奥の細道(4)那須野・黒羽

2013年11月13日(水) 晴
 東武日光駅を11:20スタートして、自家用車で那須まで巡る。

(注:解説で街道の左側、右側とは大垣に向っての左右です)

「室の八島・日光」 ← 「目次」 → 「殺生石・芦野・白河関・須賀野(前半)」

 横浜の自宅を7:00に出発して、首都高湾岸線・首都高中央環状線・東北自動車道を経由して東武日光駅に10:00頃到着する予定だったが、途中、湾岸線で工事渋滞、中央環状線で事故渋滞に巻き込まれ、予定より一時間遅れてしまった。
 このロスが最後に響き、日が短いこともあいまって黒羽で暗くなり、予定していた所が見学できなくなってしまった。
 心残りではあるが、宿泊の予定を那須高原の「りんどう湖ロイヤルホテル」に入れていたので、残りは諦め、芭蕉の進んだと思われる道をなぞっていっきにホテルに向かった。
 途中、奥州道中の一部を通るが以前に訪れているので、今回は飛ばしても問題は無かった。


 芭蕉は日光の見学を終わったあと、今市まで同じ道を戻らずに、上鉢石の「仏五左衛門」という宿屋の主人の指示に従って、大渡への近道を行ったので、それに従う。
 東武日光駅の後の大谷川に架かる「霧降大橋」を渡り、渡ったらすぐ右折し大谷川の左岸を進む。
 ゴルフクラブと丸山公園の脇を通り、「材木町交差点」を左折し、次の「大谷向
(だいやむこう)」を直進。
 すぐ先に見える東武鬼怒川線の「大谷向駅」の踏み切り前で左折して国道121号線の旧道を北上。
 少し行った121号線のバイパスと交差する「倉ケ崎新田交差点」を渡って、更に121号線の旧道を進む。
 この国道121号線は「会津西街道」と言い、当HPの『日光街道12回目』で述べているが、再度紹介する。
 
会津西街道は関東側から呼んだ名称で、江戸時代に初代会津藩主(保科正之)によって整備された会津若松城下から下野今市に至る街道で、会津側からは下野街道南山通りと呼ばれていた。
 現在の国道121号線がそれに当り、栃木県内を会津西街道と称し、福島県からは日光街道と呼んでいる。また、街道の途中には重要伝統的建造物群保存地区として選定されている大内宿がある。会津若松市まで112キロ(28里)


【杉並木寄進碑】 (左側) 
  旧道の121号線は大桑町で突き当たって右折する。
 少し進んだ左側にある「大桑郵便局」のすぐ先を右折する。
 この郵便局の隣(右折道の前)に杉並木寄進碑が建っている。
 碑文は擦れて判別しづらかった。

【杉並木寄進碑】 今市市大桑
 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑である。
 並木の起点となる神橋畔および各街道の切れる今市市山口〔日光街道〕、同小倉〔例弊使街道〕、同大桑〔会津西街道〕の四ヶ所に建っている。
 この碑は、日光神領の境界に建てられているので境石と呼ばれている。

 ここで四ヶ所の並木寄進碑全てを訪れたことになる。
 神橋畔は『日光街道12回目』で、今市市山口は『日光街道11回目』で、今市市小倉は『奥の細道(3)』に記載しているのでそちらも参照して下さい。

【芭蕉一宿之跡】 (左奥)
 杉並木寄進碑の前で右折し、東武鬼怒川線を越えて「大桑交差点」でバイパスを渡って突き当たって左折する。
 道なりに県道を渡って暫く進み、「大渡交差点」を直進してすぐ左折。国道461号線(日光北街道)に入る。
 鬼怒川に架かる「大渡橋」を渡って突き当たりの「船場信号」を右折し、すぐ左の旧道(日光北街道)へ進む。
 船生
(ふにゅう)の町を抜け、「天頂交差点」で左折して新道(461号線)に合流する。

 「玉生(たまにゅう)交差点」の信号が見える手前の道に、『←玉生市街』の道標があるので、ここを左折する。
 450m程先の左側に「関東バス」の待機広場があるので、そこと「ももや化粧品店」の間の細道を入って行くと、林の手前に芭蕉一宿之跡の石碑が建っている。入口の低いブロック塀に『←「芭蕉一宿跡」記念碑入口』の案内板が掲げられているのですぐ分かる。

 ここには碑のみ建っていて、説明文等は何もなかった。

 芭蕉は大渡辺りから大雨に遭遇し、大変な悪路の中を船生では泊らずに玉生まで歩き続けて、ここで日が暮れた。しかし、玉生の旅籠はひどかったので、名主の家を訪ねて無理に泊めさせてもらった。
 ということで、ここが名主の家があった所なのだろう。

【矢板武記念館】 (左側)
 芭蕉一宿之跡からすぐ先を右カーブして、少し行った「梍橋
(さいかちばし)交差点」で再び国道461号線に合流。
 少し行った右側の「ドライブインたてば」の先に、倉掛峠への旧道入口があるはずで、そちらに回りたかったが、車では入口が分からないままに国道の峠を通り過ぎ、下り坂になってしまった。

 暫く進んで、東北自動車道の上を越え、矢板市街地に入った「本町交差点」左角に矢板武記念館がある。記念館に駐車場は無く、この交差点を右折した先右側の市役所に駐車することが出来る。
 この記念館は、矢板武旧宅と庭が公開され、屋敷内も見学できる。母屋は、明治四十五年に改築されている。
 長屋門を入り正面の式台付玄関を入ると勝海舟の書になる「聚薼亭」の額が掲げられている。但し、現在は正面玄関から入ることは出来ず、左側面の家族用玄関から入る。また、庭には矢板市指定・天然記念物の大きく見事なシダレザクラが植えられており、開花時期には再度訪れたいと思う銘木である。

 
現在の当主は、生活の本拠が逗子に在り、東京に勤務しているため、平成九年矢板市に寄付され現在に至っている。
 
矢板武旧宅は「やいたの建物十選」で矢板市指定文化財。庭園は「やいたの庭園十選」に選ばれている。
 開館時間:9時半~16時(冬季は10時~15時) 
 休館日  :月・火曜日(休日の場合はその翌日)、祝日の翌日、年末年始、(土・日・祝日は開館)
 入館料  :一般100円
【矢板家のあらまし】
 矢板家は江戸時代までは姓は坂巻でした。
 明治三年ごろ坂巻武兵衛
(ぶへえ)は矢板の地名をとって矢板武(たけし)と名のりました。そのころ、明治政府は新しく戸籍を作る仕事を始めておりましたので、坂巻武兵衛は矢板武と新しい名前に変えることが出来たのです。
 坂巻家の系図によると、坂巻家は戦国時代のころ甲斐(山梨県)の武田氏の家来でしたが、武田氏が滅んだのち矢板に来て定住したということです。坂巻家は代々百姓をしておりましたが、日光北街道が開かれると問屋業も営んで財産を増やしました。
 那須野が原の開拓に尽力した矢板武の祖父(武兵衛)は、高原山などの豊かな材木を東照宮のある日光方面に送り出す材木問屋をしておりました。そのころの日光北街道は悪路で特に倉掛村付近の山道は坂が急で旅人は難儀しました。そこで材木問屋の仲間や村人と相談して、新しく倉掛新道を作りました。新道工事には沢山のお金と大勢の労力が必要でしたが完成させ、通行人に大へん喜ばれるような仕事もしました。
 矢板武の父(五衛門は、この地方の米を(当時は米の取れない)今市や日光方面に送り出す米問屋をしていました。今市や日光は、日光にお参りする人が多かったので、多くの米が必要だったのです。商売も順調に進んでおりましたが若くしてこの世を去りました。
 若い時から村役人などに任命され村人にしたわれ、時代が変わって明治になると、この地方の副戸長・区長をつとめ地域の指導者になりました。
 その後、那須野が原の開発事業に情熱を傾けたほか、日本鉄道株式会社(JRの前身)の役員となって矢板に鉄道を通すことに努力し、下野銀行や矢板銀行などを設けて頭取(代表者)になり、明治初年のころ荒れ果てていた日光を復興する(元のように立派にする)ため、保晃会という組織を作って多くの人々から募金を集めて日光のため努力もしました。
 矢板家は主に経済の発展に努力を注ぎましたから、明治から大正時代にかけて活躍した明治の元勲(国のために大きな功績のあった人)たちとも交際(つき合い)が多かったのです。三条実美、山縣有朋、品川弥二郎、渋沢栄一、勝海舟、大鳥圭介などのほか名士の書や大事な品物などが数多くのこされています。
【聚薼亭(しゅうじんてい)
 正面玄関を入ると「聚薼亭」と書かれた額が掲げられています。
 明治十四年の晩秋(秋の終りころ)勝海舟は日光に来られた折に矢板武家を訪ね、この額を書かれたものと思われます。字の通り読むと「塵
(ちり)の聚(あつ)まる亭(やしき)」ということになりますが、その意味は次のようにも考えられます。
 勝海舟は「吹薼録
(すいじんろく)」という書物を遺したり、「政薼の外に超越し」など、「薼」の字をよく使っています。
 明治十四年のころ矢板武は、那須野が原開発のために忙しく働いていて、那須野が原開拓の関係者や、国の中心になっている政治家たちがこの屋敷に出入りしていました。この様子を考えて「薼まみれになって働いている人たちの集まる屋敷」と名づけたものと思われます。

【なんじゃもんじゃの木】 (右側)
 矢板武記念館の先、国道461号線は右カーブして「中交差点」で国道4号線にぶつかるが、その一本手前の斜め左の道へ入り、「中北交差点」で4号線を横断して、4号線の右側の道を進む。
 次いで、東北新幹線にぶつかる前の「沢信号」を左折して新幹線をくぐる。
 ほどなく箒川にかかる「かさね橋」を渡る。橋の袂の石に、馬に乗っている芭蕉と曾良及び二人の子供がついて行くレリーフがはめ込まれていた。
 芭蕉は、矢板を過ぎて広大な那須野が原を進む。途中野飼いの馬を見つけ、近くいた農夫に頼むと、農夫は「此の野は縦横に分かれて旅人は間違えやすいから、馬が行くとおりに行って、馬が立ち止まったところで返してくれれば良い」と快く馬を貸してくれた。
 このとき二人の子供が馬の後をついて来た。一人は小娘で、名前を訊ねると「かさね」という。聞きなれない名前だが優しい感じがしたと、曾良の句を載せている。

     
かさねとは八重撫子の名成るべし
 この曾良の句が「かさね橋」の手前右手の観音寺にあるというので、橋の手前を右折して裏から行ったが、見つけられなかった。新幹線の手前で左折せずに真っ直ぐ進めば行けることは分かっていたが、地図では裏からも行けそうだったので行ってみたが迷ってしまった。
 「かさね橋」を渡って進む道を「なんじゃもんじゃ通り」と云う。やがて右側になんじゃもんじゃの木と思われる木立と社が見えたが、あまり広くない道で後ろから車が迫って来たため止められず、あっと言う間に通り過ぎてしまったので残念ながらチラ見で終わってしまった。
 これが車の不便なところである。歩いていると発見が多いことを改めて実感した次第である。


【大田原】 
 やがて道は国道461号線に合流して右に進む。
 国道に合流してすぐ「神明町交差点」で右から来る奥州道中と合流して大田原宿に入ってゆく。
 
ここ「神明町交差点」から蛇尾(さび)川に架かる「蛇尾橋」までは、当HPの『奥州街道4回目最後の【薬師堂】から5回目の【蛇尾川】』までを参照。
(奥州道中・大田原宿の見学コースは:薬師堂→那須与一像→金燈籠→龍泉寺→光真寺→大田原神社→太田和城跡)
 但し、奥州街道を歩いたときは光真寺に寄らなかったので、今回訪れた。
【光真寺】 (左奥)
 龍泉寺の左横の道を入って行くとすぐ右側に光真寺がある。本堂左うしろには歴代大田原城主の墓があり、壮観である。

光真寺縁起】
 当寺は、天文十四年(1545)に創建された禅寺で、永平寺並びに総持寺を大本山とする曹洞宗に属し、大田山光真寺と称します。本尊は釈迦牟尼佛。
 御開山は矢板市長興寺第三世代體翁麟道大和尚にて、宇都宮市成高寺の門葉であります。
 開基は、大田原家中興の祖である第十三代資清
(すけきよ)公で居城を中田原水口から大田原龍体山に移すを機に、両親の菩提を弔うため、この地を霊域と定めて七堂伽藍を建立された。寺号は父君の法号「明庵道光」の光と、母君の「真芳妙観」の真とをとり命名したと云われます。
【大田原氏墓所】 大田原市指定重要文化財(昭和40年10月1日指定)
 光真寺の開祖(創設)大田原家13代資清公は光真寺開山時(天文14年・1545年)本堂の裏山に墓所を定め、以来28代勝清公まで代々埋葬しましたが、昭和にいたり墓所の風化損壊が著しく、昭和15年に現在地に移設、平成10年に改修工事を行い現在に至っています。
 墓所は全て那須芦野石製の宝篋印塔の大石塔で大田原家の繁栄と豊かさを忍ばせ、市指定の重要文化財となっています。

【那須神社】 (左奥)
 光真寺を後に、奥の細道は蛇尾橋を渡って、右方向にカーブしてゆく国道461号線を道なりに進む。
 奥州道中は橋を渡って「河原信号」を左折してゆく。
 国道461号線は、「上奥沢信号」で左折して、「国際医療福祉大学」前を通過して行く。
 程なく左側に、道の駅「那須与一の郷」が現れる。ここで地元の野菜を購入する。
 この道の駅の裏手に那須神社がある。天女や龍が描かれた格天井を持つ楼門(下記の写真)は極彩色で綺麗だったが、本殿は質素だった。共に寛永十七年に大修理したもので、拝殿の前に配置されている石灯篭と楼門手前の手水舟は寛永十九年(1642)に黒羽藩主大関高増が奉納したもので、年代を感じるものだった。この二つは大田原市指定有形文化財に指定されている。
 芭蕉も訪れた神社で、 那須与一が屋島で扇の的を射る時、この神社を念じたと、下記記載の由緒に書かれている。

【御由緒】
 第十六代仁徳天皇の御代下野国造奈良別命が国家鎮護のため金瓊(黄金の玉)を埋め塚を築き祠を建て天照皇大神 日本武尊 春日大神を祀ったのが濫觴と伝えられています
 降って、延暦の頃征夷大将軍坂上田村麿東夷征討の時砌りこの祠に詣で応神天皇を勧請して初めて金丸八幡宮と称したのであります
 その後源頼義その子義家父子前後二回にわたる奥羽征討の途この地に八幡宮の祠あり神助を祈願して戦勝を得たと言われて居ります
 又近衛天皇の御代三浦上総介義澄が那須野の妖狐を退治した時もこの社に祈願し容易く射止めることができたのでその弓を奉納した
 中世那須氏がこの地に勢力を広げ那須氏代々の氏神とし崇敬厚く特に与一宗隆ゆかりの社で四国屋島において扇の的を射る時当社八幡大神温泉大神を中心に念じ名声を天下に博したので社殿を再建し神意を慰め祭ったその後大関氏那須氏に代わってこの地を領する代々の城主大関家の氏神とし尊崇殊の外深く中でも大関高増清増始め累代の城主しばしば神殿を再建修繕して今日に至て居ります現在の楼門並び本殿は寛永十七年大関高増社殿の大修繕に成るもので昭和三二年八月本殿並楼門外栃木県重要文化財に指定された貴重な建造物であります
 尚お元禄二年俳聖松尾芭蕉行脚四月十三日当社に参拝したと奥の細道にも見え今日も芭蕉を訪ね参拝する者あります
 明治六年那須神社改称し南金丸村外十三ヵ村の郷社となりその後南金丸北金丸の氏神となりまして多くの衆庶の信仰を得て居ります
     平成廿知念二一年九月吉日

【雲巌寺】 
 那須神社を後に、再び国道461号線を黒羽市街に向かって進み、「那珂橋西信号」で右折して那珂川を渡る。
 黒羽市街観光は後回しにして、先に雲巌寺に向かうことにした。
 引き続き国道461号線を進み、松葉川に架かる「下高橋」を渡って次の信号を右折する。
 そのまま道なりに行って「唐松峠」を越えたら、「雲巌寺」の案内標識に従って左(道は直進)の県道13号線に入り、更に郵便局のある「須佐木信号」で、再び「雲巌寺」の案内標識に従って左(道は直進)に入る。

   川に沿った道で、「須賀川小学校」の前を通過すると程なく雲巌寺の入口に到着する。駐車場もあり、路線バス(東野バス)も通っている。ここまで「那珂橋」から12Kmある。
  境内に入るとまず右手に、樹齢約550年・大田原市指定天然記念物である雲巌寺のスギが聳えている。
 次いで赤い爪瓞橋
(かてつきょう)を渡り、石段を上って山門をくぐる(左上の写真)と、広い境内正面に仏殿とその左側に勅使門、右手に鐘楼、左手に観音堂があり、その観音堂の手前に芭蕉の句碑が建っている。句碑には上記の句が刻まれていた(左下の写真)
 また、仏殿の後の高いところに方丈庫裏禅堂等が建っている。
 方丈をお参りしていた時、学生達がさかんに鐘を撞いていた。誰でも自由に撞いていいのか?静かな境内に何時までも鐘の音が響いていた。
【禅宗東山雲巌寺由緒】 (長い由緒がごちゃごちゃと書かれていたので、要約する。)
 仏国国師が修行中関東地方を行脚し、此の霊境に草庵を結んだ時、八溝山の高梨勝願法印が国師に就いて禅を学び弟子の礼を執り、此の山を国師に献上し、弘安六年(1283)の時執権北条時宗が国師の為に一大禅刹(雲巌寺)を建立した。
 その後、戦国時代に衰え、天正六年(1587)に無住妙徳禅師が住職となり京都妙心寺派に属することになった。
 天正十八年(1590)秀吉が小田原城を攻めた際に、戦火で焼失したが数年後再建。弘化四年(1847)方丈・庫裏が火災にあったが2年後再建。仏殿は火災を免れたが三百有余年を経過して腐朽の極に達し、大正元年(1912)改築を企て同十一年(1922)竣工。
 其の様式は鎌倉末期の手法による。
 芭蕉にとって禅の師であり、畏友(尊敬する友人)と慕っていた仏頂禅師が、かつて雲巌寺で修行していたことから、芭蕉はこの寺を訊ねたいと思っていた。
 
ここで詠まれた句が、
     
木啄も庵はやぶらず夏木立
 
句の庵(いお)は、仏頂禅師が住んだ庵をさす。
句碑の説明文】
 松尾芭蕉は、元禄二年四月五日(陽暦五月二十三日・1689年)に雲巌寺にある仏頂和尚の山居の跡をみようと、人々をいざない山道をにぎやかにうち興じ、遠近の景を賞でながら山門をくぐった。
 『おくのほそ道』に「かの跡はいづくのほどにやと後の山よぢのぼれば、石上の小菴岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
  木啄
(きつつき)も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し」とある。
 仏頂和尚は、常陸国鹿島根本寺の住職で鹿島神宮との寺領争いを提訴のために江戸深川の臨川庵に滞在していた。芭蕉はこの時に仏頂和尚との交渉を持ったという。また参禅の師ともいう。和尚の山居の歌に「たて横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやしあめなかりせば」があり、芭蕉が山居の跡をみようとしたいわれの歌でもある。
 芭蕉は、樹下石上の小庵をなつかしみつつ、さすがの木啄も、この高徳な仏頂和尚の庵だけは破らぬという礼賛の句を柱に残して惜別した。


 雲巌寺を後に、再び黒羽市街の「田町十字路交差点」戻り、芭蕉の足跡を訪ねる。


【侍門】 
 「田町十字路」を雲巌寺から来て右折し、右側の「大田原市役所支所」の先を右折すると「黒羽小学校」に突き当たる。その突き当たりに侍門が建っている。
 「大田原市役所支所」には「観光交流センター」があり、黒羽観光の資料が手に入る。

【侍門】 (武家屋敷の門)
 この門は、黒羽藩主大関家の重臣大沼家の侍門であったと伝えられています。
 明治時代になって、黒羽城の記念といて移築されました。
     平成十四年三月 黒羽町立黒羽小学校 

【大雄寺(だいおうじ) 
 黒羽小学校前を左折するとすぐ右側の木立の中に大雄寺の参道がある。
 道路を挟んで反対側に無料駐車場があり、参道の右側には「白旗不動尊」が建っている。
 大雄寺の参道に入り石段を登る途中左側には、ラカンの丘と称して数体の羅漢像が配置されていた。
 その上の三門をくぐり、更に石段を登ると総門と繋がっている廻廊が現れ、正面の本堂、右側の第一庫裏、左側の座禅堂も廻廊に繋がっている。廻廊に繋がっている建物と鐘楼は全て屋根が茅葺きで落ち着いて趣のある寺である。
 総門内右手に鐘楼堂、左手に水琴窟があり、総門の前左手には経蔵集古館が建っている。
 ここ総門前で不覚にもカメラの電池が切れてしまった。車に置き忘れた予備電池を、長い階段を往復して取りに行く元気も無くなり、携帯のカメラで写したが、ここに載せる程の良い写真は撮れなかった。その後カメラから電池を取り出して手で暖めた所、かろうじて下記大関家代々の墓地と説明板の2枚だけは撮ることが出来た。


三門
【曹洞宗黒羽山久遠院大雄寺の沿革】
 大雄寺は、旧黒羽余瀬に応永十一年(1404)に創建されたが、同三十三年戦乱により焼失、文安五年(1448)第十代大関忠増により再建、天正四年(1576)第十四代大関高増が白旗城(旧黒羽余瀬)より黒羽城(旧黒羽前田)に移した際に大雄寺を現在地に移築した。第十三代大関増次を中興開祖、在室玄隣大和尚を中興開山として、黒羽山久遠院大雄寺と称することとなる。
 本堂、禅堂、庫裏、総門、廻廊、鐘楼は、茅葺き屋根で、禅宗寺院の様式を守りながら、簡素で精神的な建築物として貴重な文化遺産である。
 多くの仏像、仏画等の寺宝は、宝物収蔵庫「集古館」に保存し、公開もしている。
◆ 本堂、禅堂、庫裏、総門、鐘楼、御霊屋
    昭和四十四年二月四日 栃木県指定有形文化財
◆ 経蔵及び輪蔵
    昭和四十二年十二月二十二日 栃木県指定有形文化財
◆ 黒羽藩主大関家累代墓所(史跡文化財)
    彫刻、絵画、書蹟等 栃木県及び大田原市指定有形文化財

 参拝時間:9時~17時
 拝観料  :屋外は無料、本堂・禅堂などの屋内は有料(500円)

 総門から数段戻った右手奥に進むと、木立の中に黒羽藩主大関家累代墓所がある。

【史跡 大関家代々の墓地】 大田原市指定文化財(昭和46年2月12日指定)
 
大関家代々の墓地は、黒羽山久遠院大雄寺の山内にある。
 墓碑は、芦野石を用いた位牌型で、大小の五輪塔と宝きょう印塔の型もみられる。
 大関氏は丹治姓(多冶比系)を称する。
 同氏は、中世の豪族で、近世になって黒羽を中心に一万八千石を領地し、廃藩置県まで、国替えもなくこの地方を支配した外様大名である。歴代の藩主に学将が多い。黒羽領主蔵版『日本書紀』などを刊行した化政期(1804~1830)の大関土佐守増業や幕末に海軍奉行・若年寄として幕閣に属し活躍した肥後守増裕などの墓碑もこゝにある。
 大関氏代々墓地は、近世小藩大名のものであるが、規模が大きく、まとまりがあす。史跡としても貴重である。
     大田原市教育委員会

【黒羽城跡・黒門跡】
 駐車場に戻り、少し進むと右手に「芭蕉の道」という登り口があり、ここから途中旧浄法寺邸の前を通って芭蕉の館まで遊歩道になっている。
 その入口に芭蕉の句碑(行春や鳥啼き魚の目は泪)が建っている。

 私達は車に戻り、その先右手の旧浄法寺邸の案内板が出ている前の駐車場に再び車を停めた。
 その旧浄法寺邸入口への階段下左側のくぼ地に史跡黒羽城跡 黒門跡の標柱が立っていて、奥に芭蕉の句碑が建っている。
 黒門の説明文は無かったが、芭蕉の句碑には、浄法寺家に滞在した四月七日に詠んだ次の句が刻まれていた。
     田や麦や中にも夏のほとヽぎす

【旧浄法寺邸】 
 階段を登った所に旧浄法寺邸(浄法寺桃雪邸跡)があり、傍らに黒羽に芭蕉が滞在した説明板が立っていた。
 この跡地に建つ建物は平成21年4月1日に改修されたばかりでまだ新しく、茶会や各種イベント等用に整備されたとのこと。
 ここの裏庭に建つ芭蕉の句碑は、加藤楸邨筆による、
     山も庭も動き入るや夏座敷
 このあたりから夕方近くなり、残念ながらゆっくり見て回る時間が無くなって来たので、急いで車に戻る。

【俳聖松雄芭蕉と黒羽】
 元禄2年(1689)に江戸を発った俳聖松尾芭蕉は、門人の曾良とともに『奥の細道』行脚の途中黒羽の地を訪れ、旅程中最も長い14日間逗留し、知人や史跡を訪ね、次に向かう『みちのく』の地への準備期間をここで過ごした。宿泊先は、江戸において芭蕉の門人となっていた黒羽藩城代家老浄法寺高勝(桃雪)邸とその弟鹿子畑豊明(翠桃)邸であった。
 桃雪邸は、黒羽城の三の丸にあった。黒羽城は、南北約1.5キロ、東西約250メートルという県北最大規模の山城で、黒羽藩主大関氏の本拠であった。
 芭蕉は黒羽滞在中、桃雪邸に8泊している。その間、4月5日(陽暦5月23日)には雲巌寺へ足をのばし、参禅の師・仏頂禅師の山居跡を訪れ、4月9日(陽暦5月27日)には、余瀬の光明寺(修験道の寺院、明治初年に廃寺)を訪れた。芭蕉と曾良は、黒羽滞在中に多くの句を詠んでおり、各所に句碑が建てられている。
 現在でもこの地区の道路は、芭蕉が訪れた当時の面影を深く残しており、往時俳聖が辿った足跡を訪ねることができる地である。

【黒羽芭蕉の館】 
 旧浄法寺邸のすぐ先左へ上った所に黒羽芭蕉の館がある。
 これは、松尾芭蕉の『奥の細道』紀行300年を記念して作られた資料館で、芭蕉に関わる作品や、黒羽の歴史資料等を展示している。
 資料館前の広場は、黒羽城三の丸跡で標柱が立っている。また、資料館入口の左手には馬に乗った芭蕉と曾良のブロンズ像が建っている。
 
営業時間:9時~16時半
 休業日  :月曜(祝日の場合は翌日休)
 料金   :300円

【芭蕉像脇の説明文】 (文章は非常に読みづらかったので一部?)
 「那須の黒羽といふ所に知人あれば」とて松尾芭蕉は『おくの細道』行脚の途次黒羽を訪れた。元禄二年四月三日のことである。途中那須野路にさしかかった折、草刈る男に馬を借りた。その跡を慕う小娘を曾良は
   かさねとは八重撫子の名なるべし
と詠んでいる。
 翁は浄法寺、鹿子畑翠桃
(かのこはたすいとう)兄弟の待遇を受け、十三泊十四日の長逗留の間に郊外に道遥しては歴史・傳説の地を尋ね寺社に詣でて句を残し、あるいは地元俳人たちと歌仙の興行があうなどして、心楽しい日々を過ごした。そうして黒羽を立った日に
   野を横に馬牽むけよほととぎす
の馬上吟があった。これらのことに因み、ここに馬上姿の芭蕉翁と曾良の像を建立し、千歳の形見として敬仰するものである。
     平成元年十月二十一日 黒羽町芭蕉像をつくる会

 芭蕉の館から黒羽城址公園へ遊歩道が続いているが、時間が無いため城址見学は断念。
 取り急ぎ「田町十字路交差点」に戻る。


【常念寺】 (左側)
 「田町十字路交差点」から「那珂橋」を渡って突き当たりの「那珂橋西交差点」を右折する。
 
次の「黒羽向町交差点」を過ぎると左側に常念寺がある。
 この寺の入口に芭蕉の句碑が建っている。傍らには説明板と黒羽の至る所で見かける投句箱も置かれていた。

【句碑の説明板】 大田原市有形文化財(歴史資料)
 松尾芭蕉は元禄二年四月十六日(陽暦六月三日・1689年)に余瀬を立って殺生石に向かった。曾良の『旅日記』には「十六日天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被
立越。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及 昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。云々」とある。『おくのほそ道』には「是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させえよ」と乞。やさしき事を望待るものかなと、
 野を横に馬牽むけよほとゝぎす」とある。
 この句は、余瀬を立って野間までの間で、馬子に乞われて詠まれたものであろう。夏草が茂った広漠たる那須野が原を、馬上姿で行く芭蕉が想像される。
 特に「馬牽むけよ」の馬子への呼びかけの言葉が、ほとゝぎすの鳴声と合って一層の俳味が感じられる。
 この句碑は伝浄法寺桃雪建立であるが、年代、筆者は不詳である。
     芭蕉の里 くろばね

【明王寺】 (右側)
 常念寺から400m北上した右側に明王寺があり、駐車場は寺の少し先右側にある。
 この寺は『那須三十三所観音霊場第一番札所』となっている。
 芭蕉の句碑は、物陰に隠れていたためにすぐ見つからず少し探してしまったが、山門を入り正面の本堂手前右側のお堂の左脇、生垣の中に建っていた。

【句碑の説明板】
 芭蕉は元禄二年四月三日黒羽を訪れ十四日間滞在、その間に歌仙の興行があった。
     秣(まぐさ)おふ人を枝折の夏野哉  芭蕉
を発句とした三十六句の中から、明王時の境内に最も相応しい句として、
     今日も又朝日を拝む石の上     芭蕉
を選び石に刻んだ。
     昭和六十三年二月十日 蓮実彊 記す。

【修験光明寺跡】 (右側)
 明王寺から常念寺前まで戻り、寺に向かって右側の細道に入る。
 道なりに真っ直ぐ進み、小川を渡った先に小さな二股道が現れると、その手前右側の林の前に修験光明寺跡の案内板が立っている
(左上の写真)

 この案内板が示す林の中に短い階段を登って入って行くと、説明板と芭蕉の句碑が建っている(左下の写真)
 
ここで詠まれた句が、
     夏山に足駄を拝む首途哉

 林の中なので地面が湿っており、気をつけていたにもかかわらず、帰り際に足をとられ転ばないまでも思いっきり左手をついてしまった。
 翌日手首が痛くなりかなり腫れてきた、骨折でもしたかと思ったが、湿布薬を貼ったところ翌々日には腫れも引いて痛みも治まったので医者には行かなかった。その後も問題が無かったので、ただの打撲で済んだようだった。
【句碑の説明板】
 芭蕉は元禄二年四月九日(陽暦五月二十七日・1689年)に光明寺へ招かれ、昼より夜五つ過ぎ(午後九時過)迄で浄法寺図書宅へ帰った。
 『おくのほそ道』に「修験光明寺と云有、そこにまねかれて、行者堂を拝す。」
   
「夏山に足駄(あしだ)を拝む首途哉(かどでかな)
とある。これは光明寺の行者堂に安置されていた役の行者小角
(おづね)の像を拝し、芭蕉がこれからの長途の安全を祈り、その健脚にあやかろうとして詠んだものであろう。
 伝えには那須与一宗隆が屋島に出陣する際、山城国伏見の光明山即成院の弥陀仏に武運長久を祈願して、遂に扇の的を射て武名を輝かせることができたという。与一は帰国後文治二年(1186)余瀬村のこの地に弥陀物を勧請して、即成山光明寺を建立したという。その後久しく廃絶していたが、永正年間烏山城主那須資実が、近江の大津に住んでいた天台宗の僧無室(元津田八郎 五郎)を招聘し、光明寺を再興して修験道に改め、無室は津田源弘と称した。
 芭蕉が招かれた当時は、第七代津田源光大僧都で、妻は鹿子畑左内の娘なので翠桃が口添えをしたのであろう。
     芭蕉の里

【西教寺】 (左側)
 修験光明寺跡から程なく広い道に出ると、十字路を渡った左角に白旗城跡説明板が立っていた。ネットで調べたらここから200m程の所にあるらしいのだが、本当に跡だけの様である。
 この広い道路に出た所を右折すると250mで左側に西教寺がある。
 寺の入口に「西教寺曾良句碑」の木柱が立ち、境内に入った本堂の左手に芭蕉の句碑が建っている。

【句碑の説明板】
 松尾芭蕉と曾良は、元禄二年四月三日(陽暦五月二十一日・1689年)に日光より余市、船入、玉入、沢村、大田原を経て黒羽の余瀬に住む鹿子畑翆桃を訪ねた。
 『おくのほそ道』に「那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。
 明ければ又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへども、さすがに情しらぬには非ず。」とある。目じるしとてない那須野の原の道であるので、道なれたこの馬に乗って行き、馬が止まったら返してくださいと、貸してくれた。「ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独(ひとり)は小姫にて、名を「かさね」と云。聞なれぬ名のやさしかりければ、かさねとは八重撫子の名成べし  曾良」とある。まことに、那須野の有情農夫と八重撫子のようなかわいらしい小娘の挿話に心暖まるものがある。
     芭蕉の里 くろばね

【鹿子畑翠桃邸跡】 (右奥)
 西教寺の前から右前方の右折道を見るとそこに鹿子畑翠桃邸跡の案内板が立っている。
 すぐ近くだと推測して西教寺の駐車場に車を置いたまま徒歩で向かったが、意外と奥にあり、車で行けば良かった思った。
 何枚かの案内板に従って、右・左・右へと曲がると左手の畑の中に鹿子畑翠桃墓地がある。

鹿子畑翠桃邸跡と墓地】 史跡(昭和63年6月24日指定)
 「おくのほそ道」行脚の途次、芭蕉は余瀬に住む門弟の鹿子畑翠桃(豊明二十八歳)を尋ねた。時に元禄二年四月三日(陽暦五月二十一日・1689年)であった。翁の黒羽滞在十三泊十四日の中で、兄浄法寺桃雪(高勝二十九歳城代家老、廓内に住む)方と、弟翠桃方に交互に泊り、その間郊外を逍遥しては、歴史・伝説の地を訪い、寺社に詣でまた歌仙も興行した。
     奈(那)須余瀬 翠桃を尋ねて 
  秣おふ人を枝折の夏野哉      芭蕉
  青き覆盆子
(いちご)こぼす椎の葉  翠桃
 鹿子畑氏はもと大田原氏に属した。鹿子畑能登の代に、高増(後に美作守、安硯)が大田原氏から出て大関氏を嗣ぐに際し、能登は少年高増の後見人として来たり、白旗城下の余瀬に居を構え子孫に伝えた。後の代に黒羽堀之内に移住し、翠桃の邸宅跡は土塁が周り、土手の内と称された。現在は水田と化し、この北隣に墓地のみ残る。
 翠桃の墓碑には「不説軒一忠恕唯庵主」とあり、辞世の
   きゆるとは我はおもはじ露の玉
      色こそかはれ花ともみゆ覧
も刻まれてある。なお翠桃の父佐内高明の墓碑、修験光明寺源光室(高明の女)の墓碑も並び建っている。
     芭蕉の里 黒羽町

【犬追物跡】 (右奥)
 西教寺の駐車場に戻ってきた時には真っ暗になってしまった。夏ならもっと沢山名所旧跡を巡れるのに、冬の旅は日が暮れるのが早いので実に時間が勿体無いといつも思ってしまう。
 暗い為、この後予定していた玉藻稲荷神社狐塚跡へ行くことが出来なくなってしまった。
 玉藻稲荷神社西教寺から北へ進み、次の信号を左折して1.9Km程北西にある神社で、九尾の狐退治の伝承地として「鏡が池」と「狐塚」の霊を移したという祠がある。狐塚跡は更に北西へ1.1Km行った「篠原境バス停」の傍にある。
 黒羽最後の訪問地として予定していた犬追物
(いぬおうもの)の地は、車で行ってみた。
 「西教寺」から二つ目の信号を右折して、次の信号を越えて左カーブしている左側の林の前に説明板のみ立っていたが、さして広くない車道で通行量も多かったので駐停車することが出来ずに車窓から見ただけだった。
 犬追物跡は、近衛帝の久寿年中、勅を奉じて三浦介義明・千葉介常胤・上総介広常が、玉藻前が狐と化して逃げて那須野に隠れ棲んでいるのを退治するために、犬を狐にみたてゝ追い射る武技を行った跡という。


【黒羽~野間~鍋掛~越堀~高久】
 「西教寺」から二つ目の信号に戻り、北に600m程進んだ二又道を斜め左に入り、そのまま道なりに北西へ進むのが、芭蕉が歩いた道と思われる。
 途中、「羽田」、「八幡神社前」、「藤形公民館前」を通り、「野間」で旧陸羽街道(県道72号線)にぶつかったら右折して「鍋掛」から「越堀」へ向かう。
 
芭蕉は「野間」まで馬で送ってもらい、この時馬子に乞われて馬上で詠んだ句が、
     野を横に馬牽むけよほとゝぎす

 
旧陸羽街道の「野間」から「越堀宿」までの4.4Kmは奥州道中と重なる為、旧奥州街道5回目の【鍋掛宿】から越堀宿の【坂本屋と道標】迄を参照して下さい。
 この間の名所旧跡は、『樋沢神社の葛篭石』、『鍋掛一里塚』、『八坂神社境内の芭蕉句碑』、越堀の『浄泉寺の領境界石』等がある。
 浄泉寺を出て枡形を過ぎたら奥州道中は右へカーブして行くが、奥の細道殺生石見学の為ここから左へ分かれて那須の「高久」へ向かう。
 「高久」に近づいて、JR東北本線・東北新幹線・国道4号線(黒磯バイパス)をくぐって突き当りを左折し、もう一度突き当たりの信号を右折する。
 右折するとすぐ右側に高久家菩提寺である高福寺があり、その先に高久家跡芭蕉翁塚等があるが見学は明日にして、今夜の宿泊先である「りんどう湖ロイヤルホテル」に向かう。



 日光~玉入    9里   (35.3Km)   計  41里15丁(162.7Km)
 玉入~黒羽    9里   (35.3Km)   計  50里15丁(198.0Km)
 黒羽~高久    4里   (15.7Km)   計  54里15丁(213.7Km)

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