2014年1月12日(日) 晴
「武蔵中原駅」を10:10スタート。二人旅。
この交差点左右には、江川せせらぎ遊歩道が続き、左角には厳川橋跡の石標と遊歩道の地図やテーマゾーンの説明が掲げられていた。 江川せせらぎ遊歩道は、下水道整備により河川としての役割を終えた江川の跡地を利用して、平成15年6月に完成したもので、「桜のプロムナード」「せせらぎの広場」「清流の道」などの8つのゾーンに分かれ、テーマごとに趣向を変えた道となっている。 遊歩道の脇を流れているせせらぎは、処理センターで高度に下水処理した水が利用されているとの事である。 |
【聖徳太子堂】 父君用明天皇の病気平癒を願う御尊姿の聖徳太子孝養像(市重要文化財-鎌倉時代)を太子堂に安置礼拝供養す 聖徳太子は職人の祖として多くの建築技術を伝授す この偉大な功績に讃仰 報恩 感謝のため影向寺太子講を結成す 昭和五十五年秋 太子堂建立を発願 太子講重文保存会、川崎鳶工業連合会の有縁の浄財により 五十九年早春着工 六十年二月十一日落慶法要を奉修 大願を成就す 上の写真:太子堂の後は手水舎と本堂で、影向石へ向う途中に振り向いて写した。 |
|
【影向石】 当時のいわれとなった霊石。奈良朝に本寺創建のとき、ここには美しい塔が建てられ、その心礎として使用されました。心礎には仏舎利が納められ、寺院の信仰の中心となります。「影向」とは神仏の憑りますところのことで、寺域は太古より神聖な霊地、神仏のましますところとして、信仰されていたものでしょう。幾星霜をへ、塔が失われた以降、この影向石のくぼみには常に霊水がたたえられて乾くことなく、近隣から眼を患う人々が訪れて、この功験によっていやされました。江戸のなじめ万治年間に薬師堂が火を蒙ると、本尊薬師如来は自ら堂を出でて、この石の上に難をのがれたといわれ、それ以来、栄興あるいは養光の寺名を影向とあらためたと伝えられます。 昭和五十一年五月吉日 重要文化財保存会 |
|
【影向寺の乳イチョウ】 乳柱を削って汁を飲むと乳が出るようになるという伝説があり、当時の絵馬に乳しぼりの図柄が多い。堂々たる古木である。 樹高 28メートル 胸高周囲 8.0メートル 樹齢 約600年(推定) イチョウは、中国原産の落葉高木で、その仲間は古生代から中生代にかけて栄え、日本にも化石が産出する。1科1属1種の雌雄異株の裸子植物である。 樹高45メートル、胸高周囲14メートル、樹齢約2000年に達するものもあると言われている。 下の写真:左の影は本堂の屋根、右の建物は阿弥陀堂、イチョウの手前右側には歌碑、薬師堂はイチョウの左奥にある。 |
旧道に入ってすぐ、左側一段上に石仏などが五基現れる。 写真右から、『天照皇大神』、『青面金剛』、『秩父・坂東・奉納西国百番供養塔』、石仏二基が建っている。 |
【鎌田堂の由来】 堂の背後に鎌田兵衛正清の館ありし故、土人 鎌田堂と云う。二間に三間なり。 印子の観音を安置しありしが奪われ、霊元天皇、寛文十三年現在の石地蔵建立さる。寛永の頃、佛誉常心止住、以来安政の頃迄念佛道場として繁栄、道場坂の名を残す。尚子育地蔵、諸願成就の地蔵として庶民の信仰厚き聖地なり。因りて堂の再建に際し、此の碑及び堂標を造立して記念とす。 昭和五十六年三月吉日 観音寺檀徒五十四名・信徒七十五名 |
【のちめ不動尊由来】 この不動尊は、今から約百三十年前の文久二年(1864)のちめの住人が八王子からお不動様を背負ってこの地に祀り、七世代にわたり地域の守り神として護持されて来ました。 昔は山の上に鎮座されていましたが、天災の為現在の場所に安置されました。この間数回の改築補修がなされましたが、平成元年暮れに二メ・城山講中全員の発意により再建することになりました。 平成三年三月多額の浄財をいただき造成工事、本堂の建設、仏像仏具の修復等予定通り順調に進み同年十月下旬落慶法要を行いました。 霊験あらたかなお不動様のお顔は怒りの相を現して右手に降摩の剣を左手には、ひもなわを持って火炎を背にして石の上に立っており悪魔煩悩(心や身体をなやます一切のまよい)を降伏させて下さいます。また本堂左側にはお釈迦さまのお弟子さんのお賓頭様が祀られております。この像をなぜて病気の場所をなぜると病気が治ると言い伝えられています。今から約八十数年前(明治末期から大正初期)この地域に疫病が蔓延し多くの人々が亡くなりましたが、この講中からはお不動様の御加護により死者がなかったと言い伝えられています。毎年七月二十七日(前夜祭)には地域の住民が全員集まり一年の無事と幸せを祈願しています。崇敬者の皆様に末永くお不動様の御加護がありますよう御祈念いたします。 平成六年十二月吉日建之 |
新道に合流した交差点を渡ると右側に赤いエプロンを掛けた六体の地蔵と石仏等が並んでいた。 その後ろに建つ石の鳥居と長い石段を登ったところが山田神社(左上の写真で、地蔵の上に見える石柱が山田神社の石段)。 石段の右側に山田神社の石標、左側の斜面にあさひのみちと題する説明板が嵌め込まれていた。 【あさひのみち】 長く幽玄な趣の参道がつづく山田神社が中ほどに位置します。その本殿は、市の有形文化財に指定されています。 また、境内を出発点とする7月の「虫送り」行事は、市の無形民俗文化財に指定されています。 一之鳥居から見上げた時、神社への石段はそれほどではないと思い登ったら、これが間違い。行く手には沢山の鳥居と、何回にも分けた石段を登らなければ神社に辿りつくことは出来なかった。 結局、五つの鳥居をくぐり、合計134段の階段を登る羽目になってしまった。 やっと登った正面に拝殿とその奥に本殿。神社なのに本殿の左側に鐘楼があり、その手前に由緒が、拝殿の右側に回ると本殿の説明板が立っていた。 |
|
【山田神社由緒】 当社は昔、神地すこぶる勝景を以って知られ社前は中川の水田を一望に眺め其の間に早淵の清流あり社後は丘阜互いに接し遠く山内の緑山に連なり、今も神域は昔の面影を残す。 山田は石器各所より出つ。其の開拓たる幾千年の昔なるを知らず。平安時代人皇第七十六代近衛天皇の仁平年間源義朝の家来鎌田兵衛正清の居城せし地にして領地は旧都築郡中十ヶ村に跨り高田、吉田、勝田、荏田、鴨志田、黒須田、恩田、長津田、上菅田、三反田に及び合計が五千五百二十五石なりと云えり。其の当時山田の勢力は郡内に比する所なし。 (中略) 社殿脇に神仏混淆時名残りの鐘楼を、村の非常用警報所として戦時中の供出からも免れ四代目の梵鐘(重量百貫)を吊り今日に残す。 元村社にして大正四年十一月神餞幣帛料指定神社に列す。平成二年三月本殿横浜市歴史的建造物に登録、同年十一月横浜市指定有形文化財に指定さる。 大正九年発行「山田神社要覧」参考 平成五年六月吉日 |
|
【山田神社本殿】 横浜市指定有形文化財・建造物(平成3年11月1日指定) 附(つけたり) 棟札一枚 山田神社は、明治四十三年に近隣の村社である神明神社を諏訪神社・八幡神社・稲荷神社等十四社とともに妙見社に合祀した際、地名にちなんで山田神社と改称されました。社殿によると、諏訪神社は平安時代前期、貞観二年(860)に、妙見社は室町時代中期、文安五年(1445)に鎮座されたと伝えられています。 現在の本殿は、棟札により天保十三年(1842)の造営であることが判ります。正面柱間0.91メートルの小規模な一間社流造で、正面に軒唐破風・千鳥破風を付け、屋根をこけらで葺いています。 この本殿の最も大きな特色は、彫物が多用され、しかも建築とよく調合していることです。彫物はけやきの素木造で、向拝柱には丸彫の竜が巻き付き、壁面には仙人像、欄間には鳳凰、脇障子には鷹に松など主題は多種多様です。 以上のように山田神社本殿は、小規模な一間社流造ですが、素木造の精巧な彫物を多用し、彫物と建築が良く調和した江戸時代末期の、典型的な例として貴重です。 平成四年三月 横浜市教育委員会 (左下の写真は、右側面から見た山田神社の拝殿と本殿) |
私達は国重文の関家を見に行く為に、旧道に行かず二又道を直進する。 新道を270m程進んだ右側に、東日本で最古の民家といわれる関家の立派な表門(長屋門)とその奥の茅葺屋根の主屋と書院、土蔵が見られる。 今迄の街道歩き中、最も立派な表門であると感嘆した。 私達は、見とれて許可も得ずに他人の敷地内に思わず入り、主屋まで撮影して大変申し訳ないことをしてしまった。 関家は新道側に表門が建っているが、江戸時代に名主を勤めたというのに何故旧道に面していないのだろう? (左上の写真は、表門) (左下の写真は、表門から覗いた主屋で、主屋の左にわずかに見える屋根が書院) |
|
【関家住宅】 国指定重要文化財 (横浜市都築区勝田町1220番地) 関家は、『新編武蔵風土記稿』にも載る旧家で、もと後北条氏に使えた地侍と伝え、江戸時代には代々名主を勤めたといいます。小高い丘陵に挟まれた袋状の谷戸の中腹に屋敷を構え、主屋を中心として南に表門(長屋門)、東西に土蔵・書院を配し、右後方の小高みに墓地や鎮守があります。 主屋は桁行18.1m、梁間9.1m、入母屋造、茅葺。住宅としては規模も大きく、平面は整型四間取りで土間が広く、構造は上屋・下屋からなり、梁組は比較的細い曲材で構成されています。17世紀前半を降りることはないであろうと考えられ、東日本で最古の一つに数えられる貴重な民家です。(昭和41年指定) 書院は主屋の南面西端に張り出す形で接続し、桁行9.3m、梁間6.3m、寄棟造、茅葺で、前面、両側面に90cmの縁を廻しています。使用材料、部屋の構えなどから判断して18世紀前半の建築と思われます。(昭和53年指定) 主屋・書院については、平成17年に完了した保存修理で建築当初の規模・形式に復元整備しました。 表門は20.6m、梁間5.5m、寄棟造、茅葺で19世紀中頃に建てられたものです。当初は、平屋建であったものを明治24年に養蚕を行うために二階建てに改造したものです。(昭和53年指定) なお、現在関家住宅は生活されている建物ですので、常時公開はしておりません。 公開の日時については、「広報よこはま」などでご案内いたします。 平成8年3戸 横浜市教育委員会文化財課 |
14:45 (右側) 最初は、「星谷交差点」の次の信号傍の右側「原庭バス停」前に祠に入った庚申塔が建っている。 左側を歩いていたので、傍に寄らず望遠で写しただけなので年代等は確認していない。 |
14:47(左側) すぐ先左側に祠に入った馬頭観世音が建っている。 注意しないと見逃すが、前に建っている新しい馬頭観世音の後ろに重なるように古い馬頭観世音がある。 古い方は、表面がぼろぼろで文字等は読み取れず、像が彫られていた様な凹凸が見られるだけであった。 |
14:50(右側) 「開戸(かいど)交差点」から下り坂になり、交差点を渡ったすぐ「開戸バス停」の傍に小さな神社と庚申塔か何かは判らないが石碑が並んで建っていた。 こちらも右側にあり、遠くから見ただけなので確認していない。 |
|
14:55(左側) 「開戸」の次の「滝ヶ谷戸バス停」前に、赤いタスキを掛けた元禄十二年の地蔵と文化二年の石碑が祠に入って建っている(左の写真)。 14:58(右側) 石段の上に4体の石仏が並んでいたが、写真がブレてしまったので載せられなくなった。 |
地蔵尊前と名付けられているので交差点の廻りで地蔵尊を探したが見つからず首を傾げていたら、右折した先右側の一段上った所に地蔵堂があった。 地蔵尊は二体あり、右が舟形の地蔵尊、左は六手の青面金剛塔で擦れている三猿がいた。 地蔵堂の左側には、地神塔と刻まれた石碑が建っている。 この地神塔の後に隠れて次の様に刻まれていた石標が立っていた。 中原街道の拡幅により移設する。 平成十九年八月七日 上講中 |