武佐宿 (五個荘駅 → 野洲のBHタカラ) <旧中山道34回目>

2011年5月14日(土) 晴

 前日に横浜駅発の夜行バスで彦根駅に6:25着。近江鉄道の待合室にて持参の弁当で朝食後、五個荘駅7:30着。

 五個荘駅を7:35スタート。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

鳥居本宿 (後半)・高宮宿・愛知川宿」 ← 「目次」 → 「守山宿 ・草津宿」

 


【御代参街道の追分道標】 (左側) 

 五個荘駅入口(中澤酒店前)の次の角から左斜め(南東)に伸びている道を御代参街道といい、八日市、日野、笹尾峠を経て東海道の土山宿まで続いている。

 この追分の左角に道標が立っていて、正面に「左 いせ ひの 八日市みち」、右側面に「右 京みち」と刻まれている。


【ポケットパークの灯籠 (左側) 7:40

 御代参街道道標の先の三叉路にポケットパークがあり、東屋と「太神宮」と刻まれた灯籠が建っている(左の写真)

 中山道はこの三叉路を右斜めに進み、大同川に架かる橋を渡って左折する。大同川の向こう岸は「てんびんの里中央公園」になっている。

 右側の東近江市役所支所前を過ぎ、川から離れるとすぐ右側にお堂が建っていて、道を挟んだ隣には茅葺き屋根の家が見られる。


【中仙道分間延絵図(五個荘)】 (左側) 

 お堂の斜め向かいにポケットパークがあり、文化3年(1806)に江戸幕府が作成した「中仙道分間延絵図」の五個荘部分の大きな絵図が掲げられている。


【松居家住宅(旧五個荘郵便局)】 登録有形文化財 (右側) 7:50

 「中仙道分間延絵図」があるポケットパークのすぐ先右側に建つ石造りの立派な建物は、松居家住宅旧五個荘郵便局だった。

 登録有形文化財のプレートの脇に新聞の切り抜きが掲示されていた(下記文章)

【湖国のモダン建築 直線と直角のデザイン】 

 1925(大正十四)年の竣工。デザインと構造の両面から20年代の典型といえる建物である。まずデザイン上の特色について述べよう。じっと見ているとポキポキ、カクカクと音が聞こえてきそうなくらい、直線と直角で構成されている。正面は三つの箱が90aほどの間隔で並んでいるようだ。装飾も大小の四角で押し通す。こうした意匠は十九世紀末にドイツとオーストリアで生まれたゼツェッションの影響である。ゼツェッションとは「分離」の意味で、古い様式からの脱却を意味した。日本では、10年ごろから25年ごろまで、ちょうど大正と重なる時期に大流行した。この建築も当時は清新な郵便局という印象をいっぱいに振りまいていたはずである。

 もう一つ、構造技術上の特色というのは、川崎鉄網の使用である。木造の骨組みの上に鉄線で編んだ網を張り、コンクリートをコテで塗り込む。耐火性能を飛躍的に向上させるもので、09(明治四十二)年に川崎寛美によって製品化された。今日のラスモルタルの原型である。鉄線が太く、また砂利も含んだコンクリートを用いるので、普通のモルタル壁よりもはるかに分厚く、強度も高い。煉瓦造りよりも安価であり、また技法が確立していなかった鉄筋コンクリート構造より使いやすかったため、広く用いられた。

 20年代後半になると、鉄筋コンクリート構造の技法が安定して急速に普及する。これに反比例して川崎鉄網は使われなくなって、今やまぼろしの技法になってしまった。

 この建物を設計したのは大津市堅田で建設業を営んでいた津田吉五郎。設計施工ともに優れた技能の持ち主といえるが、詳しいことは定かでない。


【西澤梵鐘鋳造所】 (左側) 

 松居家住宅のすぐ先左側に屋根付門の前に釣鐘が置いてある民家がある。ここは「街道てくてく旅」で勅使河原さんが訪れた梵鐘を製造している鋳造所である。


【常夜燈(道標)】 (左側) 7:58

 梵鐘鋳造所から5分ほど進んだ左側に水田が見え、その手前角に常夜灯が乗っている道標が建っている。

 常夜灯の台座には御代参街道と同じ「左 いせひの 八日市」、「右 京道」と刻まれていた。


【明治天皇北町屋御小休所碑】 (左側) 8:05

 若宮神社(右側)を過ぎ、県道326号線を越えたすぐ先、左側の東屋前に明治天皇北町屋御小休所の石碑が立っている。

 実際に休んだのはすぐ先の市田邸である。


【市田邸】 (右側) 

 明治天皇北町屋御小休所碑のすぐ先右側に市田邸があり、門内に市田邸跡明治天皇御聖蹟と刻まれた石碑が立っている。

【説明】

 明治十一年北陸東海巡幸の際十月十二日及同月還幸の際二十一日御小休所となりたる處にしてよく舊規模を存せり(後略:火気注意の文章)

     昭和十二年十一月三日 文部省


【京町屋風商家】 市指定文化財 (右側) 8:10

 市田邸から2分進んだ右側に、白い蔵がある京町屋風商家が建っている。

 この街道沿いは茅葺屋根等の古民家が多く見受けられ、また、この辺りには市田姓が多い。

 この建物は明治初期の建築で、江戸時代から呉服繊維商として京都、大阪で活躍した、市田庄兵衛家の本宅です。奥に細長い京町家風の建築様式で、平成十三年に北町屋町が購入、保存、活用しています。

     五個荘北町屋町自治会 五個荘地区まちづくり協議会


【旧片山家住宅(立場本陣)】 (右側) 8:15

 県道202号線を越えた先に金毘羅大権現の常夜灯と藁葺屋根の古民家が見える。

 ここは旧片山家住宅で大名等も休憩した立場本陣であった。


【てんびんの里碑】 (右側) 8:30

 旧片山家住宅のすぐ先左側にも茅葺屋根の古民家があり、やがて右側から国道8号線が徐々に近づいてきて合流する。

 その合流した三角点にてんびんの里碑が立っている。鳥居本宿で見たのと同じで、上に旅姿の像が乗っている。

 左の写真は西側から写したもので、右の道が五個荘から来た「旧中山道」、左の道が国道8号線。


【清水鼻の名水・立場跡】 (右側) 8:35

 国道に合流したら次の交差点で右折し、すぐ「自治会館」前を左折して国道と並行する一本右の道を行く。

 旧道に入るとすぐ右側に屋根に覆われた今も清水の湧き出す井戸がある。ここは清水鼻の名水と呼ばれ、立場もあった。

 傍に立つ石碑には「近江ノ国 清水鼻の名水 旧中山道」と刻まれていた。また、石鉢の上には「飲み水の為に直接手をいれないこと」と書かれていた。

【湖東三名水の一つ、清水】

 昔から湖東の三名水(湧水)が、旧中山道の町内の道沿いにあります。

 古くは交通の要衝として栄えた当地では、今も湧水が絶えなく、道行く人達にも潤いを与え、喜ばれています。

     五個荘清水鼻町自治会 五個荘地区まちづくり協議会

 湖東三名水とは、「清水鼻」、「醒井」、「十王村」の三つを指す。


【愛宕大神】 (右側) 8:45

 「安土町石寺」に入り、左側「フードショップタケヤス」前を「中山道」の案内に従って左折するとすぐ右側に石造りの常夜灯が立ち、後ろに愛宕大神の祠が建っている。


【奥石(おいそ)神社】 (右側) 9:10 〜9:30

 旧道は5分で一旦国道8号線に接するが、すぐ右の橋を渡って国道に並行している水路と田圃の間の道を進む。その後国道と新幹線が入れ替わり、新幹線の右側を更に12分ほど進むと「石寺営農組合農業倉庫」前に綺麗な橋が見えてくるから左折してその橋を渡る。次いで新幹線の高架を潜るが、その高架下トンネルの壁に安土城跡の絵地図が描かれていた。安土城跡はここから北西へ直線距離で2.3Kmの所にある。城好きの私としては昔から訪れたかった所なので行きたくて仕方がなかったが、今回は中山道を歩き終えたら竹生島に行くことを計画しているので、次の機会にと諦める。

 新幹線下を潜って国道を渡るのであるが、その国道には地下歩道が設備されているので安心して渡ることが出来る。

 地下歩道で国道を渡って反対側に出ると、「奥石神社」の案内板と「中山道 東老蘇」の新しい道標が立っていて、道標の右側面には「武佐宿へ一里」と刻まれていた。

 そのまま真っ直ぐ2分進むと右側に奥石神社の東参道が現われるが、表参道はここから200mとの道標が立っていたのでそれに従って東参道から入らずに鳥居の建つ表参道に回った。東参道から入って表参道から出たほうが効率はいいことが後で分かったが、中山道を歩いていることと神社は表から入りたい気持ちもあるので 良しとする。

 神社を取り囲む森は老蘇森(おいそのもり)と呼ばれていいて、杉等の巨木で鬱蒼としている。

【老蘇の森由来】 (鳥居の横に立っていた説明板)

 古来老蘇の森一帯は蒲生野と讃えられ老蘇・武佐・平田・市辺の四ヶ村周辺からなる大森林があった。今尚近在に野神さんとして祀れる大杉が老蘇の森の樹齢に等しいところからもすでに想像されるが現在は奥石神社の鎮守の森として其の名を留むるのみで面積は六十反歩を有し松・杉・桧等が生い茂ってゐる。奥石神社本紀によれば昔此の地一帯は地裂け水湧いて人住めず七代孝霊天皇の御宇石辺大連翁等住人がこの地裂けるを止めんとして神助を仰ぎ多くの松・杉・桧の苗を植えしところ不思議なる哉忽ちのうちに大森林になったと云われている。この大連翁は齢百数十才を数えて尚矍鑠(かくしゃく)と壮者を凌ぐ程であったので人呼んで「老蘇」と云ひこの森を老蘇の森と唱えはじめたとある。又大連はこの事を悦び社壇を築いたのが奥石神社の始めと傳えられている。

【史跡 老蘇森】 国指定文化財 (本殿の左手に立っていた説明板)

 この森は、平安時代には早くも人々に知られており、しばしば和歌などに詠みこまれている。往時は現在の数倍の大森林であったといわれ、街道(中山道)の名所として旅行者の訪れるところとなっていた。

 伝説によれば、昔この地方は地裂け水湧いてとても人の住めるところでなかったが、石部大連が樹の苗を植え、神々に祈願したところまもなく大森林となり、この大連は生きながらえて齢(よわい)百数十歳を重ねたため「老蘇森」と称せられたと伝えられている。今なおスギ・ヒノキ・マツ等から成る樹林はうっそうとして茂り、森の内には延喜式内社奥石(おいそ)神社が祀られている。

     平成十年十二月 安土町教育委員会

[史跡老蘇の森鎮座]  (本殿前に立っていた説明板)

 式内  鎌宮 奥石神社

【御安産守護の宮としての由緒】

 景行天皇の御宇、日本武尊蝦夷征伐の御時、弟橘姫命は上總の海にて海神の荒振るを鎮めんとして、「我胎内に子存すも尊に代わりてその難を救い奉らん霊魂は飛去り江州老蘇の森に留まり永く女人平産を守るべし」と誓い給ひてその侭身を海中に投じ給ふ云々とあり、爾来安産の宮として祈願する諸人多し。

【史跡 老蘇の森 昭和二十四年七月文部省史跡指定】

 奥石神社本紀に依れば、昔此の地一帯は、地裂け水湧いて、とても人の住む地処ではなかったのであるが、人皇七代、孝霊天皇の御代、住人であった石辺大連という翁が神助を仰ぎ、松・杉・桧等の苗木を植えた所、忽ちに大森林になったという。平安期以来、中仙道の歌所として、和歌紀行文又は謡曲等に謡ぜられたもの頗る多く文人墨客の杖を引く者多くあった。

   夜半ならば老蘇の森の郭公

      今もなかまし忍び音のころ

                 本居宣長 作

   身のよそにいつまでか見ん東路の

      老蘇の森にふれる白雪

                 加茂真淵 作

     平成六年十一月 奥石神社社務所

【奥石神社本殿】 重要文化財

    三間社流造  檜皮葺  桃山時代

 三間社流造の庇の間に建具を設けて前室とし、さらに向拝(こうはい)をつける形式は滋賀県に中世の遺構が多く古式の流造がひときわ優美に発達したものである。

 この本殿は天正九年の再建で、庇の間は開放としているが中世に発達した形式を踏襲しており、唐草文様を透彫りした蟇股や彫刻をほどこした手挟(てばさみ)、あるいは母屋の腰廻りの嵌板(はめいた)に配列した格挟間(こうざま)など、各所に華麗な装飾をつけた当代第一級の本殿建築である。本殿の再建は織田信長が城下町を形成する施策に関連したものと考えられ、棟札はその考証の好資料となるので、銘文を左記に記載した。

     平成十年十二月 安土町教育委員会

    棟札銘文(棟札表)

  江州佐々木御庄内老蘇村御社建、天正九年正月廿六日

  願主者柴田新左衛門尉家久美州西方池尻住人也、天正九年辛巳書之畢

          (棟札裏)

  大工 西之庄左衛門三郎    筆者 観音寺住僧圓王院定長

        八日市藤左衛門内口七是也


【根来陣屋跡】  (右奥) 9:31

 表参道鳥居に戻り、次の右への細道入口に「↑老蘇中山道 根来陣屋跡」の案内が掲げられているので、それに従って路地を入って行くと、根来陣屋跡の石碑と説明板が立っている。

 陣屋跡の後ろは奥石神社に続く老蘇の森で「保全整備事業」の説明板立っていた。

根来陣屋跡】

 中山道沿いの東老蘇公民館前の小路を古くから陣屋小路と呼んでいる。その突き当りの当地に江戸時代根来陣屋があった。

 鉄砲の根来衆で有名な根来家始祖盛重は和泉国熊取谷(熊取町)中左近家出身で根来寺の僧であった。秀吉の根来寺焼き討ち後家康の家臣となる。数々の戦功をたて大和・近江・関東に領地(知行所)を拝領し三四五〇石の大旗本となる。当地が根来家の知行所となったのは寛永十年(1633)東老蘇六八六石と西老蘇十三石であった。

 元禄十一年(1698)領地替で関東の一五〇〇石と愛知郡上中野・下中野八八六石、野洲郡五条・安治・富波沢七〇〇石と交換、この時期当地に陣屋が設置され代官所を置いた。江戸期の絵図に陣屋が描かれている。

 東老蘇は代々坪田恒右衛門家が在地代官を勤めた。

 元禄十三年(1700)四代正国は奥石神社旧拝殿と鎧・兜(現存)を、天明四年(1784)九代正武は参道の大鳥居(現存)を寄進する。福生寺の本堂は陣屋の書院を移築したものといわれている。

 幕末、各大名・旗本は財精的に破綻し江戸幕府は大政奉還し明治維新を迎える事となる。

 江戸時代の東老蘇の一端を後世に遺すため中山道道標二基とともにこの所に根来陣屋跡碑を建立した。

     平成十四年十月吉日 東老蘇町づくり実行委員会

【老蘇の森保全整備事業】

 史跡老蘇の森は昭和三十年頃まで落ち葉・枯れ枝・倒木等が各家庭の燃料として利用され、里山の機能を十分に果たしてきました。近年家庭の燃料がプロパンガスに転換せれると、森は放置されるようになりました。昭和三十四年伊勢湾台風による大被害の後、杉・桧が多数植樹されたが、手入れが行き届かず、虫害による立ち枯れが目立つようになった。このまま放置出来ないと、平成十八年「東老蘇まちづくりの会」に森部会を結成し、表記の事業を開始することとしました。この活動には滋賀県の「みんなで始めよう森づくり活動公募事業」の補助金及び地元有志の奉仕活動により展開してきました。この事業を通して史跡「老蘇の森を守る活動」を今後も続けて行く事と会員一同誓い合っています。

   尚、この看板は、老蘇の森の間伐材を利用しました。

     平成二十年二月 東老蘇まちづくりの会


【轟地蔵跡】 (右側) 9:40

 根来陣屋跡から街道に戻って、次の角から右に入る道を寺小路といい、奥に福生寺(ふくしょうじ)がある。この寺には轟地蔵が祀られているとのことだが私達は寄らなかった。

 そこから少し行くと轟橋を渡るが、その右側手前に轟地蔵の石碑と「轟地蔵旧跡と轟橋」の説明板が立っている。

轟地蔵旧跡と轟橋】

 現在福生寺に祭祀されている轟地蔵は中山道分間延絵図(重文 1806年)には、この場所に画かれている。平安時代の俗謡「梁塵秘抄」のなかに「近江におかしき歌枕 老蘇轟 蒲生野布施の池‥‥」と歌われ、その轟にあやかって名付けられた。轟地蔵は小幡人形の可愛いい千体仏で安産祈願のお地蔵さんである。

 慶応元年(1865年)の福生寺の絵図には轟地蔵の記載がなく、恐らく明治以後橋改修時に移したものと考えられる。往時轟川の川巾は狭く三枚の石橋が架かっていた。轟橋と呼ばれ、その橋石は現在、奥石神社公園地内に保存されている。

 近江輿地志略に掲載された轟橋の歌三首

    堀川百首  わきも子に近江なりせばさりと我文も見てまし 轟の橋  兼昌

    夫木集    旅人も立川霧に音ばかり聞渡るかなとどろきのはし    覚盛

    古 歌    あられふり玉ゆりすえて見る計り暫しな踏みそ轟の橋   読人不知

 この案内板及び轟橋の欄干は「創意と工夫の郷づくり事業」で設置されたものである。

     平成十二年一月吉日 東老蘇町づくり実行委員会


【杉原氏庭園】  滋賀県指定文化財 名勝 (左側)

 轟橋を渡ったすぐ左側に「杉原医院」があり、杉原氏庭園の説明板と「名勝 緑苔園」の立札が立っていたが、庭園は医院の後ろに建つ茅葺屋根の古民家の裏側らしく表からも横道からも見ることは出来なかった。

 残念ではあるが個人の庭園なので、そのまま立ちさることにした。

 この先も茅葺屋根の古い家が多く建っていた。


【道標】 (右側)  9:47

 5分程進んだ右側郵便局の所に小さな大連寺橋があり、橋の手前に小さな祠、渡った所に道標が立っている。道標の正面には「中山道 大連寺橋」、右側面に「内野道 右観音正寺 左十三仏」、左側面に「内野道 右八日市 左安土」、裏面に「中山道 東老蘇 右武佐宿 左愛知川宿」と刻まれていた。


泡子延命地蔵尊御遺跡】 【西福寺】 (右側)  10:13

  右側「鎌若宮神社」に続いて「東光寺」の門前に「建部伝内之遺跡」と刻まれた石碑、「亀川交差点」左側のポケットパークにベンチ、すぐ先右側のポケットパークに東屋がある。

 そこから少し先で用水路を渡るが、その右側に泡子延命地蔵尊御遺跡の石碑と説明板が立っていて、醒井宿の泡子塚と同じ伝説が書かれていた。

 少々奥まった所にあるので、東から来る人は見逃しやすい。

【泡子地蔵のいわれ】

 昔この地に村井藤斎という者が茶店を構え、妹が茶を出して旅人を休ませていた。

 ある日、一人の僧が来てこの茶店で休憩をしたところ妹はすぐに大変深くこの僧に恋をした。そしてこの僧が立ち去ると、僧の飲み残した茶を飲んだ。すると不思議やたちまちにして懐妊し、男の子を産み落とした。

 それから三年して、その子を抱いて川で大根を洗っていると旅僧が現れて嗚呼不思議なるかな、この子の泣き声が、お経を読んでいるように聞こえると言う。振り向いて、その旅僧を眺めると、三年前に恋をした僧であった。妹が前年の話をすると、その僧が男の子にフッと息を吹きかけたとたん、泡となり消えてしまったと言う。

 僧が云うに、西の方にある「あら井」というところの池の中に貴き地蔵があり、この子のために、お堂を建て安置せよ。

 現在は西福寺の地蔵堂に祀ってある。このことは西生来の町名の由来でもある。

 泡子延命地蔵尊御遺跡のすぐ先右側に西福寺があり、その山門に並んで地蔵堂が建っていて、中に泡子地蔵が祀られている。

 堂の上には「弘法大師御作」と題する説明文が掲げられていたが長文で字が小さいため判読しずらいので割愛するが、冒頭に『泡子延命地蔵大菩薩は弘法大師の御作として霊験あらたなり』とあった。

 


【武佐宿】 日本橋から124里10町(488.1Km)、京へ11里24町(45.8Km)
 天保14年(1843)で人口537名、総家数183軒、本陣1軒、脇本1軒、旅籠屋23軒。

木曽海道六拾九次之内 武佐 (広重)

 広重は、武佐の西方に流れている横関川(現・日野川)の舟橋を描いている。

 文化3年(1806)幕府が作成した「中山道分間延絵図」には「平常渡し場、小水之節ハ舟二艘ツナギ合セ舟橋トシテ往来ヲ通ス」と注記されていることから平常旅人はこの川を舟で渡り、水量が減ると川に杭を打って止めた二艘の舟の上に板を渡して作った舟橋を渡っていたことになる。

 

 日野川の渡し場付近。

後述の【横関川渡し跡】参照



【武佐宿 大門跡】 (右側)  10:24

 西福寺から9分、牟佐神社のすぐ手前に「武佐学区まちづくり協議会」が建てた「武佐宿 大門跡」の立札のみが立っている。


【牟佐神社】 【高札場跡】 (右側) 10:25〜10:35

 大門跡の隣に牟佐神社がある。境内のベンチで休憩。

 神社の左端には街道に面して「武佐学区まちづくり協議会」が建てた「武佐宿 高札場跡」の立札のみが立っている。

 神社の向かいは瓦屋根のお洒落な武佐小学校である。

【由緒】

 武佐は古へ牟佐村主の古地なれば牟佐上下の両社は平安朝の時代神威高く貞観元慶二度神位階を授けられし事三代実録に見ゆ。当社はその牟佐下神なりといふ。武佐は佐々木氏の時より宿駅として商売繁昌し市庭には商売店を列ね遠近の購客群集したり市庭に市神を祭りて商売繁昌を祈るは何れの市庭も同じ。市神として売人に福利を與へ給ひし事代主命を祭る所以を解すべし。明治九年村社に列す。祭礼は古へ三月十五日にして長光寺村及び下平木村(平田町)の三村合同の祭礼なりしが文化以後一村となれリ。明治以後四月十五日(現在は四月十五日に近い日曜)に祭礼を行ふ。

     近江蒲生郡志巻六より


【平尾家役人宅】  (右側)  10:40

 左側広済寺入口向いに 、二階が低い塗篭壁で格子造りの平尾家役人宅がある。


【明治天皇御聖蹟】 (左側)  10:40

 広済寺の入口に明治天皇御聖蹟と刻まれた石碑が、また、奥にも明治天皇行在所の碑が建っている。


【武佐宿脇本陣跡】 【馬頭観世音碑】 (右側)  10:44

 明治天皇御聖蹟のすぐ先にある武佐町会館が武佐宿脇本陣跡で、冠木門をくぐって中に入ると会館前の左側に馬頭觀丗音の石碑が立っている(バス停のポール後ろに見える石碑)

【中山道武佐宿 脇本陣跡】

 本陣の予備、補助的な宿泊、休けい所(元奥村家)

     1989年度 武佐小学校卒業生

【中山道牟佐宿 馬頭観音碑】

 街道を往来する馬の安全を願い伝馬組合が建てた碑。

     1989年度 武佐小学校卒業生

【武佐町会館建設用地について】

 長享元年(1487)、近江源氏の主流で有る佐々木一族が、現在の東近江市小脇町より近江八幡市金剛寺に金剛寺城を築城した後、それに伴い移住した佐々木一族の家人である谷家の分家が現在の東近江市中野町今堀よりこの地に御屋敷と云われる「谷殿館」が造られ繁栄する。(今も御屋敷の地名は残っている)

 その後、徳川時代に入り武佐宿繁栄の折は、奥村三郎左衛門が脇本陣として使用し、是又繁盛する。

 明治元年(1868)、文明開化の時代に入り、時の新政府の方針で町村制が実施、整理統合され、「武佐・西生来・長光寺・西宿・友定・御所内・南野(現末広)」と、少し遅れて「野田村」の八ヶ村が合併し新しく組織化され、明治二十二年四月(1889)、蒲生郡武佐村が誕生し、明治四十年八月(1907)武佐村役場が、この地に新設運営されて来た。その後、昭和三十三年(1958)戦後第一次村合併まで使用される。

 合併と同時に近江八幡市所有地となるが、平成十一年に国道421号線(八風街道)歩道改良工事の為、旧武佐町会館跡地とこの地の一部を等価交換して頂き、平成十二年、武佐町住民各位のご支援、協力に基づき現在の武佐町会館が建設されたものです。

     (文面一部近江蒲生郡志より)以上


【旧八幡警察署武佐分署庁舎】 国登録有形文化財 (左側)  10:46

 脇本陣跡の斜め向かいにある木造2階建の洋館が明治19年(1886)に建築された旧八幡警察署武佐分署庁舎

 日本人が設計した建物とのことだが、名称の立札だけで詳しい説明文は無かった。

 現在は西隣の「魚友楼」に払い下げられ、「魚友楼洋館」となっているとのことである。


【ポケットパーク】 (右側)  10:50

 「武佐町交差点」右角にポケットパークがあり、東屋、新しい灯籠、武佐宿の案内板が立っている。

 灯籠には、正面に「中山道六拾七番宿場武佐宿」「右 東京 約460KM」、左面に「火の用心」「右 いせ 約120KM」と刻まれていたが、他の面は確認しなかった。

 案内板には象の絵が描かれていた(下の写真参照)

ここは中山道 第六十七番 宿場 武佐宿です

 武佐は昔「牟佐」又は「身狭」の字を使ったが江戸時代頃よりこの「武佐」をつかう。

 蒲生郡第一の賑わいをみせ 中山道の大きな驛として 人馬の継立は人夫五十人 馬五十駄を常設、本陣、脇本陣各々一、問屋二軒を有し旅籠は二十三軒あったと言われる。

 この絵圖は享保拾参年(1728年)六月に輸入された象が翌年(1729年)三月 大阪、京都、大津を経て、この武佐宿で一泊した時の様子で、ここは象の通った道として知られている。

 (この資料は近江蒲生郡志、東京国立博物館所蔵関西大学図書を参考に、原画は近江八幡市立東中学校の生徒作品です)


【大橋家住宅】 (左側)  10:52

 「武佐町交差点」で国道421号線を渡ったすぐ左側に大橋家住宅が建っている。

 (写真は、手前の家でなく、奥の家が大橋家)

 こちらも先の平尾家役人宅と同じように、二階は低く塗篭壁で造られていた。

【中山道武佐宿 大橋家 商家・役人宅】

 米、油などの商家、又武佐宿場の伝馬、人足取しまり役人、裏に名園あり。

     1989年度武佐小学校卒業生


【武佐郵便局・書状集箱】 (右側)  10:53

 大橋家住宅の隣で武佐郵便局の前は、街道てくてく旅で勅使河原さんが宿泊した中村屋旅館があったはずだったが、何故か更地になっていた。

 廃業してしまったのかと残念な思いをしたが、帰宅後調べたところ、2010年12月10日に全焼してしまったとのことである。

 武佐宿が開かれた当初から創業していたと云う由緒ある建物だったので惜しい限りである。

 郵便局の前には書状集箱が置かれて、次の文章が書かれていた。

【お知らせ】

 近江八幡市武佐町は、中山道の宿場町として栄え、多くの旅人が往来した町であります。武佐宿としての景観づくりのため、郵便局や書状集箱(郵便ポスト)も往時の様式を模したものとしました。皆様のご利用をお待ちしております。

     平成九年七月十四日 武佐郵便局


下川家本陣跡・本陣門】 (右側)

 武佐郵便局下川家本陣跡で、現在は郵便局の左に本陣門のみ残っている。

 下川家はそのまま十字路まで続き、そこから右の道を見ると更に奥まで屋敷が続き、さすが本陣家だけに広大な敷地であることが分かる。

【中山道武佐宿 本陣跡 下川家】

 公家、幕府役人、大名、武士の宿泊休憩所。

     1989年度武佐小学校卒業生


八風(はっぷう)街道道標】 (左側) 10:56

 十字路左角に八風街道道標が立っていて、「いせ ミな口 ひの 八日市 道」と刻まれている。

 八風街道は武佐宿を起点として鈴鹿山脈の八風峠を越えて伊勢に至る街道で、近江地方に海産物を運んでいた。


【松平周防守陣屋跡】 (左側) 11:00

 八風街道道標のすぐ先にある民家は松平周防守陣屋跡で、ここにも武佐小卒業生手造りの名称だけの案内板が掲げられていた。

 家の右側には、立派な石灯籠と愛宕山の石碑が立っている。

 この辺りは川越藩の飛び領地だったことから、管理のために藩主松平周防がここに陣屋を置いた。

 また、この辺りの大きな屋敷は皆奥が深かった。


【西の高札場跡・愛宕山常夜燈】 (左側) 11:05

 松平周防守陣屋跡から5分程の所に、何やら石碑と愛宕山常夜燈が立っており、ここが西の高札場跡だった。

 左の電信柱に武佐小卒業生の案内板が掲げれており、これが最後の手造り案内板となる。

【中山道武佐宿 高札場跡】

 おきてを書いた板をかかげたやぐらのところ

     1989年度武佐小学校卒業生


【伊庭貞剛(いばていごう)翁誕生の地】 (右側)  11:11

 高札場跡の先で近江鉄道武佐駅に突き当たり、街道は右に、すぐ左に曲がる枡形道になっている。

 枡形道を抜けて3分程進んだ若宮神社前に「いばecoひろば」と名付けられた広い公園があり、街道側にクスノキの巨木が聳えていて、東屋もある。

 ここは伊庭貞剛の広大な屋敷があった場所で、クスノキの前に伊庭貞剛邸の説明板と伊庭貞剛翁誕生の地の看板が立っている。

【伊庭貞剛邸】

 伊庭家は近江守護佐々木家の流れをくむ名家である。屋敷は中山道沿いに長屋門を構え、広大な屋敷を有していたが、近年建物は解体され、楠の巨木が往時を偲ばせる。伊庭貞剛は、ここ蒲生郡西宿村(現:近江八幡市西宿)の出身である。出生は弘化4年(1841)1月5日。文久元年(1861)15歳の時、八幡町児島一郎の道場に通って剣を学び、21歳で免許皆伝を許されている。また、文久3年(1863)尊王家西川吉輔の門に入る。

 明治元年(1868)22歳の時、西川吉輔に招かれて上京し、京都御所警備隊士となる。さらに、同7年北海道函館裁判所に勤務。明治10年、大坂上等裁判所に判事として転任するが、明治政府の方針に期待を持てず裁判所を辞めた後、明治12年、大坂住友にいた叔父広瀬宰平の薦めにより、住友家に入社し明治13年には大阪支店の支配人となる。

 明治27年(1894)煙害問題解決のために、決意して四国別子銅山支配人として赴任。当時、新居浜は、製錬所の煙突から出る亜硫酸ガスが周辺の農作物に害を及ぼす深刻な事態になっていた。彼は製錬所を沖合の四阪島に移転する計画を進める一方、荒廃した別子銅山周辺の山々に一大植林計画を立てて実行に移し、着任5年目の明治32年、製錬所の移転や植林に目途をつけ別子を離れる。

 明治33年(1900)住友家総理事に就任するが、58歳の若さですべての職を辞し、石山に「活機園」を建てて隠退する。大正15年(1926)10月23日に80歳の生涯を閉じ、故郷西宿に妻梅子とともに眠る。

 付け加えると、銅山開発で荒れた山を植林という環境復元にも力を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者と云われている。これらの山林は、後に設立された住友林業によって管理されていく。


【住蓮坊安楽坊御墓碑】 (左側) 11:32

 旧中山道はこの先の「西宿町交差点」で国道8号線に合流する。合流して歩道の無い国道を怖い思いをしながら歩くこと12分、「六枚橋交差点」を左折して、次の丁字路を右折する。

 右折してすぐ左側の道端に住蓮坊安楽坊御墓 是よ里三丁と刻まれた石碑が立っているが、垣間から田畑の奥に塚が見えても、ここから行く道はなかった。

 その先住蓮坊首洗い池があるとのことだが、見逃したのは、かなり前からお腹がすいて食事処ばかりを捜していた為、目に入らなかったのかもしれない。


<昼食> 11:35〜12:20

 やっと見つけたのが、国道8号線との間にある焼肉の「味楽亭」だった。しかし、今晩予約したホテルは焼肉屋が経営していて、夕食は焼肉定食を予約している為、同じでは困ると思いながら入ったが、ビビンバがあったので取り敢えず良かった。


【千僧供(せんぞく)古墳群・住蓮坊古墳】 滋賀県指定史跡(昭和59年3月30日指定) (左奥) 12:32

 元に戻り、旧道と国道が接する所を左折して田圃の間の道を進むと、左手奥に古墳が見える。住蓮坊古墳と呼ばれているが、本来は千僧供古墳群の一つで、食事前に見た石碑が示す住蓮坊と安楽坊の墓が江戸時代に古墳の上に作られたことからこの名で呼ばれている。

 古墳の上には、住蓮坊と安樂坊の墓が並んでいる。

 説明板と併設されている千僧供町の絵地図を見ると、跡も含め広範囲に多数の古墳が点在していることが分かる。

 住蓮坊古墳は、千僧供古墳群の東北方に位置し、墳丘径五十三メートル、堀を含めると径九十三メートルにもおよぶ県下でも最大級の円墳である。

 墳丘は段築の痕跡を有し、比較的良好に遺存しているが主体部などは不明である。また、現在のところ、外部施設である葺石・埴輪などは認められていない。

 堀の部分からは、古式の須恵器が出土しており、その形態の特徴から西方に位置する供養塚古墳よりもさらに古い時期(五世紀中頃)に属する在地の首長墓として位置づけられる。

     平成二年三月 滋賀県教育委員会

【住蓮坊・安楽坊について】

 当時、貴族や権力者だけのものであった仏教を、浄土宗元祖の法然上人がすべての人は平等で「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば救われると説いたので、庶民、特に救いの対象から漏れていた女性達に広く受け入れられた。

 このような中で、後鳥羽上皇の寵愛を受けていた女官の松虫と鈴虫が、上皇が熊野神社参詣の留守中に御所から抜け出して念仏法会に参加する。この時、法然の弟子の住蓮坊・安楽坊の説法を聞き、二人に決死の出家受戒を願い出た。両僧侶は上皇の許しが必要と一度は思い止らせたが、強い希望でついに松虫・鈴虫を剃髪した。

 これを知った上皇は激怒し、念仏教団の弾圧を企て、法然と弟子の親鸞聖人を流罪、住蓮坊をここ近江国馬渕(現・滋賀県近江八幡市千僧供町)で、安楽坊を京都六条河原で打ち首にした。

 これを「承元の法難」という。

 ちなみに2011年は、法然没後800年、親鸞没後750年に当たる。


【八幡(はちまん)神社】 国指定重要文化財(大正12年3月28日指定) 【高札所跡】 (右側) 12:50〜12:55

 国道8号線に戻って12:40。この先の国道は安心して歩ける歩道があった。

 途中白鳥川に架かる「千僧供橋」を渡り、「馬淵町交差点」を越えた右に八幡神社がある。

 八幡神社の入口には高札所跡の石柱が立っている。

【由来】

 神社の創立については詳らかではないが、社伝によれば白河天皇の時代に源義家が奥州軍征の途中 この地に霊験を受けたとことにより応仁天皇の霊を勧請して武運の長久を祈願し八幡社の造営をしたとある 以降 この地の領主佐々木一族馬淵氏の庇護を受け 中世の中頃には犬上主大岡保正により社殿が再建されたがのち元亀二年(1571)織田信長の兵火によって焼失したため 文禄五年(1596)保正の子孫大岡作左衛門長広が改めて再建したものが現在の本殿であると伝えられる なお本殿は昭和四十年(1965)に解体修理されたものである

【八幡社本殿】 (左の写真)

 八幡神社は、応神天皇の霊を勧請して武運長久を祈願したのがはじまりで、その後、元亀二年(1571)信長の兵火にあい社殿は焼失する。祭神は応神天皇を祀る。

 現在の本殿は、兵火後の文禄五年(1596)に完成したもので、形式は三間社の流造、向拝は一間(ただし母屋の三間分に等しい)が付く、県内の三間社には、母屋正面庇に前室を備えた流造が多いが、この本殿は古来からの流造形式を残している。

 建物は総丹塗りで、手挟などの彫刻には彩色が施され、桃山時代を代表する華麗な三間流造の本殿である。

     昭和六十三年三月 滋賀県教育委員会


【横関川渡し跡】 13:18

 旧中山道は八幡神社前から右斜めの道へ入って行く。

 馬淵町集落を過ぎ、途中茅葺屋根の民家が一軒のみ建つ田圃の中を進み、「東横関町交差点」から更に8分。やがて日野川(旧横関川)の土手に出た所が横関川渡し跡で、往時はここから対岸まで舟渡しであった。

 また、ここは広重が浮世絵「中山道六十九次の内・武佐」を描いた場所で、浮世絵が挿入されている説明板が立っている(浮世絵と現代の写真は上述【武佐宿】を参照)

【中山道六十九次の内・武佐】

 中山道は別名「木曽海(街)道」とも呼ばれていた。その中山道六十九次の第六十七番目が武佐宿である。この絵は浮世絵師安藤広重が武佐の西にある日野川(横関川)の舟渡しの様子を描いたものである。

 文化3年(1806)幕府が作成した「中山道分間延絵図」には「平常渡し場、小水之節ハ舟二艘ツナギ合セ舟橋トシテ往来ヲ通ス」と注記されていることから平常旅人はこの川を舟で渡り、水量が減ると川に杭を打って止めた二艘の舟の上に板を渡して作った舟橋を渡っていたことになる。

 そうして、広重は大助郷の東横関村をあえて武佐としたと考えられる。日野川のこの場所に、橋が架かったのは明治8年(1875)のことであり、明治19年(1886)には無賃通行となり、それから明治26年(1893)に新調されたが、道路は中山道から国道8号となり、その新道として昭和12年(1937)近代的な横関橋が、この上流に架橋され、旧い橋はその2年程後に撤去された。

 現在も、ここから日野川をはさむ両側には、かつての中山道の道筋が旧道として残っている。また、河原に下れば、かつての旧道の橋の名残りも確認できるので、往古の情景を思い浮かべていただきたい。


【道標】 (左側) 13:52

 現在、横関川の渡し場付近には舟も橋も無いので、土手沿いに時計周りに470m程回って国道まで出て、横関橋を渡る。横関橋を渡ったらすぐ右の土手沿い道に入り、先ほどの横関川渡し跡説明板の対岸に出る。但し、この道の入口に鎖が張られていて、下記の注意文が掲げられている。

  注意 ゴミ等の不法投棄防止のため河川管理道の通行を制限します

       河川へのゴミ投棄は法律により禁じられており、違反者は罰せられます。

           八日市土木事務所

 街道ウォーカーとしてゴミを捨てるなど考えてもいないし、制限という事で入らせて貰った。

 そのまま若宮神社の前を通り「西横関交差点」で再び国道に合流する。

 その交差点左角に道標が立っており、正面に「是よりいせみち」、右側面に「ミなくち道」と刻まれている。ここから現在の国道477号線を南下して東海道の水口宿を通って伊勢参りに行く道が「いせみち」である。


【間の宿・鏡宿・旅篭跡】 

【旅篭 亀屋跡】 14:00 【同 京屋跡】 14:02 【同 冨田屋跡】 14:03 【石仏群】 14:06 (全て旧道の右側)

 善光寺川橋を渡った先で、左斜めの道を進むのが旧中山道で、入った集落は「鏡」といい、往時は間の宿であった。旧道沿いには旅籠屋跡の案内板が3箇所立っていた。

 江戸時代 鏡の宿(中山道) 旅篭 亀屋跡(京屋跡・富田屋跡)

     平成二十三年一月 鏡の里保存会

 鏡の集落も7〜8分で国道に戻ってしまうが、国道に合流する手前の右側に例の前掛けを掛けた小さな石仏沢山並んでいた。

【同 吉田屋跡】 14:08 (国道右側) 【同 吉野家跡】 14:08 (国道左側) 【同 桝屋】 14:12 (国道右側)

 国道沿いにも上と同じ旅篭屋の案内板が3箇所立っていた。

 国道に戻ったすぐ右側の民家の庭に吉田屋跡、その向かいの「鏡口」バス停の脇に吉野家跡、その先右側空地に桝屋跡


【徳化学校跡】 (左側) 14:13

 桝屋跡のすぐ先左側に「大願寺」があり、その寺の標柱の後ろに徳化学校跡の案内板が立っている。

 学校制度ができ明治八年十一月二十二日大願寺徳化学校が開かれ 鏡村、横関村の子供が教育を受けられるようになったのち、明治十一年鏡神社の東隣に専用の校舎を新築し移転した。

     平成二十年十二月 鏡の里保存会


【鏡郵便局取扱所跡】 (右側) 

 徳化学校跡の向かい側に鏡郵便局取扱所跡の案内板が立っている。

 自 明治七年四月一日

 至 明治四十三年五月三十一日

 明治十九年四月 鏡郵便局と改称

     平成二十三年一月 鏡の里保存会


【源義経宿泊の館跡】 (右側) 14:16

 鏡郵便局取扱所跡に続いて右側の広場奥に源義経宿泊の館跡と刻まれた石碑と旗が立っている。

義経宿泊の館】

 沢弥伝と称し旧駅長で屋号を白木屋と呼んでいた

 牛若丸はこの白木屋に投宿した 義経元服の際使用した盥は代々秘蔵して居たが現在では鏡神社宮司林氏が保存している

 西隣は所謂本陣で 元祖を林惣右衛門則之と称し新羅三郎義光の後裔である その前方国道を隔てて脇本陣白井弥惣兵衛である

     鏡景勝会建立


【本陣跡】 【駐在所跡】 (右側) 

 源義経宿泊の館跡の隣にある民家の庭の左角に本陣跡、それに並んで空地の前に駐在所跡の案内板が立っている。

 江戸時代 鏡の宿(中山道)

 本陣跡

 元祖 林惣右衛門則之也

     平成二十年十二月 鏡の里保存会

【駐在所跡】

 明治十四年十月十四日 鏡分署と称して設置された 近江八幡警察署に属する 当時は金山力松氏宅をこれに充てられた

 明治十五年十月鏡交番所と改称される

 明治十八年十月十九日 鏡村外三十一ヶ村にて新築(国道八号線沿い本陣跡の西隣)し寄付される

 その後 明治二十二年一月一日 武佐警察署下鏡巡査駐在所と改称する。

 昭和二十三年頃駐在所から警察の官舎となり 昭和三十年頃まで使用されていた

     平成二十三年一月 鏡の里保存会


【脇本陣跡】 (左側) 

 本陣跡向かいの民家の塀の内側に脇本陣跡の案内板が立っている。

 江戸時代 鏡の宿(中山道)

 脇本陣跡

 白井 弥惣兵衛

     平成二十三年一月 鏡の里保存会


【徳化学校跡】 (右側) 14:23

 鏡神社すぐ手前の道角に、もう一つの徳化学校跡の石柱が立っている。

 ここが明治十一年に専用の校舎を新築し大願寺より移転した場所と思われる。

 明治五年の学校制により西横関鏡山面の学童教育施設として同八年(以下草に隠れて見えなかった)

 同十九年九月簡易科鏡小学校に改まり同年廃止


【鏡神社】 (右側) 14:23〜14:3

 鏡神社の本殿は石段を登った上にあるが、街道入口から一段上がった左に、義経が烏帽子を掛けたと云われる松の幹のみ残っている(左の写真で屋根が被っている幹)

【源義経烏帽子掛けの松】

 承安四年(1174)三月三日 鏡の宿で元服した牛若丸は、この松枝に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願したのであった。

 明治六年(1873)十月三日 台風により折損したため幹の部分を残して保存し後世につたえるものなり

     平成二十三年一月 鏡の里保存会

【謡曲「烏帽子折」と鏡神社】

 謡曲「烏帽子折」は、鞍馬山を脱出して奥州に向かった牛若丸が、その途次での元服の地鏡の宿と、盗賊退治をした赤坂の宿での出来事を一続きにして構成された切能物である。

 この鏡神社は、平家のきびしい追手をのがれるため東男に変装し、俄に左折りの烏帽子を作らせて、自らを源九郎義経と名乗って元服したところと伝えられている。

 即ち、謡曲「烏帽子折」の前半の場面の舞台となった所である。

 此の地を出立の後、赤坂の宿で熊坂長範に襲われるが、これを退治して奥州へ下った勇壮な謡いが後半の場面となっている。この二つの全く異った二つの場面は、牛若丸の守刀「こんねんどう」によってつながりを見せている曲なのである。

     謡曲史跡保存会

【鏡神社由緒】

 当神社の創始年代は不詳であるが、主祭神天日槍尊は日本書紀による新羅國の王子にして垂仁天皇三年の御世(BC31)来朝し多くの技術集団(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)を供に近江の国へ入り集落を成し、吾国を育み文化を広めた祖神を祀る古社である。

 天日槍は持ち来る神宝の日鏡をこの地に納めたことから「鏡」の地名が生まれ、書記にも「近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり」と記されている。鏡山の麓は渡来集団に関わる地名も多く須恵器を焼いた古窯址群も広く現存する。

 延喜の御世には大誉会に鏡餅を献上した火鑽の里であり、鏡路は鏡山と共に万葉の歌枕として百五十余首詠まれ、宮廷巫女の歌人額田王や鏡王女に所縁の地である。現社殿は室町時代に再建された三間社流れ造りにして屋根は「こけら葺き」の貴重な建築様式は国の重要文化財である。

 承安四年(1174)牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬から奥州への旅路、この鏡の宿に泊り境内宮山の岩清水を盥(たらい)に汲み自ら烏帽子をつけ元服した。鏡神社へ参拝した十六歳の若者は「吾こそは源九郎義経なり」と名乗りをあげ源氏の最高と武運長久を祈願した武将元服の地である。以後岩清水は源義経元服池と称し現在も清水を湛えている。義経公を偲ぶ「とがらい祭り」は十一月二の午夕刻に男児を主役に斎行される。

 大正六年、当地宮城一帯における特別大演習を大正天皇御統監のみぎり鏡神社宮山に行幸あそばされ、御親拝の栄に浴す。以後宮山を御幸山と称し、自然公園として管理される。飛地境内の鏡山は山頂に近江の総社龍王宮を祀り七月十日を例祭とする。

 鏡山はここから南、直線距離2.2Kmの所にある。

【鏡神社本殿】 重要文化財(明治三十四年八月二日指定) 

 神社の創立は古代にさかのぼると伝えられ、祭神は天日槍命(あめのひぼこのみこと)を祀る。

 現在の本殿は、室町中期に建てられたもので、滋賀県の遺構に多い前室付三間社本殿。蟇股を多用し、屋根勾配をゆるくみせる外観は優美である。

【鏡神社宝篋印塔】 重要文化財(昭和三十五年二月九日指定) 

 宝篋印塔は、この境内より西南方約五百メートルの山裾、西光寺址といわれる林の中に建っている。鎌倉時代中期に建てられたもので、軸石の四隅に鳥形を造りだした形態の優れた作品である。

【石燈籠】 重要文化財‘(昭和三十七年六月二十一日指定) 

 応永廿八年辛丑八月八日(1421)の銘がある。

     昭和六十三年三月 滋賀県教育委員会


【道の駅】 (左側) 14:35〜14:55

 鏡神社の斜め向かいに道の駅 竜王かがみの里があり、ここで休憩。


【義経元服の池】 (右側) 14:55

 道の駅の向かいに義経元服の池がある。

 父は尾張の露と消え 母は平家に捕へられ 兄は伊豆に流されて おのれ一人は鞍馬山と歌へれし不遇の児 牛若丸は遮那王と称して鞍馬山に仏道修業していたが 十一歳の時母の訓戒により祖先の系図に感じ平家を滅ぼし父の遺志を達せんと堅い決意を抱いた

 それより後は昼は書を読み文を習ひ夜は僧正谷にて一心に武術に励み 時の来るのを待っていた 京都の天満宮に日参して源氏の再興を祈ったのもこの頃の事であった

 時に奥州と京都を往還する金売商人吉次に語ひ承安四年三月三日の暁(昭和四十一年より七百九十二年前)住み慣れた鞍馬山に別れを告げ機を見て兄頼朝に謁せんと 憂き旅の東下りの途につき吉次 下総の深栖陵助頼重等と共にその夜鏡の宿につき 吉次の常宿白木屋に投宿することになった

 牛若丸つらつら考へるに道中安全を期するには元服し東男に粧ふに若くはないと 吉次 陵助と語り元服に際して烏帽子親として五郎太夫三番の左折りにして烏帽子を進めた 其の夜この池の清淨水を汲み取り 前髪を落飾し源九郎義経と名乗った 時に年十六歳 これが元服池の由来である かくて烏帽子を戴き源氏の武運長久を鏡神社に祈った 当地こそ武人としての義経出生の地である

     鏡神社勝会建立


【明治天皇聖蹟】 (左側) 15:00

 旧中山道は義経元服の池の前から左斜めの道を入ってゆく。

 旧道に入るとすぐ左側に明治天皇聖蹟の大きな碑が建っている。

 刻まれている文字は、公爵近衛文麿の書である。

 この碑が建っている辺りから野洲市に入る。


【中山道の説明板】 (右側)

 明治天皇聖蹟から3分程進んだ右側の生垣の前に中山道の説明板が立っていた。

 中山道は江戸時代より日本五街道の一つとして、重要な役割を果たした。昭和十年頃まで国道としての役割を果たしていた。

 ここから数百mの家並み通り、鏡へと通じる道路は古い中山道の面影を留めている。古代に造られた日本の幹線道路、東山道には、篠原に駅(うまや)家が置かれ、十五頭の馬が配備され、篠原駅として、宿場と共に栄えていた。

 東山道の位置は、この付近では、中山道と同じ位置で、鏡へと通じていたと考えられる。

 鎌倉時代頃より篠原宿は衰え、宿場は鏡の方に移っていった。

     野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会


【平宗盛終焉之地】 【蛙不鳴池および首洗い池】 左奥) 15:10

 旧道が国道8号線に合流する所にあるガソリンスタンドの先、「(株)キョウエイ」手前に「平宗盛胴塚→」の案内板が立っているので、ここから左に細い草道を100m程進むと、平宗盛卿終焉之地と刻まれた石碑と二躰の石仏が立ち、後ろには小さな塚がある。

 この西側に、現在は小さくなってしまったと言う、蛙不鳴(かわずなかず)が見える。

【平家終焉の地】

 平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲市である。

 平家最後の最高責任者平宗盛は源義経に追われて1183年7月一門を引きつれて都落ちした。西海を漂うこと二年、1185年3月24日壇ノ浦合戦でついに破れ、平家一門はことごとく入水戦死した。しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都に向った。

 途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将宗盛とその子清宗を斬った。そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。

 父清盛が全盛の時、この地のために掘った祇王井川がいまもなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは宗盛父子にとっても野洲町が日本中のとこよりもやすらぐ安住の地であろう。

 現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。

     野洲市観光物産協会

【蛙不鳴池および首洗い池】

 西方に見える池を蛙不鳴池と云い、この池は、元暦二年(1185)源義経が平家の大将、平宗盛とその子清宗を処刑した時その首を洗った「首洗い池」と続きで、以後、蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、蛙鳴かずの池と呼ばれている。別名、帰らずの池とも呼ばれ、その池の神が日に三度池に影を映されたのに、お帰りを見た事がないとの言われからである。

 昔は横一町半(約165m)、長さ二町(約220m)あった。

 首洗い池は、蛙不鳴池の東岸につながってほぼ円形をしていた。

 最近までその形を留めていた。

     野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会


【東池】 (左側) 15:23

 国道に戻り、蛙不鳴池の横を通ってやや下って行くと左側に東池が見えてくる。

 旧中山道は東池の西端「浄勝寺前交差点」から右斜めに入る。

 (写真で、東池の奥に見える大きな屋根が「浄勝寺」)

 旧道は8分程で再び国道に合流するが、その少し手前に前の旧道に立っていたのと全く同じ中山道の説明板が立っていた。

 説明板の後ろには小さな祠が建っていた。


【篠原堤と西池】 (左側) 15:36

 国道に合流すると、左手に篠原堤と呼ばれる長い堤防が現れる(右下の写真)。堤の上に上ると大きな西池が二つ並んでいるのが見られる(左下の写真)

 少し進んだ左側バス停に西池の説明板が立っていた。

【西池】

 大篠原最大の用水池で、昔、雄略天皇の御代(413年頃)近江国に四十八個の池を掘らせた時の一つと言われている。

 下にある約九十町歩の田畑の灌漑用に、昔から大きな役目を果たしている。

 この西池の長い堤が、源平盛衰記に出てくる篠原堤であるとの説もあるが定かでない。

 さかなの養殖用や、淡水真珠の養殖用に使われたことがある。

     野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会


【愛宕山石碑と常夜燈】 (右側) 15:53

 「小堤交差点」を過ぎ、小堤バス停前にある「高谷石材店」より右斜めの道へ入る。

 旧道に入って4分、家棟川(やのむねがわ)手前のポケットパークに愛宕山の石碑常夜燈が二基建ち、かつて天井川だった家棟川の『砂防事業の概要』が掲示されていた。

 また、家棟川を渡った篠原神社手前にも『隧道の歴史』が掲示されていた。

【家棟川砂防事業の概要】

 上流の山は風化の進んだ花崗岩質の地質性状なため、出水時には大量の土砂が流れ出し、家棟川は河床が周辺地盤より高い「天井川」を形成していました。そのため、過去幾たびかの堤防決壊等により大きな被害も生じており、治水安全度が極めて低い状況でした。

 この家棟川による被害から住民のみなさんの生命・財産を守るため、平成7年度より整備を進め、国道8号の上部を通過していた「天井川」の河床を最大10m切下げ、平成19年度に平地河川化が完了し、家棟川の治水安全度は大きく向上しました。

【家棟川と隧道の歴史】

 時の流れは、この場所に様々な変化をもたらしました。

 ここには、現在と異なり、川底が周辺家屋の棟の高さまでにもなった「天井川」の家棟川が流れていました。そのため、ここを通行する人々や車馬は堤防に上がり大変な苦労をしながら川を渡っていました。

 大正6年(1917)の大正天皇陸軍大演習視察の行幸にあたり、「天井川」の下に突貫工事でトンネルが掘られました。しのトンネルは「家棟隧道」と名付けられました。

 以来、「家棟隧道」は、昭和28年の国道8号の開通まで中山道として国土の幹線軸の一端を担ってきましたが、家棟川の切下げ工事を機にその歴史的な価値を惜しまれつつも、通行の安全性に配慮して撤去されました。

「天井川」とは・・・

 主に江戸時代、上流の山地部で多くの樹木が伐採されましたが、伐採後の植林等の適切な処理がされなかったため、山地が荒廃して、土砂(風化した花崗岩)が豪雨のたびに下流部へ流失して、川底が上昇してできたものと考えられています。


【子安地蔵堂】 (右側) 16:07

 篠原神社前を過ぎ、辻町に入ると右側に白壁の長屋門、次いで信号のある交差点を渡った左側に焼杉の綺麗な塀を持つ大きな家などが見ながら進むと、左側辻町自治会館のすぐ先右側に子安地蔵堂がある。

【地蔵菩薩(子安地蔵)】(野洲町大字辻)

 往時、この地方は比叡山三千坊に数えられた数多くの巨刹があり、その中に天台系嘉祥寺に安置され、元亀の兵火をまぬがれたのがこの地蔵菩薩像である。

 極彩色等身大にして蓮台に腰をかけ、左手を垂下し、右足を曲げて左膝に置き、左手に薬玉を、右手に錫杖を持ち、材は桧と思われる。眉間に水晶製白毫をはめ、目は彫眼で表し、丸顔でふくよかな顔つきや丸みのある体躯、彫りの浅い衣文など平安時代末期(十二世紀)の造像と考えられる。

 秘仏となっているが安産祈願の子安地蔵として近隣の信仰篤く、毎年一月、八月の縁日には開扉される。

     野洲町観光協会


【桜生(さくらばさま)史跡公園】 (左側) 16:17〜16:39

 子安地蔵堂を後にして、旧中山道が新幹線に接する所の左側一帯が、大岩山古墳群が見られる桜生史跡公園である。

 入口事務所(ガイダンス施設)に資料とトイレがある。所要時間は3つの古墳を見学して一周15分から、ゆっくり見て20分程である。

 入園して左から時計回りに進むと、円山古墳・天王山古墳・甲山古墳の順に見られ、甲山古墳から旧中山道に出られる。

  開園時間 9:00〜17:00(入園は16:30まで)

  休 園 日 毎週月曜日・祝日等の翌日・年末年始(12月27日〜1月5日)

  入   園 無料

円山古墳

【桜生史跡公園】 国史跡 大岩山古墳群

 大岩山古墳群は、野洲町冨波・辻町・小篠原一帯の大岩山丘陵を中心に立地し、冨波(とば)古墳、古冨波山古墳・大塚山古墳・亀塚古墳・天王山古墳・円山(まるやま)古墳・甲山(かぶとやま)古墳・宮山二号墳の8基が国史跡に指定されています。

 ここ桜生には全長50mの前方後円墳である天王山古墳、直径28mの円墳である円山古墳、直径約30mの円墳である甲山古墳、いずれも近江を代表する後期古墳です。

 古墳の一部が崩れたために1994(平成6)年から文化庁・滋賀県教育委員会の補助を受け、保存のため発掘調査と整備を行い「桜生史跡公園」として公開することになりました。

     1999(平成11)年3月 野洲町教育委員会

 私達は始めの二つの古墳は下から見上げただけで確認していないが、最期の甲山古墳では、柵がある石室入口に近づくと内部が自動点灯するようになっていて、石棺が置かれた玄室を見ることが出来た。また、説明のアナウンスも流れる。

甲山古墳

【甲山古墳】

 標高110mの丘陵先端につくられた6世紀前半の円墳で、直径約30m、高さ10mの規模をもち、内部には西に開口する横穴式石室があります。

 整備前は、部屋(玄室)手前の天井石が落下しており、内部に大量の土砂が堆積していました。また、墳頂部も陥没し、墳丘盛土も流出しつつあり危険なことから、通路(羨道)の石組みを積み直し、墳丘盛土についても復元整備を行いました。

 石室は、奥に向かって下がっている通路(羨道(せんどう))があり、部屋(玄室)は、奥から見て右側に袖をもち、長さ6.8m、幅2.8m、高さ3.3mの規模で、床面には玉石が敷き詰められています。中央部には、長さ2.6m、幅1.6m、高さ約2mの熊本県宇土半島の凝灰岩でつくられた家形石棺を安置しています。

 整備に伴う発掘調査によって装身具(金糸、銀製くちなし玉、空玉、碧玉製切子玉、ガラス玉)、鉄製の武具(甲冑、太刀、矛、鏃、小刀)、馬具(金銅製鏡板付轡、金銅製透彫入雲珠。馬甲)などが出土し、特に金糸や馬甲は珍しいものです。

甲山古墳・玄室

 以下は、事務所で貰った「小学校高学年・中学生用資料」より

 天王山古墳は、前方後円墳で、長さ50m(後円部の長さ26m、前方部の長さ24m)、高さ8mです。発掘調査で西に入口をもつ小さな横穴式石室が見つかりました。

 円山古墳は、6世紀はじめに造られた円墳で直径28m、高さ8mです。西に入口を持つ横穴式石室があります。西に入口がある横穴式石室は玄室(古墳に埋葬された人を安置する石の部屋)と羨道(通路)からなり、石室の長さは10.8mあり、玄室は長さ4.3m、幅2.4m、高さ3.1mです。玄室からは熊本県宇土半島から運ばれた朱で赤く塗られた家形石棺と大阪と奈良の境にある二上山から運ばれた組合式家形石棺がありました。出土遺物は、玄室の床から鉄製武器がたくさん出土しています。ほかに、銀製の耳飾や冠の飾り金具、銀製空玉、ガラス玉など、大刀や鹿の角の柄をもつ小刀、矛(ヤリ)、鉄鏃(てつぞく)、鎧や冑、弓矢を入れる胡籙(ころく)、馬に着ける鞍や轡・鐙なども出土しています。

 甲山古墳は、6世紀中頃に造られた直径約30m、高さ8mの円墳です。西に入口がある横穴式石室があります。石室の大きさは全長14.3mで、玄室は長さ6.6m、幅2.9m、高さ3.3mです。玄室の中央には朱とベンガラで赤く塗られた熊本県宇土半島から運ばれた家形石棺を安置し、床には玉石を敷き、その上には雲母が散乱していました。副葬品には冠や大刀の鞘の飾金具、金の糸、山梔(くちなし)玉、切子玉、棗(なつめ)玉、ガラス玉などがあります。武具類は大刀、小刀、矛、鉄鏃、鎧などがあり、鞍などの馬具や日本ではめずらしい馬のヨロイなどが出土しています。しかし、多くの副葬品が入っているはずの石棺の中には、むかし墓泥棒が荒らしたため小さなガラス玉2個しか残っていませんでした。

 古墳は、3世紀中ごろから卑弥呼(邪馬台国の女王)のような王が日本各地に登場し、王の墓として大きな古墳が造られると考えられます。

 弥生時代は地域社会のつながりが強かったのですが、古墳時代は強い力をもった王を中心とした社会に変わり、ヤマトの大王を中心に日本の国が形作られる時代です。

 野洲市では3世紀の中ごろに冨波古墳が造られ、ヤマトの大王から送られた銅の鏡(三角縁神獣鏡など)が出土した古冨波山古墳、大岩山古墳、大岩山二番山林古墳が3世紀の終わりに造られています。

 天王山古墳・円山古墳・甲山古墳が造られた時代は6世紀のはじめから中ごろだと考えられています。

 6世紀は継体大王(けいたいだいおう)が活躍した時代で、鉄を求めて朝鮮半島の南(現在の韓国)に進出し、百済や加耶の国々と連合して高句麗や新羅と激しい戦いをしています。

 日本書紀や古事記から古代のヤス(現在の守山市と野洲市の周辺)には、安直(やすのあたい)氏という古代近江(滋賀県)を代表する豪族がいたことがわかっています。

 円山・甲山古墳から出土した豪華な品々から安直氏がヤマトの大王に仕えていたことや古代の日本が東アジア(中国や韓国・北朝鮮)地域との活発な交流をしていたようすがわかります。


【小篠原村庄屋苗村邸跡】 (右側) 17:02

 生史跡公園から街道に戻り、新幹線から離れて少し進むと、左側の「桜生公民館」入口の庇の上に銅鐸のレプリカが乗っていた。傍にあった立て看板には「中山道銅鐸の里桜生」と書かれていた。

 「桜生公民館」から道なりに14分程行くと、左側に「稲荷神社」の鳥居が見えてくる。鳥居の脇に立っていた境内図を見ると広くて立派そうな神社だが、国道を越えた200m奥にあるので寄っていない。

 鳥居から更に5分進んだ右側の「小篠原公民館」前に小篠原村庄屋苗村邸跡の石碑が置かれていたが、説明文等はなかった。裏を見たら昨年(2010年)に建立されたばかりの碑だった(左の写真)


【暁酒造】 (右側) 

 「小篠原公民館」のすぐ先右側に「養専寺」があり、山門の後ろに公孫樹の巨木が聳えていた。

 「養専寺」のすぐ先右側に茅葺屋根の造り酒屋、曙酒造有限会社がある(左の写真)


【中山道 外和木の標(しるべ) (右側) 17:18

 曙酒造を過ぎると新幹線のガードをくぐり左折する。

 左折するとすぐ県道150号線の信号があり、この信号を右折するとJR東海道線の野洲駅まで440m。

 旧中山道は直進するが、信号を渡った左角に茅葺屋根の民家が建っている。このあたりの茅葺屋根には大きな貝殻が吊り下げられているが、何の意味なのか知りたいものである。

 5分ほど進んだ五叉路の右側に野洲小学校があり、正門右側に中山道 外和木の標の案内板が掲げられている。

中山道・外和木の標】

 中山道は、東海道に対し東山道、あるいは中仙道と呼ばれた時期がありましたが、その歴史は古く、大化の改新以前から存在する重要な道であったことを示す文献が残されています。

 ところが、新しい道路に役目を取って代られ、中山道が千数百年もの長期にわたって果たしてきた大切な役割を知る人は年々少なくなっています。

 この案内板の西、約百八十メートルの所は江戸時代に朝鮮の外交使節を迎えた朝鮮人街道との分岐点に当たり歴史的に意義深い場所であり将来に永くこの意味を伝え、この道がいつまでも町民に広く親しまれ愛されることを目指して修景整備事業を実施しました。

 外和木の標の名前は、この土地と朝鮮人街道との分岐点の地名が小篠原字外和木であるので名付けたものです。

     平成十年三月 野洲町



 34回目の旅終了(17:20) 野洲小学校前。

  小学校前より南へ650m程下った、ビジネスホテル・タカラ泊(17:35着)。

 今回は長距離を歩いたので、最期の650mはかなり長く感じた。

 本日のホテルは変わっていて、チェックイン手続きは同じ敷地内の焼肉店の中で行う。従って朝・夕食もチェックアウトも全て一旦外に出なければならないし、ホテルは3階建でエレベータも無い為、足の不自由な方は大変である。

 近くにレストランもなくコンビにも5分ほど離れているので、焼肉定食の夕食付で予約した。夕食代は安かったがやや物足りず一品ずつ追加してしまった。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、19.3Km(五個荘駅入口〜野洲小学校前)

          日本橋から百二十七里十二町(500.1Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、24.5Km(五個荘駅〜ホテル) 累計616.5Km

          10時間 40,000歩。

 

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