、とち葺(こけら葺が保存修理により改められた)
(後略:その後何回も修理しているが、最後の修理は昭和43年10月から1年かけて行われた)
【塩名田宿本陣・問屋跡(丸山家)】 (右側)
神社を過ぎて駒形坂を下ると10分で塩名田交差点に出る。(9:30)
その角に「中山道 塩名田宿」の標柱と道祖神が建っている。塩名田宿の入口である。
町の中ほど右側に写真の家が見え、門のところに「塩名田宿本陣・問屋跡」の標柱があるが説明板はなかった。 橋を渡る手前の道を右に下がり、川に当たったら左へ行く(右下の写真の道)。 川に突き当たったところの河原にある大きな石が「舟つなぎ石」(写真の矢印)。 橋の下をくぐって橋の左上にでて、併設の歩道橋を渡る。 |
【塩名田宿】 日本橋から43里13町(170.3Km)、京へ92里21町
(363.6Km)
天保14年(1843)で人口574名、総家数116軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋7軒。
木曽街道六拾九次之内 塩なた (広重) 塩名田側の舟渡し場風景を描いている。 |
中津橋の右から撮った千曲川と「舟つなぎ石」(赤矢印) |
【舟つなぎ石】 (右側 河原)
中津橋を渡った所の小公園に「橋と舟つなぎ石」の説明板がある。
塩名田と御馬寄の間を千曲川が流れている。いまは頑丈な中津橋が架けられているから、これを渡るのはなんの支障もないが、江戸時代には、これを渡るのはたいへんなことだった。橋を架けても、洪水でじきに流されてしまったからである。しかもここは、江戸時代の主要な街道の一つである中山道だったため、橋が流されたからといって、いつまでも放置しておくわけにはいかなかった。
このため地元塩名田宿・御馬寄村をはじめとして、この地方の人々は、渡川を確保するためにたいへんな苦労をしなければならなかった。
木内寛先生の「中山道千曲川往還橋」という論文によれば、その橋には次のような変遷があった。
〜享保五年(1721)御馬寄側が投渡した橋・塩名田側が平橋(両側から中州へ架橋)
享保六年(1722)〜寛保二年(1743)御馬寄側が刎(はね)橋・塩名田側が平橋
寛保三年(1744)〜寛延二年(1750)舟渡し
寛延三年(1751)〜享和二年(1803)御馬寄側が刎橋・塩名田側が平橋
享和三年(1804)〜明治五年(1873)長さ70間余の平橋
このように江戸時代をつうじて、たびたび架橋方式が変わったのは、千曲川が「近郷無類の荒川」であり、二、三年に一回以上の割合で橋が流されたからである。
幕府が崩壊し、明治時代になると、それまで130村による「中山道塩名田宿・御馬寄村の間千曲川橋組合」での維持・管理方式を続けることができなくなってしまった。
そこでつくられたのが船橋会社で、この会社によって明治六年(1873)に船橋(九艘の舟をつないで、そのうえに板をかけわたして橋としたもの)が架けられ、渡川が確保されたのである。舟つなぎ石は、その船橋をつなぎとめたもので、だから上部に穴があけられているのである。その後、明治二十五年に県によって木橋が架けられ、船橋の役割は終わった。
こうした歴史を、今に伝えているのが舟つなぎ石なのである。
【大日如来像】 (右側) 9:55
橋を渡ると御馬寄(みまよせ)で、すぐ急な上り坂になる。 上りきった右側に前掛けを掛けた大きな如来像が見えてくる。説明板等はなにもないが、明和の頃(1764〜72)の建立とのこと。 |
【御馬寄の一里塚】 (右側)
如来像の隣りにあるが、ここにも説明板はなく「中山道
一里塚跡」の標柱のみある。
すぐ左側に「御井大神」の石碑と道祖神があり、そこの「下原入口」バス停の小屋で当分バスが来ないことを確認して休憩(10:05〜10:15)。
【八幡神社】 (右側) 10:30〜10:40
八幡宿に入り、立派な山門と本殿を持つ神社に到着。本殿の彫り物も立派である。数ある八幡神社を見てきたが、さすがに宿場の名前になるほどの荘厳さである。 ここのトイレは綺麗である。
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〔由緒〕 創建年月日未詳なれど、伝承に貞観元年滋野貞秀公よるといわれ、望月三郎公は鬼門除の神として信仰されたという。 「吾妻鏡」に「佐久八幡宮御前二十騎」とあるを見ても当時の武将の崇敬の厚かった事が偲ばれます。 (後略:最後の営繕は、昭和9年)
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〔八幡神社随神門〕
構造 三間一戸楼門 組物三手先越三手先 中備蟇股(なかぞなえかえるまた) 間斗束(けんとづか) 軒繁垂木 屋根入母屋造 妻虹梁(つまこうりょう)大瓶束(たいへいづか) 本瓦葺
楼門とは楼造りの門のことで、二階建ての門を言う。一階と二階の境は親柱に擬宝珠をつけた高欄の縁側を巡らしている。頭貫木鼻(かいらすききばな)の唐獅子、各所に施されている彫刻等、江戸時代の特色を示す。門の両側の間には衣冠束帯に剣と弓矢を持った武官神像の随神をおく。
建立、天保十四年(1843)六月、小諸藩主牧遠江守康哉が大願主となり数百本の材木を、また欅材は川西地方村々の寄進により造営された。
楼門高く懸かっている額は明治時代奉納されたもので、戈(ほこ)を止めて武を為すと横書きに記されている。
〔重要文化財八幡社旧本殿高良社〕
建立年月日 延徳三年九月三十日(西暦1491年)
国宝指定 昭和17年12月室町時代の遺構を良く示すものとして指定
重要文化財指定 昭和25年8月
解体復元 昭和40年9月
特徴 三間社流造りこけら葺、庇門手狭、木鼻の絵模様、その他共にすぐれた室町時代の特徴が良く現れている。
【八幡宿本陣跡】 (右側) 10:45
小松家の現在の門の隣に本陣の門(写真)が残っている。石の標柱のみある。 |
【八幡宿】 日本橋から44里4町(173.2Km)、京へ91里30町
(360.7Km)
天保14年(1843)で人口719名、総家数143軒、本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠屋3軒。
木曽街道六拾九次之内 八幡 (広重) 後ろの山は浅間山で浮世絵は八幡宿から東の村を描いた。 |
百沢橋を渡って百沢集落へ入る道から撮った布施川 |
【祝言道祖神(百沢集落)】 (右側)
11:00国道142号線に合流。左側にガソリンスタンドがある百沢橋と道路を渡ったら、国道右側一段下の細い道に「中部北陸自然歩道」の標識があるのでその細い道に降りる。道は百沢集落に入って行く。
沢集落 |
祝言道祖神 |
ほどなく右側に微笑ましい「祝言道祖神」が現れる。大小三つある。 安曇系は主尊が日本神話の神々で、着衣も神々の装束で造像されるのが通例であるが、この道祖神は宮廷貴族風の精緻な造像である。 発祥安曇地方にも類例のない貴重な遺産である。
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【中山道牧布施道標】 (右側) 11:18
百沢集落を過ぎ、国道146号線に出会ったら、横断して左斜めの県道150号線に入る。 左カーブした右側に「中山道牧布施道標」と書かれた木柱と「右仲仙道」「左牧布施道」と彫られた石碑があるので、ここを右に登る。 但し、民家の裏道に入っていくような非常に細い道で不安であるが、勇気を出して登るとすぐ写真のような道になる。 ここを登りきると「史跡案内」の立て札があり、『←道はここから斜面を上り望月宿方面に向う』と書かれているが、案内板の向いている斜面は薮の中で道などないので、ここで右折して国道142号線を横断する。 横断したところに「←中山道・望月宿方面」と「←中世城郭・望月城跡」の案内板がある。 |
京都方面から瓜生坂を下りて国道146号線まで来た人は、案内板にはここを左折して国道を行くようになっているが、「牧布施道標」のある写真の道に行く場合、左折せずに真直ぐ国道146号線を横断(前に「望月融雪基地」がある)してすぐの草地を左へ下りる(下りる所に上述の「史跡案内板」あり)。写真の石橋を渡ったら民家の脇を通る細い道を県道まで下る。
【瓜生坂の一里塚】 (左側) 11:45
国道146号線を横断して左カーブし、少し行くとT字路になるので瓜生坂へは左へ登って行く。ここを右折すると望月城址へ行く。左へ登ってゆくと中山道の道標が出てくるが、何故曲がり角に立ててくれないのだろう。T字路でどちらへ行こうかと一瞬迷ってしまったので、道標を立てる人は考えて貰いたいものだ。 |
【中山道瓜生坂・念仏百万遍塔】 (右側)
瓜生坂頂上から少し下りた所に写真の大きな石碑がある。
その手前に、史跡案内の立て札があり「中山道・道はここから斜めにくだっていた」と書かれていたが、下を覗いても藪で、降りて行く道は見当たらなかった。 中山道は左へ下りて行くと「中部北陸自然歩道」の標識が出てくるのでそれに従って右に下りて行く。 この坂は「長坂」と言う。 |
【長坂石仏群】 【長坂の道祖神・馬頭観音】 (右側) 12:05
「長坂」の途中右側に石碑群が現れる。
大きな石碑群に続き可愛い道祖神や馬頭観音群が並んでいる。
【中山道長坂分岐点】
長坂を下りきると川に当たるので、そこで坂を見上げるように右手方向を振り返ると「中山道長坂分岐点」という説明板が掲げられている。
中山道は、目の前の橋を渡り望月宿に入って行く。
瓜生坂から下る中山道は、自動車道を横切ってほぼ直行するように進んでおり、途中大応院跡や長坂の石仏群をとおり、ここに至っている。
大応院は、当山派の修験寺で、寺社奉行からでる命令や交渉ごとを司った触頭(ふれがしら)も勤めていた(上田市横谷家文書)。ここから2Kmほど下った古宮の鹿曲川左岸の断崖にあった佐久補陀山観清寺の別当も兼ねていたが、末裔滋田家の本尊馬頭観音坐像や飯綱権現立像など、また長坂の古碑群を残して明治五年廃寺になった。
中山道は、ここから望月新町のあった鹿曲川右岸を下流に向かって進み、西に折れて中之橋を渡り、大通りの望月本町に至っていたが、寛保二年の大洪水で新町が道ごと流されてしまい、その後、道とともに新町が移転された。そして中山道はこの長坂橋を渡り、枡形をとおって新町が移転された東町に上り、北側にやや進行して望月本町をとおる旧来の道をつなげられた。
したがって、ここは初期中山道と変更後の中山道の分岐の場所である。
【弁天窟と去来の句碑】 (左奥) 12:10〜12:20
私達は「弁天窟」を見に行く為に、ここで寄り道をした。
長坂を下りた所で橋を渡らずに左折して県道に出ると橋(写真で奥の橋)が見えてくる。その橋のたもと左側に下記説明板がある。川に沿った崖下の細い道を行くと岩に張り付いた写真の「弁天窟」が、説明板がある所の階段を登ると途中に去来の句碑があ
り、上に稲荷がある。
これは室町時代末期の永正年中、近江の竹生島の弁財天を勧請したものと伝えられ洞窟の上の「蟠龍窟(ばんりゅうくつ)」の篆字は江戸後期の書家望月宿本陣大森曲川(きょくせん)の書である。 駒曳きの木曽や 出るらん三日の月 |
<昼食> 12:30〜13:15
再び、長坂下の橋に戻り、橋を渡って短い坂を上り右折すると望月宿に入る。
上りきった交差点左手にある「曙屋旅館・そば処」で昼食とした。
岩魚蕎麦定食(岩魚の唐揚・地粉そば・豆腐で¥1680-)が美味しかった。★★★★
【望月宿】 日本橋から45里(176.7Km)、京へ90里34町
(357.2Km)
天保14年(1843)で人口360名、総家数82軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋9軒。
木曽街道六拾九次之内 望月 (広重) 瓜生坂の赤松並木を描いた。 |
瓜生坂の頂上 |
望月宿に入ると左右に「旅籠・本陣跡・脇本陣跡」が次々あるがそれぞれに説明板はなかった。
【旅籠・山しろ屋】 (右側)
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【本陣跡・歴史民族資料館】 (左側) |
本陣の跡地は、現在「歴史民族資料館」(¥300-)になっており、おそらくそこに解説があると思うが私達は入らなかった。 この資料館の隣りは大森小児科医院で、ここに「御本陣」の看板が掲げられていた。 |
【脇本陣・鷹野】 (右側) |
【旅籠・大和屋(真山(さなやま)家)】 (右側)
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国重要文化財 問屋も兼ねていた。
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【大伴神社】 (左側) 13:30
宿外れにあり、58段の階段を登る。境内には江戸後期の道祖神が沢山集められている。
延喜式内社 景行天皇四十年(古墳時代)の鎮座と伝えられ現本殿に春日造り 延宝五年(1677)の建築である。
【中山道茂田井入口】 入口で14:10
大伴神社を過ぎて青木坂を登り、国道142号線の下を潜る。本牧小学校の前を過ぎるとまもなく国道から右へ下りる道があり、ここの下り口に「中山道茂田井入口」の説明板が掲げられている。
望月宿を抜けると中山道は茂田井宿に至っている。茂田井は、東の望月宿と西の芦田宿の間にある日村で、現在は間の宿とも呼ばれている。ここは茂田井への入口で、坂を下りはじめると、江戸時代の面影の残る民家や造り酒屋が軒を連ねている。
寛保二年の大洪水で望月新町が道ごと流されたり、本町も大きな被害を受けたため、茂田井村を望月宿の加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある。
元冶元年十一月十九日、天狗党水戸浪人の中山道通過に際しては、茂田井村が小諸藩兵四〇〇人程の宿にとなっている。
また、文久元年十一月七日には、徳川十四代将軍家茂に、公武合体の犠牲となって降嫁される孝徳天皇の妹和宮の大行列が茂田井を通過するなど大きなできごとがあった。
一里塚は、瓜生坂頂上付近に続き、立科町茂田井の石原坂を上りきった左右に位置しているが、現在は痕跡がみられるだけである。
【間の宿・茂田井の町並み】
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茂田井は、道路整備から外れた為、古い建物が良く残っている。 信州の酒処で、白壁が続き用水が流れる静かで美しい町並みである。一般の民家も大きく立派な構えが多い。 日曜日というのに人一人通っておらず本当に静かな町であった。
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【武重本家酒造】 【若山牧水の歌碑】 (左側) 14:17
若山牧水の歌碑は、街道の用水路沿いにある。(写真で木の下にある石碑)
牧水は、武重本家酒造製の「御園竹」を愛飲したとのこと。 武重本家酒造の裏にオープンセットを組んだそうです。今も残っているのかは分か らない。 |
【大澤酒造株式会社・大澤酒造民族資料館 ・しなの山林美術館】 (右側) 14:23
門を入ると右手に古い酒造を改装した資料館と美術館がある。 有料なので外観だけ見てきた。 |
【旧茂田井高札場跡】 (右側)
大沢酒造の塀に「高札場跡」の説明板と石碑がある。
江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、ここに高札を掲げた。高札場は名主宅前に設けることが多い。大澤家は元文
二年(1737)より明治四年(1871)に至るまで茂田井村の名主を務め、元治元年(1864)十一月十九日、水戸浪士(天狗党)中山道通過の際、それを追ってきた小諸藩兵五〇〇人の本陣となった。
【茂田井の一里塚跡】 立科町文化財 (左側) 14:40
宿内は東から西へ緩やかな上り坂だったが、最後の急な石原坂を700mほど登りきると一里塚跡がある。塚は現存せず、左側に屋根つきの大きな説明板だけがある。 但し、右側を見ると小山があり、塚の雰囲気が出ていた。
一里塚は、信長の時代に設けられ、徳川家康・秀忠が引きついで慶長九年(1604)に完成した。(慶長見聞録)
中国で路の側に一里ごとに土を盛り、その崩れ去るのを防いでエンジュの木を植え旅人に木陰をあたえたという例にならって榎が植えられたと云われています。
また三大将軍家光が「一里塚には「余の木」を植えよ、」と言ったことから老臣が榎と聞きちがえて国中の塚に植えたという(現代教養文庫中山道より)が、ともあれこの頃一里を三十六町と決定され、五畿七道残るところなく一里塚が築かれたとされている。
天保年間の、茂田井村差出帳には、当時この両側に土塚があり、榎の根元が残っていたとある。
10:45茂田井宿西の入口を通過。「中山道茂田井間の宿入口」の標柱がある。また、「中部北陸自然歩道」の標識もあり、左「笠取峠4.4Km」、右「塩名田10.9Km」と記されていた。
道は下り、水田地帯を抜けて芦田川の小さな橋を渡った次の交差点が芦田宿東の入口である(14:52)。
角に「歴史街道・立科町」の標柱があり「これより中山道芦田宿」と書かれていた。
【芦田宿】 日本橋から46里8町(181.5Km)、京へ89里26町
(352.4Km)
天保14年(1843)で人口326名、総家数80軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋6軒。
木曽街道六拾九次之内 あし田 (広重) 笠取峠を西から見て描いた。 |
笠取峠の西側から撮影 |
【本陣(土屋家)】 県宝(昭和63年8月指定)(右側) 15:05
右側に白壁の立派な門が見えたら土屋家である。 本陣土屋家は、問屋を兼ね、芦田宿の開祖でもあった。 本陣御殿(客室)は寛政十二年(1800)に再建されたもので、イチイの木を使った京風上段の間があり、大名の宿泊を今に伝える「宿札」も残され、往時をそのまま伝える建物は、中山道唯一と言われている。 |
【旧芦田宿本陣土屋家住宅】
土屋家は、慶長初期に中山道芦田宿が設置されたとき、その開発に従事するとともに、本陣をおおせつかり明治に至るまで、代々勤めた。
江戸時代後期における土屋家は、客殿、主屋、問屋場、荷蔵、酒造蔵、長屋等多くの建物によって構成されていた。
現在も、当時の面影を良く残している客殿が本指定物件で、これは中山道芦田宿本陣の客室部として、寛政12年(1800)に改築され明治維新まで大名、公家などの宿泊や休息に使われた。
客殿は、間口5間(約9m)奥行11間(約20m)の切妻造り、妻入り、桟瓦葺で屋根の前後に鯱をかかげている。
玄関は、唐破風とともに懸魚(けぎょ)、蟇股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、肘木(ひじき)などで構築され江戸後期の様式を良く表している。
内部上段の間は、床の間、違棚、欄間の透彫、組子細工等室内の意匠にも意を用いた書院造りであり京風の造作となっている。
建物全体の規模が大きく、上段の間、広間、小姓部屋、湯殿、雪隠などがあり、客室部としての原型がほぼ完全に残され、江戸時代後期の建築物としては数少ない一つであり大切に保存されている。
【脇本陣跡(2軒)】 (左側)
1軒目は、本陣前民家の玄関横に案内木柱のみ
ある。 |
【酢屋茂(すやも)】 (右側)
酢屋であったが、現在は手造り味噌や醤油を造っている。
【金丸土屋旅館】 (左側) 15:15
出梁造りで現在も旅館を営んでいる。 |
【笠取峠の松並木】 長野県天然記念物 15:25
芦田宿西の入口で15:20。そのまま真直ぐ行き、松並木に入る。この先、笠取峠へ向かって上り坂が続く。 慶長九年幕府は諸街道の改修、一里塚の設置とともに街道筋に松や杉を植えて並木をつくらせた。 笠取峠は雁取峠とも呼ばれ、慶長二年(1597)に設けられた芦田宿と、およそ一里半(約6Km)の距離を隔てた長窪宿の間にある。 笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、近隣の村人とともに峠道約十五町(約1.6Km)にわたって植樹し、その後も補植を行い保護・管理を続けてきた。歌川広重の「木曽街道六十九次」芦田宿に描かれている中山道の名所である。 長い年月の間、風雪に痛み枯れ、大正十三年(1924)長野県の調査によると二百二十九本があった。昭和四十九年(1974)長野県天然記念物に指定された。 現在は、百十本である。立科町が笠取峠の旧街道の整備と松並木の保護に努め、往時の姿をとどめている。
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【峠の茶屋の絵】
途中の松並木公園に東屋とトイレがある。その公園内に茶屋の銅版画があった。
中山道芦田宿と長窪(長久保)宿の間、笠取峠にあり、小松屋と称した茶屋の図(木版画)である。
ここより1.7Kmほど上がった峠の左側、眼下見事に連なる松並木のはるか東方に、煙たなびく浅間山を一望できる所にあった。
峠道を上り下りする人、茶屋で休む人、格好で職業がそれとわかる人々でにぎわっている当時の様子が良くわかる。
茶屋の建立や消滅の年代は不詳であるが、この画は徳川時代末のものと推定される。
【従是東小諸領】 (右側) 15:45
公園の所で国道142号線と交差して、更に松並木を行く。その交差するところに石碑がある。
この石標は、小諸藩が文化3年(1806)に領分境の東西へ建立したうち西側のものである。
藩領の西端、中山道笠取峠(ここより西1.7Km)にあったものの復刻である。これを境に西は幕府領である。
藩領東端の石標は「従是西小諸領」と刻まれ、中山道小田井宿と追分宿との間、追分原(現御代田町)にあった。
【笠取峠の一里塚】 立科町文化財 (右側) 16:05
国道142号線に合流したところで松並木は終わり、笠取峠まで国道を歩く(15:50)。
国道をしばらく歩くと右側土手に一里塚の石碑と説明板がある。 中山道は、中仙道とも書くが享保元年(1716)に東山道の中枢の道であることから、中山道と呼ぶとあり、また木曽を通るので木曽路ともいわれ、江戸京都を結ぶ主要街道であった。一里塚は、この道一里間につくられた道標の遺跡である。当時の輸送が宿ごとに荷物をつけかえる習慣から、輸送距離を知るための路程道標でもあったとされ、その目じるしに松の木などが植えられた。この笠取峠の一里塚にも赤松が植えられ、その大木が今なお当時の街道の面影を残している。 |
【笠取峠】
峠の頂上寸前左側に「笠取峠竣工記念碑」があり、峠を過ぎると右側に峠の茶屋がある。
14回目の旅終了(16:15) 笠取峠(峠の茶屋)。
望月ハイヤーを呼んで、芦田バス停16:22発のバスで佐久平駅まで(800円)行き、車で帰宅。
タクシーを降りて1分でバスが来たのはラッキーだった。次ぎは17:01発なので何もないところで40分も待たなければならなかったところであった。
≪芦田バス停前のタクシー会社≫ 望月ハイヤー芦田営業所
本日の記録 :
街道のみの距離は、18.3Km(浅間病院西交差点〜笠取峠)
日本橋から四十七里二十町(186.8Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、21.8Km(佐久平駅〜笠取峠) 累計:233.6Km
7時間45分 32,500歩。(佐久平駅〜笠取峠まで33,900歩)