奥の細道(1) 深川

 

2011年11月1日(木) 晴

 クラブツーリズムのツアー『俳聖松尾芭蕉の足跡をたどる旅・奥の細道を訪ねて(全15回)』の第1回に参加して、深川から千住まで徒歩と船でたどった。参加人数57名で2班に分かれて行動。JR両国駅西口を10:05スタート。

  

「目次」 ― 「室の屋島・日光」

 

ツアー名:奥の細道を訪ねて【第1回】松尾芭蕉・旅立ちの追体験!「特別貸切船」でたどる深川〜千住

コ ー ス :JR両国駅・・・芭蕉記念館(旅立ちの句碑)・・・深川・芭蕉稲荷(芭蕉庵跡)・・・芭蕉庵史跡展望公園(芭蕉像)・・・臨川寺(芭蕉由緒の碑)・・・清澄庭園(芭蕉句碑)・・・<芭蕉俳句の散歩道>・・・採茶庵跡(芭蕉が「奥の細道」の出立直前まで住んでいた)・・・高橋〜<千住まで芭蕉が辿った水路をクルージング・約90分、船内で芭蕉講座を行う)〜千住・・・千住大橋公園(矢立初めの碑)

 


【芥川龍之介生育の地】 両国三丁目二十二番 9:45

 ツアーの出発まで時間があったので、両国駅近くの芥川龍之介生育の地へ行ってみた。

 両国駅西口前から南へ3本目の道(国道14号線・京葉道路)へ出て、少し千葉方面に向った左側の歩道上に説明文が書かれた標柱が立っている。

 龍之介は、明治二十五年三月一日、京橋区入船町八丁目(現中央区明石町)に生まれました。生後七ケ月で母が病気となり、この地本所区小泉町十五番地に住む伯父の芥川道章に引き取られ、やがて養嗣子として育てられました。

 芥川家は、代々江戸城の御数寄屋衆を勤めた旧家でした。道章は、俳句や盆栽に親しむとともに、南画をたしなみ、また、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を観る等、江戸趣味の濃い家庭でした。


【回向院】 10:10

 両国駅前の「国技館通り」を南下して京葉道路に突き当った所に回向院がある。

 明暦三年(1657)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曽有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱はこうした遺体を葬るため、 この本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関かかわらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を解くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられた、のちに安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による被災者、溺死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
     墨田区

【旧国技館跡】 10:13

 回向院の左隣り「シアターX」と「両国シティコアLIFEVIT]の辺りが旧国技館跡で、広場入口に説明板が立っている。

旧国技館は、天保四年(1833)から回向院で相撲興業が行われていたことから、明治四十二年(1909)に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。

 ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び名が定着し、大鉄傘と愛称されました。

 しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年(1983)に解体されました。

 左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。

     墨田区


【一之橋】 10:23

 回向院前の京葉道路を西へ進むと正面に「両国橋」が架かっている。「両国橋」は当初「大橋」と名付けられていたが、武蔵国と下総国との二つの国境にまたがっていたことから「両国橋」と呼ばれるようになった。

 回向院から西へ最初の道を左折して少し南下すると、首都高速道路下を流れる竪川に架かる一之橋に出る。

 竪川は本所を整備した時の人工の川で、江戸城に向って横に流れるのを横川、縦に流れるのを竪川と名付けた。

 幕府は、低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上に利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。
 万治二年(1659)、縦の代表格、竪川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほどありました。
 竪川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。
 一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き上げる際に最初に渡った橋としても知られています。

【江島杉山神社】 10:27

 一之橋を渡ってすぐ左側に江島杉山神社がある。

 鍼術の神様・杉山和一(1610〜94)が五代将軍綱吉から、ここ本所一ツ目に約一万二千平方メートルの土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁財天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです。神奈川県藤沢市の江島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。
 和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かりました。その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍しました。
 この評判を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当らせました。
     墨田区

【御船蔵跡】 

 江島杉山神社の向かいに御船蔵跡の説明板が立っている。
 
この辺りから新大橋にかけての一帯に江戸幕府の艦船を格納する御船蔵がありました。四千八百九十坪の広大な土地に大小十四棟の御船蔵が並んでいて、巨大な軍船「安宅丸(あたけまる)」は船蔵の外に係留されていました。安宅丸の取り壊しを機に供養塔が建てられたことから、ここは俗にアタケとも呼ばれ、広重の名所江戸百景「大はしあたけの夕立」にも描かれています。

 明暦三年(1657)頃の「明暦江戸大絵図」にはすでに御船蔵がほぼ現在の位置にあり、川下の尾張屋敷との間の掘に堂々たる天守を備えた安宅丸が描かれています。

     墨田区


【芭蕉記念館】 10:40〜11:10

 江島杉山神社から南下し、「新大橋通り」を越えた少し先の右側に芭蕉記念館がある。

 記念館には、芭蕉に関する資料を展示している展示室の外、図書室や会議室がある。また、小さいながら池を配した日本庭園もあり、築山には、芭蕉庵を模した祠と、句碑が建っている。

 記念館入口の句碑: 草の戸も住み替る代ぞひなの家 (元禄二年吟)

 築山の句碑:      ふる池や蛙飛びこむ水の音 (貞享三年吟)

               川上とこの川下や月の友 (元禄六年吟)

〔会館時間〕9:30〜17:00   〔休館日〕第2・4月曜日、年末年始   〔拝観料〕200円

【芭蕉を記念して〕

 松尾芭蕉は延宝八年(1680)三十七歳から元禄七年(1694)五十一歳、大阪への旅に出発するまで、常盤一丁目にあった庵の周辺に芭蕉を植えて深川芭蕉庵と称し、ここを本拠として「奥の細道」等の旅に出発し、多くの紀行文や俳句を残し、文学史上偉大な足跡を記した。

 芭蕉庵が芭蕉歿後武家屋敷となり、幕末から明治にかけて滅失してしまったのを地元の方が惜しみ、この地を「深川芭蕉庵跡」として句碑等を作り保存されてきた。そして大正十年十一月東京府の旧跡に指定された。

 しかしこの地が狭隘であったので今般江東区はここに芭蕉記念館を建設し、併せて地元の協力により「句碑」等をも移管した。

 ここに芭蕉の業績を顕彰し、永く旧跡を保存するとともに、芭蕉関係の資料等を公開し、より充実した記念館としていきたい。

     昭和五十六年四月吉日 芭蕉記念館会館にあたって 


【旧新大橋跡】 11:11

 芭蕉記念館から南へ次の信号(萬年橋北交差点)の手前右角の道路側に旧新大橋跡の標柱が立っている。

 この交差点を右折するとすぐ隅田川の堤防に突き当るが、江戸時代はここに新大橋が架けられていた。

 旧新大橋は元禄六年十二月この地先の隅田川に架設起工し五十日間で完成し長さ百間幅員三間七寸あり当時橋名は両国橋を大橋と称していた

 芭蕉は近くの芭蕉庵に住んでいたので、新大橋の工事中に

     初雪や かけかゝりたる 橋の上

と詠み、完成後に

     有がたや いたゞいて踏む 橋の霜

と詠んだ。

〔年表〕

 1594年(文禄3) 千住大橋完成

 1657年(明暦3) 明暦の大火

 1659年(万治2) 大橋(両国橋)架橋

 1693年(元禄6) 新大橋完成


【芭蕉庵史跡展望庭園】  11:20

 「萬年橋北交差点」を右折して突き当りの堤防に上がると、川に沿って遊歩道が続いている。遊歩道から右に見える橋が現在の「新大橋」、左に見えるのが「清洲橋」。

 遊歩道を左へ小名木川に突き当るまで進むと、小名木川が隅田川に合流する角に江東区芭蕉庵史跡展望庭園がある。

 この展望庭園には有名な芭蕉翁の像が建っている。この芭蕉像は昼間は新大橋の方を向いているが、夕方5時になると清洲橋の方に回転してライトアップされ、夜中に再び元の位置に戻る 。この時はメンテナンス中で動かないとのことだった。但し、展望庭園は4時半で閉まってしまう為、動くところは園内で見ることは出来ない。

 庭園には、芭蕉ゆかりの絵と解説文が沢山並んでいる。

【芭蕉翁之像】

 この像は、芭蕉の古参門人で経済的な庇護者であり、深川芭蕉庵の提供者ともいわれる杉山杉風(さんぷう)(1647〜1732)が描き、京都の画家 吉田堰部武(えんぶ)が忠実に模写した芭蕉翁之像畫により製作したものです。

 (原画 岐阜県高山市 加藤功氏蔵)

     平成七年四月


【芭蕉稲荷(芭蕉庵跡)】  11:30〜11:35

 展望庭園の斜め向かいが芭蕉庵跡で、現在は芭蕉稲荷が建っている。

 境内には、お稲荷さんの右脇に「史蹟 芭蕉庵跡」と刻まれた石碑、左手前に句碑が建っている。

 句碑には、有名な『ふる池や 蛙飛びこむ 水の音』が刻まれている。

【深川芭蕉庵旧地の由来】

 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵として延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て、有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。

 ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
 たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
 昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺跡保存会が昭和三十年復旧に尽くした。
 しかし、当所が狭隘であるので常磐北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。

     昭和五十六年三月吉日 芭蕉遺跡保存会


【川船番所跡】 11:38

 芭蕉稲荷の先を右折して小名木川に架かる萬年橋を渡るのだが、渡る手前の右側に川船番所跡ケルンの眺めの説明板、更に葛飾北斎・富嶽三十六景・深川万年橋下の浮世絵と説明板が立っている。

 忠臣蔵でお馴染みの四十七士は、この萬年橋を渡ってすぐ右折し、この先の永代橋へ向った。

【川船番所跡】

 川船番所は幕府により設けられた番所で、萬年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。
 設置の年代は明らかではありませんが、正保四年(1647)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624〜44 )にはすでに整いつつあり、関東各地から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋(現中央区)など江戸の中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸への出入口としてこの地に置かれたことと思われます。建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ五本ずつ装備されていました。
 明暦三年(1657)の大火後、市街地の拡大や本所の堀割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。
     平成十四年十月 江東区教育委員会
【ケルンの眺め】

 ここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。
 この場所からの眺めが一番美しいといわれています。

【北斎作・富嶽三十六景 深川万年橋下】

 萬年橋は、区内の橋の中でも古く架けられた橋の一つです。架橋された年代は明らかではありませんが、延宝八年(1680)の江戸図には「元番所のはし」として記されているので、この頃にはすでに架けられていたことがわかります。
 江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取締まる、通船改めの番所が置かれていました。この番所は、寛文年間(1661〜73)の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれました。
 小名木川に架けられた橋は、船の通行を妨げないように高く架けられていました。万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげています。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響を受けた錦絵を残しています。


【臨川寺】 11:50〜11:57

 萬年橋を渡って三本目の道を左折するとすぐ左側に「北の湖部屋」、次の右角に「大嶽部屋・大鵬道場」がある。そのまま東へ直進して大通りに出る手前を右折して、次の清澄通りを隅田川の方に少し戻ると、左側に芭蕉ゆかりの臨川寺がある。

 この寺は松尾芭蕉参禅の寺で、門を入ったすぐ左に芭蕉由緒の碑(下の写真・左後ろ)墨直しの碑(右後ろ)玄武佛(左前)梅花佛の石碑(右前)が前後して建っている。

【玄武佛碑】

 玄武佛は、宝暦から寛政(1751〜1800)にかけて活躍した美濃派の俳人、神谷玄武坊のことです。小石川白山門前(文京区)に住み、俳号を俳仙堂・白山老人などと号しました。延享(1744〜47)のはじめ、各務支考により京都双林寺に建立されていた、芭蕉墨直しの墨跡を写して臨川寺に建て、毎年三月に墨直会を催したといわれています。また、梅花佛(各務支考)の碑も建てたといわれています。

 臨川寺は、承応二(1653)年、鹿島根本寺(茨城県)の冷山和尚が草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、正徳三(1713)年「瑞甕山 臨川寺」という山号寺号が許可されました。延宝八(1680)年、深川に移り住んだ松尾芭蕉は仏頂禅師と親交が厚く、度々参禅に通ったと伝えられています。以来、芭蕉ゆかりの寺として「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残されています。

     平成五年三月 江東区教育委員会


【清澄庭園】 12:00〜13:00

 臨川寺の次の道を左折すると 、明治の代表的「回遊式林泉庭園」である清澄庭園の正門に出る。

 この庭園は、全国の奇岩名石を配した池を巡る造りになっており、奥の自由広場には、芭蕉の「古池・・・」の句碑が建っている。

 今回のツアーの昼食は、ここで支給された深川めしの弁当だった。


大磯渡り
 この庭園は、泉水・築山・枯山水を主体とした「廻遊式築山林泉庭園」で、江戸時代の大名庭園の造園手法を明治時代に引き継がれ、近代化して完成したものです。
 この地の一部に江戸の豪商・紀ノ国屋文左衛門の屋敷があった、と言われています。享保年間(1716〜1736)には、下総国関宿城主、久世大和守の下屋敷となり、この頃に庭園の原型が形づくられました。
 明治11年、岩崎彌太郎が荒廃していたこの邸地を含む3万坪(約10万平方メートル)を買い取り、明治13年(1880)4月「深川親睦園」と命名し、三菱社員の慰安や内外賓客を招き、招待の場として用いることとした。
 岩崎彌太郎亡きあと、さらに岩崎彌之助(彌太郎の弟)が庭園に手を加え、隅田川の水を引いた大泉水とし、全国から取り寄せた奇岩名石を配した造園工事が行われ、明治24年、明治時代を代表する庭園が完成されました。
 関東大震災ではこの地域は大被害を被りましたが、この庭園は救いの場となり、被害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命が助かりました。
 岩崎久彌(彌太郎の嗣子)は、こうした庭園の持つ防災機能を注視し、被害の少ない現在の庭園部分(「深川親睦園」時代の約半分)を東京市に寄付しました。
 東京市は、大正記念館・深川図書館などを整備移築し、昭和7年7月24日「清澄庭園」として開園しました。
 昭和48年、庭園の西側の隣接地を買収し、昭和52年6月1つ日から一般の都立公園として開園しました。
 なお、清澄庭園は、昭和54年3月31日付で東京都の名勝に指定されています。
     清澄庭園管理所    開園年月日 昭和7年7月24日

【「古池の句」碑由来】

 当庭園より北北西四百メートル程のところに深川芭蕉庵跡(江東区常盤一丁目三番・都指定旧跡)があります。
 松尾芭蕉は、延宝八年(1680)から元禄七年(1694)まで、門人の杉山杉風の生簀の番屋を改築して、芭蕉庵として住んでいました。
 かの有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で貞享三年(1695)の春、詠まれています。
 この碑は、昭和九年に其角堂九代目の晋永湖という神田生まれの俳人が建てたものですが、芭蕉庵の改修の際、その敷地が狭いので、特に東京市長にお願いをしてこの地に移したものです。従って、この場所が芭蕉庵と直接ゆかりがあると言うことではありません。
 なお、当庭園の南東側、海辺橋緑地に採茶庵跡がありますが、芭蕉は元禄二年(1689)に{奥の細道」の旅をここから出発しました。


【芭蕉俳句の散歩道】 13:15

 清澄庭園隣の清澄公園内を通り、公園南側出口前を流れる仙台掘川に架かる「清澄橋」を渡る。かつてこの辺りに伊達藩の屋敷があったので仙台掘と呼ばれた。

 橋を渡って左折すると、川に沿って大垣から順に芭蕉の俳句が並んでいる芭蕉俳句の散歩道となっている。

 『蛤のふたみにわかれ行秋ぞ』から始まって、途中『寂しさや』『名月や』『山中や』『石山の』『せわの香や』『荒海や』『象潟や』『五月雨を』『閑さや』『五月雨の』『夏草や』『桜より』『早苗とる』『野を横に』『あらとうと』『行く春や』と続き、最後の『草の戸も住替る代ぞひなの家』までの十八句が並んでいる。


【採茶庵(さいとあん)跡】 13:28
 散歩道が終わって 「清澄通り」の「海辺橋」に出た右角に、芭蕉が「奥の細道」へ出発する直前に逗留していた採茶庵跡がある。

 ここは杉山杉風の別墅(別荘)で、芭蕉は「奥の細道」を始めるにあたり芭蕉庵を手放してここに移り、元禄二年(1689)三月二十七日(新暦5月16日)この横の土手から船に乗って千住大橋まで行き、旅が始まった。

 ここで詠まれた句が、
     
草の戸も住替る代ぞひなの家

 写真で分かる通り、記念写真が撮れるように芭蕉さんが座っている横が空いている。当然、私も芭蕉と一緒に写してもらった。 

 現在は、この横の「仙台掘川」が隅田川につながっていないので、ここから船に乗ることは出来ない。


【雄松院(おおしょういん) 13:40
 「海辺橋」を渡って清澄庭園沿いの「清澄通り」を北進。橋から3つ目の信号を右折して次の道を左折(「清澄通り」より一本東側の道)すると、左側に雄松院があり、門を入った右側に芭蕉の最後を見取った度会園女(わたらいそのじょ)の墓がある。墓石には戒名と『度會氏園女之墓 享保十一年四月二十日』と刻まれていた。

【俳人 度会園女の墓】

 園女は斯波一有の妻で大阪にすみ夫妻医業を営んでいた 園女は俳句を芭蕉に学び元禄七年芭蕉が大阪にゆき園女の宅で発病し十月十二日死去した 園女は夫の死後江戸に移住


【霊厳寺】  13:43

 雄松院前の道から、更に一本東に進むと霊厳寺の入口がある。我々のツアーは特別に雄松院の先にある裏門から入らせてもらった。

 この寺の境内には、松平定信墓江戸六地蔵の一つである銅造地蔵菩薩座像が安置されている。 これで現存五つの内、日光街道だけ見逃して四つ訪れたことになる。

【江戸六地蔵】

 第1番 品川寺 旧東海道(旧東海道2回目・品川宿参照)

 第2番 東禅寺 奥州街道 (旧日光街道)

 第3番 太宗寺 甲州街道(旧甲州街道1回目・内藤新宿参照)

 第4番 真性寺 旧中山道(旧中山道1回目・江戸参照)

 第5番 霊厳寺 水戸街道(今回)

 第6番 永代寺 千葉街道(現存せず)

【松平定信墓】 国指定史跡(昭和3年1月18日指定)

 松平定信(1758〜1829)は八代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河樂翁を号していた。
 天明七年(1789)六月に老中となり寛政の改革を断行、寛政五年(1793)老中を辞している。定信は老中なると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の立て直しを計った。また朱子学者でもあり、『花月に草子』『宇下の人言』『国本論』『修身録』などの著書もある。
     昭和五十一年に三三十一日 建設 東京都教育委員会

【銅造地蔵菩薩座像(江戸六地蔵の一)】 東京指定有形文化財(彫刻) 大正10年3月指定

 江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に似って、宝永三年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一躰ずつ建立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五躰が残っています。
 六地蔵のうち、霊厳寺の地蔵は第五番目で、享保二年(1717)に建立されました。宝珠を持つ左手の指のうち、四本の指が密着した形になっています。像高は、二七三cmあり、かつては渡金が施されており、所々に金箔が残っています。
 江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。
     平成二十三年三月 建設 東京都教育委員会


【高橋乗船場】  13:50

 「清澄通り」に戻り、北進するとすぐ小名木川に架かる「高橋」に出る。

 この「高橋」を渡った右下にある高橋乗船場から、ツアー貸し切り船で「隅田川クルーズ」に出発する。

 千住まで90分のクルーズの前半は「清洲橋」から「勝鬨橋」まで隅田川を下り、そこからUターンして元の「清洲橋」まで戻る行程。後半は「清洲橋」から芭蕉が奥の細道に旅立った 船旅を追体験する行程となる。 


【隅田川クルーズ】 14:00〜15:30
 高橋乗船場から出発した船は小名木川を西進し、芭蕉庵史跡展望庭園のある所で隅田川に出たら左折して「清洲橋」をくぐると、左手に「清洲排水機場」が見えてくる。この排水機場の奥が仙台掘川で、芭蕉の乗った船はここから隅田川に出て来て千住に向った。

 我々の船は、まず隅田川を下る前半のクルーズをする。「清洲橋」に続いて「首都高9号線」、「永代橋」をくぐったら石川島の所を右折して「中央大橋」へ向う。

 「中央大橋」をくぐったら左側の「佃公園」に石川島灯台のモニュメントが建っているのが見えてくる(左上の写真)

 石川島灯台は慶応二年(1866)に当時の人足寄場奉行が建てたもので、人足寄場とは、『鬼平犯科帳』で有名な火付盗賊改方長官・長谷川宣似(平蔵)が老中・松平定信に提案して寛政二年(1790)に作られた、軽犯罪人や犯罪を犯しそうな無宿者等の厚生保護施設である。

 続いて「佃大橋」 をくぐると、右手が「聖路加ガーデン」、左手が「月島」。最後に「勝鬨橋」 をくぐると右手は「中央卸売市場築地市場」、その先は「浜離宮恩賜庭園」、そして「レインボーブリッジ」へと出るが、ここ市場前でUターンして元の「清澄橋」まで戻る。

 「清澄橋」まで戻ったら、いよいよ後半の芭蕉がたどった隅田川を上る船旅となる。

 隅田川に架かる橋は、周辺のイメージに合わせた色に塗られカラフルで楽しい。

 後半最初の橋は「新大橋」、後ろに「東京スカイツリー」が見える。続いて「首都高6号線」、赤い帯の「両国橋」、「JR総武本線」、黄色い「蔵前橋」、緑色の「厩橋」、青い「駒形橋」をくぐった左手に「駒形堂」が見える。更に赤い「吾妻橋」をくぐれば左手に「浅草水上バス乗場」があり、その奥は「雷門」。次いで「東武スカイツリーライン」、緑の「言問橋」(真中の写真)、黄色い「桜橋」はX形で隅田川に架かる最も新しい橋、白い「白髭橋」、青い「水神大橋」、左に大きくカーブして「千住汐入大橋」、「JR常磐線」をくぐれば「千住大橋」に到着する。

 芭蕉はこの「千住大橋」で船を降り、ここから600里・156日間の旅に出立した。

 左下の写真は、「千住大橋」北詰にある「大橋公園」から写真に写っている階段で降りられるテラスである。

 壁の白い部分には、芭蕉と曽良の旅立ちの絵(与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」)が描かれていて、千住・旅立ちの一節が書かれている(旧日光街道1回目【千住】参照)。

( 「奥の細道図屏風」絵に添えられた文章)

 千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪そゝく

 

 芭蕉は「千住大橋」で船を降りたが、残念ながら隅田川のクルーズ船はここでは降りられず、少し戻った「千住汐入大橋」近くの「千住無人発着場」から上陸した。上陸して「墨堤通り」に出た所が京成の関屋駅前である。


【千住大橋・大橋公園】  16:10〜16:20

 関屋駅前から「墨堤通り」を西に進んで、JR常磐線のガードをくぐり、「千住仲町交差点」を左折して「千住大橋」へ向う。

 この「千住大橋」へ向う道は旧日光街道である。

 「旧日光街道1回目」でも紹介しているが、途中「やっちゃ場跡」、「奥の細道プチテラス・芭蕉像」等を見て、「足立市場前交差点」で国道4号線に合流して「千住大橋」北詰の大橋公園に到着。

 この公園には奥の細道 矢立初めの地碑と説明板、おくのほそ道行程図が建っている旧日光街道1回目【千住】参照)。
 ここで詠まれた句が、
     行春や鳥啼魚の目は涙

    【千住大橋と奥の細道】 
 千住大橋は文禄3年(1594)、伊奈備前守忠次を普請奉行として、現在地よりやや上流の位置に隅田川最初の橋として架けられました。まだ治水も十分だなかった大川での架橋は難工事でした。伊奈備前守は、工事の際に熊野権現に祈願して、架橋の無事完成を期したと伝わっています。その後いくたびか掛け替えや修理が行われました。現在の鉄橋は、昭和2年(1927)に完成した長さ92.5mで、当寺としては総アーチ型という最新の橋でした。
 江戸時代の俳人、松尾芭蕉は元禄2年(1689)、門弟曽良とともに深川より隅田川を船でさかのぼり、同年3月27日にここ千住大橋の辺りで船を降り、「奥の細道」の旅へ立ちました。この時、矢立より筆を取って「行春や鳥啼魚の目は涙」と一句。過ぎゆく春を惜しむと同時に、旅立つ者に人ばかりか鳥や魚までが別れを悲しんでいるという意味です。そこには、江戸を離れる芭蕉の想いが隠されています。その後、奥州・北陸をへて大垣に至る約600里、半年にわたる行脚をし、道中の詠句をもとに「奥の細道」が編まれました。

 

奥の細道(1) 終了(大橋公園)

 この後「千住大橋」を渡り、「南千住交差点」左角にある素盞雄神社を見学して、今回のツアーはこの神社で解散となった。

 私は、旧日光街道編で見逃した延命寺を見学後、南千住駅より帰宅した。



 

 奥の細道(2) 千住

 

 「千住大橋」から小山市の「喜沢東交差点」までは、旧日光街道1回目【千住】〜8回目【馬頭観音碑・出征馬碑】と重複していますので、下記「旧日光街道」目次をクリックして下さい。

 千住〜粕壁    6里28丁(26.6Km)
 粕壁〜間々田   9里29丁(38.5Km)   計  16里21丁(65.1Km)
 間々田〜鹿沼   8里20丁(33.6Km)   計  25里 5丁(98.7Km)


 

「旧日光街道」目次

 

「奥の細道・目次」 ― 「奥の細道(室の八島・日光)」