韮崎宿 (竜王駅 → 円野中バス停) <旧甲州街道12回目>

 

 2008年月10月11日(土) 晴

 横浜駅から「はまかいじ号」に乗り、大月で普通電車に乗換えて竜王駅迄行き、前回終了した「竜王駅前」交差点を10:45スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは下諏訪に向っての左右です)

「甲府柳町宿」 ← 「目次」 → 「台ケ原宿」

 

 本日の行程では韮崎駅前を過ぎるとJR沿線から離れる為、土・休日一日5本しか運行していない山梨交通のバス時刻に合わせて行動する。

 横浜からここまで来ると、往復の交通費より宿泊費を払って2日続けて歩くほうが安く上がる為、当初は牧原泊りで計画していたが、久しぶりの歩きなので今回は日帰りとした。

 

 家を出発(7:00)する直前に天候チェックした時には、11時頃まで雨でその後曇りとなり気温も低めとのことだったので、厚めの服装で出た。事実、横浜駅で特急を待っている時は寒いくらいで、暗くなってからの帰りのバス待ちを考えたらセーターを持ってきたほうがよかったかなと考えたくらいであった。

 ところが、竜王駅に着いた途端に晴れてきて、歩き始めたら暑くて汗が吹き出し、Tシャツ一枚になってしまった。雨の中を歩くより良かったが、この暑さの中で暫くぶりの19Kmをバテずに歩き通せるか不安になってきた。それは、釜無川を渡って国道20号線の反対側に行くと、穴山橋バス停までの5.6Km、帰る交通機関がないことである。
 しかし、結果的に
予定よりもう一つ先のバス停まで歩けた。


【竜王新町下宿道祖神場】 (右側)

 「竜王駅前」交差点の次、「竜王新町」交差点で国道20号線と分かれて右へ入る。

 少し進むと会社の生垣に半ば隠れた井戸とその後ろに山梨県でおなじみの丸い石の道祖神がある。

【古跡保存標識】

1、名称「竜王新町下宿道祖神場」

 (一) 道祖神、丸石神体径45cm(銘)衢神、文正文七申極月、氏子中

 (二) 白檀古樹(種別大木)目通130cm 樹齢約200年、主幹奇形

 (三) 古井戸、明治初年掘削、コンクリート巻、枠径96cm近辺共同井戸、現不使用

2、所在地 竜王町竜王新町元免許325−2番地(地積坪)

3、由来

 ここは江戸時代村人の互助的な集会協議実行の場所として地域発展の基点となった「寄り合い場」である。村の道路に河川、農産、慶弔交際または、盆、正月、祭り、相撲大会などすべてのことがここで民主的に協議されたものである。

 ここ往時五十坪の地積であったが大部分が道路用地となったのでこの由緒ある地積を保存すべく、昭和八年小菅貞三氏等の主唱により大蔵省から払い下げ、十人の共有地となっている。

 以上の理由により、町内にも他に例の無い地域発展の基点であった貴重な古跡であることから、これを将来に保存すべく「保存標識」を設置するものである。

     平成二年十一月 竜王町竜王新町五区


称念寺 左側) 10:55

 「古跡保存標識」から踏切に向かって進むと、踏切の少し手前にある寺で、境内に江戸時代「お休み井戸」と呼ばれた井戸が現存している。

【くり抜き石枠井戸】 甲斐市指定有形民俗文化財(平成8年9月指定)

 くり抜き石枠井戸は市内で数例しかなく、井戸とともに現存しているのはわずかである。

 この井戸の石枠の規模は高さ61cm、幅92cm、内径65cmの正四角形であるが、四隅は角を削ってある。また、井戸の深さは現在8m余を測り、自然石で積み上げを行っている。

 この井戸は上水道ができるまでは付近の生活用水として利用していた。また、江戸時代には称念寺が甲州街道に面していたため、ここを往来する人々が赤坂台を通過する際に休憩したところから「お休み井戸」とも呼ばれていた。

 この井戸がいつの時代のものかは定かではないが、称念寺が慶長十一年(1606)に創立しているのでその頃につくられたと考えられる。


【赤坂】 

 すぐ右手に「竜王駅」が見えるJR中央本線の踏切を渡ると、やがて目の前に見上げるような坂が現れてくる。これが標高差70mもある赤坂である。

 歩き始めたばかりで元気があるうちに登っているから問題なかったが、遠くから歩いてきた人にはかなりこたえる坂と思う。

 坂の途中で振返れば富士山がより大きく見えるはずだが、本日は晴れてきてまだ間もないので遠くの山は霞んで見えなかった。街道歩きで甲府盆地に入ってからまだ一度も富士山を拝んでいないのは残念である。

 赤坂の中程に巨大な供養塔が建っている。この坂も往時は難所で行き倒れが多かったのだろう。

【赤坂供養塔】 甲斐市指定有形民族文化財(昭和52年6月指定) (右側) 11:05

 表面を平坦に加工した巨大な自然石で造られた名号塔で阿弥陀如来の名をたたえる「南無阿弥陀仏」を六字名号または名号と呼び、この塔は名号を本尊として供養のために建立されたものであり、念仏講中による信仰的な表現である。

 供養塔は高さ4.3m、幅1.12m、厚さ0.38mの長大な石材を用いて台石上に建てたもので、中央に草書体で「南無阿弥陀仏」と大書した名号を刻み、左下には一蓮寺法阿本暁上人の署名、裏面には念仏講中の名や竜王新町(竜王町)外北山筋村々に住む三十八名の建立者の名前が刻まれる。一蓮寺は甲府市太田町にある時宗の名刹で、染筆の法阿本暁上人は第五六世の住職であり、この草書名号は一遍流名号と呼ばれる書式である。

 建立年代は、記録によれば安政年間(1854〜59)で「安政年中竜王新町赤坂供養塔建立」と記され、また北山筋村々の信者で組織された念仏講中が、無縁者供養のために建立したことが刻名によって知られる。

 当時の庶民の間に深く浸透した念仏講の広まりと、江戸時代末期における信仰の隆盛を示す民族資料である。

     甲斐市教育委員会


【赤坂台総合公園】 (左側) 11:15

 御柱も立っている諏訪神社(右側)を過ぎて更に登り、やがて頂上近くで坂が緩やかになると公園入口にたどり着く。公園内の展望台からは甲府盆地が一望できるとのことだが、入口から450mほど先にあるので行かなかった。

 公園の入口交差点には「クリーンエネルギーセンター」があり、展示室には水力発電・太陽電池・風力発電などのエネルギーに関する体験型の装置があるとのこと。 興味があったが帰りのバスの時間を考えて寄らなかった。

  入場無料。AM 9:00−PM 5:00。休館日 第3月曜日(祝祭日の場合は翌日)


【三軒茶屋跡】 (右側) 

 公園から更に緩やかな坂を登って行く。右側赤坂台病院を過ぎ、二軒の ファッションホテルとその後ろのセブンイレブンがある所で赤坂も頂上となる。ホテルのあるあたりは、かつて三軒茶屋があったとのこと。


【道標】 (左側) 11:30

 頂上を過ぎた先のY字路を左に進み、坂道を下って行く。やがて下今井(横町)で下り道は鍵の手のように左・右へと曲がる。その下りきった右へ曲がる左角に、駿河の河の字が埋まっている道標がある。

 右市川駿(河) 左甲府江


【自性院の石畳】 (右側) 11:36

 道標の所を右に曲がると登り坂になり、雰囲気の良い下今井(寺町)に入る。

 左側にナマコ壁の大きな蔵を持った家が現れ、その先に参道が明和二年(1675)来の石畳となっている性院がある(右の写真)

 下今井は、中山道で感動した茂田井宿(旧中山道 第14回参照)を思い出す街並みである。


【下今井の町並み】 

 下町から仲町になり、前方に橋脚の高い高速道路が見えてくるあたりの左側に今村氏邸の古い蔵がある。

 (左の写真)

 次いで上町に入ると立派な長屋門を持つ水上氏邸が左側に現れる

 (右の写真)

 水上氏邸のすぐ先で「下今井上町」信号となり 、下今井の雰囲気がある町並みが終わる。

 街道は真っ直ぐ方向の高速道路(中央横断自動車道)を潜る右側の車が少ない道を行く。

 ここから韮崎駅までは県道6号線をたどるように進む。

 「下今井上町」信号を右に行くのが「穂坂路」で甲府駅の北側に続く古道である。又、その道の途中から北へ上ると昇仙峡に至る。

 高速を潜るとすぐJR中央線のレンガ造りのガードを潜るが、このガードは中央線が出来た当時からのもので現在でもしっかりしている。

 そのガード手前左側に丸石の道祖神がある。


<昼食> 11:50〜12:20 つけめん★★★☆

 JRのガードを潜って、右へ回り込んだ所にある「つけそばのさんぷく」で昼食。つけそば(並790円・大盛890円他ダブル・トリプルもある)を注文する。付け汁にメンマと細切りチャーシューが少し入っている以外、やや硬めの太麺だけというシンプルなもので高いと思ったが、評判通り美味しかった。私は並を頼んでしまったが男性は大盛にした方が良いと思う。事実並では足りなかったので野菜炒めも追加してしまった。私達は11:50に入店したので席が開いていたが、狭い店のため12:00には満員となり表で待つ人がいる位だった。


【泣石】 (右側) 12:25

 JRのガードを潜ったら国道に出ず、線路に沿うように右へ右へと進む。やがて線路に近づくと、防沢川の手前にフェンスに囲まれた大石が歩道上に鎮座しているのが見えてくる。

 下今井字鳴石のJR中央線と県道との間にあり、現在地より約100m南東にあった。高さ約3.8m、幅約2.7m、奥行き約3.7mで中央部から水が流れ出ていたが、鉄道の開通により水脈が断たれてしまった。

 天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ちのびて行った。その途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り涙を流したという言い伝えがある。

     甲斐市教育委員会 


【三界萬霊塔】 (右側) 12:36

 泣石から150m程で「塩崎駅入口」交差点に着き、そこから正面に三角の甲斐駒ケ岳が見えてくる。

 塩尻駅前を過ぎ、志田(下志田)で車川を渡った少し先、用水路が右後ろから合流した所に萬霊塔三十三夜塔が建っている。

 

 萬霊塔の左側には、立派な門と沢山の蔵に取り囲まれたとてつもない大きな屋敷がある。並の本陣門がかなわないほどの豪華な門を持ち、これほどのお屋敷は今までで見たなかでは最大級 である。

 写真には長さだけでも屋敷全体が納まっていない。左右は更に長く、奥行きも深い。

 その先右側「双葉西小学校」バス停にも立派な蔵が建っているが、手前の 蔵群を見た後では感動しないのはしかたがないか。


【船形神社の石鳥居】 県指定有形文化財 (右側) 12:45

 右側「双葉西小学校」の先に船形神社の参道があり、その入口に高さが低い鳥居が建っている。隣はJAのガソリンスタンドで、神社までは行かなかったがここから100m程入った所にある。

 身長169cmの私が鳥居の下に立ったところ、あと数センチで頭がぶつかる程の低さであった。

【明神鳥居】

 総高八尺柱真々巾二尺八寸柱に「応永四丁丑四月日立」と造立銘がある。柱は太く笠木島木なども真反りを見せ全体の形も幅が広くて丈が低いので、安定感に富んでいる。室町期在銘の遺構として第一に推すべき逸作である。

     平成元年 山梨県教育委員会・甲斐市教育委員会・船形神社


【芭蕉句碑】 (右奥) 12:53

 程なく「六反川」に架かる橋が見えてくるが、その橋の手前を右に入るとすぐピンクの橋があり、その袂に芭蕉句碑が建っている。

   ひる見れは首すし赤き螢かな


【金剛地集落】 

 「六反川」を渡り「田畑」交差点に近づいた所で後ろを振り返ったら、国道20号線越しにやっと富士山が見えてきた。甲州に入って初めて見る富士山でやっと念願がかなった。

 「田畑」交差点で右折して一時県道から離れる。入った所に「宇津谷(金剛地)」の標識が立っていた。

 やがてY字路になり、これを左に行くが、そのY字路の真ん中に二十三夜塔が二基建っている。

 お屋敷が並ぶ静かな集落でほっとしたのも束の間、金剛地公民館の前を過ぎて短い坂を下ると、田畑で別れた県道に合流する。


【塩川橋】 13:15

 県道に合流するとまもなく、塩川に架かる塩川橋を渡る。この辺りで周りの山々の雲も取れ、橋からは富士山や甲斐駒ケ岳等が綺麗に見えて感激。橋の右側にはJRの鉄橋があり、 その間の橋の下を覗くと古い塩川橋の橋脚が残っていた。

 橋を渡ると韮崎市に入り、「塩川橋西詰」信号で右折して線路沿いの長い直線道路を進む。


【鰍沢横丁】 (左側)  13:42

 甲州街道は「下宿」交差点を直進するが、ここで左折すると、並行している国道の「船山橋北詰」交差点角に船山河岸跡の碑があるが、暑さの中で面倒になり寄らなかった。天保六年(1835)河岸を築造し、舟をここまで引いてきたとのこと。

 この「下宿」交差点を渡った左角に鰍沢横丁の石柱と案内板が立っている。ここは「みのぶ道」との追分になる。

【鰍沢横丁】

 ここから「みのぶ道」駿信往還ともいい、峡北地方や諏訪・佐久地方の江戸城納めの年貢米を、馬背に積んで、鰍沢河岸(幕末には船山河岸)まで通行の道筋である。

 ために沿道には、駄菓子屋・馬方茶屋など軒を並べてにぎわったが、明治三十六年(1903)国鉄中央線開通して、荷物輸送経路も一変し、往時の活況は消え失せた。しかし町民には忘れじの横丁である。


【韮山宿】 日本橋から三十九里 三町四十七間(153.6Km)、下諏訪へ十 四里十三町ニ十五間(56.4Km)  

 天保14年(1843)で人口 1142名、総家数237軒、本陣1軒、旅籠屋17軒。

 昔、清水と塩尻とを結ぶ甲州街道の主要な宿場町として発展した韮崎。その面影が今も宿本陣跡、馬つなぎ石や鋸型の宿場風景など所々に姿を残す。


【韮崎宿本陣跡】 (右側) 13:5

 醤油・味噌「井筒屋」の立派な店を右手に見ながら進むと、「本町第2」交差点の手前、「千野眼科病院」の前に本陣跡の碑が立っている。

 眼科病院の前には「旅館清水屋」があり、韮崎で宿泊する人はここか、更に400m行った「ホテルルートイン韮崎」が良いだろう。

 本陣とは江戸時代、大名や幕府役人に備えた宿舎をいう。甲州街道は伝馬制(当宿は人足二十五人、馬二十五頭を常備して、幕府役人や諸荷物を次の宿駅まで順送りする)により、問屋場を設け運営に当らせた。

 韮崎宿は、諸大名の通過はあったが、日程の関係で宿泊はごくわずかで、本陣は問屋が兼務した趾である。

     平成五年二月吉日 韮崎地区公民館建立 


【馬繋ぎ石】 (右側) 13:54

 本陣跡のすぐ先「上田商店」前の郵便ポストの後に隠れるように馬繋ぎ石がある。ベンチやポストに隠れているので注意していないと見逃す。

 NHKの街道てくてく旅で勅使河原郁恵さんが紹介されていた 馬繋ぎ石は、ここではなくて「喜月堂」前だったが、分からなかった。

 次の「本町」交差点を右に入ると400m位で韮崎駅。甲州街道はここから県道17号線になる。


【雲岸寺・窟観音】 (右奥) 13:58

 「本町」交差点から二本目の道を右に入ると60m程で山門に着く。新しい本堂の右側を奥に進むと、頭上の崖に掘られた穴の中に観音堂があるのが見える(左の写真)

 急階段を登ると観音堂の手前に洞窟があり、無数の石仏が並んでいたが、工事用のバーが置いてあり奥へ入ることは出来なかった。

 観音堂入口の扉を自分で開けて中に入ると、まず千体仏が並んだ仕切りがあり、続いて弘法大師像、その奥には本尊の聖観世音菩薩、通称窟観音が祀られていた。

【韮崎窟観音の歴史】

 天長五年〔平安時代〕(828)僧空海(弘法大師)七里岩の地、岩崖絶壁の中央に至り、一夜岩窟に蟄居せられ斎戒沐浴の上お造りになられた、観音石仏《本尊聖観世音菩薩、弘法大師御尊体、地蔵菩薩》を洞窟に安置いたし、民衆が観音石仏のために窟堂を建立し、霊験顕著な祈願霊場と仰がれてきました、その傍らに、隧道があります。

その間歴史の変遷とともに幾多の盛衰がありました。或る時は、武田家の興亡とともに浮沈し、また或る時は徳川三百年の太平の御代に恵まれその都度人々の信仰の強度にも差異があって法灯の光にも幾多の紆余屈折がありました。

 現在の御堂の建築様式は、寛正六年〔室町時代〕(1465)に断崖に張り出した舞台造りの建築として完成しました。

 以後正徳五年〔江戸時代〕(1715)、大正二年(1913)、昭和三十三年(1958)に改築し、平成七年(1995)夏に修復された建造物であります。

過ぎし太平洋戦争のため一千余年に亘って行われつづけてきた恒例の祭典行事も一時中止の止むなきに至りましたが、昭和三十年全町民が一丸となり大祭典を復興し往時郷土の人々から歌われた

  『切り通し岩にみ堂をかけつくり、大慈大悲のふかき河原部。』

  『三十四の誓いをここに納めおく、ほとけの岩屋みほとけの前。』

  『わたしゃ、行きたや、おっかさん、窟観音の、お祭に。』

を再興すべく努力いたしました。

 今日では、毎年三月二十日、二十一日の二日間(春分の日が二十日の時は、春分の日を中心に大祭開催)に亘り盛大に祭典が挙行されます。

 窟観音堂は、長さ15m奥行8m 窟観音洞窟隧道、長さ35m幅3m高さ2m

 拝観時間 窟観音堂、洞窟内照明(毎日午前八時より午後五時まで)

        十二月三十一日は、午後五時より一月一日午前八時まで延長します。

        三月窟観音大祭の二日間は、夜間延長します。

 三月窟観音大祭 午前、家内安全、交通安全、商売繁盛、諸祈願御祈祷。

             午後、十二歳までの子供が山車に乗りお稚児行列(参加者募集)

【千体仏(千体地蔵尊)】

 寛文七年〔江戸時代〕(1667)にすべて安置されました。

 日詣り、月詣り、願掛け千体仏として信仰祈願されています。

当時より、かならず一体は、参詣祈願者の目と目が会う千体仏があると信仰されてきました。是が祈願千体仏の心であると信仰祈願されてきました。

 現在では、合格祈願、学業成就祈願、子宝祈願、安産祈願、健康祈願、良縁祈願、安全祈願、病気平癒祈願、心願成就祈願、等の諸祈願成就霊場として信仰祈願されています。

 

【弘法大師御尊像】

 天長五年〔平安時代〕(828)僧空海(弘法大師)が当地の平安を願い御造りになられた石像であります。

 窟観音には、弘法大師自作の石仏が二体〔弘法大師御尊体像、聖観世音菩薩像〕安置されております。

祖師信仰厚く弘法大師僧空海を民衆信者が「お大師さま」と崇敬されています。

 

 

【窟観音本殿 窟観音本尊聖観世院菩薩】

 天長五年〔平安時代〕(828)僧空海(弘法大師)が当時の民衆の足である馬の安全、民衆の家内安全を願い御造りになられた石造であります。

 窟観音には、弘法大師自作の石仏が二体〔弘法大師御尊体像、聖観世音菩薩像〕安置されております。

本殿内陣須弥壇の中央に本尊聖観世音菩薩、左に十王尊〔地獄の裁判官〕右に心境が安置されています。

 本尊 聖世観音菩薩は、交通安全の祈願本尊です、十王尊は、地獄の裁判官であり、この世の悪業を清める十王尊です、心境は、心の鏡を照らすと伝われています。

 


【平和観音】

 雲岸寺の後ろには白い「平和観音」が建っており、観音堂横の洞窟を抜けると見られると思ったが、通行止めのため確認できなかった。但し、韮崎の町に入る所では見えた。

 平和観音は昭和36年市民の平和や登山者らの安全を祈願して市街を一望できる七里岩(後述)南端に建立され、その優美な姿から関東三観音のひとつに数えられている。


【小林一三翁生家跡】 (左側) 14:20

 甲州街道に戻り、100m程行くと「にらさき文化村」という公園の右側入口に小林一三翁生家跡の石柱が建っており、その左手に案内板があった。

 かつてこの地は屋号を「布屋」と称し、逸翁小林一三先生の生家があったところです。江戸中期以降の代表的な町屋建築でした。現在は、宝塚ファミリーランドに移築されております。この屋敷跡ににらさき文化村を建設したものです。

 小林一三(1873−1957)は、阪急電鉄を前身から育て、沿線の土地開発をして鉄道事業との相乗効果を上げるという先逐者であった。阪急百貨店、阪急ブレーブス、宝塚歌劇団の創始者でもある。

 公園内にトイレがありますが、あまり綺麗ではありません。しかしこの先トイレがないので我慢して済ませることをお薦めします。


【七里岩(しちりいわ) 

 「にらさき文化村」のすぐ先「市役所東」信号前が「ホテルルートイン」、次の広い道(左奥に武田橋が見える)に出た所を右に入ると「白髪神社」。

 そのすぐ先が、左の写真で七里岩がそそり立っており、下の家は怖そうである。

 七里岩とは、山梨県韮崎市の中心地から北杜市にかけて八ヶ岳の火砕流が形成した台地で、狭くは釜無川の浸食により造られた川沿いに連なる10mから40mの断崖のことを指す。南北の長さが約七里(約28Km)あることから七里岩と名付けられたと云われる。

 これから延々と七里岩を右に見ながら進むこととなる。

 この写真の先、右側「松村石材店」の前を左斜めの道へ入るのが甲州街道。県道を真直ぐ行く上り坂は「青坂」で、七里岩の上に出て「新府城跡」に行ける。

 次の「一ツ谷」交差点で国道20号線に合流するが、合流する寸前の三角地に水神の碑と小さな祠がある。

 国道に合流した右方向の道はここが基点の国道141号線で、小海線沿いに国道18号線近くの「浅間病院西」交差点で中山道と交差する(中山道道草ハイク13回目、14回目に記載)。

 この交差点右角に「ラーメン珍珍珍(サンチン)」がある。


【十六石】 (右側) 14:45

 「一ツ谷」交差点から350m程の左側が開けてきた地点に十六石の案内板と石柱が立っている。石柱の先に岩が置いてあるが、巨石ではないので十六岩ではないだろう。

 武田信玄公が治水に力を入れたのは有名だが、まだ晴信といわれた天文十二・三年頃年々荒れ釜無川の水害から河原部村(現韮崎町)を守るため、今の一ツ谷に治水工事を行った。

 その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石で、その後徳川時代になって今の上宿から下宿まで人家が次第に集まり韮崎は宿場町として栄えるようになったといわれている。


【水難供養碑】 15:02

 主にトヨタ系列の自動車販売店が並ぶ国道20号線を行くと、東京から151Kmポストで、右に「滝田建材株B崎生コン工場」があるY字路を国道から別れて右へ進む。バス停は「祖母石(うばいし)住宅」。

 生コン工場の構内へ少し入った左側に3基の古い石祠があるが、説明板等は無い。

 Y字の先端に水難供養碑があるが、こちらにも説明板等は何もない。碑の後ろはJOMOのガソリンスタンド。

 左の写真が「水難供養碑」で、この碑の右の道を行く。


【下祖母石の町並み】 15:02(水難供養碑)〜15:32(国道合流点)

 下祖母石に入ると、再びなまこ壁の蔵屋敷がある静かな街道になる。

 15:15左側の二棟連なる蔵を過ぎると、右側に数十代続くという宮方家の萱葺の門がすばらしい。(左の写真)15:18

 15:20左側の神明宮を過ぎると、民家が途切れた右側に、田んぼと七里岩を背に南無阿弥陀佛の石碑が現れる。(右の写真)15:23

 15:26左側の蔵の前に「水準点」の小さなプレートが立っていたが、プラスチック製で半分割れていたので何の水準か分からなかった。

 その先、右に入る道の入口に「和食処佳幸」の看板があった。ここを左に行くと、すぐ国道の「桐沢橋東詰」交差点に出るが、旧東海道はもう少し先の国道に合流するまで進む。合流点には「九頭竜大神」の石碑があるが、時間のない方はここを左折して橋を渡ると良い。


【新府城跡】 

 右上の写真で、「南無阿弥陀佛碑」左後方に見える七里岩の一番小高い所が地図から見ると新府城跡らしい。

【新府城】

 武田氏最後の城。武田勝頼が築いた戦国時代末期の城郭跡で築城するも織田勢に攻められわずか68日で勝頼自らが火を放った悲運の城。釜無川を直下に見下ろす断崖の独立丘陵上に石垣を用いず、土塁と堀により築城されていた。(韮崎市観光協会のHPより)

 井上靖著『風林火山』の一節で、山本勘助が由布姫にこの七里岩の台上を指差して、城を築くならこの場所が良いと話す場面が示すとおり、まさに天然の要害となっている地である。


【九頭竜大神等の石碑】 (左側) 15:31

 旧道はやがて国道20号線に合流するが、その手前に九頭竜大神等の石碑が5基並んでいる。

 往時は国道と合流した辺りで釜無川を渡り対岸の折居に行ったと思われるが、現在は橋がないので合流したところからUターンして国道を400m程戻り、「桐沢橋東詰」信号を右折して釜無川を渡る。

 桐沢橋の上から富士山が綺麗に見えた。(左の写真は「桐沢橋東詰」から国道20号線の向こうに見える富士山)

 また、荒れ釜無川と云われた様に、川には大きな石がごろごろしていた。


【韮崎射撃場】 (右側) 15:45

 桐沢橋を渡りきった正面に「青木鉱泉」の案内板がある突き当りを右折する。続いて左側に大きな「清哲町案内図」が現れ、唐沢橋迄の行程が良く分かる。道が左に曲がる所に県立韮崎射撃場の正門があり、かなり前から大きな音がしていたのはここのクレー射撃の音だったと分かる。勝手に中には入れないが、街道からクレーに向って散弾銃を撃つ人が少し見える。


【清哲町折居】 

 そのまま道成りに行き、新しい道路の下を潜って少し登り、突き当りを右折する。

 高川南沢川に架かる「小桐橋」を渡ったら、Y字路を左に進むとすぐ左側にかわいい二体道祖神が建っている。

 更にすぐ左折して少し行くと大きな用水路にぶつかるので、ここを右折して用水路に沿って進むのが旧街道である。この用水路が徳島堰で後述するが、 甲州街道はここからかなりの距離を徳島堰に沿って続く。

 左の写真が「徳島堰」で、微妙な傾斜でとうとうと綺麗な水が流れている。時折写真で分かる通り段差もある。

 雨宮寺の前を通って清哲町折居地区を徳島堰沿いにしばらく行くが、堰の反対側は頑丈なフェンスで仕切られ上部には電線が張られていた。どうやら猿対策と読んだのが当たりで、堰の対岸に行く道には門があり、下記のように書かれていた。

【お知らせ】

 この柵は、などの野生動物から農作物を守るために設置されました。

 柵の上方の四本の線には、電気が通っております、この線に触れると“危険”です。

 なお、この扉から出入りが出来ますが、開けたら必ず閉めて下さい。

     電気柵管理組合 折居区自治会

 やがて先ほど「小桐橋」の先で別れた県道に合流し、すぐ唐沢川に架かる「唐沢橋」を渡る。

 再び徳島堰に出会う宝蔵寺(延命山)前のY字路を左へ進み円野町入戸野地区入る。

 左側火の見櫓の下に韮崎市民バスの入戸野バス停があり、韮崎行き16:55発があった。山梨交通以外のバスがあるとは知らなかったので、帰ってから調べたら、「韮崎市立病院〜穴山橋」を一日五本運行しているバスであることがわかった。韮崎駅も通るので使える。2008年現在、穴山橋の最終は16:50発で韮崎駅着17:15。韮崎駅の最初は8:38発で穴山橋着9:04。


【黒松】 (右側) 16:28

 入戸野地区も街道沿い左側に徳島堰が流れている。

 やがて左側に蔵、右側に大きな石と生垣がある所に出る。その生垣の中に石柱と小さめの松が植えられていた。

 大きな松をイメージしていたのと蔵の方に目が行っていたので危うく見逃すところだった。どうやら本来の松は枯れて、現在の松は二代目と思われる。

【名稱 松(くろまつ)】 石柱の刻印

 樹形頗ル(すこぶる)雅到ニ富ミ當地方ノ一名木ナリ

 昭和拾参年七月弐拾六日建之

 根元周圍四、五五米 幹圍四米 枝張東一、三米 南二米 西一〇、三米 北三、三米 樹高六、八二米


【下円井(つぶらい) 

 16:40再び県道に合流。すぐ「戸沢橋」に差し掛かり、ここで旧街道は戸沢橋手前で戸沢川を迂回して少し林の中へ入って行くのだが、大雨の時はこのまま戸沢橋を渡り、すぐ先を左折する道を選んで下さい。

 戸沢橋の手前で左に入る細道があり、その入口に「←円井逆断層」の案内板が立っている。ここを左折するとすぐ砂利道になり、少し行くと 「戸沢林道」の看板が立っているY字路に出るので、ここを右に進む。

 右方向に進むと、すぐ右へ小さな川原に下りる道があるのでそちらへ行く。

 左の写真が「戸沢林道」の看板が立っているY字路。妻が立っている所が川原に下りる道。

 右へ下りると浅い小川が流れているので少々靴が濡れるのを覚悟して幅1〜2mの川を渡る(16:46)。

 上述で、大雨の時は戸沢橋を渡りなさいと述べたのは、この橋も何も無い小川を渡るからです。

 真直ぐ方向、川の左側に沿って上流に300m位(と思う)進むと、逆断層が露出した「円井逆断層」に行けるが、その入口、妻が立っている所には「熊に注意!」の看板が立っていたので、この季節止めたほうが良いだろう。

 小川を渡ったら対岸の道を左に上がって行く。この道は戸沢橋を渡ってから左折する道につながっているので、橋を渡ってもすぐここに合流するし靴も濡れない。

 Uターンしている急坂を登りきると下円井の集落に入って行く。

 16:51右側火の見櫓の下に、秋葉山常夜燈が建っている所に出て、ここで道は軽く枡形になっている。この道の正面には大きく立派ななまこ壁の門を持つ家が建っている。(左の写真)

 やがて道は、カーブミラーと正面に小さな石祠がある所で右折し、次いで茶色い家の所のY字路を左折する。左側にはフェンスに囲われた徳島堰が現れる。


【かかしの里】 (右側) 17:03 

 程なく町外れで大きく開けた田んぼになる。右手は七里岩、正面に八ヶ岳連峰が見えてくる。

 また、行く手には「かかしの里」と一字ずつ書かれた大きな看板も見える。

 看板の所へ着くと休憩所があり、『水土里(みどり)ネット「円野町」』の絵地図とその下には「円井逆断層」や「平成かかしカーニバル」等の写真が掲げられていた。


【徳島堰】 

 かかしの里休憩所のすぐ先左側の「つぶらの会館」前に「徳島堰」の解説板が立っていた。

【徳島堰由来】 

 この堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰、徳島堰)中随一と言われています。三百三十年前、江戸の住人徳島兵左エ門がこの地方の開発を計画し、幕府(甲府藩)の許しを得て、寛文五年(1665)工事を始め、同七年に上円井(韮崎市円野町)より曲輪田の大輪沢(櫛形町)まで約17Kmの堰を造りましたが、何故か兵左エ門は同年秋工事から手を引きました。その後甲府藩では有野村(白根町)の郷土矢崎又右エ門等に命じて全区間の不良箇所の修復をさせ同十年に完成したので、この堰を徳島堰と名付け兵左エ門の功をたたえましたが、又右エ門は工事に私財を使い果たして生活は困窮しました。

 当初約350haの耕地はその後増加し水路は老朽化したので、昭和四十一年より九年の歳月と、 

億五千万円の巨費を投じて農林省によって改良工事が行われ、昭和四十九年に完成しました。現在、毎秒7.93mの水が自動的に流れ、田1559ha、畑2052haの沃野がこの堰の恩恵をうけています。

 水辺に立って豊かな水の流れを見つめると先人の功績が偲ばれます。   (文責歌田)

     平成七年八月吉日 平成かかしカーニバル実行委員会建之

 上記文中で工事費用の億の数字部分が消えていたが、役所から記載する事にクレームでも付いたのかと勘ぐってしまう。


 徳島堰が川で途切れ、再び川の反対側に続いている所に出たら真っ直ぐ行き、桜並木の中を通る。

 西の山から流れてくる川で徳島堰が途切れる箇所はここまでにも何度か出てきたが、堰は川の下に潜り込んで反対側に湧き出てくる構造(サイフォン)になっている。現代の土木技術では問題ないが江戸時代にはどのように造っていたのだろう。

 桜並木を過ぎると、旧街道は国道20号線と交差する。交差するところは右下のトンネルを潜って反対側の上円野町に出る。ここで国道を右に行けば、すぐ「穴山橋バス停」に着く。


【上円野】 

 17:22トンネルを潜る頃にはあたりが暗くなり、西の山は夕焼けで美しかった。

 上円野の主道路に出たら左折し、暫く行くと左に曲がる細道入口に「徳島翁のおはかみち」と書かれた石柱が立っており、奥に説明板が見える。そこが「妙浄寺」であるが、この 左折道は意識していないと通り過ごしてしまうので注意が必要。

 真っ暗になったので「妙浄寺」は次回訪れることにする。

 寺の横から国道20号線に出て右へ少し行くと「円野中(まるのなか)バス停がある。



 12回目の旅終了(17:35)  妙浄寺入口  日本橋から四十一里二町(161.2Km)。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、19.1Km(「竜王駅前」交差点〜妙浄寺入口 )

          寄り道を含めた実歩行距離は、19.7Km (竜王駅〜円野中バス停)

          6時間50分  30,000歩 (街道のみ)  31,000歩(竜王駅〜円野中バス停)

 「円野中」バス停17:56発の山梨交通バスで韮山駅18:13着。18:23発の「あずさ30号」に乗り、八王子経由で帰宅。

 

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