新田宿・小金井宿・石橋宿 (小山駅 → 石橋駅 ) <旧日光街道8回目>

2011年11月12日(土) 晴

 車で小山駅前ホテルまで行き、ホテルの駐車場に車を預けてから、前回終了した小山駅入口交差点を9:45スタート。


(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)

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【興法寺】 (左側) 9:55〜10:00

 右角に「スーパーホテル」のある交差点を渡った先左側に興法寺がある。

 奥まった山門をくぐると左手に十三層塔が建っている。

【興法寺縁起】

 天台宗、徳王山妙楽院と号す。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、嘉祥二年(1317年前)慈覚大師円仁(天台宗三世壬生出身)が都賀郡室の八島に下向の際、小山荘に一字を建立して妙楽院と号したのが始まり。その後、天慶三年に藤原秀郷が小山城を築城すると、城内に移転して徳王山妙楽院興法寺と号したという。(旧県史四)亦一説には、小山城主の帰依を受けた天台宗層興海の中興開山と伝えられる。慶安二年八月、徳川家光から朱印で九石の寺領が寄進され、寺中山林竹木諸役なども免除された。(稲葉郷興法寺嶺朱印状現存)

 天和三年火災のため堂宇を焼失、貞享四年覚栄法師によって再建された。第五十七世貫首日光輪王寺宮門跡公弁法親王(後西院帝第六皇子)がしばしば休泊した所として知られ、元禄八年には阿弥陀三尊像厨子、比叡山中興の慈恵大師良源像厨子、当山施餓鬼会本尊地蔵菩薩像厨子、門額などを寄進したといわれる。

 また天和三年焼失後の再興も公弁法親王の助力によるものと伝える。かつて七月二十二日〜二十三日に聖霊会(法界大施餓鬼会)があり、老若の参詣が多かった。

 文化五年にも類焼したが、明治十八年慈湛法印が堂宇を再建、山門は焼失を免れた。

 寺宝としては、阿弥陀如来三尊金銅佛(鎌倉期県文化財)・絹本著色羅漢図(元・鎌倉期県文化財)・同不動明王像(南北朝期県文化財)・同文殊菩薩像(室町期県文化財)・同涅槃図(室町期県文化財)・同如意輪観音像(江戸期県文化財)・同千手観音像(江戸期県文化財)。

     (角川日本地名大辞典・栃木県より)

【十三層塔の由来】

 この塔はかつて数百年間、浅草の観音様で有名な浅草寺山内に安置されておりました。ゆえあって古河市須藤家の大庭園に移されておりましたが、今般小山市半田伊沢造園様のご寄進により当山境内に安置されました。ここに釈尊四大仏跡の品々を基壇に納入し深く祈念いたします。

  この塔をお参りするには  南無大恩教主釈迦牟尼如来  三遍お唱え下さい。

     平成二年六月十一日 当山五拾八世 俊憲代


 興法寺を後にしばらく進み、歯科医院の脇道を入った墓地に地蔵菩薩道標があるとの情報だったが、墓地が街道から見えず、歯科医の名前も分からなかったので見つけられなかった。


【日枝神社のケヤキ】 (左側) 10:30

 街道を北上し、両毛線の踏切を渡ってしばらく進むと、左手に日枝神社の巨木が見えてくる。

 興法寺から30分。左奥(国道4号線を越えた 所)に日枝神社があり、その参道入口に3本の大ケヤキが聳えている。

 日枝神社裏手にかつての祇園城の土塁が残っているとのことだが、奥なので行かなかった。

 ケヤキはニレ科の落葉高木で、山地や林地に普通に生える。また、その生育の早いこと、樹齢の長いこと、樹形の美しいことから、人家や神社の周りにも植えられてきた。最近では街路樹や公園樹としても重要されている。

 このケヤキは、かつての社殿周りに植えられていた何本かのうちの三本という。このすぐ西には祇園城の北の守り木沢(喜沢)の砦があり、現在も土塁がその跡をとどめている。天正十八年(1590)に祇園城が滅び砦もなくなり、その跡に社殿が移され、その後に現在の参道が作られたという。この参道に沿ってスギが植えられ、ケヤキ三本も残されてと伝えられている。

 ケヤキ三本の樹齢は四百年以上、ちなみにスギの樹齢は三百年以上と推定されている。貴重な古木であり大切に保存したい。

   イ、樹高 約32m     目通り約6m

     枝張り東西約22m  南北約29m

   ロ、樹高 約30m     目通り約4m

     枝張り東西約10m  南北約19m

   ハ、樹高 約32m     目通り約5m

     枝張り東西約22m  南北約27m

   指定年月日     平成五年五月一日

   所有者(管理者)        須賀神社

 左の写真は街道から日枝神社に向って写したもので、参道左手前の木が、その奥 の木が、右側の木が


【馬頭観音碑・出征馬碑】 (三角点) 10:39

 日枝神社参道からすぐ先「喜沢東交差点(5差路)」の左斜めの道(壬生道)と直進道の三角点(追分)に三基の石碑が建っており、左は小さい碑、真中の碑が「明治二十七年甲年馬頭観世音」、右の碑に「日清・日露・日支 出征馬碑」と刻まれていた。

 日光道中は、この交差点を渡って、右斜めの極細い道に入って行く。

 「千住大橋」からここまで一緒だった奥の細道はこの「喜沢東交差点」から左へ分かれて「室の八島」に向う。 ここから奥の細道へは奥の細道3回目参照。


【喜沢一里塚】 (両側) 10:50

 車一台がやっと通れるほどの道を10分程進んだ、左手雑木林の中のこんもりとした塚が喜沢一里塚である。右手の低いこんもりも一里塚跡とのことだが、説明板等は一切無い。

 ただ、右塚の敷地側に分譲地の看板が掲げられていたのが気になった。
  左の塚 右の塚


<親類宅へ寄り道> 11:00〜13:10

 やがて旧道は新幹線に接してしばらく進む。

 その途中、国道の向こう側に叔父の家があるので寄り道する。


【新田(しんでん)宿 日本橋から21里13町20間(83.9Km)、鉢石へ14里26町(57.8Km) 

 宿内人口 :244人、総戸数:59軒(本陣1・脇本陣1・旅籠11)

 日光道中では最も小さな宿場であった。


【新田宿本陣跡】 (左側) 13:30

 叔父の家から13:10街道に戻り、県道33号線が下に潜っている上を越えたすぐ先で左斜めの道を行き、国道4号線に合流する。
 国道に合流して次の信号左側に本陣門
(下の写真)のみが残っている。青木家は新しくなっているが、ここに新田宿の本陣があった。

 新田宿で往時の面影を残すのはこの本陣門のみである。

 本陣の向かい側、斜め手前に脇本陣があったとのことだが、 こちらは何も残っていない。
  


【道標と石仏】 (左奥) 13:38

 本陣門から7分程進んだ左側に「銅市金属工業」という会社があり、旧日光道中は、この会社辺りからこの先の「スーパーうおとみ」の裏まで真直ぐ進む道だったが、現在は少しだけしか行けない。

 即ち、会社の所で国道から左折するとすぐ「ドーイチ」と書かれた倉庫があり、その前の砂利道を進むのが旧街道だが、程なく道は通り抜けられなくなるので右折して国道を迂回するしかない。

 但し、道標と石仏は「ドーイチ」と書かれた倉庫の裏側にあるので見落としに注意!

 砂利道でなく、右カーブしている舗装道へ行くと倉庫の裏側に5基の石碑(道祖神や「見ざる云わざる聞かざる」の碑など)と小屋に入っている道標が道路を背に倉庫の壁に向って建っている。 ということは、現在の倉庫が建っている所が旧道だったことが分かる。

 道標の正面には「観世音」、左側面には「左おざく道」、右側面には「寛政十二申九月吉日願主新田宿講中」と刻まれていた。

 私達は砂利道を行かずに、そのまま道標の前の道を進んだ為、国道から少し離れた広い道に出てしまった。しかし、この道は徐々に国道に近づき、やがて「スーパーうおとみ」で国道から一本左に入った旧日光街道に復帰出来るのでこちら廻りでも問題はない。

 国道を迂回した方は「スーパーうおとみ」の横の道を左に入れば、一本左の旧道に出られる。

 「スーパーうおとみ」で旧道に合流した所から後ろ(南方向)を振り返ると、細い旧道が僅かに残っているのが見られる。
  


【小金井宿】 日本橋から22里6町20間(87.1Km)、鉢石へ13里33町(54.7Km) 

 宿内人口:767人、総戸数:165軒(本陣1・脇本陣1・旅籠43)

 江戸から14番目の宿場。江戸側から下町・中町・上町で構成され、宿の長さは南北約730mだった。

 ここより西にあった金井村の住民が、現在地に移住して小金井村と名のり、その後宿駅に制定された。制定は遅く延宝九年(1681)だった。

 「金井」という地名は、『黄金の湧き出づる井戸』から名付けられたと伝わっている。


【小金井一里塚】 国指定史跡(大正11年3月8日指定) (左側) 14:07〜14:14

 「スーパーうおとみ」までが小山市、ここから下野市に入る。

 旧道を進み、小金井駅入口の広い道を横断して少し進むと突き当たりになるので右折して国道に出る。

 国道に出て左折するとすぐ左側に、小金井一里塚が現れる。

 ここは、国道4号線が旧道からはずれて作られた為、両塚とも綺麗に現存している貴重な一里塚である。また、往時の街道がわずかではあるが塚の間に残っている。

 ただ、前後の旧街道が畑や住宅地になってしまっているのは惜しい。せめて、突き当りから塚まではわずかなので残しておいて欲しかった。

 この二つの塚の間を通っている道が江戸時代の五街道の一つ、日光街道です。江戸幕府が五街道の整備に着手したのは慶長九年(1604)で、栃木県令三島通庸が今の国道四号を作ったのが明治十七年(1884)ですから、この日光街道は約二八〇年もの間、東北地方への主要道路として使われていたのです。

 一里塚は、江戸の日本橋を基点として一里(約三・九ニ七キロメートル)ごとに築かれました。小金井一里塚はその二十二番目の塚で、江戸から二十二里(約八六・四キロメートル)の地点であることを示したています。(実際の距離は九〇キロメートル以上あります)

 塚は五間(約九・一メートル)四方の四角形に築かれ、榎が植えられましたが、今ではすっかり変形して丸塚となり、何代目かの榎と、いつの時代に生えたのか、榎と檪(くぬぎ)の巨木が同居しています。

 一里塚は、荷物や人を運ぶ賃金の標準となり、旅人にとっては道のりの目安になった、たいへん便利でした。また、現代の私たちにとって町の歴史のシンボルであり、過去と未来を結ぶ文化財です。大切に保存しましょう。

     平成二年(1990)建立 下野市教育委員会


 ポケット広場の右奥には、下記解説が掲示されていた。下の写真で塚の間が旧街道で、右が日光方向。

【発掘調査と整備について】

 史跡整備に伴って平成9年度に実施した発掘調査では、合計3時期にわたる旧街道の砂利敷道路が発見されました。

 江戸時代、最初に街道が作られた頃(T期)は、側溝のない砂利敷道路で、道幅は約9m(5間)、現在の地表の高さに比べると約80cm下にありました。

 その後、街道が改修され時には(U期)、新たにU字形の側溝が設けられ、道幅は約9.4mとやや広くなります。

 明治時代以降、再度改修された時には(V期)、道幅約5.7m、箱型の側溝を設けた狭い砂利敷道路になっています。

 明治17年(1884)みは、現在の国道4号線が開通していますが、旧街道はその後も生活道路として昭和50年代まで利用されていました。

 発掘調査では江戸時代の陶磁器の破片や、紐に通された寛永通宝50枚などが出土しています。

 このたび、長い間手が加えられなかった一里塚を将来的に保護活用していくため、地域の区画整理事業に合わせ、史跡ポケット広場として整備することになりました。

 施工にあたっては、塚の崩落を防ぐため、塚の周囲に石をめくらせました。本来の塚の大きさは9m四方と推定されますが、長年風雨にさらされ塚の裾が崩れて広がっているため、石は12m四方の位置にめぐらせてあります。

 また、両塚の間には、発掘調査の結果をもとにU期の砂利敷道路(約9.4m)の路面を復元表示し(溝は暗渠で施工)、旧街道が南北に続いている様子を壁面に表しています。

 小金井一里塚のように、2つの塚が壊されずに残っているのは全国的にも稀であり、先祖から受け継がれてきた貴重な文化財を、これからもみんなで大切に守っていきましょう。

     平成10年3月 国分寺町教育委員会


【慈眼寺(じげんじ) (左側) 14:22

 小金井一里塚から8分進んだ所にある慈眼寺は、将軍社参時の休憩所だった寺で、山門や本堂の屋根瓦には葵の御紋が付いている。

 山門を入ると左手に、弘法大師作と伝える千手観世音を奉安する江戸時代の三間四面朱塗りの観音堂がある(写真参照)。また、右手にも江戸時代建立の総欅造りの鐘楼堂がある。明治初年の火災でこの2棟以外は全て消失してしまったとのこと。
  


【金井神社】 (左側) 14:30
 慈眼寺の右隣に接してあり、間の塀には境内から通り抜けられる開口がある。

【金井神社本殿】 市指定有形文化財

 本殿の建築様式は一間社三方入母屋造りといい、壁面には透彫りや丸彫りなどの立派な彫刻が施されています。

 この彫刻は江戸末期(1800年代)の製作と考えられ、作者は磯部氏系統の彫刻師であろうと推定されています。

本殿の素材にはけやきが用いられており、素木造で彩色はありません。屋根は栩(こば)葺きで壁面には当時の人々の名前が刻まれており、両側には彫刻の施された脇障子が付いています。

     平成二年(1990)建立 下野市教育委員会


【小金井宿 本陣跡】 (左側) 14:32
 金井神社のすぐ先に本陣門が残っている。この本陣跡の塀は大谷石だった。

 この辺りから大谷石の蔵や塀が多く見られる。

  


【旧呉服屋】 (右側) 

 本陣門の向かいの蔵造り店舗は、元呉服屋だったと云う が?震災で傷ついたのか修理中であった。


【下石橋一里塚】 (左奥) 15:35〜15:40

 本陣門から20分程北上した左側に「パーラークイーンエリザベス」(パチンコ店)があるので、ここの駐車場を横断して一本左の旧道に入る。本来の日光道中は、パチンコ店の少し手前から斜めに国道と分かれていくのだが、現在は道が無いので、申し訳ないがパチンコ店の駐車場を横断させてもらう。

 旧道に入り、次の十字路を右折するとすぐJR「自治医大駅」で、右手前方には「自治医大病院」の大きな建物が見える。

 日光道中は、そのまま真直ぐ畑の間の何も無い道を30分(2Km)程ひたすら歩く。畑に飽きてきた頃、右側を並行している国道を望むと沿道に松並木が見えてくる。そちらの方が旧街道らしく、松林の中を歩きたくなるが、我慢して畑道を歩いて行くと、やがて雑木林に突き当たる。この先の道も消滅しているので、右折して国道に出る。

 国道に出た時、右手を見ると立派な松林が続いているのが見られる。

 再び国道を北上してしばらく進むと右側に「旭自動車」があり、その前の砂利道を左折すると下石橋一里塚がある。あると言っても畑と薮ばかりでどれが一里塚かはよく分からない為、しばらくさまよってしまった。結論としては砂利道を入って突き当たりを左折、すぐ右折して次の細道の向こう側、笹薮の小山に見えるのが一里塚らしい。但し、それが一里塚であるか自信はない。


【夕顔橋の石仏群】 (左側) 15:57

 「旭自動車」のすぐ先「下石橋信号」を渡った左手が「関東丸大食品」で、旧街道は工場内を通っていた。

 「丸大食品」の正門内に大きな観音像が立っていたが、由来は不明。

 観音様に頭を下げ、次の「下石橋交差点」に近づくと左手に墓地が続く。その墓地が切れた交差点手前に10基の石仏(夕顔橋の石仏群)が国道を背に建ち、1基を除き9基は屋根の下に並んでいたが、説明等はなかった。

 国道に背を向けているということは、旧街道が前項で突き当たった雑木林から真直ぐ、一里塚や「丸大食品」工場内等を通り、ここまで国道の少し西側を通っていたことが分かる。

 栃木県の特産物は干瓢(かんぴょう)で、全国生産量の98%以上を占めている。干瓢はウリ科の夕顔の実を、皮をむくように細長く削って乾燥させたものなので、この交差点辺りを夕顔橋と名付けたのだろう。

 「下石橋交差点」では、高架で国道352号線が交差している。
  


【石橋宿】 日本橋から23里24町20間(93.0Km)、鉢石へ12里15町(48.8Km) 

 宿内人口:414人、総戸数:79軒(本陣1・脇本陣1・旅籠30)

 地名は「池上明神」前に架けられていた往時には珍しい石橋に由来すると云われるが、神社は現存せず場所も分からない。


【脇本陣跡】 (右側) 16:20

 「本町交差点」を越え、左手の愛宕神社を過ぎて石橋駅に近づいた右側の「伊沢写真館」が脇本陣跡


【本陣跡】 (右側) 16:23

 脇本陣跡のすぐ先右側の「伊澤茶舗」が本陣跡だが、共に説明等は無い。


【開雲寺】 (右奥) 16:25〜16:35

 「石橋交差点」を右折すると石橋駅。

 その交差点のすぐ先右奥に開雲寺の山門が見える。山門の前には明治天皇御駐輦之處と刻まれた石碑が建っている。また、境内に入ると左手に枯れた槙の切り株が残っているが、その脇に徳川三代将軍手植之槙と刻まれた標柱が立っている。

 帰りは寺の裏側に出て石橋駅に向ったが、寺の土塀には新しいものではあるが、四角い矢狭間や丸い銃眼が開けられているのが寺としては珍しい(下の写真)

 開雲寺は、781年下野薬師寺戒壇院第五世・恵雲律師が開山。江戸時代の1604年には徳川将軍より寺領七石並びに寺中竹木免除の朱印を賜わり、日光廟造営後、徳川将軍家の日光社参の休泊所となる。

 1649年、宇都宮城主奥平忠昌が将軍の休泊所として御殿所を構築。

 1850年と1854年に殿堂を焼失して以来、仮の建物だったが、1971年に本堂が落慶。

 1876年、明治天皇の奥羽御巡幸に際して休憩所として使われた。


【石橋駅モニュメント】 

 下野市は、西ドイツのディーツヘルツタール(旧シュタインブリュッケン)と国際姉妹都市となっている。

 シュタインブリュッケンはヘッセン州に属して、ヘッセン州はグリム兄弟の出身地である。また、シュタインブリュッケンは日本語で「石橋」といい、同じ名前が縁となって「グリムの里づくり」を実施し、駅前にからくり時計を中心としたモニュメントを建てている。
  



 8回目の旅終了(16:45) 石橋駅。

  石橋駅からJRで小山駅に戻り、駅前のホテル泊。

  本日の記録 :街道のみの距離は、14.7Km(小山駅入口交差点〜石橋交差点)

           日本橋から二十四里(94.2Km) 

           寄り道を含めた実歩行距離は、18.2Km(小山駅前〜石橋駅) 累計129.0Km

           7時間 28,600歩。

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