関ヶ原宿・今須宿・柏原宿・醒井宿 (関ヶ原駅 → 醒ケ井駅) <旧中山道31回目>

 

2010年10月3日(日) 曇

 関ヶ原駅前交差点を7:55スタート。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「赤坂宿(後半)・垂井宿」 ← 「目次」 → 「番場・鳥居本宿(前半)・彦根城」

 

 昨晩は大垣駅前のホテルに泊ったので、街道歩きをする前に早起きをして大垣城を見学する。

 現在、大垣城は改修中で工事用の幕が掛かっていたのが残念だった。


【大垣城】

 大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文四年(1535)に創建されたと伝えられる。

 天守の造営は慶長元年に行われ、その後改修を経て、以来この天守閣は四重四階総塗りごめ様式でたいへん優美な城として歴史の上からも貴重なものとなる。

 昭和十一年(1936)に国宝に指定されたが、昭和二十年(1945)7月の戦災で焼失。昭和三十四年(1959)4月、昔のままの姿で再建された。

 関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となったが、関ヶ原以後、幕府にとって重要な城の一つとして城主は目まぐるしく替わる。

 最後は、元和十二年に戸田氏鉄が10万石で入封してやっと安定する。 以後戸田氏が十一代続いて明治に至る。


【関ヶ原宿】 日本橋から112里27町(442.8Km)、京へ23里7町 (91.1Km)
 天保14年(1843)で人口1,389名、総家数269軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋33軒。

木曽海道六拾九次之内 関ヶ原 (広重)

 場所が特定できないが、西町辺りから東を向いて描いたらしい。

 街道脇の茶屋を描いており、そばきり・うどんと書かれた看板の上に五七とある。

 これは、広重が東から描いた浮世絵の57番目に当たることを示している。

 

八幡神社参道(北国街道)

鳥居右横のスダジイの巨木がある所が本陣の庭の一部だった。

 浮世絵の場所が特定できないのと、西町あたりに雰囲気の良い場所がなかったため、追分茶屋があったと云われるこの場所の写真を現代の風景とした。


【脇本陣跡】 (右側) 

 歩道橋の手前にある相川家の脇本陣門だけが、宿内でわずかに当時の面影を残しているのみである。

 門の左側には「脇本陣 関ヶ原宿」と書かれた木札が掲げられていた。

 また、門の右側には、「至道無難(しどうぶなん)禅師誕生地」と刻まれた石碑が建っていた。

【至道無難禅師誕生地・関ヶ原宿脇本陣跡】

 慶長八年(1603)本陣職相川家に生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は、臨済宗妙心寺派の江戸前期の高僧です。

 禅師は国師の法を継ぎ、宗勢拡大に寄与され、江戸禅宗界に名声を博しました。

 なお寛文二年(1662)創業の日本橋の白木屋元祖大村彦太郎とは従兄弟の間柄で、彦太郎の精神的糧は禅師から得られたと言います。

 当家は後脇本陣を勤め、この門はその面影を伝えるものとして貴重です。

     関ヶ原町

 脇本陣の隣が本陣だったが、ここには何も残っていないし説明板等もない。僅かな痕跡は下記八幡神社に残っている庭の一部である。 


【八幡神社・本陣跡】 (右奥) 

 歩道橋を右折した奥にあるのが八幡神社。参道を入った鳥居の左側にスダジイの巨木があり、ここが本陣の庭の一部であった(上記【関ヶ原宿 〕の写真参照)

 神社の脇を通る道は北国街道で、現在はJR線で分断されているが北近江から北陸へ通じている。歩道橋の所が追分になり、当時は追分茶屋が あったと云われる。

 この角には道標があったらしいが見つけられなかった。

 八幡神社の裏の階段を登り線路上の道を横断すれば、前回紹介の東首塚に出られ、そのまま古戦場巡りが出来る。

【関が原本陣跡スタジイ】 町・県天然記念物(昭和35年12月15日・昭和37年2月12日指定)

 ブナ科の常緑高木「スダジイ」は椎の一種です。一般に大木・古木となる性質があり、葉は革質で長円形。果実はどんぐり状で食用になります。材は建材・家具材・椎茸の原木などにもなり、樹皮は染色に用いられます。

 ここはかつて本陣の庭の一角にあたり、当時より時代の流れを見つめてきたこの木は正に樹木の王様と言えましょう。

     関ヶ原町


【西首塚】 (右側) 

 国道365号線との「関ヶ原西町交差点」を右に入ると円竜寺があり、明治天皇御膳水の石碑があるとのことだが、私達は行かなかった。

 国道を横断し、橋を渡るとすぐ右側に西首塚がある。

 大きなケヤキの両側に祠があり、右の祠に十一面千手観音、左の祠に馬頭観音が祀られている。

【西首塚】

 関ヶ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚である。

 この上に江戸時代から十一面千手観世音および馬頭観世音の堂が建てられ、附近の民衆の手によって供養がされている。

     関ヶ原町教育委員会


春日神社の月見宮大杉・福島正則陣跡 (左奥) 8:15

 西首塚から5〜6分進んだところで国道から分かれて左斜めの道に入る。

 旧道に入って2本目の細道入口に「月の宮」の石碑が立っているのでここを左折し、続いて次の道を右折すると左側に春日神社が建っている。

 この神社は月見の名所だったので、別名を月見宮(つきみのみや)と呼ばれた。境内に月見宮大杉が聳えており、福島正則陣跡の説明板が立ってい る。

【月見宮大杉】 町天然記念物(昭和36年8月5日指定)

 この杉の巨木は、関ヶ原合戦図屏風にも描かれていて、樹齢は八百年余りと推定されています。

 平安の御世より、長く時代の変遷を見つめてきたとは驚嘆に値します。その記録は幹の年輪に刻まれています。

 目通り約5.80m、高さ約25mと貝戸大神宮大杉に次ぐ、正に杉の横綱です。

     関ヶ原町

【福島正則陣跡】

 東軍の先鋒となった福祉正則(約六千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。

 一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。

 首取りで手柄を立てた可児(かに)才蔵が、家康の賞賛を受けたとされています。

     関ヶ原町


【美濃不破関・東山道と東城門跡 (右側) 

 春日神社から次の道を右折して街道に戻った所に説明板が立っている。

 美濃不破関のほぼ中央部を東西に東山道が通り抜けていた。関のここ東端と西端には城門や楼が設けられ、兵士が守り固めていた。日の出とともに開門、日の入りとともに閉門された。また、奈良の都での事変や天皇の崩御など、国家的な大事件が起きると、中央政府からの指令によって固関(こげん)がおこなわれ、すべての通行が停止された。

     関ヶ原町


【兜掛石・沓掛石・不破関庁跡】 (右奥) 

 2〜3分進んだ右側に兜掛石の標識が立っているので右に入り 、畑道を案内に従って進むと祠内に石が祭られていた。祠の横に説明板が立ってい る。

 これは壬申の乱の時、大海人皇子が兜を掛けた石と云われる。

 左斜めうしろには沓脱石があるとのことだが、畑に入る訳にもいかず良くわからなかった。

【不破関関庁跡と兜掛石】 町・県史跡 

 この辺りに中心建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約一町(一〇八米)四方の関庁が設けられ、内部には庁舎・官舎・雑舎等が建ち並び、周辺土塁内には兵舎・食料庫・兵庫・望楼等々が建っていました。

 ここに祀られている石は、壬申の乱の時、大海人皇子が兜を掛けた石と伝えられ、左斜めうしろには同皇子使用の沓脱石があります。

     関ヶ原町 


【不破関跡】 (左側) 8:35〜8:45

 兜掛石入口から1分進んだ建物の門前に不破関跡の説明板が新旧二枚立っている。ここには壬申の乱(672年)の後に設けられた三関(さんげん)の一つである。三関とは673年に都(飛鳥)を守る為に天武天皇の命により設けられたもので、他の二つは東海道の鈴鹿関(伊勢国)と北陸道の愛発(あらち)関(越前国)である。三関から東は東国(関東)と呼ぶようになった。

 三関は延歴八年(789)に停廃され、ここ不破関は三輪氏が守ってきて、三輪家の庭園が関所跡の一角となっている。(写真の塀が切れた所が三輪家の門)

【不破関跡】(新説明板) 町・県指定史跡(昭和44年6月21日、昭和45年4月7日指定)

 東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関とともに、古代律令制下の三関の一つとして、壬申の乱(672年)後に設けられたとされています。

 延暦八年(789)に停廃されて後は関守が置かれ、平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景がしきりと記されてきました。

     関ヶ原町

【不破の関】(旧説明板)

 今から、およそ1300年程前ここに不破の関が置かれ、越前の愛発、伊勢の鈴鹿とともに日本の三関といわれました。この関所の規模は六町四方あったと推定されています。130年後の平安時代初期に廃止されましたが、江戸時代期末まで朝事がある時は関を固められておりました。

白壁の塀の裏側には不破関守跡芭蕉句碑(秋風や 藪も畠も 不破の関があるので三輪家の門から失礼して入らせて頂くと見られる。

左下の写真は、上の写真の裏側で関守跡。右下の写真は芭蕉句碑 (秋風や 藪も畠も 不破の関)。

【不破関守跡】  町・県指定史跡(昭和44年6月21日、昭和45年4月7日指定)

 「木曽路名所図絵」にも描かれている、関藤川より大木戸坂を登り切った辺りのこの一帯が、関守の屋敷跡です。

 関守は延暦八年(789)の関の停廃以後に任命されたと考えられます。

 関守宿舎は関庁跡推定地の西南隅に東山道を挟んで位置する、段丘陵の眺望の良い所にあり、格好な地にあったと言えましょう。

     関ヶ原町 

 三輪家の前で二又道になって、旧中山道は左の坂道を下って行くのであるが、その二又点に道標が立っている。また、右の道を登るとすぐ不破関資料館が建っているが、開館は9:00からなので入れなかった。


【不破関西城門跡】 (左側) 

 坂を下って行く途中に西城門跡藤古川の説明板が立ってい る。

【不破関西城門と藤古川】

 不破関は藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されていました。川面と段丘上との高度差は約十〜二十米の急な崖になっており、またこの辺一帯は伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘な地で、自然の要害を巧みに利用したものでした。

 ここには大木戸という地名も残っており、「西城門」があったとされています。

     関ヶ原町 


【藤古川】 

 坂を下った藤古川に架かる藤古橋の手前に関の藤川(藤固川)の新しい説明板が立っているおり、橋の中央に藤古川の古い説明板が掲げられている。

【関の藤川(藤固川)】 

 この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れているところから、関の藤川と呼ばれていました。

 壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んでの開戦。更に関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地でした。

 またこの川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が詠まれたことが、世に知られています。

     関ヶ原町

【藤古川】

 この川を古くは関の藤川と称し、壬申の乱には川を挟んで東が天武天皇軍、西側には弘文天皇軍が陣し、そこの地区民は銘々の軍を支援したので、戦後東の松尾地区は天武天皇を祭って井上神社と号し、川西の藤下、山中地区では弘文天皇を祭って氏神とし、現在に及んでいる。

     関ヶ原町観光協会 


【矢尻の池】 (左側) 

 橋を渡って坂を登る途中の十字路を越えた左角にある、石柱に囲われている小さな窪みが矢尻の池。本当に小さい。

【矢尻の池(井)】

 関ヶ原宿から今須宿に向かう中山道のうちでも、不破関・藤川と続くこの辺りは、「木曽名所図会」にも描かれ、歌枕となっていました。

 この窪みは壬申の乱(672)のとき、水を求めて大海人皇子軍の兵士が矢尻で掘ったものと伝えられています。

 長い年月を経た今では、その名残を僅かに留めているに過ぎません。

 藤古橋を渡って坂道を登って来た所を上から写したもの。


【黒血川】 9:05

 登りはすぐ終わり、少し下る。暫く進み、国道21号線を歩道橋で渡る。

 更に進むとやがて黒血川に架かる橋に出ると袂に説明板が立っている。

【黒地川】

 壬申の乱(672)で、ここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。

 七月初め大友軍は精鋭を放って、玉倉部邑(たまくらべのむら)(関ヶ原町玉)を経て大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出てきました。しかし、大海人軍はこれを撃退、その後この不破道を通って近江へ出撃して行ったのです。

 この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付き、その時の凄い(すざまじい)様子を今に伝えています。

 この川は、青野ケ原や関ケ原の戦い等、古来軍事上屡々利用されてきました。

     関ヶ原町


【鶯の滝】 (左側) 

 黒血川を渡ってすぐ新幹線ガードの手前で左側に川が接し、下を覗くと鶯の滝が見られる。かつては風光明媚な立場跡だった。

 ここのY字路は右に進みガードをくぐる。

 中世(鎌倉・室町期)の山中村は旅人も泊る宿駅として栄えていました。近世(江戸期)では、関ヶ原・今須宿の間の宿の村として、人足が駕籠や馬を止めて休息した立場や酒屋・餅菓子屋・果物屋・古手屋等が軒を連ね、活気を帯びていたのです。

 ところで、この滝は、今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれる格好な場所でした。滝の高さは約5m。水量は豊で冷気立ち込め年中鶯の鳴く、平坦地の滝として、街道の名所になっていました。

     関ヶ原町


【常盤御前の墓】 (右奥) 9:15

 案内に従い右に入ると小公園内に常盤御前の墓芭蕉句碑が立っている。

 公園内にはトイレの設備がある。

【常盤御前の墓】

 都一の美女と言われ、十六歳で義朝の側室となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若、乙若、牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。

 伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千草と後を追って来た常盤は、土賊に襲われて息を引き取ります。

 哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。

     関ヶ原町

【芭蕉句碑と化月坊】

 寛政六年(1794)二月、垂井町岩手生まれの化月坊(本名国井義睦・通称喜忠太)は、旗本竹中氏の家臣であった。文武両道にすぐれ、晩年は俳諧の道に進出した。安政四年(1857)獅子門(翁の高弟各務支考を祖とする一派=美濃国が支考の生国で、活動の中心地だったため美濃派ともいう)十五世を継承、時に六十四歳。化月坊は美濃派再興のため、芭蕉ゆかりの各地に、芭蕉の句碑を建てた。文久二年(1862)、ここ山中集落常盤塚の傍らにも翁の句碑を建てたが、自作の区も碑裏に刻んでいる。

 

碑面(左側) 「義ともの心耳 似多里秋乃 可世」           者世越翁(はせをおう)

           「義ともの心に似たり秋の風」 芭蕉翁

碑裏(左側) 「希尓風の 音も春み介李 阿支乃松」           春香園

                           文久二壬戌年八月建之

           「げに風の音も澄みけり秋の松」 春香園

隣碑(右側) 「その幹尓牛も かくれて佐くら哉」 七十六叟(おきな) 化月坊

                           明治二巳年五月建之 社中

           「その幹に牛もかくれてさくらかな」 化月坊


【常盤地蔵】 (右側) 

 3分進んだ右側に小さな祠があり、脇に「常盤地蔵 創建年月不詳」と書かれた札が立っている。


【今須峠】 9:35

 JRの線路沿いを進み、踏切を渡って線路の反対側に出て坂道を登って行く。JR線がトンネルに入ると程なく今須峠に差し掛かる。峠の左側に説明板が立っている。

 下の写真は、踏切を渡って今須峠へ向かう登り道。電車はJR東海道本線。

【今須峠(中山道)】

 此処峠の頂上は山中の常盤塚辺りの登り口より約1,000mの道程です。

 一条兼良はこの峠で「堅城と見えたり、一夫関(いっぷかん)に当たれば万夫(ばんぷ)すぎがたき所というべし」(藤川の記)と認めたように、この付近きっての険要の地でした。

 往時のこの付近には、茶店があり、旅人の疲れを癒すお休み処として、賑わっていました。

 京方面に向かって約200m、一里塚を眺め峠を下ると、今須宿に入ります。

     関ヶ原町


【今須一里塚】 (左側) 

 国道21号線に合流するとすぐ左側に今須一里塚が見える。ここには横断歩道がないので渡るのに苦労する。

 説明板等はない。

 往時の塚は国道工事で撤去された為、平成二年に元の位置より少し東側に復元されたものである。


【青板(せいばん)神社】 (右奥) 

 旧中山道は一里塚の次の道を左に下りて国道脇の道を進んで今須宿に入って行くのであるが、下りる手前で再度国道とJRの踏切を渡ると左手に青板神社の鳥居が見える。境内の奥に徳川家康の腰掛石がある。

 本日はお祭で腰掛石を見学していたら、おすそわけ(烏賊のおつまみ)を頂いてしまった。

【徳川家康腰掛石】

 関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長五年(1600)九月十六日、近江佐和山へ軍を進める途中、ここ今須宿の伊藤家で一休みしています。

 これはその時に家康が庭で腰掛けたという石で、江戸時代を通じて本陣の指定を受けていた当家は、代々これを大切にしてきました。

 しかし明治三年(1870)の本陣廃止以後は、当境内に移して公開展示保存されることになったのです。

     関ヶ原町


【今須宿】 日本橋から113里27町(446.7Km)、京へ22里7町 (87.2Km)
 天保14年(1843)で人口1,784名、総家数464軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋13件。

木曽海道六拾九次之内 今須 (広重)

 美濃国今須村と西側の近江国長久寺村との間に流れる小さな溝が国境(くにざかい)になっていた。そこには国境を示す傍示杭が立っていた。

 

現在も県境となっている小さな溝。

 江戸時代もこの小溝は一尺五寸(約50cm)しかなかった。ここは夢物語の里(後述)である。


【本陣跡・脇本陣跡】 (左側) 

 宿内に入りすぐ門前橋と袂に灯籠が建っている今須橋を渡れば程なく、今須宿の石柱本陣跡・脇本陣跡の説明板が立っている。

 石柱の正面には「中山道 今須宿」、右面に「右 柏原宿一里」、左面に「左 関ヶ原宿一里」と彫られていた。

 ここから右奥を見ると国道とJRの線路をくぐるトンネルが見え、真直ぐ行くと妙応寺がある。

【中山道今須宿 本陣跡・脇本陣跡】

 当宿は美濃国と近江国の境の宿として栄えました。二一五坪の本陣が一軒で、現在の小学校と支所付近一帯に位置していました。また脇本陣は美濃十六宿の中でも当宿のみ二軒あり、各々現在の小学校駐車場附近辺りにあったのです。

 後者河内家の母屋は寛政年間に現米原市伊吹町の杉沢地内妙応寺末寺玉泉寺に移築され、当時の面影を今に伝えています。

 尚関ヶ原合戦の翌日、佐和山城攻めに際し、家康が本陣伊藤家の庭先で休息した折、腰掛けたという石は、現在東照宮大権現腰掛石として青板神社境内で保存展示されています。

     関ヶ原町


【問屋場】 (右側) 10:00

 すぐ先に美濃路で唯一現存している問屋場がある。

【問屋場】

 江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時七軒もあって全国的にも珍しいことでした。

 美濃十六宿のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみです。

 縁起物の永楽通宝の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄振りがうかがえます。

     関ヶ原町


【常夜灯】 (左側) 

 今須郵便局あたりに高札場があったらしいが説明板等はなかった。

 郵便局の少し先、左側民家の板塀の一角に常夜灯が建っている。

【常夜灯】

 街道が賑わっていた江戸期は、文化五年(1808)のことです。

 京都の問屋河内屋は、大名の荷物を運ぶ途中ここ今須宿付近で、それを紛失し途方に暮れてしまいました。そこで金毘羅様に願をかけ、一心にお祈りをしました。

 幸いに荷物は出てきて、そのお礼にと建立したのがこの常夜灯です。

     関ヶ原町


【車返しの坂・車返し地蔵】 (左側) 10:20

 常夜灯から15分、国道「今須交差点」手前左側に短い草道の坂があるが、ここが車返しの坂で上ると広場の奥に車返し地蔵が鎮座している。

【車返しの坂】

 南北朝の昔、粋狂な人もいたものです。不破の関屋が荒れ果て、板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ都から牛車に乗ってやって来ました。その御人は公家の二条良基という人。

 ところがこの坂道を登る途中、屋根を直したと聞いて引き返してしまったという伝説から、この名でよばれるようになったのです。

     関ヶ原町


【芭蕉句碑】 (右側) 

 国道21号線を横断してJRの踏み切りを渡ると軽い坂道になり、程なく芭蕉が野ざらし紀行の帰りにこの地で詠んだ句碑や奥の細道の句等が建っている。

 貞享元年十二月、野ざらし紀行の芭蕉が郷里越年のため、熱田よりの帰路、二十三日ころこの地寝物語の里今須を過ぐるときの吟

 昭和五十三年二月建之 芭蕉翁顕彰會

    正月も 美濃と近江や 閏月  はせを(左の句碑)

 左から2番目の石柱  野ざらし芭蕉道 年暮れぬ笠着て草鞋はきながら  はせを

 左から3番目の石柱  おくのほそ道 芭蕉道

 右の石碑は「おくのほそ道」の一部を記載  行春や鳥啼魚の目は泪  蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ  芭蕉


【寝物語の里・国境】 (左側) 〜10:40

 芭蕉句碑のすぐ先に2本の石柱が立っており、その間の細い水路(溝)が美濃路と近江路の国境で、現在は岐阜県と滋賀県の県境となっている。

 美濃側の石柱には「舊蹟 寝物語 美濃国不破郡今須村」、近江側は「近江美濃両国境寝物語 近江国長久寺村」と刻まれていた(上記【今須宿】の写真参照)

 ついに中山道も最後の近江路に入る。

 国境を越えた右側に寝物語の里碑が建てられ、説明板もある(下の写真)

【寝物語の由来】

 近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも、「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられています。

 寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。

  ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに   太田道潅

     平成四年一月 滋賀県米原市

  国境から3分程進んだ左側の長久寺集会所の前に「ここは中山道 寝物語の里」の標識と「ここは長久寺です」の説明板が掲げられている。

【ここは長久寺です】

  江濃のくにもしたしき柏はらなる岩佐女史に物し侍りぬ

  啼よむし 寝もの語りの 栞りとも  化月坊 (芭蕉十哲各務支考、美濃派十五世)

長久寺村

 古昔此の辺りに、両国山長久寺といふ寺ありし故、今村の名となれり、

 近江美濃両国の境なり

 家数二十五軒あり、五軒は美濃の国地、二十軒は近江の国地なり。

 壁一重を隔て近江美濃両国の者寝ながら物語をすといふ事。畢竟(ひっきょう)相近きの謂なり、両国の境には僅かに小溝一つを距(へだ)つ。

 五軒の家は美濃なまりの詞(ことば)を用ひ、専ら金を違うて銀を通用せず、二十軒は近江詞にして銀を通用す。

   享保十九年(1734)『近江與地志略』 


【ベンガラの家】 

 この辺りからベンガラ塗りの家が数多く見られる。「寝物語の由来碑」の近くにあった「水利と農村文化探訪ルートマップ」に「ベンガラの町並」という解説が載っていた。

【ベンガラの町並〕

 ベンガラとは、木造建築の柱など木造部分を朱色に塗る顔料の慣用名でる。西日本全域に分布していますが、滋賀県では湖北地方に多く見られます。

 赤いベンガラを塗った家は、柏原から県境の長久寺までが圧倒的に多く、美濃に入ると特殊な場合を除いて見ることがなくなります。

 ちょうど、滋賀県と岐阜県の県境にあたるこの場所が境界線となっており、地域の伝統的な農村集落景観を形成しているといえます。 


【楓並木】 10:50 

 暫く進むと楓並木が現れる。紅葉の季節に歩きたい道である。

 楓並木の中を更に5分程進むと、右側竹藪の前に「歴史街道 中山道」のモダンな石碑が現れる。

  ← 江戸後期大和郡山領 柏原宿    寝物語の里 長久寺 → 」


【旧東山道】 (右側) 

 神明神社の脇に旧東山道が僅かに残っている。 入口に「旧東山道」の石標と説明板が立っている。

 この先、直ぐJRの踏切を渡るのであるが、そこまでの僅かの間だけ残っている。

【「東山道」道標〕

 正確には、東山道・中山道分岐点道標。

 県境、寝物語長久寺より坂下JR踏切までは、古道東山道の上に中山道が敷設された。

 それより北西へ走る東山道は廃道になり、踏切を渡り、柏原宿に入る道が、中山道として新設された。

 左の写真が神明神社の鳥居と東山道の入口。

 右の写真で道路の奥に見える線路辺りが東山道の出口。


【柏原宿碑】 (左側) 11:00

 踏切を渡って左の道に入るとすぐ柏原宿碑が建って おり、柏原宿の「中山道分間延絵図」がはめ込まれていた。

【柏原宿の略史(史跡の時代順案内)

鎌倉時代

 *柏原弥三郎の柏原城跡地に、佐々木京極氏が館・徳源院・墓所設置。

鎌倉時代の終わり

 *京極高氏(佐々木道誉)は鎌倉幕府の命を受け、後醍醐天皇側近北畠具行卿を斬首。当地丸山に葬る。

室町の初め

 *京極高氏の命で、箕浦次郎右衛門、柏原代官所を設置。広大な屋敷を設け、菩提寺に長命寺を再興。

戦国時代

 *信長・秀吉は成菩提院に、家康は箕浦氏配下西村勘助屋敷に投宿。

江戸の初め(家康のとき)

 *柏原代官所閉鎖。箕浦氏代官下鉄砲組・元京極武士団が宿場役人を分担。江戸期柏原宿へ再構築。

江戸の初め(家光のとき)

 *将軍上洛時の休泊施設、柏原御茶屋御殿を、西村勘助屋敷に新設。

江戸中期(綱吉のとき)

 *松尾芭蕉柏原宿を通り、伊吹山の句を、大垣の句会で詠む。

江戸中期(吉宗のとき)

 *天領から、大和郡山柳沢藩領へ。

江戸後期

 *亀屋左京六代目七兵衛、柏原宿を「もぐさの里」と全国に売り出す。

江戸末期

 *皇女和宮柏原宿本陣宿泊

明治時代

 *明治になり、もぐさ屋で宿場役人の山根為蔵家が柏原銀行を創業。


【照手姫笠懸地蔵】 (右側) 

 柏原宿碑すぐ先に地蔵堂がある。今まで歩いてきた街道に照手姫の伝説が何回出てきたのだろう。

【照手姫笠地蔵と蘇生寺】

 地蔵堂正面向かって右側、背の低い如何にも古い時代を偲ばせる石地蔵を「照手姫笠地蔵」と云う。

 現在はここに祀られているが、元はこれより東、JRの踏切を越え野瀬坂の上、神明神社鳥居東側平地に在った蘇生寺の本尊ということから「蘇生寺笠地蔵」ともいう。

 中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地蔵である。

 昔、常陸国(茨城県)小栗の城主、小栗判官助重が毒酒のため落命の危機に逢いながらも、餓鬼阿弥となり一命を取止める。これを悲しんだ愛妾照手姫は夫助重を箱車に乗せ、狂女のようになり、懸命に車を引張ってここ野瀬まで辿りついた。そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ、自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ、地蔵は次のお告げをしたと聞く。

 立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ

 勇気を得た照手姫は喜んで熊野に行き、療養の甲斐あって夫助重は全快したことから、再びこの地に来り、お礼にお寺を建て、石地蔵を本尊として祀った。

 これを「蘇生寺」と云う。近くの長久寺(廃寺)の末寺として栄えたが、慶長の兵火で焼失、その後再興されることなく石の地蔵のみ残り、「照手の笠地蔵」として親しまれてきた。この辺りには照手姫に関わる伝承地として道中の大字長久寺に「狂女谷」が地名として残り、姫の白粉のため水が白く濁ったという「白清水」などがある。

 以上が柏原に伝わる説話であるが、他所のそれは照手が夫と知らず供養のための車引きであり、青墓から大津までとなっている。この様に話は若干異なるが本筋では変らず、夫婦愛に基づき夫の車を引く照手の素朴な庶民的なここの伝承は、もっとも仏教説話に相応しい物語である。

 最近「小栗判官」と銘打って歌舞伎、演劇等上演され、且つ説教節の復活と相俟って説話が有名になって来た。

 美濃国青墓村(現 大垣市)には照手姫にまつわる古井戸が残され、旧街道路傍には立派な五輪塔が、姫の墓として伝承されている。

〈付 記〉

 江戸時代末期寛政年間(1789〜1801)作図の『中山道分間延絵図』の、野瀬の神明神社鳥居の東に「地蔵堂」と小さく描かれている。よってその場所を蘇生寺跡(現在竹林)と推定される。

 この仏教説話は、関東では判官が主役で青墓村(現 大垣市)以西では照手姫が主役をなしており、熊野湯の峰温泉、坪湯へと話は続いてゆく。

【堂内向って左、背の高い地蔵由来】

 照手姫笠掛地蔵の本来の祭祀場所が余りにも人家から遠すぎたため、何かと街の中へと願ったが仲々安住の地が見つからず、各所を転々とした後、昭和の始めころ現在地に定着されることになった。

 その時地蔵は一体であったが、御覧の立派な背の高い地蔵が一古老から奉納され、笠掛地蔵とともに一堂に合祀されることとなった。この地蔵はみんなの安産を願って「安産地蔵」として寄進されたとも聞く。やさしい顔・立姿の美しい地蔵は庶民に好感をもって迎えられ今日に至っている。そしてこの地蔵は、小さい照手姫の笠掛地蔵を見おろすこともなく、むしろ引立役をなしている。

【堂内右、自然石で作られた二体の地蔵由来】

 ここより西へ約300m、同町内に竜宝院と名乗る古刹があった。

 この寺は伊吹山弥高百坊の一つであったが大正の兵火で焼失、柏原の地へ転出して来たが昭和十年廃寺となった。残された自然石の二体の地蔵を当地に預かったものである。これで堂内が賑やかになった。

     柏原一丁目


【東見付跡】 (左側) 

 床屋の手前の古い民家の前に説明板のみ立っている。

 柏原宿東の入口で、道の両側に喰違いの形で土手(土塁)が築かれていた。

 見付とは、本来城門のことで宿場用語になった。見付は宿場西口にもあった。

 東口の土手は、古図に幅二間奥行二間半、土手上面に灌木が描かれている。

 宿東西の見付は、貴人の当宿到着時、宿場役人の出迎場所だった。


【柏原宿】 日本橋から114里28町(450.8Km)、京へ21里6町 (83.1Km)
 天保14年(1843)で人口1,468名、総家数344軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋22軒。

【中山道 柏原宿】

 ここ柏原宿は、お江戸日本橋より中山道六十九宿(草津宿で東海道と合流)の内六十一番目になり、約百十二里(一里は約3.9キロメートル)、京までは約二十一里のところにある。

 江戸時代は、随分栄えたもので、宿場としての業務も、かなり苦労が多かった様である。

 幕末広重画く柏原宿の看板は、何と言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で、現在の建物そのままである。当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り、中山道有数の宿場名物となっていた。現在は一軒だけとなっている。

 柏原宿は、規模が大きく、六十九宿中宿高で四番目、宿場の長さ十三丁(1420メートル)は十番目、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場である。

 しかも旅籠屋(旅人たちの宿屋)は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず二十二軒もあった。

 現在、一軒も残っていないのは残念である。

 本陣、脇本陣は、それぞれ一軒、問屋(人馬、荷物の継ぎ立て一切を行う)は、当宿には六軒(開宿当時は二十軒を数え、幕末になると、普通各宿多くて三軒までなのに、関ヶ原から番場までの五宿は、それぞれ六、七軒あった)、その問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒あり、造り酒屋も一時は四軒もある盛況であった。

 この宿は、古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の四町からなり、宿場機能の中枢は、市場町でした。一つの宿場に四社も氏神があるのはそのためである。

 柏原の総社は、野瀬の神明神社である。

 又お寺の多いことでも有名で、ひと頃は三十ヶ寺を越え、現在も十五寺と三堂がある。

 中世京極道誉の随臣、箕浦氏が四百年柏原を守った居館跡(柏原箕浦城跡)、近世徳川家光により創建された柏原御茶屋御殿跡(地名として残る)等がある。

 宿場からは外れるが、織田信長が宿泊した成菩提院は、天台談林三箇随一と言われた名刹で、盛時には、六十坊を数えたと言う。国指定重要文化財等豊富である。

 また、宿場の東約十三丁の地に江濃国境があり、有名な寝物語の里(長久寺)がある。

 この様な柏原宿であるが、しだいに昔の面影が消え、今にも忘れ去られようとしている。

     平成五年三月 柏原宿整備調査委員会 米原市教育委員会

     下記「吉村公三郎実家」前の案内板より

木曽海道六拾九次之内 柏原 (広重)

 柏原宿の名産は、伊吹艾(もぐさ)であった。広重は宿場にあった数軒の艾屋の中で最も有名な亀屋を描いている。もっとも柏原の艾屋は全て屋号の頭は亀屋だそうだ。この「かめや」は艾の販売の他に茶屋と旅籠も経営していた。

 

現在の艾屋・伊吹堂



【八幡神社】 (右側) 11:10

 晴れていれば境内から伊吹山が良く見えると地元の人に言われたが今日は曇っているので残念ながら見られなかった。境内に芭蕉句碑がある。

 下の写真で、石燈籠の左後ろにある石碑が芭蕉句碑。

【芭蕉と伊吹山】

 松尾芭蕉は、柏原宿を三回西から東へと通っている。三回目のあと大垣の句会で詠んだ、伊吹山の句碑が、清滝の入口にある。

 「奥の細道」では、伊吹山麓の北国脇往還を関ヶ原へと通った。そのときも伊吹山の句を残している。

 その句碑は、すぐ後ろ神社境内、松の木の下にある。

【芭蕉(桃青)の句文碑】

   戸を開けはにし山有いふきといふ花にもよらす雪にもよらす只これ孤山の穂あり

   其まゝよ 月もたのまし 伊吹山   桃青

 芭蕉は、元禄二年(1689)敦賀から「奥の細道」結びの地大垣へ、伊吹山を左手に見ながら北国脇往還を歩いた。そのあと、大垣の門人高岡斜嶺邸の句会で、この句文を残している。

 その席で伊吹山は、花や雪や月の借景がなくても、ただ単に聳立する孤山としてだけで、立派に眺め賞し得る山容を備えていると褒めている。そして言外に句会の主人斜嶺の人柄は、伊吹山のようだと述べた。

 この句碑は、ほかに旧山東町朝日と大垣・埼玉県・栃木県の四ヵ所にある。

 柏原宿の町並。

 八幡神社を過ぎた辺りを写したもので、どの家も植え木の手入れが行き届き、立派な家も多く、美しい街並みである。


【問屋場跡】 (左側) 

 「八幡神社前交差点」の次が「柏原駅入口」で、そこからから1〜2分の所に問屋場の説明板が立っている。

 問屋とは、街道の運送問屋のことで、宿場第一の業務を担当した。公用の旅人・荷物と幕府ご用状の、両隣宿までの運送を継立(駅伝方式)で行った。宿屋の斡旋も仕事。

 柏原宿では、江戸後期には六軒の問屋が、東西三軒づつに分かれ、自宅で十日交代で勤めた。

 中山道の人足・役馬は、五十人五十疋が義務づけられ、下役に帳付・馬指・人足指が居た。村年寄りが問屋役を補佐した。

 人足・馬を出し、問屋業務を助けた助郷村は、当初近隣十六ヶ村。彦根藩村々の離脱から、五十一ヶ村かつ遠方が多くなり、宿場・助郷村とも苦しんだ。


【東の荷蔵跡】 (左側) 

 問屋場のすぐ隣に説明板のみ立っている。

 運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中に出来ない場合、荷物を蔵に保管した。

 この蔵は東蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。

 荷蔵は宿西部にもあった。


【脇本陣跡】 (右側) 

 荷蔵跡の斜め前、郵便局隣の普通の民家の前に脇本陣跡の説明板のみ立っている。

 脇本陣は、大名・幕府役人・宮家・公家・高僧他貴人が、本陣を利用できないときの、公的休泊施設である。

 柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様江戸時代を通じて勤めた。

 間口はこの家と隣の郵便局を合せた広さで、屋敷は二百三十八坪、建坪は七十三坪あった。

 当家は問屋役を兼務していた。


【旅篭屋跡】 (左側) 

 脇本陣の向かいで、旅籠屋 京丸屋五兵衛の屋号が掲げられていた。柏原宿では、ほとんどの家に屋号が掲げられている。

 天保十四年、柏原宿では東部のここ市場町・東隣り宿村町と西部の御茶屋御殿辺りとに二十二軒の旅篭屋(宿屋)が集まっていた。

 同じ年の宿内職業記録には、

もぐさ屋   九軒(屋号の頭は、どこもみな亀屋)

造り酒屋   三    請負酒屋   十

炭売茶屋  十二   豆腐屋     九

(煮売屋)        他商人  二十八

大工     十     鍛冶屋     一

諸職人    十三   医師      一

とある


【吉村公三郎実家】 (右側) 

 旅籠跡のすぐ先、造り酒屋の隣に昭和期の映画監督だった吉村公三郎(1911〜2000年)の実家がある。

 実家の門には「問屋役年寄 吉村逸平」と「映画監督 吉村公三郎の実家」の二枚の看板が掲げられていた。

【映画監督 吉村公三郎の実家〕

 祖父 柏原宿 最後の庄屋

   父 広島市長

   兄 朝日新聞「天声人語」執筆

 その 実家の横に柏原宿の説明板(内容は上記【柏原宿】に記載)が立っていた。


【本陣跡 (右側) 

 吉村公三郎実家から3軒目が本陣跡。

【柏原宿本陣跡〕

 本陣は、大名・幕府役人・宮家・公家・高僧他貴人が利用する公的休泊施設である。

 柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣役を務めている。間口はこの家の両隣を合せた広さで、屋敷は五百二十六坪、建坪は百三十八坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されてと云われる。

 明治になり、柏原小学校前身の開文学校はここに創設された。

 その後建物は明治中期に岐阜県垂井の南宮神社宮司宅へ移築された。

 建物の板壁に貴人が宿泊した関札(宿札)が打ち付けてあった。

 明治天皇行在所

 十四代将軍 徳川家茂(和宮夫君) 第二次長州征伐途上慶應元年閏五月十四日柏原宿本陣宿泊

 その隣に「歴史街道 文久元年(1861) 皇女和宮宿泊 柏原宿本陣跡地」と彫られた新しい石柱が立っていた。


【初恋橋(市場橋)・高札場跡】 (左側)

 市場橋を渡る手前右側に常夜灯があり、そこはかつて高札場があった所だった。

【高札場(辻の札)跡】

 高札場とは、幕府のお触書を板札にして、高く掲げた場所を云う。

 高札は江戸中期以降幕末まで、正徳大高札六枚・明和高札一枚・その時の両隣宿までの運賃添高札一枚、計八枚が懸かっていた。

 高札場は、道沿いの長さ4.8m、高さ0.91mの石垣を築き、その上に高さ3.33mの高札懸けの建物があった。

 なお柏原宿には、出町(小字)長沢にも小さい高札場があった。

 市場川を渡った左側に下記の説明板が立ってい る。

【吉村公三郎監督の「初恋橋」】

 若き日の思い出の橋。監督作品「地上」(川口浩・野添ひとみ共演)を生んだ。


【伊吹堂】 (左側) 11:35

 橋を渡った左手の大きな古民家が、広重が浮世絵に描いた艾屋の伊吹堂。当時のまま残っているが中を見ることは出来なかった。

 当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り、中山道有数の宿場名物となっていたが、現在はここ一軒だけとなってしまった。

 屋号には「艾屋 亀屋 七兵衛左京」を書かれていた。

 上記【柏原宿】の浮世絵と伊吹堂の写真参照。


【造り酒屋】 (右側) 

 艾屋の向い側。

 柏原宿は水量水質に恵まれ、酒株は宿内合せ百五十石が許可され、数軒の店が酒造りに励んだ。

 当家は慶長年間の酒造り記録が残る代表的な店であった。江戸後期に一時醤油醸造に転業したが、明治初めに造り酒屋に戻った。


 「造り酒屋」の少し先右側の旧柏原村役場跡綺麗な公衆トイレあり。

 続いて右側に柏原宿歴史館(開館時間9:00〜17:00、¥300、休館日は月・祝日の翌日・年末年始)があるが入らなかった。


【滋賀県下三番目に創立 柏原小学校跡地】 (左側) 

 農協の前に説明板のみ立っていた。

 明治五年(1872)五月、市場町の中山道柏原宿元本陣南部破竹宅に「郷学校」の名称で開校した。

 その後、東今川の元薬屋彦五郎宅(開文学校と改称)・市場町の元医師堤覚之丞へ移り、そして明治十一年(1878)、(近江源氏京極道誉が設置した、)ここ中世柏原宿「箕浦代官屋敷跡地」に、初めて校舎を新築した。

 なお、八十年後の昭和三十三年(1958)、国道二十一号線沿い南側へ再度移転した。


【西の荷蔵跡】 【柏原銀行跡】 (左側) 11:45

 歴史館の隣に日枝神社があり、そのすこし先の板塀の内側に西の荷蔵跡柏原銀行跡の説明板が並んで立っている。

【西の荷蔵跡】

 運送荷物の東西両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中処理出来ない場合、荷物を蔵に預かった。

 この蔵は西蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。

 荷蔵は宿東部にもあった。

 なお、当宿は、寺院の数が中山道二番目と多く、寺院は荷蔵や宿屋に利用され、柏原宿は大通行定番の宿泊地となった。

【柏原銀行跡】

 明治三十四年(1901)、江戸時代艾(もぐさ)屋の山根為蔵家は、同業・旅篭屋・呉服屋であった家筋五軒に働きかけ、自宅別棟に柏原銀行を創立した。

 中世・江戸期を通し大きな宿場として栄えた柏原村は、その当時も多くの商店が立ち並び、国鉄沿線の醒ヶ井・近江長岡と岐阜県隣り村今須村地域の中心地であった。

 柏原銀行の支店出張所は、米原・醒ヶ井・近江長岡・野一色・岐阜県隣り村今須にも設置された。

 その後、米原・野一色は閉鎖されたが、昭和十八年(1943)、滋賀銀行に合併する迄の四十二年間、この地方の産業活動を支援した功績は大きい。


【やくし道道標】 (左側) 

 西荷蔵跡のすぐ先にあり、「従是明星山薬師道」と彫られた石碑と説明板が立っている。

 最澄が創立したと云う明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。

 宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。太平洋戦争までは、眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も消え、今は往年の面影がない。

 この道標は享保二年(1717)と古く、正面が漢文、横に面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。

 出町(小字)長沢にも、同型の道標がある。


【御茶屋御殿跡】 (右側) 10:50〜12:10

 やがて広い十字路があり、左手前角にはふれあい会館(左の写真)、その後ろに火の見櫓が立っている。

 十字路を渡った右角の公園内に御茶屋御殿跡の説明板が立っている。

 この公園の広場にて、大垣駅で購入した弁当で昼食とする。

 この十字路を右に入り、柏原中学校の前を通って470m程行くと芭蕉句碑と伊吹山が綺麗に見える場所、更に北西に進むと京極家墓所と庭園が有名な清滝寺、句碑から西に行くと北畠具行卿墓がある。今回芭蕉句碑まで寄り道する計画だったが、予定時間より30分も遅れていたので道草は中止とした。

【柏原御茶屋御殿跡】

 江戸初め、将軍上洛下向(京都・江戸間の通行)の際の宿泊・休憩の目的で、街道の各所に設けられた館で、近江では、柏原御殿と野洲の永原御殿、水口の水口御殿を合せて「近江三御殿」と称されてきた。

 天正16年(1588)、徳川家康が上洛の際、当地の西村家で休息。以後、中山道通過の際の恒例となっていたが、通過が頻繁になったため、元和9年(1623)、二代将軍秀忠が殿舎を新築。以後御殿番を置いて守備してきた。

 その後、徳川幕府の勢力増大につれて将軍上洛は減少、元禄2年(1689)ついに当地御茶屋御殿は廃止された。

 家康の頃から約百年、殿舎建築から65年の歳月が流れた。この間、記録にあるものだけで合せて14回使用されている。

 元禄4年の記録では総敷地壱町九畝余、そのほか御守殿跡一畝八歩とある。勝専寺の門が御殿の門と伝えられている。

【付近の国指定史跡名勝】

1.清龍寺徳源院・・・ここより北へ約1Km。京極家墓所。三十数基の宝篋印塔、湖北地方唯一の三重塔、道誉桜あり。春は桜、秋は萩・紅葉が見事。

2.北畠具行卿墓・・・西回り北回りともに約1Km。元弘の変の後後醍醐天皇の臣で、この地で斬首される。古道猫居峠の上にあり。


【郷宿(ごうやど)跡】 (左側) 

 十字路のすぐ先の黒塀の加藤家の建物が郷宿跡

 柏原宿で現存する一軒の貴重な加藤家。郷宿とは、脇本陣と旅籠屋の中間、武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用されてきた。


【柏原一里塚】 (左奥) 

 仲井川橋、続いて丸山橋を渡って左を見ると復元された新しい柏原一里塚がある。

【(復元)柏原一里塚】

 一里塚は、旅人の里程(みちのり)の目安・駕篭・馬の乗り賃銭の目安と旅人の休息場所として造られた。

 慶長九年(1604)、徳川家康の命をうけ、秀忠はまず東海道と中山道・北陸道での一里塚築造に着手した。そして奉行には永井弥右衛門白元・本多佐太夫光重を任命、江戸は町年寄りの樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門、街道沿いでは天領は代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。工事現場の総監督はすべて大久保長安が担当した。

 一里塚の規模は、五間(9m)四方に盛土して、一本または複数本の木が植えられた。おもに榎が選ばれた。成長が早く根が深く広く張って塚が崩れにくい利点から採用された。

 柏原一里塚は、江戸日本橋から数えて百十五番目で、柏原宿内の西見附近くに街道を挟んで北塚と南塚があった。(両塚ともに現存しない。)

 北塚は、街道沿い北側で、愛宕神社参道の石段東側(現中井町集会所)の場所にあった。

 南塚は、街道を横切る接近した二筋の川のため、やむを得ず東側の川岸で街道より奥まった所に築かれた。(現在では、大幅な河川工事が行われてので、この地点から東寄りの河床の位置になる。)

 なお、江戸時代刊行の道中記等を見ると、両塚とも三本の榎が描かれている。


【西見付跡】 (左側) 12:20

 一里塚から4分程行った所に説明板のみ立っている。

 柏原宿西の入口で、道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある。見付の語源は城門で、宿場用語になった。

 この地点の海抜高度は、174m。(磨針峠は154.2mで、ここより低い。)

 彦根城と比較すると、天守閣の上に天守閣を更に一つ、大垣城では、なんと六つ積み上げないと、ここの高さに届かない。

 柏原宿は、東見付まで十三町(1.4Km)。長く高地の町並が続く。


【街道並び松】 (左側) 

 西見付を過ぎると松並木になり、ここは中山道柏原宿の石碑があった。

 更に進むと右側に北畠具行卿墓の看板があり、ここから400m山の中に入った所だそうだ。前述の御茶屋御殿跡から行くより近いが時間がないので行かなかった。

 続いて若い松が右側の山側に一列に植えられていて、傍に街道並び松 中山道宿駅制定400年記念植樹 平成十四年十二月 柏原学区史跡保存会」の標柱が立っていたので、2002年に植栽されたものなのだろう。


【東山道と九里半街道】 (右側) 

 松林の中に柏原宿の分間絵図と両街道の説明板が立っている。

〈古道東山道の道筋〉

 東山道は、横河駅があった梓を中山道と同じ道で東へ進み、長沢を過ぎ、ここ北畠具行卿参道入口のある谷間で、中山道と分かれ山越えをする。

 徳源院のある清滝へ降り、右へ折れ、成菩堤院裏山の北側を東進する。

 JR野瀬(山)の踏切に至り、再び中山道と合流して、県境長久寺へと向う。

〈九里半街道〉

 中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。

 木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原から中山道に入り番場宿で、船積みの米原湊道へ進む。

 牧田から米原湊までの行程は九里半あった。関が原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の五宿は。この積荷で、六、七軒と問屋が多かった。


【鶯が原】 (右側) 

 上記二街道の説明板の所で道は二又になり、右へ道を取り3分程進むと鶯が原の説明板が立っている。

 「木曽路名所図会」(文化二年〈1805〉)に、

   長沢(ながそ)村を過て、鶯が原に至り、柏原の宿に着く。

 また、

太田道灌、江戸から京都への旅日記「平安紀行」(文明十二年〈1480〉)に、

   鶯の原といふ所にて  聞まゝにかすみし春そしのはるゝ 名さえなつかし鶯の原

 道灌は、この旅で寝物語の里(現米原市長久寺)でも一首詠んでいる。道標に有り。


【掃除丁場と並び松】 (右側) 12:30

 鶯が原説明板から更に3分進むと先ほど別れた二又道の合流点に差し掛かるが、その少し手前に掃除丁場と並び松の案内板が立っている。

 下の写真で、電信柱が立っていいる所が二股道の合流点。

 掃除丁場とは、街道掃除の持場・受付区域のこと。

 貴人の通行に備え、街道の路面整備・道路敷の除草と松並木の枯木・倒木の処置・補植に、柏原宿では江戸後期二十一ケ村が夫役として従事した。

 丁場の小さい所は、伊吹上平等村で15m、大きい所では、柏原宿を除き長浜の加田村で488mもあった。

 江戸時代の柏原宿では、松並木のことを「並び松」と呼んでいた。

 また、東西両隣り(長久寺・梓河内)、村境までの街道松の本数は、明治五年の調査から逆算、幕末には約450本植えられていた。


【やくし道道標】 (左側)

 合流して2分。今日二つ目の「従是明星山薬師道」の道標が白山神社の向かいに立っている。


【小川(こかわ)関跡】 

 再び二又道が現れ、その真ん中に小川関跡の碑が立っている。

 旧中山道は右の砂利道へ入り林間道を進む(左の写真が林間道の入口)

【小川の関跡】

 「坂田郡史」に稚淳毛両岐王(わかぬけのふたまたおう)の守りし関屋(関所の施設・現存しない)と書かれ、大字柏原小字小川の辺りに比定、小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。

 一面何処も植栽され、あるいは野原となっているが、戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていたところである。したがって、往事を偲ぶようすはないが、古道の山側には整然と区画された屋敷跡「館跡」を確認することができる。

     米原市・米原観光協会

【菖蒲ケ池跡】

   君がながしき例(ため)しに長沢の 池のあやめは今日ぞ引かるゝ  大納言俊光

 「此の池の芹、名産なり、相伝う。古昔二町(218m)四方の池なりと。今は多く田地となりて、漸く方二十間(36m)計りの池となれり。」 享保十九年(1734)『近江與地志略』

 その後、天保十四年(1843)には、「菖蒲ケ池と申し伝へ候旧地これ有り。」と 『中山道宿村大概帳』

 江戸後期には消滅したようである。

 『近江坂田郡志』は、この池が天野川の水源だったと述べている。


【番の面遺跡】 山東町指定文化財(昭和42年5月15日指定) 12:45

 再び分かれた舗装道路に出たら、左に少し戻った所に遺跡跡の説明板が立っている。

 番の面遺跡は、昭和30年に京都学芸大学(現、京都教育大学)により発掘調査が実施され、後方の小高い丘陵から近畿地方で最初の縄文時代中期末(約4000年前)の竪穴式住居跡と多数の土器・石器などが発見されました。

 竪穴式住居とは、地面に穴を掘り、その底面をたいらに整えて床とし、上部に屋根をかけたもので、番の面遺跡で発見されたものは一辺の長さが四m前後の方形をしており、その内に四本の柱の穴と、中央に炉の跡と思われるくぼみ(0.7×0.5m)が一個ありました。

 土器は、中型の甕と思われる破片が多く発見されましたが、文様などから関東地方と深いかかわりを持っていたと思われ、また、石器類は、石鏃(矢の先に付けた矢じり)、石錐(いしのきり)、石斧(いしのおの)などが発見されましたが、石鏃の中には中部山岳地産の黒曜石で作られたものも含まれており、広い交流圏を持った遺跡といえます。

     平成六年十二月 山東町教育委員会


 番の面遺跡を後にしたらすぐ右側に、赤いエプロンを掛けた殆んどが自然石の地蔵が沢山 並んでいる地蔵堂

 地蔵堂の隣に中山道碑← 東山道横河駅跡 梓    柏原宿 江戸後期大和郡山領 →)。

 国道21号線に接して「梓(あんさ)川橋」を渡り8分、「ホテルマドンナ」前の橋の袂(右側)にどのような遺跡か何の説明もない西手(にしで)遺跡の石標。

 すぐ先「ホテルあずさ」の前が松並木になっている。

 「ホテルリスボン」で国道に合流。合流点の左に「喫茶樹里」がある。合流したら右折。

 国道の途中左手に大きな中山道の石のモニュメントがある。ここで左斜めの道に入るのであるが、横断歩道がないので渡るのが大変である。

 旧道と国道に挟まれた所に「食堂山形屋」がある。


【一色一里塚】 (左側) 13:20

 旧道に入り右側の八幡神社から2分進んだ、名神高速道路に接した所に一色一里塚の碑が建っている。

 写真右の木の板に説明文が書かれていたがかすれて読みにくかった。

 慶長九年(1604)江戸日本橋を元点に諸国の道の一里毎に、道の左右に一里塚を築かせた。

 塚は五間四方で、塚上には榎(えのき)をうえさせた。ここ一色の一里塚には榎三本づつ植っていた。


【佛心水】 (右側) 

 一里塚から5分程進んだ高台で右手が展望の開けた所に佛心水の祠がある。JR線の彼方に伊吹山が見えるはずだが曇って良く分からなかった。

 仏教用語で「佛心」とは、仏のこころ、大慈悲(心)のことをいいます。

 中山道 馬頭観音の近くにあり、街道を往来する馬の息災を祈願して、江戸時代後期に建立された馬頭観音に対して、この井戸には、旅人の喉を潤すだけでなく、御仏の慈悲のもとで旅の安全を祈願したような意味があると考えます。

 他に事例が見当たらないことから、非常に貴重なものと思われます。

     地縁団体 一色区


【鶯ヶ端】 (左側) 

 佛心水から坂を下って行く途中の名神高速道路の壁に鶯ヶ端の説明板が掲げられている。

 ここからは、特に西方の眺めがよく、はるか山間には京都の空が望めるというので有名で、旅人はみな足をとめて休息したという。平安時代の歌人で、中古三十六歌仙の一人、能因法師も

   旅やどり ゆめ醒井の かたほとり 初音のたかし 鶯ヶ端

と詠んでいる。


【見附跡、枡形】 (左側) 

 坂を下りきった高速道路の壁に説明板(写真で、左のフェンスに掲げられている板)が掲げられている。

 この前を右カーブし、すぐ一時停止の交通標識を左折するここが東の枡形である。

 左折した左側(写真の建物の向こう側)に、醒井宿の碑分間絵図の石碑が建っている。

 醒井宿の東西には、見附(番所)が設けられ、東の見附から西の見附まで八町二間(876m)が醒井宿であった。東の見附のすぐ西には、道が直角に右に曲がり、少し行くと左に曲がる、枡形になってる。枡形は、城郭や城下町にあり、城では、一の門と二の門との間に設けられ、敵の進む勢いを鈍らせたという。


【醒井宿】 日本橋から116里9町(456.5Km)、京へ19里25町 (77.3Km)
 天保14年(1843)で人口539名、総家数138軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋11軒。

木曽海道六拾九次之内 酔ヶ井 (広重)

 広重は沢山ある宿内の名勝を描かずに、西の外れにある六軒町辺りを東から西に向かって描いている。また、何故か醒ヶ井を酔ヶ井と書いている。

 

醒井宿の西の外れにある六軒茶屋前

 次回(11月3日)に訪れた写真であるが、この回に載せる。

 右の赤い屋根の建物がかつての六軒茶屋の内の最後の一軒。


【鮫島中将の歌碑】 (左側) 

 宿碑から古い家も残る町並を4分、居醒の清水の湧き出る手前に鮫島中将の歌碑が建っている。

 明治ニ十八年、北白川能久親王は、台湾で熱病にかかられ、重体になられました。

 病床で「水を、冷たい水を」と所望されましたが、水がありません。付き添っていた鮫島参謀は、かって醒井に来られた時の水の冷たさを思い起され、一枚の紙に

   あらばいま 捧げまほしく 醒井も うまし真清水 ひとしずくだに

と詠んで親王にお見せになると、親王もにっこりされたと伝えられています。

 鮫島中将直筆の、歌碑です。


【居醒(いさめの清水】 平成名水百選 (左側) 

 写真の川の先端から清水がこんこんと湧き出ている。 醒井宿三水の一つ。

 また、先端の楓の木の下に建っている石碑が上記鮫島中将の歌碑である(木の右の石碑ではない)。

 景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅する人々を困らせておりました。そこで天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。尊は剣を抜いて、大蛇を切り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめました。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不思議にも高熱の苦しみも取れ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。

 写真で清水が湧き出ている場所に見える川の中の石は蟹石

【蟹石】

 美濃国本巣郡に奇異な霊水が湧出すといううわさが、時の雄略天皇の耳に入り、実否をたしかめるために、濃州に派遣された勅使が泉を見ると三尺余りの蟹がはい出てきました。

 「これは珍しい」と持ち来たり水をのまそうと放つとたちまち石になってしまいました。

 こうして蟹石と呼ぶようになりました。

 加茂神社参道右側の川の中には、腰掛石鞍掛石紫石灯籠がある。

腰掛石】

 日本武尊が伊吹征伐で熱病にかかりこの石に腰をかけて体を冷やしたことから、この名がつけられました。

【鞍掛石】

 日本武尊が乗馬の鞍を置いたというので、この呼び名がでたようです。


【賀茂神社】 (左側) 

 上の写真は加茂神社参道の橋から写したもので、鳥居に続く階段を本殿迄登って行くと、醒ヶ井の町並が展望できる。


【雨森芳州】 (左側) 

 紫石灯籠の傍に雨森芳州の説明板が立っている。

  水清き 人の心を さめが井や 底のさざれも 玉とみるまで  芳州

  雨森芳州(1668〜1775) 滋賀県高月町雨森出身

 江戸時代の儒学者、教育者、外交家、二十六才の時木下順庵の推挙により対馬へ渡る。以来、朝鮮、中国との外交に尽くし、特に朝鮮通信使との折捗、応接に貢献する。その善隣友好、互恵対等の外交姿勢は現在も高く評価されている。

 八十才で一万首の歌を詠む決意をした芳州は古今和歌集を千回も復読したという。この歌も、その中の一首である。


【地蔵堂】 (左側) 

 雨森芳州の説明板の所に地蔵堂が立っている。

【醒井延命地蔵尊縁起】

 弘仁八年(西暦817年)百日を越える旱魃が続き、野も山も草木は枯れ、川や湖は干上がりました。

 御心配になった嵯峨天皇の命により、伝教大師(最澄)は比叡山の根本中堂に祭壇を設け、降雨をお祈りになりますと、薬師如来が夢の中に現れ、「ここより東へ数十里行ったところに清浄な泉がある。そこへ行って雨を求めよ。」とお告げになりました。

 伝教大師が泉を尋ねてこの醒井の里へ来られますと、白髪の老翁が忽然と現れ「わたしはこの水の守護神である。ここに衆生済度・寿福円満の地蔵尊の像を刻み安置せよ、そうすれば雨が降り草木も生き返るであろう。」と言い終ると水の中へ消えてゆきました。

 大師は早速石工を集め、一丈二尺(3.6米)の地蔵菩薩の坐像を刻み、祈念されますと、黒い雲がみるみるあらわれ、大雨が三日間降り続きました。

 この雨で緑は甦り、生気を取り戻した人々は、地蔵菩薩の深いお慈悲と、伝教大師の比類なき知恵と徳行に、尊信の念をいっそう深くしたということです。

 本尊の地蔵菩薩は、はじめ水中に安置されていましたので、俗に「尻冷し地蔵」と唱えられていましたが、慶長十三年九月濃州大垣の城主石川日向守が霊験を感謝し、佛恩に報いるため砂石を運び、泉の一部を埋め、辻堂を建立したと伝えられています。

     米原町・米原町観光協会・醒井区

【石造地蔵菩薩坐像】 米原町指定文化財(歴史資料) 

 花崗岩を丸彫りした半跏像で、その彫刻の特徴から鎌倉時代後半の製作であろうと考えられます。総高270cmを測る大形の丸彫り地蔵尊の類例は全国的にも数少なく、滋賀県下では本像が唯一のものです。

 明治時代に火災に遭い補修が激しいのは惜しまれますが、体部の納衣や手足の彫刻はよく残されており、特に光背の蓮弁のレリーフは鎌倉期の写実彫刻の作風をよく伝えています。

 古くより延命地蔵尊の名で親しまれ、毎年八月二十三・二十四日におこなわれる地蔵盆は盛大で、近郊はもとより遠方からも多くの人々が参詣に訪れます。

     平成十年三月 米原市教育委員会


【地蔵川】 (左側) 

 居醒の清水が流れている川を地蔵川と云い町中を流れている、澄んだ水の中にはバイカモが群生しており、低温の清流にしか棲まないハリヨが生息している。

【ハリヨ(トゲウオ科 イトヨ属)

 体長4〜7cmで生息分布は限られ、滋賀県東北部と岐阜県南西部の湧水をもつ水温20度以下の清流に生息している。ウロコはなく鱗板が前半身に6枚ほど一列あるだけで、後半身は黒緑色の雲状模様がある。トゲが脊部に3本、腹部に1対、臀鰭の直前に1本ある。繁殖期になると雄は婚姻色が現れ、その頭部の下側部は朱紅色を呈し、胴部は暗青色を帯びる。雄は縄張りを持ちその中心に水草や根などの繊維質のものを用いてトンネル状の巣を作り、雌を誘い入れて産卵させる。雄は卵が孵化するまで餌もとらず辛抱づよく巣を見張り続ける。寿命は短く年魚である。

【バイカモ(沈水植物 キンポウゲ科)

 水温15度前後を保つ澄んだ湧水を好み、川の水底に群生し、流れに沿って這うように育つ鮮やかな緑色をした多年草水草である。手のひら状の葉が特徴で長さ約50cmの藻である。初夏から晩夏にかけて水面上に梅花様の白い花が咲く。

 バイカモに寄生する水生昆虫は、ハリヨの好物であり、バイカモが繁殖することにより急流をさえぎり、ハリヨの巣づくり・産卵に絶好の場所を提供している。

     平成5年3月 醒井区


【本陣跡】 (左側)

 地蔵川に沿って少し進むと、本陣 樋口山という割烹があり、入口に本陣跡と墨書きされた標柱が立っている。

 今も当時の関札が残っているそうである。


【問屋場】 (左側) 

 本陣跡のすぐ先、現在米原市醒井宿資料館となっている建物が往時の問屋を営んでいた川口家住宅。

 下の写真で、建物の手前を流れている地蔵川にバイカモが群生しているのが見える。

【醒井宿問屋場(旧川口家住宅)】 米原町指定文化財 

 この建物は中山道醒井宿で問屋を営んでいた川口家住宅です。問屋とは、宿場を通行する大名や役人に人足・馬を提供する事務を行っていたところです。現在、宿場に問屋が残されているところはほとんどありません。また、建築年代が十七世紀中から後半と推定される貴重な建物です。

 平成十二年より修理をおこない、再び江戸時代の宿場の問屋として公開されることになりました。

利用案内

 入場料 大人(高校生以上)200円  小人(中学生以下)100円 ※ 郵便局舎と二館共通

 開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)

 休館日   月曜日(月曜日が祝・祭日の場合はその翌日) 年末年始(十二月二十七日〜一月五日)

【中山道醒井宿概要】

 町並み 東西八町二間  人口 539人  戸数 138戸  本陣 1軒  脇本陣 1軒  旅籠 11軒  問屋 7軒

 説明板には入場料が記載されているが現在無料となっている。内部には見るべきものは殆んどないので当然だろう。しかし、写真に写っている青い箱に「協力金10円」と書かれていたので協力してきた。


【江龍家表門・明治天皇御駐輦所】 (右側)

 問屋場の向かい側に、明治時代の創業というヤマキ醤油の店。

 その少し先の右側、店の前に石燈籠が建っている建物が旅館跡で今は「夛々美家」という料理屋になっている。

 料理屋のすぐ先に立派な江龍家表門(写真)が建っており、門前に明治天皇御駐輦所の石碑が立っている。

 江龍家は庄屋を務めていて屋敷は本陣並の規模を誇っていたと云う。

 この隣に写真展示館があり、町の四季・バイカモ・ハリヨ等の写真が展示されて無料。


【了徳寺】 (右奥)

 写真館のすぐ先、天然記念物 了徳寺の御葉附銀杏の石柱が立っている路地を入ると了徳寺があり、境内に国天然記念物の銀杏の巨木がある。

御葉附銀杏(おはつきいちょう)

 周囲 約2.5m、高さ 約12m、樹齢 約150年

 毎年8月から11月上旬ごろの間、多数くの銀杏(ぎんなん)を実らせますが、その一部は葉面上に付いています。

 銀杏の発育が不完全なものが多く、小さくて、長楕円や、細長く普通の銀杏と著しく形が異なっています。

 葉面上に生じる銀杏の数は、多いもので5〜8個ですが、おおむね1〜2個で葉脈が次第に太くなり、先端の所が主に形作られていきます。

 化石から出土された「いちょう」に良く似ていて、銀杏が葉面上に生じるのは花が枝や葉の一部だという学説を裏付けるものです。

 「いちょう」は、中国、及び日本の特産で、我が国においては神社仏閣の境内に数多く植えられていますが、この「おはつきいちょう」のような葉面上に銀杏を生じるものは少なく、貴重なものとされています。

 昭和4年12月17日、国の天然記念物として指定されました。

      米原市・米原市観光協会・浄土真宗本願派石龍山了徳寺

 この時期、わずかであるが葉面上に付いた小さな銀杏を見ることが出来た。


【十王水】 (左側)

 醒井大橋の手前地蔵川の中に十王と刻まれた灯籠が立っている所が、醒井宿三水の二つ目の十王水である(左の写真)

 ここからも清水が湧き出ている。 

 平安中期の天台宗の高僧・浄蔵法師が諸国遍歴の途中、この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられる。もとより浄蔵水と称すべきところを、近くに十王堂があったことから「十王水」と呼ばれるようになったという。

 右の写真は十王水から写したもので、手前の橋が醒井大橋でとても大橋とは思えない。重なってしまったが大橋の右後ろに居醒橋がある。

 中山道は直進する。居醒橋を渡って右へ行くと旧醒井郵便局の前を通って醒 ケ井駅へ行ける。


【泡子塚】 (左側) 

 醒井大橋から3分で醒井宿三水の三つ目の泡子塚に着く。 ここからも清水が湧き出ている。

 岩の上には、仁安三戌子年秋建立の五輪塔があり、「一煎一服一期終即今端的雲脚泡」の十四文字が刻まれてあります。

 伝説では、西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じてこれ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り、

水上は 清き流れの 醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん

と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡になりました、西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということです。

 今もこの辺の小字名を児醒井といいます。


 泡子塚から道なりに進み、左手「河合外科」を過ぎた県道17号線との十字路で今回の街道歩きを終了とする。

 この県道を渡ったすぐ先に広重が醒井宿を描いた六軒茶屋跡があるが、次回に回すことにした。

 この十字路を右折して醒ケ井駅前に出た所で電車の時間に余裕があったので、旧醒井郵便局(現醒井宿資料館)を見学する。途中松尾寺を道路から見る。


【松尾寺】 

 醒ケ井駅を背にしてY字路を左に、旧醒井郵便局に向う途中の右側にある。

 松尾寺は典型的な天台宗の山岳寺院です。寺伝では役小角(えんのおづの)が天武天皇九年(680)に入山し、神護景雲三年(769)僧宣教が霊山七ヶ寺を創建したうちの一つであったと伝えています。平安時代には伊吹山寺の松尾童子が堂宇を整え、寺の興隆に力を注ぎました。戦国時代には兵火にあったものの、江戸時代には五十余坊を有する大山岳寺院として栄え、今も山中のそこかしこに坊跡を残しています。今はここ醒井の政所に、雲中より飛行したと伝わる本尊空中飛行観音をはじめ、すべての寺宝が安置されています。

  石像九重塔(国指定重要文化財)・・・説明略

  鰐口(国指定重要文化財)・・・説明略

  絹本著色観教曼荼羅図(滋賀県指定文化財)・・・説明略

  木像聖観音菩薩立像(米原市指定文化財)・・・説明略

     平成四年三月 米原市教育委員会


【旧醒井郵便局】 

 醒ケ井駅から居醒橋に向う途中の左側にある。一階は無料で二階の資料館が有料。

 旧醒井郵便局は大正四年(1915)に米国出身のウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計によって建てられた木造二階建の疑洋風建築です。現在の残されている建物は昭和九年(1934)に外側を木造モルタル張りの建物に改築されたもので、基本的な内部構造は創建時の建物を利用しています。平成十一・十二年度に実施した修理工事中には各所にその痕跡が認められました。尚、この建物は平成十年度に国の登録文化財に登録されています。

利用案内

 入場料 大人(高校生以上)200円  小人(中学生以下)100円  ※ 問屋場と二館共通

 開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)

 休館日 月曜日(月曜日が祝・祭日の場合はその翌日) 年末年始(十二月二十七日〜一月五日)

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

 明治十三年(1880)米国に生まれる。二十四歳で英語教師として来日。近江兄弟社を設立しキリスト教の伝道活動をする。宗教以外にも各種芸術活動に携わり、中でも建築にはとりわけ熱心に取り組みヴォーリズ建築事務所を開設する。彼の関わった建築作品は全国各地に存在し、その数は一千件を越える。



 31回目の旅終了(14:45) 泡子塚の先、県道17号線と交差する十字路。

  ここから醒ケ井駅に向い、旧醒井郵便局を見学してからJRで帰宅。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、13.9Km(関ヶ原駅前交差点〜県道17号線との交差点)

          日本橋から百十六里八町(456.4Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、15.5Km(関ヶ原駅〜醒ケ井駅) 累計555.5Km

          7時間 29,200歩。

 

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