浜街道(2) 京王「多摩境駅」~JR横浜線「町田駅」
2014年3月18日(火) 晴
京王線「多摩境駅」を10:20スタート。
【由緒】 創建の年代は不詳ですが常陸国(茨城県)一之宮鹿島神宮を勧請したもので、寛文二年の検知の時札次大明神の朱印社領高二石二斗を受ける。 宝暦六年(1756年) 八月に社殿再建、昭和二十六年拝殿建替、昭和三十九年七月片所津島神社と田端の八坂神社を合社する。 昭和五十六年五月氏子会を設立する。 昭和六十年八月神楽殿と社務所を新築する。 平成十一年九月本殿覆屋建替、平成十二年鳥居、水屋を建替る。 子孫繁栄と養蚕信仰の蚕種石がある。 白樫、山桜は町田市指定銘木である。 |
モッコク (奥が本堂) |
【モッコク】 町田市銘木百選(昭和51年11月指定) この福生寺のモッコクは、もともと2本から3本が寄りついたもので、昔はこぶし大位の隙間があり向こうが見えていましたが、今ではすっかり幹がくっつき1本になってしまいました。 |
観音堂 |
【福生寺 木造菩薩立像】 町田市指定有形文化財(昭和62年11月13日指定) 現在観音堂の本尊に随時して安置されている。本尊と同様、檜材の丸彫像で、やはり素地(きじ)をしている。天衣(てんね)および台座蓮肉部まで本体と共木で、左脇侍は格肘より先、右脇侍は右手首が後補されている。 五〇センチに満たない小像らしく童顔風とするところが個性的で、目鼻立ちや技法などは極めて本尊像に近いが、宝冠は無文で衣文も殆ど省略されているところなどが異なる。また、大きさからも本尊と元来一具であったとは認め難い。しかし、この二像は本尊像の作風を踏襲していること充分に認められる。制作年代も本尊よりはやや遅れて十一世紀末から十二世紀後半とするのが妥当であろう。 町田市教育委員会 |
【献燈修復之記】 沼町内会 沼町内会は歴史あるこの献燈(慶応元年設立)を町民の総意によって永く後世に保存するため当時この献燈を建立されたかたがたの御子孫と沼町内会の尊い浄財によって修復を行う。 昭和五十一年八月 |
【中村地蔵尊】 中村地蔵尊は宝暦六年(1756)に創立され明和四年(1767)一体、明和五年(1768)五体、安永九年(1780)二体、天明二年(1782)二体、天明三年(1783)二体と合計十三体建立されています。史書に照合してみますと当時代は大飢饉・大洪水・悪疫等が続発しています。 地蔵尊建立当時の人々の願望は一に在住民一般の平穏安寧と特に二世安楽を祈願しています。 |
【秋葉神社由緒】 町田市木曽町に鎮座いたしている当秋葉神社は貞享二年(1685)に秋葉山本宮、秋葉神社(静岡県周智郡春野町秋葉山)より火伏の神として勧請した神社であります。寛政四年(1792)神殿改築。 御祭神は火之迦具土大神と申し上げ火の主宰神であらせられます。火は人間の活動の源であり、その光は人間の活動の範囲を広め、その熱は人間を寒さから守るとともにエネルギーの源ともなります。 御神徳は火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防関連の神として火災消徐、家内安全、厄除開運、商売繁盛、工業発展の御霊験あらかたなる神として全国津々浦々で信仰されております。 四月に行われる例大祭には「湯花祭神事」を併せて執り行ないます。 |
仁王が守る山門を入ってすぐ左側に馬頭観世音等の石碑が五基並び、真っ直ぐ続く参道には石仏と灯籠が交互に沢山並んでいる。 境内正面の本堂の左手前にはイチョウの巨木が聳えている。由緒等は無かった。 左の写真は山門から見た参道で、手前左側に馬頭観世音(石碑)、参道の地蔵の後には石仏と灯籠、奥にイチョウの木と本堂が見える。 |
【木曽一里塚】 町田市指定史跡(昭和44年9月2日指定) 徳川家康は秀忠に命じて慶長九年(1604))日本橋を基点に東海道、東山道、北陸道に一里塚を築かせ全国に普及させた。その後、付属の街道である脇往還なども整備された。一里塚は旅行者の目印として一里(約四キロメートル)の間隔で道の両側に築かれた塚で、木陰にて休憩がとれるように、榎や松が植えられた。 町田市内には、木曽町、小野路町に一里塚が残っている。元和三年(1617)に徳川家康の遺櫃が駿河の久能山から日光東照宮へ移されたとき、東海道の平塚から、厚木、座間、木曽、小野路、府中と通過した。この道は、後に御尊櫃御成道(ごそんびつおなりみち)と呼ばれた。十八世紀になると関東各地から相模国大山阿夫利神社へ参詣する大山講が盛んになり、この道も大山道として利用され、木曽と小野路は宿場町として栄えた。木曽の一里塚も小野路と同じく道の両側にあったが、現在は西側のものだけが残り、塚の上には武蔵御嶽山の大口真神の小祠がある。 二〇一一年二月設置 町田市教育委員会 |
【沿革】 木曽の観音様として古くから親しまれてきました。この寺は、もと近江国園城寺(三井寺)六百二十一坊中の一寺で、康平六年(1063)園城寺第二十三代長吏覺圓僧正が同寺中の金堂(現在国宝)裏に開基せられ、尊聖観世音菩薩(坐像三尺)は僧行基六十歳これを刻むと伝えられています。 縁あって観応二年(1351)武州多摩郡木曽の当地に移され、多摩郡の霞頭となり三井修験の教勢大いに振い、武相観音霊場の第三十三番札所となり多くの人々から尊崇せられ「ここぞ三十三菩薩心」と詠わるに至り、信心の男女礼拝を重ね、六百四十余年の信仰を今日に伝えています。 武相第三十三番 木曽観音 覺圓坊二十六世住職 石川道裕 |
程なく町田街道に合流。「木曽中原交差点」を過ぎた所の右側に少しだけ旧道がある。 すぐ町田街道に戻って少し進むと「滝ノ沢信号」で二又道になる。町田街道は右に進む。 やがてゆるい上り坂になった右側に「センチュリー21リビングスタイル」があり、その店舗入口の自販機横に馬頭観音塚跡の石柱が立っていたが説明等は何も無かった。左側は「滝ノ沢浄水所」(13:35)。 |
【絹の道】 黒船到来により永い鎖国が開かれ 安政六年(1859)に横浜が開港されると 日本から欧米諸国の輸出品の花形になった”生糸”は 主産地である長野・山梨や八王子から 町田を通って横浜へ運搬されました。 新編武蔵風土記稿に”神奈川道”と記された原町田中央通りは 東西文化の交流を果たした中国の長安から地中海に至る古代シルク・ロードのように日本のシルク・ロードになりました。 そして原町田は 商業地形成の原点となった「二・六の市」を主軸として 生糸をはじめ諸物資の集散地となり 繁栄の基礎が築かれ今日に至りました。 この碑は歴史と伝統を受け継ぐ 原町田商人の証として 原町田誕生四百年を記念し 一番街商店会が建立しました。 昭和五十八年十二月吉日 |
【大黒天】 五穀豊穣の神。密教では大自在天の化身で、インドの民族宗教では”シバ神”異名で万物創造の最高神と云われます。 中国に伝えられてから漢訳し”大黒天”となりましたが、日本では神代・出雲国の主神「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と習合し、民間信仰に浸透して「恵比寿神」と共に祀られます。 平成20年 原町田・七福会 |
【由緒】 大正八年三月日向国北諸県郡庄内町地内(現・都城市)石嶺山山頂に遷座せる母智丘大神の御神徳を感得せし黒木昇、黒木ハナの両人御分霊勧請し自宅に奉斎せしが家屋鳴動し畏懼の念に堪えず社殿を創建し奉鎮座した。社殿の老朽化により昭和六十年十月社殿の造営がおこなわれ、夜陰遷座祭同年十一月九日奉祝祭を執行した。伊勢外宮の神明造に擬して設計施工せられた。従って大祭式は現在庭上での祭典となって居る。 【弁財天】 芸術財福の神。元来は「河川」を神格化したもので、音楽・弁舌・福智・延寿・徐災・戦勝の女神として「弁財天」と記され、インドでは「吉祥天(きっしょうてん)」と共に最も崇拝される女神でした。 後世になり「吉祥天」と混同し「弁財天」と記され、弁才を有して琵琶を奏でて仏徳を流布し、寿命増益・怨敵退散・財宝満足などの諸利益があると云われています。 平成20年 原町田・七福会 |
【夜盗塚物語】 これは武藤家が名主の時のはなしである。 ある日、武士の一隊が武藤家を訪ね、御用長持ちを預かってくれるよう申し入れ、家の中に置いて立ち去った。その夜半頃、下女が勝手にいた時、長持ちの蓋がギギーッと持ち上がった。下女が主人にこのことをはなすと、大石を運ばせ、長持ちの上に置かせたので、隠れていた武士はなすこともなく、翌日、空しく長持ちは運び出された。しかし武藤家では、いつか必ず復讐に来ると思い、警備を厳重にしていた。 はたして数日の後に、五、六名の武士がのりこんできて主人に面会を求め、いかめしい様子で金子の借用を申し入れた・・・・ものかげで待ちかまえていた家人や村役人、剣術指南の侍が、槍、刀を振るって突き入った。 野党達もおおいに防ぎ戦ったが、逃げ出した。ところが路地や家の角は、大石をゆわえつけた梯子でふさがれていた。そこへ竹槍を持った村人達も駆けつけ、戦いに加わった。 戦いはしばらく続いたが、野党達は枕を並べて倒されてしまった。野盗塚( 武藤塚ともいう)は、この武士達の亡骸を弔い、塚を築いて供養したものであるという。この塚は以前は中町一丁目(旧町田警察署のあったところ)にあった。 (町田の民話と伝承第一集・町田市文化財保護審議会編から) 一九九八年三月 町田市教育委員会 |
【「二・六の市」の碑】 原町田商店街の発祥は、もとは一村であった町田郷から原町田村が独立したのち、天正十五年(1587)に、それまでの市をわけて「二の市」が原町田、「七の市」が本町田に開設されたのが始まりといわれています。 本町田の「七の市」は次第に衰えていきましたが、原町田の”市”は炭・薪・蚕糸(さんし)・畑作物のほか、衣料や農具など多くの物産を取り扱い、文政・天保年間頃(1818~1843)には「二・六の市」となって、月に六回も開かれるようになりました。この「二・六の市」こそ、恩に地の原町田商店街発展の礎を築いたといえるのです。 幕末に横浜が開港すると、原町田は繭や生糸を運ぶ”絹の道”の中継地として、各地から生糸商人が集まり、”市”の規模も大きくなっています。 ”市”が開かれた場所は、川田横丁や塩屋横丁あたりから勝楽寺門前までで、道の両側の家の軒先に”マゲ”と呼ばれる長い屋根が張られ、それを区切って市店が並びました。 明治四一年(1908)に横浜線が開通し、交通の便がよくなると”市”の日以外にも人々が集まるようになり、次第に商業の待ちとしての形が整うようになりました。 大正十四年(1925)には、古着や古道具類を扱う市店が今の仲見世商店街付近に”ボロ市”として独立し、有名になりましたが、昭和に入ると不況や戦争の影響を受けて、物資不足から出店数も減り、昭和一九年(1944)六月、三六〇年ほど続いた”市”も、ついに幕を閉じています。 しかし原町田は戦後再び商業地としてよみがえり、飛躍的な成長を遂げて今日に至っているのです。 一九八五年十月 町田市史編さん室編集 |
【勝楽寺 阿弥陀三尊像 三軀】 町田市有形文化財(昭和60年4月17日指定) 勝楽寺の本尊像。来迎印を結ぶ中尊に、越をかがめ蓮台を捧げる観音菩薩と合掌する勢至菩薩が随侍する、いわゆる来迎の三尊像である。各像共寄木造、玉眼を嵌入(かんにゅう)。 なお、この三尊像は「町田市史」等によれば、大正2年の関東大震災の折に破損し、その際に像内に墨書銘があることが判明し、享禄5年(1532)大石大学助高伸が大願主となり、仏師円慶によって造立されたことが知られる。銘文中の下野法眼は青梅市報恩寺地蔵菩薩像、鎌倉円応寺奪衣婆像等の作者として知られ、関東地方を中心に活躍した仏師弘円で、その弟子円慶については、この像の他に作品は伝えられていないが、天文2年(1533)に弘円の下で青梅市塩船観音寺の仁王像を修理したことで知られている。 町田市教育委員会 (左の写真は宝筐塔山門から見た月影の鐘と無量寿の塔。) |
|
【寿老人】 不老長寿の神。中国・宋の元祐年間(1086~1094)の人で、老子(ろうし)の化身と云われます。 最初はインドの女神「吉祥天(きっしょうてん)」で、中国における想像上の動物「猩々(しょうじょう)」が祀られた時もあると伝えられます。 平成20年 原町田・七福会 |
入口前の左手生垣に『敷石供養塔』、『本尊南無千手観音菩薩』等の石碑が建っている。 参道に入り仁王像が睨む山門手前右手に新旧の六地蔵群があり、その左側に布袋尊の石像が建っている。 左の写真で、山門奥に見える本堂は昭和47年に再建されたもの。右側に六地蔵が写っている。六地蔵と山門の間に布袋尊像がある。 |
|
【布袋尊】 家庭円満の神。梁の唐時代(618~917)、無邪気で無欲な心の豊かさを論す禅僧「布袋和尚(ほていおしょう)」を神格化したものと云われますが、釈尊の救いに曳れたものを救うため、この世に現れると信じられる未来仏「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」の化身とも云われます。 平成20年 原町田・七福会 |
【町田天満宮】 当神社は文教の祖神菅原道真公を主祭神年とし、日枝社、飯綱社を併せて奉斎し、天正年間この地に鎮座、町田三天神の内の一社で、本町田菅原神社、南大谷天神社と共に古くから崇敬されてまいりました。主祭神菅原道真公は、承知十二年京都に生まれ、菅家廊下と云われる儒学の家として幼少より勉学に努め、宇多天皇、醍醐天皇に信任を得て、右大臣に任命されました。しかし、左大臣藤原時平の、讒言により、昌泰四年大宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷され九州太宰府に下命、配所にあっては天を怨まず人を咎めず、ひたすらに皇室の安泰を祈念され、延喜三年二月二十五日、御歳五十九歳で薨去(こうきょ)されました。 このように不遇な文人政治家であった菅原道真公が生涯を通して示した至誠の道は、文学者としての才能と共に後の人々に認められ、天神信仰が全国に流布し崇敬されております。 例祭神大山咋命は大津市坂本の日吉神社を総本山として、近くは赤坂日枝神社があり、俗に山王様と呼ばれています。 併祭神宇加能御霊神は五穀の神として飯縄(いいずな)様と呼ばれ長野県飯縄山に本社があります。 |
|
【境内社】 (各々の祭神の説明は省略) 祭神 大物主神(金比羅宮) 素盞鳴尊(八雲社) 恵比寿神(西宮) 聖徳太子 【恵比寿】 商業・漁業・海上の守護神で、夷・戎・蛭子・恵比寿とも記され、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の第三子に因り「夷三郎」とも云います。 |