奥の細道(3) 室の八島・日光


2013年4月17日(水) 曇時々晴
 奥の細道が日光街道から分かれる「喜沢東交差点」から、再び日光街道に合流する日光・今市の「追分地蔵」(小倉町交差点)迄と、日光街道終点の「神橋」から「裏見の滝」までを自家用車で巡る。


(注:解説で街道の左側、右側とは大垣に向っての左右です)


「深川・千手」  ← 「目次」 → 「那須野・黒羽」


 「喜沢東交差点」は、日光街道8回目【馬頭観音碑・出征馬碑】を参照。


【日光街道西一里塚】 (左右)

 「喜沢東交差点」から日光街道と分かれて左斜めの道を進み、国道4号線の「喜沢交差点」を渡ると県道18号線に入る。

 県道18号線はすぐ「小山ゴルフクラブ(GC)」の敷地内を抜ける道となるが、左側GC入口を過ぎて150m(「喜沢東交差点」から700m)、ゴルフ場のカート道が県道下をくぐり抜ける所の敷地内左右に日光街道西一里塚(日本橋から21里目)が残っている。

 左塚が見つけやすく説明板も左側に立っている。

左側の塚

日光街道西一里塚】 史跡(昭和58年2月1日)

 一里塚は、一里(約四キロメートル)ごとのしるしとして、道路の両側に木を植えた塚をいう。

 慶長九年(1604)、徳川家康は後の二代将軍秀忠に命じて、江戸日本橋を起点とし東海道・東山道・北陸道にエノキなどを植えた一里塚を築かせ、全国にこれを普及させた。

 エノキが一里塚に多く植えられたのは、根が深く広がって塚を固め、崩れにくいことにあった。

 一里塚は旅人には、里程や乗り賃を支払う目安となり、日差しの強い日には木陰の休み所ともなった。

 この一里塚は、日光街道の脇道である壬生通りにあり、喜沢の追分を過ぎて、最初に位置する一里塚で、次の飯塚一里塚へと通じている。飯塚宿が承応三年(1654)に伝馬宿になるから、このころまでに一里塚として整備されたようだ。

 両側二基の塚は直径約三.三、高さ約一.八メートルで、東側が一部崩れているが、西側は当時の様相を呈している。

 所有者 小山カントリークラブ

     小山市教育委員会

右側の塚


【摩利支天塚古墳】 (右奥)

 県道18号線は突き当りの「扶桑歩道橋」で左折し、その先のY字路を右方向に進む。

 Y字路から1.6Km行った、左上に「摩利支天塚古墳→」の案内板が出ているので、そこを右折すると200m程入った突き当りに、栃木県内最大の前方後円墳である摩利支天塚古墳が現れる。 すぐ隣に琵琶塚古墳もあったのだが、行くのを忘れてしまった。

 この先、壬生にかけて古墳が沢山ある。

【摩利支天塚古墳】 国指定史跡(昭和53年7月21日)

 摩利支天塚古墳は、隣接する琵琶塚古墳とともに県内で最大の規模を誇る大型の前方後円墳です。後円部の墳頂には後年になって摩利支天社が祀られ、今に至っています。

 墳丘は自然の微高地を利用して築かれたもので、その周囲には幅20mを越える大規模な周湟(しゅうこう)がめぐらされています。この周湟は調査の結果、部分的に二重になっていることがわかりかりました。

 また墳丘上には、円筒埴輪が列を成して存在していました。これらの埴輪や古墳の形状などから、この古墳の築造年代は、5世紀末から6世紀初頭と推定されます。

 このような巨大な古墳の被葬者は、大和王権による支配体制の中で、下毛野国をはじめて統轄した大首長であったとも考えられています。

  墳  形  前方後円墳  全長約117m

  前方部  幅約75m   高さ約7m

  後円部  直径約70m  高さ約10m

     栃木県教育委員会


【飯塚一里塚】 (左右)

 摩利支天塚古墳から少し進んだ、ビニールハウスが並び始める県道の両側に飯塚一里塚(日本橋から22里目)が残っている。

【飯塚一里塚】 史跡(昭和43年9月3日) 

 「一里塚」は江戸幕府によって、一里(約四キロメートル)ごとに築かれ、榎などを植えて旅行者の目安とされた。「飯塚一里塚」は、江戸日本橋を起点とし、日光に至る日光西街道(壬生通り)の飯塚宿と壬生宿の間に設けられた。

 この街道は、日光東照宮参詣を中心に開かれた街道で将軍や幕府の使者・日光輪王寺門跡などの要人も多く利用した。特に東照宮例祭が催された四月中には通行人でにぎわった。

 明治に入り、鉄道の普及にともなって、交通手段も変わり、「一里塚」の必要性もうすれ、消滅するものが多かった。現在、この地から約四キロメートル南へ進んだ地点には、「喜沢一里塚」も残されている。江戸時代の主要街道の様子を今に伝える貴重な史跡である。

     小山市教育委員会


【大神(おおみわ)神社・室の八嶋】 

 本日のハイライトである室の八嶋を見学するため、飯塚一里塚の先「花見ケ岡交差点」を左折する。 そこまでの途中右方向に下野国分寺跡がある。

 思川に架かる「大光寺橋」を渡りきったらすぐ土手道を右に曲る。

 右折すると砂利道で、すぐ三本に分かれる。芭蕉に習って一番右の川沿いの道を行くべきだが、車止めがあったので私達は真中の道を進んだ。左の道は民家に入ってしまう。

 この先の道は文章で伝えづらいので、事前に地図で調べてから行って貰いたい。

 どちらの道も「栃木刑務所」迄行ったら行きすぎで、その手前を北西方向に左折する(三差路から徒歩で10分程)。左折した道が「益子醤油本社工場」に突き当れば正解である。

 「益子醤油本社工場」に突き当ったら左折し、次の十字路を右折する。

 次いで「惣社今井バイパス」の「惣社東工業団地交差点」を左折してバイパスを470m進むと大神神社の案内板が現れるので、そこを右に入るとすぐ鳥居と参道が見えてくる。

 参道を進み、小さな橋を渡って境内に入るとすぐ左側に室の八嶋があり、その入口左側に三つの祠(小さな神社)と力石、右側に芭蕉句碑が建っている。
 芭蕉一行は、深川を元禄二年三月二十七日に出発して、途中粕壁と間々田に泊って、二十九日に歌枕として知られた室の八島へ参った。但し、「おくのほそ道」で芭蕉は草加に泊ったと書いている。
 『おくのほそ道』には載っていないが、芭蕉がここで詠んだ句は、
     糸遊に結びつきたるけぶりかな

【芭蕉と室の八嶋】  左の写真が室の八嶋巡り入口の鳥居横に建つ句碑

 松尾芭蕉は元禄2年(1689)「奥の細道」への旅に出発した。途中、間々田、小山を経て飯塚から左に折れて川を渡り室の八嶋に立ち寄っている。その時詠んだというのが

「糸遊に結びつきたるけぶりかな」

の句である。

 むかし、このあたりからは不思議なかむりが立ちのぼっていたといわれ、「室の八嶋に立つけぶり」は京の歌人たちにしばしば歌われている。

  句碑

   江戸後期の書家、荻原秋厳書

   明治2年江戸の俳人達が建設する

 室の八嶋は、八つの小さな島が石橋でつながり、それぞれの島に小さな神社が祀られている(下の写真参照)

 神社は順に、筑波神社(茨城県真壁町)・大宰府天満宮(福岡県太宰府市)・鹿島神宮(茨城県鹿島町)・雷電神社・富士浅間神社(静岡県富士宮市)・熊野神社(島根県八雲村)・二荒山神社(栃木県日光市)・香取神宮(千葉県佐原市)で、それぞれに何を守る神か記されている。

【下野惣社(室の八嶋)】 栃木市指定文化財・指定第三十八号(昭和43年2月16日指定)

 大神神社は、今から千八百年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられ、祭神は大物主命です。

 惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。

 また、この地は、けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の枕歌として都まで聞こえた名所でした。幾多の歌人によって多くの歌が、残されています。

  煙たつ室のやしまにあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける      大江匡房

  いかでかはおもひありともしらすべきむろのやしまのけぶりならでは  藤原実方

  くるる夜は衛士のたく火をそれと見よむろのやしまも宮こならねば   藤原定家

  ながむればさみしくもあるか煙りたつ室の八島の雪の下もえ      源 実朝

  東路の室の八島の秋のいろそれともわからぬ夕けぶりかな       蓮歌師 宗長

  糸遊に結びつきたるけぶりかな                        松尾芭蕉

     栃木市教育委員会

 参道を真直ぐ進めば左右に左門神社右門神社と称する更に二つの小さな祠、次いで左側に御神木が、右側に日本最大の広葉杉が聳えている。

 
(左)御神木  (右)広葉杉

【御神木】

 寛永17年、三代将軍家光公が日光社参の折、当社に参拝された。当時当社は荒れたままの状態であった。家光公は延喜式内社・煙の名所として名を馳せた当社の荒廃を嘆き、社領30万石と杉苗1万本を寄進し、復興に当った。随行の諸大名、旗本などからも多額の寄進を受けて再建された。天和2年社殿が完成された。

 現在の社殿は当時の社司野中猪三郎氏が社殿の朽廃をみて、自らも私財を投じ氏子参拝者の協賛を得て、大正14年に起工し、大正15年4月に完成したものである。

 この御神木は平成16年、荒川真澄宮司が設定された。先代の御神木は御神庫の脇に切り株のみが残っている。

【日本最大の広葉杉】

 コウヨウザン(広葉杉)は、中国南部原産のスギ科コウヨウザン属の常緑針葉樹である、日本には、江戸時代後期に渡来した。本来、漢字の「杉」は広葉杉の事を指したといわれる。現在でも、中国においては、日本の杉を「柳杉」と呼び広葉杉と分けて呼んでいる。

 大神神社境内にある広葉杉は、現在(2010年)大きさは、幹回りは約6.5m、根回り約5.6mある。樹齢は数百年である。

 特に、幹回りは、日本最大の広葉杉である。

     延喜式内社 下野国一之宮 大神神社 

 そして正面に建つ「二の鳥居」の奥に拝殿、その後ろに本殿と続く。

【大神神社】

 大神神社は、日本最古の神社である奈良県の大三輪(おおみわ)神社の分霊を祭るため、建立されたと伝えられている。境内には、下野の名勝地「室の八嶋」があり、元禄2年(1689年)松尾芭蕉はこの地を訪れ、「糸遊に結びつきたるけぶりかな」の句を残している。毎年11月25日の夜には、安産を祈願する「御鉾祭」が行われる。

     環境庁・栃木県

【下野惣社(史跡)】

 惣社明神、室の八嶋明神ともいう。下野惣社として知られたもので、祭政一致の時代、毎朝国司がおまいりした神であり、それは下野国中に分布する神々にお参りをする代わりに此の神社に奉幣する。いわゆる惣社の神であった。
 おおみわの神は大和の三輪神で、山そのものが御神体として知られている。国司がその神をお迎えし、惣社に相殿として祀ったものがいつの間にかこの神の名を以って、おおみわ神社と唱えられることになったものです。


【壬生町城址公園】 (右奥)
 大神神社から右回りで北上するのが本来に道だが、 分かりづらいので左脇の道を進み、突き当りを右折して北上する。

 東武宇都宮線のガードをくぐり、思川に架かる「保橋」を渡って「壬生バイパス」の「今井交差点」の一本手前を左折する。この道はすぐバイパスに合流するので、バイパスを北上する。
 「今井交差点」を直進し、次の信号を右折して500m程南下すると、23里目の壬生一里塚がある。次の稲葉一里塚で壬生一里塚が国指定史跡であることが分かり、行かなかったことに後悔した。

 バイパスに合流して、次の信号に「城址公園→」の案内標識が出ている所を右折するとすぐ左側に壬生町城址公園がある。現在は掘と土塁に囲まれた広場だけだが、掘に架かる橋を渡ったすぐ左の土塁上に壬生領傍示杭が立っている。

【壬生城本丸址】

 壬生城は室町時代のなかば、文明年間(1468〜86)に壬生綱重によって築かれたといわれています。各地の大名が勢力を競っていた戦国の世にあって、約100年もの間、壬生氏の主要な城となっていました。

 しかし、壬生氏は小田原城の北条氏に味方していたために、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条氏とともに亡びました。

 慶長六年(1601)からの110年間は、日根野氏(一万石)・阿部氏(二万五千石)・三浦氏(二万石)・松平氏(四万二千石)・加藤氏(二万五千石)というようにたびたび城主が替りました。そして、正徳二年(1712)鳥居忠英が近江国水口から移ってからは、明治維新を迎えるまでの約160年間、鳥居氏(三万石)が代々城主となりました。

 江戸時代の記録によると、壬生城は本丸・二の丸・三の丸・東廓・下台廓・正念寺廓の六つの廓からなり、これらの廓は土塁と堀で囲まれていました。また天守や櫓といった建物は建てられていませんでした。

 本丸は約140m四方の大きさで、南と北に門があり、土塁の上には塀がめぐっていました。

 また、本丸内部には御殿があり、江戸時代の初めには将軍の日光社参の宿舎として使われました。

 現在、本丸址もその南側を残すのみとなりましたが平成元年に城址公園として整備され、県内に残る数少ない近世城郭の一つとなっています。

     平成二年三月 壬生町教育委員会

【壬生領傍示杭(石標)】

 傍示杭は、江戸時代に領地の境界のしるしとして立てられた石や木の柱のことです。

 左側の傍示杭には、

   (正面) 「従是南 壬生領」

   (側面) 「下野国 都賀郡 家中村」

 と刻まれており、家中村(現在の都賀町家中)に立てられ、家中村から南が壬生領であることをしめしたものです。

 天保十四年(1843)に幕府によってまとめられた「壬生通宿村大概帳」によると、壬生宿には上稲葉村(壬生町上稲葉)・七ツ石村(壬生町七ツ石)と羽生田村(壬生町羽生田)との村境及び磯村(鹿沼市磯)と楡木宿(鹿沼市楡木)との村境に、それぞれ立てられていたことが記されています。

 このように、家中村や磯村に立てられていたことからわかるように、壬生藩の領地は現在の壬生町よりも広く、壬生地区・稲葉地区のほぼ全域と周辺の栃木市・小山市・鹿沼市・都賀市・石橋市の一部にまで広がっていました。

 歴史民俗資料館には、この他亀和田村(鹿沼市亀和田)と大塚村(栃木市大塚)にあった傍示杭の一部が保管されています。

     平成二年三月 壬生町教育委員会


【稲葉一里塚】 壬生町指定史跡(昭和57年1月20日指定) (左側)

 「壬生バイパス」に戻って北上。

 「本丸1丁目交差点」で左折して、次は国道352号線(日光西街道)を北上する。

 「北関東高速道」をくぐってすぐの「上稲葉交差点」角にある「セブンイレブン」の駐車場で昼食を取る。

 「北関東道」をくぐった先の畑の中に金売吉次の墓があるとのことで、探したが見つける事が出来なかった。帰ってから調べた所、このコンビニの裏にあるらしいことが分かった。金売吉次の墓は奥州道中の白坂(奥州街道7回目参照)にもあったので是非訪れたかったが、またまた事前調査不足で残念ながら果たせなかった。

 大きな木が植えられている、24里目の稲葉一里塚は、「上稲葉交差点」を越えて少し行った左側にある(下の写真)

【稲葉の一里塚】 壬生町指定史跡(昭和57年1月20日指定)

 稲葉の一里塚は、国指定史跡の「壬生の一里塚」同様に、日光道中壬生通り(日光西街道)に設けられた一里塚です。

 江戸日本橋から数えて二十四里目(約九十六Km)にあたり、江戸時代の古文書によれば塚の上には松が植えられていました。

 壬生通りには、小山の喜沢から今市の間(約四十五Km)に、次の十一箇所の一里塚がありました。

  一  喜沢の西一里塚(小山市・市指定)

  二  飯塚の一里塚(小山市・市指定)

  三  壬生の一里塚(壬生町・国指定)

  四  稲葉の一里塚(壬生町・町指定)

  五  赤塚の一里塚(鹿沼市)

  六  奈佐原の一里塚(鹿沼市)

  七  鹿沼の一里塚(鹿沼市)

  八  冨岡の一里塚(鹿沼市)

  九  小倉の一里塚(今市市)

  十  板橋の一里塚(今市市)

  十一 室瀬の一里塚(今市市)

     平成十六年二月 壬生町教育委員会


【北赤塚一里塚】 (左側)
 稲葉一里塚から4Km進んだ、左斜めに入る道との三角点に、大木が植わっている北赤塚一里塚がある。

 日本橋から25里目(約100Km)という標柱は立っていたが、説明板は無かった。

 歩道を造った為に塚の一部が削られていたのは残念だった。

 右側にも塚があるように見えるが形が崩れて一里塚との判別は出来なかった。

 左塚の裏側には馬頭観音が9基並んでいた。


【今宮神社】 (左奥)

 北赤塚一里塚の先の「追分」で国道352号が左後ろからくる国道293号線に合流して、293号に代わる。更に「下材木町交差点」で右からくる国道121号線に合流し、今市まで121号線を進む。

 「新鹿沼駅前」を過ぎ、「市役所前交差点」、又は、一つ前の交差点を左折すると「鹿沼市役所」の手前に今宮神社がある。

 神社の由緒は擦れて判読が出来なかったが、唐門は栃木県指定有形文化財である。

 ここに芭蕉句碑があるとのことだったが見つける事が出来なかった。ここも帰ってから調べた所、本殿左側にある代官功徳の石燈籠の脇の小さな石段を登った藪の奥にあるとのことだった。

【代官功徳の石灯籠】

 徳川幕府中期享保九年当代官に着任した、鈴木平十郎正誠により奉納されたものである。

 元禄十一年当宿本陣治左衛門の家が焼けた時幕府から三百両を借金し、本陣を再建したが再び焼失し、治左衛門は疲労のため病死した。

 こうして鹿沼宿は借金を背負い享保年間まで二十数年間におよび困窮のままにあった。代官として着任した平十郎は、これ以上宿民の貧窮が続けば、やがて鹿沼宿はほろびると、治左衛門所有の田畑・屋敷を売り払いその百両を資金として支配下にある村々に貸しつけ、利益を上げていく間に三百両を幕府に返納の明細書を送ったところ「当地で得た金なので宿内人・馬役人の費用にせよ。」と宿場助成金として払い下げとなった。

 平十郎は、五年間の代官をつとめ去った後宿民は、宿の繁栄を喜ぶと共に代官の功績を永く称えたと伝える。

     今宮神社


【並木寄進碑】 特別史跡・特別天然記念物 (右側)
 街道は「市役所前交差点」からやや右カーブし、「御成橋西信号」で右折して御成橋を渡る。渡った「御成橋東信号」を左折して再び北上する。

 「御成橋東信号」から4.9Kmをひたすら進み、杉並木が始まる「日光市」に入る右側に並木寄進碑が建っている。

【並木寄進碑】 

      今市市小倉

 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑である

 並木の起点となる神橋畔および各街道の切れる今市市山口(日光街道)同小倉(例幣使街道)同大桑(会津西街道)の四ヶ所に建っている

 この碑は日光神領の境界に建てられているので境石と呼ばれている

 神橋の寄進碑は日光街道12回目、山口は同11回目を参照。


【小倉一里塚】 

 杉並木道に入ると車道は狭まり、車を停車することが出来なくなった。その為、少し進んだ右側杉並木の中にチラリと小倉一里塚が見えたが、後ろから車が迫って止める事も出来ず、やむを得ずそのまま通過した。


【板橋一里塚】 

 更に杉並木を北上し、「板橋交差点」で国道121号は左が旧道、右がバイパスと分かれるので、当然左の旧道を行く。

 その「板橋交差点」の400m程手前に板橋一里塚があるのだが、ここも車が停車出来ずに見る事は出来なかった。


【室瀬一里塚】 特別史跡・特別天然記念物 (左右)
 十石坂から「日光高速道」をくぐった先に室瀬一里塚がある。

 ここは道幅が広くなったので車を停めて見学することが出来た。

【室瀬一里塚】

 その昔江戸〜日光間各街道には一里毎に塚が築かれたが、いま現存する塚は少ない。この塚は日光杉並木街道の中にあるため保護されてきた。江戸日本橋より小山・壬生を経て凡そ二十八里(約112Km)の地点。


【追分地蔵】

 室瀬一里塚から程なく追分地蔵に到着し、例幣使街道 (国道121号線)は日光街道(国道119号線)と合流する。
 芭蕉一行は鹿沼で泊り、四月一日(新暦5月19日)日光東照宮に参拝した。そして翌日、裏見の滝含満ケ淵を見学する。

 ※【追分地蔵】〜【神橋】迄の今市宿・鉢石宿、及び日光東照宮は、日光街道11回目最後【追分地蔵】12回目と重複していますので、そちらを参照してください。


 日光で芭蕉が詠んだ句は、
     
あらたうと青葉若葉の日の光
 
同じく曾良が詠んだ句が、
     
剃捨て黒髪山に衣更
 尚、黒髪山は、日光連山の主峰男体山の事で、歌枕である。


【憾満ケ淵(含満ケ淵)】  (左下)

 日光道中の終着点「神橋交差点」を左折すると国道120号線に代わる。

 120号線に入って最初の左斜めに入る道を下りて行き、更に左へ曲がり、大谷川へ近づいて橋を渡れば駐車場がある小公園に着く。そのまま先に進み、慈雲寺の門をくぐると、沢山の並び地蔵と共に、含満ケ淵に至る。 奥には霊庇閣が建っている。


【並び地蔵(化け地蔵)】 

 慈眼大師天海の弟子約百名が、「過去万霊、自己菩提」のために寄進したもので、列座の奥には親地蔵が置かれていた。

 霊庇閣に一番近い、やや大きめの石地蔵は、「かんまん」の梵字を書いた山順僧正のものである。

 明治三十五年(1902)の大洪水で、親地蔵と他の地蔵のいくつかが流された。また、参詣者がこの地蔵の数を数えてみると、そのつど数が違うというところから、化け地蔵とも呼ばれるようになった。

【憾満ケ淵(含満ケ淵)】 日光市指定名勝

 男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で、古くから不動明王が現れる霊地といわれる。川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、晃海(こうかい)大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り憾満ケ淵と名付けたという。

 晃海はこの地に慈雲寺や霊庇閣、不動明王の大石像などを建立したもので、往時は参詣や行楽の人々で賑わった。元禄二年(1689)松尾芭蕉も、奥の細道行脚の途中立ち寄っている。

 「含満」とも書くので「がんまん」と濁って読まれることが多いが、命名の由来から考えると、「かんまん」と澄んで読むのが正しい。

【霊庇閣】 (左下の写真)

 承応三年(1654)慈雲寺創建のとき、晃海大僧正が建立した四阿(あずまや)造りの護摩壇で、対岸の不動明王の石像に向って天下泰平を祈り護摩供養を行った。

 この二メートル余りの不動明王像は今はない。当時の建物も流失し、礎石のみになっていたが、昭和四十六年に輪王寺によって復元された。


【大日堂跡】  (左下) 

 一旦国道に戻り、「日光田母沢御用邸記念公園」の前を通り、右側にある「ホテルナチュラルガーデン日光」前の斜め左の道へ入り、「大日堂跡」の標識がある所で更に左に入ると吊橋が見えてくる。その吊橋を渡らずに下をくぐって反対側に出ると大日堂跡がある。 橋を渡ると憾満ケ淵に行ける。逆に、上記霊庇閣の更に奥へ進めばこの橋に出る。

 大日堂跡には、芭蕉の句碑大日堂詩碑明治天皇行幸の碑などが建っている。


【大日堂跡】

 往古は、この周辺を菩提ヶ原と称し、大日如来の堂があった。

 慶安二年(1649)、大楽院の恵海がこれを再建、美しい池のある庭園の中に堂があり、大日如来の石像が安置されていた。

 明治三十五年九月の大洪水で総て流され現在は、堂跡にいくつかの礎石を残すのみとなった。

【松尾芭蕉句碑】

あらたふと 青葉若葉の日の光里

 芭蕉に関する市内四句碑の一つ。

 「奥の細道」に出てくる名句で、ここに古くから句碑があったが、明治35年9月の大洪水で流失してしまったので、もとの石刷りを写して再建したと書かれている。

 松尾芭蕉は、江戸前期の俳人。伊賀上野の生まれ。名は、宗房。桃青・泊船堂・釣具庵・風羅坊などの号をもつ。

 この碑が再建されたのは、流失して7年目の明治42年10月、山門の某と建立者が刻まれている。

     日光文学碑散策路 昭和六十一年設定 日光市

【大日堂詩碑】

日の恵み そのほとほとに 花こゝろ     東郷 多和羅

 大日堂は、明治35年9月の大洪水で、すべてをながされてしまうまで、美しい池のある庭園で、お堂の中に大日如来の石像が安置されていた。風光の良さは定評があり、多くの人々がここを訪ね、東北御巡幸の明治天皇も立ち寄られている。漢詩は、大日堂を賛美したものだが、作者の東郷多和羅については不明。維持文政二歳己卯暮春吉祥とあり、1819年、江戸後期の碑。建立者光哲とあるが不明。

     日光文学碑散策路 昭和六十一年設定 日光市

  左下の写真は、大日堂跡から写した吊橋。橋の下の階段が降り口で、その左端に句碑が建っている。 


【松尾芭蕉句碑】  (左下) 

 大日堂跡の入口標識まで戻り、更に西に進むと安良沢小学校に出る。その小学校の校庭に芭蕉句碑が建っている。

【松尾芭蕉句碑】

しばらくは 滝にこもるや 夏の初     芭蕉翁  おくの細道 うらみのたきの吟

 松尾芭蕉は、江戸前期の俳人。伊賀上野の生まれ。名は、宗房。桃青・泊船堂・釣具庵・風羅坊などの号をもつ。

 元禄2年(1689)日光裏見の滝へ立寄った時の句。「夏」とは、夏行・夏安居・夏篭などの略で、僧の修行のことをいう。

 碑は、小杉放菴の書で、昭和31年5月、安良沢小学校創立記念に日光市と関係町内が建立。

     日光文学碑散策路 昭和六十一年設定 日光市


【裏見の滝】 

 安良沢小学校を後にそのまま先に進んで、国道120号を横断して右斜めの道(入口に「安良沢郵便局」)に入る。

 県道195号線(裏見滝線)を約2Km登ると駐車場が現れ、ここが裏見の滝入口となる。

 ここから階段を登り、途中荒沢川に落ちる幾筋の滝を見ながら整備された山道を行くこと10分〜15分で裏見の滝に出る。

 名の通り裏側から見るのが絶景だったが、現在は登り道が崩落して手前の観瀑台から見学するのみとなってしまった。



 ここで詠まれた句が、
     
暫時は滝に籠るや夏の初

 
 左上の写真は遠景で、二本の滝(右が裏見の滝)が荒沢川に落ちている。

 左下の写真は裏見の滝で、後ろに荒沢不動尊と裏側の道が見える。

【裏見ノ滝】

 この滝は日光三名瀑の一つで、高さ約19m、幅約2mほどの比較的小さな滝です。滝を裏側から見ることができたため、この名がつけられました。

 芭蕉翁も奥の細道の旅の途中この地を訪ねています。

 寛永元年(1624)奥州の出羽三山から荒沢不動尊が迎えられ、名僧天海の命によってこの滝のところに安置されました。そして男体山、太郎山、大真名子山への信仰登山のための修行場となり、以来この地は荒沢と呼ばれ、行屋や茶屋などもでき、大変栄えたところでる。

     環境庁・林野庁・栃木県

【案内図の説明】

 裏見ノ滝は、華厳ノ滝、霧降ノ滝とともに日光三名瀑の1つに数えられている滝で、松尾芭蕉もこの地を訪れ、「しばらくは 滝にこもるや 夏の初」という句を「奥の細道」の中に残しています。

 又、この周辺には、多くの動物が生息していて、特にニホンジカの観察には絶好の地と言えるでしょう。



 間々田〜鹿沼   8里20丁(33.6Km)   計  25里 5丁( 98.7Km)
 鹿沼〜日光    7里10丁(28.6Km)   計  32里15丁(127.3Km)

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