江戸・内藤新宿 (日本橋(元標) → 明大前駅) <旧甲州街道1回目>

2007年1月27日(土) 快晴 

 日本橋の道路元標を11:15スタート。

 (注:解説で街道の左側、右側とは 下諏訪に向っての左右です)

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 中山道を挑戦中だったが、寒さの中の峠越えは辛い為、しばらく冬休みにして、その間に「甲州街道」を歩くことにした。

 全行程は、江戸時代の距離で五十三里十七町十二間(210.Km)。

 文中、里程で表した距離は、江戸時代の距離です。従って、旧道を忠実になぞっても現在の道を歩くより短いはずです。何故なら、現在は道が消滅しているため迂回したり、往時は直登が原則の峠道がつづら折りになったりしている為です。


【日本橋 】 国指定重要文化財

 日本橋については、「旧東海道 」、及び「旧中山道」の1回目を参照。

 甲州街道は、日本橋から南(東海道)へ向けて出発し、すぐ先の「日本橋交差点」を右折する。

 この「日本橋交差点」の右角には、かつての東急百貨店日本橋店(旧白木屋)があった場所で、現在は2004年3月末にオープンした「コレド日本橋」がある。ちなみに「COREDO日本橋」の名前の由来は東京の中心であると言う意味の「CORE」と江戸(EDO)を足したものとのこと。


【一石橋(いっこくばし)迷子しらせ石標】  (左奥)  11:25

 「呉服橋交差点」を右折した最初の橋が「一石橋」で、橋の西詰めに2つの説明板と迷子しらせ石標が建っている。


【一石橋迷子しらせ石標】
 都指定有形文化財(歴史資料) (昭和17年9月指定:旧跡・昭和58年5月6日:種別変更) 

江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。

 迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。

 柱の正面には「満(ま)よい子の志(し)るべ」、右面には「志(し)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦火で破壊された。

     平成8年3月 東京都教育委員会


 もう一つは、「一石橋」に建つ親柱である。


【一石橋の親柱】
 中央区民文化財(平成14年指定)

 皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。

 本橋としては最後となった明治六年(1873)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(1922)に東京市道路局によって鉄筋コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿をしのばせています。
     平成15年3月 中央区教育委員会


【日本銀行】 (左奥) 

 「一石橋」のすぐ先が「常磐橋」で、その橋の右前方の由緒ある建物が日銀旧館 (写真手前)。旧館の北側が新館(写真の左後ろ)である。

 予約すれば日銀本店が見学できるとのこと(申し込み方法は、日本銀行のホームページを参照)。

 旧館の南側が「南分館」で、「貨幣博物館」(無料、月・祝日休館、9:30−16:30)がある。


【日本銀行法】

第1章 総則 (目的)

第1条  日本銀行は、我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うことを目的とする。

   2  日本銀行は、前項に規定するもののほか、銀行その他の金融機関の間で行われる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資することを目的とする。


【旧館】
 日本銀行のホームページ ・「バーチャル見学ツアー」より抜粋。

 日本銀行本店は現在、旧館、新館、分館の3つの建物から構成されており、旧館は現在の日本銀行の建物の中でもっとも古く、明治29年に完成した。明治中期の西洋式建築物としては、東京・赤坂の迎賓館とならぶ傑作といわれており、国の重要文化財にも指定されている。建物の様式は、柱やドーム<丸屋根>などのバロック様式に、規則正しくならぶ窓などのルネッサンス様式を取り入れた「ネオバロック建築」で、ベルギーの中央銀行を手本にしたといわれている。

 地下1階の地下金庫は、明治29年から平成16年6月まで108年間使われた。扉は、後から地下金庫をひろげた昭和7年に取付けたもの。米国製で厚さ90cm、重さ25トン(扉15トン、外わく10トン)もある。(「バーチャル見学ツアー」では金庫の内部映像を見ることができる)

 2階の廊下には、日本銀行のこれまでの総裁の絵がかけられており、ドームの真下にある史料展示室には、金や銀のかたまりを量る大きな天秤など、日本銀行の歴史の中でその時々の様子がわかる貴重な品々が展示されている。なかでも拍子木は日本銀行が開業して以降、昭和44年まで使用されていたもので、業務の始業・終業を拍子木を打ち鳴らすことによって伝えていた。

 中庭は、昔日本銀行に来る客が馬車などでお金を運んでいたので、荷物の積み下ろしに利用されていた。また、馬の水飲み場もある。


【新館】

 建物は10階建で、昭和48年に完成した。

 お札は、独立行政法人国立印刷局でつくられ、まず日本銀行の金庫(新館)へ運びこまれる。そして、ここから金融機関を通じて世の中へ出回って行く。日本でお札を発行するのは、日本銀行だけが行なっている仕事。

 大口出納は、金融機関との間で沢山のお金を支払ったり受け入れたりするための窓口で、金庫に入っていたお札はここから世の中へ出ていき、またこの窓口へ戻ってくる。1日平均で約2000億円分のお金がこの窓口から出入りしており、平成15年の大みそかに世の中に出回っていたお札を合計すると、77兆円になり、これを積み上げると富士山の352倍の高さになる。

 監査室では、戻ってきたお札について枚数を確かめるとともに、安心してきれいな状態で利用することができるように、にせのお札が混ざっていないか、いたんでいないか、高性能の機械を使って1枚ずつチェックしている。

 日本銀行には政府の預金口座があり、この口座には、国民から集められた税金、社会保険料、交通反則金などが入り、公共工事、公務員の給料など国の仕事に使われるお金や、国民に支払う年金のお金はこの口座から出ていく。また、国債の発行に関する仕事、毎日の金融調整、為替介入等を行っている。


【常磐橋】 

 日銀西側、旧館と新館の境の前に古い常磐橋(新しい「常盤橋」とは字が異なる)が架かっている。

 下の写真が常磐橋で、後ろは日銀の旧館

【常磐橋】  

 この橋を常磐橋といい三代将軍家光の頃までは、大橋とも浅草口橋とも呼ばれました。

 しかしその名はよくないので改名するよう、町年寄の奈良屋市右衛門に命ぜられました。

 市右衛門は自宅に寄宿していた浪人に頼んで、橋の名を考えてもらい、常磐という名を献じました。「金葉集」の大夫典侍の歌に、“色かへぬ松によそへて東路の常磐のはしにかかる藤波”とあり、その歌の心を松平の姓にかけためでたい名です。なお常盤と常磐の文字のちがいがみられます。

橋詰に北町奉行所があったこともあります。

 関東大震災後下流に常盤橋が架けられました。

 現在の石橋は枡形に使っていた石を用いて、明治十年(1877)に改修した都内随一の貴重な洋式石橋です。橋の銘板には常磐橋とあり城門の枡形の一部も現存しています。
     平成3年3月 
千代田区教育委員会


 「渡った西側が「区立常磐橋公園」になっており、川沿いにある石垣(下の写真)は、江戸城の城門にみられる枡形石垣の一部である。

 また公園内内は「渋沢栄一」像も建っている。渋沢栄一については「旧中山道・7回目(深谷宿)」の【深谷駅】参照。


【常磐橋門跡】
 国史跡

 常盤橋門は江戸城外郭の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、見方の出撃を容易にする為、大きな切石で積み上げられた「コ」の字型の枡形門である。天正18年(1590)架橋といわれる旧常盤橋は。両国橋がかかるまで江戸一の大橋であった。現在の石橋は門跡の石等も使い、明治10年に改築したもので、洋式石橋の創始といわれている。この常盤橋の名称は、家光の時代「色かへぬ松によそへてあづま路の常盤の橋にかかる藤なみ」の歌に因みつけられたものといわれる。


【町奉行所】

  江戸領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役所。慶長九年(1604)八代洲(やよす)河岸内と呉服橋御門内に初めて設けられ、両所の位置関係により八代洲河岸内の役所を北町奉行所、呉服橋御門内の役所を南町奉行所と呼称するようになった。その後両奉行所は何回か移転して南・北の名も入れ替わったりしたが、文化三年(1806)以降は、北町奉行所が常磐橋御門内(現在の東京駅八重洲口あたり)、南町奉行所が数寄屋橋御門内(現在の有楽町マリオンあたり)に落ち着き幕末に至った。


 11:45「呉服橋交差点」に戻り、JR東京駅北側のガードを潜って「大手町一丁目交差点」までそのまま国道1号線を西進した。

 本来の旧甲州道は、呉服橋交差点の次の道を左折し、東京駅八重洲北口から駅を横断して丸の内北口に抜け、そのまま直進して国道1号線の和田倉門に至たる道である。


【将門塚】 東京都文化財(都旧跡・昭和46年3月指定) 11:55〜12:05

 探すのに少し迷ったが、「大手町交差点」を右折(北)し、次の信号を左折すると、三菱東京UFJ銀行の前に将門塚がある(大手町1−1−1)。

 敷地内には沢山の説明板が掲げられていた。


【都旧跡 将門塚】

 平安時代、天慶の乱(〜940年)の中心人物。平将門にまつわる著名な伝説地。 

 通称将門塚は関東大震災後に崩され現存しないが、塚の元に将門の墓と称されてきた石灯篭は現地に保存されている。

 嘉元年間(1303〜05)遊行二代他阿真教上人が将門の霊を回向し、神田明神に配祀したと伝えられており、この地は神田明神の旧地であった。

 故跡保存碑は明治三十九年五月に建立されたもので、裏面の阪谷芳郎撰文になる碑文は将門塚の由来を記している。
     昭和46年10月 東京都教育委員会


【将門首塚の由来】

 今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起し忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年三十八歳であった。世にこれを天慶の乱という。

 将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚として語り伝えられている。

 その後もしばしば将門の怨霊が崇をなすため、徳治二年、時宗二祖真教上人は将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建てて日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。

 天慶の乱の頃は平安朝の中期に当り、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春を謳歌していたが、遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の骨地をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為、これらの力の弱い多くの人々が将門によせた期待と同情とは極めて大きなものであったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に、弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となって、その影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。


【将門首塚の碑】

 昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治二年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。

 明治二年(1869)より第二次世界大戦まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。
     平成 3年3月 千代田区教育委員会


【将門塚】

 神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931〜946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強気を挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる貴重な場所です。将門塚保存会神輿も神田祭のときに同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われております。
     江戸総鎮守神田明神


【酒井家上屋敷跡】

 江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。


【大手門・桔梗門・坂下門・二重橋・桜田門】 

 将門塚からは、本来の甲州街道である国道1号線でなく内堀通りに出て、大手門前を通り桜田門までは皇居外苑(皇居前広場)を歩いた。

 本来の甲州街道は1号線を行き、日比谷交差点を右折する。  


大手門

巽櫓(奥が桔梗門)

二重橋(正門鉄橋)

二重橋(正門石橋)

桜田門(高麗門)


【大手門】

 皇居東御苑の東側にある。旧江戸城の正門として元和六年(1620)に築造されたが、明暦の大火で類焼。万治元年(1659)に再建されたが、地震などで修理を繰り返し、昭和四十二年(1967)に復元工事が完成した。


【桔梗門】

 幕幕府の要職者が登下乗する門。


【坂下門】

 奥社に通じる坂下門は、江戸時代は将軍のみが通る不開門であった。現在は、皇居への通用門的な役割を果たしており警備が厳重である。


【二重橋】

 皇居前広場から正門を経て宮殿へ至る濠に二つの橋が架かっており、手前がめがね橋として親しまれている「正門石橋」、奥が「正門鉄橋」。一般に二重橋はこの二つの橋を総称して言われているが、厳密には奥の橋を指す。奥の橋はかつて、下乗橋と言われ、橋桁を支えるため、中途に台があって二重構造となっていたことからこの名がついた。現在の橋は、昭和39年6月に架け替えられたもの。

 これらの橋は、普段は閉鎖されているが、新年の一般参賀や外国賓客の皇居訪問等宮中の公式行事の際に利用される。皇居一番の記念撮影スポットである。


【桜田門】 国指定重要文化財(昭和36年6月指定) 12:35

 江戸城の門の多くは、第一の門と第二の門との中間に桝形の広場がある「桝形城門」の形式が採られ、戦略上有利な立体的な門の形となっているところに特徴がある。

 桜田門は寛永十三年(1636)に修築され、大正十二年の関東大震災で破損し、その際に鉄網土蔵造りに改修された。この桜田門の桝形は十五間×二十一間あり、現存している城門の中では最も広い規模を有し、「桝形城門」の形態が良く保存されている。


 「桜田門交差点」(警視庁の前)で、国道1号線(南へ)と国道20号線(西へ真っ直ぐ)は別れる。ここから甲州街道は国道20号線をぬって行くことになる。
 次の「国会前」交差点で甲州街道(20号線)は右へカーブして行く。
 この交差点の正面が「国会議事堂」。警視庁の左が息子の勤務先である「国土交通省」。

 議事堂側から写した警視庁の写真で左下の自動車がカーブしている道が国道20号線。右端の建物が国交省。

  
警視庁

 
国交省の門まで行き、扇千景氏が書いた「国土交通省」の看板を見学。
  国土交通省


 次いで、国交省向かいの国会議事堂を交差点から見て街道を進む。
  国会議事堂


【井伊掃部頭邸跡(前加藤清正邸)】 (左側)  

 議事堂の前を横断して、左側の高速道路に接する手前に井伊掃部頭の上屋敷跡がある。
 現在は公園になっていて、日本水準原点・三権分立の記念塔・参謀本部跡・櫻の井などがある。


【井伊掃部頭邸(前加藤清正邸)】
  

 この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。加藤家は二代忠広の時に改易され、屋敷も没収されました。

 その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています(歴代当主は、掃部頭(かもんのかみ)を称しました)。

 幕末の大老井伊直弼は、万延元年(1860)三月に、この屋敷から外桜田門へ向かう途中、水戸藩主等に襲撃されました。


【渡辺崋山誕生地】 (左側) 12:55

 三宅坂交差点で、国道246号線(西)と国道20号線(北)に分かれる。

 この2つの国道に挟まれたところに「最高裁判所」がある。

 その三角点は「三宅坂小公園」になっていて、歩道側に3人乙女の像、その裏側に渡辺崋山誕生地の説明板がたっている。


【渡辺崋山誕生地】  

渡辺崋山は通称を登といい寛政五年(1793)三宅備前守藩邸内に生まれ、大部分をここですごしました。

     昭和 60年3月 千代田区教育委員会

 渡辺崋山は、江戸時代後期の政治家で画家。40歳の時三河国田原藩の家老となる。32歳頃から外国事情の研究を始め、崋山の遺志は藩士によって明治維新まで受け継がれ、田原藩は軍備の近代化が最も進んだ藩となった。号を、はじめ華山と称し、34歳頃崋山に改めた。


【半蔵門】 (右側)

 最高裁の隣に「国立劇場」があり、その少し手前で日本橋から4Km。

 半蔵門交差点の右奥に半蔵門があり、国道20号線はこの交差点で左折する。


【半蔵門】
 

 門の前に旗本服部半蔵の伊賀組屋敷があったことから付いた名であるという。 

 第二次世界大戦で焼失し、現在建っている高麗門は和田倉門から移築したもの。

 この門内は、現在吹上御苑と呼ばれ、吹上御所や生物学御研究所、水田などがある。

 天皇や各皇族方の皇居への日常の出入りには、主にこの門が用いられている。


<昼食> 13:10〜13:40

 麹町一丁目のマクドナルドで昼食。 


【四谷見附】 13:55

 四谷駅前の左右に石垣が残っている。

 旧甲州道は四谷駅の2つ手前から右斜めに入り駅の後ろの陸橋を渡るのだが、現在その道はないので、四谷駅前交差点から改札口の後ろを回り、すぐ四谷見附交差点に戻る。
  


【於岩稲荷田宮神社】  

 「四谷三丁目交差点」を左折、次に「四谷警察署」の先を左折、更に突き当りを右折して少し進むと右手に於岩稲荷田宮神社がある。


【田宮稲荷神社跡】 
都旧跡(昭和6年12月指定)

 文化文政期に江戸文化は爛熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北(金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政十二年(1829)十一月二十七日没)も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。物語は文政十年(1827)十月名主茂八郎が町の伝記を集録して、町奉行に提出した「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治五年ごろお岩神社を田宮神社と改称し、火災で一時移転したが、昭和二十七年再びここに移転したものである。
     昭和43年3月 東京都教育委員会


【陽雲寺】
 「田宮稲荷神社」の斜め向かいに、「於岩稲荷」の提灯が下がっている陽雲寺があり、境内にお岩様由縁の井戸がある。 




【陽雲寺の由来】

 江戸時代、文政八年七月歌舞伎戯作者四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に喧伝され、於岩様庶民の畏敬を受け当山その由縁の所として現在に至ったが戦火に遭い協議の上本堂を栃木下野から薬師堂を移築再建した棟札には宝暦七?年とある。於岩様の戒名は得證院妙念日正大姉。墓は元鮫ヶ橋にあったが現在は移転し巣鴨新庚申塚にある。当堂内には於岩様御尊像奉祀され参拝者祈願の対象となり境内には由縁の井戸、再建記念碑等がある。
     平成5年10月



【お岩様由縁(ゆかり)の井戸】 
 現在も御霊水として使われています。


【玉川上水水番所跡】 【水道碑記】 【四谷大木戸跡】 (左側) 14:40 

 「四谷四丁目交差点」で国道20号線は地下に入って行く。旧甲州道はここから右斜めの道へ行く(「新宿通り」で、「新宿駅東口」へ行く道。この交差点で日本橋より7Km

 交差点を渡った左側に2基の石碑が建っていて、碑の後ろの説明板には玉川上水水晩番所跡水道碑記四谷大木戸跡碑が連記されていた。

 下の写真で、大きな碑が水道碑記、見にくいが中央の木の後ろに立っている碑が大木戸跡碑


【玉川上水水晩番所跡】 史跡

 玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。

 水番所には、水番人が一名置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。

一、 此上水道において魚を取水をあび

   ちり芥捨べからず 何にても物あらい中間敷

   竝両側三間通に在来候並木下草

   其外草刈取中間敷候事

  右之通相背輩あらば可為曲事者也

   元文四巳未年十二月   奉行

【水道碑記
(すいどうひのいしぶみ) 東京都指定有形文化財(古文書) 昭和5年12月指定

 玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ460cm、幅260cm。上部の篆字(てんじ)は徳川家達、撰文は胆付兼武、書は金井之恭、題字は井亀泉によるもので、表面に780字、裏面に130字が陰刻されている。

 碑の表面には明治四十八年の年記が刻まれているが、建立計画中に発起人西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治二十八年(1895)完成したものである(裏面銘文)。

【四谷大木戸跡碑】

 四谷大木戸碑(この説明板の裏側にある)は、明治三十四年十一月地下鉄丸の内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。

 実際の大木戸の位置は、ここより約80m東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。
     新宿区教育委員会


 「四谷区民センター」の裏(左側)に回ると「玉川上水記念碑」や「内藤新宿解説三百年記念碑」があるとのことだが見逃してしまった。


【新宿御苑】

 「四谷四丁目交差点」から「新宿二丁目交差点」にかけての左手一帯が「新宿御苑」である。

 新宿御苑は、天正十八年(1590)に徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部である。のちに甲州街道、青梅街道、鎌倉街道が交差する要所になったことから、家康が信頼できる家臣に広大な土地を与えてこの一帯の警護などをさせたとされている。

 内藤氏七代清枚は元禄四年に三万三千石の信州高遠城主となるが、ここの敷地はその石高に比べてあまりにも過分であると大部分を幕府に返上したが、明治五年にはまだ十万坪以上が残っていたとのこと。

 その後、宮内庁の管理の庭園になり、現在は環境省管轄の国民公園として親しまれている。また、例年4月上旬に総理主催の「桜を見る会」が行われている。  


【大宗寺(たいそうじ) (右奥) 14:50〜15:00

 地下鉄丸の内線「新宿御苑前駅」1番出口の一つ先の道を右に入った所に、内藤家の菩提寺である大宗寺がある。
 門から境内に入って直ぐ右手に江戸六地蔵の一つである大きな銅造地蔵菩薩座像が建っている。


【銅造地蔵菩薩座像】
 東京都指定有形文化財 彫刻(昭和45年8月指定)

 江戸時代の前期に、江戸に出入口六ヶ所に建立された「江戸六地蔵」のひとつです。

 銅造で像高は267cm、正徳二年(1712)九月に「江戸六地蔵」の三番目として甲州街道沿いに建立されたもので、制作者は神田錦町の鋳物師太田駿河守正儀です。

 なお、像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。

 「江戸六地蔵」は、深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て建立したものです。各像にはその名前が刻まれていますが、その合計は七万二千名以上におよんでいました。

 この他の「江戸六地蔵」は次の通りですが、永代寺にものは現存していません。

  品川寺 品川区南品川3−5−17  宝永五年(1708)建立 (「旧東海道2回目の品川宿・品川寺(ほんせんじ)」参照)

  東禅寺 台東区東浅草2−12−13 宝永七年(1710)建立 (「旧日光街道」沿いにあるが見逃した)

  真性寺 豊島区巣鴨3−21−21   正徳四年(1714)建立 (「旧中山道1回目の江戸・真性寺(しんしょうじ)」参照)

  霊厳寺 江東区白河1−3−32    享保二年(1717)建立 「奥の細道(1)霊厳寺」参照)

  永代寺 永代区富岡1−15−1    享保五年(1720)建立 (現存せず)


 左手には説明板とその後ろに不動堂が建っている。


不動堂

【大宗寺の創建と内藤家】

 大宗寺は、このあたりに大宗という名の僧侶が建てた草庵「大宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。

 大宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1628)内藤家第5代正勝逝去の際には、葬儀を一切とりしきり、墓所もこの地に置くこととなりました。

 これが縁で、寛文8年(1668)6代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の大宗寺です。

 内藤家は7代清枚以降は歴代当主や一族が大宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。

 大宗寺は、元禄15年((1702)・文化2年(1805)の火災や、関東大震災・第2次世界大戦でも大きな被害をうけましたが、歴代住職の尽力により、その都度復興してきました。

 また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。

 現在も、寺号「大宗寺」は、創建時の庵主大宗の名をいただき、山号「霞関山(かかんざん)」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれたいたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。


 六地蔵の左隣には閻魔堂が建っていて、中には閻魔像奪衣婆
(だつえば)が祀られている。


【閻魔像】
 
新宿区指定有形民族文化財(昭和61年3月指定)

 木造彩色、総高550cmにもおよぶ巨像で、目をむき大きな口をあけて見据える姿は拝観者を恐れさせ、子供のしつけのため参拝されたりしました。

 文化十一年(1814)に安置されたとされ、制作もその頃のことと推定されます。しかし、数度の火災による度重なる補修を受けたため、制作当初の部分は頭部を残すだけとなっています。

 江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰をあつめ、かつては藪入り(一月と七月の十六日に商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)に閻魔大王の縁日が出て賑わいました。

 また、弘化四年(1847)三月五日には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起こり、錦絵になるなど江戸中の評判になりました。

 なお、閻魔堂正面にかかる「閻魔殿」の額は、中国清朝の官吏秋氏が嘉永三年(1850)に奉納したものです。

 現在は、お盆の七月十五日・十六日に御開帳されています。

 
 上の閻魔像はの覗き穴から撮影出来たが、その左手にある奪衣婆像は穴から写せなかったので説明板の写真を載せる。


【奪衣婆像】
 
新宿区指定有形民族文化財(昭和61年3月指定)

 閻魔堂内左手に安置されている座像です。

 木造彩色で総高は240cm、明治三年(1870)の制作と伝えられます。
 奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計ったとされています。この像でも、右手には亡者からはぎ取った衣が握られています。

 また、衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばさん」と呼ばれ信仰されました。


 閻魔堂の斜め向かいで不動堂の右側には内藤家墓所があり、正面一番奥に本堂が建っている。
 また、新宿ミニ博物館と称して「甲州街道と内藤新宿」の説明板もある
(次項【内藤新宿】に載せる)


【内藤新宿】 日本橋から二里(7.9Km)、下諏訪へ五十一里十七町十二間(202.1Km)

 天保14年(1843)で人口2377名、総家数698軒、本陣1軒、旅籠屋24軒。


大宗寺の説明板「新宿ミニ博物館」より
【内藤新宿の開設】 

 徳川家康は、江戸に幕府を開いた直後の慶長・元和年間に、五街道(東海道・中仙道・奥州街中・日光道中・甲州道中)の整備を行いました。

 甲州道中(甲州街道)は、慶長九年(1604)頃に整備が行われたもので、江戸から甲府を経て下諏訪で中仙道に合流します。

 この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発して4里8丁(16.6Km)もあったため、人馬ともに不便でした。

 そこで浅草 阿部川町(現元浅草4丁目)に住む名主喜兵衛(後の高松喜六)は、元禄十年(1696)に同士4名とともに同地を支配する代官細井九左衛門に、ここ大宗寺の南東に宿場を開設するよう願いを出しました。喜兵衛らがなぜ宿場開設を願い出たのか、その理由は分かっていませんが、5人は開設にあたり運上金5,600両を納めることを申し出たのでした(結局全額は納められなかった)。

 このあたりには、文禄三年(1595)に成覚寺・正愛院が、慶長元年(1596)頃に大宗寺が創建され、元和二年(1615)頃には四谷大木戸(現四谷四丁目交差点)も開設されました。また寛永二年(1625)からは町屋ができ、寛文年間(1661〜72)には「内藤宿」と呼ばれかなりの繁昌をみせていたため、この地を選んだのでしょう。

 さて、この願いは翌元禄十一年(1698)六月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部と旗本朝倉氏の屋敷地などを上地してこれにあてました。

 こうして「内藤新宿」は、元禄十二年(1699)二月に開設のはこびとなり、同年四月に業務を開始しました。喜兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました(高松家の墓は愛染院にあり、区指定史跡に指定されている)。


【宿場の様子】

 「内藤新宿」は東西九町十間余(約999m)、現在の四谷四丁目交差点(四谷大木戸)から伊勢丹(追分とよばれる甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。

 宿場は大きく三つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。

 大宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休憩する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取り扱う施設。内藤新宿の場合、人足50人・馬50疋と定められていたが、のちには共に25ずつとなった)、高札場(法度・掟書・罪人の罪状などを記し周知する立札)がありました。

 「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる四宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁栄しましたが、それを支えたのが旅籠屋と茶屋でした。

 これらには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄十五年(1702)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました(飯盛女の共同墓地「子供合埋碑(こどもごうまいひ)」が、成覚寺にあり、区指定有形文化財に指定されている)。


【宿場の廃止と明和の立返り】

 このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが、享保三年(1718)開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。

 これは、利用度の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたこと、旗本内藤新左衛門の弟大八が信濃屋の下男に殴られた事件などが原因といわれますが、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。

 その後、度重なる再興の願いにより、明和九年(1772)に宿場は再興されました。


【新宿元標ここが追分】 15:10

 「新宿三丁目交差点」の左角(「追分だんご本舗」がある側)の舗道上に新宿元標のタイル絵とそばに標柱が立っている。


【新宿元標ここが追分】 
 この追分の地は、日本橋に端を発した甲州街道から青梅・福生方面へ向かう青梅街道との分岐点であった。

 江戸時代より石炭や生活物資を運ぶ人々が行きかい、かなりのにぎわいを見せていた。

 ここに、往時の生活と文化を偲び、追分道標を設置する。


 この交差点を真直ぐ行くのが青梅街道、左折するのが甲州街道である。

  追分けのタイル絵

 「追だんご本舗」で、おやつ用にと5種類の追分け団子(一串168円)を買ったが、結局食べずにお土産になってしまった。

 「三丁目交差点」を左折し、すぐ次の「新宿四丁目交差点」を右折して再び国道20号線を高井戸まで進む。


【新宿駅】 15:20〜15:30

 私たちは行かなかったが、「新宿四丁目交差点」の南側には「天竜寺」があり、境内には「時の鐘」(別名:追い出しの鐘)がある。この「時の鐘」の近くに日本橋から2番目の一里塚があったとのこと。

 国道20号線は線路の上を越える。ルミネ2でトイレ休憩。 


【箒銀杏 (左側) 15:45

 「西新宿」信号を越え、歩道橋を過ぎた次の左折道を入った左に「銀杏天神」の鳥居があり、その狭い境内に巨大な箒銀杏が聳えている。
 二方が高いビルに接して可哀想である。
 


【箒銀杏(ほうきいちょう)】
 
 この大きな銀杏の木を少しはなれた所から見ると、箒を逆さにたてたように見えるところから、箒銀杏と呼ばれてきております。

 樹齢は約200年と推定されますが、近くを流れていた玉川上水によって育てられてきたと考えられます 。

 かつて渋谷区内には名のついた巨木、銘木が数多くありましたが、都市化と戦災によって枯れてしまい、初代のものはこの箒銀杏だけとなってしまいました。

 この木にちなむ特別の伝説は伝えられておりませんが、根元にある天満宮の小祠から、この近くを流れていた玉川上水に架けられた橋を天神橋と名付けられました。

     渋谷区教育委員会


【白水学校跡】 (左側) 16:00

 次の「西新宿3丁目」信号で、首都高速が国道20号線の上に被さってくる。
 少し進み「初台交差点」を渡った右側に「新国立劇場」が建っている。
 その次の初台駅(京王線)入口の道路を渡った左の生け垣に白水学校跡の説明板が立っている。

【白水学校跡】 

 明治十二年(1879)水上忠蔵がこの場所に白水分校という私立の小学校を設立しました。

 忠蔵は、明治維新後に東京市内から代々木村に移り住んだ教育家で、これより六ヶ月前に白水学校の本校を和泉村(杉並区)に開校しています。

 当時の白水分校には、尋常科と簡易科があり、尋常科では主として漢文・数学・習字を教授し、簡易科は速習方法で教授しました。また簡易科には、農閑期だけ通学する児童や、裁縫・礼儀作法を習うために通学する女児がたくさんいたのです。

 明治十五年(1882)二月、白水分校を代々木・幡ヶ谷連合の村立として幡代小学校と改称し、同十八年(1885)十一月、西側に隣接する場所に新校舎を建築して、移転をしました。

     渋谷区教育委員会


【牛窪地蔵尊】 【道供養碑】 (左側) 16:20

 暫く進んだ左手、「笹塚交差点」手前のビルの間に牛窪地蔵尊がある。日本橋から12Km


【牛窪地蔵尊】

 牛窪地蔵尊は今を去る260年前(正徳元年拾月)に建立されたものである。庚申塔は享保九年拾壱月建てられた。

 以前この地は極悪人の刑場として牛を使って最も厳しい牛裂きの刑という両足から股を引き裂く酷刑場の地であった伝えられている。この牛と窪地であったことから牛窪の地名となり牛窪の地名と共に幡ヶ谷地方の雨乞行事の場所としても有名であった。

 宝永より正徳年間にかけてこの地に悪疫病がはやりこれが罪人の霊のたたりだと伝えられ子供の安泰を守り苦難の時の身代わり地蔵としてこの淋しい土地に地蔵尊を祭り霊を慰めたのである。


 その敷地の右側に道供養塔など新旧四基の石碑・石仏が建っている。


【道供養碑】

 この道供養碑によって、江戸時代の道供養信仰を知ることができます。道祖神、地蔵尊などの交通安全、悪魔退散の呪術的信仰とはちがい、これは橋供養と同じように、道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈ろうとする全国でも珍しい供養塔です。

 中野通りの延長は鎌倉街道の一部で、この道供養碑はもとそれに面して建てられていて、鎌倉道の供養塔であったことがわかります。

 なお、甲州街道に中野通りが交わるこのあたりは、地形が少し低くなっていて、江戸時代から牛ヶ窪と呼ばれており、幡ヶ谷地域の農民が雨乞行事を行う場所でした。

     渋谷区教育委員会


【玉川上水】 (左側) 16:40

 「大原交差点」を渡って少し進んだ左側の木が茂っている所に、玉川上水の旧水路が一部だけ顔をのぞかせていて、そこの小公園に説明板が立っている(「代田橋駅前」歩道橋の手前)。

 前後ですぐ暗渠になってしまうので貴重な姿である。


【玉川上水の由来】
  

 今から、300年以上昔、徳川四代将軍は、江戸の水不足を補うために多摩川から水を引くことを計画しました。

 そこで、松平伊豆守信綱の家臣安松金右衛門の技術指導を受けた玉川兄弟によって、羽村から四谷大木戸まで武蔵野が掘り割られ、江戸八百八町に水を供給する水路が築造されました。これが玉川上水です。防火用水としても使われていたということです。

 現在では、その下流はほとんどが埋め立てられ、世田谷区内を通る、約950mの区間も上部が緑の散歩道として生まれ変わっています。



 1回目の旅終了(16:55) 明大前駅入口・「京王井の頭線」の陸橋。 日本橋から三里十七 町(13.6Km)。

 本日の記録 : 街道のみの距離13.6Km( 日本橋〜「京王井の頭線」の陸橋) 

          寄り道を含めた距離18 .0Km(日本橋〜明大前駅) 

          5時間40分 26,500歩。

 

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