本山宿・贄川宿 (洗馬駅 → 木曽平沢駅) <旧中山道18回目>

2006年11月25日(日) 快晴

 自家用車で 洗馬駅まで行き、駅前 (無料)に車を置いて、前回終えた万福寺前を9:50スタート。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「塩尻宿・洗馬宿」 ← 「目次」 → 「奈良井宿・藪原宿」

 


【高札場跡】 (左側)

 洗馬宿が終り、下り坂に差しかかる左手に説明板と碑が建っている。

 ここは洗馬宿の高札場があったところで、後に御判形(おはんぎょう)とよばれた。 伝馬駄賃御定や幕府のお触れなどが掲げられていた。

 明治以後裁判所の出張所(後に宗賀村役場)敷地の一部になり、その建物は「どんぐりハウス」として移築利用されている。


【秋葉神社・庚申塔群】 (左側) 10:20

 坂を下り、JRのガードを潜ると左側に「言成地蔵・滝社」の案内板が立っており、 この地蔵に願い事をすると言い成りにかなえられると伝えられている「言成地蔵尊」は目の前に鳥居と社がその奥にあるが、「滝神社」は国道19号線の先でここからは遠い。道は牧野の集落へと上り坂になり、集落に入る前に一里塚跡があったのだが標識等は見つけられなかった。

 国道19号線に合流する手前の車道は右に大回りしているが、歩行者は「牧野交差点」信号まで真直ぐの細道を行ける。交差点に「本山宿まで1.2Km」の標識があった。

 そのまま国道を歩き、本山浄水場より200mで国道から離れて右の道を下る。

 国道離れるとすぐ左に「中山道本山宿 しののめのみち・そば切り発祥の里」という標柱と写真のような秋葉大権現と地蔵・庚申塔・道祖神群がある。

 

【本山そばの里】 (右側) 10:30〜11:05

 営業時間:4月〜12月/無休・1月〜3月/月曜定休、11:00〜16:00。TEL/FAX:0263−54−6371。

 開店30分前に着いてしまったので待つには長すぎると半ばあきらめながら 本山地区の主婦達がそばを打っているところを窓の外から見ていたら、早いけれど食べさせてくれるとのことで念願であった本場のそばが食べられた。 いままさに目の前で打っていたそばなのでその美味しさは格別であった。★★★★。

 盛そばとそばがきを注文。美味しい野沢菜等の漬物が付いて盛そばは820円。

 お土産に買ったそばかりんとうも美味しかった。

 そば切り発祥の里  中山道本山宿

   蕎麦切りといっぱ 
   もと信濃の国本山宿より出て
   あまねく国々に もてはやされける

   (風俗文選松尾芭蕉門下森川許六による)

 と記述に残されているように、中山道を往来する旅人の旅情を慰め、勇気づけた蕎麦切りの技術は、ここ本山宿から全国へと広がりました。時代の流れとともに宿場も本山そばもその姿を消してい きましたが、その技術は古今変わることなく母から子、姑から嫁へと「家庭の晴れ食」として継承されて来ています。そして、平成3年、歴史ある蕎麦切りの里の復活を願う有志により、地元産の蕎麦粉 100%を用いた「本山そばの里」が復活しました。

 この「本山そばの里」では、そば打ち体験ができる。 体験料4,100円(税込み・4人前)・体験時間30〜40分・要予約・体験人数20名位まで。


【本山宿】 日本橋から60里27町(238.6Km)、京へ75里7町 (295.3Km)

  天保14年(1843)で人口592名、総家数117軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋34軒。  

 本山宿は、慶長十九年(1614)、洗馬・塩尻の二宿とともに中山道六十九次の宿に決まり路線が整備されたものだが、古く奈良・平安時代から都との交通上重要な道であったとされている。現在の建物の多くは、幕末から明治初年に建築されたもので、宿場時代の旅籠等の面影がよく残され、往時、街道沿いに軒を連ねて旅人にそばを振る舞っていた風景を彷彿とさせてくれる。 

 本山宿は宿の保存のため、宿内を通っていた国道19号線を宿の東裏に廻したことで車の往来がへり、宿内の生活も落ち着いて町中の屋敷割や小路等も残されている。宿内の各家も街路面そのままに残されていている。

 

木曽街道六拾九次之内 本山 (広重)

  本山宿の南外れで宿場方向を描いている。

本山神社の右手を少し登ったところ
 


【川口屋】 (右側) 

 本陣跡・脇本陣跡を探したが見つからず川口屋まで来てしまった。後で調べたら宿場に中ほど左奥に「本陣跡」が「明治天皇安在所」の碑と共にあるとのこと。

 川口屋は、4つの建物が1〜2mずれて建っている。

 その先右側に「本山番所跡」があるはずだが、これも見逃してしまった。本陣と共に次回車で通ったら確認してみる。

川口屋

中山道の石碑

本山宿の町並み


【本山神社】 (左上) 11:20

 本山宿の外れ、国道19号線に合流する手前左側の道を上がり、国道に架かる橋を渡った山腹にある。

 「そばの里」で広重の浮世絵がこの辺りと聞いて写したのが上述【本山宿】の現在の写真。


【本山の一里塚跡】  (左側) 11:40

 国道の線路側を250m程行くと右に下りる道があり、「第2中仙道踏切」を渡る。

 その少し先の高架で線路を渡る道と合流した地点の左側に写真の「一里塚跡」がある。

  六十一里塚    江戸より六十一里

  京へ七十一里   両側に榎を植えた

 このすぐ先に日出塩駅がある。


【熊野神社】 (左上) 11:47

 JRの線路に接し、国道の下を潜 ると国道が左から合流してくるのだが、国道を潜ったすぐ左に線路を潜る道があり、入口に「御岳公園(熊野神社上方二百)」と書かれた新しい木柱が立っていた。説明によると「屏風岩・大滝・木曽路松本平眺望絶景・御岳遥拝所・石碑石仏群」とあったので熊野神社(写真)の 裏へと登ったが、上には何の案内板もなく国道と平行している山道だけで上方へ行く道はなかった。

 この山道に上がった所で左右どちらに行ったものかと迷いつつとりあえず右(西)方向に少し行ってみようと歩き始めたが、結局「御岳公園」は見つからなかった。

 熊野神社入口だった元の道に戻るにはかなり進んでしまったので、この先どこかで国道へ下りられるだろうと思いつつ歩いたが一向にその気配はなくだんだん不安になってきた。

 JRのトンネル付近で上り坂になり更に不安になったが、間もなく「ホテル・アルファ」の所で国道に下りられた時(12:05)は正直ホッとした。結果としては、国道をあるくより旧道らしく良かった。

 ホテル前の国道右側に「中部北陸自然歩道・案内図」があった。この「 中部北陸自然歩道」の標柱はこれからもお世話になる。

 木曽工芸の里峠越えのみち 17.1Km   基点−楢川村 桜沢   終点−木祖村 藪原    

 「是より南木曾」の石碑の立つ桜沢は、その碑文のとおり木曽路の北の玄関口です。ここからいくつかの集落を経ると、木曽11宿北端で、木曽福島関所の副関として重要であった 贄川宿に入ります。南へ向かうと木曽漆器の産地・平沢があり、匠の里モデル工房が7軒あります。ここでは木曽漆器の製造工程や作品を直接みることができ、漆器を制作する体験コースもあります。 奈良井の清流に沿って行くと木曽11宿でも最も繁栄した宿場の奈良井宿があり、300年にわたる街道文化を今に伝えています。ここから、鳥居峠へ登る道は、石畳の道が復元され、峠に立つと 木立の間から、奈良井宿と藪原宿を眼下に望み、遠くに御岳山、木曽駒ヶ岳、乗鞍岳が眺望できます。ここは、木曾川と信濃川の支流奈良井川の分水嶺です。かつては難所といわれたこの峠 道も今は歩道として整備され、どなたにでも気軽に大自然を満喫することができます。峠から3km程で、藪原宿に到着します。

 この案内図の隣が広い駐車スペースで国道は大きく左カーブしている。そのカーブの右側に「木曽・ようこそ木曽へ」と書かれた大きな立看板と「桜沢木曽路入口」の石碑がある。石碑には沢田正春の写真文集「木曽路」の中の一文が記されている。

 国道の道標の北面には「是より南・木曾路」、南面には「標高812m・塩尻市の花キキョウ」と書かれていた。


【是より南木曽碑】 (右側)  12:20

 橋を渡った右側に、東屋と案内板(中山道の解説・地図・贄川から藪原までの宿場の解説・鳥居峠の標高)、及び写真の「是より南木曾」碑がある。

【是より南木曽路】

 この地は木曽路の北の入口であり、江戸時代には尾張藩領の北境であった。

 石碑は、桜沢の藤屋百瀬栄が昭和十五年に建立。裏に「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」とある。(紀元二千六百年建立)

〔中山道のご案内〕

 (前略)

 中山道のうち木曽路と呼ばれるのは、桜沢から馬籠・落合間にある立場茶屋までの88Kmで、この間に北から贄川・奈良井・薮原・宮越・福島・上松・須原・野尻・三留野・妻籠・馬籠の宿があり、これを木曽十一宿と呼びました。

 旧中山道は、少しの間、ここから国道左側の山道に登るのが正解であるが、ガードレールに貼ってあると思われる矢印テープを見逃してしまい、そのまま国道を歩いてしまった。

 再び国道に降りてくる道(左側)に矢印テープを発見したが後の祭りであった。

 京都方面から来た人は、国道右側のカーブミラー・落石注意道標と共に細い登り道の入口ガードレールの矢印テープを見逃さないように注意。

 国道を歩いた場合は、後から付け足したらしく歩道が奈良井川にせり出しているため、下を覗くとスリルが味わえる。


【桜沢茶屋本陣跡・明治天皇櫻澤御小休所】 (右側) 12:35

 上述の山道から下りてきた所にある。

 百瀬家(藤屋)茶屋本陣で、連子格子のある二階建(左の写真)。

 現在百瀬家の主屋には、御小休のための上段の間が残されているとのこと。

 立派な門と土蔵も残っており、その前に明治天皇の大きな石碑がある(右の写真)。 


 片平橋を渡った所で12:45。道路に設置の温度計は10℃だったが、風がない為、歩いていると暑いくらいであった。

 片平橋から400m強で、右斜めへ入る道がある。120m程のわずかな距離だが旅籠風の民家があり、旧中山道だと分かる。国道に戻った右側に鶯着禅寺(おうちゃくじ)があるがこの寺は民家風の建物であった。

 すぐ国道19号線は風景が広がり、左に大きくカーブする。ここで足元を見ると色とりどりのプラスチック破片が無数に落ちており、スピードを出し過ぎてカーブを曲がりきれずにガードレールに衝突する車が沢山あるのだろうと考えられる。歩道はガードレールの内側とはいえ万一の為に車道と離れた所を歩いた方が身のためである。

【若神子一里塚】 塩尻市指定文化財(昭和60年3月指定)楢川村文化財(史跡)指定 (右側) 12:57  

 国道が左カーブしている石垣の上にある。写真のように近くに行くには、石垣を登らなければならない。

 一里塚は、街道の里程の目安として一里おきに道の両側に設置された塚で、榎や松が植えられ往時の旅人の休息の場ともなっていた。

 この若神子一里塚は中山道に設けられた一里塚のうち楢川地域内5箇所の一里塚のうちのひとつで、江戸時代には道の両側に2基あり、それぞれに榎が植えられていたが、明治43年の中央線の鉄道敷設時に1基が取り壊され、現存する1基も国道19号線の拡幅によって切り崩されて、現在は直径約5m、高さ1mほどを残すのみとなっている。  


 一里塚の先を右折し、若神子集落に入る。

 若神子バス停前とその先の諏訪神社手前に屋根付きの水場(飲める)があり、現在も集落の人々に利用されている。

 若神子集落に入ったら、贄川駅まで「中部北陸自然歩道」の標柱に従って山沿いの道を行く。この山道は国道に平行しており途中何度も国道へ降りる道があるがひたすら山沿いの道を行く。特に先の水場のカーブでは舗装道路を降りないで(国道に出てしまうので)右の砂利道を登って行く。(13:11)。この辺りの名産「さるなし」の畑を見ながら10分ほど登ると上の舗装道路に出る。

 京都方面から来た人はガードレールが途切れている右下へ降りる細道、例の手作り矢印テープを見逃さないように降りて行く。

 道を下って行くと、やがて贄川駅が左下に見えてくる。畑では野沢菜を収穫していた。

 ここで、右手の墓地に野猿の群れを発見。郵便配達人に聞いたところこの辺では珍しいことではないとのことで、誰も関心を示していなかった。

 贄川駅に降りて、駅前のベンチでおやつ休憩(13:35〜13:50)。番屋風のトイレあり。

 京都方面から来た人は贄川駅前で左の坂を登り、10分弱で上述の矢印テープの示す細道を降りて行く。


【贄川関所跡】 (左側) 13:55

 駅を過ぎると「贄川宿」の大きな看板が左側にある。その先で関所橋(人道橋)を渡り線路の左側に行く。

 この橋の欄干には、鉄琴がぶら下がっており木槌等で順番に叩くと木曽節のメロディーを奏でる。

 橋を渡ったところに「関所跡」がある。 中には入らなかった。入館料200円。開館時間9時〜17時。休館日:月・祝日の翌日・年末年始

〔贄川関所〕

 源義仲七代の孫讃岐守家村建武二年(1334)頃贄川に関所を設け四男家光に守らしむ。

 贄川関所は木曽谷の北関門として軍事的にも重要な役割を果たす。

 慶長十九年(1614)大坂冬の陣の際は山村良安の家臣原彦左衛門、荻原九太夫此の関の警備に当る。

 元和元年(1615)五月大坂夏の陣の際は荻原九太夫、千村大炊左衛門、小川源兵衛此の関を守り酒井左衛門尉の家臣八人の逃亡者を捕らえる。

 江戸時代は木曽代官山村氏が臣下をして贄川関を守らしめ特に婦女の通行並に白木の搬出を厳検せり。

〔贄川関所考古館〕

 贄川関所は明治二年福島関所とともに閉止され原型は残っていないが、明治九年贄川村誌の「古関図」や寛文年間のももの「関所番所配置図」により現在の位置に復元したものであります。また木曽考古館は村内簗場(やなば)遺跡等で出土した土器石器類を展示してあります。


【贄川宿】 日本橋から62里27町(246.4Km)、京へ73里7町 (287.5Km)

 天保14年(1843)で人口545名、総家数124軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋25軒。  

 贄川宿は木曽路に入って最初の宿場。中山道の中では小さな宿場町だが、宿場の北端に福島関所の副関にあたる贄川関所が置かれ、檜物や曲物、漆器を生産する平沢・奈良井が近かったことより、商業も活発だった。

木曽街道六拾九次之内 贄川 (広重)  

本山宿の南外れで宿場方向を描いている。

深澤家住宅
 


 関所跡前の道を真っ直ぐ行くと、すぐ先右に「観音寺」と「麻衣廼神社」の説明板があり、その脇道を入って行くとJRの踏切と国道を渡った所に「観音寺」があり、その後ろに「麻衣廼神社」がある。そばまで行かず踏切の手前から眺めただけにした。

【観音寺】 (右奥) 

 高野山金剛峰寺を本山とする真言宗の寺院で、本尊は十一面観音。山門は寛政四年(1792)に再建された楼門で、楢川村有形文化財に指定(昭和60年)。

麻衣廼(あさぎぬの)神社 (更に奥) 

 天慶年間(938〜947)に創立。天正十年(1582)に戦火により焼失し、文禄年間(1592〜96)に現在の地に再建したと伝わる。祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)で、毎春の祭りに加え、六年ごとの寅年と申年に御柱祭を行う。


【深澤家住宅】  国重要文化財(平成17年7月指定) (左側) 

 右上の写真参照。右側「まるはち漆器店」のすぐ先にある。

 屋号を「加納屋」と称し、行商を家業として成功した商家の住宅。主屋は、嘉永七年(1854)の建築で切妻造り。二重の出梁や吹き抜けの大黒柱など、木曽地方の代表的な建物として価値が高いといわれている。


【押込一里塚跡】 市史跡 14:25

 私たちは、深澤家を見てから右に入るのを忘れてしまい、そのまま真直ぐ一里塚まで新道を行ってしまい、国道沿いにある「贄川の栃の 巨木」は見逃してしまった。

 旧中山道は、「ひのきや 漆器店」 で右へ入り、JRの跨線橋を渡って一旦国道に出る。そのまま少し国道を歩き、カネメカ漆器工房の所で左折して一本左の歩行者用の道を行く。

 まもなく「押込一里塚跡」の木柱が右 側に見えてくる。本来の一里塚跡は木柱のみだが、新道側に復元された一里塚がある。 


『後日追加】 2007年6月2日

【贄川のトチ】 長野県天然記念物(昭和44年7月指定) (右奥)

 上記で述べた通り、「贄川のトチ」を見逃してしまった為、2007年6月2日に「奈良井・藪原宿」を訪れた時、車での帰宅途中に寄ることができたので追加として載せる。

 場所は、JRの跨線橋を渡って国道に出たところから少し行った右側で、入口に看板と数台の駐車スペースがある。国道19号沿いで、JR贄川駅から1Kmほど名古屋よりの山裾にそびえている。

 国道からも巨木は見えるが、民家の前を通り傍まで行くと、その大さに圧倒されること請け合いである。

 トチは、トチノキ科トチノキ属でヨーロッパ・北米・東南アジア等に約二十四種が知られているが、日本ではただ一種の落葉高木である。

 北海道から九州北部まで広く分布し、山野に自生する。特に東北地方に多いが、本県においても古来夏緑広葉樹の代表である。また実は、あくぬきをして「トチモチ」を作ることでも知られる。

 この樹は、樹令約千年と推定され根元の周囲が10m以上もあり、コブの上(約1m上)では、8.6mの巨木であり、県内に現存するトチの木として最大のものである。

 また、コブの上約3mから太枝が分かれ、さらに五本に分岐して茂り、枝張りも、樹姿、樹幹の美しさにおいても県下一のものであろう。

 地元では、樹木の下にまつられる小祠(ウエンジン様)にちなみ、「ウエンジンサマのトチの木」と呼び昔から大切にしているものである。

 (長野県教育委員会)

 樹高33m・根元周囲17.6mの巨木。元文五年(1740)の書物にすでに大樹として記述されている。


【道の駅・木曽ならかわ】 14:50〜15:10

 「押込一里塚跡」で国道に合流し、奈良井川を渡る。歩道橋のたもとに「↑平沢2.5Km」と書かれた、環境庁と長野県が建てた「中部北陸自然歩道」の標柱がある。また、橋を渡った所に「道の駅木曽ならかわ1.5Km]の道標もある。

 橋を渡りJRのガードを潜った先を左の道へ行き、長沢集落に入る。国道に合流する手前の道で、線路を横切り山に登って行くサルの群れを再び見つけた。

 国道に合流したら右手コンビニ(セブンイレブン)の所で「道の駅」の標識に従って右折するとすぐ 「道の駅・木曽ならかわ」がある。

 漆塗りで作られた長野オリンピックの金・銀・銅メダルが間近で見られたのには感激。このあたりの名物「さるなしのジャム」を購入。


【芭蕉句碑】 (左側) 

 塩尻市楢川支所(右手は「お塗屋・吉久屋」)を左に入る。入った所に句碑がある。

 貞享五年(1688)に芭蕉が木曽を訪れたときに詠んだと言われる。

   送られつをくりつ果ては木曽の秋 


【諏訪神社】  本殿は市有形文化財 (左側) 15:20 

 芭蕉の句碑から更に奥に入り、右の細い山道をのぼると神社に出る。登り口に「中部北陸自然歩道」の標柱あり。

 その途中に「市史跡・中山道石垣」が残っている。

 境内に上がると小さいが御柱が4本立っている(上の写真には右側に2本見える)。

 木曽で御柱祭が行われるのはここ「諏訪神社」と前に紹介した「麻衣廼神社」だけである。

【由緒】

 当社は信濃一の宮諏訪大社に鎮座の建御名方命を主神に火の神軻過突智命を相殿として祀る古社で其の創立は文武天皇大宝二年四月高根伊勢守道基が当村地籍旭日ノ嶺に建立平城天皇大同二年信濃の凶族が有明山の嶮に拠りて王命を拒んだ 帝は田村将軍を遣はしてこれを征伐させた時将軍は此の明神の擁護に依り賊共を平定することができた 将軍は明神の神威に感じ今の地に遷座し多くの民衆の参詣を便にし神林を付して神供に当てた 冶承年間木曽義仲の祈願所となり降って天正十年木曽義昌は武田勝頼と鳥居峠に於いて戦った同年二月六日武田軍は当社に屯していたが軍敗れるに及んで社殿に放火して退却其の後五十有余年の久しき間仮社殿に在ったが寛永十四年に再建成り現在に至っている又当地は古く慶長の頃より漆塗る郷として栄え現在国の伝統工芸産業に指定されるに及べる如く本殿は朱と黒の漆塗装が成されてあることも丁度その頃である 近年富に盛んになった漆器産業も昔の先人に元つ自分達の郷土から漆の郷の栄え又後生に受継ぎ伝えたいとした祈りと願いがある  

 写真の奥にある本殿右の階段を降りると間もなく木曽漆器の街・平沢に入って行く。


【平沢の町並み】 

 町全体が漆器の店ばかりで、壮観である。中程木曽平沢駅(左奥)入口右手に「木曽漆器資料館」がある。

 ほとんどの建物が本山宿の「川口屋」と同じように斜交に建っており、家の前の三角地に車を止めていた。

〔木曽漆器の街 平沢〕

 平沢は、贄川宿と奈良井宿の中間にある間の宿で、江戸時代から奈良井宿とともに木工品や漆器の産地として発展してきました。特に漆器製造では奈良井よりも盛んになり、現在では村の基幹産業となっています。平沢の町並みには、漆器関連の店舗が数十軒以上も軒を連ねています。



 18回目の旅終了(15:40) 木曽平沢駅入口。15:51発の電車で洗馬駅に戻り車で帰宅。

 

 本日の記録 : 街道のみの距離は、15.1Km(洗馬宿・万福寺〜木曽平沢駅入口)

          日本橋から六十四里五町(251.9Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、17.7Km(洗馬駅〜木曽平沢駅) 累計:308.2Km

          5時間50分 28,100歩。

 

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