浜街道(4) 相模鉄道「西谷駅」~横浜公園
2014年4月2日(水) 晴
相鉄「西谷駅」を9:30スタート。
由緒等は無かったが、山門の前に享保十乙巳年(1735)の南無妙法蓮華経 日蓮と刻まれた大きな碑が建っている。 また、山門の右奥には地蔵尊や石仏が沢山集められていた。 |
刻まれている文字は、『元禄十丁巳捻 庚申供養祈願 十月十三日 成就』。 元禄十年は、1697年。 |
右側面に『寛政三辛亥季左神奈川』、左側面に『二月十三日右八王子道』と刻まれていた。 |
【正観寺史】 当山は曹洞宗補陀山正観寺と称し福井の永平寺鶴見の総持寺を両本山とし小机の雲松院を本寺とする 後北条家家臣小机衆として勢力のあった 矢上城 現在の日吉 城主中田加賀守の菩提の為その子中田藤左衛門が父の守本尊であった聖観世音菩薩立像 弘法大師作一寸八分純金製 を奉納し 雲松院十一世龍山遵朔大和尚を請し開山とし創建した 後に旧小机領三十三観音霊場第五番の札所となる この霊場は小机城主笠原越前守の奥方と息女の死亡が重なり更に鶴見川の氾濫等による被害の甚大さが加わった為小机の領地鶴見辺から町田に地域の中から特に観音様に御縁が深い三十三所を指定して冥福と安全を祈願したのに始まる 享保十七年壬子の年 一七三ニ 浄土宗泉谷寺住職転譽上人が旧小机領三十三観音霊場 の開設を徳川幕府に願い出て許可されこゝに正式に霊場として発足した その年が子の年であった為子の年毎に開帳をし今日に至っている 藤左衛門は寛永十二年六月二十七日没 戒名を空山永尊禅定門と云い正観寺開基として祀る 爾来法灯不断 中田家の菩提寺となっていたが明治時代に無住となり廃寺同様のところ大正十年天徳院二十七世中島俊明が兼務住職となり法地開山す 昭和三年中武十四代当主中田要作並びに総代中田復四郎が講中と相計り仮本堂を建立善浪俊明を住職に迎え中興す 無禄無檀家の当寺を復興することは困難を極めたが次第に檀信徒が集まり今日の正観寺の基礎を築いた 開創三百八十年 中興七十周年 を記念し之を建立する 平成二十年四月一日 補陀山正観寺三世寿耕鐡心 |
旧八王子道標の右側面に『至 _↑保土ヶ谷 →鎌倉道』、左側面に『至 八王子』、裏面に『平成二十年三月 保土ヶ谷区役所』と刻まれていた。 道標兼庚申塔はそれほど古くないのに文字はかなり擦れて判読不能に近いが、右側面に『文化八年 か満くら道』、左側側面に『右 はちわうじ道 左 かな川ミち』と刻まれている。 文化八年は、1811年。 |
石の鳥居には杉山宮と書かれ、鳥居の右隣に寛政四年の堅牢地神宮碑が建っている。 杉山神社は横浜市に多い神社で、市内のいたるところで見受けられる。 |
【和田村道橋改修碑】 横浜市地域指定史跡(平成4年11月1日登録) この碑は、江戸中期、八王子往還和田村地先の難路改修の由緒を記したものです。 江戸の住人櫻井茂左衛門が資金を提供し、和田村及び隣村の川島村民の協力を得て、道を改修し、橋を架け、往来の難儀を救ったとあります。 元文二年十一月(1737)の建立です。 八王子往還は、芝生(しぼう)(現在の西区浅間町)で東海道から分岐し、町田、八王子へと通じている街道です。 平成五年三月 横浜市教育委員会 |
鳥居の右下に『村社 杉山神社』と刻まれた石標が立っていて、正面に彫刻の立派な社殿が建っている。由緒等は無かった。 社殿の右手の建物の中には四基の石仏石塔が並び、一番右に道標兼庚申塔がある。 庚申塔の右側面はかなり擦れているが『これより左大山みち』と思われる文字、左側面には『これより右八おうじみち』と刻まれている。 |
【追分】 (歴史の道) ≪標柱左側面の説明文≫ 追分は一般に道の分岐点を意味しますが、ここ芝生の追分は東海道と八王子道が分かれる場所です。 ≪標柱右側面の説明文≫ 八王子道は、ここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政六年(1859年)の横浜開港以降は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれています。 平成15年3月 保土ヶ谷区役所 左の写真で、手前の右下から左上に向う直線道路が旧東道街道、右にカーブして分かれて行くのが八王子街道(浜街道)である。 |
【神殿】 本殿二階建浅間造にして社殿丹塗総金具付にて元官幣大社浅間大社(静岡県富士宮市)と同様 国宝建造物類似楼閣にて近隣に比類なき構造なり 【由緒沿革】 元神奈川区浅間町に鎮座し浅間町一円の氏神なり、創祀は承歴四年(1080)といわれ、源頼朝公文治元年平家討滅に依るべきを思い且つは戦勝奉賽のため関東一円の社寺修築神馬神田の寄進に及べり、然る処武蔵国橘樹群神奈川在芝生村に富士山の形状の山地あるを卜とし社殿の修築をなし、報賽の至誠を致せる由といふ。薾来九百余年威嚇灼として遠近を光被し万民均しく渇仰崇敬せり 【社殿・境内整備について】 浅間神社は承暦四年の創祀より歴史ある古い社であります。明治の大火、関東大震災 により焼失復興と度重なりしが昭和三年御大典記念として御造営せる社殿は惜しくも昭和二十年五月の戦災のために烏有に帰しましたが社殿復興 再建の議が起こり昭和三十三年起工式同三十四年に社殿落成亦境内拡張整備工事に着手 従来の三倍に造成し現在に至りましたが昭和五十七年社殿前崖も急斜面崩壊危険区域に指定され工事着手完成を見るに至り昭和五十八年に社殿及び境内整備の奉賛会が結成され社殿塗装、神輿庫新築、神輿修理、社殿前玉垣裏表参道玉垣工事をなし県下でも類を見ぬ社殿となりました。 |
【横浜道】 安政5年(1858)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、 神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めました。 しかしミナト横浜の町づくりは開港3か月前の3月になって、やっと工事が始まるという状況でした。 当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便だったため、幕府は、東海道筋の芝生村(現浅間町交差点付近)から横浜(関内)に至る「横浜道」と呼ばれる道路を開きました。 この道が、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路(現在の平沼商店街を横断していました。平沼水天宮はこの道の辺りにありました。)を築くとともに、新田間(あらたま)、平沼(現元平沼)、石崎(現敷島)の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切通しを開き、野毛橋(現都橋) 、太田橋(現吉田橋)を架けたものです。 (浮世絵で手前の橋が新田間橋、その先が平沼橋、右の山の下が戸部村、海の左の崖が神奈川台と軽井沢、海の先が川崎の岬) |
この川沿いは「石崎川プロムナード」と云い、桜並木が続いている。 本日は桜が満開で、とても綺麗だった。 左の写真は、「敷島橋」から左隣の「高島橋」方向を写したもの。 【敷島橋】 昭和5年(1930)建造の鉄板桁橋。 横浜開港時、横浜道に造られた「石崎橋」があった場所に架けられた橋。 |
【岩亀稲荷の由来】 横浜の開港は安政六年(1859)、開港当時の横浜の歓楽街は港崎町(横浜スタジアム辺りで、隣接する日本庭園に、岩亀楼と刻まれた石灯篭が保存されている)から高島町に移り一、二を争う大楼、岩亀楼があった。三層櫓式の楼閣がその偉大さを誇り夜目にも美しく人々の話題となった。当主は佐吉といって、埼玉県岩槻の人で、その音読みで「がんき」と呼ばれていた。この岩亀楼一番の売れっ子、喜遊大夫(亀遊説もある)がペリー艦隊の軍人に言い寄られたがこれを拒み、有名な辞世「露をだにいとう倭(ヤマト)の女郎花(オミナエシ)ふるあめりかに袖はぬらさじ」を残して自害した。この句から幕末の遊女気質が十分伺える。遊女達が病の時、静養する寮が今の岩亀横丁にあり、遊女達が信仰していたお稲荷様が寮内にあったので岩亀稲荷と呼ばれ現在も信仰が受け継がれている。このお稲荷様を粗末にすると必ず近状のご婦人に災いがおこると言い伝えられ、毎年五月二十五日には盛大に例祭が行われている。 有吉佐和子著「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の舞台も喜遊大夫がモデルである。 岩亀稲荷講 |
【横浜開港と掃部山公園】 安政五年(1858) 日本の近代に先駆した大老井伊掃部頭直弼は よく内外の激動に耐え 機に臨み英断 日米修好通商条約を締結した 安政六年 ここに横浜は 未来の発展を予見するかのように 世界の海洋に向って開港した 明治十四年(1881) 井伊大老を追慕する彦根藩主有志により 開港に際しその功績を顕彰するため 記念碑建立の計画をたて 明治十七年この地の周辺の丘を求め 掃部山と称し造園を施し 明治四十二年(1909) 園内に銅像を建立しこれを記念した 大正三年(1914) 井伊家より同地並びに銅像を横浜市に寄贈 掃部山公園として公開された ここに 平成元年を以て 市制一〇〇周年 開港一三〇周年を迎え これを記念してこの碑建立した 平成元年六月二日 横浜市長 細郷道一 |
【野毛山住宅亀甲積擁壁】 横浜市認定歴史的建造物 旧平沼専蔵別邸石積擁壁及び煉瓦塀 建築年 1890(明治23)年から1893(明治26)年の間 |
【日本近代水道最古の水道管】 明治20年(1887)、日本最初の近代水道がイギリス人パーマーの指導により、ここ横浜の地に誕生しました。相模川と道志川の合流点(現津久井町)に水源を求め、44Km離れた野毛山貯水場に運ばれた水は、浄水され、市内に給水されました。 この野毛坂の地下には、当時のイギリス製水道管が埋設されていて、今も働き続けています。 当時の水道管を利用して造られたこの記念碑は、パーマーを始め、多くの先人たちの偉業を偲んで建立したものです。 |
昭和39年(1964)の東京オリンピック開催に伴い、野毛本通りの街並み美化の為、露店や屋台を一箇所に集めて出来たもので、大岡川の緩やかなカーブに沿って建てられた長屋風の飲み屋街である。 左の写真は、「都橋」から見た「ハーモニカ横丁」の裏側。 |
【吉田橋関門跡】 横浜市地域史跡(平成5年11月1日登録) 安政六年(1859)六月二日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより「吉田橋」と呼ばれました。 吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入を取り締まりました。 関門は、当初港町側に設けられましたが、文久四年(1864)二月に吉田町側に移設されました。 関内、関外という呼び名はこのとき以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢崎町側を指し、その関門は明治四年に廃止されました。 平成二十四年三月 横浜市教育委員会 |
関内には外国人居留地が出来、慶応3年(1867)に完成した広い道路を外国人達の珍しい馬車が走り、後には日本人の経営になる乗合馬車の発着所が吉田橋脇に出来たことなどから、いつしか馬車道と呼ばれるようになった。 馬車道通りの両側には、ガス灯と馬の首が付いている車止めが並んでいて、絵地図付史跡案内板がいたるところに設置されている。 左の写真は、この先の馬車道商店街で撮影したもの。 |
【鉄の橋】 明治2年(1869年)、英国人土木技師R.H.ブラントン(RICHARD HENRY BRUNTON 1841~1901)により架け替えられた吉田橋は、橋長24m、幅員6mの日本最初のトラスト鉄橋であり、「鉄の橋」として市民に親しまれるなど大変人気を集めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです。 【ブラントンと横浜】 明治元年(1868年)政府の招聘により来日したブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園などの設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。 横浜居留地測量 1868~70 電信敷設 1869 新橋・横浜間の鉄道意見書 1869 吉田橋(鉄の橋)架設 1869 居留地 下水道整備・マカダム式道路舗装 街灯照明計画 1869~71 水道計画 1870 築港計画 1870,73,74 新埋立居留地造成設計・施工 1871 中村川拡張等設計・施工 1871 日本大通り設計・施工 1871 修技校開設 1871 横浜公園設計・施工 1871,72 |
【イギリスからやってきたガス灯たち「トラファルガー広場のガス灯」】 1805年、ナポレオン率いるフランス・スペイン艦隊を、スペインのトラファルガー沖で撃沈してイギリスを救った英雄王、イギリス海軍ネルソン提督の活躍と栄誉を称えてつくられたのが、トラファルガー広場。高55mもの円柱(コラム)から町を見守るネルソン提督の像の台座には、彼の活躍した4つの海戦場所(トラファルガー・ナイル川・セントビンセント岬・コペンハーゲン沖)が描かれています。 このガス灯は、このロンドンの中心的存在であるトラファルガー広場のガス灯と同じものです。1872年(明治5年)日本最初のガス灯が馬車道に灯されたことを記念して、東京ガスの協力により設置しました。 平成15年2月28日 馬車道商店街協同組合 |
【馬車道の街路樹】 街路樹は、近代に入ってから、人口過密な都市の景観的魅力を向上する為に発達したものであり、参道並木、街灯並木など、いわゆる地方並木とは区別されている。日本における街路樹は、明治以後、 欧米都市の影響を受け、樹種の選択、植栽手入法の改良などによって、著しく進歩、普及した。1867年(慶応三年)、開港場横浜の馬車道では、各々の商店が競って柳と松を蓮植した。これが、日本での近代的な街路樹の先駆となった。1872年(明治五年)になって馬車道に日本最初のガス灯が点灯されると、この街路樹は、さらに美しく映え、夜の涼を楽しむ人々で賑わった。 一九七九年六月二日建立 開港百二十周年記念 |
【ハマの街灯点火の地(常磐町)】 明治三十三年十月一日、初めて横浜市内七百の電灯と街灯が一斉につきました。この街灯は山下公園の門灯でした。同公園に埋もれていたのを、電力の産みの親、横浜共同電灯株式会社跡の常磐町に復活させました。古き良き時代をしのんで頂けたら・・・・・・と存じます。 |
【牛馬飲水槽】 この牛馬飲水槽は、大正六年、当時横浜の陸上交通の主力であった牛馬のために神奈川県動物愛護協会の前身である日本人道会と横浜荷馬車協会が現在の横浜市磯子区八幡橋際に設けたものです。 このほか中区の生糸検査所、西区高島町駅前、久保山のガードそばに設置し牛馬の途中休憩所としました。 また荷馬車協会には三千頭の牛馬がいて夏ともなればしゃれた麦わら帽子をつけ気取った足どりで荷物の運送をしました。 昭和四十五年十月 横浜史料保存会 |
【太陽の母子】 製作者 本郷 新 横浜沿革史に「明治ニ年六月馬車道通常磐町五丁目ニ於テ町田房造ナルモノ氷水店ヲ開業ス・・・・・・」と誌されています 日本のアイスクリームの誕生です 私達はこれを記念し このゆかりの地に モニュメントを建て寄贈いたします 昭和五十一年十一月三日 社団 日本アイスクリーム協会・法人 同 神奈川支部 |
【イギリスからやってきたガス灯たち「英国国会議事堂のガス灯」】 テムズ川のほとりにそびえる高さ96mの時計塔ビッグ・ベンがシンボルとして立つことで有名な英国国会議事堂は、正式名称をウエストミンスター宮殿といい、1065年エドワード国王によって建設されました。当時の建物は1834年の火災で焼失しましたが、1852年に国会議事堂として再建、ビッグ・ベンもその時に建てられています。 このガス灯は、この建物の北西部に立つガス灯と同じものです。 1872年(明治5年)日本最初のガス灯が馬車道にともされたことを記念して、東京ガスの協力により設置しました。 平成15年2月28日 馬車道商店街協同組合 |
【日本で最初のガス灯】 安政6年(1859年)に開港場となって以来、横浜は西洋文化の玄関口となりました。馬車道を起点にして全国に広まったものも数多くあります。 ガス灯は、明治5年(1872年)に、高嶋嘉右衛門の「日本ガス社中」により、馬車道・本町通り等に設置、点灯され、これが日本における最初のガス灯となりました。柱部は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本人職人により製造されたと言われます。 このたび、横浜市市民文化会館〔関内ホール〕新築完成を祝って、当時の型をモデルとしたガス灯を復元設置しました。 壁面レリーフは、横浜開港資料館所蔵の絵葉書を転写したもので、明治末期の馬車道です。 昭和61年9月27日 馬車道商店街協同組合 |
【日本写真の開祖 写真師・下岡蓮杖(1823~1914)】 伊豆下田に生まれる 嘉永元年(1848)オランダから長崎へダゲレオタイプ一式が渡来した。 弘化二年(1845頃)狩野派の青年絵師が、銀板写真に遭遇し、そして絵筆を折り捨て写真技術習得の道へ歩みだした。この青年こそ、日本に写真史という職業を確立した日本写真の開祖 下岡蓮杖その人である。 蓮杖は、来日の外国人から湿板写真の機材を入手し、筆舌に尽くしがたい辛苦の歳月を経て、文久二年(1862)野毛に初めての写真場を開業し、その後、弁天通りに進出し、慶応三年(1867)太田町五丁目角地に「富士山」と「全楽堂」 「相影楼」の看板を掲げた写真館を開き大繁盛をした。 数多くの門下生を育て、我が国に於ける写真技術の先覚者として近代文化の発展に貢献した。 その業績に敬意を表し、文明開花の地、馬車道通りに写真師発祥一二五周年、日本写真の開祖 写真師下岡蓮枝顕彰碑を昭和六十二年(1987)建立をみたのである。 顕彰碑 下岡蓮枝顕彰碑実行委員会 碑 文 横浜市写真師会設立百周年記念実行委員会 平成二十二年(2010)六月一日 |
【旧川崎銀行横浜支店(日本興亜馬車道ビル)】 設計者の矢部又吉は横浜生まれでドイツに学んだ建築家で、隣の旧横浜正金銀行本店の設計者妻木頼黄の弟子。ファザード2面を残して機能更新を図った今の建物は、歴史的建造物の保存・再生の一手法を示した先駆的作品である。 所 在 地:中区弁天通5-70 構造・規模:RC造3階、地下1階/現建物 SRC雑階 建築年代 :大正11年(1922)/現建物 平成元年(1989) 指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成元年(1989)3月 設 計:矢部又吉/現建物 日建設計 |
【旧横浜正金銀行本店】 国指定史跡(平成7年6月27日指定) 横浜正金銀行は、安政6年の開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため明治13年2月28日に設立されました。その後政府の保護を受けて外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長し、大正8年には世界3大為替銀行の一つに数えられるようになりました。 この建物は明治37年に横浜正金銀行本店として建設され、ドイツの近代洋風建築の影響を受け、明治時代の貴重な建造物であることから、生姜44年3月12日には国の重要文化財の指定を受けております。 さらにこのたび、我が国の近代史の中でも、産業経済の発展に貢献した貿易金融機関のあり方を示す貴重な建造物およびその敷地であることから、国の史跡に指定されました。 平成8年3月30日 神奈川県教育委員会 |
【イギリスからやってきたガス灯たち「シェフィールドパークのガス灯」】 ロンドンから南の町、ブライトンへ向かって行く途中にあるサセックス州のシェフィールドパークは、森や林で囲まれた緑豊かな田園地帯にあり、多くのイギリス人から憩いの場所として愛されています。 古い昔からランタンと、円柱からなるこのガス灯は、このシェフィールドパーク内に立っているものと同じガス灯で、1872年(明治5年)日本最初のガス灯が馬車道にともされたことを記念して東京ガスの協力により設置しました。 平成15年2月28日 馬車道商店街協同組合 |
タイル張りの前面には、右から『牛馬飲水』と書かれていた。 |
【旧東京海上火災保険ビル(馬車道大津ビル)】 シンプルな外観ながら、壁面を覆うタイルの多様な張り方を主たる意匠するアール・デコ特有のスタイルを示す。特に壁面頂部の表現は典型的なものである。現在も民間のオフィス・ビルとして使用され、馬車道の歴史的景観を構成する貴重な建物である。 所 在 地:中区南仲通4-43 構造・規模:RC造4階、地下1階 建築年代 :昭和11年(1936) 指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成12年(2000)11月 設 計:不明 |
【旧富士銀行横浜支店】 ルスティカ積みの外壁に、ドリス式オーダーの付柱と半円形窓が組み合わされて配されている。当初は安田銀行横浜支店として建てられた。安田銀行は大正末から昭和初期にかけて、ほぼ同じスタイルで各地に支店を建てているが、これはそのなかでも最大規模かつ、希少な現存例。 所 在 地:中区本町4-45 構造・規模:RC造2階 建築年代 :昭和4年(1929) 設 計:安田銀行営繕課 |
【イギリスからやってきたガス灯たち「ビクトリア・タワーのガス灯」】 ビック・ベンとともに、英国国会議事堂のシンボルとして有名なビクトリア・タワー。 1843年の火災で焼失したウェストミンスター宮殿を国会議事堂として再建させる際、建築家のオーガスタス・ピュージンは、ゴシック建築のロマンチックな風貌に、非対称のデザインのもつ力強さを生かそうと、南端の塔、このビクトリア・タワーを大きく設計したのだといわれています。 この後ストーンは、ビクトリア・タワー周辺に立つガス塔と同じものです。1872年(明治5年)日本最初のガス灯が馬車道にともさたことを記念して、東京ガスの協力により設置しました。 平成15年2月28日 馬車道商店街協同組合 |
馬の像には『CAVALLO 1975 VENANZO CROCETTI』と刻まれていた。 ヴェナンツォ・クロセッティ(1913~2003)はイタリアの彫刻家で、CAVALLOはイタリア語で『馬』。 |
【旧生糸検査所(横浜第2合同庁舎)】 「キーケン」の名で親しまれていた建物。耐震耐久性の問題から解体されたが、極力創建当時の状態に復元し、新築、再生を図った。震災復興期の建築としては最大規模を誇り、横浜ゆかりの建築家遠藤於菟の晩年の大作である。 所 在 地:中区北仲通5-57 構造・規模:RC造4階、地下1階/現建物 RC・SRC造23階、地下3階 建築年代 :大正15年(1926)/現建物 平成5年(1993) 指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成2年(1990)7月 設 計:遠藤於菟/現建物 建設省関東地方建設局営繕課 |
【横浜郵船ビル】 我が国の代表的海運会社の建物。最大の特徴は、古典主義様式建築の華である正面の16本にわたる大オーダーのコリント式列柱。関内大通りからのアイ・ストップにもなっていて、税関と並ぶ海岸通りの最重要建物のひとつである。 所 在 地:中区海岸通3-9 構造・規模:RC造3階 建築年代 :昭和11年(1936) 設 計:和田順顕建築事務所 |
【横浜市開港記念会館】 国指定重要文化財(平成元年9月2日指定) 横浜市開港記念会館は、開港50周年を記念して、大正3年(1914)9月に着工され、大正6年7月1日の開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館しました。 建物は、大正12年の関東大震災によって一部焼失したため、昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ創建時の姿に復元されました。 建物の外壁は、腰石まで花崗岩積みで、1・2階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックスタイルで、古典主義を自由にアレンジしています。東南隅には高塔(時計塔)、西南隅に八角ドーム、北東隅に角ドーム、さらに高塔を挟む位置にも角ドームを作り、屋根は寄棟造り・天然スレート葺で、越屋根は銅板葺としています。また、建物内部の広間、中庭に面する窓にはステンドグラスが用いられるなど、大正期の建物として華やかで優れた意匠が施されています。 横浜市教育委員会文化財課 (社)横浜国際観光協会 平成6年3月 |
【電信創業の地】 明治2年(1869)12月25日、この場所にあった横浜電信局と東京電信局の間にわが国はじめての電報の取扱が行われた。 昭和38年12月25日 日本電信電話公社 |
【旧横浜地方裁判所(横浜地方・簡易裁判所)】 旧建物は県庁と並ぶ戦前横浜の官庁建築の代表作。左右対称の日の字形の平面やスクラッチスタイルの外壁など、昭和初期における公共建築の典型的な意匠をもつ。新庁舎の建設に伴い、低層部に旧建物を復元した。 所 在 地:中区日本大通9 構造・規模:RC造3階(一部4階)/現建物 RC・SRC・S造13階、地下2階 建築年代 :昭和5年(1930)/現建物 平成13年(2001) 指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成11年(1999)3月 設 計:大蔵省営繕管財局/現建物 国土交通省 関東地方整備局営繕課 |
【日本大通り】 旧外国人居留地と日本人街を区分けする街路で、慶応2年(1866)の大火災後に防火帯を兼ねて計画・整備された日本における近代街路の発祥地である。当初は12mの中央車道の左右に3mの歩道と9mの植樹帯が設けられていた。設計者ブラントンは、横浜公園や旧居留地地下水道など横浜の都市基盤整備に主導的な役割をはたしたイギリス人技術者である。沿道には、神奈川県庁本庁舎、旧英国総領事館、旧横浜商工奨励館、旧横浜地方裁判所、三井物産ビルといった歴史的建造物が集積し、横浜でも有数の歴史的景観を形成している。 所 在 地:中区日本大通 構造・規模:幅員36m 建築年代 :明治4年(1871)~明治12年(1879) 設 計:R.H.ブラントン |
【旧横浜商工奨励館〔横浜情報文化センター(日本新聞博物館・放送ライブラリー)〕】 関東大震災後の横浜商工工業界の復興を図る目的で、横浜市によって建設された。クラシックなスタイルにアール・デコ的な意匠を加えた横浜の震災復興建築の代表的存在である。高層棟を増築し、横浜情報文化センターとして生まれ変わった。 所 在 地:中区日本大通11 構造・規模:RC造4階、地下1階/現建物 RC・SRC・S造12階、地下3階 建築年代 :昭和4年(1929)/改修及び増築 平成12年(2000) 指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成11年(1999)2月 設 計:岩崎金太郎/改修及び増築 日建設計 |
【外国郵便創業の局】 (レリ-フ) 明治8年1月5日創業 100年記念昭和50年 【外國郵便開始八十年】 (碑文) 昭和三十年一月五日 |
【神奈川運上所跡】 開港にともない、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が、今の神奈川県庁所在地に設けられ、神奈川奉行の支配に属していた。 慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。 明治元年(1868)明治政府に移管され同5年(1872)横浜税関に改められた。 |
【神奈川県庁本庁舎】 外観の全体構成はクラシックであるが、細部は幾何学的な独自の意匠が用いられ、後の帝冠様式の先駆けでもある。スクラッチタイル貼りの外壁と中央の高塔が特徴的で、その塔は「キング」の愛称で親しまれている。 所 在 地:中区日本大通1 構造・規模:SRC造5階、地下1階 塔屋付 建築年代 :昭和3年(1928) 指定・認定:国登録有形文化財 平成8年(1996)12月 設 計:小尾嘉郎 |
三塔を一度に見ることが出来る場所が次の四箇所ある。そのうち①~③の場所にはそれぞれ足元にマークが記されている正規な場所だが、④は全貌が見えず番外である。 ①神奈川県庁本庁舎向かいの分庁舎前(左の写真撮影場所) ②赤レンガパーク ③大桟橋 ④象の鼻パークの遊歩道(開港の道)上・横浜税関前(但し、キングは一部(頭頂部)しか見えない) ①~③のスポットを一日で巡ると、願いが叶うとの都市伝説「横浜三塔物語」がある。また、カップルは結ばれるとの噂もある。 (写真の中央がキングの塔、左の赤矢印がジャックの塔、その反対の右端がクイーンの塔) |
【旧英国総領事館(横浜開港資料館旧館)】 この建物は昭和6年(1931)に英国総領事館として建てられ、昭和56年(1981)から横浜開港資料館として使われている。英国工務局によって設計され、18世紀のジョージアン・スタイルの都市邸宅を思わせるデザインである。その特色は玄関周りによく現れている。敷地はかつて日米和親条約が結ばれた由緒がある土地である。 所 在 地:中区日本大通3 構造・規模:RC造3階、地下1階 建築年代 :昭和6年(1931) 指定・認定:横浜市指定有形文化財 平成12年(2000)11月 設 計:英国工務局 (左上の写真は、日本大通り側の出入口) |
|
【玉楠の木】 日米和親条約締結の地に残るタブノキ 横浜市地域史跡(昭和63年11月1日登録) 中庭にある玉楠の木は、江戸時代から同地にあり、日米和親条約の締結(安政元年、1854)は、この玉楠の木近くで行われたといわれている。この玉楠の木は、大正12年の関東大震災によって幹の部分を焼失したが、残った根から新たに芽が出て現在のものとなった。いわば横浜の歴史をみつめた生き証人ともいえる。 (左中の写真で、玉楠の木の後ろが海岸通り側の出入口) |
|
【獅子頭共用栓とブラフ溝】 この共用栓は、日本最初の近代水道となった横浜水道(明治18~20年)創設時市内各所に配置されていたものである。当時家屋内に蛇口を引く例は少なく、路頭の共用栓から水の供給を受けるのが一般的で、創設期600基がイギリス・グレンフィールド社から輸入された。 また、水受石は、山手の坂道など居留地時代の道路側溝に使用されていた石材を再利用した。 昭和62年7月 横浜開港資料館 |
遊歩道から日本大通を望む |
【像の鼻パーク】 象の鼻パークは横浜港発祥の地であり、横浜の歴史と未来を結ぶ象徴的な空間として、開港150周年を記念して整備されました。 開港波止場 開港波止場は港を感じることができる開放的な広場です。明治時代に港の荷役作業で使用された軌道と転台車の遺構が展示されています。 象の鼻堤防 象の鼻堤防は明治中期の姿に復元しています。当時のガス灯を模した照明灯が設置されているほか、工事中に発見された関東大震災で沈んだと考えられる防波堤の一部を、そのままの形で保存・展示しています。 開港の丘 開港の丘はゆるやかな斜面の草地広場です。ゆっくり腰をおろして港の雰囲気を楽しむことが出来ます。 象の鼻テラス 休憩施設である象の鼻テラスは、文化観光交流の拠点としても活用されています。 |
煙を吐いている船が泊まっているのが大さん橋。大さん橋の付根から左の伸びている堤防が象の鼻(形が象の鼻に似ていることから命名)。 |
【象の鼻堤防】 安政6年(1859)の横浜開港に伴い、幕府は開港場の中央部に波止場を建設し、その中心地点に運上所(税関)を設置しました。この波止場は、2本の突起が岸からまっすぐに海に向かって突き出た簡素なもので、東側の突起は外国貨物の、西側の突起は国内貨物の積卸に使用されました。 突起には外国の大きな船舶が直接横付けできないため、沖に停泊している船舶から小船に荷物を移し替えて運んできましたが、強風による高波の影響で小船の荷役作業はしばしば妨げられました。慶応2年(1866)の横浜大火により被害を受けた税関施設などの復興と共に、慶応3年(1867)、幕府は東側の突起を延長して象の鼻のように弓なりになった防波堤を築造しました。これが「象の鼻」のはじまりで、この防波堤によって囲われた水域で行う荷役作業は一気に効率が上がりました。 象の鼻パークの整備工事においては、残されている写真や工事記録などを参考にして、全体の姿が明治中期頃のものになるように復元工事を行いました。工事中に、大正12年(1923)の関東大震災で沈下したと思われる象の鼻防波堤の石積みと舗装の石材が発見されたため、 一部をそのままの形で保存・展示するとともに、復元した石積みにも利用しています。 |
【横浜税関】 建物は税関らしく表面を港に向けており、塔はイスラム寺院風のドームをいただき、エキゾチックな雰囲気を醸しだしている。その塔は「クイーン」の愛称で親しまれている港横浜のシンボル。 所 在 地:中区海岸通1-1 構造・規模:SRC造5階/現建物 SRC・S造7階 建築年代 :昭和9年(1934)/改修及び増築 平成15年(2003) 指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成13年(2001)3月 設 計:大蔵省営繕管財局工務部/改修及び増築 香山・アプル設計JV |
【日米和親条約締結の地】 安政元年(1854年)2月から3月にかけて、日米代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結んだ、これは、神奈川条約ともいわれ、日本の開国を促し、本市の誕生の遠因ともなった。歴史的舞台をなった応接所のあとは、現在の神奈川県庁の付近である。 (左上の写真は、海岸通り側から見た開港広場で、丸い玉が日米和親条約締結の碑。広場の右手には「横浜開港資料館」、左手には「シルクセンター」がある。) |
|
【明治10年代に築造されたレンガ造りマンホールと下水管】 国登録有形文化財 明治14年から20年にかけて、旧関内外国人居留地(現在の山下町と日本大通りの一部)一帯で水道改造工事が実施され、卵形レンガ管陶管の下水道が整備されました。 その下水幹線7本とマンホール37カ所はレンガ造りで、材料のレンガは、東京府小菅の東京集治監のレンガ工場に注文して築造されたものです。設計者は東京大学理学部第1回卒業生、当時神奈川県土木課御用掛の三田善太郎氏で、これは日本人が設計したわが国最初の近代下水道と言えるでしょう。 このマンホールは明治15年頃築造されたもので、昭和57年4月にこの公園の整備中に発見され、当時のままの状態で保存されています。平成10年9月に下水道施設ではわが国初めての国登録有形文化財に登録されました。 横浜市下水道局 平成10年9月 (ガラスの中に下水管があるのだが、草に覆われて分かりづらかった) |
|
【旧居留地90番地の大砲】 口径11.5cm 全長282.5cm 重量1480kg 外国人居留地90番地(現山下町90番地)に、生糸の輸出と時計の輸入に従事していたスイスの商人、シーベル・ブレンワルト商会(界応元(1865)年創立)があり、明治維新の際の戊辰戦争中は武器の輸入も行っていました。昭和34年、同社跡地で建物の基礎工事中に大砲が見つかり、掘り出され、展示されておりましたが、平成15(2003)年、横浜市に寄贈されました。この大砲は、鋳鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東印度会社のエンクハイゼン商館所属船の備砲です。使わなくなった大砲を錨に作り変え、横浜に出入する船に売買するために持っていたものが、大正12(1923)年の関東大震災の時に地中に埋まってしまったのではないかと推定されます。明治43年に出版された書籍に、同社の「倉庫の入り口に、明治初年に武器を扱っていた記念として大砲が備え付けられていた」という記載があります。 明治初期の外交人居留地の外国商館と、取扱商品並びに輸入先がわかる遺品として、貴重な資料です。 平成15年12月 横浜市教育委員会 |
【シルク博物館・誕生ものがたり】 (パンフレットより) シルク博物館は横浜開港百年記念事業として、神奈川県・横浜市・関係業界の協力によって、昭和34年3月、開港当初英国商社ジャーディン・マセソン商会(英一番館)のあったところに、シルクセンター国際貿易観光会館が建設され、その重要な一事業部門として開設されました。当館は絹の科学・技術の理解や絹服飾の工芸美鑑賞の場を提供するとともに、絹の需要促進を目的としています。また、これらを通じて国際観光の振興を図るとともに、世界でも数少ない絹に関する施設として多くの人たちに親しまれています。 |
【電話交換創始之地】 (碑文) 横 浜 電 話 交 換 局 跡 明治廿三年十二月十六日開始 紀元二千六百年 遞 信 省 【電話交換創始の地】 (碑文脇の説明板) 明治23年(1890年)12月16日、この場所にあった横浜電話交換局において、横浜と東京間及び市内にわが国で初めての電話交換業務が開始されました。 平成6年4月1日 日本電信電話株式会社 |
【旧横浜市外電報局(横浜都市発展記念館・横浜ユーラシア文化館)】 戦後逓信省営繕組織の設計による建物の貴重な現存例。当初表現主義の色彩の濃い設計で建設が進められていたが、関東大震災に遭ったため現在の設計になった。外観はタイル張りと一部石張りによるシンプルな造形だが、1階のアーチ窓列やコーニスなどが特徴的である。 所 在 地:中区日本大通12 構造・規模:RC造4階、地下1階 建築年代 :昭和4年(1929) 指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成12年(2000)11月 設 計:逓信省営繕課(担当 中山広吉) |
【消防急救発祥之地】 昭和8年(1933)2月日本で始めて この地(当時の山下町消防署)に急救車が配置運用開始されました 昭和50年9月6日 【旧居留地消防隊地下貯水槽遺構】 建造年:明治26(1893)年(推定) 構 造:煉瓦造(イギリス積) 規 模:底面3.19m×3.17m・高さ4.50m・貯水量28m3 この貯水槽は明治4(1871)年から明治32(1899)年までここを本拠地とした居留地消防隊(Yokohama Fire Brigade)の防火貯水槽として建造されたものです。この地に居留地時代から100年以上も良好に保存され、昭和47(1972)年まで使用されました。構造物としての特徴は、内部のヴォールト(アーチ)型の天井と十字の補強用の間仕切りによって4室に分かれていることで、役割を終えた現在でも地下水の流入により常時貯水されています。 またここは、居留地消防隊が本拠地として使用した後にも、日本初の消防車(大正3(1914)年)、救急車(昭和8(を1933)年)が配置されるなど、日本における近代消防ゆかりの地ともいえます。 横浜市では、自治体消防体制発足時代の横浜市消防局本部が置かれ、平成6(1994)年まで日本大通消防出張所として100年以上の消防の歴史があるこの地の貯水槽を保存し、展示しています。 |
【ホテル発祥の地とは】 1860年(万延元年)、開港直後の2月、横浜のホテルの元祖がこの地(居留地70番)で誕生した。 この「ヨコハマ・ホテル」はオランダ人が造ったもので、内部に食堂、ビリヤード室、酒場を設け、数年後には、フランス人シェフのレストランや洋酒、洋菓子の売店、ボーリング室を付設した。 宿泊客のハイネは、ここで美味な料理をとれると称賛し、他にシーボルト、ワーグマン、クラーク等の著名文化人の多数、宿泊し滞在した。これらの人たちを通じて最新の外国文化の受け入れ窓口として、我が国の近代化に果たした役割はまことに大きい。 開国150年記念 かをり会 平成16年3月31日竣工 |
【大砲の由来】 この大砲は、以前の倉庫会社から三門当社に譲り受けた物の一つで、残り一つは歴史資料館、一つは開港記念館に置いてあります。 以前の倉庫会社が新築工事中にこの地より発掘されたもので、横浜開港に由緒ある貴重な史物で、歴史をたどれば嘉永七年米国使節ペリーは、艦隊数隻を率いて日本に開国通商を迫り幕府は、会見の場所を横浜に設け使節と交渉せしむるに当り松代、小倉の二藩に警護を命じた。松代藩佐久間象山は軍議役として和蘭新式野戦砲二門、牛角砲二門、本込銃の外槍刀兵等の装備にて威風堂々と出陣し幕府を驚愕させたが、運命遂に黙止しがたく断腸の思いにてこの地に埋没したものです。 以上が前所有者倉庫会社からの伝言です。 平成拾七年七月 川崎市中原区小杉三ノ四四一 株式会社 山脇商事 |
【横浜公園の噴水】 現在の円形噴水塔は、関東大震災の復興事業として1928(昭和3)年に完成したものです。高さ約2.8Mの朝顔形の噴水塔は、岡山産の万成(まんなり)花崗岩できており、公園から港へと向かう日本大通りの中心軸と重なるように配置されています。この噴水塔は明治時代から数えて3代目にあたり、震災以前の園内には、イギリスから輸入された三段の水盤を持つ鋳鉄製の噴水塔のほか、日本大通り側にあった日本庭園の池にも噴水が設けられていました。 監修:横浜市発展記念館 平成23年 横浜市環境創造局 |
|
【岩亀楼の石灯籠】 横浜公園一帯は江戸時代の末期までは入海で、安政三年(1856)に埋め立てられ太田屋新田といった。 横浜開港に伴い、新田の沼地約一万五千坪が更に埋め立てられ、港崎町(みよざきちょう)と命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えた。 港崎町一帯は慶應二年(1866)の大火(通称豚屋火事)で焼失し、跡地は当時在留の外国人の要望で公園として再生することに決まり、明治九年(1876)日本最初の洋式公園(横浜公園)が誕生した。 当初、彼我(ひが)公園と俗称され、明治三十二年(1899)神奈川県の所管から横浜市の管理に移り、市民に公開され今日に至った。 この灯籠は、妙音寺(南区三春台)から横浜市(横浜開港資料館)寄贈されたもので、 石に刻んである「岩亀楼」の文字から、岩亀楼にちなむものであることが分かる。 岩亀楼は、始め港崎町に建てられ、慶應二年の大火で類焼、以来二転三転して明治十六年(1883)永楽町に移り、明治十七年に廃業した。 この灯籠は明治初年頃のものと思われるが、いつ妙音寺に移されたかも判明してない。震災、戦災によって多くの文明開花期の遺物を失った横浜にとっては貴重な文化財の一つといえよう。 昭和五十七年十二月 横浜市 |
【ストロングビル】 横浜市認定歴史的建造物 建物の概要 ストロングビルは、横浜ゆかりの建築家である矢部又吉の設計により、昭和13年(1938)人に創建された建築物です。 横浜における数少ない戦前のオフィスビルの遺構であり、また、かつて横浜に数多く存在した外国商社の希少な遺構でもありました。造形様式はシンプルなクラシックと称すべきものであり、クラシックなスタイルの最後期の作品です。また横浜公園からのアイ・ストップとなっていて、都市景観上からも貴重なモニュメントとなっていました。 平成19年(2007)に解体され 、平成21年(2009)にホテルの 低層部に外観が復元されました。 所 在 地 中区山下町204-1 施 工 昭和13年(1938) 設 計 者 矢部又吉(1888-1941) 銀行建築の名手として知られる横浜出身の建築家。ドイツ留学後、川崎財団の顧問建築家として、川崎銀行の建築の多くを手がけた。 構造・規模 鉄筋コンクリート造地上3階、地下1階 |