守山宿・草津宿 (野洲駅 → 草津駅) <旧中山道35回目>

2011年5月15日(日) 晴

 ホテルを7:10に出発して野洲小学校前を7:20スタート。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

武佐宿」 ← 「目次」  「HOME」

 

 昨晩泊まったホテル・タカタの朝食はバイキングだが、大皿に取り分けるスタイルでなく、全ての惣菜が一人前ずつ小鉢に盛られてラップが掛けられていた。品数も多く味が混じり合うこともないので大満足だった。

 何時ものことながら、平日(出勤前)の朝食はあまり食欲がわかないのに、旅先では朝早くても沢山食べられるのは不思議だ。長時間歩く時は水分摂取も多く昼食もしっかり食べる為か、体重が減るどころではなく却って太ってしまうことが多い。体脂肪がやや下がることはあっても体重が下がることはまず無い。中距離の歩きなら少しずつ下がっていくのが分かるが、長時間の歩きはすぐにダイエット効果は出ずに、2〜3日後に表れることが多い。ただ、平目筋等が増えてくるのは確実である。

 ホテルから野洲小学校前までの650mは昨日と違って元気な為、短く感じられた。


【朝鮮人街道】 

 野洲小学校に沿って斜めに進んだ先の三叉路左側の外灯に「朝鮮人街道→」と書かれた案内道標、その下に「中山道」の案内が真直ぐ方向に、更にその下に「朝鮮人街道分岐点」の簡単な説明文が掲げられている。

 中山道から分かれて右へ行く道は、朝鮮から来た通信使が通った朝鮮人街道で「八まん道」でもある。この分岐点から近江八幡・安土を経由し彦根道を通って約40Km先の鳥居本で再び中山道に合流する旧中山道33回目【彦根道との分岐点】参照)

 ここは、朝鮮通信使ゆかりの朝鮮人街道分岐点です。

     野洲商工会

 カーブミラーに映っている道が近江八幡方向の朝鮮人街道。


【背くらべ地蔵】 (左側) 7:27

 三叉路から左カーブして「行事神社」を過ぎた先の交差点左角に「行合ふれあい広場」という小公園があり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになった背丈が異なる二体の地蔵が立派な屋根の下に祀られている。

背くらべ地蔵(阿弥陀如来立像)】 野洲町指定文化財

 鎌倉時代のもので、東山道(のちの中山道)を旅行く人の道中を守った地蔵である。また、子を持つ親たちが「我が子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば一人前」と背くらべさせるようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになった。

 毎年七月二十四日は、農機具、陶器、電気器具などで作った作り物を展示する地蔵まつりが開催される。


【蓮照寺】 (右側) 

 背くらべ地蔵の次の変則的な十字路の左側に本堂が茅葺屋根の唯心寺があり、右に曲がった所に蓮照寺がある。その蓮照寺の山門をくぐったすぐ左側に3基の道標と領界石標が立っている。

 右の道標は、前述の朝鮮人街道の標識がある三叉路に立っていたものがこちらに移設されたもので、置かれている正面に「右 中山道」、右面に「右 中山道」、左面に「左 八まんみち」(「ち」は切れている)、裏面に「享保四年」と刻まれている。この道標が本来の三叉路にどの様に置かれていたのかこの場ではすぐには分からなったが、家に帰ってから図に書いてみて私なりに得られた結論は、朝鮮通信使の為に造られた道標で、江戸から中山道を京都に向かう人向けでは無いということである。

 道標は京都方面から江戸に向かう分岐点左側手前に置かれて、江戸に向かって前面が「左 はちまんみち」、右面と裏面が「右 中山道」と読んだ。即ち、京都方面から来た通信使は、左折が「はちまんみち」、右直進が「中山道」と分かる。また、近江八幡方面から京都へ帰る通信士は右折が「中山道」と分かる。

 欠点は、江戸から中山道を上る旅人がこの道標を見たら「中山道」は右折と勘違いしそうだが、別に道標があったのか、置き方に工夫がされていたと思われる。

 上の写真のうち、真中は道標で「自是錦織寺迄四十」(その下は切れている)、左は領界石標で「従是北淀領」と刻まれていた。


【十輪院】 (右側) 7:45

 愛宕神社(左)、宇野勝酒造(左)前を過ぎ、蓮照寺から10分程でJR東海道線(琵琶湖線)のガードをくぐる。途中の旧道には古民家も残り宇野姓が多かった。

 ガードをくぐったすぐ先にある十輪院の境内には灯籠芭蕉句碑が建っている。

また、道路を挟んだ向かいには、沢山の石仏や石碑がかたまって並べられていた。

【百足山 十輪院】

 中山道沿いの野洲川のほとりに、明暦三年(1657)徳允居士が開いたお堂。徳允は立入氏の先祖で、お堂は立入家が代々守り伝えてきた。元禄五年(1692)には看守覚源がおり、黄檗宗直指庵の末寺であった。本尊地蔵菩薩立像は、新川神社と縁のある尊像と伝え、鎌倉時代に遡ると考えられる。鎌倉時代の聖観音立像(野洲市指定文化財)も祀られ、湖東三十三所の第五番札所で、「ひとすじに みなを唱えば誰もみな 渡る瀬やすき やすの川波」の御詠歌が知られる。

 かつて、夜に川を渡る旅人が迷わぬように毎晩灯籠に灯をともしていたといい、八石八斗が徐地となっていた。現在お堂の横にある天明五年(1785)の灯籠は、以前は野洲川の畔にあり、対岸にあった燈籠は新川神社鳥居横に移されている。また、旅人のための茶所(接待所)があった。しかし、大正十四年(1925)、道路移設に伴い境内の真ん中を道路が通るようになったことが、残念に思われる。

 境内には、野洲晒を詠んだ芭蕉句碑「野洲川や身は安からぬ さらしうす」があり、毎年、八月二十四日の地蔵盆には多くの人々にお詣りいただいている。

【芭蕉翁句碑】

   「野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす  芭蕉翁」

 野洲晒は、麻布を白くさらす「布晒」を専門に行っていた。その一工程に、川の中にすえた臼に布を入れ、杵でつく作業がある。冬に冷たい川に入って布をつくのは、晒の仕事のなかで最も重労働であり、その苦労がしのばれる。

 左の写真で、常夜燈の右に芭蕉句碑がある。


【益須(やす)寺跡】 (左側) 8:12

 十輪院を過ぎるとすぐ、野洲川架かる野洲川橋を渡る。この橋から、左後方約3Km先に聳える美しい近江富士(三上山・標高432m)が見える(左の写真)

 長い橋を渡り終えて4〜5分行くと左側に馬路石邊(うまじいそべ)神社の石標が立ち、参道が奥に続いている。本殿までは340m(6分)ある。

 レインボウロードと呼ばれる県道11号線と交差する「吉身三丁目交差点」を渡ると、ここから一方通行の県道151号線になる。

 次の「吉身小南交差点」手前右側の歩道上に益須寺跡中山道の説明板が立っていて、次の守山宿の加宿であった吉身宿に入って行く。

【益須寺跡】

 益須寺は「日本書紀」持統天皇七年(692)十一月の条に「奈良の都から僧二人を遣わして、近江国益須郡の醴泉(れいせん)を飲ませた。」ことや翌八年には「醴(こさけ)の泉が近江の益須郡の都賀山から湧き、病人が益須寺に宿泊して治療した」、「泉の水が病気に効果があったので水田四町、布六十端を寺に献上した。‥‥」という記事に見られる寺院である。益須寺の位置については、江戸時代から検討されてきたが、昭和四十年以降の発掘調査で、七世紀後半の瓦が吉身町の上野(野神)を中心とした周辺で多量に出土することから、現在ではこの交差点の東側約百mあたりで、二百m四方の範囲が有力である。瓦は奈良県法隆寺式の素弁蓮華文や複弁蓮華文などの軒丸瓦や唐草文、重弧文の軒平瓦や布目のある瓦がある。

中山道】

 中山道はもと東山道と呼ばれた古い道を織田信長や豊臣秀吉が修理した後、徳川家康が整備したもので、正徳六年(1716)までは中仙道と表記していたが、以後中山道と記述された。起点は江戸日本橋から守山宿まで中山道は六七宿であった。

 この交差点あたりは吉身村で守山宿の加宿の東端にあたり、松並木があったが昭和三十年代に伐採された。平成六年、道路改良工事に伴って中山道の両側を発掘調査したが、中山道の幅は現在の道幅とほぼ同じと推定され、その両側には水田が広がっていたことがわかっている。

     平成七年四月 守山市


【吉身・高札場跡】 (左側) 8:14

 「吉身小南交差点」を越えたすぐ先の変則五叉路で旧中山道は水路を渡りやや右カーブする。この水路の手前右側に吉身の説明板と左後に高札場跡の説明板が立っている。

 写真は西側から写したもので、真直ぐの道が野洲方面。

 左の赤い立札が【吉身(吉水郷)】、分かれ道の民家の壁に見える白い立札が【中山道高札場跡】の説明板。

【吉身(吉水郷)】

 この辺り一帯を「吉身」という。古くは「吉水郷」と称し、ゆたかな森林ときれいな「水」に恵まれた天下の景勝地であった。元暦元年(1184)九月に発表された『近江国注進風土記』には、当時の近江国景勝地八十個所の一つとしてこの地が紹介されている。南側は『都賀山』の森と醴泉(こさけのいずみ)が湧く数々の池があり、東に有名な『益須寺』があった。そしてこの街道は「中山道」である。古えの「東山道」にあたり、都から東国への幹線道として時代を映し出してきた。

 鎌倉時代に、大津・勢多・野路に次いで守山が重要な駅路(宿駅)となり、江戸時代に江戸の日本橋から数えて六十七番目の宿場に指定されたとき、「吉身」はその西の「今宿」とともに守山本宿の「加宿」として宿場の役割を分担した。ここは吉身加宿の『高札』が立っていた所である。本宿と加宿の境には川が流されてその標(しるし)とした。流れるこの川を「伊勢戸川(伊勢殿川)」という。野洲川の伏流と湧水を戴く「宮城川」の支流として水量多く冷たく清らかで、川の水は旅人の飲料水としても重宝がられ、宿場の防火用水としての役目も果たしてきた。里中にしては珍しく流れが早く周囲の環境に恵まれて多種類のさかなたちを育み、同時に「ゲンジボタル」の発生の川としても親しまれてきた。

 昭和三十年代後半以降約四十年の水質悪化の時代を経て、近年吉身の川が再び往時の清らかさを取り戻しはじめた。その証としてゲンジボタルがその佳麗な姿を見せてきたことを啓示とし、地元自治会が「川をいつもきれいに」する動きを始めた。

 時あたかも守山市が市制三十周年を迎え、その記念事業としてあらためて川の環境を整え、いつもきれいな水が流れる川を維持しつつ、『ホタルが住みよい吉身』のまちづ<りを目ざしている。

     平成十三年(2001)早春 吉身中町自治会 「水とホタル推進委員会」

【中山道高札場跡、稲妻型道路】

 帆柱観音で名高い慈眼寺から北東側へ約100mの地点は、中山道から石部道(伊勢道)が分岐する。遠見遮断のため道が屈曲する広い場所で、かつて徳川幕府が政策などを徹底させるための法度や掟書などを木札に記して掲げた高札場が設けられていた。中山道を行き交う人々にとっては重要な場所であった。

 また、吉身は江戸時代、守山宿の加宿であり、美戸津川(守山川)から高札場までの街道は、本町と同じように「稲妻型道路」となっていた。街道に面する民家は直線的に並列せず、一戸毎に段違いの屋敷割になっている。宿場の治安維持を図るための工夫と考えられているが、全国的にもこのような道路が残るところは大変珍しい。現在は道路整備によって見にくくなっているが、一部は観察することができる。

     平成十三年 守山市教育委員会


【帆柱観世音碑】 (左側) 8:17

 高札場跡のすぐ先右側に古民家が建ち、そのすぐ先左奥に慈眼寺がある。その慈眼寺入口に帆柱観世音碑と説明板が立っている。

【帆柱観世音】

 このお寺は、天台宗山門派比叡山正覚寺末寺の無檀家寺です。古来地元吉身や近在の人びとから「帆柱観音さん」と親しまれ、広く信仰されてきました。

 ご本尊は十一面観世音菩薩立像(秘仏)です。

 縁起によれば、傳教大師最澄が桓武天皇の勅命で唐の国に留学、修行しての帰国途上、突然の海難に遭遇して危急の祈り、海上に観世音菩薩が現れて風雨が鎮まり無事に帰国された。帰国後大師は海難で折れた船の帆柱で、十一面観世音菩薩と脇侍の持国天・多聞天像を彫り、弘仁元年(810)中山道に沿う吉身の地に水難をはじめ全ての交通安全の守り仏として安置されたのが起源とされています。

 元亀二年(1571)織田信長の兵火の際、村人たちがご本尊を地中に埋めてお守りし、その後現在の地にお堂を建てて、以来ずっと護持してきました。

 また境内薬師堂に安置されていた源信僧都作と伝える薬師如来坐像と脇侍の日光・月光両菩薩立像は本堂改修に伴って修復され、文禄三年(1594)の銘を残す鬼瓦とともに守山市の指定文化財になっています。特に修復後新本堂に安置された薬師如来坐像は、昔この寺が馬路石邊神社の神宮寺で、海や水の守り神住吉神との関わりが深いとされる本地仏(神本来の姿で祀られた仏)の可能性の高い仏像として平成二十一年(2009)志賀県の「近江水の宝」にも認定された傑作です。

 この度、江戸期以来風雨に晒され崩壊寸前であった本堂を、地元吉身の住民が中心となって浄財を募り、新しく再建して落慶を迎えました。

     平成二十一年(2009)十一月一日 管理者 慈眼寺 慈眼寺本堂改築委員会


【守山宿】 日本橋から127里28町(501.8Km)、京へ8里6町(32.1Km)
 天保14年(1843)で人口1,700名、総家数415軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋30軒。

 この絵(図)は、歌川広重(1797〜1858年)の作で、守山宿と加宿今宿の間を流れる境川、通称吉川から描いたものと推定されています。

 山桜が咲き誇る春の守山が描かれ、馬に乗る武士や駕篭かき、天秤棒を担ぐ人など街道を行く人々の特徴がよく伝わってきます。

 江戸時代の守山は、江戸と京・三条を結ぶ中山道の最終六十七番目の宿場でした。

 近江の中山道は、東海道草津宿から分かれて美濃の国境まで守山・武佐・愛知川・高宮・鳥居本・番場・醒井・柏原の八宿がありましたが、その中で守山は「京たち、守山泊り」と言われ、京都から江戸へと中山道を行く人々が最初の宿泊地としたようです。

 木曽海道とは、中山道の別名で、同じく江戸と京都を結ぶ東海道が海側を行くのに対し、中山道が木曽の山々を抜けていくことからこう呼ばれていたのでしょう。

     本陣推定地の斜め向かいにある「中山道守山宿にぎわい広場」の展示資料より

木曽海道六拾九次之内 守山 (広重)

 守山宿には、町並と川が並行している所はない。広重は意図的に町並を吉川に沿わせて描いたと思われる。背後の山は近江富士(三上山)である。

守山宿の西の外れに架かる土橋の下を流れる

境川(吉川)の左側を今宿側から写したもの。
 


【いしべ道 道標】 (左側)  8:23

 慈眼寺から4分進んだ「吉身西交差点」で三戸津川を渡ると守山宿に入る。

 すぐ先左側「西藤小児科」前の角に道標が立っており、「すぐいしべ道」、「高野郷新善光寺道 是ヨリ二十五丁」(※)と刻まれている。「すぐ」とは「真直ぐ」のことで、ここを左に行くと東海道の石部宿に至る。新善光寺は石部駅と手原駅の中間にある寺で、「東海道道草ハイク40回目」で紹介している。

  (※)「是ヨリ」・「二」・「五」は読めたが他は掠れているため確かではない。この道標から新善光寺まで直線距離でも4Kmあり、二十五丁(2.7Km)は短すぎるので、?である。

【道標】

 この道標は守山宿の東端から枝分かれして、栗太郡葉山村や東海道に向かう人々に対して案内したものである。

 文字は一面に「すぐいしべみち」、片面に「高野郷新善光寺道」と刻まれている。

 この場所に建てられた年代は残念ながら明らかではない。

 新善光寺は栗東市高野にあり、彼岸には門前に市がたつ賑わいをみせる寺院であり、守山方面からも大勢の人びとが参拝したと思われる。

 栗太郡誌には東海道の林(栗東市)から守山宿まで二十町五十九間四尺の距離があると記され、高野、辻、旧物部村の浮気をとおる道筋の記録がある。

 この道は守山道と呼ばれ、逆に中山道から東海道へ入る道としてかなりの人々が利用したと思われる。

 もともとこの場所に建てられていたが、中程から折れたため、しばらく市役所に保管されていたが、平成四年三月、中山道守山宿歴史文化保存会により復元されたものである。

     平成二十二年四月 中山道守山宿歴史文化保存会 守山市教育委員会


【宇野本家酒造】 (左側) 

 道標のすぐ先左側「岸本眼科」の隣、杉玉が下がっている立派な建物は、女性問題で任期が69日だった第75代総理大臣宇野宗佑の実家である宇野本家酒造


【天満宮】 【稲妻型屋敷割り】 (右側) 

 宇野本家のすぐ先右側に天満宮があり、鳥居の左前に稲妻型屋敷割りの説明板が立っている。これは、平沢の 町並でも見た、隣同士を段違いで建てる建築様式と同じである旧中山道18回目参照)

【稲妻型屋敷割りの道】

 中山道守山宿は街道筋の距離が、文化十四年の記録では1053間、内民家のある町並が569間という長い街村であった。宿場の西端には市神社があり、その向かいには高札場があった。この高札場から東に約40mには宿場の防火、生活用水となった井戸跡がある。街道筋の特色は、このあたりの道が最も幅広く、高所にあることと道路に沿った民家の敷地が、一戸毎に段違いとなっていることである。段違いの長さは一定ではないが、およそ二〜三尺で、間ロの幅には規定されていないことがわかる。この屋敷の並び方がいつごろから行われたかを知る史料はないが、守山宿が守山市(いち)と関連して商業的機能と宿場を兼ねたことで、問屋、庄屋、本陣、市屋敷などを管理するため、あるいは怪しい人物が隠れても反対側から容易に発見できるなど、治安維持のための町づくりであった。

     守山市教育委員会


【本陣推定地】 【井戸跡】 (左側) 8:30

 天満宮のすぐ先左角に、本陣推定地碑井戸の跡がある。

【本陣推定地】

 この場所は、本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されている場所です。江戸時代には、問屋、脇本陣、本陣などの役割を果たしました。

 文久元年(1861)十月二十二日、十四代将軍家茂に降嫁される皇女和宮親子内親王が御所から江戸城へ向かう旅程で、この本陣に宿泊されています。

 この場所は、昭和四十年まで特定郵便局兼局長宅でしたが、平成十六年(2004)に取り壊されました。

【謡曲「望月」】

 「望月」は、室町時代末期(1500年代後半)に、古来宿駅として、貨客の往来が盛んであった木曽街道(中山道)の守山を舞台に仇討ちを題材にした創作物語です。

 「望月」は、信濃の佳人・安田荘司友春の妻子が、元家臣である甲屋の主人・小沢刑部友房とともに、仇敵の望月秋長を討つというあらすじで、登場する人物はすべて架空とされています。

 また、その舞台になった宿「甲屋」も、「近江奥地史略」享保十九年(1734)や皇女和宮降嫁の文久元年(1861)の事前「宿屋」調べにも記載がないことから、架空の宿と考えられます。

     平成二十二年四月 中山道守山宿歴史文化保存会 守山市教育委員会

【井戸跡】

 この井戸は、天保四年(1833)の宿場絵図に記載され、それ以前から存在したもので、他にもあったとされるが、現存しているのはこれ一基だけです。

 守山宿は、野洲川の旧河道がつくった自然堤防という微高地のため、用水路がなく、宿場の防火や生活用水に使用されたと思われます。

 平成二年の市教育委員会との合同調査では、井戸は漆喰の枠が、六段積み重ねられ、さらに数段が土砂の流入で埋まっていることがわかりました。

 上部の石組は、一辺90cmで四角形に組んでいて、盤石は、後世にのせたようです。

 この石組は、もともと西に20m程行った所のコの字型になっている所にありましたが、平成十八年から平成二十一年の側溝工事に伴い、中山道守山宿歴史文化保存会・中山道ろくはち会・中央商店街がこの地に移転保存したものです。

 守山宿の往時の生活を知る貴重な遺産です。

     平成二十二年四月 中山道守山宿歴史文化保存会


【中山道 街道文化交流館】 (左側)

 本陣推定地の一軒置いた隣が中山道街道文化交流館だが、残念ながらこの時間はまだ開館していなかった。

 「街道てくてく旅」で勅使河原郁恵さんが訪れた和蝋燭屋がここである。軒下には、やまなかと書かれたローソクの透かし絵が掲げられていた。

 江戸時代から続く町家で、現在は守山市が管理し、1Fは喫茶・物産販売、2Fは展示ギャラリーとなっている。

  開館時間 10:00〜17:00

  休 館 日 月曜日・年末年始

 どこの宿場でもそうだが、貴重な建物の前に車が駐車していることが多い。

 どうか、観光客に綺麗な写真を撮らせて下さい。(保存会の皆様へ)


【中山道守山宿にぎわい広場】 (右側)

 文化交流館の向かいに中山道守山宿にぎわい広場があり、宿場の絵地図、往時の町絵図と説明、広重の浮世絵と解説(上述)、天満宮三十六歌仙絵と解説等が掲示されていた。


【石造道標】 【高札場跡】 (右側) 8:40

 文化交流館の先で旧中山道は突き当たり左折する。その右角に石造道標が立っており、また、ここは高札場跡だった。

 左の写真は、突き当りから写したもので、真直ぐの道は江戸方向である。

 シャッターの前に立つのが道標で、カーブミラーの下に立つのが説明板。

【石造道標】 守山市指定文化財(民俗資料)

 本道標が建てられたこの地点は、かつて掟書などが掲げられた高札場の一角であった。道標は、高さ約1.55m、一辺30cm角の四角柱の花崗岩製の石造品で、中山道側の側面には、「右 中山道 并(ならびに) 美濃路」、その左側面には、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」の文字が刻まれている。

 「右 中山道 并 美濃路」とは、右が美濃(岐阜)へと続く中山道で、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」は、左の道を行くと人々の信仰を集めた真宗木部派本山である錦織寺(中主町)に至る約4kmの道程(錦織寺道)であり、それに続く「こ乃者満ミち」は、琵琶湖の津として賑わっていた木浜港へも通じる道筋であることを示している。

 背面に延享元年(1744年)霜月の銘があり、大津市の西念寺講中によって建立されたことかうかがわれる。石造遵標としては古く、また数少ないため、昭和五十二年(1977年)四月三十日に民俗資料として守山市の文化財に指定された。

     平成十四年十月 守山市教育委員会


【東門院】 (右側) 8:42〜8:47

 道標で左折し、右側「鶴屋吉正・まんじゅうや」という看板を掲げる店(現在も営業しているかは不明)の隣に重文を多数保有する東門院がある。

 室町時代に建立されたと云う、この寺で一番古い仁王門(左の写真)をくぐって境内に入ると、すぐ親子の大きな狛蛙(右の写真)が迎えてくれる。

 境内正面に本堂、左手にイチョウの巨木が聳え、その後ろには石造五重塔が建っている。

【縁起】

 当山は、比叡山東門院守山寺と称して、天台宗に属する寺院です。

 延暦7年(788年)に伝教大師最澄が、比叡山寺(後の延暦寺)を建立した時、四境にそれぞれ門を構えることにしましたが、その一つとして比叡山の東門として設けられたのが始まりです。

 その後延暦13年9月3日に、比叡山の根本中堂開闢(かいびゃく)供養が行われ、湖上に舟橋を渡し、東門まで「善の綱(白布の綱)」を引渡して桓武天皇が、湖上をお渡りになってこられたのです。

 このとき、桓武天皇により比叡山東門院守山寺(比叡山を守る寺)と名号され、地名も守山と賜ったと伝えられています。

 後略

     東門院HPより

【東門院のイチョウ(イチョウ科)】 守山市天然記念物

 守山で最大のイチョウ。

 雌株で秋に銀杏(ギンナン)を作る。この中に「お葉つき銀杏」が混じっていることで特別なイチョウである。

 イチョウの隣に小さな石の五重塔が立っている。

【東門院五重塔】 重要文化財(昭和36年3月23日指定) 

 石造五重塔  鎌倉時代

 この塔は各重とも塔身と笠からなる層塔形式の五重塔で、刻銘はないが、様式上鎌倉時代の造立と考えられる。

 基礎は四面とも素面で、幅が広く、成が低い。初重の塔身は前後二石からなり、舟形輪郭内に、正面は阿弥陀、背面は釈迦とみられる仏座像を彫刻している。屋根は軒裏が軒先に向かって反り上がり、軒反りは少ないが、屋根勾配は強くしている。相輪は後世のものである。

 鎌倉時代には石造塔の造立が盛んに行われ、県下に遺構が多い中で、各重の笠と塔身を別石で造るなど比較的少ない古式な手法をもつ遺品として貴重である。

 五重塔の左の石造宝塔、右の石造宝篋印塔は、ともに重要美術品に指定されている。

 この宝塔は、基礎や塔身の幅に対して成が低く、細部の様式や手法から鎌倉時代の造立と考えられる。宝篋印塔は、基礎の幅に対して成か低く、基礎の反花蓮や格狭間、開花蓮の様式や手法などから鎌倉時代の建立と考えられる。

     平成九年三月 滋賀県教育委員会


【明治天皇聖蹟】 (右側) 

 東門院の門前左側に明治天皇聖蹟の石碑が立っている。

【明治天皇と御小休所】

 明治天皇は江戸幕府の大政奉還とともに維新の大業を完遂せられ以来鳳輦を四方に移して親しく民情の御視察があり、守山においては明治十一年二回に及んで御小休の光栄によくした。すなわち、明治十一年十月十二日晴、福井県より京都への御路すがら午後三時五十七分現在の東門院境内にあった守山小学校へおつきになり御小休の上草津へむかわせられた。

 同年十月二十一日晴、さらに京都より東京への御還幸の途次午後八時ふたたびここで御小休の上鏡辻町へむかわせられた。

 ここに明治百年を記念して御聖徳をしのびこの碑を建てる。

     昭和四十五年三月十日 明治天皇聖跡保存会


【門前茶屋 かたたや】 (右側) 

 明治天皇聖蹟碑の隣で「守山銀座西交差点」手前ある門前茶屋かたたやは、かつて堅田屋という門前茶屋を現代に甦らせた店である。

 ここの交差点を左折すると650m(11分)でJR東海道線の守山駅

 江戸時代後期の天保年間(1830〜1843)の頃、中山道守山宿の東門院の門前に「堅田屋」という一軒の茶屋がありました。当時の茶屋は、旅人の休憩の場であり、お茶や食事、お酒などを出していたそうです。また、「堅田屋」は、一部旅籠の機能もあり、「京発ち守山泊まり」と言われた守山宿にあって、多くの旅人が旅の疲れを癒していたのがうかがい知れます。

 そして170年余りが経った平成の時代に、その「堅田屋」と同じ場所、同じ建物で「門前茶屋かたたや」が誕生しました。当時の梁や柱、土壁、格子、虫籠窓、階段箪笥などを残しながら、最新の技術で耐震性、機能性を高めました。

 どこか懐かしく、どこか新鮮。そんな空間で人々を癒す場所として、また新たな「かたたや」の物語が始まります。

     平成二一年五月吉日


【土橋】 8:55〜9:00

 「守山銀座西交差点」を越えた先の境川に架かる土橋は、守山宿の西の入口である。この川を越えると守山宿のもう一つの加宿である今宿に入る。今宿の橋詰に下記案内板が立っている。

 また、ここは広重が守山宿の浮世絵のモデルにしたと云われる場所でもある(上記【守山宿】参照)

 更に、この川は、ゲンジボタルが住む川として、「みんなで川の環境を守りましょう」の看板が立っていた。

【公儀御普請橋 土橋】

 旧栗太郡今宿村と野洲郡守山宿の郡境を流れる境川(吉川)に架かる、中山道の重要な橋として、瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられた、公儀普請橋でした。

 橋の幅は二間(3.6m)橋の長さは二十間(36m)ありました。

 現在は長さ48mのコンクリート橋になっています。

【伊勢屋佐七の常夜灯】 守山市指定文化財

 中山道を往来する人々の安全を願い、今宿村の商人 伊勢屋佐七が願主となり、各地より浄財を集めて、土橋の橋詰に建立しましたが、倒壊したため、明治初めに、樹下神社参道に移築されました。

【安産石】

 天神さん(菅原道真公)が大宰府へ左遷された後、身重の息女(斉世親王の妃)が信濃へ落ち延びる道中、当地で病に伏し、村人より手厚い看護を受けたことから、その恩に報いるためと、平石に安産を祈願して亡くなりました。

 葬られた墓所は、女天神塚と呼ばれ、近年まで村人に大切にされておりました。

 以来この平石の下の砂を肌につけると、安産疑いなしと、今宿に言い伝えられております。

 街道沿いにありましたが、樹下神社本殿前の左脇に移されています。

     今宿商工会 街路灯協力会

 文中に出てくる樹下神社は、橋を渡ったすぐ先の右、55m奥にあるが、私達は寄らなかった。


【今宿一里塚】 (右側) 9:10

 今宿に入り左側「本像寺」周辺には古民家が並び、往時の宿場の雰囲気が出ていた(左の写真)

 その古民家の殆どが山本姓だった。

 今宿の電柱には、「今宿商店街」の看板がかなりの距離にわたって並んでいたが、商店などは殆んど無かった。

 

 土橋から10分程で右側に大きな榎が植わっている今宿一里塚が現れる。

【今宿一里塚】 滋賀県指定史跡 江戸時代

 今宿一里塚は五街道の一つである中山道の一里塚で、江戸日本橋から本県草津宿までに129ケ所あった一里塚の128番目にあたります。

 一里塚は江戸幕府により慶長九(1604)年に整備されたもので、一里毎に道の両側に五間四方の塚を築き、榎や松を植えて通行の目安としたものです。県内には中山道の他、東海道、朝鮮人街道、北国街道、北国脇往還などに設置されていましたが、明治以降、交通形態の変化による道路拡幅や農地、宅地への転用などによりそのほとんどは消滅し、現存するものは今宿一里塚のみとなりました。

 今宿一里塚は規模は小さくなっていますが南塚のみ残り、榎が植わっています。先代の榎は昭和中頃に枯れましたが、脇芽が成長して現在にいたっています。

 今宿一里塚は、往事を偲ぶことのできる中山道守山宿の中にあり、近世交通史を知る上で重要な遺跡といえます。

     平成十年三月 滋賀県教育委員会


【住蓮坊母公墓】 (左側) 9:16

 一里塚を過ぎ「閻魔堂町交差点」を渡ったすぐ先左側民家の石垣の前に住蓮坊母公墓の石碑が立っている。石碑の側面には「市村長左衛門 建之」と刻まれていた。

 今より八百年前、鎌倉時代当時の仏教は「貴族仏教」ともいわれており、権力者や貴族たちのものでありました。ところが法然上人は未法の時代にあって、すべての人は平等であり、「南無阿弥陀仏」に救われると説いたので、新興階級の武士や農民、あるいは救いの対象からもれていた女性たちに広く受け入れられ、「念仏仏教」が大変な勢いで広まっていきました。

 法然上人(後に土佐の国に流罪)の説く専修念仏がひろまるにつれ、古くからある仏教教団は、新興の法然上人の教えを、国家の秩序を破り道徳を乱す者と決めつけ、元久元年(1204)「専修念仏停止」を時の権力者である後鳥羽上皇に訴え出た。

 このような事態の中でも、住連坊・安楽坊は別時念仏会を開きました。両上人を修する浄土礼讃声明に魅了され、出家して仏門に入る者さえあった。そんな中に後鳥羽上皇の女官、松虫姫・鈴虫姫がおられました。両姫は今出川左大臣の娘で、容姿端麗、教養も豊かであったことから、ことさら上皇の寵愛をうけた。おりもおり、紀州熊野へ参詣の間に、両姫の決死の出家の願いにより住蓮坊は松虫姫(十九歳)を、安楽坊は鈴虫姫(十七歳)をそれぞれ剃髪、出家得度させた。

 このことを知った上皇は激怒し、この出来事を一つの口実として、専修念仏教団の弾圧を企てた。建永二年(1207)住蓮坊は近江の国馬淵(現在の滋賀県近江八幡市)、安楽坊は京都六条河原(現在の東本願寺近く)において打ち首の刑に処された。

 住蓮坊に朝子という母公がおられ、我が子が捕らえられた悲しみで盲目となられ、いよいよ死刑に処される前に、一目逢いたいものと馬淵をめざして、中山道を急がれましたが、途中で住蓮坊上人がすでに首を打たれたと聞き、最早この世に生きながらえる望みなしと思い、当地閻魔堂町の池(尼ヶ池)に身を投げてお亡くなりになりました。

 母公の法名を「住然」と言い、当家の屋敷内に母公の墓があり、又住蓮坊の首を打った刀を所蔵しておりましたが、延寶五年(1677)大宝神社(栗東市綣)に奉納してあります。縁あった、代々墳墓を守りしておりますが、住蓮坊及び母公の事跡大略を後世に伝えたく、ここに書き伝えておきます。


【十王寺・焔魔堂】 (右側) 9:18

 住蓮坊母公墓碑のすぐ先右側に五道山十王寺がある。門前に「焔魔法王小野(おののたかむら)御作」と刻まれた石碑が立っていて、中に閻魔堂がある。

 門は閉まっていたので外からお堂を見ただけで、残念ながら閻魔様は見ることが出来なかった。

 向かいの諏訪神社入口に「従是南淀領」と刻まれた領界石が立っているとのことだが、見逃し てしまった。


【古高俊太郎先生誕生地】 (右側) 9:22

 十王寺の先で用水路を渡るが、そこに古高俊太郎先生誕生地の石碑が立っている。古高俊太郎は、京都で新撰組に切られた尊皇攘夷の志士である。


【大宝公園】 (左側) 9:30〜9:35

 古高俊太郎誕生地碑から8分、栗東市綣(へそ)に入った先の川を渡った左側に大宝公園があり、その南端にある大宝神社の鳥居の数十メートル手前に芭蕉句碑が建っている。

 また、ここには立場茶屋があったと云う。

【芭蕉句碑の由来】

 この句碑は、栗太郡内唯一の芭蕉の句碑です。元禄三年(1690年)頃、関東、北陸方面に旅した帰りに綣村の立場に足をとどめ、旅の余韻と惜春の情を托して詠まれた句と云われています。

「へそむらのまだ麦青し春のくれ」 はせを

 句意は「ずっとあちこちと旅して歩いてきたが、ここ綣村あたりの麦はまだ青い。種蒔きがおくれたのか、寒かったのだろうか。もうまもなく春も暮れようとしているのに・・・・というものです。芭蕉の句碑は、滋賀県内に九十三本を数えますが、この句は芭蕉の句の存疑の部に入れられていて今後の研究課題の一つとされています。

     平成十二年三月(西暦2000年) 創意と工夫の郷づくり事業により移転整備 綣行政区

 鳥居の手前右側街道沿いには、大宝村大字綣元標が建っている。

【大宝村大字綣元標について】

 元標(げんぴょう)は道路元標ともいい、道路路線の起点や終点などを表示する標識であります。各市町村に一つづつ置かれるもので、石材その他の耐久性材料を用いて、里程や市町村名が記載されているものです。

 この元標は「大宝村大字綣元標」と刻まれることから、道路元標と云えますが、同時に大津市元標や栗太郡役所などからの里程をも示しており、里程標を兼ねたものだといえます。官公庁として大正15年(1926)に廃止された栗太郡役所、及ぴ昭和29年(1954)に移転した草津警察署からの里程を示すのはもちろん、京都伏見の第十六師団指令部や、大津駐屯の歩兵第九連隊(大正14=1925年に伏見へ移転)といった陸軍官庁からの里程も明らかにしており、建立時の時代背景をよく示しています。

<読み方と意昧>

 (正面)

   大津市元標を距てること、四里十八町三十間五尺。(約17,730m)

   栗太郡役所を距てること、二十四町三十一間四尺。(約2,700m)

   草津警察署を距てること、二十九町二十五間。(約3,200m)

   大宝村大字綣元標。

 (向って右側面)

   第十六師団司令部最迫より、九里八丁(町)十二間五尺(36,200m)

   大津第九連隊最迫より、四里三十町十三間五尺(約19,000m)

 (向って左側面)

   東は大宝村大字野尻より、十一町六間三尺、(約1,200m)

   南は大宝村大字苅原より、八町四十間一尺、(約950m)

   西は大宝村大字北中小路より、五町二十一間三尺、(約590m)

   北は物部村大字二町より、四町五十八間三尺、(約540m)

 (裏面)

   大正六年二月十五日建設、奇附・西田哲太郎

元標の復元

 旧元標は設置されて80年余りの年月を経ているため、風化がひどく文字の判読が困難な状況であることと、交通事故により中程から半分に折れるなど破損が著しいので、平成12年(2000年)に創意と工夫の郷づくり事業により復元したものです。

 尚、旧元標は栗東歴史民俗博物館に保存されています。

     綣行政区


【草津宿】 日本橋から129里10町(507.7Km)、京へ6里24町(26.2Km)
 天保14年(1843)で人口2,351名、総家数586軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋72軒。

木曽海道六拾九次之内 草津追分 (広重)

 手前を流れる川は草津川で、平時は水量が少なく、旅人は仮橋で川を渡っていた。

また、この川は草津宿より高い所を流れていたので天井川と呼ばれていた。

 後ろに立つ常夜燈は、標柱が道標を兼ねていたもので、本来は石造りであったが、この絵では木製になっている。

 

草津川トンネルの上に上がって写した旧草津川(天井川)

左の浮世絵で草津宿は川の南側(絵では奥)にある。

上の現代の写真では、右が南側(京都方向)になる。

追分道標は、下段の【中山道終点と追分道標】参照。
 


【伊砂砂(いささ)神社】 (右側) 10:04

 大宝神社鳥居から「栗東駅西口交差点」、「花園交差点」を越えて、20分で東海道本線と草津線が合流する所の葉山川橋に出るが、この橋の手前100mから中山道最後の草津市に入っている。

 この辺りから、本来の中山道は直線的に進んでいたが、線路で分断されている為、葉山川橋を渡った少し先で線路下のトンネンルをくぐって反対側に出る。このトンネル入口の道路上には「左へ(中山道へ)草津宿」の地図付き案内板が立っている(左の写真)

 反対側に出たらすぐ右折して線路に沿って9分、県道2号線の下をくぐったすぐ先に伊砂砂神社がある。

 神社の街道側に鎌倉時代の自然石の平積みという石垣が三段ほど残っている。

【伊砂砂神社】

鎮守の森

 昭和五十七年の滋賀県企画部の調査では、当神社は、「重要文化財の本殿を中心に、鎮守の森の景観がよく保存されている」と高く評価されている。

伊佐佐川

 昔は神社の横を流れる伊佐佐川で手を洗い、身を清めて参拝するための御手洗川(みたらしがわ)であった。当神社の社名は、本殿の御祭神五柱のかな書き神名にある「い・さ」と、伊佐佐川に因んで伊砂砂神社とされた。

平積石垣 (左の写真)

 神社の横・仲仙道沿いに残る石垣は、自然石の珍しい平積みで錬倉時代の作と伝えられ、神社の古い歴史を物語っている。

伝統芸能「古式花踊り

 應仁三年(1469年)旱魃のため、村人か雨乞いの祈脚を行なったところ、御神助により雨が降リ、幸いに豊作となった。このため神前に御礼の踊りを奉納して祝ったのか、始まりと伝えられている。踊りの歌は、道歌・御禮踊歌・参宮踊歌なと十八の歌からなリ踊りの役は.音頭取・新発意(しんぼち)・太鼓打・中踊・外踊で構成される。花笠をつけ、たすきを掛け、新発意は軍配を持ち、踊り手は団扇を持って踊る。

 雨乞祈願の踊りとして、幾百星霜を経て今日に至っている。本踊り(数十年目)中間踊り(十数年目)稽古踊り(毎年)が、九月十三日の灯明祭に奉納される。

     平成十年厄年 有志奉納

【伊砂砂神社本殿】 国指定重要文化財(大正11年4月13日指定)

 一間社流造、檜皮葺   室町時代

 伊砂砂神社の草創は明らかでないが、名称は明治二年からのもので、古くは天大将軍社と称された。

 建物は棟札により応仁二年(1468)に建立され、元禄四年(1691)に修理を受けていることがわかる。軸部は当初材を良く残こしているが、軒廻りや縁、高欄、脇障子などの造作材は、大正時代の修理によるものである。

 小規模な一間社であるが、母屋は内部を内外陣のニ室に区画し、正面に向拝を付ける。組物は三斗組、妻飾りは豕扠首組(いのこさすぐみ)として、母屋には三方に縁、高欄を巡らし、脇障子か取り付く。

 この本殿は建立年代が明確で、木割が細く、正面の建具を吹寄せ格子戸とするなど軽快な建物で、室町時代後期の本殿建築を知るうえで貴重である。

     平成六年三月 滋賀県教育委員会

 伊砂砂神社の入口街道沿いに中山道の説明板も立っていた。

【草津歴史街道 中山道】

 中山道は木曽路とも呼ばれ、日本の脊梁中部山岳地帯を貫く街道で、五街道の中でも東海道に次ぐ幹線路であった。

 その里程は、江戸日本橋を基点とし、上毛高崎宿を経由、碓氷峠に至り、浅間・蓼科山麓の信濃路を辿り、塩尻峠を越えて御獄・駒ヶ岳間の木曽谷を降り、美濃路を西進、関ケ原から近江柏原宿に至り、湖東の鳥居本・愛知川・武佐の各宿を経由南進し、守山宿を後に東海道草津宿に合流するもので、この間の宿駅は67宿を数えた。

 草津には、笠川を経て渋川に入り、葉山川を渡り、渋川・大路井の街並を通過したのち、砂川(旧草津川)を越えて草津追分に至った。

 なお、中山道分間延絵図によれぱ、渋川には梅木和中散出店小休所・天大大将軍之宮(伊砂砂神社)・光明寺ほか、大路井には一里塚・覚善寺・女体権現(小汐井神社)ほかの社寺仏閣、名所が街道沿いに存した。

     草津市教育委員会


【覚善寺】 (左奥) 10:19

 草津駅入口の「大路交差点」辺りには、往時中山道最後の一里塚があったと云われるが、現在は何も残っていない。

 次の交差点を渡ると大きなアーケードがある「きたなか商店街」になり、その中程で次の十字路を左折するとすぐ左側に覚善寺がある。寺の前の道は県道143号線。

 覚善寺の山門前右側に道標が立っていて、「右東海道」「左中仙道」「明治十九年三月建之」と刻まれている。

 この道標は明治時代に、草津川トンネルの開通に伴ってこちらに移されたものである。


【中山道終点と追分道標】 10:25到着

 往時は徒歩で渡った旧草津川は、現在天井川となって草津川トンネルで抜ける。

 そのトンネル手前左側に伊砂砂神社入口にあったのと同じ文面の中山道の説明板が立っていた。

 草津川トンネルを抜けた所が中山道と東海道の合流点(追分)である。

 東海道を歩いた時(2005年2月18日)以来、6年ぶりに左側の追分道標と対面。ついに中山道も完全制覇した。

【道標】 市指定文化財(昭和48年10月15日指定)

  道標 「右東海道いせみち」、「左中仙道美のじ」 一基

 ここはかっての日本五街道の最幹線で、東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、文化十三年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上はたびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。

     草津市教育委員会 昭和五十一年贈草津ライオンズクラブ

 実際の中山道は京都の三條大橋迄であるが、この先の行程は、東海道道草ハイク41回目以降を参照して下さい。



 35回目の旅終了(10:30) 草津宿追分。

  草津駅より彦根駅へ戻り、彦根港より竹生島観光へ向う。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、8.1Km(野洲小学校前〜草津宿追分)。

          寄り道を含めた実歩行距離は、9.8Km(ホテル〜草津宿追分)。

          3時間10分 15,000歩。

 往時の街道のみの距離は、日本橋から百二十九里十五町(508.2Km)

 寄り道を含めた実歩行距離は、日本橋から百五十九里十七町(626.3Km)

 

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【竹生島】 

 草津駅10:50発の琵琶湖線で彦根駅へ、マクドナルドで昼食後、駅前から無料のシャトルバスで彦根港へ行く。当初、長島港から竹生島へ渡る予定だったが、予約が取れなかった為、予約無しで乗船出来る彦根港から渡った。

彦根港

【行程】

彦根駅西口12:00→(シャトルバス)→15:08彦根港12:30→(オーミマリン)→13:10竹生島(拝観70分)14:20→(オーミマリン)→15::00彦根港15:12→(シャトルバス)→15:25彦根駅15:37→(JR)→15:45米原15:54→(ひかり522号)→17:51新横浜

 彦根港からの乗船料は、往復3,300円。

 他に竹生島の拝観料400円が必要。

竹生島(乗降桟橋)

【竹生島】 (オーミマリンのパンフレットより) 

 沖合6Kmに浮かぶ周囲あまりの小島で、島の名前は「神を斎(いつ)く島」に由来しています。中世以来、西国三十三所観音霊場として多くの参詣客でにぎわってきました。その信仰は今も絶えることなく、年間を通して多くの観光客が訪れます。「深緑竹生島の沈影」として琵琶湖八景の一つにも数えられています。

 竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が夢枕に立った天照皇大神のお告げを受け、僧行基により開基させたのが始まりです。行基は大弁財天像をご本尊として本堂に安置。翌年には千手観音像を安置しました。以来、天皇の行幸が続き、伝教大師や弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状や宝物が寄贈されています。慶長七年(1602年)には太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の観音堂や唐門などを移築させています。

唐門(国宝)

船廊下(重文)

唐門に続く観音堂(重文)と船廊下

【唐門】 (国宝)

 京都東山の豊国廟の正門・極楽門を移築したといわれ、豪華絢爛な桃山様式を色濃く残す貴重な遺構です。

船廊下に続く都久夫須麻神社本殿(国宝)

宝厳寺本堂(弁財天堂)

 三重塔

 宝厳寺本堂に行くには、急斜面に続く165段の石段を登らなければならない。

【都久夫須麻神社本殿】 (国宝)

 本殿は、桁行五間梁間四間の入母屋造の檜皮葺、前後に軒唐破風をつけ、周囲に庇をめぐらせた建築物です。

 慶長七年(1602)の豊臣秀頼よる復興の際に、元の本殿の外廻りに京都から移した建物を入れ込んだ特殊な構造です。

 両開き桟唐戸、壁、内法長押(なげし)上には、菊や牡丹等の極彩色の彫刻が施されています。内部の柱・長押等は梨子地で蒔絵が施されています。折戸格天井は、菊・松・梅・桜・楓等の金地著色画で、襖の草花図とともに桃山時代前後の日本画壇の中心であった狩野光信の筆と伝えられています。

【宝厳寺本堂(弁財天堂)】

 西国三十三観音霊場第三十番札所(札所は観音堂)で、天平十年(738年)に行基が弁財天を安置したのが始まりと伝えられています。日本三大弁財天の一つ。

【日本五弁天(上三つが三大弁財天)

 安芸国(広島県)   厳島神社

 大和国(奈良県)   天川大神

 近江国(滋賀県)   竹生島大神

 相模国(神奈川県)  江ノ島大神

 陸前国(宮城県)   黄金山大神(金華山)



 中山道の総経費(交通・宿泊・飲食・入館料・賽銭・土産等)¥745,200