中原街道(4) 宮の下交差点~桜ヶ丘交差点(小田急線桜ヶ丘駅入口)

2014年1月25日(土) 曇
 「宮の下交差点」を11:00スタート。二人旅。

(注:解説で街道の左側、右側とは平塚に向っての左右です)

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 本日は、アップ・ダウンの連続で殆ど平坦地が無く、いつもより短い距離にもかかわらず非常に疲れる行程だった。
 JR横浜線の中山駅に降りて、前回終了した「宮の下交差点」に戻り、中原街道歩きを再開。
 交差点を過ぎてすぐ左側に短い(200m強)旧道がある。
 新道に戻ると早速「長坂」と言う、文字通り長い上り下りの坂が控えている。この時一日中アップ・ダウンの連続になるとは夢にも思ってもいなかった。
 左手「長坂谷公園」という運動公園があり、その前を通り「長坂信号」で横浜市緑区から旭区に入る。
 「長坂信号」から20分程進んだ「動物園入口交差点」を渡った先、左に大きく弧を描くように旧道がある。旧道は遠回りの上、更に急坂もあるという嫌らしい道だった。
 「動物園入口交差点」を右に入ればすぐ『よこはま動物園ズーラシア』である。

<昼食> 11:55~12:40
 新道に戻り、本日何も見ていないうちに昼食時間となってしまったので、次の信号の手前右側にある『かっぱ寿司(都岡店)』で昼食とする。前回も『かっぱ寿司(久末店)』だった。
 この先にある「都岡町交差点」周辺に飲食店が色々あるが、その先はしばらく食事をする処が無い。

【道標庚申塔 (右側)
 『かっぱ寿司都岡店』の道路を挟んだ隣のマンション前に道標を兼ねた庚申塔が屋根付きで建っている。
 正面は、上部に地蔵菩薩像、下部に三猿がいる。
 庚申塔の左側面には『八方
(指マーク)江戸ミち』、右側面には『(指マーク)かな川』と刻まれている。
 しかし、人差し指を伸ばした
指マークは両側とも後ろ向き(マンション方向)を指していた。ということは、ここは本来あった場所ではなく移設されたものと思われる。この先の「都岡町交差点」は、八王子街道と交差しているので、往時はその交差点に置かれていたらしい。

【天拝日蓮大菩薩塔】 (右側)
 庚申塔のすぐ先に天拝日蓮大菩薩と書かれた道標と思われるものがこれも屋根付きで建っている。
 正面には『天拝・日蓮大菩薩・相州中依知星下り蓮生寺』、左側面には『文政九年丙戌九月吉辰』と刻まれていた。
 文政九年は1826年で、これは厚木市中依知の蓮生寺への道標らしい。蓮生寺はここからほぼ真西へ直線距離で14Kmの所にある。

【都築郡役所創設之跡】 (右側)
 日蓮報恩塔のすぐ先に都築郡役所創設之跡という石碑が建っている。
 脇に『明治十一年十二月二日開庁』と刻まれていた。


 この先「都岡交差点」から二本手前を左右に走っている道は、浜街道(絹の道)である。当HP『浜街道(3)』参照。

【御殿橋】 12:50
 「都岡交差点」を越えてすぐ、帷子川に架かる御殿橋を渡る。
 この橋の左の親柱に御殿橋の由来が掲示されている。その御殿はこの先の左手にあったと云われるが、今は何も無い。
【御殿橋・橋名の由来】 
         『旭区内覧見』より

 
旧中原街道の一部である『御殿橋』は、東海道の裏街道にかかる橋として、歴史的な価値を持ったものである。道は虎ノ門に通じ、古くは、徳川家康が江戸入城のとき(天正十八年=1590)に、この橋を通行したといわれています。
 家康は、その後この橋を改修し、鷹狩りや民情視察などでよく利用したとのこと。
 また、江戸時代初期(慶長十八年=1613)に家康が相州高座郡の中原御殿(平塚市)へ行く途中、この付近でお茶をたてたので、このあたりを「御殿丸」という字名がついたという。橋の名称も徳川家康にちなんでつけられたものである。
     昭和六十三年三月吉日 旭区水辺さわやか推進委員会 ヨコハマさわやか運動旭区本部

【三嶌神社】 (左奥) 13:00
 「御殿橋交差点」を過ぎた右側に祠に入った地蔵が見え、その少し先、左に入る道に三嶌神社参道の石標が立っている。
 その石標の裏面に『丸子茅ヶ崎線道路拡張工事の為鳥居を移設 昭和六十一年二月吉日』と刻まれていた。
 この石標の奥左側に三嶌神社があり、その入口に鳥居が建っていたので、これが元は中原街道沿いに建っていたのだろう。
 
 三嶌神社の謂れ等は無かったが、寛永年間(1624~43)の創建らしく、『新編武蔵風土記稿』にも載っている。

【矢指の一里塚跡】 (右側) 13:15
 三嶌神社のすぐ先に保土ヶ谷バイパスの「下川井インター」があり、バイパスの高架をくぐったら左側の旧道に入る。
 旧道へは二通りの方法があり、一つは高架をくぐったすぐの左側にある高い階段を登って行く方法できつい道。もう一つは、次の信号まで新道を進みこの信号を左折してすぐ変則十字路を右折する比較的緩やかな道である。この変則十字路で下り道の方へ行ってはならない。私達が行った階段道はこの変則十字路で合流する。
 十字路からすぐ右側の「株式会社 大雄」前の右角、電信柱の脇に一里塚の木柱が立っている。
 側面に説明文、裏面に『平成八年三月吉日建立 旭区観光協会』と書かれていた。

【一里塚跡】
 
塚の大きさは、直径3m、高さ1mあったという。中山の宮下より一里、大和市の桜株より一里だそうだ。

【岩船地蔵尊】 (右側) 13:18
 一里塚跡の斜め向かいに「見晴らしポケットパーク」という今宿方面のニュータウンの見晴らしが良い場所がある。往時もさぞかし見晴らしが良かっただろうと想像できる。
 そのすぐ先、右側に史跡・岩船地蔵尊がある。享保九年(1724)建立。
 地蔵堂の中には砂利石が沢山置かれていた。また、説明文も置かれていたが、字が擦れて殆ど読めなかった。
 判った範囲だけを記すと、
   祈願の方法について
 まずお参りに来て、悪いところを直させてくださいます様に祈願する。その帰りに此の所にお供えしてある石を一個お借りして行きます。○○にお供えして置き一日に朝夕の二回その石で患部を祈願ししながら一回に三度擦る。尚祈願中には月に一回位はお参り致します。命日は毎月二十三日でございます。
 続けますと必ず祈願が成就いたします。又身体に出来ているイボ等も右の祈願方法で必ず取れます。
   祈願成就の御礼参りについて
 祈願が成就致しましたならお借りした石は必ずお返しすることです。この時は御礼として清流の川の小石を採取してきて数個に増してお供えすることを忘れないで下さい。又小さいのぼり旗をお供えになっても結構であります。之には必ず年月日氏名を書入れて下さい。
 毎月の二十三日が一応命日となってをります。年一度の供養日として三月二十三日の春お彼岸に大供養が営まれます。
(後略)
     昭和四十六年三月二十三日 祈願成就 

【追分市民の森】 (右手) 13:27
 地蔵堂の先、「矢指配水池」を過ぎて左カーブした右側に『追分市民の森・お花畑マップ』と書かれた地図が掲げられ、その後に三方向の道標が立っていた。今来た方向が『下川井・今宿方面』、これから進む方向が『三ツ境・瀬谷方面』、右の森の中に入って行く方向が『桧山道を経て追分道へ』と示されていた。
 右へ桧林の中の細道を抜け中原街道(新道)を越えた所に、矢指市民の森追分市民の森があり、間にお花畑があるようだ。更にその西に瀬谷市民の森が続く。
 旧道は、右側が森、左側がニュータウンになっている間の通称「並木道ルート」を抜け、「西部病院入口交差点」で新道に合流する。

 この交差点で横浜市旭区から瀬谷区に入る。
【二ツ橋地名由来の碑】 (左側) 13:52
 やがて中原街道は相模鉄道の線路に遮られ、車道は線路下のトンネル下がって行くが、歩道は左側の側道を真っ直ぐ進み、線路直前の地下歩道をくぐって線路の向こう側に出る。
 相鉄の線路を越えた先の「二ツ上橋交差点」を渡った左角に石碑が三つ並び、その後に道標が立っている。
 右の碑は『瀬谷村瀬』と刻まれその下は折れて無くなっている様だった、中央が安政三年の『石橋供養塔』、左が『二ツ橋歌碑』となっている。
 下の写真で、説明文の後に建つ道標の一面には『中原街道』、その左面には『右 八王子往来・左 神奈川往来』と刻まれていた。
 二ツ橋は、境川の支流である和泉川の上流に架かる橋(中原街道の上橋と呼ばれる現在名「二ツ上橋」)とここを少し右に行った下流に架かる橋(厚木街道の下橋と呼ばれる現在名「二ツ橋」)の二ツを合わせた呼称である。
【二ツ橋地名由来の碑】 
 相模野の流れもわかぬ川水を
      掛けならべたる二ツ橋かな
        道光親王 文明十六甲辰年十一月詠
 しみじみと清き流れの清水川
      かけ渡したる二ツ橋かな
        徳川家康 慶長十八年癸丑年十二月詠
 二ツ橋地名の由来はこの歌のいずれかは詳かでないが、二首ともにこのあたりの清らかなたヽずまいにふれて詠まれたものでその昔は豊かな自然に恵まれた土地であったと思われます。
【二ツ橋学舎跡】
 ここより東方百米(二ツ橋町三百十五番地)山名平左衛門義実が此の地に学舎を創設、武州二州に亘って学業の実を挙げ、その弟子から数多くの人材を輩出、明治大正の時代にかけての指導者は山名先生の訓育によるものが多かったと伝えています。
     昭和六十二年十一月吉日 瀬谷区役所

【梛(なぎ)の木碑】 (左側) 14:10
 「二ツ上橋交差点」の次の「南台交差点」で厚木街道が斜めに交差している。
 その次の「南台交番前信号」を渡った先の「瀬谷町第三歩道橋」を越えたすぐの「梛の木石碑前バス停」前に梛の木碑がある。
【中原街道の梛の木】
 江戸時代寛文年間(1661~1673)、この地を治めていた津島久利候が薩摩の国(現在の鹿児島県)より、梛の木の苗を取り寄せて植えました。村人も協力してその育成に努めました。弘化元年(1844)江戸城で大火があり、本丸、西の丸を全焼してしまいました。その知らせを受け、当地の梛の木の良材を伐採して中原街道を急送し、その復興の要を果たしたと伝えられています。
【梛の木について】
 マキ科の常緑高木。本州の近畿以西、四国、九州の山中に生えるが、近くでは伊豆や房総でも見受けられる。また庭木としても栽培されることも多い。高さ六~二〇メートル。五~六月頃、円柱状の花をつける。材は堅く、床材などの建築材や家具材として用いられ珍重されている。古くから神社の境内に植えられ熊野神社(和歌山県)では神木とされ、その葉に供物を盛る。梛を「凪」に掛けて嵐・天災を止め晴天を祈り、豊海産物の収穫を願う具として供せられた。また、その葉は守り袋や鏡の裏に入れておくと悪鬼を除き、災難を免れると信じられた。
     平成四年六月 瀬谷区役所 瀬谷土木事務所
 この碑の後ろを流れる相沢川には散策道が整備されている。
【相沢川ウォーク】
 相沢川に隣接するこのウォークに沿って水音をききながら散策する事ができます。市民のみなさまが川と関わる身近な空間として、ご利用下さい。
     平成2年8月 横浜市瀬谷土木事務所

【地神塔】 (左側) 14:24
 「下瀬谷二丁目交差点」を渡った所にある「地神前バス停」のすぐ先左側、「拳誠ボクシングジム」の看板前に四基の石碑が建っていて、一番左が地神塔だった。
 天保四年(1839)の地神塔を含む石碑は、四基とも劣化が激しく碑銘等は擦れていた。
 左から二基目は双体道祖神か?

【宗川寺(そうせんじ) (右側) 14:28
 「下瀬谷二丁目交差点」で右に渡って、直ぐ先右側に宗川寺がある。ここは、横浜瀬谷八福神の福禄寿も祀られる。
 山門を入るとすぐ目の前に二本の大きな銀杏(夫婦銀杏)が聳え、その右下に福禄寿尊堂が建っている
(下の写真)
 銀杏の奥右側に手水舎、その隣に鐘楼、一番奥に本堂が建っている。
 福禄寿尊堂の前のテーブルに三つの朱印が置いてあり、自分で自由に朱印帳に押せるようになっていた。
【宗川寺の大樹夫婦銀杏・中原街道瀬谷問屋場跡】
 宗川寺は寛永二乙丑年(1625)富士重須本門寺第十二世日賢上人開山、開基は石川宗川である。
 
山門を入ると左右の夫婦銀杏は昔から縁結び、安産祈願の信仰を受け、近所より多くの参詣があり、いまは横浜市の名木と指定された大樹である。
 中原街道瀬谷問屋場は天正六戌寅年(1578)小田原北條氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に問屋場が設けられ、のち、徳川氏の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸―平塚間五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代二七〇年にわたって、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果たした。
(これより東方八〇米、桧林がその跡である。)
     昭和五十四年三月 瀬谷区役所
 説明文で問屋場は、宗川寺の80m手前の桧林の所とあるが、今は林など無くなり「ホーマック」という店が建っている。
【金比羅神社】 (右奥) 14:57
 宗川寺を出たら、すぐ先の境川の本流に架かる
新道(しんみち)大橋を渡る。渡ると横浜市から大和市に入る。
 しかし、渡る手前から橋の先に「大坂」と呼ばれる急な上り坂が目に飛び込んでくる。本日は終日坂道を歩いてきたので、最後のこの急坂はきつかった。
 「大坂」を登ってゆくと、道は片側一車線になり、大渋滞していた。現在二車線化の工事中だが、新しい家の立ち退きがうまくいっていないようでまだ時間が掛かるだろう。
 やがて、歩道橋のある「桜ヶ丘交差点」に着く。往時はここに道標庚申塔が建てられていたが、現在はこの右奥にある金比羅神社の境内に移されているとの事で、「桜ヶ丘交差点」の次の信号を右折して165m進んだ金比羅神社に向う。向う途中左側に小田急「桜ヶ丘駅」がある。
 金比羅神社の境内は小公園位で鳥居も社もそれほど大きくは無い。
 道標庚申塔は社の左側奥に建っていて、正面に『青面金剛と三猿』、左面に『九月廿九日 大山ミち』、右面に『宝永七庚寅夭 八王子ミち』と刻まれていた。


 第4回目終了。 15:00 「小田急江ノ島線・桜ヶ丘駅」。

 今回の記録 : 街道のみの距離は、10.0Km(宮の下交差点~桜ヶ丘交差点)。 「虎ノ門交差点」から、38.5Km。
           寄り道を含めた実歩行距離は、11.7Km 18,000歩 (中山駅~桜ヶ丘駅)。 累計 51.6Km。


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