江戸 (日本橋 → 板橋駅) <旧中山道1回目>

2005年9月17日(土) 晴

 日本橋の道路元標 を10:10スタート。 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 東海道と合流する草津宿へ129里10町(507.7Km)、京都三条大橋まで135里34町(533.9Km)。

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 近年、地球温暖化や地球規模の異常気象が騒がれるようになってきたが、2005年は更に顕著になってきたと思われる。

 今夏は梅雨入りが異常であった。沖縄では梅雨前線がいつまでも停滞して明けるのが遅れ、関東地方は早く明けて猛暑。東京では雷が記録的に多く、夏日が約60日もあった。更に各地で降った雨が豪雨となり大きな被害が出たのに、高知県の早明浦(さめうら)ダム付近には雨が降らず8月19日には貯水率0%となってしまった。その後各地に被害を出した9月7日の大型台風14号で 一気に100%まで回復した。

 8月末にアメリカ南東部を襲った超大型ハリケーン・カトリーナは、ジャズの町ニューオーリンズの8割を水没させ1100名以上の死者を出した。

 台風やハリケーンが強大化したのは、世界的に海水温が上昇した為であった。

 また、日本が亜熱帯化してきた証拠に、生物の北上がある。具体的にはクマゼミが茨城から青森まで北上、毒を持っているセアカゴケグモが越冬、テング熱を媒介するヒトスジシマカが上陸した等である。

 東海道が終わって次ぎは中山道と思い立ったところでこのような状態(猛暑と豪雨)になって歩けなかったが、やっと本日スタートできた。


【日本橋】 国指定重要文化財

 日本橋の解説は、旧東海道の1回目参照。

 日本橋を見る度に思うのだが、貴重な橋の景観をこわしている上の首都高速道路を何とか移動できないものだろうか。

 地元では景観を元に戻そうと運動していると聞いているが。

(左の写真は南詰西側から写したもの)

 道路元標(右の写真)は北詰西側にある。

 元標そばに里程標が2面あり、北方面の都市への距離は、「千葉市37粁」「宇都宮市107粁」「水戸市118粁」「新潟市344粁」「仙台市350粁」「青森市736粁」「札幌市1156粁」となっていた。

 南方面の都市への距離は、旧東海道の1回目参照。


【魚河岸記念碑】 (右側)

 日本橋の北詰東側にある。

 徳川家康の関東入府後、摂津から漁民が佃島に移り住み、幕府の台所に供する為に漁業を営んだ。のち、上納する残りの魚を舟板に並べて一般庶民にも販売するようになった。これが日本橋魚河岸の始まりで、関東大震災まで、江戸及び東京の台所として活況を呈していた。

 竜宮城の住人である海の魚がことごとく日本橋に集まったという意味の「日本橋竜宮城の港なり」と言われ、記念碑は乙姫を表している。


江戸っ子のくらしと流行】

 魚河岸記念碑のすぐ先 や、反対側三越の近くの道路側に「江戸っ子のくらしと流行」という 説明板があった。

【日本橋の魚河岸と江戸前の握り寿司】 〜庶民に受けた江戸のファーストフード〜

 かつて日本橋には、家康入府と共に 開かれた日本橋の魚市があり、江戸っ子の胃袋を満たしていました。

 江戸前寿司といわれる握り寿司は、文政年間から始まったといわれています。魚と米を発酵させる上方の押鮨に対して、江戸前は魚の種類が多い豊かな江戸湾でとれる新鮮な魚を使っているのが自慢でした。寿司種は刺身、白魚、玉子、穴子やこはだなどが使われ、種と飯の間にはわさびが入れられるという現代のスタイルと同じでした。

【江戸のお金】 〜一両で買えたもの〜

 江戸時代には金・銀・銭という三貨が流通していました。金貨の単位は両・分で、枚数で数えました。銀貨の単位は匁・分で、重さが単位となっていました。「石一両」といわれるように、一両小判一枚でおよそ大人一人の1年分の米が買えました。一人暮らしの男性なら、ぜいたくさえしなければ、三両あれば1年間生活できました。一両小判など江戸時代のお金は、日本銀行の貨幣資料館で見ることができます。

【先進的リサイクル都市・江戸】 〜捨てずに活かす庶民の知恵〜

 人口の多い江戸は当時から大規模な消費都市でした。それだけに。江戸の人々はモノをとことんまで再利用、再資源化しました。例えば、木綿の衣類は何度でも仕立て直して着、古くなると布団にし、最終的にはおむつや雑巾となりました。古紙も専門業者が集めてすき直し、再生紙となりました。資源を循環させるしくみやモノを最後まで使い切る知恵を、現代の私たちも見習うべきかもしれません。


【三越】 (左側)

 道路元標の隣りが三越新館、続いて正面入口にライオン像のある三越本店(旧「三井越後屋」)となる。 

【天下の豪商 三井高利】 〜お客様本位のサービスで巨万の富と名声を築いた大商人〜

 現在の三越のルーツは、三井高利が創業した越後屋という呉服店です。高利は伊勢松坂(三重県松坂市)の商家の四男として元和8年(1622)に生まれました。

 立ち寄りやすい「店先売り」という店頭での販売、その場で払うことで安く売る「現金掛け値なし」という支払方法の採用など、当時革新的なサービスを次々に打ち出し、たちまち江戸を代表する大店となりました。


【十軒店(じっけんだな)跡】 (左側)

 三越の先、 茶色の「日本橋室町センタービル」の前に説明板のみがある。

 十軒店は雛市が立つ場所として知られていました。『寛永江戸図』に「十間たな」と記された。石町(こくちょう)ニ・三丁目と本町ニ・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。

 江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市には内裏雛・禿(かむろ)人形・飾道具・甲人形・鯉のぼり・破魔弓・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。

 『江戸名所図会』には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛けまで設けて繁盛している挿絵が描かれています。明治時代以降もこの地は「本石町十軒店」と称されていましたが、明治44年(1911)に十軒店町となり、昭和7年(1932)、旧日本橋区室町三丁目に』編入されました。

 

 五代将軍綱吉が京の雛人形師を10人招いて10軒の人形店を開かせたのが始まりとも。


 宝町3丁目交差点から国道4号線と別れ、高崎までは国道17号線を縫うように行くこととなる。

 JR神田駅のガードをくぐり、須田町交差点で17号線は斜め右へそれるが、旧中山道は真直ぐ行く。

 すぐ、左側にJR高架のレンガ壁が見えてくる。

【御成道】 (右側)

 写真のレンガ壁に「御成道」の 説明板と地図が掲げられている。

 『御府内備考』に「御成道、筋違外広小路の東より上野広小路に至る道をいう」とあります。筋道は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流50mの所あたりに見附橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に墓参のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、この道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。

 江戸時代筋違の橋の北詰に高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の目をひいたようです。また太々餅で売り出した有名な店もありました。

 当時は、JRにぶつかった所から真直ぐ神田川を渡っていたが、現在は左の写真の先で右折して昌平橋を渡る。


【神田神社・湯島聖堂】 (左右)  10:50

 昌平橋を渡ったら、すぐ左折、すぐ右折、再び左折して坂を上がる(17号線に合流)。

 上がった右側が「神田神社(神田明神)」(下の写真)、左側が「湯島聖堂」である。私たちは、以前に両方共訪れているので、今回はパス。

 湯島聖堂の西側「昌平坂」に公衆トイレがありますが、それほど綺麗ではありません。女性はこの先の東京ガーデンパレスで借りたらいいでしょう。

【神田神社】

 「神田明神」の通称で人々に親しまれている古社。天平2年(730)創建と伝えられ、ニ代将軍秀忠以降、歴代将軍の尊崇も厚く、江戸の総鎮守として栄えてきた。江戸三大祭りの一つとして知られる神田祭は毎年5月中旬に催される。本祭が行われるのは2年ごと。境内には絵巻本などを展示する資料館も併設されている。


【湯島聖堂】

 寛永7年(1630)林羅山が上野忍ケ岡(しのぶがおか)に立てた家塾が始まりで、現在は国の史跡に指定。元禄3年(1690)には五代将軍綱吉によって湯島に移転された。寛政9年(1797)に幕府直轄の学校「昌平坂学問所」が開設された際に、孔子廟(大成殿)関係のものだけを聖堂と称するようになった。現在の大成殿は、昭和10年(1935)に再建されたもの。


【済生学舎と野口英世】 湯島一丁目7 (右側)

 東京医科歯科大(左側)の前、東京ガーデンパレス西側の生垣に説明板がある。

 済世学舎は、医学者長谷川泰(1842〜1919)が「済世」(広く民衆の病苦を済う)の理念のもと、医術開業試験の予備教育を目的として、明治9年(1876)4月9日に現本郷二丁目5の地に創設された。明治12年学舎は火災により焼失したが、仮校舎の時期を経た後、明治15年長谷川泰の自宅を含めたここ東京ガーデンパレスの地に済世学舎は再建された。

 「志を得ざれば、再び此の地をふまず」と野口英世が医学の志をたて故郷会津を後にしたのは明治29年(1896)9月、英世19歳のの時であった。上京して現湯島一丁目10あたりに下宿し、早くも10月に内務省医術開業試験前期に合格した。

 その後、港区伊皿子にあった高山歯科医学院の学僕となった。明治29年11月医術開業試験後期準備のために済世学舎に入学、下宿先を旧本郷区にあった大成館に移した。明治30年秋の後期試験に打診法の実技が含まれていたため、英世は東京帝国大学の外科教授近藤次繁博士により左手の手術を受けている。晴れて医術開業試験後期に合格した英世は、11月湯島の順天堂医院に入り、同医院医事研究会主事を嘱託された。その後、北里柴三郎博士の伝染病研究所や横浜検疫所勤務を経てアメリカへと旅立った。

 文京は、野口英世が世界に雄飛する原点である。


【かねやす】 (左側)

 本郷通りに入り、日本橋から3Kmポストで丁度1時間経過。

 本郷3丁目交差点の左角の茶色ビル1階が「かねやす」。

 享保年間(1716〜1736)に、現在の本郷3丁目の交差点角に、兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出した。これが当たり、店が繁盛していたという。1730年に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、ここを境に南側を耐火のために土蔵造りの塗屋にすることを命じた。一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれた。

 同交差点右角を入った2軒目位に、「羊羹の藤村」がある。改装中とあったが今後開店する予定があるのだろうか?

 江戸時代は練り羊羹全盛時代であり、江戸本郷の藤村羊羹をはじめ、多くの名舗が現われた。

【旧本郷】

 『御府内備考』に次ぎの記事がある。

 本郷は古く湯島の一部(注・湯島郷の本郷)であるので、湯島本郷と称すべきを上を略して、本郷とだけ唱えたので、後世湯島と本郷とは別の地名となった。湯島のうちで中心の地という意味から本郷の地名が生まれた。

 江戸時代に入って、町屋が開け、寛文のころ(1661〜73)には、1丁目から6丁目まで分かれていた。

 中山道(旧本郷通り)の西側に沿って、南から1〜6丁目と南北に細長い町域である。

       本郷もかねやすまでは江戸の内


【東大赤門】 (右側) 11:20

 本郷3丁目交差点から右手が東京大学、ここを右折すると1Kmで上野恩賜公園、左折すると1Kmで小石川後楽園。 

 交差点からすぐ赤門(左の写真)、その先正門奥に安田講堂が見える。

 当地は、加賀藩前田家が元和2年(1616)に幕府より拝領された土地で、当初は下屋敷でしたが、天和3年(1783)より上屋敷となる。 

【赤門】

 文政10年(1827)加賀藩主前田斎泰にとついだ11代将軍徳川家斎の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されています。 

 表門の黒門に対して赤門と呼ばれた。屋根の上の棟瓦には葵の紋、軒の丸瓦には前田家の家紋梅鉢がつけてある。 


【追分一里塚跡】 (右側)

 本郷弥生の交差点で言問い通りを渡り、東大農学部の前にある「高崎屋酒店」前を左折する(国道17号線を行く)。

 ここが「本郷追分」で、この辺りに一里塚があった。その酒店横に説明板がある。

 この店は酒・醤油を商った江戸時代以来の老舗で、屋根を見ると風格が分かる。

 高崎屋酒店のホームページ(HP)には、次ぎのように載っていた。

 創業は、初代の高崎屋長右衛門の没年が安永7年(1778)である事から、 宝暦年間(1751〜64)と考えられます(詳細は不明)。
東京大学の前と言う事もあり、お客様の半数は学生さんで、ワイン、日本酒、 輸入ビールをメインとして営んでおります。
また、当店の繁栄を示した「高崎屋絵図」、高崎屋の最盛期を築いた人物 「二世牛長肖像」等の区指定文化財を含む3500点を越す資料は文京ふるさと歴史館に収蔵されています。
ご興味のある方は、是非、ご覧頂ければと思います。

【追分一里塚跡】 区指定史跡

 一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4Km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。

 ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。

 ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌した。


【旧丸山新町】 (左側) 11:45

 追分を曲がって10分ほど行った左側に旧町名説明板がある。

 このあたりの台地一帯は、古くから丸山と呼ばれ、江戸時代は小石川村に属した。

 江戸の初めに丹後宮津藩主阿部氏(後に下野宇都宮藩主を経て宝栄7年(1710)から備後福山藩主)の拝領地となった。元禄の頃(1688〜1704)上地して、新しく幕府の医師ら7人の拝領町屋敷となった。

 町名は丸山屋敷ともいっていた阿部氏の中屋敷の跡にできた新しい町なので、丸山新町と称した。明治5年付近の武家地を合併した。

 西側は、白山通りの低地への崖の中腹をたどる道に、三つの坂道が並んでいる。南に胸突坂(胸を突くような急な坂)北に浄心寺坂(お七坂とも)二つの坂の中間に中坂がある。

 その先、『八百屋お七の墓』がある「円乗寺」に寄る予定であったが見逃してしまった。 後で調べたら、大円寺手前のライオンズマンションの横の道を左に行った奥にあることが分かった。


【大円寺】 (右側) 11:50

 曹洞宗。慶長2年(1597)に開山し、慶安2年(1649)に現在の地に移転してきた。板橋徳丸原で日本最初の様式調練をおこなった高島秋帆の墓がある。ほうろく地蔵が有名。

 赤い山門の境内に入ってすぐ正面に「ほうろく地蔵堂」 がある。

【ほうろく地蔵】 

 『八百屋お七』にちなむ地蔵尊、天和2年(1682)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた『お七』を供養するために建立されたお地蔵様である。

 寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、熱した焙烙(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保4年(1719)に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。

 その後、このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。

 お七が天和の大火の時に避難し、墓もある円乗寺はすぐ近くにある。


<昼食>12:00〜12:30

 旧白山通りを越えた左側の大阪鮨屋でランチの『江戸ちらし』(\1,000-)を頼んだが、創業が長い店の割には味はいまいちであった。

 旧白山通りを斜め左に下りると白山神社があり、この日はお祭りだった。


【徳川慶喜巣鴨屋敷跡】 (右側)  12:55

 JR巣鴨駅と巣鴨橋が見える 手前の道路側に説明板と石柱が建っている。

【巣鴨に住んでいた徳川慶喜】

 徳川幕府十五代将軍徳川慶喜{天保8年(1837)〜大正2年(1913)}がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治30年(1897)11月、慶喜61歳のことであった。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年3月には皇居に参内、明治35年には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。 

 巣鴨邸は、中山道(現自由通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。慶喜が巣鴨に居住していたのは明治34年12月までの4年間で、その後小日向第六天町(現文京区小日向一・四丁目付近)に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白−田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされている。


 巣鴨橋を渡って、左側「真性寺」前の横道に説明板が ある。

江戸・東京の農業 旧中山道はタネ屋街道】 

 旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらう人などもいました。

 旅人は、農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国許で栽培しようと、タネを欲しがる人も多く、やがては農家の副業としてタネを販売するようになりました。その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現するとタネを扱う専門店ができ、明治の中期には巣鴨のとげぬき地蔵から板橋区清水町にいたる約6Kmの間にタネ専門店が9戸、小売店が20戸も立ち並び、さながらタネ屋街道になっていました。

 寛永20年(1643)の代官所に申告した書き付けに、長野県諏訪からきたタネの行商人が榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れにきた模様が記されています。

 馬12〜3頭ひいてタネを仕入れ、帰り道に「萬種物」の旗を立てて街道のタネ問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売りと同じようにタネも行商により商われていました。


【真性寺(しんしょうじ) (左側) 13:30

 巣鴨橋を渡ったすぐ左にある。

 境内に入って左手に芭蕉の句碑(写真) 白露も こほれぬ萩の うねりかな  正面に大地蔵。

【真性寺由緒沿革】 (一部略・言回しも変更)

 醫王山東光院真性寺と称し、奈良県にある総本山長谷寺の末寺。

 開祖は、聖武天皇勅願行基菩薩開基と伝えられている。開基は元和元年(1615)祐遍法師。

 本尊は薬師如来で、古来より秘仏として一切開扉されていない。江戸時代より弘法大師御府内八十八ヶ所第三十三番札所・江戸六地蔵参り第三番となっている。

 巣鴨は中山道の江戸への入口にあたり、八代将軍徳川吉宗が度々鷹狩に来て、御膳所とされた。

【江戸六地蔵尊 第三番 縁起】

 境内に安置されている江戸六地蔵尊第三番の像は、地蔵坊正元発願者となって、宝永3年(1705)造立の願を発してから、享保5年(1720)に至る15年間に、江戸御府内の多くの人々の寄進を集め造立された六体の大地蔵尊の一体で正徳4年(1714)に完成した。

  あとの五体とは、東海道・品川寺、奥州街道・東禅寺、甲州街道・太宗寺、水戸街道・霊巌寺、千葉街道・永代寺(現存せず)である。


【巣鴨地蔵通商店街と高岩寺(とげぬき地蔵) 

 私は初めてここに来たが、さすがに有名な商店街だけあって、この日も大勢の人でごった返していた。写真を撮っていたら妻とはぐれそうになったくらいである。 塩大福も有名である。

 とげぬき地蔵で有名な高岩寺の参道として栄える門前町で、200軒ほどある商店の店先には、肌着、草履、お茶、豆餅、塩大福等々お年寄り好みの商品がズラリと並ぶ。別名「おばあちゃんの原宿」として日本一有名な商店街である。
 商店街の入口(左の写真)を入って行くと「とげぬき地蔵尊本堂入口」の吊り看板が下がっているのでお寺はすぐ分かる。

 本尊延命地蔵菩薩は、諸病に霊験あらたかなとげぬき地蔵として親しまれてきた。本堂横に立つ観音菩薩は洗い観音ともよばれ、体の悪いところと同じ部分に水をかけて洗うと身代わりになってくれるという。

 その観音菩薩(左の写真)を洗う為には、テーマパークで並ぶような折れ曲がった柵があり、沢山の人が待っていた。


<休憩> 12:20〜12:30

 商店街の途中左側にあった八丈島直送店「花月堂」の『あしたばソフトクリーム』(\200-)が美味しかった。

 右側には『すがも歴史まっぷ」がある。


【巣鴨猿田彦大神庚申堂 (右側)

 巣鴨地蔵通りが終わった交差点(栄和通り)の右角にある。この先は庚申通りになる 。

【庚申塚由来記】

 全国的に有名な巣鴨の庚申塚にあった庚申塔は、高さ八尺で文亀2年(1502)造立、現存していれば区内最古の石碑。

 昔、巣鴨の庚申塚は、中山道の本街道であり、板橋宿の一つ手前の立場として上り、下りの旅人の往来が激しく、休息所として賑わい簡単な茶店も在り、人足や馬の世話もした。

 広重の絵にも描かれ、江戸名所図絵で見ると、茶屋に人が休み、人足の奪い合いをしている旅人もいて賑やかである。

 ここに団子などを売る茶店もできて、藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で花の頃は、小林一茶も訪れて

   ふじだなに 寝て見てもまた お江戸かな

                の句がある。 

【江戸の名所】

 巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷在に聞こえた名所でした。江戸と板橋宿の間にあり、行き交う旅人たちで賑わっていたと伝えられ、その様子は「江戸名所図絵」にも描かれています。現在では、特に庚申の日になると、近くの「とげぬき地蔵(高岩寺)」の縁日(毎月四の日)と同様に多くの参拝者があります。庚申塚では町内会の人たちが参拝者に対し、季節ごとに趣向をこらした食事を作ってもてなしています。

 「江戸名所図絵」のなかの茶店の屋根の葭簀(よしず)の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座し、その銘文によれば明暦3年(1657)に造立されたものということがわかります。これより以前、文亀2年(1502)に造立されたといわれる石碑がありましたが今はなく、「遊暦雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えています。

 また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、これは、この巣鴨付近の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神を分祀したという暦史的事実によるものです。

 この説明の上部に本文に書かれている絵があったが、線が細かいため分かりにくいと思い載せなかった。現地で見てください。


【葛Tの子束子西尾商店】 (右側) 13:50

 都電荒川線の踏み切りを渡り、明治通りを越えた先にあり、有名な『亀の子束子(たわし)』の工場である。

 明治40年(1907)創業の会社。

 ここに工場ができたのが明治42年で、正面はレトロな洋館風である。

 


【平野の一里塚跡】 (板橋1−54)

 JRの踏み切り手前付近であるが、説明板や石柱などはなかった。

 日本橋から数えて二つ目の一里塚で、平尾宿の入口にあたる場所にあった。


【近藤勇墓所 東京都北区指定有形文化財(歴史資料) (左側奥)  14:00

 JRの踏み切り手前90m の十字路を左折すると、板橋駅ロータリーの前にある。

 東海道赤坂宿の先、本宿の「法蔵寺」で近藤勇の首塚(旧東海道29回目参照)を見てきたので、ここでやっと胴体とつながったことになる。

 

【近藤勇と新撰組隊士の供養塔】 

 慶応4年(1868)4月25日、新撰組組長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。

 本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ3.6m程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。正面には、「近藤勇 ¥ケ 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお近藤勇の諱である昌宣が¥ケとされていることについては明らかになっていません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新撰組長倉新八改瘻コ義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在分かりにくくなっています。

 戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分かった永倉ですが、近藤勇のほか数多くの新撰組ゆかりの者たちが祀られているので、新撰組研究を行う祭の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。



 1回目の旅終了(14:10) JR埼京線板橋駅入口交差点。

 久しぶりに歩いたので足慣らしということで、少し早いが本日は 板橋駅で終了とした。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、8.8Km(日本橋元標〜板橋駅東口入口交差点)
          日本橋から二里九町(8.8Km)
          寄り道を含めた実歩行距離は、10.0Km(日本橋元標〜JR板橋駅
          4時間 16,300歩。

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