佐久山宿 (喜連川本町バス停 →  大田原ホテル) <旧奥州街道4回目>

 

2012年10月23日(火) 雨

  自家用車で帰りが便利な黒磯駅まで行き、駅前の駐車場(24時間毎に400円)に車を泊めて、JRで氏家駅に戻り、氏家駅発10:25の東野バスで喜連川本町バス停10:41着。

 まず昼食を取ろうとしたが町中の食堂が全部休みで、仕方がなく雑貨屋で惣菜パンを買い、大手門入口のコインランドリー内で食事をした。

 雨の中、大手門入口を11:20スタート。

(注: 文中で街道の左側、右側とは白河に向っての左右です)

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【たかしお薬局】 (右側) 11:30 

 「仲町」の信号を過ぎ、軽く右カーブした所に、立派な屋敷門を持つたかしお薬局がある。

 この高塩家は、野口雨情と結婚した「ひろ」の実家で、「ひろ」は明治37年(1904)に雨情と結婚したが、大正4年に協議離婚して実家に戻っている
  


【道標】 (正面) 11:35
 たかしお薬局のすぐ先、「台町交差点」の左側前方の一段高い所に建つ「台町集会所」に道標が建っていて、「右 奥州海道」、「左 在郷道」と刻まれている。

 江戸時代参勤交代で賑わった奥州街道には、要所に道標を見掛けます。お地蔵さんも道標として役に立ったそうです。旅をする人達にとっては貴重な道案内だったことでしょう。 『右奥州街道 左在郷道』

 さくら市のHPによると、享保六年(1721)の建立で、左手の在郷道は鷲宿方面に延びている道とのこと。

 尚、奥州道中は道標の前を真直ぐ行く道ではなく、交差点手前を右に下りる細道である。

 下った突き当りを左折して内川に架かる「金竜橋」を渡って行く。この道は敵の侵入を防ぐ鍵の手と思われる。


【天皇御小休之際御前水・双体道祖神】 (右側) 13:00
 11:40に「金竜橋」を渡って、「金鶏山神社」と「田町自治会館」前を右へ少しだけ県道から離れる道を行くとすぐ、左側の草むらに頭が欠けた寛政十一年の南無阿弥陀仏碑と比較的新しい双体道祖神が建っている。 

ここから長いつるが坂を上って行く。

 12:00、右側「フィオーレ喜連川(温泉付き住宅地)」入口に碑が建っていて、側面に『昭和拾貮年九月十九日日支事変之為軍馬と共に出征』と刻まれていた。 

 やがて歩道が無くなり、スピードを上げている車が怖い中、12:20やっと峠に着く。

 その後だらだらした下り坂になり、下り終えた所で右後ろからの県道25号と合流する(12:30)。その合流したすぐ左側に馬頭観音

 12:50、右側の上江川郵便局の向いに大きな長屋門が見られる。

 すぐ先、「下河戸信号」を右折するのだが、角の屋根付き自販機の前で5分休憩を取る(12:55〜)。


 信号を右折するとすぐ右側に、天皇御小休之際御前水の碑と可愛い夫婦の双体道祖神が建っている(写真)
  


【明治天皇御休輦之處】 (右側) 13:20

 すぐ、江川に架かる「宮下橋」を渡る。左カーブして小さな「合柄橋(かっからばし)」を渡ると、右手に「源氏ボタルの里」があるとの案内があった。

 その先、「きつれ川幼稚園」を過ぎた右側の公園奥に明治天皇御休輦之處の碑が建っている。

 公園内にはゲートボール場があったが、ブームも終わり今は殆んど使われていない様だ。その証拠に園内にあった簡易トイレは誰も掃除しない為か、今迄の街道沿いで一番汚いトイレだった。氏家駅を出てからここまでトイレがなかったので我慢して入ったが、相当の覚悟が必要である。


【観音堂と石仏群】 (左側) 14:35 

右手にゴルフ場が見え隠れする大田原市に入る直前の石蔵のある手塚家の庭に一里塚があるとのことだったが、注意していても見つからず、大田原市の標識が出て来てしまった(13:50)。

 14:00、左から来た県道48号に合流。

 S字カーブの上り下りを過ぎ、14:22に「温泉&岩盤浴 佐久山温泉 きみのゆ」の看板が出てくるY字路に着いたら左の道に進む。ここで県道48号は右に、暫しの別れとなる。

 この分かれ道左側に「大田原市案内MAP」が立っている。大田原市の地図を見ていると、佐久山から大田原中心地を通って北上する奥州道中と 、南西から東へ大田原中心地で交差して黒羽に向う奥の細道の道筋が良く分かった。

 旧道に入ると上り坂になり、「きみのゆ入口」前を過ぎて「佐久山前坂交差点」で県道48号を渡り、今度は下り坂になる。

 その下り坂の途中左側に観音堂があり、その入口に沢山の石仏が並んでいた。
  


【佐久山宿】 宇都宮宿追分から9里4町36間(35.8Km)、白河宿まで12里13町43間半(48.6Km)

 宿内人数 473人、宿内惣家数 121軒(本陣1、脇本陣1、旅籠27)


【屋敷門】 (左側) 14:45 

 石仏群を見て更に下り、丁字路に突き当ったら左折すると、先程分かれた県道48号に合流する。
 合流してすぐ、右手に屋敷門を持つ立派な家が見える。

 門に近づいてみると、右脇に『運用膏』と書かれた看板が付属していた。

  かつては薬屋だったのだろう。ここの傷薬が良く効くと、戊辰戦争のとき評判になったそうだ。
  


【豊道春海翁生誕之地碑】 (左側) 14:48

 屋敷門のすぐ先に、新しい豊道春海翁誕生之地碑が建っている。

【豊道春海翁顕彰事業】

 大田原市では、市出身の偉人の顕彰事業を実施しております。

 豊道春海翁は、この地佐久山出身で、明治から昭和にかけての日本を代表する書家であります。大田原名誉市民第1号であり、文化功労者にも選ばれた春海翁の功績を称え、これを後世に伝えるため、没後40年の節目の年に顕彰碑を建立しました。

     平成22年2月24日 大田原市


【佐久山宿碑】 (右側) 14:50

 豊道春海翁誕生之地碑のすぐ先右側に「大田原市消防団」の建物があり、 その前面右側に旧奥州道中 佐久山宿 下町の石柱が建っている。


【大日堂と大ケヤキ】 (右側) 14:50〜14:49

 「大田原市消防団」の建物の左側には綺麗な公衆便所がある。

 その左横の道を入って行くと長宗寺の大日堂があり不動明王が安置されている。また、大日堂の裏手には大ケヤキが聳えている。

【不動明王】 有形文化財(昭和39年5月27日指定)

 大日堂内に安置されている不動明王は、仁王系の不動明王で、丈65.5センチメートル、台座より火焔光背までの高さ120センチメートル、身幅32.5センチメートルのもので木彫の立像である。年代作者は不明であるが、江戸時代の作と思われる珍しい尊容である。もと真言宗楽寺の本尊と伝られる。

【佐久山のケヤキ】 栃木県指定天然記念物(昭和43年3月12日指定)

   樹高      21.5m

   目通周囲    7.5m

   枝張り     東西22.8m 南北23m

   推定樹齢   800年

 ケヤキはニレ科の落葉高木で、本州各地の平地から山地に自生する。普通は風景樹として、また将来の建築材として民家や神社仏閣の境内に植えられることが多い。

 このケヤキは高さ2.5mの土堤の上にあるが土手が崩れて太い根が露出しており、南側の根はほとんどくさっている。指定当時は樹勢は悪くなかったが近年元気がなくなってきている。この地方の巨木である。

     栃木県教育委員会 大田原市教育委員会


【明治天皇佐久山行在所跡】 (左奥) 15:02

 街道へ戻った向いにあるガソリンスタンド脇を左折すると、すぐ左側に明治天皇佐久山行在所跡と刻まれた大きな石柱が建っている。


【御殿山公園(佐久山城跡)】 (左奥) 15:05

 明治天皇碑の先「佐久山小学校」前を通って坂道を登るとすぐ御殿山公園入口に着く。

 入口の案内図は普通の森林公園だが、ここはかつての佐久山城跡である。

 土塁や石垣の一部が残っているとのことだが、先が長いので中に入らず引き返した。


【村上英俊翁生誕之地碑】 (左側) 15:10 

 街道に戻り、右側に安政二年(1855)創業の「小島屋」菓子店。名物は与一力餅最中や勘兵衛饅頭。

 そのすぐ先左側、郵便局の手前に村上英俊翁生誕之地碑が建っている。

 また、この辺りに本陣があったが、今は何も残っていないし案内も無い。

【村上英俊翁顕彰事業】

 村上英俊翁は、この地佐久山出身で、日本で初めてフランス語を修め何冊もの辞典を刊行するなど、幕末期から明治期にかけて活躍した学者です。1885(明治18)年には、日本にフランス学を創始した功績により、フランス大統領からジョン・ヌール・シュヴァリエ勲章が授与されました。これらを後世に伝えるため、日仏交流150周年に合わせて顕彰碑を建立しました。

     平成20年10月9日 大田原市


【正浄寺】 (左側) 15:15 

 郵便局の先を左に入った実相院には、佐久山藩主福原氏や赤穂浪士の墓があるとのことだが寄らなかった。

 その先で奥州道中は右カーブしながら坂を下る。その坂の途中の正浄寺には芭蕉の句碑がある。

 句碑は本堂左手に建ち、文字は擦れて読みづらいが『花の陰 謡に似たる 旅寝哉  芭蕉翁』と刻まれている。

 この句は、元禄元年。『笈の小文』の旅の途中、吉野の平尾村にて詠んだもので、「謡」は謡曲『二人静』を想定しているとのこと。

 桜に埋もれる吉野の親切な農家で旅寝をしている自分は、なにか謡曲に登場する主人公になったような気分になるという意味。


【イトヨ生息地】 (左側) 15:35 

 実相院を出て坂を下ると、箒川に架かる「岩井橋」を渡る。この辺りで一旦雨が止み、橋の上から左手に日光連山と思われる山々が綺麗に見えてきた。

 橋を渡って右カーブした所で一旦右折して、すぐ突き当りを左折する。この道は橋の手前から直線的に川を渡った場合につながるので、往時の道に間違えないと思う。以降、大田原宿まで殆んど直線的に進む。

 10分強進んだ左側の蔵の前に、道標が立っていて、手前方向『佐久山城 1.8Km』、左方向『イトヨ生息地 0.6Km』とあった。

 そのすぐ先で小さな橋を渡るが、川を覗くと清流に水草が揺らいで、中山道の醒井宿で見た地蔵川を思い出した『中山道31回目』参照)。地蔵川に棲んでいたのはイトヨ属の「ハリヨ」という小魚だが、この上流がイトヨの生息地であることはこの清流を見れば納得出来る。

 この小川の左側橋下に聖徳太子と刻まれた石碑と小さな祠があった。


【国井宅の赤マツ】 (右側) 16:15 

 イトヨの棲むという小川を渡って、5分程の自販機列の前で10分休憩(15:40〜15:50)。更に、すぐ先の「親園(ちかぞの)交差点」にあるコンビニで明日の朝食を購入する(〜16:00)。

 この交差点を右折すると『ミヤコタナゴ生息地 1.7Km』、『那須与一墓』へ行ける道標が立っていた。
 「親園交差点」から15分程北進すると左側に「薬王寺」があり、その向いに立派な国井宅の赤マツが間近に見られる。

【与一の里名木選】

 名    称  国井宅の赤マツ(一本)

 所 在 地  親園566 国井宅

 目通り周囲  1.7メートル

 樹    高  7.0メートル

 推 定 樹 齢  約200年

 選 定 理 由  古木

     平成三年十二月十九日 大田原市


蒲虜碑(ほろのひ) (左側) 16:25

 赤マツから7分程進んだ左奥にある「湯殿神社」の参道入口右側に御堂が建っていて、その中に漢字のみで刻まれている蒲虜碑(石碑)が納まっている 。


奥の鳥居が湯殿神社、手前右が御堂

【蒲慮碑】 史跡(昭和36年3月22日指定)

 文化9年(1812)10月那須野に一隊の兵士が刀を荷い槍をうち立て行進する蜃気楼が現れた。たまたまここを通った甲州の高津義克という行脚僧が目撃し、この光景を記した。それが蒲慮碑原文である。のちに石に刻んで建立したのがこの碑である。

 土地の者は蜃気楼のことを「ホロ」と呼んでいた。当時親園地区は八木沢村と呼ばれ、代官・山口鉄五郎の支配下にあり、代官の出張陣屋が設けられていた。山口鉄五郎は水路を開消し新田を開発するなど農村の振興につとめ領民から深く親しまれていた。人見伝蔵は著者「那須野蜃気楼・蒲慮碑考」の中で、中国の書「中庸」の中には「政治は蒲や慮のようなもの」という一文があり、碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲慮に結び付けたものとしている。

 原文は奉書に隷書体で一行13字、13行に書かれている。この碑文には楷書で本文159文字が刻まれている。


【町初碑】 (右側) 16:27 

 蒲虜碑の斜め向かいに、蔵が二つ(一つは住居に改造)と立派な屋敷門を持つ国井氏宅があ り、その屋敷門の左内側に小さな祠の様なものが置かれて、中に町初碑が納められている。



【町初碑】 史跡(昭和43年2月15日指定)

 碑は、高さ55センチメートル、周囲93センチメートルの自然石で、表面に「此町初寛永四卯(ひのえ)年」、裏面に「国井与左衛門」と刻されている。

 この碑は三代徳川将軍家光の寛永年間(1624〜1644)に奥州街道筋に八木沢部落が開かれ、それを記念しての建立であろう。国井与左衛門はこの地の名主役をつとめ、代々与左衛門を名乗った。

 寛永四年(1627)は「ひのと卯」であることから本碑は後年の建立と思われる。この寛永4年を奥州道中の開通の年とみる向きもあるが、そうではなく、これはあくまで町初めの年である。いずれにしても町初めの年を石に刻し、その起源を明らかにしている点、歴史的価値は高いものである。


【薬師堂】 (左側) 17:20 

 町初碑の先で、百村(もむら)川に架かる「筋違橋」を16:35に渡ると、ここから大田原宿入口まで2.7Kmに及ぶ直線道路。

 この間見るべきものは何も無く、暗くなってきた道をひたすら歩く。途中沿道に満開のサルビアの花が続いていた(17:00頃)。

 サルビア街道が終わった信号のあるY字路を左カーブして、次の「神明町交差点」を右折すると大田原宿に入って行く。

交差点を左折して右カーブした左後ろに薬師堂がある。

 ここにある建造物の薬師堂・七重塔・舎利塔と彫刻の金剛力士像(二軀)が有形文化財となっている。

【薬師堂】 有形文化財・建造物(平成元年3月6日指定) 管理者:不退寺

   本堂 3間3面(梁間7.51m、桁行7.51m)

   向拝 1間(梁間3.30m、桁行2.67m)

 (前半は擦れて判読出来ない)

 宝暦7年(1757)9月、大田原宿の大火によって焼失、寛政5年(1793)大田原飛騨守庸清が再建したものが現在の建物で、大工、石工、彫物、塗方、絵師、世話人名が残されている。

 様式は、和様、唐様の様式が混然一体に融合した江戸時代の自由な手法が現れており、大田原市内に残された江戸中期の寺院建築として第一級の貴重な文化財である。

【七重塔】 有形文化財(昭和37年9月25日指定) 左の写真

 薬師堂境内にある七重塔は、貞享元年(1684)建立で、基礎は凝灰岩、塔は安山岩で造られている。基礎は1辺を1.4メートルの方形のプランの上にもう一段の基礎を加えその上に塔身や屋蓋は方形プラン、塔心は円形プランを積み上げたものである。地上現存の全高4.85メートル(形式からみて建立当時は相輪部を具備したものと考えられるが最上部の九輪を欠失している)あり、当地域附近の古石塔中最大のものであり、また御作も江戸時代中期のものとして優秀である。

    塔心には次の銘文が刻されている。

  奉建立 二世安楽所  雨薬山医光寺 

  干時貞享元年甲子十一月吉日 順海上人祐玄   


 真っ暗の中、薬師堂を見学後、すぐ先右側にある「パインズ温泉ホテル」に宿泊。

 ここまで食事をするところが全く無かったが、ホテルに食堂があったので助かった。但し種類は少ない。

 また、このホテルにはスポーツセンターが併設されており、温泉はセンターを利用した人も入ってくるので時間によっては混雑している。



 4回目の旅終了  17:25 パインズ温泉ホテル大田原。

  今回の記録 :街道のみの距離は、18.1Km (喜連川宿本陣跡〜 大田原ホテル前)

           宇都宮宿追分から、10里30町  (42.5Km)

           6時間5分 33,500歩 (喜連川宿大手門入口〜大田原ホテル)

           寄り道を含めた実歩行距離は、20.5Km (喜連川宿大手門入口〜大田原ホテル) 累計52.5Km

 

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