浜街道(3) JR横浜線「町田駅」~相模鉄道「西谷駅」
2014年3月29日(金) 快晴
JR「町田駅」を出た、次の「原町田中央通り交差点」を10:55スタート。
この橋は、横浜市水道局が管轄している大貫谷戸水路橋で、昭和27年(1952)に建設された水道用の橋である。 全長300m以上ある。 |
【入船地蔵】 子宝を 乃せて笑顔代 地蔵尊 平成二年一月吉日 |
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【木造 大日如来坐像】 横浜市指定有形文化財(彫刻) (平成7年11月1日指定) 時 代 室町時代 構造及び形式 技法 寄木造、玉眼、肉身部金泥、着衣部漆箔 寸法 像高三三・〇cm 員 数 一軀 このお像は長源寺の本尊で、頭髪を高く結い上げて銅造の宝冠をかぶり、胸の前で智拳印を結ぶ金剛界の大日如来坐像です。 張りの強い面部や下半身の装飾的な衣の皺の刻出などに鎌倉時代の作風を受け継ぎ、丁寧にまとめられており、像底部の銘文から、東国仏教界に強い影響を与えた高僧の印融(いんゆう)が、永正十年(1513)に寄付したことがわかります。 印融は、永享七年(1435)に、現在の緑区三保町に生まれ、港北区鳥山町の三会寺や鶴岡八幡宮で学んだあと、高野山で修行し、のちに関東に戻り三会寺を拠点に、真言密教の復興に努めました。 このお像は、当代の佳例であるうえ、印融のおこなった真言密教の復興運動の一相を示してくれるなど、資料的価値も高いといえます。 横浜市教育委員会 |
由緒等は無く、木の鳥居をくぐり28段の石段を登ると広場の様な境内にシンプルな社殿が建っている。 社殿右奥の『浜街道』沿いには庚申塔が建っていて、文字が擦れているが道標も兼ねているようである。 浜街道はこの神社の東角(鳥居の写真でこの右手)を左折して、庚申塔の前を通る旧道を進む(庚申塔の写真で右下から右奥に続く道)。 |
【お地蔵様の由来】 当地のお地蔵様は岩船地蔵尊と云われ今から二百八十余年前の享保年間(享保十年、1725年)に建立されました。 当時、全国的に享保の飢饉と云われた、農作物の不作、疫病の蔓延等で人心は動揺し社会は不安定となりました。このため疫病等の進入を防ぎ、老人や幼稚を守るためにお地蔵様は建立されたものと伝えられております。 以来二百八十余年間、この地に建って人々の信仰を受け、川井の地を見守ってこられました、今でも子育地蔵として多くの参拝者が訪れています。 このお地蔵様を川井地区の貴重な文化財として、これからも人の心の拠り所として宗教、宗派をこえて広く信仰し永く保存してまいりたいと考えております。 |
この様な蔵は、以前日光街道の粕壁(春日部)宿を歩いた時に見たものと同じ様なもので懐かしく、見入ってしまった。 『日光街道3回目』の田村家や田村荒物店の蔵に折れ釘があった。 浜街道の蔵には梯子が折れ釘に吊るされていた。 |
程なく「築池交差点」で八王子街道に合流して国道を行く。 500m程進んだ「今宿西町信号」で左斜めの旧道に入る。入ってすぐ左側に屋敷門と蔵が建つ旧家がある。 |
地蔵堂内、右側の地蔵尊は寛文九年(1669)、左側は宝暦八年(1758)と刻まれていた。 |
案内板に従って左の細道を上って行くと、すぐ右側に薬王寺があり、角には、『畠山重忠公戰歿之地』と刻まれた碑と六ツ塚の説明板が立っている(左上の写真)。 道路を挟んで二箇所に分かれている薬王寺の境内には六ツの塚が点在している。 その場所は、本堂右手前、本堂左手前、左奥(下の写真)と道路を挟んで右の敷地に三箇所である。 |
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【六ツ塚】 横浜市地域史跡 おおよそ乱世には学問道義は衰えるが畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼備えた武将で今なお親み慕われている その時鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよの命に接した公は菅谷の館(現埼玉県比企郡)を六月十九日発し鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎は、ここ霊堂の前方帷子川を越えた彼方の台地(万騎が原)方面から突然攻め寄った、公は策にかかったとは知ったが、武士としてここに決戦を覚悟した、この時公の重臣らは一度菅谷の館に引き返し軍を整えて鎌倉方を待たるるよう進言したが、公は毅然としてしかすれば我に陰謀があったと無実が事実となり永久に汚名を着ると論した上、午の刻(正午より数時間にわたる激戦のはて愛甲三郎季隆の矢に当り遂に一族郎党一三四騎とともに玉砕した。時は元久二年六月二十二日(1205年今より768年前)公は四十二才、この地に主従一同と六ヶ所に葬り代々伝えて六ツ塚と言う。 昭和四十八年六月二十二日 旭区役所 旭区観光協会 (左下の写真は、六ツ塚の内、境内左奥にあった、標柱に『畠山重忠公の霊位』と書かれていた塚) |
【武州鶴ヶ峰駕籠塚碑文】 横浜市地域史跡(昭和63年11月1日指定) 元文二年六月二十二日畠山重忠公ハ岳父北條時政ノ策謀ニ因リ冤罪ヲ被ムル 北條義時大軍ヲモッテ之ヲ迎撃セントス 重忠公一族百三四士悉ク死ヲ決スルノ悲報秩父・菅谷ノ館ニ達ス 内室急遽北條ニ至ラントスルモ公既ニ戦死ス 悲嘆慟哭シ乗駕中殉ズ 駕籠塚ハ長永ク其ノ霊ヲ弔ウテ今日ニ至ル |
刻まれている文字は『奉納百番観音供養』で、下部はセメントで固定され『養』の字の下半分は隠れていたので、その下に『塔』が刻まれていたかは不明。 百番観音とは、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所を合わせたもので、この百番観音供養塔を拝めば、西国・坂東・秩父の百観音を巡礼したと同じ功徳が得られるものではないかと思われる。 |
【畠山重忠公碑】 横浜市地域史跡 鎌倉時代の武将・畠山重忠公は、元久二年(1205年)六月にこの地で戦死しました。この碑は、重忠公没後七五〇年を迎えた昭和三十年(1955年)六月に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県川本村(現・深谷市)の有志により建立されたものです。 旭区制25周年記念施設 平成22年2月吉日改修 旭区誕生40周年記念事業実行委員会 【さかさ矢竹の由来】 鎌倉武士の鑑、畠山重忠公は、この地で僅かの軍兵で、北條勢の大軍と戦って敗れた。公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢箆(やの)二筋を地に突きさした。やがてこの矢が自然に根付き年々二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。 このさかさ矢竹も昭和四十年代の中頃までは、現在の旭区役所北東側の土手一面に繁っていたが、その後すべて消滅してしまった。 この度畠山重忠公没後八百年にあたり、ここにさかさ矢竹を植えて再びその繁茂を期待いたします。 平成十七年六月ニ十二日 横浜旭ロータリークラブ |
【首塚】 横浜市地域史跡 畠山重忠公は鎌倉時代の武将で、源頼朝の忠臣として幕府の創設にも力を尽くし、智・仁・勇を兼ね備えた武将として名声をはせていました。しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、旭区の二俣川付近で戦死しました。 ここは重忠公の首が祭られたところといわれています。現在は西向きに建っていますが、以前は南を向いていたそうです。 平成二十二年二月吉日設置 旭区誕生40周年記念事業実行委員会 旭区観光協会 |
【「鎧橋」と「帷子川」】 鶴ヶ峰公園のこのあたりは、古くは帷子川として流水をたたえたところですが、河川改修により埋め立てられ誕生しました。 鎧橋は、明治時代に横浜水道敷設のために造られた水道みちと帷子川が交差していたこの場所に架けられました。当初、木で造られていた橋は、時代とともに架け替えられながら永く親しまれてきましたが、平成15年の道路改修工事によりはずされました。 鎧橋という名の由来は定かではありませんが、一般には、やや上流の旭区役所付近に「鎧の渡し」と呼ばれた渡し場があったことから名づけられたといわれています。 平成15年3月 旭区役所 (左の写真が鎧橋のあった所で、後に延びているのがかつての帷子川だった「鶴ヶ峰公園」) |
【鶴ヶ峰坂】 長さ二町(ニ一八m)の急坂で旧八王子街道の難所であった。 馬の蹄鉄を造った鍛冶屋が坂の両側にあった。 平成六年十一月吉日設置 平成二十二年二月吉日改修 旭区誕生40周年記念事業実行委員会 旭区観光協会 |
【不動道入口】 八王子街道より白根不動尊への参道入口。 道しるべの不動像は寛政九年(1797)にたてられた。 |
【白根村道橋改修碑】 横浜市地域史跡(平成4年11月1日登録) この碑は、江戸中期、八王子往還白根村地先の難路改修の由来を記したものです。 江戸の住人櫻井茂左衛門が供養のため、田畑を買収し、破損した橋を改修し、往来の難儀を救ったとあります。元文四年(1739)十一月に建立されたものです。 八王子往還は、芝生(現在の西区浅間町)で東海道から分岐し、町田、八王子へと通じている街道です。 平成五年三月 横浜市教育委員会 |