江戸・千住宿 (日本橋 →  北千住駅) <旧日光街道1回目>

 

2011年1月9日(日)晴

 日本橋の道路元標を10:30スタート。

 

(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)

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 中山道に兆戦中だが、自宅から遠くなって日程調整等の関係から動きにくくなっているので、日光道中を同時に進めることにした。 


【日本橋】 国指定重要文化財

 日本橋については、「旧東海道 」、及び「旧中山道」の1回目を参照。

 日本橋は2011年4月で架橋100周年を迎える。

 それに先だち、2010年11月1日〜12月12日にかけて業務用清掃用品を扱っているドイツの会社(ケルヒャー)が高圧洗浄機を用いて橋の洗浄を行ったので、見違えるように綺麗になっていた。

 旧日光街道(日光道中)は日本橋元標から北へ中山道と同じ道を360m進み、右側「YUITO(ユイト)」の角(三越新館から三つ目の信号)を右折する。


【小津和紙店】 (左側) 

 中山道と別れて「YUITO」の角を右折したら、その先の高速道路も通っている昭和通りを地下横断歩道でくぐる。

 くぐりぬけた反対側左角に小津和紙店があるが本日は開いていなかった。街道脇に説明板が立っている。

【小津の起源】

 伊勢商人、小津清左衛門長弘は、当時江戸随一の商業地であった大伝馬町(現在地)に、承応2年(1653)創業しました。

 爾来、幾多の事業の変遷を経て「紙商小津」として現在に至って居ります。

     建立 平成17年1月吉日 小津産業株式会社 株式会社小津商店


【寶田恵比壽神社】 (左奥) 10:45

 小津和紙店の次の道を左折して一本北寄りの道に入ると、角に宝田恵比寿神社がある。

 小さな社ではあるが「べったら市」で有名な神社である。

 広範囲に幟がはためいて、駐車場にはテントが張られ宮司さんが忙しそうに準備をしていたので、この日は何か祭事があるように見受けられた。

【宝田神社・恵比寿神 御縁起と大伝馬町の由来】

 宝田神社は慶長十一年の昔三百六十余年前江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村の転居を命ぜられ(現在宮城内楓山付近)ましたので馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申し上げ住民を引率してこの地に集団移動轉したのであります。馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時三河の国から髄行して、此の大業を成し遂げた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申し上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。

 其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢、駿河、駿府、遠江、美濃、尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資集散地として大江戸開発と商買発祥の地として大変賑わったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いて居ります。宝田恵比寿神は商売繁盛、家族繁栄の守護神として崇敬者は広く関東一円に及び毎年十月十九日「べったら市」二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。

     昭和四十五年十月吉日


【大安楽寺】 【十思公園】 (左奥) 10:55〜11:05

 宝田恵比寿神社から元の日光道中に戻り、次の信号を左折して江戸通りの「小伝馬町交差点」を横断すると、次の道の左角に大安楽寺とその斜め向かいに十思公園がある。

 大安楽寺境内に江戸傳馬町牢御椓場跡の石碑が立っており、牢石垣之一部も置かれている。また、この境内には江戸八臂辯財天も祀られている。

 十思公園内には、江戸三縁史跡として石町(こくちょう)時の鐘吉田松陰先生終焉之地碑江戸伝馬町牢屋敷跡がある。

【江戸八臂辯財天】 (大安楽寺境内)

 江ノ島辯財天に三体あり

 一、江ノ島神社  二、岩本楼   三、当辯財天なり

 体内には三体のミニ辯財天が納められ、他に十二体(大日如来、聖観音、不動明王等)

 経典、金光明最勝王、三巻も納められている。

   胎内は金色燦然と輝く

 この辯財天、胎内の諸佛像は桧、漆仕立

   伝 北條政子の発願により作られる。

 

【銅鐘 石町時の鐘】 東京都有形文化財( 十思公園内の鐘楼の横に立っていた説明板)

 江戸で最初の時の鐘は、本石町三丁目(現在の本町四丁目・室町四丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。

 石町鍍木の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永三年(1626)に本石町三丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町から「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。

 本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卯四月中浣鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永八年(1711)に鋳造されたことがわかります。

 「石町は江戸を寝せたり起したり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和五年(1930)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。

     平成十七年三月 中央区教育委員会

【江戸三縁史跡】 (十思公園入口に立っていた説明板)

    石町時の鐘宝永時鐘 都重宝(昭和28年11月3日指定)

 江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間の近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦三年、寛文六年、延宝七年と三度も火災にあい破損したので、その後身として宝永八年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保十年旧本石町三丁目北側の新道の間口十二間奥行十九間三尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき一ヶ月永楽銭一文ずつ当鐚で四文ずつを商業地区の大町小町横町計四百十ヶ町から集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当っていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名であった。当時江戸には日本橋石町、浅草、本所、横川町、上野芝切通、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の九ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁ほどの所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように遅れたこともあって、一名情けの鐘ともいゝ伝えられている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和五年九月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し当時の市長永田秀次郎殿で初撞式を挙行した後東京都に寄進した。

    吉田松陰先生終焉之地

 吉田松陰先生は天保元年(1830)八月四日長州萩の東郊松本村で杉家の次男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年三月師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」同年九月まで約六ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国許萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名等多くの著名の士が出て、中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の働きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政六年七月九日江戸の長州藩邸から始めて評定所に召還されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず。その後の三回の取調で死刑を覚悟した十月二十二日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って十月廿五日より廿六日の黄昏までかゝって書き上げたのが留魂録でその冒頭に「身はたとえ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」十月念五日 二十一回猛士 と記してある。松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に托したが二十年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問應答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政六年十月二十七日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」次いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年三十歳明治廿二年二月十一日正四位を贈位され昭和十四年六月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。

    江戸傳馬町牢屋敷跡 都史跡(昭和29年11月3日指定)

 伝馬町牢は慶長年間、常磐線際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて土堀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があった、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御椓場死刑場役は有名な山田浅右ェ門、それに同心七十八名、獄丁四十六名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当ったという。伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこゝで尊い血を流したものは前者と合せて九十六士に及ぶという。これ等愛国不盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤皇志士九十六名の祠と木碑が建てられてある。

     昭和二十九年十一月 江戸史跡保存協賛會

             平成二年三月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。 中央区土木部公園緑地課


【繊維問屋街】  

 日光道中に戻り、大伝馬本町通りから横山町通りに入ると繊維問屋街になる。両側には衣料品店が沢山並んで冬物一掃セールをやっていた。

 大通りに出たら左折し「浅草橋交差点」を横断して浅草橋を渡る。この浅草橋で国道6号線と合流する。

 「浅草橋交差点」を左折した先に郡代屋敷跡の説明板が立っているはずであるが見つけられなかった。


【浅草見附跡】 (左側) 

 屋形船が沢山繋がれている神田川に架かる浅草橋を渡った左側に浅草見附跡の石碑が立っている。碑の裏の説明は擦れて判別しにくかったが、橋の袂に立っていた「旧町名由来案内」板に見附の説明もあった。

 下の写真で後ろのビルの下が神田川。川沿いに立っているのが説明板。

【旧浅草橋】

 浅草橋という町は昭和九年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。

 江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓、門、橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。

 ここ神田川にはじめて橋がかけたれたのは寛永十三年(1636)のことである。浅草御門の前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。


【天文台跡】 (左側) 11:45

 浅草橋駅周辺は人形問屋街で早くも雛人形セールが始まっていた。

 JRのガードをくぐり、蔵前橋通りと交差する「蔵前一丁目交差点」手前左角に天文台跡と「旧町名由来案内・旧浅草蔵前」の説明板が立っている。

【天文台跡】

 この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋三丁目二十一・二十二・二十三・二十四番地の全域及び十九・二十五・二十六番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。

 天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(1782)、牛込藁店(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「領暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。

 その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、四十三段の石段があった。また、別の史料『寛政暦書』では、石段は二箇所に設けられ、各五十段あり、築山の高さは9mだったという。

 幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の『富岳百景』の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀(こんてんぎ)」を据えた浅草天文台が描かれている。

 ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時(よしとき)らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父の跡を継いだ景保(かげやす)の進言により、文化八年(1811)、天文方内に「番所和解(わげ)御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学所、番書調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。

 天文台は、天保十三年(1842)、九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治二年に新政府によって廃止された。

     平成十一年三月 台東区教育委員会

【旧浅草蔵前】

 本町は、付近の九ヵ町を整理統合して昭和九年(1934)にできた。蔵前という町名が初めて付けられたのは元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府の米蔵があったことから付けられた。

 米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から送られた米を収納するため造られた倉庫で三ヶ所あった。大坂、京都二条の御蔵とあわせ三御蔵といわれた。その中でも特に浅草御蔵は重要であった。米蔵の用地は元和六年に鳥越の丘をけずり、その土砂で隅田河岸を整地し造成された。当時、六十七棟もの蔵があったことから約六十二万五千俵(三万七千五百トン)の米を収納することができた。この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と領地を持たない旗本・御家人に支給する給料米であった。


【首尾の松】 【浅草御蔵跡碑】 (右奥) 

 「蔵前一丁目交差点」を右折した先に見える「蔵前橋」の手前袂右側の歩道に蔵前橋の説明板と首尾の松碑、左側の歩道に浅草御蔵跡碑が立っている。但しこの二つの間に横断歩道がないので反対側に行くには少し戻った信号を渡らなければならないのが不便である。

 ちなみに現在の首尾の松は、江戸時代から数えて7代目とのこと。

【蔵前橋】

 蔵前(くらまえ)の名は、幕府の御米蔵がこの地にあったことから由来する。その蔵の前の地というのが、地名にもなったのである。

 この御米蔵は、元和年間に大川端を埋立てて建てられたが、盛時には、数十棟もの蔵が建ち並んでいたという。ここに関東各地から舟運によって、米が集積されたのである。

 近代になって、政府関係などの倉庫となり、その中には浅草文庫という書庫などもあった。

 蔵前の地は、札差たち江戸商人発祥の地であり、いきや通(つう)のあふれた土地柄となってきた。近代においても、大地震や戦災などの惨禍をのりこえて、種々の商品の問屋街として繁栄をつづけてきている。

 大震災復興事業の一環として、新しい構造の橋が、昭和二年(1927)に完成して、今日に至っている。

     昭和五十八年三月 東京都

【首尾の松】

 この碑から約百メートル川下に当たる、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。

 その由来については次のような諸説がある。

 一、寛永年間(1624−43)に隅田川が氾濫したとき三代将軍家光の面前で謹慎中の安倍豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。

 二、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷掘りから入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。

三、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが、訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。

 初代「首尾の松」は、安永年間(1772−80)風災に倒れ、更に継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河岸の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。

 現代の松は七代目といわれている。

     平成十一年三月 台東区教育委員会

 という訳で、本来の場所とは異なるが上の写真の様に七代目の松が左右に若い松を従えて立っており、前に建つ石碑には「首尾松」と刻まれていた。

【浅草御蔵跡碑】

 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買上米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。

 元和六年(1620)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(1716−36)頃までに浅草御蔵に吸収された。

 江戸中期から幕末まで、浅草御蔵のまえがわを「御蔵前」といい、米蔵を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは、昭和九年のことである。

 碑は、昭和三十一年六月一日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。

     平成十一年三月 台東区教育委員会


【駒形どぜう】 (左側) 12:10〜13:10

 店の前の道路上に大勢の人が順番待ちをしていたが、急ぐ旅ではないので道端の床机に腰掛けて30分待ち、ランチ用の「どぜう鍋定食(2,600円)」と「柳川定食(2,450円)」を注文して二人で半分ずつ食べた。

 私は35年ぶりに訪れたが、以前はやや泥臭かった気がしたドジョウも今は全くそのようなことがなくとても美味しかった。

 垂れ幕には「創業二百十年」と書かれていた。

 駒形の御堂の前の綺麗な縄暖簾を下げた鰌屋はむかしから名代なものだ   夏目漱石『彼岸過迄』

 

 駒形どぜうの創業は、享和元年(1801)一月です。

 初代は武蔵国(埼玉)の出身で、十八歳の時に江戸に出ました。数年の奉公後どぜう汁、どぜうなべを商うめし屋を開き、越後屋助七を名乗りました。

 以来二百余年、味とおもてなしに江戸情緒を残し、皆様より格別のお引き立てをいただいております。

【どぜうは江戸庶民のスタミナ食】

 江戸時代から庶民に親しまれているどぜう。カルシウムやビタミン、鉄分などが豊富なうえ、コラーゲンもたっぷりで、美容にもいいです。

 なかでもどぜう鍋は、『一物全体食』、つまり頭から尾まで全部食べることで栄養を丸ごと体に取り入れる、優れた栄養食。ネギと一緒に召し上がると、カルシウムの吸収も良くなります。

【どぜうなべ】

 生きたどぜうにお酒をかけ、酔ったどぜうを甘味噌仕立ての味噌汁に入れて煮込みます。このどぜうを鉄なべに並べて、ねぎをたっぷりのせて召し上がるのが昔からの味わい方です。

【柳川】

 柳川なべにささがきごぼうをしいて、ひらいたどぜうを並べ、玉子でとじます。ごぼうはねぎとともに、古くから食用にされた野菜のひとつです。

【どぜう汁】

 江戸甘味噌のちくまを使い、お酒をのませたどぜうに、ごぼうをあしらいます。これこそ江戸時代から代々伝える味です。

     店のパンフレットより


【浅草駒形堂】 (右側) 13:15

 駒形どぜうを出て次の「駒形橋西詰」交差点を直進して浅草寺雷門に向うのが日光道中である。

 この交差点を右折した所に架かる橋が「駒形橋」で、対岸に有名なアサヒビールの金色オブジェが見え、正面には建設中の「東京スカイツリー」が聳え立っている。2011年1月現在、第2展望台と頂上のアンテナ部分が工事中で、12月に世界一の自立した電波塔(高さ634m)が完成する。

 その交差点を渡った右角に駒形堂が建っている。また境内左隅に浅草観音戒殺碑がある。

 写真の赤い御堂が駒形堂。

 

【ご本尊ご示現の聖地 駒形堂】

 駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世院菩薩さまが、およそ千四百年前、隅田川よりご示現(じげん)なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。

 昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向った。

 このお堂のご本尊さまは馬頭観音さまで、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。

 現在のお堂は平成十五年に再建されたもの。

 今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の十九日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。

馬頭観音さまのご真言・・・「おん あみりとどはばうんはった」

     金龍山 浅草寺

【浅草観音戒殺碑】 都郷土資料(昭和46年3月30日指定)

 総高183.5センチ。元禄五年(1692)浅草寺本尊が垂迹(すいじゃく)した霊地として、駒形堂の地を中心に南は諏訪町より、北は聖天岸にいたる10町余の川筋を魚介殺生禁断の地にした。このことを記念し、元禄六年三月浅草寺第四世宣存が願主となり建立したものである。

 駒形堂はしばしば焼失しており、戒殺碑はいずれかの火災に際して倒壊しており、宝暦九年(1759)堂宇再建に伴い再び建てられたといわれる。現在の碑が当初のものであるか、再建したものであるかは詳かではないが、昭和二年(1927)五月に土中から発見、同八年修補再建されたものである。

     昭和四十六年十月一日 建設  東京都教育委員会 


【浅草寺雷門】 (左側) 13:22

 「駒形橋西詰」交差点を直進すると、すぐ雷門に突き当たる。

 当初、屋根の改修を終えたばかりの浅草寺と隣の浅草神社にお参りする予定であったが、着いてみたら大混雑にビックリ!

 参詣する大勢の人々が身体を密着させて全く身動きもままならない姿で固まっており、お参りどころではなかった。仲見世通りのみならず脇道もびっしりでお寺にたどり着くまで何時間かかるか分からない状態であった。

 仕方がないので、本来の日光道中どおり、雷門前の交差点を右折して国道6号線に戻る。この僅かな距離の道も大混雑で進むのに苦労した。

 雷門から真直ぐ国道を横断すれば吾妻橋。日光道中は国道(吾妻橋交差点)を左折して浅草駅前を進む。

 松屋デパートでトイレ休憩。


【花川戸公園】 (左奥) 13:40

 東部伊勢崎線のガードをくぐり、角に「二天門通り」の案内がある次の信号を左折した右側に花川戸公園がある。この二天門通りは「浅草観音東参道」でもある。

 園内には、姥ヶ池跡助六歌碑があり、旧町名由来案内板も立っている。

 姥ヶ池跡の碑は倒壊したためブルーシートに 覆われて周りをフェンスで囲われていた。

【花川戸公園】

 この花川戸公園は、昭和25年に台東区立の公園として開設され長く親しまれてきた。

 昭和62年度、花川戸公園は園内の歴史的事物を大切に護りながら、未来の人々にも愛されつづけられる公園になるよう整備された。公園東側の池は、この地に伝わる一の塚伝説の舞台でもある姥ヶ池を、公園の修景に配慮して表したものである。また、広場に設置された模様や絵タイルは、台東区の代表的な自然地と、それに深く関わりながら人々によって育み見守れて来た文化的な事物を表している。

【姥ヶ池】 東京都指定旧跡(昭和14年12月指定)

 姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。

 昔。浅茅ヶ原の一軒家で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷きになって死ぬ。それを悲しんで悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。

     平成八年三月八日 建設  東京都教育委員会

【姥ヶ池跡】

 いわゆる石枕伝説の舞台となった姥ヶ池は、今日その跡に碑を残すのみである。

 昔、浅茅ヶ原の一軒家に住んでいた老女。美貌の娘をおとりにして旅人に一夜の宿をかしては、寝込んだところを石を落として殺し、身ぐるみはいでいた。その数999人。これを見た浅草観音は若衆に変化して訪れる。例のごとく手に掛けてみれば、頭を砕かれ死んだのは自分の娘であった。

【助六歌碑】

 碑面には、

    助六にゆかりの雲の紫を

       弥陀の利剣で鬼は外なり   団洲

の歌を刻む、九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。

 歌碑は、明治十二年(1879)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現、清川1−4−6)に建立した。大正十二年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが一年後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再造立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建、鳶花川戸桶田」と刻む。

 歌舞伎十八番の一つ「助六」は、二代目市川団十郎が正徳三年(1713)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保三年(1832)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(現、足立区伊興町狭間870)に墓がある。

     平成十一年三月 台東区教育委員会

【旧 浅草花川戸一・二丁目】

 本町は、昭和九年(1934)、この地にあった町を整理統合し誕生した。

(中略)

 町名の由来ははっきりしないが、川や海に臨む地に戸を付けることが多いという。花川戸の地は、桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など桜と隅田川に結びついていたので、この名が付いたのではなかろうか。

 昭和四十年(1965)、住居表示の実施で浅草花川戸一・二丁目は、浅草の二文字を略しそのまま花川戸一・二丁目になった。

 花川戸公園から国道の「東参道交差点」に戻る途中、隅田川を挟んで真正面に東京スカイツリーの勇姿がビルの間から望めた。


【待乳山聖天(まつちやましょうでん) (日光街道からは右奥) 13:50〜14:08

 日光道中は、次の「言問橋西交差点」から左斜めの道を進むのであるが、私達は待乳山聖天(本龍院)に寄り道する為、真直ぐ進んだ。この交差点に待乳山聖天の大きな案内板が掲げられている。

 国道6号線はこの交差点を右折して言問橋を渡り、対岸の向島へ入って行く。

 待乳山聖天への入口は「言問橋西交差点」から真直ぐ進めば次の信号を左に入った所、左斜め 日光道中に進んでも次の信号を右に入った所にある。

 本堂内部は無料で自由に参詣できる。

 本堂の外陣格天井には堅山南風画伯揮毫による墨画の竜と、左右に極彩色の天女が描かれており、仏前には沢山の大根が積まれていた。

 大根は人間の深い迷いの心、瞋(いかり)の毒を表すといわれており、大根を供えることによって、聖天さまがこの体の毒を洗い清めてくださるとのこと。

 入口で大根を売っていたのは何故かと思っていたのでパンフレットを見て納得。1月7日の大根まつりにはふろふき大根が無料で振舞われるらしい。

 また、庭園も自由に見学でき、小高いここからも東京スカイツリーが良く見えた。

 庭園を囲っている土塀の築地塀(ついじべい)は、江戸時代の名残をとどめ、塀の前に立つ出世観音は足利時代の作という。

 ここは、浅草七福神の一つで、毘沙門天もお祀りしている。大勢の人が七福神巡りをしているらしく、七神をまとめられる出来あいの色紙に朱印を貰っていた。

 他の七福神は、浅草寺(大黒天)・浅草神社(恵比寿)・今戸神社(福禄寿)・矢先稲荷神社(福禄寿)・不動院(布袋尊)・石浜神社(寿老人)・鷲神社(寿老人)・吉村神社(弁財天)である。

【築地塀】 (右の写真)

 江戸時代の名残りをとどめる唯一のもので貴重な文化財である、

 全長二十五間(45.5メートル)

 広重の錦絵にも描かれている

【出世観音】 

 昭和十一年境内整地のおり御頭のみが出土され、足利末期(1600年頃)の作と鑑定された。学業芸道に志す者の尊信をあつめている。

【待乳山と尊天鎮座のいわれ】

 待乳山は、浅草は隅田川の西岸に望む海抜九米半、わずか千坪に満たない小丘陵でありますが、下町の平坦な地の一画に、うっそうとした木立に囲まれた優美な山の姿が、遠い昔から多くの人々の関心を呼び起こしてきたといえましょう。

 「武蔵国隅田川考」(中神守節述)によれば、「真土山は隅田川のほとりにて、西の方なり、此所を山の宿といえるは、真土山ありてよりの名なるにや、古くはよほどの山にて、うち開きたる所とおもわるれど、いまはわずかな所にて、その上に聖天の宮居ありて、自然の山というべくも見えず、後世つきたるごとし」とあり、今からおよそ三百年前、萬治、寛文のあたりまでは、遥かに大きな山で、極めて風景のよき所であったろうと、述べられています。

 明治初年の頃までは、それでも僅かに往時の面影を止めていましたが、大正の大震災後、防災上の見地から山の周囲をコンクリートの擁壁で固められる結果になったのであります。

 また、当山に伝える縁起録によれば

 推古三年九月二十日、浅草寺観世音ご出現の先端として一夜のうちに湧現した霊山で、その時金龍が舞い降り、この山を守護したことから金龍山と号するようになった。その後、同じく推古九年夏、この地方が大旱魃に見舞われた時、十一面観音菩薩が悲愍の眼を開き、大聖歓喜天と現れたまい、神力方便の御力をもって、この山にお降りになり、天下萬民の苦悩をお救いあそばされた。これがこの山に尊天が鎮座ましました起源であると記されております。

 爾来、今日に至るまで千四百年、関東における尊天霊場の一つとして、その尊域を護り継がれてきたということは、いうまでもなく、当山の尊天のご霊験あらたかである証しであるとともに、幾多の先人たちの厚い信仰心のおかげであるということができましょう。

     パンフレットより


【今戸神社】 元今戸八幡宮 ( 日光道中からは右奥) 14:15

 待乳山聖天から元の道( 日光道中ではない)に戻り、次の信号を斜め左に入ると今戸神社がある。

 境内に入って、ここでもビックリな光景に出くわした。なんと広い境内いっぱいにお参りする若者の列が続き、本殿に近づくこともままならなかった。また、お札を買うにも長蛇の列だった。由緒を読んだら、ここが縁結びの神社であることが分かって納得。

 今戸焼発祥の地碑が建てられていると言うが、この混雑では見つけられなかった。早々に西側の出口から日光道中へ戻る。

    御祭神 : 應神天皇  伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざまみのみこと)  福禄寿

 当社は、元今戸八幡宮と称し、御冷泉天皇の時代康平六年(1063)源頼義、義家父子は勅令に依り奥州の夷賊(いぞく)安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に至り、京都の石清水八幡を鎌倉鶴ケ丘と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。

 應神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓親征の際、時恰(ときあたか)も天皇を宿されてその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。

 したがって應神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。

 伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫妻の神は加賀の白山比(しらやまひめ)神社の御祭神にして、嘉吉元年(1441)千葉介胤直(たねなお)が自分の城内に勧請しました。

 諾冉(だくねん)二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。

 昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。

 今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。


【泪橋】 

 街道に戻って南千住駅に向う途中、明治通りの「泪橋交差点」を横断する。かつてここの北の小塚原刑場跡近くに今は暗渠化された思川(おもいがわ)が流れていて、そこに泪橋が架かっていた。処刑される罪人と家族がこの橋の上で最期の別れをし、泪を流しあったことからこの名が付けられたと云う。

 現在はその面影がなくなって、交差点等にその名前が残るのみとなった。

 同じ話が東海道の品川宿の先にあり、そちらにある浜川橋は別名涙橋といい、江戸府内から鈴ケ森刑場に送られる罪人をひそかに見送りにきた親族が、この橋で涙を流しながら別れたということからそう呼ばれたと云う(旧東海道3回目参照)。


【延命寺】 (左側)

 「泪橋交差点」を越えるとすぐ街道は貨物線に阻まれるので、高架橋で渡る。

 渡り終わったすぐ左の延命寺に「小塚原刑場跡 」と「首切地蔵」があるはずだが、キョロキョロしているうちに常磐線のガードをくぐって回向院前まで来てしまったので、残念ながら見逃してしまった。

≪ここには、後日(2012年11月1日)訪れたので下記追加する≫

 高架歩道橋を渡り終えたすぐ左にある延命寺の入口右側の塀の前に小塚原刑場跡の説明板と小塚原の首切地蔵の標柱が立っている。

 地蔵は、2011年3月11日の東日本大震災で左腕の落下と胴体のズレが生じたが、この時はほぼ修復され、続いて第二期修復工事が行われるとのことだった。

小塚原刑場跡】

 江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の二つである。

 小塚原の刑場は、間口六十間余(約百八メートル)。奥行三十間余(約五十四メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。

 首切地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に造立されたものである。

     荒川区教育委員会

小塚原の首切地蔵】 荒川区指定文化財(昭和61年2月13日指定)

 小塚原での刑死者の菩提を弔うため寛保元年(1741)に建立されたこの地蔵は、二十七個の花崗岩で組み合わせた全体の高さが四メートルに近い座像で、台座には発願者・石工の名が刻まれている。奥州街道沿いにあったので、江戸に出入りする多くの人が目にしたという。明治二十八年(1895)に土浦線(現常磐貨物船)敷設工事のため線路の南側から現在地に移されたが、人々に安らぎを与えてきた慈悲の姿は変わるところがない。


【回向院(えこういん) (左側) 14:40〜14:50

 回向院には、橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎・高橋お伝・鼠小僧等の墓が右側の一角に整然と並んでいる。

【回向院】

 回向院は、漢文七年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観(ていよぎかん)が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。

 安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。

 明和八年(1771)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に『解体新書』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正十一年に観臓記念碑が建立された。

     荒川区教育委員会

【小塚原の刑場跡】 荒川区指定記念物(史跡) (平成18年1月13日指定)

 小塚原の刑場は、漢文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行30間余り(約54m)、約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の街並が途切れる場所に位置していました。

 小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけでなく、刑死者や行き倒れ人達の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや臓分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されたこともありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。

 明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地にとなっていきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで臓分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。

     平成20年3月 荒川区教育委員会

【橋本景岳先生の生涯と墓所の由来】

 橋本景岳先生は、天保五年(1834)三月十一日、福井藩の藩醫橋本長綱の長男として生れ、名を綱紀、通稱を左内、号を景岳又は黎園といった。

 幼少の時から學問を好み、やがて藩儒の吉田東篁について儒学を學び、ついで大坂の緒方洪庵、江戸の坪井信良、杉田成卿等について蘭學を修め、その見識は當時の第一流の人々を驚かせるまでに至った。有名な「啓発録」は、嘉永元年、十五歳の時、自戒のために書いたもので、先生の人物、思想は、すでにこの著書の中に示されてゐる。

 嘉永六年のペルリ来航以来、わが國は急速に内外の問題が多事多難となり、しかも藩主松平春嶽公は、幕政改革の先頭に立ってゐたので、この俊秀なる青年を抜擢してその側近に加へ、これより先生は公の理想の具現のために心血を注ぐこととなる。しかるに春嶽公の政策は、新たに大老に任ぜられた井伊直弼のそれと相容れず、公は幕命によって隠居慎みを命ぜられ、ついで先生も幽門の身となり、翌六年十月七日、江戸傳伝馬町の獄内において死刑に處せられて、二十六歳の短い生涯を終へた。長州藩の吉田松陰とともに、安政の大獄において日本が失った最も惜しい人物である。

 先生刑死の日、同藩の長谷部恕連(よしつら)は、春嶽公の命を受けて先生の遺骸を小塚原の回向院、すなわちこの地に埋葬して、「橋本左内墓」と刻んだ墓表を建てたが、幕吏は刑人の墓を建ててはならないといって、これを許さなかったので、改めて「黎園墓」の三字を刻んだものを建てた。しかるにその後、井伊大老は倒され、先生の罪も許されたので、文久三年(1863)五月、この墓石は遺骸とともに福井に移され、善慶寺の橋本家墓所に改葬されたが、明治二十六年、その墓石のみ、再び回向院内のもとに地にもどして再建され、さらに昭和八年、破損の甚だしくなった墓石を風雨より守るために新たに套堂(さやどう)が設けられて今日に至った。

 套堂の向って右に聳えてゐる巨碑「橋本景岳之碑」は、明治十八年、先生と親交のあった福井藩士及び先生門下の人々によって建立されたもので、碑文は先生の盟友西郷隆盛の友人重野成斎の作により、巌谷修が書し、三條實美が写額したものである。

     昭和四十九年十月 景岳會

【蘭学を生んだ解体の記念に】

 1771年・明治八年三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ臓分を見に来た。

 それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。

 その帰りみち三人は発奮してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに1774年・安永三年八月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。

 これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化が芽生えるきっかけとなった。

 さきに1922年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、1945年2月25日戦災を受けたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅版だけをここへ移して、あらたに建てなおした。

     1959年 昭和三十四年三月四日 第十五回日本医学会総会の機会に

                                日本医師学会 日本医学会 日本医師会

橋元左内の墓

吉田松陰の墓

左端:鼠小僧の墓  右から2番目:高橋お伝の墓

「解体新書」絵とびら


【素盞雄(すさのお)神社】 (左側) 15:05〜15:15

 日光道中は回向院前を進み、国道4号線に合流したら右折して行く。寄り道として回向院先の「南千住七丁目」信号を左折して国道4号線に出た所にある円通寺に彰義隊士の墓と寛永寺から移された弾痕が残る黒門が保存されているとのことで、行く予定だったが行き過ぎてしまい、国道に出たときは遥か後方だったのでここも諦める。

 日光道中が国道4号線と合流する「南千住交差点」左角に千住天王素盞雄神社がある。

 本殿の右手に芭蕉の句碑(下の写真の中央の石)があり、旅立ちの句「行く春や 鳥啼魚の 目はなみだ」が刻まれている。句碑の手前には隅田川と千住大橋を模した小川と小橋が架かっていた。

 また、境内には謂れを解説した沢山の説明板が立っており、丁寧に読んでいたらかなり時間が掛かってしまうそうだ。

 境内には奇岩と言われる瑞光石が祀られており、説明板が2面あった。

【素盞雄神社】

 小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。

 石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるのもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦十四年(795)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。

 宝暦年間(1751〜64)頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、『東都歳時記』(天保九年)にその勇壮な様が描かれている。

     荒川区教育委員会

【瑞光石】

 瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。

 嘉永四年(1851)には周囲に玉垣を築き、元治元年(1864)には浅間神社を祀った。

 万延元年(1860)に編纂された『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現・隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。

     荒川区教育委員会

【知っていますか?天王様のこんなこと《瑞光石》】

 御祭神すさのお大神・あすか大神が光を放ち降臨した小塚の中の奇岩を瑞光石と言います。

 文政12年(1829)編纂の『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋に際して、この瑞光石の根が川(現・隅田川)まで延びていた為に橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。

 この瑞光石のある小さな塚から『小塚原』の地名が起こり。『江戸名所図会』には「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介され、弁天様を祀る御手洗池・茶屋など当時の情景をも窺うことができ、元治元年(1864)には富士塚を築き浅間神社を祀り、門前の茶店では厄病除けの麦藁の蛇が土産に売られているなど、富士参りの参詣者で賑わいました。

 尚、現在周辺の小学校の『第*瑞光小学校』と冠された瑞光もこれに因むものです。


【千住大橋】 【奥の細道 矢立初めの地】 (左側) 15:20〜15:30

 素盞雄神社からすぐ隅田川に架かる千住大橋を渡る。渡る手前左側に先住大橋の解説と錦絵の銅版画が掲げられている。

【千住大橋】

 “千住大橋”は“千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って四百年の文禄三年(1594)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。

 当所は、ただ“大橋”と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから“千住”の地名を付して呼ばれるようになった。

 江戸時代の大橋は木橋で、長さ六十六間(約120メートル)、幅四間(約7メートル)であった。

 奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。

 松尾芭蕉が、奥州の旅で、人々と別れたところも、ここである。

 現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和二年(1927)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和四十八年(1973)新橋がそえられた。

     昭和五十九年三月 東京都

 大橋を渡った左側にある大橋公園には奥の細道 矢立初めの地の碑(下の写真参照)と説明の碑が建っている。この公園にトイレもある。

 松尾芭蕉が深川から船に乗りここに上陸して奥の細道へ旅立った場所である。

【千住大橋と奥の細道】

 千住大橋は文禄3年(1594)、伊奈備前守忠次を普請奉行として、現在地よりやや上流の位置に隅田川最初の橋として架けられました。まだ治水も十分でなかった大川での架橋は難工事でした。伊奈備前守は、工事の際に熊野権現に祈願して、架橋の無事完成を期したと伝わっています。その後いくたびか架け替えや修理が行われました。現在の鉄橋は、昭和2年(1927)に完成した長さ92.5mで、当時としては総アーチ型という最新の橋でした。

 江戸時代の俳人、松尾芭蕉は元禄2年(1689)、門弟曽良とともに深川より隅田川を船でさかのぼり、同年3月27日にここ千住大橋の辺りで船を降り、「奥の細道」の旅へ立ちました。この時、矢立より筆を取って「行春や鳥啼魚の目は泪」と一句。過ぎ行く春を惜しむと同時に、旅立つ者に人ばかりか鳥や魚までが別れを悲しんでいるという意味です。そこには、江戸を離れる芭蕉の想いが隠されています。その後、奥州・北陸をへて大垣に至る約600里、半年にわたる行脚をし、道中の詠句をもとに「奥の細道」が編まれました。

 公園から川岸のテラスに降りられるが、鉄の門があり9::00〜16:00のあいだだけ開門している。

 下に降りると、芭蕉と曽良の旅立ちの絵(与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」)や、広重と北斎の錦絵げ壁面に描かれている。また、千住についての説明板も多数立っており、小さな船着場もある。

 

【おくのほそみち 旅立ちの地】 左の写真・「奥の細道図屏風」絵に添えられた文章)

 千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪そゝく

【千住の大橋と荒川の言い伝え・大橋と大亀】

 千住の大橋は隅田川に架けられた最初の橋です。この川は以前荒川とも渡裸川(とらがわ)とも呼んでいました。昔は文字の示すように荒れる川でありトラ(虎)が暴れるような川と言われていました。こうした川に橋を架けることは難工事ですが当時土木工事の名人と言われた伊奈備前守忠次によって架けられました。千住の大橋の架橋については“武江年表”文禄三年の条に「・・・中流急湍にて橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて船を圧す。船中の人水に漂う。伊奈氏熊野権現に祈りて成就す」と書いてあります。川の流れが複雑でしかも地盤に硬い所があって橋杭を打込むのに苦労したようです。そうした事から完成時には一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。

 ここで大亀の話が登場するのです。この付近の川には、ずっと以前から川の主といわれる大亀が棲んでいて、そのすみかが橋の川底にあったので、打込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。いくら打込もうとしても橋杭は入っていきません。そうしているうちに杭は川の流れに押し流されてしまいました。その場所をさけて岸辺に寄ったほうに杭を打込んだところ、苦労もなく打込めました。見た目には橋脚は不揃いになってしまいました。川を往来する舟が橋の近くで転覆したり橋脚にぶつかると大川の主がひっくり返したとか、橋脚にぶつけさせたと言われています。船頭仲間でも大橋付近は難所として、かなり年季の入った船頭さえ最大の注意を払いここを通り越すと“ほっと”したそうです。

【大橋と大緋鯉】

 千住の大橋から十数丁遡った対岸の“棒木山(はんのきやま)”から下流の鏡ケ渕に至る流域を棲家としていた大緋鯉がいました。大きさは少さな鯨ほどもあり、緋の色の鮮やかさ目も覚めるばかりでした。かなり深いところを泳いでいてもその勇姿が認められ、舟で川を往き来する人々の目を楽しませていました。人々は大川の御隠居と言って親しんでいました。ところが大橋を架ける事となり杭を打込み橋脚を作ってゆくと脚と脚が狭くて大緋鯉が通れなくなり、大緋鯉が棒木山から鐘ケ渕へ泳いで来ると橋脚にその巨体をふつけてしまいます。橋がグラグラ動いて、立てたばかりの橋脚が倒されそうになります。橋奉行は付近の船頭達に頼み大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしましたが、ものすごい力を出して暴れ回り思うように捕獲出来ません。櫓で叩いたり突いたりしましたが捕らえられません。とうとう鳶口を大緋鯉の目に打込みましたが、目をつぶされただけで網を破って逃げさりました。しばらくの間緋鯉は姿を見せませんでしたが、片目を失った緋鯉は目の傷が治ると、以前にも増して暴れ回り、橋脚によくぶつかり今にも橋が倒れそうになります。こうした事が続いては困るので橋脚を一本岸辺に寄せて幅を広く立替え、大緋鯉がぶつからずに泳ぎ回れるようになり、舟の事故がなくなりました。その後も緋鯉の大きく美しい姿が人々の目を楽しませてくれた事はいうまでもありません。

     千住大賑会

【橋戸河岸で陸揚げされた産物】

 産物は多種にわたっている。

 この中には、赤穂塩や斉田塩など中国地方のものや薩摩のものとして知られた黒砂糖など遠隔地の物資も陸揚げされている。

 その他、食品類をはじめ肥飼料、材木、石材など多様な産物が取り扱われている。

 帰りは大橋公園に戻らず、千住大橋の下に架かる千住小橋(左の写真で、大橋の下に小橋が架かっている)を渡って反対側に出て、国道の右側に上ると良い。

 反対側にも説明板等があり、この先で国道から分かれて右の道へ進むからである。

 この小橋の途中で川の中を覗くと、水中に木橋時代の橋杭が三本眠っているのが見られる。

【水面に浮かぶ三個のブイの謎】

 それは木橋時代の橋杭が水中に三本眠っている事を示している。

 千住の大橋は徳川家康が文禄三年(1954)に隅田川に初めて掛けた橋で、橋の木材は架橋を進言したという伊達政宗が腐食に強いとされる高野槇を提供したという。

 昭和二年に震災復興計画で木橋より頭上の鉄橋に掛替た時に残った橋杭である。

 その水中より引抜かれた橋杭を材料にして千住生まれの彫刻家冨岡芳堂(1890−1957)が恵比寿大黒天などを造っている。これらの作品は現在も元やっちゃ場の家々を中心に千住の町屋に大切に保存されている。

※戦前までは橋杭は小学校の校庭の片隅に有り子供達の遊び場だったが、戦争の困乱時に鉄は供出、木はかまどで灰になった。

     千住大賑会


【道標】 (左側)

 国道4号線に上がってすぐ、「足立市場前交差点」で国道と別れて右真直ぐの道に入ってゆく。

 この交差点の右一帯は足立市場で、正面詰め所に行けば場内の見学が出来るとのこと。また、食堂は自由に利用できる。とはいっても本日は日曜日なので場内には誰もいない。

 国道と日光道中の分かれる三角点に道標が立っていて、 「右 国道四号」「左 旧日光道中」と刻まれている。


【奥の細道プチテラス】 (右側)  15:35

 旧道に入ってすぐ右側に芭蕉の像が立っている奥の細道プチテラスがある。

 平成十六年は芭蕉生誕三百六十年に当たり、当地旧日光道中の入口に石像の建立が実現しました。

 千住は奥の細道への旅立ちの地であり、矢立初の句「行春や 鳥啼 魚の目は泪」の句が残されています。

 この先の旧道は元やっちゃ場の地であり、明治以降は正岡子規、高浜虚子も訪れていて、特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号=菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていました。

 芭蕉像に到る足元の敷石はやっちゃ場のセリ場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷石があるかも知れません。遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻き立てます。

 人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。奥街道を旅することで何かを感じるものがあるかも知れません。

     千住大賑会 手漉和紙


【元やっちゃ場南詰】 (左側)

 細道プチテラスのすぐ先、川魚問屋「兜ゥ平」の壁に此処は元やっちゃ場南詰の木板の説明が掲げられている。

【やっちゃ場の由来】

 やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。

 街道の両側に三十数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響きわたり江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。昭和十六年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来青物市場は東京都青果物市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみが残った。

 五街道の奥州街道・日光道中の両側に三十数軒の青物問屋が軒を並べている。まさに専門店街である。

 日本の専門店街がここから始まった。と言っても良いだろう。

     旧道を楽しくしょうかい(会) 千住大賑会

【鮒平と千住】

 川魚問屋鮒平は初代平治郎により明治初頭にここ千住に創業された。それ以前当家は江戸時代中期より街道沿いで茶屋吉見屋を生業としていたと伝え聞く。現在は鰻を主に取り扱っているが平次郎創業時は川魚の代表格であった鮒も主力に商っていたとの事。メモでその鮒と平次郎の頭文字をとって屋号を鮒平としたことは容易に想像できる。現在千住の名物となっている鮒のすずめ焼きを調理し新橋の老舗佃煮店に卸していた時代もあったと聞く。

 都内には川魚関係の屋号に鮒を用いている場合が多い。特にここ千住はその地理的特性(すなわち東京湾奥や関東平野各地からの交通の要所であった)から川魚の集積地であった為街道沿いには鮒を屋号に用いる店舗が散在している。隣の橋戸町は鮒金(佃煮)、日光街道を北に向うと掃部宿(仲町)には鮒興(川魚問屋)があり本宿(二丁目)には鮒秋(佃煮)が現存している。そのほか古い町並図にはここ香春町には鮒甚、仲町には鮒治の屋号を確認する事ができる。

     平成十九年十月吉日 鮒平

 この他、この通りの両側には屋号と共に鮒平のような説明木板が沢山並んでいた。そのほとんどが「元青物問屋」であった。全部を載せるときりが無いのでもう一つ載せておく。

大喜 新大坂屋(元青物問屋)】

 当主為成善太郎は俳諧を良くし俳号を為成菖蒲園と称す。高浜虚子の指導を受け昭和十九年ホトトギス同人に推薦される。やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場会」である。菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地域の句会の指導を続けている。

 今でも千住の俳句会では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。

     寄贈 千住金久漬物株式会社


【芭蕉句碑と千住宿歴史プチテラス】 (左側) 15:45

 京成線のガードをくぐった少し先左側に白壁の土蔵を利用した千住宿歴史プチテラスがあり、その門前に芭蕉の句碑が建っている。下の写真に写っている左側の磨かれた石に「鮎の子の しら魚送る 別哉  芭蕉」と彫られている。

 建物内の展示は一定期間ごとに変わり、この日は東京中の七福神の写真が館内の壁一面にびっしり貼られていた。入場無料でトイレもある。

【千住宿歴史プチテラスとやっちゃ場】

 このあたりは「やっちゃば」とよぶ江戸時代から続く青果物問屋街で関連する商家が建ち並んでいました。今でも当時の屋号が伝わっています。

 取引は掛売りで行われており、売掛台帳を大切にしていました。そのため、戦災で焼失する以前は敷地の奥に蔵がたくさん建っていました。

 千住宿歴史プチテラスの建物は、千住四丁目の元地漉き(じすき)紙問屋横山家にあった内蔵を平成5年に解体移築して土蔵です。蔵は間口3間半×奥行2間半の木骨土蔵造りです。

・天井は小屋根裏がアラワシになっていて伝統的な和小屋組みが見られます。

・屋根裏中央の小屋梁には天保元年(1830)と書かれた棟札が貼られています。

・二階の床板は展示効果のため一部撤去してあります。

・二階への階段は物入れのついた箱階段です。

・外壁は厚さ0cmくらい厚みがあったと伝えられています。


【道標】 (左側)  15:50

 千住宿歴史プチテラスのすぐ先左側クリニックの前に道標が立っていて、正面に「旧日光道中」、右側面に「是より西へ大師道」と刻まれていた。

 大師とは、日本三代大師の一つ「西新井大師」のことで、「千住仲町交差点」から北西に5Km程行った所にある。他の二つは佐野大師と川崎大師。

 道標には、ここから左奥100m先にある河原稲荷神社の案内板が縛り付けてあった。

 それには、足立区登録文化財(千貫神輿、神道厨子)、(区内最大の狛犬 浅草神社と同作者)と書かれていた。

 後ろの建物の壁には屋号が取り付けてある。先に述べた様に、このような屋号がどの建物にも付いていた。


【千住宿】 日本橋から2里8丁(8.7Km)、日光の入口鉢石へ33里31丁 20間 

 宿内人口:9,956人、総戸数:2,370軒(本陣1・脇本陣1・旅籠55)

 日本橋を出て、日光道中最初の宿場。千住の起源は古く、昔は関屋とも呼ばれていた。鎌倉時代初期には関が設けられていた。

 江戸時代の大慨帳によると千住について、「千住五ヶ町(一丁目〜五丁目)、掃部宿、橋戸町、河原町、小塚原町、中村町。右之分此宿町組にて、惣名 千住宿と相唱」とある。


【一里塚跡(右側) 【千住高札場跡】(左側) 

 千住宿歴史プチテラスから二つ目の信号のある交差点(千住仲町商店街のアーケードがある交差点)の右側に一里塚跡、左側に千住高札場跡の石柱が立っている。共に交差点より少し入った所の車道側に立っている。


【千住宿問屋場跡】 【貫目改所跡】 (左側) 16:00

 交差点を渡った左側、東京芸術センター前広場の街道脇に石碑と説明板が立っている。

 旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。

 宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋場は元禄8年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150Kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話しもあります。

 江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7Km)ですから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったでしょう。

 この場所は、問屋場・貫目改所として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程度低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。

 この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています(添付の図を見ると、これらの場所は広場の右奥にあったことになる。写真右側の赤い建物の前あたり)

 日光道中を挟んで右側には東京藝術大学がある。

 賑わっている商店街を通り、北千住駅入口の交差点で本日の旅を終える。



 1回目の旅終了(16:10) 北千住駅入口の千住二丁目交差点。

  北千住駅より東京メトロ日比谷線 、中目黒から東横線に乗り換えて横浜へ戻る。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、8.7Km(日本橋元標〜千住二丁目交差点

          日本橋から二里八町(8.7Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、12.2Km(日本橋元標〜北千住駅) 累計12.2Km

          5時間45分 20,000歩。

 

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奥の細道 1回目