浜街道(2) 京王「多摩境駅」~JR横浜線「町田駅」

2014年3月18日(火) 晴
 京王線「多摩境駅」を10:20スタート。


(注:解説で街道の左側、右側とは横浜に向っての左右です)

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【札次(ふだつぎ)神社】 (左奥) 10:22~10:30
 前回終了した県道158号線(多摩ニュータウン通り)との十字路を渡って少し進み、京王相模原線のガードをくぐった次の道を左折すると奥に札次神社がある。この街道から左折する角に大正七年十一月建之の『指定村社 札次神社』と刻まれた石の標柱が立っているのですぐ分かる。
 但し、私は「多摩境駅」から直接行った。駅の改札を出たら右折し、すぐ右手の階段を下りるとすぐ左側に札次神社がある。
 神社の参道を進むと、木の鳥居の右手にもう一つ石の鳥居があり、二段上った所に蚕種石
(こたねいし)が二ツ、注連縄を巻かれて鎮座している(下の写真参照)
 鳥居をくぐった左手には、町田市銘木百選の大きな山桜が、右手には手水舎と由緒が立っている。
【由緒】
 
創建の年代は不詳ですが常陸国(茨城県)一之宮鹿島神宮を勧請したもので、寛文二年の検知の時札次大明神の朱印社領高二石二斗を受ける。
 宝暦六年(1756年) 八月に社殿再建、昭和二十六年拝殿建替、昭和三十九年七月片所津島神社と田端の八坂神社を合社する。
 昭和五十六年五月氏子会を設立する。
 昭和六十年八月神楽殿と社務所を新築する。
 平成十一年九月本殿覆屋建替、平成十二年鳥居、水屋を建替る。
 子孫繁栄と養蚕信仰の蚕種石がある。
 白樫、山桜は町田市指定銘木である。

【福生寺(ふくしょうじ) (左側) 10:38~10:50
 街道に戻り、少し進むと左側「小山保育園」の所で県道47号線(町田街道)に合流する。
 「小山保育園」の横を左折すると突き当りが福生寺。その左の道に入ったすぐ右側に眼を引く程大きな二本のシダレザクラがあり、開花時に見たかった。
 突き当たり右手の山門を入って12段ほどの石段を上った正面が本堂で、右側に町田市銘木百選のモッコクが、左側に鐘楼があり、その奥に観音堂が建っている。観音堂には町田市有形文化財の木造菩薩立像が安置されている。

モッコク (奥が本堂)
【モッコク】 町田市銘木百選(昭和51年11月指定)
 この福生寺のモッコクは、もともと2本から3本が寄りついたもので、昔はこぶし大位の隙間があり向こうが見えていましたが、今ではすっかり幹がくっつき1本になってしまいました。

観音堂
【福生寺 木造菩薩立像】 町田市指定有形文化財(昭和62年11月13日指定)
 現在観音堂の本尊に随時して安置されている。本尊と同様、檜材の丸彫像で、やはり素地
(きじ)をしている。天衣(てんね)および台座蓮肉部まで本体と共木で、左脇侍は格肘より先、右脇侍は右手首が後補されている。
 五〇センチに満たない小像らしく童顔風とするところが個性的で、目鼻立ちや技法などは極めて本尊像に近いが、宝冠は無文で衣文も殆ど省略されているところなどが異なる。また、大きさからも本尊と元来一具であったとは認め難い。しかし、この二像は本尊像の作風を踏襲していること充分に認められる。制作年代も本尊よりはやや遅れて十一世紀末から十二世紀後半とするのが妥当であろう。
     町田市教育委員会

【石燈籠と石碑】 (両側) 11:03
 街道に戻ってすぐ左側の「町田市小山市民センター」の前にも、町田市指定天然記念物のシダレザクラの古木があった。
 「市民センター」の所から左斜めに旧道があるが、失念して町田街道を真っ直ぐ進んでしまった。
 次の「小山駐在所交差点」渡った先、左斜めに再び旧道がある。旧道入口手前から左方向に完成間近の新道が建設中だった。
 旧道に入り、太い県道503号線を渡った次の十字路の右側に慶応元年の献燈と刻まれた石燈籠献燈修復之記庚申塔?が、左側に文政十年の普門品供養塔と良く分からないが石碑が建っている。
献燈修復之記】
   沼町内会
 沼町内会は歴史あるこの献燈(慶応元年設立)を町民の総意によって永く後世に保存するため当時この献燈を建立されたかたがたの御子孫と沼町内会の尊い浄財によって修復を行う。
     昭和五十一年八月

【中村地蔵尊】 (右側) 11:13
 献燈から7分程で町田街道に合流するが、合流したすぐ右側に十三体の地蔵が祀られている中村地蔵尊がある。その中の中央の地蔵のみ坐像である。
 地蔵群の左隣には道祖神・庚申塔・供養塔等が7基並んでいて、更に左には大那牟遲神の小さな祠と昭和六十年建之の馬頭観世音が建っている。
【中村地蔵尊】
 中村地蔵尊は宝暦六年(1756)に創立され明和四年(1767)一体、明和五年(1768)五体、安永九年(1780)二体、天明二年(1782)二体、天明三年(1783)二体と合計十三体建立されています。史書に照合してみますと当時代は大飢饉・大洪水・悪疫等が続発しています。
 地蔵尊建立当時の人々の願望は一に在住民一般の平穏安寧と特に二世安楽を祈願しています。

<昼食> 12:00~12:25
  中村地蔵尊から町田街道を暫く進み、「常盤交差点」手前で右斜めの旧道に入る。その旧道が「中常盤信号」で町田街道に出たら、すぐ左に僅かだけ旧道がある。再び町田街道に出たら、もう一度すぐ先右斜めの旧道に入る。
 その旧道も数分で手前から南に曲がってきた町田街道に合流する。合流点に交通安全地蔵が祀られていた。
 やがて街道左手は「桜美林学園」の中・高・大学の敷地になる。
 「桜美林学園信号」の次の「桜美林学園東交差点」の右角にある「マクドナルド」で昼食とした。

【秋葉神社】 (右側) 12:47
 「桜美林学園東交差点」から町田街道を15分程進んだ「上宿交差点」を右折して旧道に入る。
 右側「上宿公園」の前を過ぎ、大通りを渡った少し先に秋葉神社がある。
 鳥居をくぐったすぐ右側に由緒と地神塔等三基の石碑が建っている。正面本殿の右手には稲荷社、左手には樹齢四百年余りと云われる幹が空洞になっているケヤキの木が頑張っている。
【秋葉神社由緒】
 町田市木曽町に鎮座いたしている当秋葉神社は貞享二年(1685)に秋葉山本宮、秋葉神社(静岡県周智郡春野町秋葉山)より火伏の神として勧請した神社であります。寛政四年(1792)神殿改築。
 御祭神は火之迦具土大神と申し上げ火の主宰神であらせられます。火は人間の活動の源であり、その光は人間の活動の範囲を広め、その熱は人間を寒さから守るとともにエネルギーの源ともなります。
 御神徳は火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防関連の神として火災消徐、家内安全、厄除開運、商売繁盛、工業発展の御霊験あらかたなる神として全国津々浦々で信仰されております。
 四月に行われる例大祭には「湯花祭神事」を併せて執り行ないます。

【福昌寺】 (右側) 12:48~13:00
 秋葉神社の左隣に福昌寺がある。
 仁王が守る山門を入ってすぐ左側に馬頭観世音等の石碑が五基並び、真っ直ぐ続く参道には石仏と灯籠が交互に沢山並んでいる。
 境内正面の本堂の左手前にはイチョウの巨木が聳えている。由緒等は無かった。


 左の写真は山門から見た参道で、手前左側に馬頭観世音(石碑)、参道の地蔵の後には石仏と灯籠、奥にイチョウの木と本堂が見える。

【木曽一里塚】 (右奥) 13:06
 福昌寺から数分進むと枡形の様な変形四つ角が現れ、左角に赤い帽子とエプロンを掛けた地蔵が建っている。また、正面には公園の様な広場に覚圓坊の建物が見える。
 その四つ角を右折して1分ほど進むと左側に木曽一里塚がある。石垣の左手前に説明板が立ち、石垣の右上には一里塚碑と石燈籠、奥に大口眞神の小さな祠が建っている。
【木曽一里塚】 町田市指定史跡(昭和44年9月2日指定)
 徳川家康は秀忠に命じて慶長九年(1604))日本橋を基点に東海道、東山道、北陸道に一里塚を築かせ全国に普及させた。その後、付属の街道である脇往還なども整備された。一里塚は旅行者の目印として一里(約四キロメートル)の間隔で道の両側に築かれた塚で、木陰にて休憩がとれるように、榎や松が植えられた。
 町田市内には、木曽町、小野路町に一里塚が残っている。元和三年(1617)に徳川家康の遺櫃が駿河の久能山から日光東照宮へ移されたとき、東海道の平塚から、厚木、座間、木曽、小野路、府中と通過した。この道は、後に御尊櫃御成道(ごそんびつおなりみち)と呼ばれた。十八世紀になると関東各地から相模国大山阿夫利神社へ参詣する大山講が盛んになり、この道も大山道として利用され、木曽と小野路は宿場町として栄えた。木曽の一里塚も小野路と同じく道の両側にあったが、現在は西側のものだけが残り、塚の上には武蔵御嶽山の大口真神の小祠がある。
     二〇一一年二月設置 町田市教育委員会

【覚圓坊】 (右側) 13:10
 変形四つ角に戻ると、右側に覚圓坊がある。
 公園の様な広い境内には桜の巨木があり、来る4月6日には花まつりが行われると掲示されていた。
【沿革】
 木曽の観音様として古くから親しまれてきました。この寺は、もと近江国園城寺(三井寺)六百二十一坊中の一寺で、康平六年(1063)園城寺第二十三代長吏覺圓僧正が同寺中の金堂(現在国宝)裏に開基せられ、尊聖観世音菩薩(坐像三尺)は僧行基六十歳これを刻むと伝えられています。
 縁あって観応二年(1351)武州多摩郡木曽の当地に移され、多摩郡の霞頭となり三井修験の教勢大いに振い、武相観音霊場の第三十三番札所となり多くの人々から尊崇せられ「ここぞ三十三菩薩心」と詠わるに至り、信心の男女礼拝を重ね、六百四十余年の信仰を今日に伝えています。
     武相第三十三番 木曽観音  覺圓坊二十六世住職 石川道裕

【地蔵尊と馬頭観音塚跡碑】 
 覚圓坊を出て直ぐの広い道を渡った先、左側の民家の一角に地蔵尊(13:17)。


 程なく町田街道に合流。「木曽中原交差点」を過ぎた所の右側に少しだけ旧道がある。
 すぐ町田街道に戻って少し進むと「滝ノ沢信号」で二又道になる。町田街道は右に進む。
 やがてゆるい上り坂になった右側に「センチュリー21リビングスタイル」があり、その店舗入口の自販機横に馬頭観音塚跡の石柱が立っていたが説明等は何も無かった。左側は「滝ノ沢浄水所」(13:35)。

【絹の道碑】 (右側) 14:03
 町田街道「森野交差点」で、左右の道が「鎌倉街道」である標識が立っている(13:45)。
 繁華街を更に進み、町田駅前で「小田急小田原線」の踏切を渡ると、右側「小田急東口広場」に鎖で囲われた絹の道碑が建っており、脇に説明板も立っている。
 碑の正面に『絹の道』、右側面に『此方 はちおヽじ』、左側面に『此方 よこはま』、裏面に『原町田誕生四百年記念 昭和五十八年 建立』と刻まれている。
【絹の道】
 黒船到来により永い鎖国が開かれ 安政六年(1859)に横浜が開港されると 日本から欧米諸国の輸出品の花形になった”生糸”は 主産地である長野・山梨や八王子から 町田を通って横浜へ運搬されました。
 新編武蔵風土記稿に”神奈川道”と記された原町田中央通りは 東西文化の交流を果たした中国の長安から地中海に至る古代シルク・ロードのように日本のシルク・ロードになりました。
 そして原町田は 商業地形成の原点となった「二・六の市」を主軸として 生糸をはじめ諸物資の集散地となり 繁栄の基礎が築かれ今日に至りました。
 この碑は歴史と伝統を受け継ぐ 原町田商人の証として 原町田誕生四百年を記念し 一番街商店会が建立しました。
     昭和五十八年十二月吉日

【原町田七福神・大黒天】 (右奥)
 絹の道碑の左後ろ奥に原町田七福神の内、大黒天の像が説明文と共に建ち、原町田七福神巡りの地図も掲載されている。
 今回の旅は、「原町田中央通り交差点」迄として、この後、原町田七福神巡りをする。
【原町田・七福神】 
   恵比寿神 (商売繁盛) ― 町田天満宮
   布 袋 尊(家庭円満) ― 宗 保 院
   寿 老 人(不老長寿) ― 勝 楽 寺
   福 禄 寿(財宝守護) ― 町田商工会議所
   毘沙門天 (福寿増長) ― 浄 運 寺
   弁 財 天(芸術財福) ― 母智丘神社
   大 黒 天(五穀豊穣) ― 小田急東口広場
 町田市の中心商業地「から町田商店街」は天正15年(1587)に開設された「二の市」が天保年間に六斎市「二・六の市」となり、諸物資の集産期として繁栄の基盤が築かれました。
 安政六年(1859)の「横浜開港」により、輸出品の花形「生糸」が運ばれた”絹の道”の中継地として発展し今日に至っています。
 昭和33年(1958)に誕生し”市制施行50周年”を迎えた「町田市」と、歴史と伝統を有する「原町田商店街」の隆盛発展を祈念し、原町田地区内に福徳の神「七福神」を祭祀しました。
     平成20年 原町田・七福会
【大黒天】
 五穀豊穣の神。密教では大自在天の化身で、インドの民族宗教では”シバ神”異名で万物創造の最高神と云われます。
 中国に伝えられてから漢訳し”大黒天”となりましたが、日本では神代・出雲国の主神「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と習合し、民間信仰に浸透して「恵比寿神」と共に祀られます。
     平成20年 原町田・七福会

【母智丘(もちお)神社・弁財天】 左奥 14:15
 「小田急東口広場」から一本目の道(角が「みずほ証券」)を左折して、公衆トイレがある「原町田わかば公園」前を通り、「福祉会館前交差点」を渡ると、突き当たりの左手に母智丘神社の鳥居がある。大黒天から約10分。
 細い参道を進んで境内に入ると正面に社殿、右手に由緒、左手に弁財天の石像が建っている。
【由緒】
 大正八年三月日向国北諸県郡庄内町地内(現・都城市)石嶺山山頂に遷座せる母智丘大神の御神徳を感得せし黒木昇、黒木ハナの両人御分霊勧請し自宅に奉斎せしが家屋鳴動し畏懼の念に堪えず社殿を創建し奉鎮座した。社殿の老朽化により昭和六十年十月社殿の造営がおこなわれ、夜陰遷座祭同年十一月九日奉祝祭を執行した。伊勢外宮の神明造に擬して設計施工せられた。従って大祭式は現在庭上での祭典となって居る。
【弁財天】
 芸術財福の神。元来は「河川」を神格化したもので、音楽・弁舌・福智・延寿・徐災・戦勝の女神として「弁財天」と記され、インドでは「吉祥天(きっしょうてん)」と共に最も崇拝される女神でした。
 後世になり「吉祥天」と混同し「弁財天」と記され、弁才を有して琵琶を奏でて仏徳を流布し、寿命増益・怨敵退散・財宝満足などの諸利益があると云われています。
     平成20年 原町田・七福会

【浄運寺・毘沙門天】 左側 14:30~14:35
 街道に戻り「原町田中央通り交差点」を渡ったすぐ左に浄運寺がある。この参道に毘沙門天の石像があるはずだが、参道工事中で石像は取り払われていた。
 境内には、本堂左手に武藤塚(野盗塚)、その隣に大須賀明と長岡織部の墓が並んでいる。その他に、日蓮上人の銅像、昭和大鬼瓦がある。
夜盗塚物語】
 
これは武藤家が名主の時のはなしである。
 ある日、武士の一隊が武藤家を訪ね、御用長持ちを預かってくれるよう申し入れ、家の中に置いて立ち去った。その夜半頃、下女が勝手にいた時、長持ちの蓋がギギーッと持ち上がった。下女が主人にこのことをはなすと、大石を運ばせ、長持ちの上に置かせたので、隠れていた武士はなすこともなく、翌日、空しく長持ちは運び出された。しかし武藤家では、いつか必ず復讐に来ると思い、警備を厳重にしていた。
 はたして数日の後に、五、六名の武士がのりこんできて主人に面会を求め、いかめしい様子で金子の借用を申し入れた・・・・ものかげで待ちかまえていた家人や村役人、剣術指南の侍が、槍、刀を振るって突き入った。
 野党達もおおいに防ぎ戦ったが、逃げ出した。ところが路地や家の角は、大石をゆわえつけた梯子でふさがれていた。そこへ竹槍を持った村人達も駆けつけ、戦いに加わった。
 戦いはしばらく続いたが、野党達は枕を並べて倒されてしまった。野盗塚( 武藤塚ともいう)は、この武士達の亡骸を弔い、塚を築いて供養したものであるという。この塚は以前は中町一丁目(旧町田警察署のあったところ)にあった。
   (町田の民話と伝承第一集・町田市文化財保護審議会編から)
    一九九八年三月 町田市教育委員会
【大須賀明の墓】
 明治二十年代、三多摩壮士により自由民権運動の政治活動が展開された頃、政党の対立から、鶴川村の壮士十余名により大蔵(鶴川村)の医師、大須賀明は襲撃され斃
(たお)された。
 大須賀医院は明治の始め、原町田四丁目で開業していたこともあり、尊敬する有志一同により墓が建てられた。世にこの事件を大須賀医師事件といわれ、明治中期の地方政争が偲ばれる。
【長岡織部の墓】
 長岡織部(明治十七年四月四日没 行年八十四才)は、多摩村住人、神道無念流の剣士として記録あり、弟子に新撰組隊士「野口健之助」をはじめ、幕末から明治初期にかけ原町田の剣士として多くの人に剣術を指南、その弟子一〇〇人以上と伝えられている。
 この墓は、多くの門人達により明治二十四年十二月に建立され、今日に至っている。

【二・六の市碑・福禄寿】 (左側) 15:45
 街道を数分進むと左側の「町田商工会議所会館」手前の駐車場前に「二・六の市」の碑と、福禄寿の石像が建っている。商工会議所の向かいは中央図書館。
【「二・六の市」の碑】
 
原町田商店街の発祥は、もとは一村であった町田郷から原町田村が独立したのち、天正十五年(1587)に、それまでの市をわけて「二の市」が原町田、「七の市」が本町田に開設されたのが始まりといわれています。
 本町田の「七の市」は次第に衰えていきましたが、原町田の”市”は炭・薪・蚕糸
(さんし)・畑作物のほか、衣料や農具など多くの物産を取り扱い、文政・天保年間頃(1818~1843)には「二・六の市」となって、月に六回も開かれるようになりました。この「二・六の市」こそ、恩に地の原町田商店街発展の礎を築いたといえるのです。
 幕末に横浜が開港すると、原町田は繭や生糸を運ぶ”絹の道”の中継地として、各地から生糸商人が集まり、”市”の規模も大きくなっています。
 ”市”が開かれた場所は、川田横丁や塩屋横丁あたりから勝楽寺門前までで、道の両側の家の軒先に”マゲ”と呼ばれる長い屋根が張られ、それを区切って市店が並びました。
 明治四一年(1908)に横浜線が開通し、交通の便がよくなると”市”の日以外にも人々が集まるようになり、次第に商業の待ちとしての形が整うようになりました。
 大正十四年(1925)には、古着や古道具類を扱う市店が今の仲見世商店街付近に”ボロ市”として独立し、有名になりましたが、昭和に入ると不況や戦争の影響を受けて、物資不足から出店数も減り、昭和一九年(1944)六月、三六〇年ほど続いた”市”も、ついに幕を閉じています。
 しかし原町田は戦後再び商業地としてよみがえり、飛躍的な成長を遂げて今日に至っているのです。
     一九八五年十月 町田市史編さん室編集
【福禄寿】
 財宝守護の神。福(繁栄)・禄(財産)・寿(長寿)の三徳を備え、中国では「南極星」の化身で「南極老人」といわれます。
     平成20年 原町田・七福会

【勝楽寺(しょうらくじ)・寿老人】 (左奥) 14:50~14:55
 次の交差点を左折して、一つ目の交差点右角に勝楽寺がある。
 勝楽寺は八王子・極楽寺の末寺で、安土桃山時代の天正元年(1573)に建てられた寺だが、道路を挟んで左側にも墓地があり、近年、都市計画道路に分断され、移設を余儀なくされたお寺である。
 山門をくぐって境内に入ったすぐ左(山門の裏)に町田市指定有形文化財の阿弥陀三尊像の説明板が立っている。また、山門の右手に寺務所と不動堂が続き、2本の宝筐塔山門を通ると月影の鐘がある。不動堂の前には寿老人の石像が建っていた。奥には巨大な無量寿の塔(納骨塔)が建ち、その右手には詔降殿
(しょうりゅうでん)が建っている。左手のエレベーターを使って本堂地下に下りると誕生殿・蓮華殿・舎利堂へ行ける。
 私は地下まで行かなかったが、本堂である詔降殿に登ってお参りをした。詔降殿は関東大震災で倒壊したが昭和三年に再建されたもので、堂内には格天井絵が飾られている。本尊の阿弥陀三尊像は普段は公開されておらず、この日は見ることは出来なかった。
 退出の際、居合わせた住職からお参りのお礼として飴(ミルキー)を頂いてしまった。
【勝楽寺 阿弥陀三尊像 三軀】 町田市有形文化財(昭和60年4月17日指定)
 勝楽寺の本尊像。来迎印を結ぶ中尊に、越をかがめ蓮台を捧げる観音菩薩と合掌する勢至菩薩が随侍する、いわゆる来迎の三尊像である。各像共寄木造、玉眼を嵌入
(かんにゅう)
 なお、この三尊像は「町田市史」等によれば、大正2年の関東大震災の折に破損し、その際に像内に墨書銘があることが判明し、享禄5年(1532)大石大学助高伸が大願主となり、仏師円慶によって造立されたことが知られる。銘文中の下野法眼は青梅市報恩寺地蔵菩薩像、鎌倉円応寺奪衣婆像等の作者として知られ、関東地方を中心に活躍した仏師弘円で、その弟子円慶については、この像の他に作品は伝えられていないが、天文2年(1533)に弘円の下で青梅市塩船観音寺の仁王像を修理したことで知られている。
     町田市教育委員会


 (左の写真は宝筐塔山門から見た月影の鐘無量寿の塔。)
【寿老人】
 不老長寿の神。中国・宋の元祐年間(1086~1094)の人で、老子(ろうし)の化身と云われます。
 最初はインドの女神「吉祥天(きっしょうてん)」で、中国における想像上の動物「猩々(しょうじょう)」が祀られた時もあると伝えられます。

     平成20年 原町田・七福会

【宗保院(そうほいん)・布袋尊 右奥 15:05
 勝楽寺から町田街道との交差点に戻ってそのまま直進。「市立中央図書館前交差点」とJR横浜線に架かる「原町田橋」を渡った「原町田信号」を橋の右下に戻るように進むとすぐ宗保院の入口がある。
 入口前の左手生垣に『敷石供養塔』、『本尊南無千手観音菩薩』等の石碑が建っている。

 参道に入り仁王像が睨む山門手前右手に新旧の六地蔵群があり、その左側に布袋尊の石像が建っている。
 左の写真で、山門奥に見える本堂は昭和47年に再建されたもの。右側に六地蔵が写っている。六地蔵と山門の間に布袋尊像がある。
【布袋尊】
 家庭円満の神。梁の唐時代(618~917)、無邪気で無欲な心の豊かさを論す禅僧「布袋和尚(ほていおしょう)」を神格化したものと云われますが、釈尊の救いに曳れたものを救うため、この世に現れると信じられる未来仏「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」の化身とも云われます。
     平成20年 原町田・七福会

【町田天満宮・恵比寿神】 (左奥) 15:17~15:25
 宗保院から「原町田橋交差点」に戻り、左折(原町田橋には上らない)して突き当たりの階段を上ると、正面下に町田天満宮の鳥居が見える。
 鳥居をくぐると正面に拝殿、右側に稲荷社、左手に境内社があり、境内社の右前に恵比寿神の石像が建っている。
 広い境内には梅の花が咲き誇っていた。
【町田天満宮】
 
当神社は文教の祖神菅原道真公を主祭神年とし、日枝社、飯綱社を併せて奉斎し、天正年間この地に鎮座、町田三天神の内の一社で、本町田菅原神社、南大谷天神社と共に古くから崇敬されてまいりました。主祭神菅原道真公は、承知十二年京都に生まれ、菅家廊下と云われる儒学の家として幼少より勉学に努め、宇多天皇、醍醐天皇に信任を得て、右大臣に任命されました。しかし、左大臣藤原時平の、讒言により、昌泰四年大宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷され九州太宰府に下命、配所にあっては天を怨まず人を咎めず、ひたすらに皇室の安泰を祈念され、延喜三年二月二十五日、御歳五十九歳で薨去(こうきょ)されました。
 このように不遇な文人政治家であった菅原道真公が生涯を通して示した至誠の道は、文学者としての才能と共に後の人々に認められ、天神信仰が全国に流布し崇敬されております。
 例祭神大山咋命は大津市坂本の日吉神社を総本山として、近くは赤坂日枝神社があり、俗に山王様と呼ばれています。
 併祭神宇加能御霊神は五穀の神として飯縄(いいずな)様と呼ばれ長野県飯縄山に本社があります。
 
【境内社】 (各々の祭神の説明は省略)
   祭神
 大物主神(金比羅宮)
 素盞鳴尊(八雲社)
 恵比寿神(西宮)
 聖徳太子

【恵比寿】
 商業・漁業・海上の守護神で、夷・戎・蛭子・恵比寿とも記され、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の第三子に因り「夷三郎」とも云います。

 上記写真(町田天満宮の鳥居)の所に戻って横浜線に架かる「町田参宮橋」を渡り、JR町田駅より帰宅。

 第2回目終了 15:30。(JR町田駅)

 今回の記録 : 街道のみの距離は、10.5Km(県道158号線十字路~原町田中央通り交差点)。 「八日町交差点」から18.5Km。
           寄り道を含めた実歩行距離は、14.8Km(多摩境駅~JR町田駅)。 累計26.2Km。
           22,600歩(多摩境駅~JR町田駅)。


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