大沢宿 (一里塚バス停  今市駅) <旧日光街道11回目>

 

2012年2月26日(日) 曇

 ホテルに車を預けて、路線バスで宇都宮駅より一里塚バス停迄行き、ここを8:55スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)

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【十九夜塔】 (左側) 

 石那田一里塚(前回参照)の向いに天保十一年と刻まれた十九夜塔等の石仏が数基と開墾記念碑が建っている。


【宮尊徳先生遺跡・石那田堰】 (右側) 8:55

 石那田一里塚から10分程進んだ右側の道端に二宮尊徳先生遺跡 石那田堰 100米と書かれた標柱が立っている。

 ここから右へ100m程下ると石那田堰の石碑二宮金次郎の石像が建っているとのことだが、一段高い左側の歩道から雪道を下りていくのが億劫になり、行かなかった。

 この辺りから歩道の積雪が多く、朝なので固まっている所もあり、滑らないように歩くのに難儀した。

 

下記は、後日(5月30日)、車で今市宿に向う途中に再度訪れた時の記録

 標柱から100m下ると橋があり、その橋を渡る手前を右に少し入ると、二宮金次郎の像と小さな祠、及び、移築記念碑、徳次郎用水堰護岸工事竣工記念碑、徳次郎用水堰・樋門井堰工事竣工記念碑、大堰竣工記念碑の四つの石碑が建っていた。
 左の写真は、橋を渡った所から写したもので、対岸中央の木々の下に、右の写真の碑等が建っている。

   


【移築記念碑】

 石那田地区基盤整備事業のため 大堰を移築するにあたり 先人の遺徳をしのび、ここに記念碑を建立す

     昭和五十八年四月 徳次郎用水組合


石那田八坂神社】 (右側) 9:08

 田川に架かる「大橋」を渡ると、3分ほどで新しくなった石那田八坂神社に着く。

石那田八坂神社竣工記念碑】

 石那田の八坂神社は、素戔鳴尊(すさのおのみこと)を祀る「下野国河内郡石那田村八坂神社」として、1655年(明暦元)に始まったと伝えられている。

 この年は、疫病が大流行し、村中残らずその災難を受けたので、山城国(現在の京都)の八坂神社から御霊を願い受け、石那田の上・下両村の間に鎮座させて祭礼を行ったところ、疫病はさっそく治まったが、1722年(享保七)六月に再び疫病が流行した。これは祭礼を怠り、社殿も壊れていたため、神のたたりであると村人は恐れ、再び石造りの社殿に造り改め、六月十四日から十五日にかけて祭礼の儀式を厳かに行い、付け祭りも行って神の御心を慰め申し上げたので、災難を避け、村中が平穏に治まったと言われている。

 その後、江戸末期から明治初期には、各組々に屋台が造られ、六月七日奥宮から仮殿に御神体を移し(下遷宮)七日間氏子が家内安全を祈願して参拝し、十四日夕刻から翌朝にかけて各組々の屋台・神楽を繰り出す「付け祭り」をしながら、奥宮に御神体を御送りする儀式(上遷宮)が行われてきた。旧暦で実施されていた祭礼が、1930年(昭和五)、新暦の七月十七日から二十四日の間に変更され、現在に至っている。

 さらに、1854年(嘉永七)四月に新築、1934年(昭和九)に改築された八坂神社仮殿も老朽化し、その応急処置と祭礼の改革の検討が進められていた矢先に、仮殿境内の地主から土地の提供が得られ、永年の懸案であった新仮殿の建設および猿田彦と屋台六台の終結場所を確保することが実現した。


石那田八坂神社天王祭付祭屋台】 宇都宮市指定文化財(昭和49年3月1日指定)

 天王祭は、厄病除けとして行われる牛頭天王の祭りで、石那田八坂神社では、7月17日から24日まで行われる。付祭は24日の夜に行われ、猿田彦(天狗)となった仲内地区の方を先頭に、神輿・6地区(桑原、六本木、原坪、岡坪、仲根、坊村)の屋台が御仮屋から神社へと繰り出される。

 屋台は、江戸時代末から明治時代にかけて作られた彫刻屋台である。彫刻は富田(現・大平町)に住んでいた磯邊敬信や後藤正秀、神山政五郎らの手によるものである。


【お願い地蔵】 (左側) 9:47

 八坂神社のすぐ先に「石那田バス停」があり、宇都宮からの1時間に3本のバスの内2本はここから右折して、日光へ向うバスは1時間に1本になってしまう。

 さらに雪深くなった。
  

 国道119号線を進み「石那田中央バス停」と「松本バス停」を過ぎて『日光迄11Km』の標識が出たすぐ先左側のお堂の中に、赤い布に巻かれたお願い地蔵が鎮座している

 また、地蔵の前に重さの異なる3個の丸い石が置いてあり、どれかを選んで持ち上げ、軽く感じれば願いが叶うと云われる。

 

【地蔵尊の由来】

 この石佛は享保十五年(1730)、八代将軍吉宗公時代厄病が流行し住民が苦しんだ時、地域の人々により石佛が作られ、人の体の悪い所と佛の同じ所に赤い布を付けお願いすると不思議に治ったと云う。それ以来、この地蔵を「お願い地蔵」と呼ぶ。


【上小池一里塚】 (右側) 10:00

 国道が左カーブした先の右側に新渡神社があり、その斜め向かいの民家前にこんもりした所がある。これが上小池一里塚と思われるが、説明板等はなかった。
 写真は、日光側から写した一里塚とおもわれる“こんもり”。
  


【杉並木寄進碑】 (左側) 10:30

 新渡神社を過ぎると宇都宮市から日光市に入る(10:05)。

 車道の両側に一段高くなっている歩道は雪が深く歩きにくい為、怖いが時々車道を歩いてしまった。歩道は雪が無ければ気持ちが良い道なのに。

 日光市に入ってすぐ右側に第四接合井が建っていた。第五接合井が残ってい ないのか見逃したのかは不明。

 やがて「山口信号」の先で国道はバイパスと旧道の二股に別れ、日光道中は真直ぐの旧道を進む。この辺りから日光杉並木街道となる呼ばれる様になる。

 旧道に入ってすぐ左側に並木寄進碑が見えてくる。碑は石杭で囲われて、傍らに特別史跡・特別天然記念物日光杉並木街道と刻まれた標柱と説明板が立っている。

 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑である

 並木の起点となる神橋畔および各街道の切れる今市市・山口〔日光街道〕同小倉〔例幣使街道〕同大桑〔会津西街道〕の四箇ケ所に建っている

 この碑は日光神領の境界に建てられているので境石と呼ばれている


【大沢宿】 日本橋から32里3町20間(126Km)、鉢石へ4里(15.7Km


【日光杉並木街道】 (旧道)

 旧道も歩道は一段高い所に有るが、ここも雪が深く、また、車もほとんど通らないのでここは車道を歩いた。

 車道の方が杉並木に挟まれているので、往時の街道を歩いている雰囲気が得られる
  

 程なく「大沢交差点」でバイパスと合流し、大沢宿に入って行くと、交差点を越えたすぐ先右側に王子神社がある。

 ここから再び杉並木となる。

 大沢宿には、往時の面影を残すものは殆ど残っていない。

 杉並木の中には名前が付けられている様な古い杉が沢山あるようだが、足元が悪いので確認できなかった。

 程なく「大室入口信号」に着くが、この辺りに大沢御殿跡があったと云うが、これも説明板等は発見出来なかった。

 その先右側に、第参接合井が建っていた(11:02)。


【水無一里塚】 (左右) 11:10

 左右の杉木立の中に、やや荒れているが左右共現存する水無一里塚がある。車道を歩いていると塚が小さめなので見逃す恐れがある。

 右塚の前に説明板が、左塚の前に御成街道 水無一里塚と書かれた標柱が立っていた。日本橋から32里目。


左の塚


右の塚
 

〔日光杉並木街道の一里塚 今市市水無〕 (特別史跡・特別天然記念物)

 江戸から日光までの三十六里余(144Km)の街道は日光道中と呼ばれ、その昔東照宮に詣でるための街道として栄えた。

 街道には一里毎に塚を築きその上に大樹が植えられて旅人に里程を知らせたが、この杉並木区間では一里毎に杉が植えられているのが特色である。


【延命地蔵堂】 (左側) 11:17

 水無一里塚で歩道に上がって見学した後、そのまま上を歩いたら車道に下りられる所がなく、5分ほど雪と格闘して、やっと杉並木が終わった水無の交差点で下りられた。

 この交差点手前左側に小さな地蔵堂があり、面白い地蔵(※)とのことだが、雪道で疲れたので交差点を渡る気持ちが湧かなかった。

 しばらく杉並木もある国道を歩き、右側に見える「Hアリスの玉手箱」を過ぎた先のGSの手前で右斜めの旧道に入る。

 旧道が終わる少し手前右側に、第貮接合井が建っていた。

 (※)後日(5月30日)、車で今市宿に向うとき寄ってみて地蔵堂の中を覗いたら、お地蔵さまが宙に浮いているように見えるではないか!

 扉を開けて中を見た所、大小二体の石の地蔵が赤い衣をまとって縁台に座っていた。即ち、扉が閉まっている状態では、中が暗いため黒っぽい木の台が見えず、逆に石が白いのでまるで地蔵が浮いているように見えたのである。


<休憩> 12:00〜12:10

 「下森友交差点」の少し手前で国道に合流する。

 ここまで食事する所が無く、仕方が無いので交差点にあった「セブンイレブン」でトイレを借り、肉マンとあんマンを購入して歩道の陰で立ち食いとなってしまった。


【桜杉】 (左側) 12:35
 次の「森友交差点」から、また右の旧道を進む(12:20)。再びここから鬱蒼とした杉並木街道になる

  

 まだかまだかと思いながら15分程進んだ左側、国道と旧道の間に柵に囲われた桜杉が現れる。国道の向かいに「トヨタカローラ栃木」がある所。

 これは杉の木の途中から桜の木が分かれているものである。説明板は無く、さくらすぎと書かれた白い木柱が立っているのみである。

 写真は桜杉を国道側から写したもので、途中から手前に曲っているのが桜で、真直ぐ立っているが杉の木。

  


【七本桜一里塚跡】 (右側) 12:42

 桜杉から5分程の右側に七本桜一里塚跡があり、塚の上に大きな空洞がある杉の大木が立っている。

 人が踏み固めても良いものなのかと思いつつも中に入って記念撮影をした。

 内部は焦げていたが、防虫等の為にわざと焦がしたのか、誰かが焚き火でもしたのかは不明。

 すぐ先の交差点もバス停の名も七本桜になっている。

   

〔日光杉並木街道の一里塚 今市市七本桜〕 (特別史跡・特別天然記念物)

 江戸から日光までの三十六里余(144Km)の街道は日光道中と呼ばれ、その昔東照宮に詣でるための街道として栄えた。

 街道には一里毎に塚を築きその上に大樹が植えられて旅人に里程を知らせたが、この杉並木区間では一里毎に杉が植えられているのが特色である。

 特にこの塚上の杉は根元がくさって空洞が出来、大人が四人位入れるところから、並木ホテルと呼ばれている。


【今市の追分・追分地蔵】 (左側) 13:10

 東武日光線のガードをくぐって杉並木街道が終わった所で国道に合流。更に、左後ろから来た例幣使街道とも合流するので、ここが今市の追分である。

 下の写真は、追分を日光側から写したもので、三角点の頂点に地蔵堂。右斜めの道が例幣使街道。左の道が国道119号線。自動車が居る所に左の杉林から出て来る道が日光道中
  

 地蔵堂には高さ2mという大きな追分地蔵尊が鎮座している。

 

〔石造地蔵菩薩坐像(通称・追分地蔵〕 

 蓮台を含めて下から仰ぎ見る姿はまことに壮大。丸彫り石地蔵としては、東日本有数の巨像である。

 製作年代は明らかでないが、八代将軍徳川吉宗の日光社参のとき、すでに現在地にあったと記録されている。おそらく、街道の成立による今市宿整備の時期と、この地蔵のまつられた年代とは、密接な関係があろう。

 地蔵の手印は、ふつうは錫杖と宝珠であるが、これは密教系の胎蔵界大日如来の法界定印という手印を結んでいる。あるいは製作当時の信仰形態・製作事情を暗示しているのであろうか。

     昭和五十二年十月 日光市教育委員会 今市ロータリークラブ



 1回目の旅終了(13:15) JR今市駅

   合流点の「小倉町交差点」を左折してJR今市駅より電車で宇都宮駅に戻り、ホテルに預けていた車で帰宅。

  本日の記録 :街道のみの距離は、13.8Km(一里塚バス停〜小倉町交差点)

           日本橋から三十四里十一町(134.7Km) 

           寄り道を含めた実歩行距離は、15.0Km(一里塚バス停〜JR今市駅) 累計177.0Km

           4時間20分 23,300歩。

 

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