2014年1月25日(土) 曇
「宮の下交差点」を11:00スタート。二人旅。
正面は、上部に地蔵菩薩像、下部に三猿がいる。 庚申塔の左側面には『八方(指マーク)江戸ミち』、右側面には『(指マーク)かな川』と刻まれている。 しかし、人差し指を伸ばした指マークは両側とも後ろ向き(マンション方向)を指していた。ということは、ここは本来あった場所ではなく移設されたものと思われる。この先の「都岡町交差点」は、八王子街道と交差しているので、往時はその交差点に置かれていたらしい。 |
正面には『天拝・日蓮大菩薩・相州中依知星下り蓮生寺』、左側面には『文政九年丙戌九月吉辰』と刻まれていた。 文政九年は1826年で、これは厚木市中依知の蓮生寺への道標らしい。蓮生寺はここからほぼ真西へ直線距離で14Kmの所にある。 |
脇に『明治十一年十二月二日開庁』と刻まれていた。 この先「都岡交差点」から二本手前を左右に走っている道は、浜街道(絹の道)である。当HP『浜街道(3)』参照。 |
【御殿橋・橋名の由来】 『旭区内覧見』より 旧中原街道の一部である『御殿橋』は、東海道の裏街道にかかる橋として、歴史的な価値を持ったものである。道は虎ノ門に通じ、古くは、徳川家康が江戸入城のとき(天正十八年=1590)に、この橋を通行したといわれています。 家康は、その後この橋を改修し、鷹狩りや民情視察などでよく利用したとのこと。 また、江戸時代初期(慶長十八年=1613)に家康が相州高座郡の中原御殿(平塚市)へ行く途中、この付近でお茶をたてたので、このあたりを「御殿丸」という字名がついたという。橋の名称も徳川家康にちなんでつけられたものである。 昭和六十三年三月吉日 旭区水辺さわやか推進委員会 ヨコハマさわやか運動旭区本部 |
その石標の裏面に『丸子茅ヶ崎線道路拡張工事の為鳥居を移設 昭和六十一年二月吉日』と刻まれていた。 この石標の奥左側に三嶌神社があり、その入口に鳥居が建っていたので、これが元は中原街道沿いに建っていたのだろう。 三嶌神社の謂れ等は無かったが、寛永年間(1624~43)の創建らしく、『新編武蔵風土記稿』にも載っている。 |
十字路からすぐ右側の「株式会社 大雄」前の右角、電信柱の脇に一里塚の木柱が立っている。 側面に説明文、裏面に『平成八年三月吉日建立 旭区観光協会』と書かれていた。 【一里塚跡】 塚の大きさは、直径3m、高さ1mあったという。中山の宮下より一里、大和市の桜株より一里だそうだ。 |
地蔵堂の中には砂利石が沢山置かれていた。また、説明文も置かれていたが、字が擦れて殆ど読めなかった。 判った範囲だけを記すと、 祈願の方法について まずお参りに来て、悪いところを直させてくださいます様に祈願する。その帰りに此の所にお供えしてある石を一個お借りして行きます。○○にお供えして置き一日に朝夕の二回その石で患部を祈願ししながら一回に三度擦る。尚祈願中には月に一回位はお参り致します。命日は毎月二十三日でございます。 続けますと必ず祈願が成就いたします。又身体に出来ているイボ等も右の祈願方法で必ず取れます。 祈願成就の御礼参りについて 祈願が成就致しましたならお借りした石は必ずお返しすることです。この時は御礼として清流の川の小石を採取してきて数個に増してお供えすることを忘れないで下さい。又小さいのぼり旗をお供えになっても結構であります。之には必ず年月日氏名を書入れて下さい。 毎月の二十三日が一応命日となってをります。年一度の供養日として三月二十三日の春お彼岸に大供養が営まれます。 (後略) 昭和四十六年三月二十三日 祈願成就 |
【二ツ橋地名由来の碑】 相模野の流れもわかぬ川水を 掛けならべたる二ツ橋かな 道光親王 文明十六甲辰年十一月詠 しみじみと清き流れの清水川 かけ渡したる二ツ橋かな 徳川家康 慶長十八年癸丑年十二月詠 二ツ橋地名の由来はこの歌のいずれかは詳かでないが、二首ともにこのあたりの清らかなたヽずまいにふれて詠まれたものでその昔は豊かな自然に恵まれた土地であったと思われます。 【二ツ橋学舎跡】 ここより東方百米(二ツ橋町三百十五番地)山名平左衛門義実が此の地に学舎を創設、武州二州に亘って学業の実を挙げ、その弟子から数多くの人材を輩出、明治大正の時代にかけての指導者は山名先生の訓育によるものが多かったと伝えています。 昭和六十二年十一月吉日 瀬谷区役所 |
【中原街道の梛の木】 江戸時代寛文年間(1661~1673)、この地を治めていた津島久利候が薩摩の国(現在の鹿児島県)より、梛の木の苗を取り寄せて植えました。村人も協力してその育成に努めました。弘化元年(1844)江戸城で大火があり、本丸、西の丸を全焼してしまいました。その知らせを受け、当地の梛の木の良材を伐採して中原街道を急送し、その復興の要を果たしたと伝えられています。 【梛の木について】 マキ科の常緑高木。本州の近畿以西、四国、九州の山中に生えるが、近くでは伊豆や房総でも見受けられる。また庭木としても栽培されることも多い。高さ六~二〇メートル。五~六月頃、円柱状の花をつける。材は堅く、床材などの建築材や家具材として用いられ珍重されている。古くから神社の境内に植えられ熊野神社(和歌山県)では神木とされ、その葉に供物を盛る。梛を「凪」に掛けて嵐・天災を止め晴天を祈り、豊海産物の収穫を願う具として供せられた。また、その葉は守り袋や鏡の裏に入れておくと悪鬼を除き、災難を免れると信じられた。 平成四年六月 瀬谷区役所 瀬谷土木事務所 |
天保四年(1839)の地神塔を含む石碑は、四基とも劣化が激しく碑銘等は擦れていた。 左から二基目は双体道祖神か? |
【宗川寺の大樹夫婦銀杏・中原街道瀬谷問屋場跡】 宗川寺は寛永二乙丑年(1625)富士重須本門寺第十二世日賢上人開山、開基は石川宗川である。 山門を入ると左右の夫婦銀杏は昔から縁結び、安産祈願の信仰を受け、近所より多くの参詣があり、いまは横浜市の名木と指定された大樹である。 中原街道瀬谷問屋場は天正六戌寅年(1578)小田原北條氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に問屋場が設けられ、のち、徳川氏の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸―平塚間五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代二七〇年にわたって、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果たした。 (これより東方八〇米、桧林がその跡である。) 昭和五十四年三月 瀬谷区役所 |
やがて、歩道橋のある「桜ヶ丘交差点」に着く。往時はここに道標庚申塔が建てられていたが、現在はこの右奥にある金比羅神社の境内に移されているとの事で、「桜ヶ丘交差点」の次の信号を右折して165m進んだ金比羅神社に向う。向う途中左側に小田急「桜ヶ丘駅」がある。 金比羅神社の境内は小公園位で鳥居も社もそれほど大きくは無い。 |
|
道標庚申塔は社の左側奥に建っていて、正面に『青面金剛と三猿』、左面に『九月廿九日 大山ミち』、右面に『宝永七庚寅夭 八王子ミち』と刻まれていた。 |