駒木野・小仏・小原宿 (高尾駅 → 相模湖駅) <旧甲州街道5回目>
2007年4月7日(土) 晴
「高尾駅北口」に出て、「高尾駅前」交差点を10:00スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは 下諏訪に向っての左右です)
「八王子宿」 ←
「目次」 → 「与瀬・吉野・関野・上野原・鶴川宿」
地元横浜の桜はすでに葉桜になってしまったが、高尾から先の桜は本日満開で、いずこも綺麗だった。
【小仏関跡】 (右側) 10:20
高尾駅前で弁当を購入し、国道20号線を下る。
JR中央線のガードを潜り、140m先の「西浅川」交差点を右折して県道516号線を600m強行くと、「駒木野」バス停前に関所跡と駒木野宿(次項「駒木野宿」の写真)の碑が建っている。
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この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和九年(1623)以降四人の関所番が配備された。 関所の通過は、明け六ツ(午前六時)から暮六ツ(午後六時)までとし、しかも手形を必要とした。鉄砲手形は老中が、町人手形は名主が発行。この手形を番所の前にすえられた手形石にならべ、もう一つの手付き石に手をついて許しを待ったという。 特に「入鉄砲に出女」は幕府に対する謀反の恐れがあるとして重視し厳しくとりしまった。抜け道を通ることは「関所破り」として「はりつけ」の罰が課せられるなど厳しかったが、地元の者は下番を交替ですることもあって自由な面もあったらしい。明治二年(1869)一月の大政官布告で廃止され、建物も取りこわされた。
(平成10年7月1日 |
【駒木野宿】 日本橋から十三里八町五十八間(52.0Km)、下諏訪へ四十里八町十四間(158.0Km)
天保14年(1843)で人口355名、総家数73軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋12軒。
駒木野宿の本陣や脇本陣は残っていない。
【念珠坂】 (左側) 10:25
「小仏関跡」をすぎると軽い下り坂になり、その途中に「甲州街道念珠坂」の石碑(写真右側の石碑)と地蔵等が並んでいる。
この坂から5分程行くと、火の見櫓の下に地蔵と庚申塔(宝永三年作)が建っている。
この辺りの脇を流れている水路の水は綺麗で、時折流れてくる桜の花びらに趣を感じる。
更に6分程行った「蛇瀧水行道場入口」と書かれた所を左折すると「蛇滝」か「高尾山」へのハイキングコース登り口らしく、多くのハイカーが曲がって行った。
常林寺手前の民家に珍しい垂れの山桜が満開だった。
11:00木下沢橋(こけざわばし)を渡り、JR中央線のレンガ造りのガードを潜る。右側に平行している中央高速道路の橋脚が高い。
何故かここを通るバスは、殆どといってよいくらい上下線とも2台ずつ連なって走っている。
JR中央線の踏切を渡り、左側になったJR線がトンネルに入ると程なくバスの終点である小仏バス停に出る。ここで11:15。
このバス停には、簡易トイレしかないが、この先小原宿までトイレがありません(小仏峠にもなかった)。汚くてもここに寄っておくこと!
【小仏宿】 日本橋から十三里三十五町五十八間(55.0Km)、下諏訪へ三十九里十七町十四間(155.0Km)
天保14年(1843)で人口252名、総家数58軒、旅籠屋11軒。
【宝珠寺】 (左側) 11:20
小仏バス停より車道を少し 登った所に宝珠寺がある。
境内に入って、右の階段の途中に天然記念物のカゴノキが、階段頂上右手奥の神社前には三度飛脚仲間が奉納した常夜燈二基がある (下の写真)。常夜燈には『甲府三度飛脚中』と彫られている。三度飛脚とは定飛脚のことで一月に三度往復したことから「三度飛脚」とも呼ばれていた。ちなみに「三度笠」は、三度飛脚が被っていた菅笠のことである。
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宝珠寺本堂左わきの崖上にあり、主幹は枯れてその周囲を枝幹がとりまいて一株をなしている。目通り幹囲は約4m、高さは約23m、根元から1.3mあたりから多くの枝が分岐している。一部の根が約3.1m崖下の通路に露出し、樹幹を中心に南北約22m、東西約17mある。 カゴノキはコガノキともいい、暖地性常緑樹で雌雄異体。樹勢はきわめて旺盛で、関東地方における大樹である。 (昭和42年10月1日 東京都教育委員会) |
【小仏峠】 (海抜560m)
宝珠寺より15分強で車道が終わり、駐車場になっているところからは車両進入禁止の登山道になる。駐車場からは30分で峠に着くことができるが曲がりくねったきつい登りが続く。途中水場がある。
峠に着くとそこは広場になっており、前方に朽ちかけた無人の茶屋がある。 茶屋の前には「小仏峠・頂上560m」の標識(木柱)が立っている。
右手崖際に地蔵と庚申塔が建っており、隣りに写真の地図が掲げられている。 中央高速道路に沿っている道が、甲州街道。
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このお地蔵様は昔この地に関所があった頃、道行く人の安全を願って建てられたものです。三百余年を経て近年修復されました。右側は同年代の庚申塔です。時代は変わってもお地蔵様はいつも此の地に立って道行く人々の安全を、守ってくれています。 |
広場は多くのハイカーで賑わっており、私たちもここで昼食休み(12:15〜12:35)とする。
この峠には、営業している売店も無く、見つけられなかっただけかもしれないがトイレも無い。
茶屋を挟んで東京都側の広場にもベンチがあるが、茶屋裏の神奈川県側広場の方が比較的綺麗なベンチが沢山あり、弁当を使うにはこちらが良い。
地蔵と庚申塔の前を通り右へ行く道が景信山(727m)から陣場山(857m)を越えて陣馬街道の和田峠へ続く「鳥のみちコース」。
茶屋の間を通って真直ぐ下りて行くのが甲州街道(東海自然歩道)。
茶屋の間を通って左側の道を行くのが小仏城山(670.3m)を越えて高尾山(599m)へ行くコースと、小仏城山から大垂水峠を越える「湖のみちコース」(南高尾山麓)がある。
峠広場には大勢のハイカーがいたが、ほとんどが高尾山方面のハイキングで、甲州街道や「鳥のみちコース」を歩く人は少なかった。
小仏峠を中心に各方面へのハイキングコースがあるので、ここがハイカーに人気のある理由が分かった。
神奈川県側広場に明治天皇聖蹟碑(写真)と「三条実美の歌碑」が建っている。
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江戸時代の五街道の一つ「甲州道中」、現在の国道20号線の旧道である。 この街道の難所としてしられた小仏峠は、標高548m、武蔵国と相模国を結ぶ国境の峠であった。その名は、1寸8分の小さな仏像が峠に安置されていたことが由来ともいわれている。時代は下がり、明治21年(1888)に、輸送力を強化するため大垂水峠を通る新道が整備。それ以降は、人々や物資が行き交うことはなくなった。 現在、小仏峠の頂上には、明治天皇聖蹟碑や太政大臣・三条実美の歌碑が建っている。これらは明治13年(1880)の山梨巡幸の際、明治天皇の通行を記念して建てられたもの。歌碑の和歌は、三条実美が命を受けて高尾山薬王院に詣でて詠んだものといわれている。 『来てみればこかひはた織いとまなし甲斐のたび路の野のべやまのべ』 「こかひはた織」は「蚕飼い機織り」である。当時、生糸は高騰しており、これは多摩や甲州が養蚕や製糸、織物業でにぎわう様子を歌っている。峠を行くハイカーたちは、当時の状況を知る由もない。
(郷土資料館ガイドボランティア) |
【東海自然歩道】
神奈川県側(
但し、道は階段状 (下の写真)で疲れた足にはきつい。相模湖側から登る人にとっても段差は足に負担がかかる道である。
途中(13:00)「中峠」の標識があり、底沢バス停まで2.4Km。
13:15、舗装道路に出る。そこに東海自然歩道の案内板が立っている。
小仏峠1.8Km・底沢バス停1.7Km・相模湖駅3.7Km。
【東海自然歩道】
環境省が計画する長距離自然歩道のひとつが東海自然歩道です。長距離自然歩道は、国土を縦断、横断又は循環し、多くの人々が四季を通じて手軽に楽しくかつ安全に国土の優れた風景地を歩くことにより、沿線の豊かな自然環境や自然景観、さらには歴史や文化に触れ、国土や風土を再認識し、併せて自然保護に対する意識を高めることを目的としています。
東海自然歩道は、全国初の長距離自然歩道として昭和45年に路線決定されました。明治の森高尾国定公園(
神奈川県内は、東京都県境の城山から県立陣馬相模湖自然公園、丹沢大山国定公園、県立丹沢大山自然公園を通って山梨県境高指山出合いまでの127.5Kmです。一部区間は本格的な登山道と比較的歩きやすい林道を歩く道の復路線になっています。中山間部が中心ですが、途中は里や沢など変化に富んだ風景に出会い、豊かな自然に親しむことができます。
東海自然歩道は本格的な登山道を含みますので、十分な装備を用意し、無理せず、健康に気をつけ体調を整えて歩きましょう。
*非難小屋は緊急時に避難するために設置しています。常時開放していますので、ご利用ください。
神奈川県 自然環境保全センター自然保護公園自然公園課
その先、右下へU字カーブになっている方(右折)の道を下る。
【美女谷】
中央高速の非常に高い橋脚下を抜け、「 甲州古道・美女谷」の標識が立っているところを左折する。
小仏峠2.5Km・底沢バス停1.0Km・相模湖駅3.0Km。
ここを右折して150m程行くと「美女谷温泉」がある。
【小原に伝わる照手姫伝説】(小原宿「小原の郷」の展示物より)
小原の底沢の地、美女谷の七ツ淵に、照手姫が髪の毛を洗ったと言われる化粧の岩があります。
照手姫とは北面の武士夫婦が観世音に願をかけて出生した美女です。「新編相模国風土記稿」に「往昔此處より美女出たれば、遂に地名となる」と記されているのは、紛れもなく照手姫です。照手姫は両親が早くこの世を去ったので底沢の地をはなれました。
それは、常陸(茨城)の小栗城主小栗判官満重が、謀反の諌言により三河の国(愛知)へ逃れる途次相州藤沢の辺りで宿をとったときの話です。
奇しくもその家は盗賊横山太郎のものであり、小栗判官は酒に猛毒の「ムン毒」をいれられてしまいます。もてなす伎女の中に照手姫がおりました。照手姫は密かに横山太郎のたくらみを判官に告げましたが、判官は酒を唇に触れただけで絶命しました。
その夜、遊行大空上人の夢の中に閻魔王の使いの者が現れました。判官は蘇生すると言うのです。遊行大空上人はお告げの通りに小栗判官を熊野(和歌山県)の本宮湯の温泉に連れていきますと、判官は全快しました。
その後小栗判官は謀反の心が無かったことを朝廷に申し出て、許された後小栗城へ帰り、その後京都の命により横山太郎一族を討ち取りました。小栗判官は遊行大空上人の慈悲ある恩に報いるため、閻魔堂で快癒の像を刻み大法会を開き、また一方で横山太郎に追われ濃州(岐阜県)にいた照手姫を迎え共に幸せに暮らしました。
この小栗判官と照手姫の話は、「旧東海道7回目・戸塚宿の【遊行寺】」にも載せてあるので参照して下さい。
【道標と馬頭観音】
もう一度、高い高速道の下を潜ると、右手の橋脚の下に道標と馬頭観音が建っている。
そこには、下記の旧甲州街道の説明板が立っており、昔は 写真の所を上に登って行った。
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JR中央線の長久保ガードを潜って右折すると底沢バス停まで300mの標識。
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3:40、国道20号線に合流した底沢バス停で小休止。相模湖駅まで2.0Km。
【相模湖町 小原の郷】 (右側) 13:45〜14:05
日本橋より63Kmの地点、交差点の右角に小原宿の資料館があり、左角に「小原宿二町半」の木柱が立っているこの場所が小原宿の東の入口である。
ここでやっと綺麗なトイレ(暖房便座)に行くことができた。
但し、この資料館のトイレは開館中しか使えないので注意が必要。
入館料は無料だが記帳が必要。
開館時間は通年の9:30〜16:30。月曜日(祝日は翌日)休館。
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【甲州道中と小原宿】 相模湖町内には甲州道中が東西に通っており、小原宿と与瀬宿の2つの宿場が置かれていました。この小原の郷のある場所は小原宿の東端の位置にあたります。(以降、下記【小原宿】の説明に続く)
古書「新編相模国風土記稿」の与瀬村蔵王社の稿に「大和国吉野ヨリ遷座セムト、且コノ辺ニ吉野、与瀬、小原ナドト云フ地名モ模シタルモノナリト云フ」と記されています。 およそ1200年前、天台宗の僧隆弁僧正が諸国遍歴の途次、この付近が京都の八瀬、大原に似通うため、八瀬をとって「与瀬」、大原をとって「小原」の地名を名付けたと言われます。往時から与瀬と小原は一村を成していました。 他の一説は、「みもと」(甲州街道を記録した資料)によると「尾原(おはら)と書き、「尾原」と言うのは、この嶺(小仏峠)の尾先にて、下りはてるところにすこしひらけたれば、名に負けたりとおぼし」と記しています。この地勢に所似している「尾原」が小原と書くようになったのは何時のことか定かではありませんが、前述の大原因縁説を考えると古くから小原の文字が宛てられていたと考えられます。
小原宿は河岸段丘下を流れる海抜124mの相模川より、宿並み200mの段差76mの急峻な河岸段丘崖上の集落です。 小原宿の南側はきり立つ化峡の河岸丘崖、北側は大きな山脈の斜面、さらに東部は大久保沢川のV字谷、西部も小手沢川の深い谷に囲まれていますが、現在は東西の深い谷は埋め立てられており、東側の埋立地には「小原の郷」が設置されています。 |
【小原宿】 日本橋から十五里二十一町五十八間(61.3Km)、下諏訪へ三十七里三十一町十四間(148.7Km)
天保14年(1843)で人口275名、総家数61軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋7軒。
小原宿は江戸より15里20町(約61.2Km)、江戸から数えて9番目の宿場で往時は2町半(約273m)の宿内に本陣、脇本陣と7軒の旅籠があり、29軒の家が並んでいました。宿内は大久保沢川の樋谷路沢より240間(約430m)の懸樋を架け、水を引き、宿内を流して各戸に導水し、村民の便に供しました。流末は宿中程より相模川に流下させました。
現在も国道20号線(甲州街道)沿いに町並みが東西に並び、本陣を始め和泉屋、清水屋、菊屋、藤屋、小松屋、伊勢屋、永楽屋、中宿等の屋号の往時旅籠をしていたと思われる家や駕籠屋、湊屋、榎屋等宿場に関わりのある屋号が建ち並ぶ家並みは、宿駅を偲ばせる風情を今なおとどめています。
なお、小原宿は明治28年8月7日に出火、本陣を含む東端4軒を残し全焼した大火が起こりました。その後、現在の町並みが再建されています。
小仏宿に一里22町、吉野宿へ1里17町28間。
【小原宿本陣(旧清水家住宅)】 (右側) 14:10〜14:25
資料館から100mの所にある。本陣の裏手の「小原集会所」の桜が満開で見事だった。
20年前まで清水家の子孫が住んでいたが、竹下内閣時代の「ふるさと創生一億円事業」で町が買い取って保存することになったそうである。
こちらも入館料は無料だが記帳は必要。入館時間は通年の9:30〜16:00(11月〜3月は〜15:00)。月曜日(祝日は翌日)休館。
本陣門
上段の間 |
この建物の当主清水家の先祖は、後北条の家臣清水隼人介で、後に甲州街道小原宿が設けられてからは、代々問屋と庄屋を兼ねていました。 この建物の年代に関する資料は不明ですが「甲州道中宿村大概帳」(天保十四年・1843)によると、「本陣凡建坪八十四坪門構二而玄関之無宿入口壱軒」とあり、現在の建物の建築様式から推定しても江戸時代後期の十八世紀末期か十九世紀初頭の頃の建物と思われます。 規模は、間口十二間、奥行七間で土間妻側の裾を兜とした入母屋造りです。東側住居部分は天井が低く中二階があり、二階三階共に養蚕室として使われました。西側奥座敷は、三部屋に区切られその外側を入側縁で囲み、築山のある庭に面しています。奥座敷の北側の部屋が「上段の間」で大名の泊まった部屋です。
このように、旧清水家住宅は、本陣特有の座敷構えを示すと共に、津久井郡の典型的な大型養蚕民家の構造をしており、県下に二十六軒あった本陣のなかで唯一現存する貴重な建物です。 ( 小原宿本陣は、参勤交代の大名や甲府勤番の役人、公家などの上級武士が止宿した宿泊所でした。その本陣の役割を担っていたのが清水家で、往時の清水家は、本陣の役割と共に名主と問屋を兼ねていました。現在は相模湖町が管理しています。 名主は村方三役と言われる税の取り立て、官営で敷設した樋谷路沢から導水していた水道の管理、村内の訴訟に関わる事も治める役割を担っていました。 問屋とは、問屋役とも言われ、宿内を通行する者の人馬の指図、宿泊の手配など宿場事務のすべてを統括していました。 甲州道中を利用して参勤交代をしていた大名は、信州(長野県)一万五千石の飯田藩、三万五千石の高遠藩、三万石の諏訪高島藩の三大名でした。その他、甲府勤番の役人とお茶壷道中が甲州街道を通っています。 |
【南無阿弥陀仏碑】 (右側)
「小原」バス停を過ぎ、少し進んだ左側下に公園があり、道路際に植えられた桜並木も綺麗だった。
その公園の向かい側に南無阿弥陀仏碑が建っている。
この前の碑は、現在地より沢に下り、沢の向側に登る旧甲州街道に建てられていた。碑の中央に南無阿弥陀仏、左下位に他阿、文政二年辰九月吉日村中とある。(今から180年前)
長い歳月を経ているため、おしいことに頭部が欠損している。
この仏碑は、分布的には相模川北岸地帯の村々に多く見られ、仏碑として特徴的なものの一つであろうと思われる。
他阿という僧は、当麻山無量光寺住職で遍上人五十二代に当たるといわれる。
相模湖町教育委員会文化財管理より
南無阿弥陀仏碑の直ぐ先この右側に「甲州街道小原宿」の標柱が立っていて、左側面に「小原宿二町半」と書かれている。
この辺りが小原宿の西の入り口で、小原宿は短い宿である。
その先、「中央高速道路・相模湖東IC」から降りてくる道の下をくぐった直ぐ右側の道を右斜めに登って行く のが旧甲州街道(下の写真で妻がいる方)。
広い道は国道20号線(甲州街道)。
【道標】
上の写真の三角点に道標が立っており、「甲州古道平野・右与瀬宿、左小原宿」とあり、その脇に次のように書かれている。
甲州道中はここを上がって、中丸三叉路を経て、えんどう坂を下り、桂北小学校前へ出ます。
旧道を上って暫く進すすむと左カーブの下り坂になる。突き当りに出たら左折。更に下ると右下にJR中央線が見えてくる。
JR線を越えるとすぐ右側に「与野宿」と書かれた標識が立っているので、そこの階段を右へ下りる。
そのまま道なりに進み、国道20号線に合流して右折するとすぐ「相模湖駅前交差点」に着く。
この交差点を右折した「相模湖駅」より帰宅。
5回目の旅終了(14:55) 相模湖駅前交差点。 日本橋から十五里三十四町(62.6Km)。
本日の記録 : 街道のみの距離は、11.5Km(高尾駅前交差点〜相模湖駅前交差点)
寄り道を含めた実歩行距離は、12.3Km(高尾駅〜相模湖駅)
4時間55分 21,900歩