奥の細道(5)殺生石・芦野・白川関・須賀川(前半)

 

2013年11月14日(木) 晴

  「りんどう湖ロイヤルホテル」を8:20に出発し、昨日残した「高福寺」に戻り、ここから須賀川宿まで自家用車で巡る。

(注:解説で街道の左側、右側とは大垣に向っての左右です)

「那須野・黒羽」 ← 「目次」 → 「須賀川(後半)


【高福寺】 (右側)
 高久家の菩提寺である高福寺は、街道入口から立派な杉並木の参道が続く奥にある。
 山門は工事中であった為、門前の広い駐車場を右側へ回って境内に入った。

 山門を抜けたすぐ前の生垣に、石燈籠と共に芭蕉と曾良の句碑が建ち、その先に本堂がある。
 大正二年(1913)六月建立の句碑には、
   
高久村庄屋の家にやりとりて
     
落ちくるたかくの宿の時鳥   翁
      
木の間をのぞく短夜の雨  曾良
と刻まれている。

 本堂前右側に弘法大師の像が建ち、その横の岩に下記説明板が、大師像の手前に石柱と鎖に囲われた弘法の腰掛石がある(下の写真参照)

 高福寺は、寛政元年、宥心和尚によって開山されたと伝えられ、那須郡誌には『先年焼失した』とあるが、明治二十年十二月二十八日、本郷集落大火により焼け落ちた。
 また、宗派としては、昭和二十一年、真言宗智山派より高野山真言宗へ転派した。

那須郡誌より抜粋
「・・・大字高久に高野山高福寺を称する真言宗の一寺院あり。金田村大字小滝妙徳寺の末寺にして、草創の因を空海の巡錫に有すと伝え、同寺境内に空海の腰掛け石と称するもの存す。
 又同寺の東を流下する川を高野川と云い、寺域付近に當れる同川の一区に限りて、弘法の絵書石とて、模様を描けるが如き石を出し、此の近傍に弘法水と称える名泉あり。何れも空海に関係ある名称なるを以て、里人は空海の巡錫を証するに足ると説けども、高福寺は先年焼失して古文書を滅せざれば、之を確むること能わず。
 由来各地に清泉を弘法水を名くるは、概ね水の清きを賞賛しての命名に過ぎずと知るべし。
 而して高野川及び高野山の山号は真言宗の寺院を建立せるが為に、祖師に因みて命ずるものにして、空海巡錫の証とは見るべからず。・・・」

空海の腰掛石
 この腰掛け石、昭和五十年代以前は、藤棚付近に位置していた。
弘法水
 境内南方の池に流れ込む清水で、現在の水源は駐車場の真下に位置している。
弘法の絵書石
 高野川に、空海が描いた絵描き石があったのが確認されている。しかし、昭和五十二年の水害の後、河川工事が行われ、残念ながら絵描き石も失われた。


【芭蕉二宿の地】 (右側)
 高福寺を出て、「那須温泉郷」へ向って少し進んだ右側、民家の生垣の前に芭蕉二宿の地と刻まれた石柱が建ち、右側の門柱には問屋と書かれた表札がはめ込まれていた。ここが高久家で、解説は隣の芭蕉翁塚の入口の説明板に載っている。現在の高久家は、ごく普通の平屋建て民家だった。
 
黒羽で二週間に及ぶ滞在を終えた芭蕉一行は、四月十六日(新暦六月三日)殺生石を見学する為、那須に向った。那須の高久に着いた時に雨が降り出し、浄法寺桃雪に紹介された名主の高久覚左衛門方へ泊ったが、翌日も雨だった為、ここに二泊した。
 高久家の隣に芭蕉翁塚があり、街道沿いの登り口に標柱と説明板が立っている。
 真中の写真の入口から林の中へ少し登ると、下の写真の碑が建っている。碑の正面には『芭蕉庵桃青君碑』と刻まれている。


高久家
 ここ本郷の地は、江戸時代には黒羽藩領として高久組(現在の大字高久甲・乙・丙の地域)の支配下に置かれ、名主の管理するところであった。正保二年(1645)、原街道が開設されると、本郷には問屋が置かれ、馬子が駄賃稼ぎのため運送に従事した。これを附子という。
 元禄二年(1689)四月十六日には、俳聖松尾芭蕉がおくのほそ道の途次、この地を訪れた。門人の曾良と共に、大田原市(旧黒羽余瀬)を出発し、ここ高久に来て名主覚左衛門方に泊った。翌十七日も雨のために留まり、十八日、那須の殺生石を見ようと松子を経て湯本へ向った。
 
この来歴を記念して、芭蕉の没後六十一年を経た宝暦四年(1754)八月、覚左衛門の孫、青楓が嵩雲桂文と書で「芭蕉庵桃青君碑」を建てた。その時に俳句を埋めたので「杜鵑の墓」とも称される。
 この碑の左側面には「落ちくるやたかくの宿の郭公 風羅坊(芭蕉)」の句と、曾良の「木の間をのぞく 短夜の雨」の句が刻まれている。
 高久家は、戦国期には那須家に属し、「原の七人」の一人として知られ、江戸期に入り黒羽藩より名主職を命じられた。現在の大字高久と湯本を把ね、温泉神社の神職を勤めた旧家である。原街道の開設とともに会津藩から問屋職に任じられ、廻米輸送に携った。「芭蕉懐紙」や「写本曾良日記」を所蔵し、文学史上でも知られた家である。
 また、幕末の元治元年(1864)十一月には、水戸天狗党が西上を目指して宿泊するなど歴史の表舞台に登場してくる。
 明治に入ると、日本の近代化と共に原街道は陸羽街道、国道六号、国道四号と名称を変え主要幹線道路へと生まれ変わった。明治四十二年(1909)十一月、那須野の陸軍大演習が那珂川をはさんで挙行された。このとき明治天皇は愛宕山にてこの大演習を統監された。これを記念し、大正四年(1915)には公園として整備され、昭和九年(1934)に聖蹟に指定された。以後高久愛宕山公園として親しまれ、現在に至っている。

芭蕉翁塚入口

芭蕉庵桃青君碑
『芭蕉庵桃青君碑』碑文
(右側面) (表面)
 共に漢文(一部不明箇所を含んでいる)である為、略す
(左側面)
 みちのく一見桑門同行二人那須の篠原を尋ねて猶殺生石見んと急き侍る程に雨降り出ければ先づ此處にととまり侍り候
    落ちくるや高久の宿の郭公   風羅坊
        木の間を覗く短夜の雨   曾  良

 これは、昭和三十四年(1959)九月に福島県白河市の岩越二郎先生が採拓し、作成したものである。これまで風化し読み取れなかった文字を前記のように読み下した。碑は芦野石で、風化が激しく判読できない文字も一部あるが、これに碑文の大要をつかむことができるであろう。
 右側面には、芭蕉生い立ちや人柄、元禄二年に曾良と高久覚左衛門宅に投宿したこと等が記され、裏面には芭蕉没年、埋葬地等が記されている。
     那須町教育委員会




『芭蕉懐紙』
 
前半は、上記(左側面)と同じ文章
 元禄二年(1689)四月十六日、松尾芭蕉と門弟曾良がおくのほそ道の途次、高久へ来て名主覚左衛門方に泊った際に書き与えた、高久家に伝わる懐紙である。

【温泉(ゆぜん)神社】 
 高久家から県道303号線を少し進んだ、やや右カーブした所で左折。その後2回ほど右方向に行くと県道17号線のバイパスに出て、その先東北自動車道「那須IC」前を通る。
 程なく那須街道(県道17号線)に合流し、ここから温泉神社入口迄11.5Kmの上り道をひたすら進む。
 途中、9Km程進んだ所で「芦野」への分かれ道となる「一軒茶屋南信号」を通過する
 やがて「那須湯本温泉街」に入り、「湯本バス停」前で温泉神社の入口に到着。
 一の鳥居、二の鳥居をくぐると、左上に「愛宕神社」、右手に「見立神社」がある。
 その先、石段を上ると三の鳥居があり、傍らに『奉献 那須余一宗隆 文治弐年(1186年)』の案内が立っていた。
 三の鳥居をくぐった右側に『生きる』と命名されている御神木のミズナラが力強く生えていた。

【御神木『生きる』】
 
このミズナラは悠久の時を経て直、樹勢旺盛にして力強く『生きる』と命名されております。
 活力、蘇生力、生命力等のパワーが授けられる巨木として崇められております。
   和   名  ミズナラ(ブナ科落葉樹)
   樹   齢  推定八百年
   樹   高  十八メートル
   胸高周囲  四メートル


 更に石段を上った左側(本殿の直前)に、大きな岩に乗っている芭蕉の句碑が建っている。句が擦れて読みづらくなっていると聞いていたが、今は、句に白ペンキが入れられ、読みやすくなっていた。

【芭蕉の句碑】
 元禄二年四月(1689年)芭蕉は奥の細道をたどる途中殺生石見物を思い立ち、まず温泉神社に参拝した。
 その時、同行の門人曾良の日記には温泉大明神の相殿に八幡宮を移し奉る両神一方に拝させ玉ふを、翁
湯をむすぶ誓いも同じ岩清水
 この句碑は徳川氏の奥八城太郎弘賢の書である。


 句碑から最後の石段を登ると本殿が建っている。
 本殿の右手には昭和天皇お手植えの松、同御歌碑が建っている。

【延喜式内 温泉神社】
創立
 第三十四代舒明天皇の御代(630年)狩野三郎行広、矢傷の白鹿を追って山中に迷い込み神の御教により温泉を発見し神社を創建、温泉の神を祀り崇敬の誠を尽くした。狩野三郎行広は後年那須温泉開発の祖として見立祭神として祀られる。
由緒
 正倉院文書延喜式神明帳記載(九二七年)によると温泉名を冠する神社は十社を数える。上代より当温泉神社の霊験は国内に名高く聖武天皇の天平十年(七三八年)には都より貴人が那須に湯治に下った事が載せられている。従って神位次第に高まり清和貞観十一年(864年)には従四位勲五等が贈られている。
 文治元年(1185年)那須余一宗隆、源平合戦屋島の戦に温泉神社を祈願し見事扇の的を射、名声を轟かせ後一門を挙げて厚く崇敬した。
 建久四年(1193年)源頼朝那須野原巻狩の折小山朝政の射止めし九岐大鹿角を奉納。
 元禄二年(1689年)俳人松尾芭蕉「奥の細道」をたどる途中温泉神社に参詣、那須余一奉納の鏑矢等宝物の拝観、殺生石見物等が曾良の随行日記に載せられている。
 大正十二年(1921年)摂政宮殿下(昭和天皇)の行啓を仰ぎ那須五葉松のお手植えを頂く。大正十一年(1920年)久邇宮良子女王殿下御参拝、那須五葉松のお手植えを頂く。

【殺生石】
 温泉神社本殿の右手前に手水舎があり、その横から遊歩道を下に降りてゆくと殺生石へ行ける。

 遊歩道から下を見ると、賽の河原の様な場所に駐車場からの木道が続き、その途中に無数の地蔵が並んでいた。また、前方の山肌の一部に草木の生えていない箇所が殺生石のある場所である。
  

 下りきる手前左側に『飛ぶものは雲ばかりなり石の上 芭蕉』と刻まれている句碑が建っているが、これは芭蕉の句ではない。建ててから間違えに気付いて芭蕉の文字部分をセメントらしきもので塗りつぶしたらしいが、剥がれたのか今ははっきり読める
 実際の芭蕉の句碑は殺生石の右手に建っている。
  

 下り切ると、柵に仕切られた中に『史跡 殺生石』と書かれた標柱が立ち、その後に注連縄が巻かれた大きな石が鎮座している。これが殺生石である。
 柵の手前には『立入り禁止 硫化水素ガスが発生していますので、非常に危険ですから、柵の中には絶対に入らないで下さい。栃木県・那須町』と書かれた看板が立っていた。事実、柵の中には硫化水素ガスが結晶化した硫黄の黄色が見られる。



【殺生石の由来】
 昔、中国やインドで美しい女性に化けて悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が今から800年程前日本に渡来しました。九尾の狐は、「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え、日本国を亡ぼそうとしていました。
 しかし、陰陽師阿部泰成に正体を見破られると、九尾の狐は那須野が原まで逃げてきました。ここでも九尾の狐は悪さを繰り返していたので、朝廷は三浦介、上総介の両名に命じ遂に九尾の狐を退治しました。
 すると、九尾の狐の姿は毒石になり毒気を放ち始め、近づく人や獣を殺し続けました。
 これを伝え聞いた泉渓寺の源翁和尚が毒石に向って大乗経をあげ続けると、一筋の白煙とともに玉藻の前の姿が現れ、石は三つに割れて飛び去り、一つがここに残りました。
 それ以来、人々はその石を殺生石と呼ぶようになり、今に伝えられています。
     那須町


 殺生石から右へやや下った所に『殺生石~展望台遊歩道 2.5K』の道標が立つ石畳の山道があり、その上り口に芭蕉の句碑が建っている。

 『奥の細道』には、
  殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど、かさなり死す。
と書かれているだけで、句は無いが、曾良の随行日記に芭蕉の句が載っている。
 
石の香や夏草赤く露あつし

 この句が、左の写真の句碑に刻まれている。

【松尾芭蕉宿泊地】 
 車に戻って、「那須湯本温泉街」の裏道(「湯川」の左岸)を戻る。
因みに、川の右岸・左岸とは、川の流れる方向(下流)に向って右側(右岸)・左側(左岸)をいう。温泉神社は右岸にあたる。
 県道17号から別れて旅館街を南下し、「湯川」を渡る橋の手前の「元湯ふれあいの館長寿館」の石垣の上に松尾芭蕉宿泊地の説明板が掲げられている。

【松尾芭蕉宿泊地】
 松尾芭蕉(46歳)が、弟子の河合曾良を伴い「奥の細道」の途中、元禄2年(西暦1689年)6月4日高久の里より湯本へ向い、湯本の五左衛門方に2泊ほどしましたが、この地が宿泊地です。
  湯を結ぶ 誓いも同じ 石清水   芭蕉
     那須町商工会湯本支部

 「那須湯本温泉街」を後に、那須街道(県道17号線)を「一軒茶屋前南信号」迄戻り、二又に分かれている道を左へ行く。ここから『奥の細道』は県道21号線を進む。
 「東北自動車道」を越えた先で「余笹川」を渡る手前から県道28号線になり、程なく「黒田原駅」の踏切を渡る。渡ったら左に曲がり、駅の方へ向って3本目の道を右折する。
 次いで大通りの信号を渡ってすぐの突き当たりを左折する。ここから県道28号線になる。
 道なりに28号線を進み、「芦野駐在所前交差点」で国道294号線と交差する。そのまま直進すれば「芦野郵便局」前で奥州道中に合流する。
 ここから白坂宿迄は、当HPの「旧奥州街道第6回目【芦野宿】」を参照して頂くことになるが、その時に寄っていなかった館山城址芦野氏旧墳墓建中寺を訪問する。

 四月二十日、那須湯本を発った芭蕉一行は、五里全てが山道で難儀したと言い、芦野に着いた。
 芦野では、敬慕する西行ゆかりの地、遊行柳を訪れている。 (※遊行柳は「旧奥州街道6回目」参照)
 ここで詠まれた句が、
     
田一枚植て立去る柳かな


【館山城址】
 「芦野駐在所前交差点」で右折して国道294号線を1Km南下すると、芦野市街からの道が左から合流してくる三角地に出る。
 この三角地に館山城址の説明板が立っていて、城址は294号線の左手の崖が見える上になる。但し、登り口は通行止めになっていた。

館山城址】
 「館
(やかた)」は「たち」とも「たて」ともいい、国司・郡司などの官舎を意味し、多くは土塁や堀を巡らした城塞をなした地方豪族の居所(いどころ)をいう。館山の地名は、現在の千葉県にある里見氏の居館跡や那須余一誕生の地と伝えられている「高館城」が知られている。
 芦野氏第2の城館である「館山城」は、切り立つ岩山の丘陵地形を利用した要塞で、前館、中館、後館に区分され、東側を流れる菖蒲川を天然の堀として極めて堅固な山城である。山頂や山腹には土塁や廓跡の遺構がわずかに残っている。
 芦野の地は奥州との境に位置し、室町時代には北に白河結城氏、東に佐竹氏、南に宇都宮氏と対峙し、抗争を繰り返した。この城の築城は応永年間(1394~1428)と伝えられている。この時期は、個人戦法から集団戦法への変化に伴い、武士の居館が平城(芦野氏居館)から山城へと移行し、戦略的な変革時期でもある。
 その後、狭隘な地形と飲料水などの条件から、戦国時代の天文年間(1550年頃)に、東方にある御殿山(芦野城)を築城し、移転したと伝えられている。この間(約150年間)、芦野氏はこの地を拠点に那須氏の一翼として活躍したのである。
 江戸時代以降、廃城となった館山城は、芦野石の石切場となり、その面影をしのばせている。ここに芦野八景の一つ「八畳岩」があったが、芦野小学校建設の時にその礎石として利用され現在はない。
 芦野石は国道294号線沿いの地域で産出される地場産品である。準硬石で加工がしやすく石塔・墓地外柵・倉庫・石垣・石塀・門柱などに使用され、現在は、公園・広場の敷石にも幅広く利用されている。
     芦野地区地域づくり委員会・那須町

【芦野氏旧墳墓】
 三角地の向い、芦野市街へ向う道の右側に芦野氏旧墳墓入口がある。墳墓は竹林の間を少し上った所に五輪塔等が点在していた。
 下の写真では3基しか写っていないが、この他にも色々な形の墳墓が点在している。

【芦野氏旧墳墓】 那須町史跡(昭和36年10月1日指定)
 大字芦野字若林にあり、上野町と唐木町の中間、三王平と呼ばれる所の東方、山林中腹にある。
 伝承によると、芦野氏の祖、余一宋隆七世の孫、加賀守資忠の三男・資方より資泰に至る十八代の墓域といわれている。
 銘文のあるものは、寛永十九年塔(1642、白露院殿塔)、正保三年塔(1646、資泰塔自然石)、同年五輪塔(月皎院殿塔)、延宝三年塔(1675、晶寿院塔、資俊母)などである。このほか五輪塔四基が点在する。
 新町建中寺の墓域が十九代資俊からのものであるのに対し、旧墳墓という。
 本墓の頃の菩提寺は最勝院であったが、その後、建中寺へ移った。
 芦野氏居館跡、館山城、芦野城への変遷の中、墓域も移ったものと思われる。
     那須町教育委員会 

【建中寺】 (右側)
 芦野氏旧墳墓前から、旧道を芦野市街に向う。
 途中、当HPの『旧奥州街道6回目』で訪れた「芦野氏陣屋裏門」、「三光寺」、「丁字屋」、「石の美術館」前を通り、右・左へと枡形を曲がった先、右側に建中寺がある。

 『芦野氏新墳墓』があるこの寺には、奥州街道を歩いた時に訪れていなかったので今回訪問した。
 街道からは高いところにある寺なので石段を登って行く。山門をくぐると正面に本堂が建っている。
 芦野氏新墳墓へは、本堂の前を右奥に進み、突き当りの石垣を右に回り込むと行ける。ここにはびっくりするほど沢山の墓石が建っている
(下の写真・この右手にも多数の墓石が並んでいる)
 中腹にある駐車場へ帰る途中の下り坂から遊行柳が良く見えた。

【芦野氏の新墳墓】 那須町指定文化財(昭和37年10月15日指定)
 
本墓は、室町時代の初期に那須氏から芦野氏に入った資方(資宗(すけむね)ともいう)から数えて19代民部資俊から、江戸時代末期の27代資原まで9代の墓域となっています。
 資俊が元禄5年(1692)6月、56歳で芦野で没して、建中寺に葬られてより、資原死去の安政4年(1857)4月までの165年間にわたり、当主9基の墓碑と夫人・子女等の22基の碑塔が建てられています。資俊は、領地芦野で没し建中寺に埋葬されました。20代資親以後の領主は全て江戸駒込の惣禅寺に葬られています。

【那須町のできごと】
1689 松尾芭蕉「おくのほそ道」の旅の途中、高久・湯本・芦野を通る。のちに各地に「句碑」が建てられる。
1692 「芦野氏神墳墓」(芦野資俊より)つくる。・・・・・芦野・建中寺
1733 このころ「三森家住宅」建てられる。・・・・・伊王野
1754 「芭蕉翁塚」(芭蕉庵桃青君之碑)建てる。・・・・・高久甲
1786 大沢「天稲荷社社殿」出来る。・・・・・高久丙
1848 戸村忠恕による「論農の碑」(板屋)「ベコ石の碑」(峰岸)建てられる。  (※「旧奥州街道6回目」参照
1852 「人見本曾良日記」筆写される。・・・・・湯本
1866 黒羽藩、農兵隊編成する。・・・・・「峰岸館」・「寺子館」・「松子館」など。
1868 戊辰戦争により町内各地戦場となる。



 上記旧跡等、芦野宿から白坂宿入口までは奥州道中と重なる為、旧奥州街道6回目を参照して下さい。


【白河関跡】 (右側)
 芦野で遊行柳を見た芭蕉一行は、奥州道中を北上し、下野国(栃木県)と奥羽国(福島県)の国境にある境の明神に着く。
 曾良の随行日記には、関明神と書かれているが、今は県境を挟んで境の明神と呼ばれる二つの神社が鎮座している。当時、この辺りに関所はないはずなのに、何故曾良は関明神と書いたのか?
 福島県側の境明神には、安永六年建立の芭蕉の句碑が建っている。 
(※ 境の明神は『旧奥州街道6回目』参照)

 「境の明神」が建っている所から関東を脱し東北の福島県に入る。
 明神様をお参りした後、白坂宿の入口まで緩い坂を下って行く。

 下りきって民家が現れた所の左側に戊辰戦役旧大垣藩士酒井元之丞戦死之跡と刻まれた石碑と説明文が立っている。
 『奥の細道』は、この碑のすぐ手前を右に曲がる。
 山間の静かな道で、ここから要所に「おくのほそ道」の道標(下の写真)が立っているので迷うことなく白河関跡にたどり着ける。
  

<曾良の随行日記>
 関明神、関東の方に一社、奥州の方に一社、間廿間有り。両方の門前に茶屋有。小坂なり。これより白坂へ十町程有。古関を尋ねて白坂の町の入口より右に切れて旗宿へ行く。廿日の晩泊る。

 
廿一日。霧雨降る。辰上刻(午前7時半ごろ)止。宿を出る。町より西の方に住吉・玉嶋を一所に奉祝宮有。古関の明神故に二所の関の名有の由、宿の主申に依って参詣。それより戻りて関山へ参詣。
 白河関は、七世紀半ばに設けられ、奥州三関(白河関・勿来関・鼠ケ関)の一つに数えられていたが、いつ頃か廃関となり、関屋(関所の建物)がしばらく残っていたと云うが、芭蕉一行がこの地を訪れた時には、昔の面影を残すものは何も無かった。現在ある関跡は芭蕉から100年以上後の江戸後期に、時の白河藩主松平定信が断定したもので、寛政十二年(1800)に古関跡の碑を建てている
 芭蕉が白河関を訪れたかったのは、ここが枕歌(古歌に詠みこまれた諸国の名所)として数多くの和歌に登場し、西行も詠んでいるからであろう。『奥の細道』は枕歌を訪ねる旅という一面もあるという説からもうなずける。
 芭蕉一行が参詣した『二所の関』と云われる明神は、現在の『白河関跡』辺りらしく、それでは旗宿の西ではなく南になる?
 結局芭蕉は、確たる関跡が見つからずに心が晴れないまま、旗宿の北に位置する関山が古関とする伝承を手がかりに関山に登った。と云う説と、ここでは句を詠まないほど感激した地であると云う説がある(芭蕉は松島等、大感激した地では句を詠んでいないことから)。

<白河の関は、旧奥州街道7回目で訪れているが、その時と同じ文をここに載せておく>

 関跡に隣接して「白河関の森公園」がある。この公園には芭蕉と曽良の銅像が建ち、台座には二人の句が刻まれていた。レストランや物産センターもある。

 入口の鳥居をくぐって山道を上って行くと、途中に「矢立の松」、「古歌碑」が建ち、奥に「白河神社」が建っている。神社の右から戻る途中の細道では、「空掘・土塁跡」、 「奥の細道・曽良の日記碑」、「従二位の杉」、「旗立の桜」、「幌掛の楓」等が見られる。

【白河関跡】 国指定史跡(昭和41年9月12日指定)

 白河関は、古来よりみちのくの関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では歌枕として数多くの国家古歌に詠まれた場所である。
 関の位置については久しく不明であったが、江戸時代後期、時の白河藩主松平定信の考証により、この地が白河関跡であると断定され、寛政十二年(1800)に「古関跡」の碑が建てられ、今日に至っている。
 関が置かれた年代については不明であるが、延暦十八年(799)、承和ニ年(835)の太政官符には「白河剗」の名が認められることや歴史的な背景からみて、大化の改新以後の七・八世紀頃には存在していたものと考えられる。
 昭和三十四年から三十八年までに実施された発掘調査では、竪穴住居跡や掘立柱建物跡、空掘、土塁、棚列などの古代から中世にいたる遺構が発見され、縄文土器、土師器・須惠器・灰釉器、鉄製品などの古代から中世に至る遺物が出土している。出土した土師器の中には、 「門、大室、□舟」などの墨書土器がみられる。
 白河関の全体像についてはまた未解明な点もあるが、現在も奥州三関の一つとして多くの人々に親しまれ、歴史のひとこまに触れることができる場となっている。
 また、春には藤やかたくりの花が咲き、訪れる人々の心を和ませている。
     文部科学省 白河市教育委員会
【古関蹟(こかんせき)の碑】 (左の写真)

 白河藩主松平定信(樂翁)が寛政十二年(1800)年八月、ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。


【矢立の松】

 治承四年(1180)、源義経が平家追討のため平泉を発し、この社前に戦勝を祈願、この松に矢を射立てたと伝えられる。現在は、少量の根株を残すのみである。


【古歌碑(平兼盛、能因法師、梶原景季)】

 「白河関」に題材をとる平安時代の和歌三首を歌碑としたものである。

平兼盛(?~990)

  「便りあらば いかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと」(『拾遺和歌集』)

 三十六歌仙の一人、平兼盛が奥州に下り歌枕白河関を越えた感激を都の知人にどうやって知らせようかと詠んでいる。

能因法師(988~?)

  「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関」(『後拾遺和歌集』)

 風狂数奇の歌人、能因法師が奥州に旅した際、白河関で詠んだ歌。都と白河関の距離・時間を詠みこんだ著名な歌である。

梶原景季(1162~1200)

  「秋風に 草木の露をはらわせて 君が越ゆれば関守もなし」(『吾妻鏡』)

 源頼朝(1149~99)が、文治五年(1189)七月二十九日、奥州平泉の藤原氏を攻める途上、側近の梶原景季が、白河関の社殿で詠んだものである。


【白河神社・由緒】

 第十三代成務天皇五年(135)白河国造命と天太玉命を奉祀し、勅命により鎮座、のち白河の関設置に当り、関所南北に住吉・玉津島明神を祀る。延暦十年(792)永承七年(1053)平兼盛、源頼義・義家等が稲田を奉献し、寿永三年(1184)三月九日源義家、文治五年(1189)源頼朝等が金弊を奉献、元和元年(1615)伊達政宗公社殿を改築奉納(本殿の棟紋に九曜星、縦三引きの紋あり)、享和元年(1801)に白河城主松平定信公が神庫を奉納。奥の細道曽良日記にも記された二所の関明神として、現在国技である大相撲二所の関部屋の発祥地、八月に二所の関古式相撲が嵐祭りとして奉納される。

 白河の関を境内とし、境内は昭和四十一年九月十二日付けで文化庁より国指定史跡「白河関跡」に指定された。


【空掘跡】

 空堀は、敵の侵入を防ぐため、曲輪に沿って掘られた防御施設である。


【奥の細道 白河の関】

 心許なき日かず重るまゝに白河の関にかゝりて旅心定まりぬいかで都へと便求めしも理也中にも此関は三関の一にして風騒の人心をとゞむ秋風を耳に残し紅葉を俤にして青葉の梢猶あはれ也卯の花の白妙に茨の花の咲そひて雪にもこゆる心地ぞする古人冠を正し衣裳を改し事など清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ

  卯の花をかざしに関の晴着かな

                   曽良

                  楸邨書


【従二位の杉】

 鎌倉前期の歌人、従二位藤原宮内卿家隆が手植し、奉納したと伝えられる老木である。

 推定樹齢約八百年、周囲約五メートル。


【幌掛の楓】

 源義家が安倍貞任攻め(前九年の役)のため白河関を通過する時、この楓に幌をかけて休息したと伝えられる。


【芭蕉句碑】 (右側)
 白河関跡の前の道路(県道76号線)を北に少し進んだ左側に供養塔群が並び、その向い側の一段高い所に芭蕉の句碑が建っている。

 逆光で暗く写ってしまったが、碑には、
   
西か東か 先早苗にも 風の音  芭蕉
と刻まれている。

【庄司戻しの桜】 (左側)
 芭蕉の句碑から少し進んだ「旗宿健康増進センター」の先、旗宿の北の外れに『霊櫻之碑
(れいおうのひ)』と刻まれた碑と三本の桜が植わっている庄司戻しの桜と呼ばれている史跡がある。

【庄司戻しの桜(霊桜碑)】 白河市指定史跡(昭和55年3月14日指定)
 治承四年(1180)、源頼朝の挙兵を知り奥州平泉から鎌倉に馳せる源義経に対し、信夫の庄司佐藤基治は自子継信・忠信を従わせ、決別するにあたり「汝等忠義の士たらばこの桜の杖が生づくであろう。」と論して携えていた一本の桜の杖をこの地に突き立てた。この後、戦いに臨み兄弟共に勇戦し、義経の身代わりとなって討死した。
 桜はその忠節に感じて活着し繁茂したという。後の天保年間(1830~44)野火によって焼失した後も、新しい芽が次々と出て、美しい花を咲かせるという。
     白河市教育委員会

【磨崖三十三観音】 (左側)
 庄司戻しの桜直ぐ先で二又道になり県道76号線は左に分かれるが、『奥の細道』は右へ進む。ここから県道260号線になる。
 二又道から1.2Km程進むと大きく右カーブした右側に「古関郵便局」があり、その前を左折して「柳橋」を渡る。
 道なりに進み、県道388号線を渡る。右カーブした先左側の杉林の前に磨崖三十三観音の説明板が立っていて、林の中の磨崖仏が見られる。

【磨崖三十三観音及び阿弥陀三尊来迎像 市指定史跡(昭和55年3月14日指定)
  所在地 白河市表郷番沢字太平一
  概説
 ここにある磨崖三十三観音は、自然石の岩肌に刻まれているもので、そのほぼ中央部に阿弥陀三尊の来迎像もある。
 いずれも江戸時代中期に造られてと推定される。
 これらの石仏は名刹関山満願寺観音堂の参道入口にあり、関山の由緒を物語るものである。
     白河市教育委員会

【関山】 
 磨崖三十三観音のすぐ先、やや広い道(県道388号線)を左折する。
 この少し手前から関山への登山道があるはずだが、車なので良く分からなかった。どちらにしても、南側からは車で関山に登ることは出来ないので、東側の麓をぐるりと回って、北側の登山道入口まで行ってみた。
 地図によると『満願寺参道』と『烏天狗の道』という沢沿いの道があるが、白河関の社務所で聞いたところ、乗用車では無理で、ジープみたいな四駆でないと登れないとのと云われたので、残念ながら登山は断念する。
 この登山道入口には、ルート図と関山の説明板関山登り口の碑が建っていた。碑には芭蕉直筆という『奥の細道・白河関』の一節と曾良の句が刻まれていた。
 ここから山頂まで1830mの標柱もあった。
【関山】
 
白河関跡の北北東4Km程の所に位置する。芭蕉が弟子の曾良を伴い白河関跡を探して白河(旗宿)に着いたのが1689年6月7日(旧暦:元禄2年4月20日)。翌日、白河城下に向う途中この関山に登ったとのこと。白河は千年以上に渡り奥州の玄関口として要衝の位置にあった。その歴史の重みを感じる白河の地で確かな存在感のある山といえる。山頂には730年(天平2年)に聖武天皇の勅願寺として行基が開いたと云われる満願寺が建っている。
【満願寺】
 白河市の南東にある標高619mの関山山頂にあります。730年(天平2年)聖武天皇より勅願を賜った高僧・行基によって開山されました。本尊として、天皇の持仏である聖観音像が納められていたと伝わっています。幾度も起こる山火事のたびに再建が繰り返されており、現在は「聖武天皇御願所」と書かれた額と銅鐘が残るのみです。この銅鐘は、1664年(寛文4年)白河城三代目城主・本多忠平公が寄進したもので、国指定の重要美術品になっています。那須や阿武隈の山並みが一望でき、古くは源義経、松尾芭蕉などが詣でたそうです。関山はうつくしま百名山のひとつにも選ばれており、毎年3月下旬には「関山山開き」という登山イベントが催されます。
【下馬碑】
 南の内松口からの山路と、北の二枚橋口からの参道が出合う十七丁目に、山頂にあった満願寺の山門跡がある。
 ここに残っている「下馬(げば)」と彫った将棋の駒型の碑は、ここより先は馬に乗って入るのを禁ずる結界の標石で、『集古十種』にものこる古碑である。この「下馬」の文字を書いたのは、源義経に従って、ここへ詣でた武蔵坊弁慶であるという。

【関山登り口】 (左の写真の石碑)
   奥の細道 芭蕉直筆
 心もとなき日数重るまヽに
 白河の関にかヽりて旅心定りぬ
                曾良
 卯の花をかさしに関の晴着哉

【宗祇(そうぎ)戻しの碑】 (右側)
 関山登り口の碑から、北の方へ進み国道289号線に出る。国道までの道は分かりづらい。
 国道に出たら、並行する一本右側の道に移動する。
 北西に道なりに進み合戦坂を登り、突き当りの県道232号線を右折する。
 次いで、谷津田川に架かる「八竜神橋」を渡ったらすぐ左折して、右後ろから来る県道11号線(御斉所街道)に合流する
 その合流した右側の「大谷菓子店」横に宗祇戻しの碑芭蕉の句碑が建っている。

【宗祇戻しの碑】
 文明十三年(1481)白河城主結城政朝が鹿嶋神社の神前で一日一万句の連歌興行を催した。
 これを伝えきいた都で名高い連歌の宗匠、宗祇法師が、はるばる奥州にくだり、三十三間堂の前を通り、一女性に行きあい鹿嶋連句の終了を告げられた。
 その時宗祇は女の背負っていた綿を見て「売るか」と問うたところ、女はすぐに「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそうるかといへるわたはありけり」と和歌で答えた。
 これを聞いて宗祇は東奥の風流に感じ、ここから都へ引き返したと言い伝えられています。

 曾良の随行日記にも出てくる「鹿嶋神社」と「うたたねの森」は、ここの少し東へ川を渡った所にあり、寄る予定をしていたが失念して残念ながら行かなかった。
【芭蕉の句碑】
 
「早苗にも 我色黒き 日数哉」
 これは芭蕉が白河の関を越えた折の句で、須賀川から白河の俳人何云(かうん)に当てた手紙のなかにあります。
 この句碑は天保十四年(1843)芭蕉の百五十回忌に、乙丸ら白河の俳人によって建立されました。

 (左下の写真で、左側が宗祇戻しの碑、右側が芭蕉の句碑

 この先、枡形道を通り、大きな十字路を右折する。
 ここから須賀川宿まで、芭蕉一行も奥州街道を進んでゆく。
 
この十字路から女石迄は、2012年11月14日に歩いている「奥州街道7回目」に重なるので、そちらを参照して下さい。 奥州街道7回目」へ。


【追分】 (右側)
 
十字路から国道294号線(陸羽街道)に合流して北上する。
 JR東北本線をくぐり、
阿武隈川に架かる「田町大橋」を渡り、坂道を登って下ると国道4号線の手前で「女石バス停」に着く。ここは追分で二又道になっている。
 
この追分で江戸幕府・道中奉行管轄の奥州道中は終点となる。この先は奥州各藩の管轄となる。

 ここから右に分ける奥州街道(現・国道4号線)と左に分ける会津街道(現・国道294号線)との「女石追分」には街道の説明も道標もなく、ただ、「女石バス停」と4号線の「女石信号」がその名を示しているだけである。

 通称・奥州街道は此処から右斜めに進んで前方に見える国道4号線に合流し、仙台まで仙台道、 盛岡、青森、松前を経て函館までを松前道等と呼ばれて続くが、この先の道路の呼び方はこの他にも色々あった。

 (左の写真の追分が江戸幕府管轄の奥州道中終点の地。右斜めの道が更に続く奥州街道(陸羽街道)。奥の青い道標が国道4号線で左方向に北上するのが会津街道。この写真は2012年11月14日に写したものである。)


【遊女志げ女の碑】 (右側)
 上記追分を右折して少し進んだ右側に石碑が数基並んでいて、その内の説明板が立っている一基が遊女志女の碑である。碑には碑文が刻まれていた。

【遊女志女の碑】
 戊辰戦争時、悲劇の死を遂げた遊女しげにについて記す石碑で、昭和二十九年(1954)の建立である。
 碑によれば、しげは越後国三条の生まれで、白河の旅籠坂田屋に抱えられていた。閏四月上旬に奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵(長州藩出身)が小峰城に入った際に世良と馴染みになったという。
 しかし世良は、白河は危険と察して白河を逃れた。その脱出を助けたと疑われたしげは、世良を敵視していた会津藩主に殺害されたという。享年二十二歳。法名を梅室貞顔信女と伝える。
 しげが殺されたと知った坂田屋の下男は会津藩士を追い、この女石の地でしげの仇を討ったという。
     白河観光物産協会

【大和久(おおわく)宿】 (右側)
 遊女志女の碑の先で国道4号線に合流。
 すぐ先、左側に弧を描いて180mだけ旧道がある。国道に戻ったらそのまま直進して右側の旧道に入る。高橋川を渡って突き当たりを右折。この辺りが奥州街道28番目の根田宿
 その先の桑ヶ作川を渡って右折、「白河だるま製造所」の所で国道に合流。出た所に歩道橋が架かっている。
 少し行って左斜めに入る道が旧道で、先の二又を右に、その先「小田川小学校」で道は消滅しているので手前を右に曲がって「小田川小学校入口バス停」で国道に戻る。
 国道を1.1Km程進んだ右側に「北辰通商」ある信号で右の旧道に入る。ここが奥州街道29番目の小田川
(こたがわ)宿の入口。やがて泉川に架かる「馬橋」を渡ると宿の出口。
 道なりに進み「東北高速道路」に接した先の二又辺りに『岩久保一里塚』があるはずだが、車では見つけられなかった。地図に「一里塚」と載っていたのは地名だけ残っているのか?
 二又道を左に進むと、奥州街道30番目の太田川宿に入る。
 突き当りを右折して、すぐ左折する。再び国道の手前で突き当たるので左折する。
 道なりに進むと国道の信号にぶつかるが、ここは直進して国道の右側に出る。国道を横断して坂を少し下ると奥州街道31番目の踏瀬
(ふませ)宿に入る。
 左側の「慈眼寺」を過ぎ、左側だけに立派な松並木が現れる。

 松並木が終わって民家が並んできた右側に大和久宿の標柱が立っている。
 奥州街道32番目の大和久宿なら七曲峠を下った所にあるが、この標柱が立っていた場所をはっきり覚えていない。
 正面に『大和久宿』、左面に『中畑新田宿 ←(街道から右に向いた矢印)』、右面に『旧奥州街道 →(これも街道から右に向いた矢印)』、裏面に『平成二十二年 矢吹町文化協会 矢吹町郷土史研究会建立』と書かれていた。
 中畑新田宿は、今走っている街道の先にあるはずなので矢印の向きがおかしい。左右を手前に広げた形ならわかるが??

 矢印通り右折したら民家に入ってしまう。

【関山道】 (右側)
 大和久宿の標柱から車で2~3分進んだ右側に二面とも左 関山道と書かれた標柱とその隣に石柱が立っている。

 左の写真は、反対側(仙台方面)から写したもので、標柱の右が白河から来た道。
 標柱の左にある道が関山道なのか?

 この辺りから奥州街道33番目の中畑新田宿になる。
 

【水戸街道分岐点】 (右側)
 関山道の標柱から車で3分程進んだ県道44号線の高架の直前右側に、大きな常夜燈が建っていて、傍らに水戸街道分岐点の標柱と常夜燈の説明板が立っていた。

【常夜燈】 矢吹町石造文化財
 この常夜燈は、石造燈籠で文化8年(1811)に白川郡中畑新田村(現矢吹町新町)」に建てられたものである。当時宿場の入口や交差点などの路上に、夜間絶やすことなくあかりをつけて夜間の交通安全のため、設けた灯火で宿場の安全と旅人の心をなぐさめることも兼ね、今の街燈のような役割を果たしていた。
 中畑新田村は、奥州街道筋の宿場であり、常夜燈はこの宿場から水戸へ行く常陸街道と、奥州街道との分岐点の所にあった。
 道路の拡張整備のため、現在地に移された。現在矢吹町においても、貴重な文化財である。
     昭和59年3月 矢吹町教育委員会 矢吹町文化財保護審議会

【鍋田自然石板碑】 (左奥)
 県道44号線の高架下をくぐって、JR東北線「矢吹駅」入口の信号を抜け北上。駅周辺が奥州街道34番目の矢吹宿で、芭蕉一行もここで宿泊している。
 やがて「北町信号」で国道4号線に合流するが、850m進んだ所で再び左斜めの旧道に入る。旧道に入ったところが奥州街道35番目の久来石
(きゅうらいし)宿
 程なく久来石宿を抜け、「久来石交差点」で国道を横断して国道の一本右側の旧道に入る。入った所が奥州街道36番目の笠石宿
 次いで、「鏡石駅入口の交差点」も抜け、ここから1.7Km程北上した左手の「西光寺」の直ぐ先を左折してかげ沼の石碑を探しに寄り道をする。
 
『おくのほそ道』の須賀川の章で「かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。」とある。「かげ沼」はその昔、蜃気楼現象があることで広く知られたが、その正体は不明との事。
 「西光寺」の先を左折し、国道4号線を横断したら二又道。どちらに行って良いか分からず左の細道を進んで東北高速道路をくぐったら目の前に池。ここは「かげ沼」では無く、周辺をうろうろして池の左の方へ行ったところ偶然発見したのが鍋田自然石板碑である。
 このあと、二又道の右の道の方にも行ったが結局「かげ沼跡」は見つからず街道に戻った。
 帰ってから調べてみたが、二又道を右に行き、東北道をくぐって更に先の方まで行った田圃の周辺にある様だが、良く分からなかった。

【鍋田自然石板碑】 文化財(昭和47年12月19日指定)
 所在地 鏡石町大字鏡田字川崎237

   由  来
 中世に末法思想が流行したことから人々は、来世の安穏と極楽往生を願って石造供養塔を人々の往来する路傍に建立することが流行した。ここの板碑は、島田池周辺開発事業に伴い、山中にあった「かげ沼の碑」とともにこの地に移された。
1号 種子不明 嘉元三年巳三月十四日(1305年)
2号 種子キリーク(阿弥陀如来) 嘉元二年
3号 種子アーンク(大日如来) 不明
4号 種子不明 不明
     平成三年十二月 鏡石町

【須賀川一里塚】 (両側)
 街道に戻って程なく国道の「蒲の沢交差点」に接するが、そのまま旧道を直進するとすぐ両側に良く保存されている須賀川一里塚に着く。

【須賀川一里塚】 国指定史跡(昭和11年9月3日指定)
 一里塚は、今から約四百年前の江戸時代に、当時の将軍徳川家康の命により全国の主要街道を改修した際、江戸日本橋を基点として一里ごとに築かれたものです。
 須賀川の一里塚は、旧陸羽街道に残る数少ないもので江戸日本橋から五十九番目のものとされており、二基(東側径十五メートル×十二メートル、西側径十五メートル×十メートル)相対し塚型が良く保存されています。
 また、当時塚の上には榎が植えられていたと伝えられ周囲の風景の中にあって、街道を行き来する人々の距離の目安や休憩の場として、利用されていたと考えられます。
 塚のある旧国道の両側には、かつて見事な松並木がありましたが、現在は数本を残すだけとなっています。
     昭和六十三年五月一日 須賀川市教育委員会

【須賀川宿】
 須賀川一里塚から先の道が中央分離帯のある国道118号線にぶつかり、信号も無く直進も右折も出来ない為、ここから先に進めない。多分人も進めないのではないかと思う。
 本来は、国道118号線を右折して、JR東北本線を越えた所で左折したいが、出来ないので「蒲の沢交差点」迄戻った。
 「蒲の沢交差点」で右折して、一旦国道4号線に乗り、すぐ先の「一里坦交差点」を右折して118号線に乗る。更に、東北本線をくぐったら次の信号を左折して県道355号線を須賀川市内に向った。
 奥州街道37番目の須賀川宿で、芭蕉一行は8日間滞在した。
 今回、須賀川市内観光の途中で暗くなった為、次回と二回に分けて観光をする事となった。まず、芭蕉記念館のある市役所跡地に車を停め、徒歩で可伸庵跡軒の栗庭園等躬屋敷跡円谷英二誕生の碑長松院を巡り、再び車で十念寺を訪れた。
 また、十念寺に向かう途中、マラソンの円谷幸吉が愛した「くまたぱん」を求める為「くまたん本舗」に寄った。このお菓子は、ぱんと言うよりあんこを砂糖で固めたやや固い饅頭のようなものだった。最近のはやりで私が嫌いな言葉「甘さ控えめ」とは程遠い昔ながらの非常に甘いお菓子で、甘党にはたまらない一品である。日本語の”あや”だろうが、私は甘さを控えたら甘く無いと思ってしまう。「甘さ控えめ」では無く、「程よい甘さ」と言って貰いたい。 『意見には個人差があります


【芭蕉記念館】 
 県道355号線が、東側から廻り込んできた国道118号線と交わる交差点の一本手前の道を左折すると、突き当たりにある広場に入れる。ここは元「須賀川市役所」があった場所で、無料で駐車することが出来るので、車をここに置いて市内観光に出かれるのも良い。
 この広場の北東の角に芭蕉記念館があるので、まずここを訪れて須賀川市内の資料を貰うことを進める。一階が展示室と休憩室になっている。
 記念館の木戸を入って直ぐの左側に『奥の細道・八幡社岩瀬寺跡』と刻まれた石碑が建っている。
開館時間:9時~17時
休 館 日 :月曜日(祝祭日の場合は翌日) 年末年始
入 館 料 :無料

【芭蕉記念館の資料より】
 芭蕉記念館は、平成元年におくのほそ道紀行300年を記念し、芭蕉が参詣した岩瀬寺、八幡社があったゆかりの地に建てられました。
【おくのほそ道と須賀川】
 元禄2年(1689)3月27日(陽暦5月16日)江戸から「おくのほそ道」の旅に出た松尾芭蕉と門人河合曾良は、4月22日(陽暦6月9日)、白河の関を越え須賀川に入りました。
 当時の須賀川は、奥州街道屈指の宿場町として栄えており、町人文化の香りも高く、多くの俳人・文人達が輩出されています。
【芭蕉と等躬】
 芭蕉は句友である相楽等躬(さがらとうきゅう 号 乍単)を訪ねます。等躬は宿場の駅長を務める豪商で、須賀川俳諧の中心的人物でもありました。江戸をはじめ各地に広い人脈をもっており、芭蕉とも江戸で俳諧を通して知り合った旧知の友でした。6歳年上で面倒見のよい等躬に会うのをとても心待ちにしており、滞在は7泊にも及びました。

 芭蕉記念館のある市役所跡地から表道路に出た目の前に、『芭蕉市内散策イラストマップ』と下記の『奥の細道と八幡町の説明板』が掲げられていた。
 『奥の細道』で芭蕉の伴をした『曾良旅日記』に「・・・廿二日同所滞留。晩方へ可伸ニ遊、帰ニ寺々八幡ヲ拝」とあります。
 芭蕉が参拝した八幡神社と寺は現在の市役所(移設した跡地)付近にありました。徳善院、岩瀬
(がんらい)
、妙林寺の各寺院であろうと思います。その神社の名前を残して『八幡町』とつけています。
 明治六年(1873)に本町に「須賀川方学校」が開校し、明治十六年(1883)八幡町に新築されました。その後須賀川市立第一小学校は昭和四十一年(1966)に移転され、現在は須賀川市役所が建っています。
 又芭蕉記念館前のアカシヤの老木は、明治初期に須賀川生産方の一員として、新農法、新知識、新技術の導入に尽力した橋本伝右衛門が植産のために植付けしたアカシヤの木と、いわれています。
 八幡町の西方に八幡山があります。ここは中世の須賀川二階堂氏と伊達政宗が戦いを繰り広げた古戦場跡です。
 現在は桜の名所で、市民の憩いの場となっています。
     平成十三年五月 八幡町々内会


【可伸庵跡】 
 市役所跡地の入口(芭蕉記念館前)から出たら、真直ぐ東へ進み次の角を右折する。その小道に可伸庵跡がある。県道355号から見たらNTTの裏手になる。
 相楽等躬の屋敷の一隅に住んでいたと伝えられる僧可伸の庵で、等躬らと歌仙を付合
(つけあい)した。「世の人乃みつけぬ花や軒の栗」と刻まれた句碑が建っている。
 木製の説明板は下部が擦れていたので、一部想像で載せる。



【軒の栗 可伸庵跡】
 
芭蕉は元禄二年(1689)陰暦四月二十二日に須賀川を訪ずれ相楽等躬宅に滞在した。この可伸庵を訪ねて、この宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのしむ世をいとう僧あり、「世の人の見付ぬ花や軒の栗」と、「奥の細道」に書留めている。
 「軒の栗」の句碑は、文政八年須賀川の俳人石井雨考が建立した。
 現在の栗は四代目で相楽氏の寄贈である。
     須賀川市

【軒の栗庭園】 
 可伸庵跡を南下し、次を(東へ)左折すると、県道355号の十字路の南角に軒の栗庭園がある。
 庭園(ポケットパーク)には、『奥の細道本町』の看板、等躬の坐像芭蕉と曾良の旅姿像、及び、説明板が立っている。



 元禄二年新暦の六月九日芭蕉と曾良は等躬を訪ねて須賀川へ入りました。「奥の細道」の本文に「すか川の駅に等躬といふものを尋ねて、四、五日とヾめうる。」とあります。その等躬宅は、現、NTT須賀川の付近にありました。
 等躬は本名を相楽伊左衛門と言い、問屋の仕事をしながら、その商業活動のために江戸へ度々出かけていました。その間に江戸での俳諧活動も持たれ、芭蕉との関係が生まれました。等躬は奥州俳壇の宗匠としてその地位にあり、芭蕉に多くの情報を提供し、「みちのく歌枕の地」探訪の旅を助けました。
   風流の初めや奥の田植歌     芭蕉
   覆盆子を折りて我まうけ草     等躬   
(覆盆子=いちご)
   水せきて昼寝の石やなをすらん  曾良
 ここ「軒の栗庭園」は、等躬の住む本町に芭蕉が逗留し
   世の人の見つけぬ花や軒の栗   芭蕉
と詠まれたことから名付けられました。
     平成十三年 本町々内会 


【芭蕉と相楽等躬】

 俳人・松尾芭蕉が門人の河合曾良と共に「おくのほそ道」を尋ねに、江戸・深川の家を旅立ったのは、元禄二年(1689)の旧暦三月二十七日(超暦五月十六日)の事でした。栃木県の日光、黒羽から白河市の白坂にある「白河の関」を越えたのは四月二十日でした。
 それから二日後の二十二日、芭蕉と曾良は松並木の続く奥州街道(旧国道)を通り須賀川の町に入りました。須賀川には以前から交流のあった相良等躬が居りましたので、本町の等躬の家を訪ね暫く滞在しました。須賀川での様子は後に芭蕉が記した「おくのほそ道」の一節に出てきます。
 芭蕉須賀川で尋ねた相楽等躬の祖先は、鎌倉時代の半ばから室町時代にかけて起こった南北朝時代の南朝方の家臣でありましたが、何度かの戦乱の後、町人となり芭蕉が尋ねた等躬(俳号)は伊左衛門と云い、須賀川宿の駅長を務めていました。
 相楽家は「諸色問屋」を家業としていました。諸色問屋というのは米・油・木綿など色々な商品(諸色)を取り扱う問屋のことですが、現在と違い日本各地の商品の仲介をしていました。商売のために江戸にも度々出かけたと思われますので江戸に滞在している時に俳句を通じて芭蕉や他の俳人と知り合いになったと思われます。等躬の屋敷は現在の電電公社の建物のある一帯にあったと云われています。
 四月二十二日から二十八日まで須賀川に滞在した芭蕉と曾良は各地の俳人に当てた等躬の紹介状を持って「おくのほそ道」の旅を続けました。芭蕉の「おくのほそ道」の旅はその年の九月六日、岐阜県の大垣で終わりました。約半年にわたる長旅でした。


【相楽等躬宅跡・可伸庵跡】 
 軒の栗庭園から県道355号を北に少し行った左側に「NTT須賀川」ビルがあり、その入口に相楽等躬宅跡の説明板が立っている。
 ここ本町の右側に須賀川の本陣があったらしいが、今は何も残っていない。

【相楽等躬宅跡・可伸庵跡】 おくのほそ道自然歩道
 元禄2年(1689)、俳聖・松尾芭蕉は門人曾良を伴い奥の細道の旅で須賀川に入り、4月22日(陽暦6月9日)から8日間、滞在したのが相楽等躬宅(現NTT須賀川ビル)である。
 等躬は、当時、須賀川の宿駅の駅長であり、俳人としても芭蕉と親交が深く、須賀川俳諧の宗匠であった。
 芭蕉は、この一隅に大きな栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧・可伸に心をひかれ、可伸庵を訪れ「世の人の 見付けぬ花や 軒の栗」の名句を詠んでいる。
     須賀川市教育委員会

円谷英二記念碑】 
 相楽等躬宅跡から更に北に進み、国道118号線を渡って、松明通りの左・二本目を左折すると「須賀川中町郵便局」の右隣の壁に円谷英二記念碑が建っている。
 尚、円谷英二の生家は、左折せずに松明通りを少し行った左側の「大束屋
(おおつかや)珈琲」で、行きたかったが時間も無くなり行かなかった。ここに行くと円谷英二ゆかりの品が展示されているとの事。
 また、松明通りにはウルトラマンや怪獣たちのシルエットが至る所に描かれているらしいが、これも見ていない。次回の楽しみとする。
 私も子供から学生時代にかけて、円谷英二が手がけた東宝の特撮映画に夢中になった一人である。

円谷英二】 1901(明治34)年-1970(昭和45)年
 円谷英二(本名英一)は、当時須賀川市中町15番地(当時西6丁目2番地)に、代々、糀業を営む大束屋に生まれる。その日は、大空に満点の星が輝く七夕であった。小学生の時、祖母が土蔵の2階を英二の部屋に改造してくれる。そこは英二の秘密基地となった。英二は、ガラクタを持ち込んでは、飛行機や汽車の模型作りに励み、子供用の映写機で遊んだ。
 蔵にいないときは、決まって近くの長松院の大銀杏によじ登って大空に夢をはせた。将来、特殊撮影技術監督として羽ばたく発明家小僧は、空想の翼を大きく広げていた。
 誰もが、子供の頃から抱きつづけている夢とロマンの世界を、いくつかの映像を通して、表現した、円谷英二。
 彼の偉大なる「愛と想像力」に敬意を表して、此処に記念碑を設置する。

【長松院(ちょうしょういん)
 円谷英二記念碑からそのまま西へ行くと、次の十字路の右側に長松院がある。芭蕉記念館からは、北へ国道118号を渡って2ブロック目左側になる。
 山門をくぐると、正面に円谷英二が登ったと云う大銀杏と本堂、本堂の左に等躬句碑、本堂の裏手に平和記念塔、須賀川城の土塁と空堀の一部、相楽等躬の墓がある。

【イチョウ】 福島県緑の文化財登録第194号(昭和58年2月17日登録)
 科   名  イチョウ
 樹   種  イチョウ
 樹   齢   250年
 樹   高   29.0m
 胸高周囲   380cm


 左のイチョウの前に上記の説明板が立っていた。
【等躬句碑】
   あの辺は つく羽山哉 炭けふり  等躬
 須賀川の俳壇「相楽等躬」」は、須賀川宿の長老、俳人、元禄二年、芭蕉は奥の細道途中、旧知の等躬宅を訪れ七泊した。
     平成八年十月 須賀川史談会


 石碑が句碑
【相楽等躬(向雄萬帰居士)の墓】
 白い標柱が立っている右側の墓碑が等躬の墓で、『向雄萬帰居士』と『安室喜心大姉』が並んで刻まれていた。
 左側の墓碑には『相楽家之墓』と刻まれていた。
【須賀川城の土塁と空堀】
 長松院境内西側の、墓地との間に見られる盛り土と窪地は、須賀川城跡の現存する数少ない土塁と堀跡の一部となっています。
 須賀川城は、鎌倉時代に二階堂氏によって築かれた城で、現在の市街地のほぼ全域がその城域となっていました。文安五年(1448)、二階堂為氏が初代城主となって整備され、その後、九代にわたって二階堂氏が城主となり存続しました。しかし、天正十七年(1589)、伊達政宗の攻撃を受けて落城しました。須賀川市の奇祭松明あかしの由来となった城跡であり、現在はその面影を留めている所はほとんどありませんが、この土塁や堀跡が数少ない貴重な遺構として残されているものです。このような土塁や堀跡は、この長松院の北側の神炊館神社と、本丸跡の二階堂神社にわずかに残されているのみです。
 長松院の土塁と堀跡は、平成十五年にその規模・構造などを把握する目的で、一部が試掘調査されました。その結果、土塁は、基底幅五・七メートル、現状の高さ一・六メートルありましたが、当時はもう少し高さがあったものと推定されます。堀を掘削した土で一気に盛り上げて築いていることもわかりました。堀跡は、土塁の基底面から対面までの上幅が十二・六メートル、底面までの深さは、現在の地表面から二・三メートル、土塁上端から底面までは約五・五メートルを測ります。堀の断面は擂鉢
(すりばち)状となっており、容易に登り降りすることは困難なものです。当時としてもかなり大規模な土木工事であったものと思われます。部分的な調査であったために堀跡からの出土遺物はありませんでした。落城後、堀は埋め立てられ、今日に至ったものと思われます。
 このように当時の須賀川城の様子を知る貴重な遺構であることが確かめられました。私たちは須賀川城の歴史を物語るこのような大切な文化財を守り、将来にわたって永く伝えて行く必要があると思います。
     平成十七年十月 須賀川市教育委員会

【十念寺】 
 長松院から市役所跡に戻り、今度は車でくまたん本舗十念寺に向った。
 先ほど、円谷英二記念碑は国道118号を越えて松明通りを左に入ったが、くまたん本舗は右に入った2ブロック先の右側にある。
 「くまたん本舗」から二ツ先の十字路を左折すると突き当たりに十念寺がある。
 境内に入ってすぐ右に芭蕉の句碑があり、その後ろに『奥の細道 十念寺』と刻まれた石標と説明板が立っている。左側には市原多代女の辞世の碑が、正面の本堂右手前にはイチイの立派な木がある。  本堂の左を入った所に墓地があり、本堂の裏まで続いているが、東北大震災の為か殆どの古い墓石が倒れており、凄まじい光景だった。
 円谷幸吉の墓は、広い墓地の中、何の案内も無く見つけることが出来なかった。

【十念寺(浄土宗)】
 文禄元年(1992)善竜上人の開山である。芭蕉が「奥の細道」の旅で須賀川に滞在しここの寺に詣でたことで知れれる。安政二年須賀川の女流俳人市原多代女によって「風流のはじめや奥の田植唄」の碑が建立されてある。
 また、多代女の「終に行く道はいづこぞ花の雲」の辞世の碑もある。別院の成田山は節分の豆撒きには善男善女でにぎわう。
 なお、東京オリンピックでマラソン第三位となった円谷幸吉の墓がある。
     須加川市
【イチイ】 福島県緑の文化財登録第190号(昭和58年2月17日登録)
 科   名  イチイ
 樹   種  キャラボク
 樹   齢  500年
 樹   高  5.0m
 胸高周囲  340cm
 倒壊した墓石 

 この十念寺で暗くなった為、須賀川の史跡めぐりはここで終了し、残りは次回とする。



高久~那須湯本   4里     (15.7Km)   計  58里15丁(229.4Km)
那須湯本~旗村  10里     (32.3Km)   計  68里15丁(268.7Km)
旗村~矢吹      7里     (27.5Km)   計  75里15丁(296.2Km)
矢吹~須賀川     2里18丁  ( 9.8Km)   計  77里33丁(306.0Km)


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