台ヶ原宿 (円野中バス停 → 下教来石バス停) <旧甲州街道13回目>

 

 2008年10月25日(土) 晴れのち曇

 横浜駅から「はまかいじ号」で 韮崎駅迄行き、山梨交通のバスに乗換えて「円野中バス停」で下車。

 前回終了した「妙浄寺」を10:35スタート。

 

 (注:解説で街道の左側、右側とは下諏訪に向っての左右です)

「韮崎宿」 ← 「目次」 → 「教来石・蔦木宿」

 


【妙浄寺】 (左奥)

 徳島堰を造り始めた徳島翁夫妻の墓と供養塔がある寺。

 私達は路線バスで来たので、国道20号線からこの寺の横の入口から入った。

 旧甲州街道からは、左側に「徳島翁おはかみち」の石碑建っている所で、なまこ壁の土蔵に沿って入って行くと突き当たりに寺がある。街道からは奥に案内板が立っているのが見えるが、細い道なので注意していないと見逃す(左の写真)

 正面の階段を登ると、右手に鐘楼、正面に本堂があり、左奥に進むと徳島翁の墓と供養塔がある(右の写真)

【清水山妙浄寺 縁起】

 当妙浄寺は、万治年間より三百五十年余年前、江戸深川の人で豊臣方の残党と云はれる徳嶋兵左ヱ門俊正が、当地に来たりて、水利事情が悪く、農耕を困難している釜無川右岸地帯の農民をしのび、灌漑用水堰の開発を計画され、其の完成を祈念して江戸深川(今の東京都)法華山浄心寺第二世日通上人の開眼に成る、立像の七面大明神を勧請して堰の守護神として建立し、現在でも徳嶋祈願所として祈祷が奉行されている、他にない祈祷寺で身延直末寺院です。

 徳嶋堰は当円野町上円井、妙浄寺正面釜無川取水口より、延長四里半(十八キロ)白根町曲輪田新田迄で、其の灌漑面積は一千町歩(一千ヘクタール)近くある、規模と云い其の事業の成績と云い、本県に於て最もすぐれた用水堰です。

 徳嶋兵左ヱ門俊正翁は工事の途中、諸事情から幕府の圧政にあい、この地を去り妻女妙浄尼に其の総てを委ねたので、当時の身延山法主日莚上人より妙浄寺の名称を賜る。

 本堂には当時勧請の七面大明神が安置され、末法総鎮守願満七面大明神と称せられ霊験顕著を以って知られ、遠近信徒の深い信仰を集めている。

 又、境内には徳嶋兵左ヱ門俊正夫妻の墓所、鐘楼堂及び大顕彰碑が現存し翁への深い尊敬と感謝が払はれている。

     清水山妙浄寺十九世荻原日尭記之


【明治天皇小休所・内藤家】 (右側) 10:45 

 街道に戻り、300m強行くと、なまこ壁と立派な門の内藤家がある。

 門から覗くと内側は空地状態で、内藤家は門内の左側に寄せて建っており、通常の塀と門がある。その内門の前に「明治天皇圓野御小休所」(昭和十一年十一月三日建設)の石碑が立っていた。(左の写真で中に石碑が見える)

 ここから200m弱の「上円井交差点」で国道20号線に合流する。この交差点左側には豪邸の門が、右側には「秋葉山常夜灯」と「鳳凰三山登山口・御座石鉱泉」の看板が立っている。

 やがて小武川に架かる小武川橋を渡るが、この橋の真ん中に158Kmポストがあり、渡ると韮崎市から北杜市に入る。橋からは甲斐駒ケ岳が左正面に見える。

 渡ったらすぐ右折し、こげ茶色の建物の前を左に進むと宮脇の集落に入って行く。


【旧甲州街道一里塚跡(六里塚)】 (右側) 11:10 

 宮脇集落を抜ける所の黒沢橋を渡ると再び国道に合流するが、その合流直前右側の道端に立っている見逃しそうな小さな石碑が一里塚跡の碑である。

 甲府ヨリ六里ナノデ 六里塚トモ云ウ (平成七年 松本八郎 建之)


【武川村米の郷・町の駅】 (右側)  11:13

 国道を少し行くと、分れ道に「武川村米の郷」と書かれたなまこ壁の米蔵風の「武川町農産物直売センター」が建っている。トイレも外側にあるので有難い。(左の写真)

 農作物は新鮮だがそれほど安いとは思わなかった。但し、アルプスの綺麗な水で育った武川米は絶品とのことで、幻の米とも言われているらしい。

 旧街道はこの「町の駅」で右折し、牧原の集落に入って行くと突き当たりに大きな庚申塔がある。

 庚申塔前を左カーブしてしばらく行くと、左側に「旅館近江屋」がある。武川米を食べたかった為、この旅館で昼食ができることを聞いて当初の予定に入れていたが、帳場は奥の方で昼食だけでは入りにくい雰囲気だったのであきらめて先に進む。武川米は残念だったが結果として、ここで食事をしなかったのは正解だった。

 「近江屋」のすぐ先左側に先端が下に曲がっている珍しい赤松の巨木があった。

 程なく国道に合流するが、歩道橋を潜ったらすぐ斜め右の旧道に入る。200m程で「大武川」に突き当たるが橋が無いので、川の手前を左折して国道に架かる「大武川橋」を渡る。

 左折した所の左側にあった小さなスーパーで弁当(太巻き寿司といなりのパックが3個しかなかった)とポテトサラダを購入。

 この先しばらく食事が出来るところはない。昼時の人は、この先に素晴らしい景色を見ながら弁当を広げられる所があるので、このスーパーで購入することを勧める。


【水車のある田園風景】 12:00〜12:30(昼食) 

 「大武川橋」を渡ったらすぐの下三吹バス停で左折する。右カーブしたら、軽い上り坂の下三吹集落を進んで行く。

 火の見櫓を見て、蔵の横を抜けると突然視界が開けてきて、感動的な田園風景になる。本来の旧甲州街道はその手前を右折するのであるが、ここは突き当たるまで真直ぐ進むと良い。

 開けた所は田圃で前方に水車小屋が見え、正面に甲斐駒ケ岳(2967m)がそびえる。この日は誰もおらず、勅使河原郁恵さんも絶賛した風景が展開する。 2000年に地元の人たちが整備したものとのこと。

 前述で弁当を購入することを勧めたのは、水車小屋の右隣に建っている東屋で、この景色を見ながら食べる昼食は最高に美味しいからである。

 広場には、ゲートボール場があり、清潔なトイレも完備している。


【萬休院(ばんきゅういん) (左上) 12:35〜12:55 


 「萬休院」へは、水車小屋広場の右側に上り道があるので、350m程登って行く。この坂は結構きつかった。

 ここには、国指定天然記念物の「舞鶴松」があることで有名な寺で、それを期待していたが、着いてみたらそれらしい松は見当たらなかった。但し、石庭は美しかった。

 行く前の情報では松喰い虫の被害に遭い、役所の対応の遅れから枯れてしまったとの事で心配していたが、それは現実であった。私達が訪れたときには痕跡もなく、新しい普通の松が植わっていただけであった。

 石庭の前には、「舞鶴松」の解説板、石碑(山梨県)、新・日本名木100選の認定証(読売新聞社)が建っていたが、知らない人はどの木だろうと戸惑ってしまうだろう。傍にあった近隣案内図には松の絵だけ描かれていたが、元気だった頃の写真を掲げておいて欲しかった。樹齢450年だったので江戸時代の人も見た見事な松が、今やホームページでしか見ることできず、非常に残念である。
【舞鶴マツ】

 樹種はアカマツ。(中略)

 名称の由来は、傘状の枝が階段状になり、全体の樹形が優美で、ちょうど鶴が舞う姿に似ていることからきている。(中略)

 樹齢約四百五十年といわれている。(中略)

 樹高 9m。  総枝回り 74m。(他略)

     平成十年三月一日 文化庁 山梨県教育委員会 武川村教育委員会

 本殿入口に「あくしゅ観音」が立っていたので、旅の無事を祈りつつしっかり握手してきた。

【あくしゅ観音】

 今日まで 多くの人々とことばをかわし 多くの人々と共に歩み 多くの人々に支えられてきたことだろう

 今またここで心の安らぎを願い 新たな出逢に感謝して あくしゅしましょう

 上記写真で、石橋の奥の今は普通の松が植わっている所に「舞鶴の松」があった。右手が本堂入口で、その前に「あくしゅ観音」が立っている。

 水車小屋広場まで戻って、国道方向のS字カーブを行き、十字路を左折する。直進すると国道へ、左からの道は本来の旧甲州街道なので、ここで旧道に戻ったことになる。この十字路の左側には庚申塔等の石碑群があり、右下には国道が並行している。

 「萬休院」の近隣案内図がある所から、水車小屋広場に戻らずに左方向に進んでも旧甲州街道に出られる。最後はS字の下りで合流し、その合流点にも石仏群がある。

 旧道を道なりに進み、「上三吹交差点」で国道を横断する。

 国道の手前に萬休院の道しるべとして、芭蕉句碑(見ぬ人に見せばや松の初みとり)があるとのことだったが見逃してしまった。道しるべで句は誤伝らしいが。


【旧甲州街道一里塚跡(七里塚)】 (右側)  13:27

 上三吹集落を抜けると開けて、右側に釜無川が迫り、尾白川と合流する所に出る。その川べりに休憩できる東屋が建っており、前方には遠くまで国道が見える。

 東屋のすぐ先右側に六里塚と同じ一里塚跡の小さな石碑が立っている。

 甲府ヨリ七里ナノデ 七里塚トモ云ウ

 写真は西側から写したもので、手前の石碑が七里塚でその裏は釜無川。中央の木の後ろが東屋で、河原に下りられる階段が見える。


【古道・はらぢ道】 13:35

 国道に出て「尾白川橋」を渡ると、左側に「そば・うどん・めし 信玄あぶみ屋」の看板が立っており、その手前に古道の入口がある。

 但し、この店は2008年10月現在廃業しており、売物件となっていたので何れ取り壊される運命だろう。

 将来目印(店の看板)が無くなっても、橋を渡ったすぐ左に細道が見え、入口には小さいながら「甲州街道台ヶ原宿古道」と書かれた木札が立っており、石棺が置いてあるので分かると思う。

 「台ヶ原下交差点」までの短い草道だが勅使河原郁恵さんも通った道で、近年地元の住民が整備している「はらぢ道」と呼ばれる古道である。

 「はらぢ道」に入るとすぐ、馬頭観音が3基並んで建っており、案内板もあった。ところが、一番右の肝心の石碑が前に倒れていた為に前面は見えなかったが、左側面に「右かうふみち」「左はらぢ道」と刻まれているのを確認できた(上の写真)

 この道しるべの先で分かれ道に出るので、溝を渡って右に登る。その分れ道にも「甲州街道 台ヶ原宿古道」の木札が立っていた。

〔横山の道標〕 台ヶ原宿案内板番号22 (右側) 

 ここの道を古道という。古府中より穴山、日野を経て台ヶ原村へ通じる道で、後に「はらぢみち」ともいわれていた昔日の主要道路である。

 甲州道中の開設により台ヶ原村への入口でもあったので、江戸時代には交通の足である馬の四魔を承伏し、交通の安全を祈願して建てられた馬頭観世音の側面に道しるべとして「右かうふみち」「左はらぢ道」と記されている。

 甲州台ヶ原宿に現存する唯一の道標である。

 平成十七年三月吉日 台ヶ原区


【庚申塔と馬頭観世音】 案内板の番号R (左側)  14:00

 分かれ道で右に登るとブドウ畑になり、やがて左側に尾白川が接してくる。更に進むと尾白川に架かる「曲足橋」が現れて草道は終わり、舗装道路になる。その橋の先に庚申塔と馬頭観世音が10基以上整列している所に出る。

 台ヶ原宿に入ると史跡等の案内板が充実しており、その案内板には、宿場内に掲げられている絵地図に対応して整理番号がふられている。

〔庚申塔〕

 庚申とは、干支(えと)の庚と申が結びついた六十年に一度回ってくる日や年のことである。

 庚申の夜は、眠ると人の体の中の三尸(さんし)という虫が抜け出して、天の神の所に行って悪口を告げるので、その日は「守庚申」といって身を謹んで一夜を送る。

 庚申塔は集落中に建てられたが、文字だけのものと青面金剛を主尊とする庚申の神を彫ったものがあった。江戸時代に入ると、各地に「庚申講」がつくられて、供養のための庚申塔が建立された。

〔馬頭観世音〕

 馬頭観音は馬の守り神であり、石仏として地蔵、庚申とともに親しまれてきた石造物で、馬頭観世音の字だけを彫ったものと馬の頭に冠をつけた馬頭観世音がある。

 馬は、古来より労働力として農耕、運搬、乗用等に重用されていたので、馬の供養と無病息災の祈願をこめて建立されていた。馬の頭上の冠は、生死の大海を渡った四魔を承伏する大威力や精神力、無明の重障を食い尽くすとの意味がある。

     平成十七年三月吉日 台ヶ原区


【古道入口】 (左側) 14:01 

 「はらぢ道 」が終わり、国道と合流すると所が「台ヶ原下交差点」。その合流点に道祖神跡の案内板と平成十七年三月に建てた「古道入口」の石碑がある。

〔道祖神跡〕 Q

 道祖神は、村の境や辻などにあって悪疫を防ぎ、旅人の安全を守り、縁結びや子宝祈願の民間信仰の神である。

 文化三年の記録によれば、一月十四日の道祖神祭の際には「虎頭の舞」が奉納されており、同年間の「甲州道中分間延絵図」に図示されている三カ所のうちの一つがここである。

     平成十七年三月吉日 台ヶ原区

 交差点を渡り、「日本の道百選 甲州街道 台ヶ原宿」の看板を右に入ると、宿場町に入る。


【台ケ原宿】 日本橋から四十三里 三町四十七間(169.3Km)、下諏訪へ十里 十三町ニ十五間(40.7Km)  

 天保14年(1843)で人口 670名、総家数153軒、本陣1軒、旅籠屋14軒。

【台ヶ原宿の歴史と由来】

 台ヶ原宿の起源は明らかでありませんが、甲斐国志に「甲州道中の宿場なり、古道は辺見筋の渋沢より此に次ぐ・・・」とあり、台ヶ原は甲州街道の設定以前から交通集落としての機能を果たしていたと考えられます。

 元和四年(1618)に甲州街道に宿請が申し渡されたので、この頃台ヶ原宿も宿場として整備拡充されていったと考えるのが一般的です。

 台ヶ原宿は江戸への里程四十三里十町余、韮崎宿へ四里、隣の教来石宿へ一里十四町、江戸より数えて四十番目、宿内の町並みは東西九町半の位置になり、天保十四年の宿村大概帳によれば、人口六百七十人、家数百五十三(加宿共)とされています。


【道祖神跡】 P (右側) 14:04 

 宿場町に入るとすぐ、常夜燈と共に石仏群がある。 


【立場跡と共同井戸跡】 O (右側) 14:10 

 右側永楽衣料店は、立派な門を持つお屋敷が続き、見越しの赤松はそれに劣らず立派だった(左の写真)

 永楽屋の隣はなまこ壁の信濃屋酒屋で、その先に立場跡と共同井戸跡の案内板が立っている。

【立場跡】

 立場は宿駅の出入り口にあり、旅人・籠かき・人足・伝馬などが休憩する掛茶屋であった。

 建坪が四十二坪で、時には旅籠としても利用されていた。

【共同井戸跡】

 昔は、湧水や川水などが生活用水として利用されていたが、衛生面から井戸を掘って、共同で維持・管理し、数戸から十数戸が利用していた。当時は、つるべ式の揚水施設であったが、後に揚水ポンプが導入され便利になった。

 井戸端には、多くの人々が集まって井戸端会議が行われ世間話やふれあいの場として賑わった。しかし、昭和三十年から白州町になり全戸に町水道が普及したので、各所にあった共同井戸は廃止されるようになった。

     平成十七年三月吉日 台ヶ原区


【台ヶ原宿の案内板と水飲み場】  (左奥) 14:11

 十字路の太い道を左に行くと、大きな「日本の道百選・甲州街道 台ヶ原宿」の案内板が立っており、その脇に「甲州台ヶ原宿 名水百選の里水飲み場」がある(左の地図で現在地の所)

 案内板には、宿場の絵地図が載っており、それぞれの史跡には前述した通り番号がふられている。また、案内板には「台ヶ原宿の歴史と由来」と「宿場の機能」の解説と、脇にパンフレットも置いてあった。

 パンフレットの地図を片手に番号を確認すれば見落とすことがないだろう。

 案内板の右隣には、風情の無い水飲み蛇口があり、名水の水飲み場となっていた。

【宿場の機能(1)】

 宿場の重要な機能は、公用の旅行者の貨客の逓送、一般旅行者の利便をはかること。

@宿場には旅行者の駅伝業務を円滑にするため、当宿にも二十五人の人足と二十五頭の馬が用意され、うち五人、五匹は囲い人馬といい火急に備えました。

A加宿、助郷の制度が設けられ、多くの人足や、馬が必要な時には、加宿である三吹村をはじめ助郷となっている十四の村から協力を得られる仕組みがつくられていました。

B宿場の業務は幕府の所管で、道中奉行の支配下にあって、問屋場を中心に駅伝業務が行われていました。問屋場では町役人が毎日詰めてそれぞれの業務にあたりました。

 

【宿場の機能(2)】

 もう一つの重要な機能は、旅行者の休息と宿泊です。

 寛永十二年三代将軍家光によって参勤交代制が定められてから、大名や上級家臣が宿泊するのは本陣、脇本陣で、一般の家臣や庶民が宿泊するのは旅籠屋でした。

 甲州道中の参勤交代の大名は、高島藩(諏訪伊勢守)、高遠藩(内藤大和守)、飯田藩(堀大和守)の参藩が利用していました。

  特に街道を賑わしたのは、

@天明三年の浅間山の大噴火によって、中山道が閉鎖となり、甲州道中の通行量が増大した。

A寛永九年(1632)から元文三年の間、将軍飲用のお茶壺道中の通行が行われ、宿内の田中神社に一行が宿泊されて時。

B中馬(農民の馬による荷物輸送)が発達して物資の交流が激しくなり、当時の宿場は多忙を極めました。


【本陣跡】 【秋葉山常夜燈】 (右側)  14:15

 十字路の右角の家の塀には、本陣跡と秋葉常夜燈の案内板が掲げられており、前には本陣屋敷跡の標柱と大きな石燈籠が立っていた。

 本陣跡の向かいが脇本陣跡になる。

【本陣跡】 M

 大名が陣を敷いた場所ということから、大名級の者が宿泊した所である。したがって、規模は広大であり、門を建て玄関を設け、上段の間を有することで一般の旅籠と区別され、一般の旅籠には許されていない書院造りの建築様式であった。

 天明二年の記録に、敷地は間口十八間、奥行き十九間の三百五十一坪で建坪は九十二坪あった。

秋葉大権現常夜石燈籠の由来】 L

 往年、台ヶ原宿が火災と水害に見舞われたことに起因して、慶應三年「秋月講」というグループが誕生し、防災を念願して、「秋葉大権現」の石灯籠を旧小松家(本陣)屋敷跡に建立して、大火の防火を祈願した。

 その後「秋葉講」として祈願グループが広がり、年々秋葉山に代参をたて、地域の火災予防に寄与してきたが、諸般の事情により自然消滅した。近年、集落内に火災が続発し、恐怖心に包まれた折もこの石燈籠が地元住民の心の支えになり、毎年、十二月十五日を祈願祭としている。

                                   記

                           建立年月日 慶応三年十一月祭日

     平成十七年三月吉日 台ヶ原区


【郷倉跡】 【高札場跡】 (右側)  14:19

 絵地図によると左側にあったことになるが、案内板は右側に立っていた。 

【郷倉跡】 H

 毎年の生産物より、一定量を備蓄して、非常の時に対応するために造られた備蓄庫であり、囲い籾(古いもの)は新しいものに取り換えられた。

 文化二年の記録に「壱ヶ所貯穀有之」と記され、凶作の時に時価をもって極難の者に分売したとある。また、明治四年には郷御倉壱ヶ所、二間に三間の建物で敷地は除地であった。慶應二年の大凶作、嘉永七年の大地震のときに貯穀を借り受けたという。安政五年の貯穀取調書上帳によると籾四十七石六斗一升八合であった。

【高札場跡】 J

 幕府からの命令を板の札に墨で書いて掲示した場所で、幕府の権威を人々に認識させる役割を果たしていた。

 文化三年の記録によると、その大きさは高さ二間余、長さ三間、横七尺であった。

     平成十六年十月吉日 台ヶ原区


【七賢(しちけん)・明治天皇行在所】 (右側)  14:20〜15:20

 

 銘酒七賢の山梨銘醸鰍ナ明治天皇の行在所ともなったかつての脇本陣。1時間おきに明治天皇の行在所を説明付で見学できる。

 写真の左は、正門の脇に立つ「明治天皇菅原行在所」の石碑と案内板。右は 酒造所入口。写真は二枚分かれているが実際は棟続き。

 店では試飲もできるが、行った時は混雑していたため飲むことはできなかったので味は報告出来ない。私は酒は何でも飲むが日本酒だけはあまり好きでないので別段試飲出来なくとも何とも思わなかった。代わりに名水を飲んで、酒のアイスクリームを食べた。

 酒造所の見学、休憩、行在所の見学で1時間も滞在してしまった。

 今回は下教来石からの帰りのバスが1本しかないので早すぎても、遅すぎても都合が悪いため行く前にしっかり予定を立てて出かけてきた。予定では「近江旅館」での昼食と「萬休院」の見学にたっぷりの時間をとっていたがこの二か所で1時間の余裕が できた為、七賢でゆっくりすることができたのである。

【行在所見学】

 建物は天保6年から6年間かけて建てられたもので、内側から見る表門、玄関の間、次の間、中庭、中の間、奥座敷(行在所・左下の写真)、奥の庭と解説付きで案内して頂いた。

 中の間と奥座敷の間の欄間には透かし彫りの見事な彫刻(竹林に七賢人が彫られている)があり、この欄間装飾から「七賢」という酒の名前が付けられたと言う。

 (右下の写真)

 128年前の明治13年6月22日に明治天皇が泊られた時は、御供が400名付いたとのこと。宿泊お礼に五拾円(現在の貨幣価値で100万円)頂いたが、表門や内部の改装に3倍の現在価格で300万円かかったそうである。

 また昔は、天皇は神だったので、使用した部屋にはしめ縄を張り開かずの間としていた。終戦で人間と宣言されるまでの65年間、家族は暗い別室で暮らしたとのことである。家族にとっては不便であっただろうが、逆に部屋は綺麗なまま保存されてきた。

 明治天皇が使用したものは、総て焼却処分しなければならないとの御達しだったが、唯一夕食時の箸のみ残されていたのでケースに展示されていた。

【説明】

 明治十三年六月山梨三重京都御巡幸の際同月二十二日行在所となりたる處にして主要部分はよく舊規を存せり。

     昭和十年二月 文部省

【北原家住宅 四棟】 山梨県指定有形文化財(平成12年10月指定)

   主  屋  桁行18.1m、梁間18.7m、一重一部二階 切妻造 銅版葺

      附  表門及び両脇屋根塀

   奥便所  桁行3.8m、梁間2.6m、一重 切妻造 銅版葺 主屋間の渡り廊下を含む

   文庫蔵  土蔵造、桁行7.3m、梁間5.5m、一重二階 銅版葺

   文化蔵  土蔵造、桁行14.5m、梁間5.5m、一重一部二階 切妻造 割板葺

 当家は、寛延二年(1749)頃、信州の高遠で酒造業を営んでいた北原伊兵衛光義が、この地に分家をして大中屋(現山梨銘醸株式会社)という屋号で酒造りを創めたと伝える。以来営業は大いに発展し幕末には諏訪高遠藩、伊那高遠藩の御用商人を務め、また脇本陣をも兼ねていた豪商である。

 降って、明治十三年(1880)に明治天皇本県御巡行の際は行在所となった。

 北原家住宅は、台ヶ原宿の街道に面して建つ大規模な町屋建築である。主屋は主部の桁行が十間、梁間十間半で、東側の土間、店舗および居住部分から構成され、一部に二階居室がある。西側につづく突起部は桁行が六間、梁間七間半で、南面に式台付き玄関、北西に座敷部分が並び、総桁行は十六間に及ぶ。屋根は緩勾配の切妻造りで銅板葺になっているが、もとは石置き板葺屋根であった。玄関の正面には両脇に塀を付けた表門が建つ。

 とくに座敷部は三室を南北に並べた配位で、格式の高さを示し、北端の奥座敷(行在所)は座敷飾に床の間、違棚、付書院を備えた十畳間で北側に畳廊下が付く。奥座敷と中の間堺との欄間装飾は「竹林の七賢人」の彫刻である。

 これは立川流宮大工・彫刻師として名高い立川専四郎富種の作品であり、酒名「七賢」の由来とされる。

 建築年代は天保年間(1830−43)から嘉永七年(1854)にかけて完成したと考えられる。主屋はじめ文庫蔵等付属建物が当時の状態でよく保存され、また建築関係資料も多く残されており、江戸時代末期の優れた商家遺産である。

     平成十二年十月十二日 山梨県教育委員会 白州町教育委員会

 七賢の隣は、七賢直営の「レストラン臺眠」がある。


【問屋場跡】 I (左側)

 七賢の向かいに案内板のみ立っている。

 問屋場は、人馬継ぎ立ての駅務を行う事務所であり、問屋、年寄、帳付け、馬差しの者が常勤していたが、交通量の多い時は、名主等の台ヶ原村役人が手伝っていた。

 天保六年の記録に、敷地は間口七間、奥行き二十八間の百九十六坪、建坪は五十六坪で貨客の多いときは、旅籠としても利用されていたと記録されている。この問屋制は、慶應四年に廃止された。

     平成十六年十月吉日 台ヶ原区


【金精軒(きんせいけん) (左側) 15:21

 七賢酒造の斜め向かいにある元祖「信玄餅」の店。

 店内には数枚のサイン色紙が飾られており、勅使河原郁恵さんのも「てくてく旅」と明記されてあった。

 この少し先右側に、立派な門を構えた宿場で最も古い家がある。


【登記所跡】 D (右側) 15:28 

 石垣の上に「日本の道100選」のプレートを掲げた石碑と並んで登記所跡の案内板が立っている。

 台ケ原宿のメインロードが「日本の道100選」に選ばれた道である。

 写真は西側から写したもので、手前の石垣の上に「登記所跡」の案内板と「日本の道100選」の石碑が建っている。

 その奥隣の黄土色の塀が古い家、更に奥の木立が「七賢」。

 この写真を写している場所が「荒尾神社と田中神社」前。

 この登記所は明治二十四年二月甲府区裁判所若神子出張所の管轄のうち、菅原村外十ヶ村を分離し、管轄するために開庁された。

 はじめは、龍福寺の庫裡を借りて庁舎としたが、その後、民間の個人宅を借りて業務を行ってきた。しかし、大正元年十二月に庁舎が新築落成し、以来業務を行ってきた。その後の機構改革により、大正十年七月より現在の白州町と武川村をその管轄としたが、昭和五十年三月韮崎出張所に統合され廃所になった。

     平成十六年十月吉日 台ヶ原区


【荒尾神社と田中神社】 【お茶壺道中の由来】 (右側) 15:29 

 「登記所跡」の隣に両神社の案内板が立っていて、神社は階段を登った左奥にある。また、階段上の鳥居の右にはお茶壺道中の由来が書かれた案内板も立っている。

荒尾神社と田中神社】

 荒尾神社は、もと中山の麓の根古屋にあった。祭神は罔象女命と日本武尊である。

 甲斐国誌に「荒キ尾白川ニ臨ムノ意ニテ荒尾ト名付クト云」とあり、尾白川の氾濫などから村人が、台ヶ原などに移り住むようになり、明治四十三年に台ヶ原田中神社境内に境内神社末社を合祀、大正三年四月五日その境内に遷都した。

 田中神社は、祭神は大己貴命と媛太神で、安産の神として近郷に知られていた。

 この拝殿は、江戸時代(慶安五年から元禄三年)にお茶壺道中の宿舎に当てられ、二回修造料として各拾両宛拝領の記録がある。

 なお、甲斐国誌に「祀側ニ虎石アリ故ニ古来本村ニテハ獅子舞ヲ禁シテ入レス正月十四日道祖神祭ニモ虎舞ト名付ケテ他村ノ獅子トハ其形異ナリ」とあり、明治初年頃まで虎舞が続けられていた。虎頭のみ残して絶えていたこの舞を、近年集落の若者を中心に保存会が発足し、復活させた。

 また境内を出発地として明治初年まで行われていた昆虫除けの祭礼は、資料が残存していて、江戸末期の農村事情を知ることができる。

     平成九年七月吉日 白州町教育委員会

お茶壺道中と当社の由来】 C

 お茶壺道中は、江戸幕府三代将軍家光の寛永十年から毎年四月中旬、京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壷に納封して、江戸城へ運んだ行列である。

 行列の往路は東海道であったが、帰路は中仙道を経て甲州街道へ入り、谷村勝山城の茶壷蔵に収蔵して、熟成後の秋に江戸城に搬入されていた。この茶壷行列は権威が高く、御三家の大名行列さえも道を譲らなければならないほど格式の高い行列であった。

 資料によれば、このお茶壷行列は、中仙道奈良井宿や下諏訪宿に逗留後、当田中神社に宿泊したと記録されている。甲斐国誌には「此ノ拝殿昔時ハ毎年御茶壷一泊ノ処ナル故ニ修造料トシテ金拾両宛二度拝領セリ、慶安五年六月ノ立札ノ写ニ御茶壷毎年当社拝殿御一泊候間拝殿並ニ御番所柱壁等落書一切仕ル間候」とあり、また「御茶壷通行ノ停マリシハ元禄三年ナリト見タリ」と記されている。故に当社は、お茶壺道中とゆかりがあり、由緒ある神社である。

     平成十六年十月吉日 台ヶ原区


【修験智拳寺跡】 B (右側) 15:32 

 田中神社入口すぐ先の本殿下空き地に案内板のみ立っている。

 山岳宗教と仏教が習合された信仰的宗教が修験である。奈良時代に役小角を開祖として始まったといわれている。室町時代には、天台宗系本山脈、真言宗系を当山脈としていた。

 甲斐国誌によれば、県内の本山脈は八十五院当山脈が二百四十院あった。智拳寺は、当山脈に属して、勝軍山と号し、甲斐国の府中の宝蔵院、堺町の明玉院とともに三触頭の一院として、文政十三年には男女各二人がいて除地四畝二十四歩を領有し権勢を誇り、布教に努めていた。

 尚、台ヶ原村年中行事である「除昆虫祭祀」にも田中神社、龍福寺とともに参画し、地域に密着した活動を続けていたが、明治四年の神仏分離令により傘下の各院とともに廃寺になった。

     平成十七年三月吉日 台ヶ原区


【一里塚跡】 A (左側) 15:33 

 修験智拳寺跡の向かいに石柱が立っており、右側面に解説文字が刻まれていた。

 このあたりで台ヶ原宿も終り。

 日本橋から一里ごとに建てられた里程標で 、其処から四十三里十町余に当たる。

     平成十七年三月吉日 台ヶ原区


【つるや旅館】 (左側)  【梅屋旅館】 (右側) 15:38 

 少し進んだ左側に新しいつるや旅館があり、古い旅館が左隣にそのまま残っていた。また、古いほうには、講の版木が3枚掲げられていた。

 右側の梅屋旅館は、一般家屋のような旅館だった。


 国道に合流する手前の火の見櫓の下を右折する。

 やがて下り坂になると、目の前が突然開けて正面に七里岩がそびえ立つ所に出る(左の写真)

 長沢集落はだらだらと長い上り坂で、途中右側に林家酒店があるが、その左側には朽ちかけて傾いた古い酒店が残っていた。

 またその先右側には玉齋吾七の歌碑もあった。 

 16:15、「前沢上交差点」で国道と合流し、そのまま国道を少し歩く。

 やがて、神宮川に架かる濁川橋を渡ると、右側にサントリー白州製樽工場がある。

 その先のY字路で国道と別れて右の道に進む。国道上の温度計を見たら15℃であった。

 国道から分かれるとすぐ左に照明塔も完備している立派な「白州町総合グランド」があったが、利用している人は誰もいなかった。

 荒田の集落に入ると、常夜燈が3つ建っている。

 松山沢川に架かる松山沢川橋を渡って、小淵沢駅に向う新道を横断する。

 次いで、流川に架かる流川橋を渡り、左カーブして「教来石(きょうらいし)交差点」で国道に合流する。

 旧道から「教来石交差点」に出た所の右側にあるバス停は韮崎駅に行かないバスなので、交差点を左折して少し行った反対側から出る山梨交通のバス停に行くこと。

 2008年現在、韮崎行き最終バスは17:33発である。バスに乗ったら韮崎駅まで乗客は私達だけであった。駅まで40分で運賃が980円と高いが、誰も乗らないで運行していることが多々あると察するので高くしないと採算が取れないのだろう。



 13回目の旅終了(17:00) 下教来石バス停。 日本橋から四十四里十四町(174.3Km)。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、13.1Km(妙浄寺入口〜「下教来石」交差点)

          寄り道を含めた実歩行距離は、14.5Km(円野中バス停〜下教来石バス停)

          6時間25分  25,000歩(街道のみ)  26,000歩(円野中バス停〜下教来石バス停)

 17:33発の山梨交通バスで韮山駅へ。

 

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