鳥居本宿(後半)・高宮宿・愛知川宿 (鳥居本駅 → 五個荘駅) <旧中山道 33回目>

 

2010年11月4日(日) 快晴

 彦根のホテルから鳥居本駅に戻り駅入口の十字路(脇本陣前)を7:25スタート。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「番場・鳥居本宿 (前半)・彦根城」 ← 「目次」 → 「武佐宿」

 


【ゆかり歴史看板 鳥居本】 

 鳥居本駅を出たら右側に昨日は気がつかなかった説明板が立っていた。

藤原定家を支えた里

 鳥居本と小野周辺は、平安時代「吉富荘」という荘園で、領主は、藤原定家一族でした。

 定家が、「新古今和歌集」や「百人一首」を編めたのも、「源氏物語」を写本して、現代に伝えられたのも、鳥居本や小野の人々が定家を支えたからです。


【合羽所「松屋」】 (左側)

 脇本陣跡のすぐ先にもう一軒の合羽所「松屋」がある。

 江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、鳥居本での合羽の製造は1970年代に終焉し、今では看板のみが産地の歴史を伝えています。

 昔そのまま屋根の上に看板を掲げる松屋松本宇之輔店は、丸田屋から分家し、戦後は合羽の製造から縄づくりに転業しています。

 2001年には、かつての家屋の構造をいかしながら改修されました。


【常夜灯】 (右側)

 松屋の次の十字路の向こう側に、擬宝珠が乗っている桧皮葺屋根と格子戸の扉が嵌められている豪華な常夜灯が建っている。

 この辺りの町並は、白い土壁、虫籠窓、連子格子などの建物が所々に残っており宿場の雰囲気がある。


【専宗寺】 (右側) 7:35

 常夜灯のある十字路から4分程の所にある。

 文亀二年(1502)および天文五年(1536)の裏書のある開祖仏を有する浄土真宗本願寺派の古寺で、聖徳太子開祖と伝わります。

 かつては、佐和山城下町本町筋にあり、泉山泉寺と号していましたが、寛永十七年(1640)に洞泉山専宗寺と改め、ここ西法寺村に移ってきました。本堂などの建立年代は十八世紀後半のものと推定されています。山門右隣りの二階建ての太鼓門の天井は、佐和山城の遺構と伝わります。

 西法寺村は、佐和山山麓にあった元の集落(古西法寺)から寛永年間に街道沿いに移されました。


【彦根道との分岐点】 7:41

 専宗寺から4分程の左側に鳥居本郵便局があり、そこを右折すると彦根への道があり、その右角に道標が立っている。

 鳥居本宿の最南の百々村は、室町時代には百々氏の居館があり、江戸時代の記録では、百々氏の祖、百々盛道の菩提寺、百々山本照寺が建立されていました。

 中山道と彦根道(朝鮮人街道)との分岐点に建つ「右 彦根道」「左 中山道 京いせ道」と刻まれた道標は文政十年(1827)に建立されたもので、彦根道は二代彦根藩主井伊直孝の時代に中山道と城下町を結ぶ脇街道として整備されました。


【小野こまち会館】 (左側) 7:55

 彦根道との分岐点の先からは田園風景となり、途中左側に古宿の看板が立っており、右側田んぼの向こうに新幹線がひっきりなしに走っている。この先の集落は小野小町が誕生したと地と云われている旧小野宿である。集落に入り安立寺の前に小野こまち会館が建っていたが勿論この時間は閉まっていた。


【小野小町塚】 (左側) 8:05

 短い小野集落が終わり、新幹線と名神高速道路 が更に接近した狭い間を進むと右側に八幡神社の灯籠が二基建っている場所がある。

 更に進むと高速道路の壁際に新しい地蔵堂が建っていて、ここを小野小町塚と云う。

 鎌倉時代、弘安二年(1279)に歌人阿仏尼が、京都から鎌倉へ向かう途中、小野宿に宿泊とある。(『十六夜日記』)

 中世、小野の地は、東山道の駅家(うまや)として機能していた。また、藤原定家の『明月記』などに記されている荘園『小野庄』は、当地城が想定されている。

 地元に伝わる郷土芸能『小野町太鼓踊り』の中には、小野小町が謡われており、この地を誕生地とする伝承が残っている。

 『出羽郡小野美実(好美)は、奥州に下る途中に、小野に一夜の宿を求め、ここで生後間もない女児に出会った。美実は、この女児を養生にもらい受け、出羽国へ連れて行った。この女児が小町という。』

 本町の池上家は、江戸初期まで当地で、代々、神授『小町丸』という赤玉の丸薬を、製造販売していた。同家に伝わる『宝伝記』には、病気になった小野小町が薬神から授かって快気した薬を、池上家が譲り受けたとある。

 小町塚には、『小野地蔵』として親しまれてきた石仏(十五世紀後半頃に造仏)がある。自然石を利用して、阿弥陀如来座像が浮彫りにされている。(全高1.25m)。正面だけでなく、両側面にも彫り込まれており、類例が少なく貴重なものである。

     平成十八年六月 小野町


【原八幡神社】 (右側) 8:18〜8:28

 小町塚のすぐ先で新幹線のガードをくぐり原町に入る。

 ほどなく原八幡神社に着くが、一の鳥居の左足元には「芭蕉 昼寝塚・祇川  白髪塚」の石標が立っていた。

 参道を進むと二基の大きな灯籠が建っており、二の鳥居をくぐった右手には巨石が、左手には昼寝塚白髪塚がある。

 また、左の奥へ進むと日本一太鼓を収めた大きな倉が建っていたが、太鼓を見ることは出来なかった。

【石の由来】

 此の地は原町宮下と申し原八幡神社の境内とその周りの山林を開発した折に「男岩」「女岩」と申し由緒深き目出たき石を発掘せり。其の一部を昭和五十八年に原八幡神社に奉納。

昼寝塚白髪塚は並んで句碑が建っており、共に字が擦れている。芭蕉の句は碑の裏側に彫られていたがこれも判読は難しかった。

【ひるね塚 芭蕉の句碑】 (写真右側)

   「ひるかおに ひるねせうもの とこのやま」
 俳聖松尾芭蕉が中山道を往来する旅人が夏の暑い日に、この涼しい境内地で昼寝などしている、つかのまの休息をしている「床」と「鳥籠山・とこのやま」をかけて詠われたものと思われます。

【白髪塚】 (写真左側)

   「恥ながら 残す白髪や 秋の風」
 聖徳太子と守屋との戦い等、幾多の戦の将士達をあわれみ蕉門四世・祇川居士(陸奥の人)で芭蕉の門人が師の夏の句に対し秋を詠んだ句と思われる。

【日本一太鼓】

 直径2.06m・胴回り6.24m・重量4トン、唐木と呼ばれる樹齢千五百年余、高さ40mのマメ科の大木をアフリカカメルーンより輸入。一本の木を切り抜いて造る和太鼓としては世界最大のものである。

・太鼓の革は富山県の黒和牛を。

・製作者 石川県松任市 佐野太鼓 代表 佐野善幸

・製作年数 二ヶ年

・名勝「瑞祥」 揮毫者・小柴芳夫・恵美子

 由緒深き原八幡神社の歴史に残すべく平成九年十月十五日に氏子中により原八幡神社に奉納。 

     原八幡神社 氏子中

 原八幡神社の左横から出て旧中山道に戻った所、名神高速彦根ICの進入路の手前右側緑地に二基の石碑が建っていた。

 手前は「天寧寺 五百らかん 江 七丁」 奥は「はらみち」と彫られていた。また、「中山道 原町」と刻ませた新しい石標も立っていた。

 天寧寺は石碑前の道を北西へ1.0Km行き、更に右へ300m入った所にある。


【多賀みち道標と常夜灯】 (左側) 8:35

 旧中山道は、原八幡神社前から愛知川宿に入る手前の沓掛交差点までのおよそ10.7Kmを南西にほぼ直線的に進むので間違えようがない。

 国道306号線との正法寺町交差点手前の左へ入る細道に常夜灯が建っていて、その周りに7基の石碑(道標)が立っている。

 右端の新しい石標には、常夜灯の説明と思われる碑文が刻まれている。

 「多賀神社東参詣近道のしるべとして多賀町中川原住人野村善左衛門が発願。慶応三年二月野村善七が建立寄進した」

 右から2番目の道標は「金毘羅大権現 是より十一丁」(金毘羅大権現はここから南東方向へ現在の道で1.9km)。

 3番目は「安産観世音 是より四丁 慶光院」(慶光院は同じく南東方向へ850m)。

 4番目は上部が壊れて「多賀大社」のみ残る。

 五番目も上部が壊れて「ハ丁」のみ残る。

 6番目は「是より多賀ちかみち」(多賀大社は306号線を南下して4.6Km)と刻まれている。

 7番目は全く分からない。


【床の山】 9:00

 正法寺町交差点を渡って右側春日神社の前を通り20分強、芹川に架かる大堀橋を渡った右側に旭森公園がある。その角の街道沿いに中山道旧跡 床の山の石碑が立っていて、側面に芭蕉の句も添えられていた。

 万葉集の歌に出てくる床の山がどの山かはっきりしていないが、大堀橋を渡る手前左手の山ではないかと云われる。

 公園内には、綺麗ではないが公衆トイレがある。

【中山道旧跡 床の山】

 鳥籠山につきましては、往々異説がありますが、旧跡を残す意味に於いてこの場所に建立しました。

   ひるがおに 昼寝せうもの 床の山  芭蕉


【石清水神社】 (右側) 〜9:10

 旭森公園隣の小山で、神社に上る階段の途中右側に扇塚がある。

【石清水(岩清水)神社】

 祭神 第16代応仁天皇とその母 神功皇后(息長帯姫命)

 石段を登った亀甲山の山腹に鎮座する石清水神社は、 古く飛鳥時代からこの地にお祀りしている神社で、武勲守護の神、また安産の神として参拝、祈願する人が絶えない。祭神の神功皇后は、応神天皇を胎内に宿しながら三韓との戦いに出陣、肥後国(佐賀、長崎県)松浦で無事安産されたといういわれから安産祈願「鈴の緒」を拝受する人が多い。

 本殿の建築時代は不詳、拝殿は明治9年5月改築。

 大祭は春(4月)秋(10月)である。

     大堀町史跡顕彰委員会

【扇塚】

 能楽喜多流(北流)は、江戸時代の井伊藩の手厚い保護を受け、この地で発展した。9代目家元、健志斎古能(号湖遊)は隠居したのち数年間彦根にいて多くの門人の育成と能楽の発展に力を尽くした。いよいよ彦根を去り江戸に帰るとき門人たちの所望に応じて記念に「面と扇」をあたえた。その面影を残すために、門人たちはこの地に塚を建てたのである。もともと一対だったとおもわれるが面塚の行方は わからない。

 右側面  享和元年(1801)酉夏 喜多古能

 左側面  豊かなる時にあふぎのしるしとしてここにもきたの名を残しおく

     大堀町史跡顕彰委員会

【扇塚】

   豊かなる時にあふぎのしるしとて ここにもきたの名を残しおく

 以前は扇塚と面塚とが一対になって建っていたそうだが、今は扇塚だけが残っている。井伊藩は、代々能楽の発展に力を入れてきたので、彦根には能楽を学ぶ人が多くあった。喜多古能は、門人の養成に力をそそぎ、彦根をたちさるとき、扇子と面を残していった。それを埋め記念の塚がここに建てられたのである。

     旭森小

 石清水神社の駐車場手前の左側道角に多賀みちの道標立っている。

 「是より多賀みち○○」下の○○はセメントで消されていた。他の場所から移設した為か、里程を消したようだ。

 また、神社の駐車場に鉄板で蓋をされたコンクリートンの丸い井戸あった。

【「かどや」跡地と井戸の由来〕

 石清水神社前に「かどや」という「お休み処」があった。およそ200年前に建てられ、用材は欅を「チョンノ」(鉋(かんな)の一種)で削り、くぎは使われていない。内部は幾組もの客が休憩できるように多くの小部屋に分かれていた。井戸は岩を掘り下げて、井戸側はなく、岩の間からにじみ出た水で文字どうり「石清水」であった。

 ところで、この井戸を掘る時、その位置を決めるのに屋敷のあちこちに、幾つものお椀を伏せておき、露の着き具合の一番多いところが、水量も多く、水点も近いであろうと、西南の角に、決めたといわれている。江戸時代旅人たちが、この石清水で沸かしたお茶でのどを潤し、一夜の宿で、旅の疲れを休めたところである。

 ちなみに、大正6年陸軍大演習のみぎり、大正天皇に献上されたお茶は、この水を沸かしたものといわれている。

     2005年12月設置 大堀町史跡顕彰委員会


【常夜灯】 (右側) 9:25

 石清水神社から15分で近江鉄道本線の踏切を渡るが、その手前右側に背の高い常夜燈とその傍らには 大きな木材に中山道 高宮宿と刻まれた碑が建っている。

 ここが高宮宿の東の入口になるのだろう。


【木之本分身地蔵菩薩】 (右側) 

 踏切を渡ったすぐ先の大宮町大北交差点を渡った右角に黒い御堂が建っていて中に木之本分身地蔵菩薩が祀られている。

【木之本分身地蔵(大北の地蔵さん)】

 お地蔵様は石造が一般的であるが、この大北地蔵はめずらしく木彫りに彩色されたものである。側には明治三十三年四月の記で、「木之本分身地蔵菩薩」と書かれた石柱があり、木之本の淨信寺にある眼病のご利益で名高い木之本地蔵の分身といわれている。しかし、その由来等についての古文書は残念ながら不明である。

     高宮街づくり委員会


【高宮宿】 日本橋から119里28町(470.4Km)、京へ16里6町 (63.5Km)
 天保14年(1843)で人口3,560名、総家数835軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋23軒。

 高宮宿は、中山道六十九次の江戸から六十四番目。

 天保十四年の記録によれば、町の南北の長さ七町十六間 (約800m)の町並に、総戸数八百三十五・人口三千五百六十で、本庄宿に次ぐ中山道第二の大きさ、本陣一・脇本陣二・旅篭総数二十三等の宿場施設を持つ大宿であった。また、多賀神社への門前町 としてにぎわい、多賀神社第一の大鳥居がここに建っている。特産物として室町時代から全国的に有名になっていた高宮上布の集散地として、豊かな経済力を誇っていた。

     多賀神社大鳥居の裏にあった高宮の案内板より

木曽海道六拾九次之内 高宮 (広重)

 広重は犬上川の南岸から宿場を望んで描いた。平常時、川の水は地下を流れて表面に出ていなかったので仮橋を渡っていた。この絵では板が外されているので旅人は徒歩で渡っている。

犬上川に架かる高宮橋。

左の浮世絵と同じに南岸(京都側)から写した。


【布惣跡】 (左側) 9:35

 地蔵堂から5〜6分進んだ高宮神社鳥居前の大きな店が高宮布の布惣跡である。

 店の後ろには立派な蔵が沢山建っていて、いかに大きな仕入れ問屋だったかが分かる。

【高宮布の布惣跡】

 高宮布は高宮の周辺で産出された麻布のことで室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていました。高宮細美とも近江上布ともよばれ江戸時代になってからも高宮はますます麻布の集散地として栄えました。

 布惣では七つの蔵に一ぱい集荷された高宮布が全部出荷され、それが年に十二回繰り返さなければ平年でないといわれたと聞きます。

 現在五つの蔵が残っており当時の高宮嶋の看板も現存しています。


【高宮神社】 (右側) 〜9:50

 高宮神社の立派な拝殿まで街道の鳥居から160mもある長い参道を行くのであるが、奥の本殿も素晴らしい。

 参道途中でくぐる随身門は嘉永二年(1849)のもので、その随身門の手前右横に「笠砂園」と書かれた石碑があり、その奥に芭蕉の句碑がある。しかし何故か句碑を見学できる道も無く、植え込みが茂って容易には近づけないので、悪いとは思いつつ草木の間を潜り込んで見てきた。

   をりをりに 伊吹を見てや 冬篭り   はせを

 また、参道に入った左側に豪壮な建物が建っているが、旧庄屋の屋敷だそうだ。

【高宮神社】

 明治三年の大洪水で、多くの旧記が流され沿革は殆ど判っていない。拝殿と本殿の間には正徳三年(1713)のものと思われる古い石灯篭が残っている。

 また、「高宮の太鼓祭」として知られる春期例大祭は毎年四月に行われ、高宮十七町より一町が神輿、八町が太鼓、全町が鉦を曳く。なかでも胴回り6メートルの大太鼓は圧巻である。

     高宮街づくり委員会


【多賀大社大鳥居】 (左側) 9:53

 高宮神社で思わず長居をしてしまったので先を急ぐ、街道に戻ると古民家も並び僅かながら旧宿場町の雰囲気が出ている。

 高宮郵便局前右側に古い馬場提灯店があり、「中仙道 高宮宿」と書かれた大きな提灯がぶら下がっていた。

 その郵便局隣の高宮鳥居前交差点に大きな多賀大社一の鳥居が道路をまたいで建っている。

 鳥居の右後ろには大きな常夜灯が建ち、その後ろは小公園になっていて、高宮宿の案内板があった。

 また、鳥居の右足元には石清水神社前にあったのと同じ様な「是より多賀みち三十丁」と刻まれた道標が立っている。

【多賀大社鳥居(一の鳥居)】 滋賀県指定有形文化財(昭和40年8月9日指定)

 多賀大社から西方約四キロメートルの表参道の面して位置する石造明神鳥居は、同社の旧境界域を示している。

 多賀大社の創立は、奈良時代に完成した「古事記」や平安時代に編纂された「延喜式」にも見られる。

 「一の鳥居」は社蔵文書に「寛永十二年三月鳥居着工」の記述があり、社殿が元和元年(1615)の火災の後、寛永年間に造営されているので、この時に建立されたものと考えられる。

 この鳥居は円柱を内転びに建て、頂上に反り返り付きの島木とその上に笠木をのせ、やや下がったところに貫を通して、中央に額束を据える明神鳥居形式で、現存する鳥居の中で最も多い形式の一つである。

 県下の石造鳥居としては、構成する部材は太く、均整がとれて古式を示し、また、最大のものであって、建立年次が明らかな点で貴重な遺構である。

     平成十三年三月 滋賀県教育委員会

【高宮の大鳥居】

 中山道と多賀みちの分岐点に立つこの鳥居は、多賀大社一の鳥居で、寛永十二年(1635)に建立されたもの。柱間は約8メートル、高さは約11メートルあり、県の文化財に指定されている。鳥居建立工事は、多賀町四手の山中から花崗岩を切り出し、足場は妙蓮寺の裏あたりから階段式に高く土嚢を築いたといわれている。

     高宮街づくり委員会

【常夜燈〕

 大鳥居の脇に高さ6m、底辺の一辺3.3mの正方形をなす大きな石造りの常夜燈である。

 燈明を灯す小窓までは、石造りで十三段の階段がついている。

 常夜燈は、暗くなった多賀道に明かりを灯し、道行く人々や多賀大社に参詣する人々が安心してお参りできるための、今の街灯にあたる。

 古くは一対で建立されていた。

     高宮街づくり委員会


【紙子塚】 (右側) 

 大鳥居から太田川渡ったすぐ先右側、連子格子の古民家前に俳聖芭蕉翁旧跡 紙子塚の石碑があり、説明板が掲げられている。

【芭蕉の紙子塚】

   たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子

 貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描いてこの句を詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて「紙子塚」と名づけた。

     高宮街づくり委員会


【脇本陣跡】 (右側)

 紙子塚の少し先、円照寺の手前にやや小ぶりの連子格子の古民家が脇本陣跡で問屋場も兼ねていた。

 高宮宿には二軒の脇本陣があったが、他の一軒の場所は不明。

 江戸時代高宮宿には二軒の脇本陣があり、その一つがこの地におかれた。門構、玄関付き、間口約14m、建坪約244mであったという。門前は領主の禁令などを掲示する高札場になっていた。

 ここの脇本陣役は道中奉行の支配下にあり慶長十三年(1608)からは人馬の継立、休泊、飛脚、街道の維持管理を行う問屋を兼ねており問屋場とも呼ばれていた。

     高宮街づくり委員会


【本陣跡】 (左側) 

 円照寺の向かいに本陣跡の説明板が立ち、白壁の塀に表門のみ残っている。

 江戸時代の参勤交代により大名が泊まる施設(公認旅館)を各宿場に設けたのが本陣である。

 構造も武家風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の間・奥書院・上段の間と連続した間取りであった。高宮宿の本陣は、一軒で門構え・玄関付で、間口約27m、建坪約396uであったという。現在では表門のみが遺存されている。

     高宮街づくり委員会


【円照寺】 (右側) 

 門前に明治天皇行在聖跡の石碑が立っている。

 明治天皇が北陸東山御巡行帰途の明治11年11月11日にこの円照寺に宿泊された。ところが松の木が邪魔して乗り物が通れなくなり、木を切ることになった。その時、住職が松の木の命を惜しんで抵抗したので、天皇にお伺いを立てたると「歩くことなどいとわない」と返事され、その前で乗り物を止め、御座所まで歩かれた。

 住職は、この松が天皇の乗り物の「鑾(らん)」を止めたので「止鑾松(しらんのまつ)」と名付けた。

 但し、現在はあまり大きくない二代目の松が植わっていた。

 また、止鑾松の隣で本堂前に石の柵で囲われて、これがと思う様な小さな徳川家康腰掛石なる石が置かれていた。

【円照寺】

 明應七年(1498)、高宮氏の重臣、北川九兵衛が剃度して釈明道となり仏堂を建立したのが起源。元文五年(1740)には火災で本堂は焼失したが、九年の歳月を費やし再建された。

 境内には、明治天皇ゆかりの「止鑾松」と呼ばれる松の木(二代目)や老紅梅の垣の中に徳川家康が腰掛けたとされる「家康腰懸石」がある。

     高宮街づくり委員会

 止鑾松は手前の立派な松ではない。その右後ろに石碑が立っている所の松である(写真では分かりにくいが石碑の後ろの若い松)。家康腰懸石は左後ろのポール下の石柵内にある。


【むちん橋地蔵尊】  (右側)

 円照寺のすぐ先、犬上川に架かる無賃橋と呼ばれる高宮橋を渡るが、その北詰にむちん橋の石碑とむちん地蔵堂が建っている。

【むちん橋地蔵尊由来記】

 昭和五十二年(1977)むちん橋の橋脚改修工事の際、脚下から二体の地蔵尊が発掘された。
 近隣の人々と工事関係者は、これこそ江戸時代天保三年(1832)最初に架橋された「むちん橋」の礎の地蔵尊に違いないと信じ、八坂地蔵尊の御託宣を得て橋畔を永住の地とし、お堂を建立「むちん橋地蔵尊」と名付けてお祀することにした。
 以来、河川・交通安全並びに町内の守り本尊として多くの人達の信仰を集めている。

     平成十一年八月建之 むちん橋地蔵尊奉賛会


【高宮橋(無賃橋)】 

 犬上川は、広重が高宮宿の浮世絵に描いた場所である(上記【高宮宿】の写真参照) 。

 高宮橋を渡る左側には大きな一枚板に「中山道高宮宿」と書かれていたので、ここが高宮宿の西の入口だろう。

【むちん橋】

 天保のはじめ、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪、藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに費用を広く一般の人々から募らせ、橋をかけることを命じた。

 当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちんばし」と呼ばれた。

     高宮街づくり委員会


【若宮八幡宮「産の宮」】 (右側) 10:30

 法土町(ほうぜちょう)交差点を過ぎた辺りで若い松並木があり、右側の月通寺を過ぎた所に若宮八幡宮の参道がある。その入口に「産の宮」の説明板が立っていたが、中まで入らなかった。

 また、参道入口に屋根付きの木の囲いの中に石組みの井戸と石製の四角い手水鉢が置かれていた。その手水鉢には「足利氏降誕之霊地」と刻まれていた。

【由緒】

 南北朝の争乱の頃足利尊氏の子義詮が文和四年(1355)後光厳天皇を奉して西江州に戦い湖北を経て大垣を平定し翌五年京都へ帰ることになった。

 その時義詮に同行した妻妾が途中で産気づき、こゝで男子を出産した。付け人として家臣九名がこの地に残り保護したが君子は幼くして亡くなった。生母は悲しみのあまり髪を下ろして醒悟と称して尼となりこの地に一庵(松寺)を結んで幼君の後生を弔った。

 ここに土着した家臣九名が竹と藤蔓でつくった葛籠を生産するようになり松寺の北方に一社を祀りてこの宮が出来た。古来「産の宮」として安産祈願に参詣する人が多い。


【おいでやす彦根】 (左側) 10:42

 再び松並木となり、その松の間に鳥居本宿の入口で見た「おいでやす彦根」の同じモニュメントが立っていた。

 ここも3本立ち、大きな荷物を背負った旅人などの像が乗っている。


<昼食> 10:50〜11:10

 出町交差点を過ぎた少し先の右側に東屋があったので昼食にした。東屋の目の前には人工の池があり筧が設けられていたが水は流れていなかった。

 ここのベンチはあまり綺麗ではなかったが、この先に綺麗な東屋が何箇所も現れるとは思っていなかったので、昨夜彦根前のスーパーで購入しておいたパンを食べる。


【旧豊郷小学校群】 (左側) 11:35

 四十九院交差点を過ぎて10分程進むと、町長のリコール問題で有名になった豊郷小学校旧校舎群の正門前に着く。広大な前庭の奥に立派な旧校舎が並ぶ。現在の豊郷小学校はその後ろに新築されているが、これも立派な校舎である。旧校舎は現在町立図書館等になっている。

 旧校舎は昭和12年(1932)に、「丸紅」の重役であった古川鉄治郎が私財を投げ打って建築し、寄贈した当時としては珍しいコンクリート造りの校舎であった。

 鉄治郎は12歳より叔父伊藤忠兵衛のもと丁稚奉公から始めて商魂を鍛えあげ、重役として活躍し、大実業家となった人である。 

  平成11年(1999)、豊郷町長に就任した大野和三郎が老朽化と耐震性を理由に校舎を解体して新校舎を建設する方針を出した。しかし歴史ある校舎の解体に反対した地元住民が裁判所に解体工事の差し止めを求める仮処分を申請し認められた。ところが、町長は住民の意向と裁判所の判断を無視して強行的に解体工事を開始、住民が校舎に立てこもるという事態にまで発展した。結局町長は方針転換し旧校舎を保存して隣に新校舎と建てることになった。これらの解体と保存を求める問題は全国的に報道され、その後町長はリコールされた。


【やりこの郷】 (右側)

 旧豊郷小学校の門の反対側に説明板が掲げられている。

【やりこの由来】

 安食南には、古くから「矢り木」(やりこ)という地名があり、昔、いく日も雨が降らず、農作物が枯れてしまって村人たちは大変困っていました。村人たちは阿自岐神社の神様に雨を降らしていただくようお願いしたところ、
 「安食南にある大木の上から矢をはなてば、矢の落ちたところから水がわく」
とお教えになり、早速、弓の名人に大木の上から矢をはなってもらうと、阿自岐神社の東の地面につきささりました。その矢をぬくと清水がわきだし、渇いた大地をうるおし農作物は大豊作となって、その清水を「矢池」と名付けました。この矢をはなった大木が「矢射り木」と呼ばれ、それがなまって「やりこ」と言われるようになったと思われます。
 今日、その大木の生えていたところが「矢り木」という知名になって伝わっており、はるか昔の名残をとどめています。

      平成七年二月 安食南区


【一里塚の郷 石畑】 (左側)

 豊郷小学校のすぐ先右側の八幡神社境内に、一里塚の郷 石畑の石柱、高宮宿←石畑(間の宿)→愛知川宿の石碑、復元一里塚、石畑の説明板等がある。

 また、ここには比較的綺麗な東屋があった。

 私たちの石畑の歴史は古く平安時代後期にまでさかのぼります。1185年(文治元年)源平の争乱の中、屋島の合戦で「弓矢の名手」として名を馳せた那須与一宗高の次男石畠民部大輔宗信が、この辺りの豪族であった佐々木氏の旗頭として、那須城(城跡)を造りこの地を治めていました。1239年(延応元年)男山八幡宮(京都‥石清水八幡宮)から勧請した八幡神社と1258年(正嘉二年)に創建した称名寺があります。
 また、江戸時代後期には、街道の往来でにぎわう中山道・高宮宿と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展し、立場茶屋(たてばちゃや)が設けられ旅人や馬の休息の場として栄えました。
 さらに、中山道の役場前交差点南(小字一里山)には、「一里塚」が設けられ、「高さ丈余の塚で、松が植えられてあって、塚の上から湖水が見えた」と、豊郷村史に記されています。

【くれない園】 (左側) 11:55

 役場前交差点先の公園内に、くれなゐ園の標柱と伊藤忠兵衛翁碑が建っているのみで説明板等は無い。

 この公園は、伊藤忠商店の創業者である伊藤忠兵衛の功績を偲んで造られたもの。

 この公園手前を左折するとすぐ近江鉄道の豊郷駅。


【伊藤長兵衛屋敷跡】 (左側)

 くれない園隣の駐車場前に石碑が建っている。

【七代目(1868〜1941) 伊藤長兵衛翁の偉業】

 犬上郡河瀬村大字犬方の若林又右衛門の二男として生まれ、幼名は長次郎。16歳で伊藤長兵衛商店にはいり、22歳のとき六代目伊藤長兵衛の養子となり、1892年その次女やすと結婚、その翌年七代目長兵衛を襲名した。そして先代が創業(1872)した伊藤長兵衛商店を順調に発展させ、1921年これに伊藤忠商店を合併して株式会社丸紅商店を設立し、初代社長に就いた。

 翁は仏教の信仰心厚く、人間愛また深く、正義・公正・質素・倹約を生活信条として企業家としても成功し、1925年自ら巨額の浄財と敷地の大部分を寄付して豊郷病院を創設した篤志の人としても世の尊敬を集めた。

 この駐車場はそのご子孫の所有地であったが、1997年に財団法人豊郷病院へ寄付されたものである。

     財団法人 豊郷病院


【伊藤忠兵衛記念館】 (左側) 〜12:10

 伊藤長兵衛屋敷跡のすぐ先に伊藤忠兵衛旧宅があり、現在記念館として邸内・庭・蔵など全て見学できる。

 入館料/無料   開館時間/10:00〜16:00   休館日/月曜日

 伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館と命名して、一般公開することになりました。

 初代及び二代忠兵衛の愛用の品をはじめ、様々な資料を展示して繊維卸から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。
 この旧邸は、初代忠兵衛が生活していた頃そのままの形で残されその佇まいからは、“近江商人”忠兵衛の活況ある当時の暮らしぶりやそれを支えてきた、初代の妻・八重夫人の活躍を偲ぶことができます。また、ここで生まれた二代忠兵衛は、母である八重夫人の教育もあり、国際的なビジネスを展開し、現在の「総合商社」の基礎を築いています。
 近江商人のスピリットを先駆的な感覚を合わせて世界という舞台にのせた初代伊藤忠兵衛と二代忠兵衛、そして八重夫人のルーツにふれながら、その偉大な業績を称え、末永く後世に語り継いでいきたいと思います。


【金田池】 (右側) 12:15

 伊藤忠兵衛記念館から5分程行くと金田池と云う湧水を模したものがある。水は溜まっていなかった。

 左側、石の説明板の柱部分には「水の香る郷 四谷」と刻まれていた。

 右側には「西沢新平家邸跡」なる石標が立っていたが謂われは不明。

 この地より北約五十米の処、大字澤一番地に金田池と称する湧水があり、田の用水にまた中山道を旅する人達の喉をうるおしてきた。
 近年の地殻変化により出水しなくなり埋め立てられたが当区の最上流で永年名水として親しまれた池ゆえにそれを模して再現した。


【又十屋敷(豊会館)】 (右側) 12:20

 金田池から4分程で、又十屋敷と書かれた大きな屋根付き看板が掲げられている元近商人の屋敷がある。現在は豊会館という史料民芸館となっている(入館料200円)。

 建物の街道沿いには、中山道一里塚址の石碑(下記写真の石柱)と説明板が、建物の入口には東海道大津宿の逢坂峠で見たのと同じ「車石」が展示されていた。

 予定時間がオーバーしていたので中には入らなかった。

資料民芸館 豊会館(又十屋敷)】

 当館は、江戸末期より蝦夷と内地とを北前船を用いた交易で財を成した近江商人藤野家本宅跡です。明治初期に入ると我国初めての鮭缶の製造を始め五稜北辰の商標「星印」で販売した所、人気を博しました。今日では「アケボノ缶詰」として受け継がれています。亦天保の大飢饉には住民救済の為行われた又十の飢饉普請は有名で江州音頭発祥の地千樹寺の再建と当家の建造物及び湖国百選に紹介されている名庭園「松前の庭」勝本宗益作等何れも当時の原形を今日までほどよく保存されています。また、館内には千数点に及ぶ美術・工芸品等が展示されています。

【一里塚跡碑について】

 一里塚は元々此の地より北八百米豊郷町役場付近にあったと謂われ三間四面に盛土をして塚を造り木を植え里程標としまた車馬賃の目安ともなった。尚石畑は中山道の高宮宿と愛知川宿の丁度中間点で間の宿と呼ばれ八幡神社付近には立場茶屋があり中山道往来の旅人で賑わったようで石畑は一里塚のさと と呼ばれる所以であらう。


【千樹寺・江州音頭発祥地】 (右側) 12:25

 豊会館のすぐ先にある千樹寺の入口左側街道沿いに「江州音頭發祥地」と「伝統芸能扇踊り・日傘踊り 中仙道千枝(ちえだ)の里 豊郷町下枝」の石標が二本立っていて、その間に石製の下記説明文がある。

 千樹寺入口右側には、テーブル付き東屋があった。

【観音堂(千樹寺)と盆踊り 江州音頭発祥の起源】

 天正十四年(西暦1586年)今から四百五年前、藤野太郎衛門常実が兵火(永禄十一年五月七日織田信長の)後の観音堂を再建して、其れ竣成せし、遷仏式を挙しが、旧暦七月十七日であった。

 当日余興にと、仏教に因む造り人形を数多く陳列し、又仏教弘道の一手段として、地元の老若男女を集め手踊りをさせ、又、文句は羯諦羯諦波羅羯諦(かっていかっていはらかってい)。波羅僧羯諦(はらそうかってい)。等(時の住職根與上人)経文の二、三句を節面白く歌いつつ、手振り、足振り揃えて、多くの人で円陣を作り踊らせ、来観の群衆もあまりの楽しさに参加して踊ったと伝えられる。

 その後、毎年七月十七日、盆踊りを催し、枝村観音の踊りは遠近の人々で益々多くなった。

 弘化三年、藤野四郎兵衛(良久)は、観音堂を改築して、その遷仏供養に古例の踊りを催せしが、特にこの時、種々の花傘とか華美なる扇子を持ちて踊らせ、音頭(音頭取・桜川大竜)も陣新なる文句を作り、益々好評を博し、その後他村の社寺は勿論、他共同の祝事には此、手踊りを催すこととなり、今では、毎年八月十七日観音盆には、扇踊り、日傘踊りを踊り好評を博している。

     竣工 平成三年十月


【歌詰橋】 12:33

 程なく宇曽川に架かる歌詰橋を渡るが、渡った右奥の「伏見運送」の倉庫前に古墳の様な小山があった。初め将門の首塚かと思ったが、首塚にしては大き過ぎるし、結局何であるかは分からなかった。

 また、橋を渡った右側土手に宇曽川と歌詰橋の説明板が立っている。

【宇曽川と歌詰橋】 

 宇曽川

 宇曽川は、秦川山及び押立山に水源があり、ここ石橋を経て琵琶湖に注いでいる。

 この川は、古い時代から水量が豊富であったため、舟運が盛んで人や物資のみでなく、重い石も舟運を利用して運んでいた。また、木材は、丸太のまま上流から流したという。

 このことから「運槽川」と呼ばれていたが、中世になって、うそ川となまったようである。

 歌詰橋

 宇曽川に架けられていたこの橋は、かつては十数本の長い丸太棒を土台にしてその上に土を塗りこめた土橋であった。

 天慶三年(960)平将門は、藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられた。秀郷が京に上るために、中山道のこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追いかけてきたため、将門の首に対して歌を一首といい、いわれた将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちた。そこがこの土橋であったとの伝説がある。

 以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったのである。


【将門首塚?】 (左側)

 歌詰橋を渡った次の十字路左側空地の奥(普門寺裏)に小さな祠が乗っている塚が見える。辺りをうろうろしたが登り口や説明板等は見つけられなかった。将門首塚と呼ぶ人もいるとのことだが真偽は不明でおそらく古墳と思われる。

【愛知川宿ゲート】 13:00

 歌詰橋から20分ほどで三叉路に着くが、右真直ぐ方向が中山道である。

 愛知川小学校前を通って次の十字路(県道214号線と交差)を左折すると近江鉄道愛知川駅まで260m。

 十字路を越えると「中山道 愛知川宿」と書かれた木のゲートが道路にまたがって立っている。

 写真で、奥の白い蔵がある所が下記旧田中家住宅。


【旧田中家住宅(近江商人亭)】 (左側)

 ゲートをくぐってすぐ左側の倉もある屋敷は、現在「湖魚 季節料理 近江商人亭 三角屋中宿店」という料亭になっているが、かつては近江商人田中家の別邸だった。国登録有形文化財になっている。

 「近江商人亭」のホームページから抜粋させて頂くと

 旧田中家住宅(近江商人亭)は、近江鉄道愛知川駅の南東約300mに位置し、旧中山道に面する西側に奥行きの深い敷地に建っています。

 現在は、平成6年に開業した料亭、「近江商人亭」として活用されていますが、昔は、麻織物商を営んでいた田中家の別邸でした。

 既に明治25年(1892)に建てられていた南土蔵を再利用しながら、大正8年(1919)に主屋を新築し、続いて茶室、北蔵、大広間を建設、庭園を整備し、現在の屋敷構えが完成しました。

 他の近江商人の多くは江戸時代に発展したのに対し、愛知川の商人は明治以降の「近代」にピークを迎えました。


【愛知川宿北入口碑】 (右側)

 郡分(こうりわけ)延命地蔵尊のお堂の右前に愛知川宿北入口と刻まれた標柱が立っていたので、ここから愛知川宿になるのだろう 。

 また、地蔵堂の右側にはエプロンを掛けた小さな自然石の地蔵が30体近く立て掛けられていた。


【愛知川宿】 日本橋から121里28町(478.3Km)、京へ14里6町 (55.6Km)
 天保14年(1843)で人口929名、総家数199軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋28軒。

木曽海道六拾九次之内 恵智川 (広重)

 恵智川に架かる無賃橋を北岸から描いたもの。標柱には「むちんはし はし銭いらす」と書かれている。

愛知川に架かる御幸橋(むちん橋)を北側から撮影。

下記【御幸橋(むちん橋)】参照。 


【愛知川宿碑】 (左側) 13:06

 左側に滋賀銀行がある交差点を渡った所のポケット・パークに、広重の愛知川宿の浮世絵、道標、書状集箱と書かれているPOSTと説明板が立っている。

 道標の正面には「中山道 愛知川宿」、左面は「左 高宮宿 二里」と刻まれていた。右面は見忘れたが、おそらく「右 武佐宿 二里十八丁?」と刻まれていると思われる。

【書状集箱】

 このポスト(書状集箱)は、明治4年(西暦1871年)郵便創業当時使用していたものと同じ型のものであり、「ポケット・パーク」が、町のシンボルとして、愛知川町は、かっての「木曽海道」六十九次の六十六番目の宿場町として栄えたことを記念されたところから、その景観等に合わせて設置したものです。

 なお、このポストは、他のポスト同様に取り集めを行いますので、ご利用下さい。

     平成五年四月二十二日 愛知川郵便局長


【本陣跡】 (右側)  13:1

 ポケット・パークのすぐ先、日本生命愛知川営業所の立看板の下に本陣跡の標識のみ掲げられていて、往時の面影は全く無い。

 この時、この近くにお住まいのご夫人からこの辺りの建物について色々と説明して頂いた。日本生命ビル左隣の立派な洋館は旧銀行で、現在は個人所有の倉庫として使用されているとのこと。この辺りは銀行の建物が多かったそうである。

 写真で、それぞれの建物の間にある塀の上に掲げられているのが本陣跡の案内板。


【高札場跡・脇本陣跡】 (右側)  13:1

 上記旧銀行から一軒おいて常夜灯と鳥居が建っている奥が八幡神社。

 その常夜灯の足元に高札場跡の石柱が立っている。

 その左隣のすだれが掛かっている家が脇本陣跡だったと、先ほどのご夫人から教えられた。

 よく分からないが脇本陣跡石碑は取り除かれてしまったそうだ。

 また、その隣の建物は下記の旧滋賀銀行である。


【旧滋賀銀行】 (右側)  13:17

 脇本陣跡の隣の建物は、昭和40年頃まで営業していた旧滋賀銀行(現在はポケット・パークの対面に移動)。

 現在は「伊吹正化学工業梶vになっているが、銀行のカウンターは当時のまま残っているそうである。これもご夫人からの情報。

 車を駐車している最中だったので中を覗けなかったのが残念だった。


【旧旅籠竹平楼・明治天皇御聖跡】 (左側) 13:25

 更に数分先の門構えの立派な建物が旧旅籠の竹平楼で、現在は日本料理店となっている。

 門の両側には屋根つきで「中山道 愛知川宿 旅籠竹の子屋 平八」と染められた提灯が吊るされていた。

 こちらも国登録有形文化財となっている。

 「竹平楼」のホームページから抜粋させて頂くと

 竹平楼は江戸時代から続く老舗の料理旅館です。創業は宝暦八年、初代平八が「竹の子屋」の屋号で旅籠を営んだことに始まります。明治十一年、三代目の平八の時に明治天皇が、民情視察のため北陸東山道をご巡幸なされ、当家にお立ち寄りになりました。その時に侍従長の岩倉具視をはじめ大隈重信、井上馨、山岡鉄舟など明治を築いた重鎮の方々もお伴でお越しになったと伝え聞いております

 現在もその当時の建物を大切に保存させて頂いております。四代目平八の時に、「竹の子屋」の屋号から「竹」と平八から「平」をとり「竹平楼」と改めて現在七代目が受け継ぎ245年の永きにわたり地域の皆様にご愛顧を頂いております。

 

 門の右側には明治天皇御聖跡が建っており、門を入った玄関脇には、明治天皇が休憩した説明板が掲げられていた。

【史跡】

 明治天皇明治十一年北陸東山御巡行の際十月十二日及び同月二十一日の両度にわたり当邸に御小憩あらせられた。

 當時の御座所は平屋建瓦葺で八畳の間に六畳二間を連接し今尚よく舊規(きゅうき)を存している。

     竹平楼


【不飲(のまず)川】 

 北の入口にあったのと同じ「中山道 愛知川宿」のゲート手前で小さな橋を渡るが、この川を不飲川と云い、橋を不飲川橋という。

 不飲川 は、滋賀県愛知郡愛知川町・彦根市を流れる、琵琶湖に注ぐ川で、源流にある不飲池(野間津池)で平将門の首を洗ったところ血で水が濁ってしまった為、この川の水を飲まなくなったと云うことからこんな名前が付いたとか。その他諸説あり。


【一里塚跡碑】 (右側) 13:27

 不飲川を渡り、「中山道 愛知川宿」のゲートをくぐると国道8号線に合流する。合流した所で向こう側の広場を見ると奥にポツンと一里塚跡の石碑が立っている。


【御幸橋(むちん橋)】 13:35〜13:40

 やがて愛知川に架かる御幸橋を渡るのであるが、その手前左側にむちん橋の説明板が立っている。また、すぐ傍の祇園神社に常夜燈が建っている。

 広重の恵知川宿の浮世絵は、このむちん橋を描いている(上記【愛知川宿】参照)

【恵智川むちんばし】

 文政十二年(1829)町人成宮弥次右衛門氏ら四名が、愛知川に無賃橋を企画。天保二年(1831)完成。

 交通手段の維持が、幕府や領主でなく、町民の手にゆだねられはじめていた。
 むちんはし‥‥この橋は無料で渡れる橋。旅人も在所の人も、有難かった。嬉しかった。

 本来橋を架ける事を許さなかったのが、幕府の政策だった。

 川が増水すると、人々はたちまち足留めされる。人夫や舟を使えば、銭が出ていく。

 ほとんどの人は、裾をまくって渡河していく。これは楽なことではなかった。
 むちんはし‥‥橋の畔で、人ばかりか、牛や猿までも、はしゃいでいるようだ。

 あの珍道中の弥次さん喜多さんも、江戸の帰りは、ここを通ったとか。
 むちんはし‥‥以来、何度か姿を変えた。架けかえる度に、橋の位置も変わる。

 橋の畔の常夜燈も、その位置を変えていく。そんなところに、時の流れを思う人もいる。
 「旅人をあわれみかけてむちんばしふかき心を流す衛知川」 西園寺藤原実文

 この歌は成宮家に家宝として伝わる一部。鈴鹿山系の水を集める幅二百三十余メートルの愛知川は、出水すると「人取り川」の異名のとおり、通行する旅人を困らせた。愛知川に橋がかかっていなかった頃、旅人は「渡し」を利用していた。このため、夜間の愛知川を照らし、旅人の水難防止と安全を守るため、約五十名の寄進者によって常夜燈が設けられた。
 また、町人、成宮弥次右衛門(1781〜1855)は、四名の同志とともに、川を安全に渡れるよう、彦根藩に橋の建設を申し出たのである。
 これが文政十二年(1829)のことで、以来三年の歳月を経て、天保二年(1831)に完成したのが前身の無賃橋である。
 当時の渡り橋は通行料を支払うのがふつうだったが、慈善事業のため無賃とし、多くの旅人に喜ばれた。安藤広重の木曽街道六拾九次之内にも「恵知川」「むちんばし」として描かれ、後世にその篤行を伝えている。
 御幸橋はこうした歴史を秘めて昭和三十六年(1961)、国道八号線の新設とともに誕生した。明治十一年(1878)秋、天皇巡幸の際建設した木橋から五代目の橋である。


【常夜燈】 (右側) 13:47

 御幸橋を渡ったら、最初の交差点を左折する。近江鉄道の踏切を越えた先に常夜燈が立っている。

 旧中山道はこの常夜燈の前を通り川から離れて右斜めの道へ進む(写真で真ん中の道)

 橋が無かった時代は、御幸橋北詰にあった常夜燈からここの常夜燈間を渡していた。


【東嶺禅師御誕生地】 (右) 13:52

 再び近江鉄道の踏切を渡った先の民家の一角に東嶺禅師誕生地の石碑が立っている。

 東嶺禅師は、享保六年(1721)近江国神崎郡小幡の薬種商、中村善右衛門の子として生まれた。9歳の時、郷里の能登川大徳寺の亮山和尚について出家し、寛保三年(1743)駿河へ下り白隠禅師に師事し、苦行をかさねた。以後白隠の許でその教化を助け、白隠寂後は、その生前に開創された三島の龍澤寺に入り、自らは第2代となり輝東庵を復興した。その後郷里に帰って齢仙寺に入り、寛政四年(1792)72歳で没した。


 14:00、五個荘(ごかしょう)駅入口の中澤酒店前の十字路で旧中山道の旅を一旦終了。

 このあと15:51発の電車まで、2時間弱を五個荘近江商人屋敷の見学をする。ところが本日は祭日の翌日と言うことで、どこも休館のため残念ながら内部の見学は出来なかった。

 参考まで、近江商人屋敷(藤井彦四朗邸・外村宇兵衛邸・中江準五郎邸・外村繁邸)及び近江商人博物館(てんびんの里文化センター)の5館共通入館料900円。1館は300円。


【藤井彦四朗邸】 

 中澤酒店前を右折して国道8号線を越え、二つ目の十字路を左折した所。中澤酒店前から700mで途中案内板が立っている。

外村宇兵衛邸・中江準五郎邸・外村繁邸 

 外観がビックリの「書道文化と世界を学ぶ博物館・観峯館」の前を過ぎた先を右折した方向、藤井彦四朗邸から1.2Km。

 この辺りは古いお屋敷が並ぶ町並保存地区で素晴らしい。

外村宇兵衛邸

中江準五郎邸

あきんど通りの蔵

 

【近江商人屋敷 旧外村宇兵衛家】

 五個荘商人を代表する外村宇兵衛家は、近江商人として活躍していた外村与左兵衛門浄秋(六代目)の末子嘉久が、享和二年(1802)に分家して宇兵衛家を興したものです。

 文化十年には独立して商いを始め、努力の末に東京・横浜・京都・福井などに支店を有し呉服木綿類の販売を中心に商圏を広げました。

 明治期には全国長者番付に名を連ねるなど近江を代表する豪商としての地位を築きました。屋敷は家業の隆盛とともに数次にわたる新増築が重ねられ、主屋、書院、大蔵、など十数棟にわたる建物が建てられていました。また、庭は作庭当時、神崎郡内一番の庭と評せられる程立派なものでした。しかし残念ながら建物や庭の半分ほどが取壊され、旧状を損なっていました。そこで五個荘町が、茶室・四阿の復元、主屋・庭の改修や整備を行い、明治期の姿に修復し、てんびんの里伝統的家屋博物館として公開するものです。五個荘商人の本家の生活文化にふれてみてください。

     平成六年六月 東近江市五個荘近江商人屋敷 外村宇兵衛邸

【三中井百貨店と中江家】

 三中井は、明治三八年に三中井商店として発足し、昭和四年頃から本格的に百貨店経営に乗り出しました。この三中井百貨店を経営したのが金堂に本部を置いた中江勝治郎です。

 「実業を以て鮮満支に活躍せんとする青年は来たれ、我が三中井へ」

の合言葉で、短期間の内に、朝鮮・中国に二十余店舗を有する大百貨店に成長しました。しかし、敗戦と共に三中井も解体せざるを得ませんでした。

 昭和八年に建築されたこの中江準五郎邸は、三中井百貨店の経営にあたった中江勝治郎一族の邸宅で、隆盛を極めた往時の三中井を偲ぶことができます。

     平成八年三月 東近江市五個荘近江商人屋敷 中江準五郎邸

【近江商人屋敷 旧外村繁家】

 金堂集落の中心に位置し隣地には稲荷神社、金堂陣屋跡があります。

 この外村繁家は、隣家の外村宇兵衛家の分家にあたり、明治四〇年当主吉太郎が本家の勤めから独立、東京に呉服木綿問屋を開き近江商人として活躍しました。外村繁(本名 茂)は明治三五年に三男として生まれ、京都第三高等学校を経て、東京帝国大学に進み文学を志しました。父の死後一時家業を継ぎましたが、再び文学の道に入り、芥川賞候補や池谷賞、野間文芸賞等を受賞し数多くの作品を遺し、昭和三十六年、五八歳で永眠しました。

 遺族の御協力により近江商人屋敷作家外村繁の生家として永久に保存するものです。

    平成二年四月 東近江市五個荘近江商人屋敷 外村繁邸



 33回目の旅終了(15:25) 五個荘駅入口。

  近江鉄道で米原駅へ行き新幹線で帰宅。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、16.3Km(鳥居本駅入口〜五個荘駅入口)

          日本橋から百二十二里十五町(480.8Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、22.0Km(鳥居本駅〜五個荘駅入口17.4Km+近江商人屋敷巡り4.6Km) 累計592.0Km

          8時間 36,630歩。

 

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