八王子宿 (日野駅 → 高尾駅) <旧甲州街道4回目>
2007年3月24日(土) 曇
「日野駅」の西側に出て、「大坂上通り」の「日野駅西駐輪場」を10:25スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは 下諏訪に向っての左右です)
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3月20日に、全国トップで東京の桜(ソメイヨシノ)が過去3番目の早さで開花したと発表。
前回終了した「坂下地蔵尊」に続く旧道は、JR中央線にさえぎられて真っ直ぐ行くことができないので、「日野駅」前を回って「大坂上通り」に出て、「坂下地蔵尊」の反対側にある「日野駅西駐輪場」前からスタートした。
上り坂ですぐ中央高速道を潜る。しばらく行くと「日野大坂上」信号で右後ろから来る県道256号線に合流して、右手「日野自動車本社」を見ながら県道を行く。
更に暫く進んで、「日野台」交差点を過ぎた右手は「コニカミノルタ」で工場の敷地内に植えてある桜が残念ながらまだ一分咲だった。
その先の信号を越えると、右手には立派な門と県道に対して横向きの蔵を持つ大きな屋敷が沢山並んでいる。
やがて「倉田町西」信号で左後ろ来る国道20号線に合流する。
【大和田橋】 11:27
国道20号線に合流して、JR「八高線」の跨線橋を渡り、国道16号線と立体交差する「大和田町四丁目」交差点の先で、左斜めの旧道に入る。
左に弧を描くような旧道はすぐ「大和田橋北詰」交差点で国道に合流して、浅川に架かる大和田橋を渡る。
【焼夷弾・弾痕の保存について】 八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が焼失する被害を受けました。そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。 大和田橋の歩道上には、この空襲のとき投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。 車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕の数から推定すると橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われます。建設省相模国道工事事務所では、この大和田橋の補修工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。 弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は透明板で覆い、他15箇所は色タイルで、その位置を示してあります。 平成9年10月 建設省関東地方建設局 相武国道工事事務所 |
【新町竹の鼻の一里塚跡】 (右側)
11:40
大和田橋を渡ったら直ぐ「大和田橋南詰」信号を右折。「市立第五中」信号で斜め左の道に入ると、150m程右側の「竹の花公園」の街道側に大きな一里塚 (日本橋から十二里目)の石碑が建っている。
一里塚は、徳川家康が秀忠に命じて、慶長九年(1604)に日本橋を基点に東海道・東山道・北陸道などに榎を植えた塚を築かせたもので、市内には四か所あった。 新町のこの辺りは、江戸方面から八王子宿への入口に位置し、甲州街道は鍵の手(直角)になっている。 八王子市教育委員会 |
【永福(えいふく)稲荷神社】 (右側)
「竹の花公園」の左隣に公園に接して永福稲荷神社がある。
【由緒】 永福稲荷神社は八王子市新町の鎮守で祭神は倉稲魂命です。古くはこのあたり一帯は竹の鼻と呼ばれていたことから、竹の鼻稲荷神社とも言われていました。厄除け、開運、出世、勝運、商売繁盛、心願成就、縁結び、家内安全、交通安全など、霊験あらたかな神様です。 宝暦六年八月二日(1756)力士八光山権五郎が再建し落成と同日に相撲を奉納したといわれています。江戸時代甲州街道八王子宿の入口に位置しているために、江戸からの往来客による信仰が厚く寄進された鳥居・天水桶等が境内に現存されています。 例祭は「しょうが祭」と呼ばれ毎年九月第一土曜日に執り行われます。当日神社で軍配(勝)御守札を授与します。縁起物として「しょうが」が売られます。 |
境内の公園側に芭蕉句碑が建っている。
蝶の飛(とぶ)ばかり野中の日かげ哉
社殿の後ろには庚申塔が二基並んでいて、左側の一基には享保八年と彫られていた。
【市守神社・大鳥神社】 (右側) 11:50
「永福稲荷」すぐ先の突き当たりを左折すると「八王子駅入口東」交差点で国道20号線にぶつかる。この交差点辺りに「木戸跡」があった。
国道を右折して直ぐ右に市守神社・大鳥神社がある。
【市守神社・大鳥神社由緒略記】 ●両社の御祭神 市守神社は、武州八王子宿の入口近くに鎮座し、古くは「市神社」「市守稲荷」などと言われていた。祭神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は、市場の守護神で、厄除け・開運・出世・商売繁盛・学業成就・縁結び・交通安全など霊験あらたかな神様である。 大鳥神社の祭神である天日鷲命(あめのひわしのみこと)は殖産及び武勇の守護神で、広く庶民の間に人気がある。開運・出世・商売繁盛・厄除け・縁結び・学問や技芸成就などの広大な神穂があると言われる。又、大鳥神社の祭神を日本武尊(やまとたけるのみこと)とする説もある。 ●両社の創立 天正十八年(1590)六月二十三日、豊臣秀吉の天下平定戦によって八王子城は落城した。戦後処理のため、市場の再開と物資の調達が急がれ、現在の横山・八日・八幡の各町のあたり(横山の庄と言われた)に大胆な地割りが行われ、今日の八王子の市街地の原型ができ上がった。そして、横山宿では毎月四の付く日に、八日市宿では毎月八の付く日に市が開かれた。六斎市である。 そして、この市の取引の平穏無事を守る人々に幸せを与える市神として倉稲魂命が祭られた。市守神社である。市守神社の縁起に「当社神実の覆筥(御神体の覆い箱)裏面に人皇五代孝昭天皇勅願と記載これあり並びに長田作左衛門とあり、これ北条氏照の家臣長田氏の守護神にして京都伏見稲荷の分霊ならん」とある。 江戸時代の中期に、授福開運の神として、天日鷲命が配祀された。 なお、市守神社に八王子開宿の功労者である長田作左右衛門を併祀したとする説もある。 ●その他昭和三十一年七月二十八日、市守神社は八王子市の史籍に指定された。 |
鳥居の奥に社殿がある。
【市守神社】 市指定史跡(昭和三十一年七月二十八日指定) 天正十八年(1590)八王子城の落城とともに八王子の町は現在地に移され、横山宿では毎月四月、八日市宿では八の日に市が開かれ賑わった。そこで、この市の取引の平穏無事を守り、人々に幸せを与える市神として「倉稲魂命」を祭ったのが、この神社のはじまりで横山市守稲荷と呼ばれた。毎年二月の初午の日には例祭が行われる。
江戸時代中期になって「天日鷲命」が配祀され毎秋十一月の酉の日に「大鷲祭」が行われる。 |
<昼食> 12:00〜12:30
「横山町」交差点角の「日高屋」でラーメンを食べる。また、国道16号線を越えた角の「布袋屋」で饅頭が80円と安かったので思わず買ってしまう。
【八王子宿(横山宿)】 日本橋から十一里十七町五十八間(45.2Km)、下諏訪へ四十一里三十五町十四間(164.8Km)
天保14年(1843)で人口6026名、総家数1548軒、本陣2軒、 脇本陣3軒、旅籠屋34軒。
八王子宿と呼ばれたのは後のことで、正式名称は「横山宿」である。しかし、横山一宿でなく、次の十五宿で成り立っていたが横山宿が一番大きかったので十五宿合わせて「横山宿」と呼ばれた。
大概帳では、「横山宿・八日市宿・小門宿・上野原宿・本宿・八幡宿・寺町・本郷宿・久保宿・子安宿・横町・嶋坊宿・馬乗宿・新町・八木宿、都合八王子拾五組」とある。
「横山町郵便局前」交差点手前の左角が川口脇本陣跡。
その次の交差点で左から来る国道16号線が僅かの間だが国道20号線と合流し、少し先の「八幡町」交差点で右へ分かれていく。
16号線が合流している間の右側「夢美術館」前に八日市宿碑が建っている。
「八幡町」手前右側が山上脇本陣跡、その向かいが新野本陣跡だった。現在これら3軒の本陣についての説明板等は一切無かった。
【八王子宿の町並み】
「本郷横町東」交差点右角にある蔵店(雑貨屋)。
そこから7分ほど行った「八木町西」信号手前の左側にある古い店。
【道標(追分)】 13:00
「追分町」交差点で、真っ直ぐ行くのが“陣馬街道”、斜め左に行くのが“甲州街道”。
その二つの街道に挟まれた三角点に道標が建っている。正面の道標の後ろの建物は「追分交番」。
道標の正面には『左 甲州道中高尾山道』、右面には『右 あんげ道』と刻まれている。
風土記稿に『千人町に入ることわずかにして追分あり、右は久保宿・島之坊宿を経て案下(あんげ)への道なり。左は即ち甲州街道にして千人町の通りなり』とある。
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この道標は文化八年(1811)江戸の清八という職人(足袋屋)が、高野山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。 その後、昭和二十年(1945)八月二日の八王子空襲にで四つに折れ、一部は行方不明になってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館の屋外に展示されていました。 このたび、地元要望を受け、この道標が復元され、当地に建設されました。二段目と四段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです。 昭和十五年五月 八王子市教育委員会 |
陣馬街道に入るとすぐ「八王子千人同心屋敷跡記念碑」が立っているとのことだが見逃してしまった。
甲州街道に入ると、「高尾駅前」交差点まで銀杏並木が続く。これは多摩御陵造営記念に植えられたもので800本弱あるとのこと。
【高尾山道標】 (右側) 13:25
「西八王子駅西」交差点を過ぎ、旧甲州街道は「長房団地入口」交差点を右折する。
右折した次の十字路の左角に 大きな高尾山道標(石碑)が建っている。
また、ここは散田一里塚跡で、日本橋より十三番目の一里塚であった。
右 高尾山 麓マデ一里半 左 真覺寺 真覺寺マデ八丁 道 |
道標の隣に「昭和二年新道建設時の甲州街道」と刻印され、道標周りの地図が描かれている石碑が建っている。
句は 散るゝとも香を残したし梅の花
道標の所を左折して再び国道20号線に合流する。
【武蔵野御陵参道】 (右側) 13:45
「多摩御陵入口」交差点を右折するとケヤキ並木の御陵参道となる。この奥には「大正天皇多摩凌」「貞明皇后多摩東凌」「昭和天皇武蔵野凌」「香淳皇后武蔵野東凌」がある。
入口右側には「武蔵凌墓地参道」、左側には「多摩御陵参道」の石碑が建っている。
【オリンピック自転車ロードレースのモニュメント】 (右側) 13:50
御陵入口のすぐ先、東京オリンピックを記念した彫刻が建っているところを斜め右に入る。
1964年10月オリンピック東京大会開催にあたり、当浅川地区が自転車競技のロードレースコースとなり、地域住民の町をきれいにする運動・花いっぱい運動等の環境美化運動が盛んとなった。この彫刻はその運動の一環として浅川中学校の生徒がオリンピックを記念して制作したものである。
【石地蔵】 (右側)
斜め右に入った道の途中の右側に小さくて顔の可愛い石地蔵が置かれていた。
広い道に出たら、やや戻る感じで国道20号線を右折して高尾駅前に出る。
「高尾駅前」交差点から右へ入った一帯は、廿里(とどり)原古戦場で、武田と北条が戦ったところ。
【八王子城跡】 国指定史跡
「高尾駅前」交差点の左角に付近の地図が掲げられており、八王子城跡の説明もあった。
八王子城(元八王子3丁目)は滝山城主であった北条氏照(1540?〜1590)が豊臣方に備えるため、天正10年(1582)頃から築城を始め、天正14年(1586)ころに滝山城(高月町)から移転したといわれています。北条氏照は小田原北条氏4代目・北条氏政の弟で、北条氏のナンバー2として軍事・外交などに力を振るっていました。
天正18年(1590)豊臣秀吉は関東制覇を目的に小田原城を包囲しました。八王子城は6月23日、豊臣方の別働隊である前田利家・上杉景勝連合軍の猛攻撃を受け、一日で落城しました。これより小田原城も降服、開城し、関東は平定され戦国時代は終わりになります。
氏照が政務を執った八王子城御主殿跡からはベネチア産のレースガラスや大量の中国産陶器皿などが出土し、戦国大名の豪華な暮らしぶりを想像することができます。
〜後日追加〜 (2014年8月19日八王子城跡を訪れたので追加記載する。)
「高尾駅」北口から真っ直ぐの「高尾街道」を北上して「城山大橋」信号を左折、次いで「中央高速道路」の高架をくぐったすぐ先の「八王子城跡入口」信号を左折、そのまま道なりに進むと右側に「八王子城跡見学者専用駐車場」があり、そこに八王子城跡の石柱が建っている。
石柱から直ぐ先に「八王子城跡管理棟」に着く。そこが八王子城跡の入口で、その先左手の林道を暫く登って行くと城跡「御主殿跡」に出る。高尾駅前から八王子城跡入口まで3.3Kmある。
御主殿跡に登って行く林道の途中に御主殿の滝がある。御主殿跡には、礎石が沢山残り、復元された冠木門(かぶきもん)が建っていた。
私達は「御主殿跡」のみ見学したが、管理棟右手の道を登ると「本丸跡」へ行ける事が後から分かった。
【史跡 八王子城跡】
八王子城跡は、戦国時代の終わり頃(16世紀後半)、北条氏照によって築かれた山城です。広大な山地、その山麓、そして城山川に沿った谷間なで、変化に富んだ地形を、巧みに利用して築城されています。主要部は山頂部に本丸を構え、東を城の大手(表口)、北を搦手(裏口)としています。
八王子城跡は、戦国時代を代表する城跡として、現在約154haの範囲が国の史跡に指定され、保護されています。
【八王子城の築城と落城】
八王子城は、北条氏照によって築城された山城です。氏照は当初、多摩川と秋川の合流地点にある滝山城(八王子市・国史跡)を居城としていました。その支配地は八王子はもとより、北は五日市・青梅・飯能・所沢の一帯、南は相模原・大和から横浜の一部まで及んでいました。
氏照が居城を滝山城から八王子城に移した動機は、永禄12年(1569)武田信玄が滝山城を攻撃し、落城寸前にまで攻められたことから、強固で広大な八王子城の築城を思い立たせたといわれます。
築城の時期は明確ではありませんが、元亀から天正初め(1570年代)に築城が開始され、天正年間中頃に氏照が八王子城に移ったと考えられています。天正16年(1588)には、豊臣秀吉の来攻に備え、兵糧の確保や兵士とその妻子の入城を命じ、守備固めの準備を急いでいます。
天正18年6月23日、小田原在城の城主氏照を欠いたまま、豊臣秀吉の小田原攻め一隊前田利家・上杉景勝などの軍勢の猛攻を受け、一日で落城しました。八王子城の落城は、小田原城の開城をうながし、豊臣秀吉が天下を統一する上に、大きな影響を与えました。
【城主・北条氏照(1540?〜1590)】
北条氏照は戦国時代の武将で、小田原に本拠を置く北条氏三代当主氏康の次男として生まれました。初め大石源三、その後北条陸奥守とも名乗っています。永禄の初め(1559年頃)、大石氏の後を継いで滝山城主となり、周辺に支配を拡大しました。その後栗橋城(茨城県五霞村)を勢力下におさめ、この城を拠点として北関東一帯の領土拡大にも活躍しました。
天正18年(1590)7月、小田原城の開城後、氏照は兄氏政とともに、豊臣秀吉から切腹を命じられて、その生涯を終えました。
以上、管理棟前に立っていた説明板より
管理棟左手の道を進むと、最初に曳橋が見えてくる。
この橋を渡って虎口から御主殿跡に入るが正式のルートだが、通行止めになっていたので、橋の下をくぐり裏手から入る。
その先に御主殿の滝が現われる。
【御主殿の滝】 国指定史跡 八王子城跡 天正十八年(1590)六月二十三日の豊臣秀吉の軍勢の攻撃で落城した際に、御主殿にいた女性や子ども、将兵たちが滝の上で自刃をし、次々と身を投じたといわれています。 その血で城山川の水は三日三晩、赤く染まったとの言い伝えが残っています。 コラム 氏照の暮らしぶり 戦国時代はいつも合戦とその準備をしていたイメージがありますが、八王子城から出土した遺構・遺物から見てみると、そのイメージとは程遠いものです。 中国から輸入された五彩で華やかなお皿で、領国内で取れたアワビやサザエなどを食べたり、ベネチアで作られたレースガラス器や信楽焼きの花器を飾り、そのもとでお茶をたしなみ、枯山水の庭を眺めてお酒を飲んだ日々が思い浮かばれます。 これらの品々は、さぞ北条氏照の心を和ませていたのではないでしょうか。 |
滝の横を通り、坂道を上ってゆくと御主殿跡広場に出る。
【御主殿跡】 国指定史跡 八王子城跡 御主殿跡は、落城後は徳川氏の直轄領、明治時代以降は国有林であったため、あまり人の手が入らず、落城当時の状態のままで保存され、遺構の状態も良好でした。平成四年(1992)から二年間発掘調査を行い、城主であった北条氏照が執務を行ったと考えられる、大規模な礎石建物跡をはじめ、さまざまな遺構が発見されました。調査の結果、氏照の生活の場はここからさらに奥に眠っているものと思われます。 また、中国の磁器類の破片や国産の陶器、鉄砲弾をはじめとする武器・武具類などの遺物が発見されました。中には当時の武人のたしなみであった茶道具や、当時でも極めて珍しかったと思われるベネチア産のレースガラス器の破片も含まれ、氏照の生活ぶりがうかがえます。 八王子市教育委員会 |
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【主殿】 主殿は中心となる建物で、政治向きの行事が行われたと考えられます。 広さは15間半×10間(29.4m×19.8m)で、折中門とよばれる玄関から入ります。大勢の人が集まる「広間」や、城主が座る「上段」などがあります。 建物は平屋建てで、屋根は瓦ではなく、板葺きか桧皮葺きと思われます。 |
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【会所】 会所は主殿で儀式を終えた後、宴会などを行った場所と考えられます。 広さは11間×6間(20.9m×13.3m)で、北側が主殿と廊下でつながっています。 会所は、同時代の他の建物の例などを参考に床を再現しています。 |
最後に冠木門と虎口(下に見えている橋が曳橋)を見学。この先は通行止めだったので元来た道より下る。
4回目の旅終了(14:10) 高尾駅前交差点。 日本橋から十三里(
51.1Km)。
本日の記録 : 街道のみの距離は、11.5Km(坂下地蔵のJR線反対側・大坂上通り〜高尾駅前交差点)
寄り道を含めた実歩行距離は、11.7Km (日野駅〜高尾駅)
3時間45分 18,500歩(日野駅〜高尾駅)
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