与瀬・吉野・関野・上野原・鶴川宿 (相模湖駅 →
野田尻バス停) <旧甲州街道6回目>
2007年4月21日(土) 晴
相模湖駅前交差点を9:15スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは
下諏訪に向っての左右です)
「駒木野・小仏・小原宿」 ←
「目次」 → 「野田尻・犬目・下鳥沢・上鳥沢・猿橋・駒橋宿」
本日は、坂を下ったらすぐ登るという箇所が多い。登るなら下りなくてもいいのにと思うことが何回も出くわす。
【与瀬宿】 日本橋から十六里四町五十八間(63.4Km)、下諏訪へ三十七里十二町十四間(146.6Km)
天保14年(1843)で人口566名、総家数114軒、本陣1軒、旅籠屋6軒。
与瀬宿は、東西6町50間(約744m)、往時は宿内88軒、本陣と6軒の旅籠がありました。脇本陣はなく、宿中程に1ヶ所、小仏峠までの駄賃と人足賃をを掲げた高さ7尺5寸、長さ2間5尺、幅1間の高札場がありました。囲い人足は10人10疋。また、宿上町中程の屋号元問屋が、往時の「問屋場」でした。
与瀬宿の本陣前の与瀬神社参道手前に「明治天皇与瀬神社御小休止址」の高さ3メートルの石碑が建っています。与瀬宿本陣の往時の建物は現存していませんが、広大な屋敷と築山になごりをとどめています。往時の建て門は、建坪111坪、門構え、玄関のあった立派な本陣でした。
さらに、与瀬宿は甲州道中時代は与瀬村として、小原宿と一村を成していました。小原宿が小仏峠を越してきた止宿者を、与瀬宿をを通り越して、吉野宿へ送る下り片継宿場に対して、与瀬宿は吉野から来た止宿者を小原宿を通り越して小仏へ送る上り片継宿場でした。甲州道中にはこうした宿駅の機能の宿場が、随所にあったようです。(小原宿「小原の郷」の展示物より)
【与瀬本陣】 (右側)
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「相模湖駅前交差点」から470m行った所にある。 写真は、「与瀬本陣」の標識と松の木の下の石碑は「明治天皇與瀬御小休阯」。 この石碑の右隣りの家は本陣で、旧清水家。現在は別の人が守っている。門柱には「旧本陣」の表札が掛かっている。 旧甲州街道は、この標識の所を右折する。 |
【与瀬神社・慈眼寺】 (右上) 9:25〜9:35
本陣から右折するとすぐ右手高台にある。上からの相模湖の眺めはすばらしい。
下の写真は、与瀬神社へ登る途中の中央高速道路上に造られた広場から振り返って相模湖を望んだもの。鳥居の前の道路が旧甲州街道。
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慈眼寺の前に記念碑が立っており、次のように書かれていた。 昭和四拾参年拾弐月弐拾日に開通した眼下の中央高速道路建設のため、この地点にあった与瀬神社赤鳥居、慈眼寺の鐘楼を現在の位置に移し、別個にあった参道を併せて、この高架横断橋になった。 【慈眼寺】 当山は天正年間頼源阿舎利の創立によるもので、明治維新に至るまで蔵王権現の別当寺であった。明治五年神仏分祠の濃国令により唯仏寺となり現在に至っている。 特に開山以来先師の労苦の遺業による、虫加持護摩祈祷の名声は関東一円に及んでいる。 寺内北側の築山は江戸城の造園師が当山に逗留の際、作庭されたものと伝えられ、三尊石、滝の石組、枯池は有名である。 |
【相模川と相模湖】
相模湖町のほぼ中央を東流する相模川、そして町を南北に二分する形となる相模湖は町の誇るべきモニュメントでもあります。
相模ダムは神奈川県の貴重な水源としての役割、水力発電のエネルギー源としての役割を果たす目的で作られました。重力式コンクリート、全長196m、貯水量6320万m3、面積は326万m2で東京ドームの約250倍となります。これは日本で最初に河川総合開発事業で建設された多目的ダムであり、相模川をせき止めてできた人造の湖が相模湖です。
相模川の河岸段丘上は昔から住居に適した条件を満たしていたと考えられ、その証拠に今から1万年以上も前の旧石器時代後期に人々の痕跡が認められます。いまも相模湖町は河岸段丘上に発達史、豊かな自然環境の中でバランスの取れた産業や生活が営まれています。
(小原宿「小原の郷」の展示物より)
・ 高速道路に接して国道20号線に合流すると2軒のラーメン屋がある。手前の「ラーメン関所」の横を入りすぐ左折するのが旧甲州街道だが、インターネット情報では沢を渡る道がないとのことで、もう一軒のラーメン屋の先の右斜めに登る道を行った。
しかし、この先の吉野宿の「郷土資料館」で聞いたところ、今年(2007年)の2月にその沢を渡る橋が完成して現在は行くことができるとの事である。一里塚跡もその道にあるとのことで、刻々と道路状況が変わっている昨今は古い情報に惑わされず僅かな距離なのでチェックすべきだったと後悔している。
・ 急坂を登り切り、下り始めた右に秋葉神社の小さな竹の鳥居と街道脇に庚申塔と地蔵が並んでいる。
・ 小さな橋(横橋)を渡り数百メートルで左(南)に入るのだが、何の標識もない為どの道か分からずに通り過ぎてしまい、おかしいと思いながらも浄光寺まで行ってしまった。感を頼りに浄光寺手前の下の道を戻ったところ、中央高速道路の「相模湖IC」が見えてきた所で南へ下りる道(旧甲州街道)に合流できた。この間約20分、1Kmのロスであった。「吉野郷土資料館」館長の話によると、ここで迷う人が多いとのこと。現在吉野宿の道案内等を作成中でいずれ案内標識が立てられるらしい。街道を歩いているとどこでもそう思うだが、真直ぐの道に街道案内の標識があっても肝心の曲がり角に立っているのは少ない。
・ 中央高速道下りの「相模湖IC出口」の上を横断する橋を渡ってしばらく行くと道は二股に分かれているので右方向の「観福寺」門前を行く。
・ 右手「廿三夜」の石碑を見て10分弱で国道20号線に合流する。吉野宿である。
【吉野宿】 日本橋から十七里三町二十六間(67.1Km)、下諏訪へ三十六里十三町四十六間(142.9Km)
天保14年(1843)で人口527名、総家数104軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋3軒。
相模川に面していた宿で、甲州街道十番目の宿場。江戸と甲府の中間。
【吉野本陣跡・聖跡】 (右側)
国道20号線に合流して右折するとすぐ本陣の蔵が見える。蔵は道路から引っ込ませて現在修理中であった。
左の写真が現在の本陣家で80歳を超えた現当主(右の人)が写っている。
写真左側の白い石柱は明治天皇の「聖跡」。
右の写真は、旧本陣の模型で五層だった(資料館に展示されている)。
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此処、 建物は明治二十九年暮の大火で焼失したが、当時侍従であった神奈川県令の書と天皇御出達直後の写真が今も保存されております。 |
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【吉野郷土資料館「旅館ふじや」】 (左側) 10:40〜11:15
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吉野本陣の向かいにある。
開館時間:10時〜16時 休館日:月・木・年末年始 入館料:無料 当施設は、その後の建物ですが百年の歳月を経ており、その昔、組頭であった大房家(現当主良顕氏より町が寄贈を受け、資料館として活用しているものです。 (平成3年4月1日 藤野市教育委員会) |
【小猿橋跡】 (左側)
吉野宿外れの沢井川に架かる吉野橋の左側東詰に説明板がある。説明板の隣には「廿三夜」と「百万遍」の石碑もある。
橋の上の温度計で22℃だった。
小猿橋は、現在の吉野橋よりやや南寄りにあり長さ十四間(約25m)幅二間(約3.6m)高さ五丈八尺(約25m)の欄干つきの板橋でした。この橋は、
元禄十一年(1698)の記録によれば、橋の周辺の地形・地質が悪く迂回路の場所がないため、掛替工事が非常に困難であった。その工事費は江戸幕府の支出で行われ、額は四百両であった。その後次第に工事費は減り、文久二年(1862)には七十両となり、徐々に幕府の支出はなくなっていった。地元では、人馬通行銭の徴収、宿場の貸座敷や旅篭の飯売下女からの刎銭等を財源として掛替工事を行っていた。その折、八王子千人隊、荻原頼母を組長とする一部が工事中の警備・木材搬出の指揮に当たったと言う。
明治初年からは総て官費で行われるようになり、明治中頃には上流約500mの地点に『新猿橋』という木橋ができた。大正八年、道路法制定と共に甲州街道は国道八号線となり、昭和八年八月の吉野橋の完成に伴い小猿橋、新猿橋は消滅した。 (昭和62年3月
<昼食> 11:25〜11:50
「吉野橋」を渡った左側の「福龍中華」にて昼食。この店で、郷土資料館で見かけた人が後から入ってきて隣りに座ったので、しばし街道歩きの話に花が咲いた。その方の話によると、東海道と中山道を歩き終え、甲州街道を歩いているとこだが、次々につないで歩いているわけでなく、状況に応じてばらばらに歩いている(逆方向から歩くこともある)為つながりに混乱するとのことであった。中山道は和田峠だけまだ行っていないそうである。
自転車で踏破する人、脇目も振らずに歩く人など、それぞれ色々な歩き方で楽しんでいるようだ。
【一里塚跡】 (右側) 12:00
「吉野橋」を渡って、「サテラはらだ」という電気店の前の道を右斜め行く。
程なく国道20号線に合流して、日本橋より69Kmの標識。
「藤野中学校入口」バス停に一里塚の大きなエノキ(写真)がある。塚と国道の高さが同じになってしましい丸みは見られない。
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【津久井の銘木エノキ】 科目:にれ科エノキ属 樹高:12m 樹齢:推定300年 特徴:日本各地の山地などに自生する落葉高木。 昔は一里塚に植えられた。 果実は小型球で十月頃に赤褐色に熟す。高さ15〜20mになる。
所在地:
(平成13年3月 JR線に接したところで日本橋より70Km。ここでJR線を越える。 関野宿に入ってすぐ右手に本陣跡と脇本陣跡が並んでいたというが、現在、説明板等は何もない。 |
【関野宿】 日本橋から十七里二十九町二十六間(70.0Km)、下諏訪三十五里二十三町四十六間(140.0Km)
天保14年(1843)で人口635名、総家数130軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋3軒。
相模国の最後の宿場で甲斐国の国境である。
【諏訪番所跡】 (右側) 12:50
12:35「名倉入口」信号で左の急坂を下りる。下りきると「境沢橋」があり、渡ったその先にも大きな橋があるが、それは渡らずにUターンするように右上の坂を登る。この坂はきつい。登り切る少し手前の右側に写真の番所跡があり、左側に「甲州街道史跡案内図」がある。
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名 称:諏訪番所(甲斐二四関の一)、境川番所・境川口留番所とも呼ぶ
所在地: 宝永四年(1707)諏訪神社東より番所坂上に移転 土 地:番所屋敷 一畝二十八歩 建 物:木造平屋建(40.25坪)草葺 仕 事:・通行取り締りと物資出入り調べ ・高瀬舟取締りと徴税(二割二分) ・鶴川「渡し場」取締り ・通行手形改め(男は上り下り不用 女は江戸へ入用、下り不用) ※但し小仏関所(駒木野)江戸へ男・女入用 帰り不用 ・番所坂所在茶店よりの情報聴取 ※番人役人:番所定番九人 獄舎取締一人 閉 止:明治二年 制度廃止となる 明治三年 山内国太郎「捕亡方心得」となり、時局不穏に付き番所従前通りと通告 明治四年 この年番所廃止となる 建物の:明治四年 役宅は山内国太郎所有となる その後 明治十三年 明治天皇巡幸の折御小休、お召し替え所となる 明治十七年 渋沢栄一氏の別荘となり飛鳥山へ、その後小泉策太郎氏所有となり、以後不明 町内その他番所 ・花井口留番所(上野原)・椿口留番所(棡原)・藤尾口留番所(西原)
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【船守弥三郎の碑】 (右側) 13:00
日蓮大聖人伊豆御法難の危難を御救い申した船守弥三郎殿伊東川奈船守山蓮慶寺より分骨の地 (井戸改修参道建設記念碑)
この碑の隣は諏訪神社。
【一里塚跡(塚場)・疱瘡神社】 (右側) 13:15
13:10右側に「旧甲州街道」の大きな石碑があり、そこから5分ほどで「疱瘡神社」の赤い鳥居(左下の写真)が見えてくる。
社の右後ろに一里塚(右下の写真)が残っている。
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この一里塚は、五街道の一つである甲州街道に築かれた塚の一つです。日本橋から十八里(70.62Km)・十七番目のものです。 (中略:五街道と一里塚の説明) この塚に植えられていた木はモミだったようです。 一里塚は、明治三十四年、中央線が開通してからの距離を知って、もう一里、もう一里と塚を楽しみに旅をしたり、人夫や馬を借りるときの駄賃をきめる基準にしました。
(昭和63年3月 |
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「新町交差点」で国道20号線に合流。
【上野原宿】 日本橋から十八里二十七町二十六間(73.7Km)、下諏訪へ三十四里二十五町四十六間(136.3Km)
天保14年(1843)で人口784名、総家数159軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋20軒。
甲斐の国最初の宿場。
<土産と休憩> 13:30〜14:00
上野原町に入ると町中いたるところで酒饅頭を売っている店があるからこの地の名物なのだろうと、「新町2丁目交差点」を過ぎた「日大明誠高校前バス停前」の酒饅頭専門店で酒饅頭(1個60円)を購入。
饅頭店すぐ先の「桔梗屋東治郎上野原店」内「水琴茶堂」で甘味をとる。あずき茶が意外と美味しかった。
【上野原本陣門】 (右奥) 14:07
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日本橋から74Km標識の右側、「東京電力上野原サービスステーション」横の細道を入ると写真の本陣門が残っている。塀はやや朽ちかけている。 「東京電力」の向かいは「JAクレイン」だが、共につい最近閉鎖されたので、間もなく目印とならなくなるだろう。 国道20号線と県道33号線の三叉路少し手前で、「明誠高校入口交差点」と「本町交差点」の中間位の細道である。 |
【鶴川宿入口】 (右側) 14:33
やがて道は下り坂になり、少し先のY字路を右へ曲がる。すぐ国道20号線を歩道橋で渡り、そのまま真直ぐ方向の県道30号線を下る。県道に入ったすぐ左側に甲州街道の絵地図がある。
車道はつづら折りになっているが、鶴川橋へショートカットする細い歩道が左側にあるのでここを下りる。
鶴川橋を渡った右側に小さな東屋があり、下記鶴川宿の説明板と「鶴川宿入口」の石碑が建っている。
【鶴川宿】 日本橋から十九里九町二十六間(75.6Km)、下諏訪へ三十四里七町四十六間(134.4Km)
天保14年(1843)で人口295名、総家数57軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋8軒。
鶴川宿は、正徳三年(1713)一村一宿にて宿場を構成しました、また天保十四年には戸数57戸人口295人、本陣1、脇本陣2、旅籠上3中3下2計8軒の小さな宿場でした。
宿場に入り50m右手の家の前には「駒つなぎ石」、そして理法寺の入口には、萬霊等(天和6年−1785)・念仏供養等(天和6年−1688)を見ることができます。少し進むと左手に、かつて馬宿であった若松屋が、北隣には旅籠であった村田屋がありました。また旅籠である街道をこえたところが、問屋柏屋であり近年まで屋号をついでいました。当時、間口24間(43m)奥行き18間(約32m)という大きな家で、上段の間があり脇本陣もつとめていましたが、大正10年(1921)の大火で焼失したためどのような間取りであったかは不明です。また、大椚に向かう途中にはかつての本陣がありました。
また、江戸五街道の川越は、通常橋梁によるものでしたが、鶴川は甲州街道唯一の「増水時徒渡し」でした。
そのほか、鶴川周辺には当時の街道をしのばせる名残を見ることができます。
※「駒つなぎ石」は、現在鶴川神社境内にあります。
天和6年の西暦に矛盾がある記述は、説明版の記載通りに載せました。
天和は1681〜1683年までしかなく、1785年は天明5年、1688年は元禄元年のはずである。
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「鶴川宿入口」の石碑から右カーブしてすぐ左奥に「鶴川神社」があるが通り過ぎてしまった。 また鶴川宿内の本陣などの説明板等は何もないが、右側の広い庭と蔵が建っている屋敷(加藤家)が問屋若松屋だった、その向かいが脇本陣跡、その先の「マンション明鶴」の斜め前が本陣跡である。
旧甲州街道は、「マンション明鶴」前の細道へ左折する(写真の塀は本陣家でこの道を入る)。 ほどなく中央高速道路にぶつかるので、すぐ右手に見える「鳶ヶ崎橋」を渡る。 |
【大椚(おおくぬぎ)の一里塚跡】 (左側) 15:05
「鳶ヶ崎橋」を渡って、道が平らになったところに平成19年3月に出来たばかりの「一里塚跡」石碑と案内板が建っている。
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(前略:一里塚の説明) 上野原地域には甲州街道に沿って4ヵ所の一里塚が作られ、大椚一里塚は、江戸から19番19里にあたります。現在、その跡は残されていませんが、鶴川宿から大椚集落に入る手前の道の両側にあったことが江戸時代の絵図などからわかります。 (平成18年3月 上野原市教育委員会) |
【大椚宿発祥の地・秋葉常夜燈】 (左側) 15:20
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工業団地入口前を直進し、一里塚跡から十数分行くと写真のように案内標識、道祖神、秋葉常夜燈がある。 常夜燈の上部は崩れて後ろに転がっていた。 |
【吾妻神社】 (左側) 15:23〜15:35
いまは枯れてしまったが、かつて境内に椚の古木があり、これから村の名前が付いたそうである。
道路沿いに『甲州街道史跡案内図』がある。
境内に綺麗なトイレとベンチがあるので休憩とする。
上野原で買った酒饅頭を食べたが、皮は厚く冷たくなってきたこともありあまり美味しくなかった。蒸かしたてでないとだめか。
【長峰砦跡・芭蕉句碑】 (左側) 15:50
再び中央高速道路に接してしばらく行くと。小公園風の場所(下の写真)に出る。
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【長峰の史跡】 「長峰」とは鳶ヶ崎(鶴川部落の上)から矢坪に至るまでの峰を指す呼び名ですが、戦国時代に上野原の加藤丹後守が、その出城というべき砦をここに築いたことから、いつかこの付近だけを長峰と呼ぶようになりました。 丹後守は武田信玄の家臣で、甲斐国の東口を北条の侵略から守るため、この砦で監視しました。 ここは、当時の交通の要所であり、要害な地であるばかりでなく、水にも恵まれていました。砦の北側は仲間川に面して崖となり、南面には陣門と呼ぶ木の柵を立てて守りを固め、常に番兵が見張りに当たっていました。 柵の東側に「濁り池」、その西北部に「殿の井戸」と呼ぶ泉がありました。 「濁り池」は、いつもどんより濁っていたので、こう呼ばれていましたが、一般には「長峰の池」で通っていました。約100平方メートルの小池で、どんな干ばつにも枯れたことがありませんでした。池の中にヒシという水草が群生していたことも有名でした。 「殿の井戸」は、きれいな水がこんこんとわき、日照りのときでも絶えなかったといわれていました。おそらく、領主が出かけた折、好んでこの水を飲んだことから、こう呼ばれたことでしょう。 側にある石碑は、この地域の獅子門俳諧の門下、日野の花岳寺十六世八峰が、芭蕉と芭蕉門十哲の一人獅子庵支考(蓮二房)の句をそれぞれ刻んで建立したものです。 現在、この史跡の真ん中を中央高速道路が通っています。 (上野原教育委員会)
句碑には、芭蕉の句『古池やかはず飛びこむ水の音』と、支考の句『あがりてはさがり明けては夕雲雀』が刻まれている。
長峰砦跡は、山梨県の東端部、 しかしそれがいつ頃、誰によってつくられたのか、どのような戦いの歴史があったのかなどについては不明な点が多く、また1960年代後半の中央自動車道建設工事などによる影響のため、元の姿をとどめない状況になってしまいました。 このような中で1990年代後半になって再びこの遺跡が中央自動車道拡幅工事の計画区域に取り込まれたため、工事に先立ち平成7・9・10年度の三年にわたって発掘調査が実施された。 調査の結果、戦国時代末の長峰砦に結びつくと考えられるものに、山地を整形して設けられた郭(見張り小屋などを置く平坦地)の跡、屋根を切断する堀(堀切)の跡、斜面を横に走る横掘の跡などがあり、とくに堀跡からは鉄砲の玉が出土したことなど、いくつもの成果が得られています。また長峰と呼ばれるもとになった尾根状地形のやや下がった位置に尾根筋を縫うように幅1m余りの道路の跡が断続的に確認されました。これは江戸期の「甲州街道(正式には甲州道中)」に相当すると見られるものでありました。 長峰砦跡は、 その歴史的な全体像を理解するには、すでに手掛かりの多くが失われているものでありましたが、それでも発掘調査を通じて次のような歴史をとらえることができるものと思われます。 この長峰の地には、縄文時代以来の人々の何らかの活動の跡も断片的ながら確認され、ここが古くからの交通の要所であって、戦国時代にはこの周辺で甲斐の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われています。そこで交通を掌握し、戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれました。 その後、江戸時代になって砦の跡の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州道中として整備され、ここを行き来する旅人は砦の時代を偲びながら通行していきました。そうした歴史は現在の中央高速道路にひきつがれているものといえましょう。 |
この少し先で、『これより野田尻宿→』の案内板が立っているので、矢印に従って中央高速道路に架かる新栗橋を渡る。
渡ると、野田尻宿に下りて行く。
6回目の旅終了(16:15)
野田尻宿中程・中央高速ハイウエイバス入口。 日本橋から二十里三町(78.9Km)。
本日の記録 : 街道のみの距離は、16.3Km(相模湖駅入口交差点〜野田尻宿)
寄り道を含めた実歩行距離は、19.0Km(相模湖駅〜野田尻バス停)
7時間 29,000歩
野田尻から鳥沢駅まで約9Km(3時間弱)あるので、ここから東京方面に帰るにはハイウェイバスが便利である。
野田尻の町に入って最初の左への細道を曲がり、中央高速道に沿って少し戻ると数台の駐車場がある。そこから階段をあがるとハイウエイバスの野田尻バス停に行ける。ここから新宿駅まで1時間に4〜5本のバスが走っている。但し、完全予約制の為、予約していない場合は席が空いていなければ乗ることができない。
私たちは、バス停に着いて甲府からの16:35発のバスを待っていたら、1分しか待たずに河口湖からの遅れたバスが着き、丁度座席が2席だけ残っていたので乗車することができた。実にタイミング良く
到着したものだ。