品川宿 (三田駅 → 鮫洲駅) <旧東海道2回目>

2002年2月11日(火)  晴

 1回目は一人旅であったが、今回より妻との二人旅 。
 (都営地下鉄線「三田駅」〜京急「鮫洲駅」)


2013年4月29日(月)  晴

 愛宕神社・NHK放送博物館を見学してから、都営「三田駅」より京急「青物横丁駅」までの二人旅。

2013年5月21日(火)  晴

 京急「新馬場駅」より「鮫洲駅」まで、旧東海道から外れて国道15号線沿線を巡る一人旅。

 

(注1:文中で街道の左側、右側とは京都に向っての左右)

 (注2:このページでは、三回分をまとめた形で編集する為、途中経過時間は省略)


「江戸」 ← 「目次」 → 「川崎宿(前半)」


【高輪大木戸跡】 文部大臣指定 史跡(昭和3年2月 指定) (左側)

 都営地下鉄「三田駅」をスタートして、横断歩道橋がある次の交差点が札の辻。名前が示す通りにかつては高札場があったのだが、現在は交差点に名前を残すのみとなっている。

 横断歩道橋で「札の辻 交差点」を越えて、次の「高輪大木戸跡交差点」を渡った左側歩道上に石垣で丸く囲われた盛土に突き当る。ここが往時の姿を今に留める高輪大木戸跡である。

 当然ながら、2002年に訪れた時よりも傍の樹木は大きくなっていた。

【高輪大木戸跡】 史跡(昭和3年2月7日指定)

 高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門に建てられたのが起源である。享保九年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(1792)などの諸説がある。

 江戸の南の入口として、道幅約六間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。

 天保二年(1831)には、札の辻から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外と共に江戸の六大高札場の一つであった。

 京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿に至る海岸の景色もよく月見の名所でもあった。

 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は海岸側に幅5.4m、長さ7.3m高さ3.6mの石垣のみが残されている。

 四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。 震災後「史跡名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。

     平成五年三月三十一日建設 東京都教育委員会


【泉岳寺】 (右奥)  (以前に見学)

 高輪大木戸跡すぐ先の「泉岳寺交差点」を右に入ると、ご存知、浅野内匠頭と赤穂義士の墓所がある泉岳寺に至る。

 ここには、かなり以前ではあるが訪れている所なので今回の旧東海道歩きでは行かなかったが、その時に写した写真を載せる。
    


【高輪海岸の石垣石】 (右側)

 「高輪神社」を右に見て、次の「高輪二丁目交差点」右角に高輪海岸の石垣石が少し残っていて、傍に説明板が立っている。

 また、港区旧町名由来板も一緒に立っている。

 この「高輪二丁目交差点」を右折すると長い上り坂となり、この坂を桂坂という。登る途中左側にある「東芝山口記念会館」横の細い坂道が洞坂。洞坂を少し登ってから左へ右へと下ると東禅寺に着く。

 桂坂を上まで登った中原街道との交差点(「高輪警察署前」)手前左側に高野山別院、交差点右側に高輪消防署の古い塔、中原街道と桜田通りを越えると右側に明治学院、その先は桑原坂左側に瑞聖寺、右側に八方園を見て白金台へと続く。

【高輪海岸の石垣石】

 ここに展示されている石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。

 平成7年(1995)、高輪二丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。

 石垣には、主に相模湾から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。

 発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。 3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。
     平成13年(2001)5月 港区教育委員会

【高輪】 (港区町名由来)

 この地は海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていましたが、転じて「高縄」から「高輪」となりました。古くから海沿いに人家が点在していましたが、江戸初期に幕府が参勤交代のために東海道を整備し、これにより街道沿いに町が広がっていきました。

 この地域には、高輪大木戸・願生寺・泉岳寺・東禅寺など多くの名跡があります。

【芝車町】 (港区町名由来) 

 旧江戸の入口のこの地は、江戸初期には下高輪村と呼ばれていました。寛永11年(1634)京都の牛持たち(牛車運搬業者)が召し寄せられ、増上寺安国殿普請などで石材の運搬を勤めていました。市ヶ谷辺りの牛小屋に住んでいた牛持たちは御用が済んだ後も帰郷はかなわず、寛永16年(1639)三代将軍家光の意向により、諸国から船で届いた荷を運ぶのに都合のよい土地を与えられ移り住んで来たことにより、高輪海辺四町余を車町と唱えるようになりました。

 明治2年(1869)頃にはまだ牛小屋が数軒残っていたため通称〔牛町〕とも言われ、「高輪牛町十八町、牛の小便長いネ〜」などと童子が謡いながら遊んでいたのもこの頃のことです。

【芝高輪北町】 (港区町名由来) 

 古くは荏原郡下高輪村のうちで、人家は少なく海辺の縄手でしたが、江戸時代に入り街道が整備されて、高輪大木戸から品川宿までの十八町の間は引手茶屋などで賑わっていました。中町・南町に対して北に位置していることから高輪北町と唱え、正徳3年(1713)町奉行支配となりました。

 東海道から少し山手に入ると、北町の横に高輪北横町があり、武家屋敷や寺社の地となっていました。明治2年(1869)に高輪北横町と高輪常光寺門前、明治5年(1872)には武家地・寺社地を合併しています。

 

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【桂坂】 

 むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。

【洞坂】 

 法螺坂・鯔坂とも書く。このへんの字(あざ)を洞村(ほらむら)と言った。洞村とは、昔ほら貝が出たとも、またくぼ地だから、洞という等様々な説がある。


【東禅寺】 東京都旧跡(昭和28年1月指定) (右奥)

 東禅寺へは、上記「洞坂」から行く方法と、「高輪二丁目交差点」から次の太い道(参道)を右折して突き当り迄行く方法がある。

 参道は大きな樹木が立ち並ぶ中を進むので、特に夏は気持ちがいい道である。途中左側には、高輪公園があり、その後ろ上には「グランドプリンスホテル」がある。

 東禅寺の山門前に「都旧跡 最初のイギリス公使宿館跡と刻まれた石碑と説明板が立っている。

 境内に入ると正面に本堂と思われる建物が、その左側に立派な三重塔が建っているが、共に手前に柵が設置されており、建物に近づくことは出来ない(下の写真参照)。右手には鐘楼が建っている。

 寺はひっそりとして、下記の説明文にある庭園等は見る事が出来なかった。

【東禅寺】 国指定史跡(平成22年2月22日指定)

 東禅寺は、幕末の安政六年(1859)、最初の英国公使館が置かれた場所です。東禅寺は、臨済宗妙心寺派に属し、開基の飫肥藩主伊東家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となり、また、臨済宗妙心寺派の江戸触頭でもありました。

 幕末の開国に伴い、安政六年六月、初代英国公使(着任時は総領事) ラザフォード・オールコックが着任すると東禅寺はその宿所として提供され、 慶応元年(1865)六月まで七年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(1861)五月には尊皇攘夷派の水戸藩浪士に、翌二年五月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。

 現在の東禅寺の寺域は往時に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館員の宿所となっていた「僊源亭」やその前の庭園などは良好に残っています。庭園と僊源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。
 幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。
 

     平成二十四年三月 東京都教育委員会


【品川駅】 (左側)

 東禅寺から街道(第一京浜国道)に戻って、プリンスホテル入口前を過ぎると左側に品川駅がある。

 駅前の歩道側に品川駅創業記念碑が立っている。碑の正面は駅側を向いて、裏面に当時の時刻表と賃金表が刻まれている。

 正面の文字は、

     明治五年五月七日

   品川駅創業記念碑

       品川横濱間鉄道開通

                 伴睦 書

 裏面の時刻表には、明治五年五月七日当時として

   上り(横浜発車 午前八字 と 午後四字  品川到着 午前八字三十五分 と 午後四字三十五分)

   下り(品川発車 午前九字 と 午後五字  横浜到着 午前九字三十五分 と 午後五字三十五分)

 賃金表には、

   上等  片道 壹円五拾銭

   中等  同   壹円

   下等  同      五拾銭

とあった。

【品川駅創業記念碑】

 品川駅では、明治5年5月7日(新暦6月12日)を駅の開業日にしています。何故かというと、新橋・品川間の工事が遅れたため、この日に品川・横浜間で仮開業したからです。新橋・横浜間で本営業を開始したのは仮開業から4箇月後の明治5年9月12日(新暦10月14日)でした。それを記念して、今日では10月14日を「鉄道の日」としています。品川駅は日本で一番古い鉄道の駅といえます。

 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年4月に建之されたもので、揮毫者は参議院議長をつとめた大野伴睦氏です。記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
     平成18年10月 JR東日本 品川駅


【八ツ山橋】 

 品川駅前からゆるやかな坂を上り、「八ツ山橋交差点」の左に架かる八ツ山橋を渡って品川宿に入って行くのであるが、交差点で信号を渡らずにすぐ左折して橋の左側を通って真直ぐ進むと、宿場通りから外れてしまうので交差点の信号を渡ってから橋の右側を行かなければならない。2002年の時は私も間違えて真直ぐ行ってしまった。

 橋の下はJR東海道線の線路、橋の上には京浜急行の線路が通っている。

 八ツ山橋を渡った右側の橋詰に、古い親柱が保存されており、その前には品川宿場散歩と題する説明文と地図が載った石碑が立っている(下の写真)

【品川宿場散歩】

 品川宿場散歩は、品川駅より浜川橋までの旧東海道を通る約3.9kmのみちのりです。品川宿場の面影が残る街並みを通り、周辺には新東京百景の品川神社、南品川宿の鎮守である荏原神社など、多くの神社仏閣が点在します。

【旧東海道と品川宿】 

 江戸と上方を結ぶ重要な交通路である東海道に宿場が始めて設置されたのは慶長6年(1601)のことです。全国的な交通網を整備しようとする徳川家康の計画によるものでした。すでに戦国時代から北品川と南品川の両宿があったのを江戸幕府が新しく設定しました。のちに北品川宿の北、高輪寄りに茶屋や旅籠屋が延びていき、享保7年(1722)には歩行新宿の成立をみるにいたり、この三宿を品川宿といいました。日本橋から京に至る東海道五十三次の第一番目の宿場として大変賑わったといいます。


【棒示杭】 (左側)
 八ツ山橋を渡るとカラー舗装道路になり、反対側には東屋と東海道品川宿まち歩きマップという案内板が立っている。ここから鈴ヶ森刑場跡迄の名所地図と写真が 掲げられているので大変参考になる。

 その先、京急の踏切手前左側には、背の高い棒示杭が立っている。

 正面に『従是南 品川宿 地内』、側面に『従是南 御代官築山茂左衛門支配所』と書かれている。

【品川宿】 江戸日本橋から2里(7.9Km)、 次の川崎宿迄2里半(9.8Km)、三条大橋ヘ123里33町(486.7Km)

 天保14年(1843)の人口6,890人、総家数1,561軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋93軒。

 

安藤広重の東海道五拾三次之内・品川『日之出』

品川の北の入口から品川湊方向を望んだ日の出時の風景を描いたもの。
 
品川宿碑(日本橋から二里)


【北品川宿】 

 京急の踏切を渡るとまず北品川宿(北品川商店街)に入って行く。

 品川宿内の道幅は、現在も江戸時代の頃とほぼ同じという。

2002年の町並

2013年の町並

 2002年に訪れた時にあった電柱は無くなり、道はカラー舗装となり町並は綺麗に変身していたが、各商店のシャッターは当時と同じように様々な浮世絵が描かれていた(新旧の町並写真を参照)

 宿内に入ってすぐ右側にお休み処(しながわ観光協会・観光案内所)「連」がある。

 ここに詳しい「東海道品川宿まち歩きマップ」を有料で売っているが、無料の「東海道品川宿なるほどマップ」でも充分参考になった。

 マップを見ると、街道周辺には一日では廻りきれない程の名所旧跡・神社仏閣が多数あり、私も二日かけて見て回った程である。

 お休み処の前にハツ山の説明板が立っていた。

【ハツ山(大日山) ハツ山橋付近】

 品川宿の最北端に位置する丘陵で、一名、大日山ともいいます。ハツ山の地名は、一説には八つの出洲があったので八ツ山といったと伝え、大日堂があったので大日山と呼んだといいます。崖の高さが二丈もあり、時々崩落があったため、この地の土は海辺の石垣普請など土木工事に利用され、一部は平坦な地になっています。


【問答河岸跡】 (左側)

 お休み処の斜め向かいの医院の脇に問答河岸跡の石碑が立っている。

 添えられた説明板は、文字通り板に書かれたもので、2002年にも存在していたかなり古いものなので、判読に苦労した。品川宿は良く整備されているのに、何故これだけ新しくしないのか不思議だった。 貴重な説明板なら、脇に現代文の説明板も立てて欲しかった。

【問答河岸由来記】

 寛永の昔 徳川三代家光将軍 勇壮活達の明君也 宗彭沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建つ 寺域五萬坪寺領五百石 殿閣僧房相連つて輪奐美を極む 将軍枉駕年間十数度法を聴き 政治を問う 厚遇思う可し 

 将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し 喫茶法話 薄暮に至って江戸城に還らんとす 禅師河畔に立って是れを送る

 将軍乗船に臨んで禅師に参聞して曰ク 海近くして如何が是れ東海寺と 禅師答而曰ク 大軍を指揮して将軍と言が如しと 将軍一笑 纜を解いて而て還る 時移りて三百年地勢亦変し河海遠し 然れ共市人傅えて問答河岸と称す

 一世の英主 一代の名僧 諧謔談笑の蹟 菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永亡芳を傅えんとす 亦可しからすや
     昭和四十三年仲秋 衆議院議員 宇都宮徳馬書
 要約すると、『東海寺を訪れた三代将軍家光が船に乗ろうとして見送りの沢庵和尚に問う「海近くして如何か是東海寺(遠海寺)」、沢庵答えて「大軍を指揮して将軍(小軍)というが如し」』


【土蔵相模跡】 (左側)

 「北品川郵便局」を過ぎた右への道が清水横町、次いで左側のコンビニ隣のマンション「NICハイム北品川」の前に土蔵相模跡の説明板が立っている。品川宿きっての妓楼であったとか。

【土蔵相模跡】

  旅籠屋を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので、「土蔵相模」と 呼ばれていました。1862年(文久二)品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作 や久坂玄端らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年十二月十二日夜半に焼き討ちを実行しました。幕末の歴史の舞台となったところです。


【台場横町】 (左側)

 土蔵相模跡から少し進んで、右へのやや太い道が大横町、その先左に入る道の角に台場横町の説明板が立っている。

【台場横町】

 1853年(嘉永六)ペリー率いる四隻のアメリカ艦隊が浦賀に来航した後、幕府は江戸防備のために、江川太郎左衛門の指揮で、品川沖に品川台場の築造に着手しました。当初計画は十一基でしたが、完成したのは五基で、他に陸続きの御殿山下台場(現在の品川区台場小学校)を完成させました。この御殿山下台場へ下っていく横町を台場横町と呼んでいます


【利田(かがた)神社】  (左奥)

 台場横町へ左折して広い道を横断すると利田神社があり、 神社左奥に富士山を模した鯨塚がある。

 2002年の時と塚は同じだが、周りの景色が変わっていた。前回は塚の前にモリやロープが置いてあって、柵も無く雰囲気が良かった。

 現在、塚の後ろは鯨の遊具が置かれた広い公園になっていた。利田神社の後ろが「台場小学校」。

【鯨碑】 品川区指定有形文化財(平成18年11月28日指定)

 この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(1798)五月一日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約16.5メートル)高さ六尺八寸(約2メートル)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには十一代将軍家斉(いえなり)が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。
 全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。
     平成十九年三月一日  品川区教育委員会


【品海公園】 (左側)

 利田神社から街道(旧東海道)に戻り、少し進むと、品川宿碑と品川宿の松が立っている品海公園に着く。

 品川宿碑には、「日本橋より二里」、「川崎宿へ二里半」と刻まれて、品川宿の説明板が立っている(上記【品川宿】の現在の写真参照)

【東海道品川宿】

 「東海道五十三次」といわれる江戸から京都間の五十三の宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町である。

 旅人は、品川宿を経由して西を目指し、また家路についたことから「東海道の玄関口」として栄え、宿内の家屋は1600軒、人口7000人規模で賑わっていた。 

 今でも品川宿周辺は、江戸時代と同じ道幅を保ち、かつての宿場町として、活気が息づいている。

【品川宿の松】

 この松は品海公園の改修工事竣工を記念し 品川宿で五本目の「街道松」として 品川宿の方々から寄付していただいたものです。
     平成十二年四月 品川区


【海岸石垣の名残】 (左奥)

 品海公園に沿って左の道を下るとすぐ左側に海岸石垣の名残が見られる。

 民家の土台になっている石垣で、海側は波で浸食された跡が見受けられる。

 江戸時代の東海道は、品川宿に入ると海にちかくなり、宿場通りから海岸の方へ行く横町は全て坂になっていました。

 昔の海岸線には護岸のための石垣が築かれていました。江戸時代には、ときどき波浪によってこの石垣が壊され、宿場にとって修理は大変な負担となりました。


【溜屋横丁】 (左側)

 品海公園先の左へ入る細道の入口に溜屋横丁の説明板が立っていた。

 法禅寺の前から海岸へ出る横町で、利田新地へ渡る鳥海橋(後の品海橋)に海岸線で通じる横町です。


【一心寺】 東海七福神の寿老人 (左側)

 溜屋横丁のすぐ先左側に一心寺がある。

 「成田山品川一心寺講事務所」の表札が掛る山門を入るとすぐ本堂という小さなお寺で、江戸三十三観音札所、また、寿老人を祀る東海七福神の一つでもある。

【一心寺之由緒】 

 安政二年(西暦1854年)日本開国之気運高まり国運の境目に接面し時、大老師にある井伊直弼公が縁起に依り、江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて、鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄安泰の願へとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に依って建立されたと伝えられております。

 当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、豊盛山延命院一心寺と云う寺格を拝受し成田山分身の不動明王を本尊とし、延命、商売の護りとして今日に続いております。

 昭和六十一年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺院に認定されしことは誠に意義深く、亦、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依るものと称せられており、内陣には両大師、中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光霊作観音像、寿老人等が祀られております。

※他の東海七福神

   布袋    :北品川の養願寺

   大黒天  :北品川の品川神社

   恵比寿  :北品川の荏原神社

   毘沙門天 :南品川の品川寺

   福禄寿  :南大井の天祖諏訪神社

   弁財天  :大森北の磐井神社


【品川宿本陣跡(聖蹟公園)】 (左側)

 一心寺の少し先左側に大きな柱が二本建っている聖蹟公園がある。

 この場所は本陣があった所で、左の柱の前には土山町から寄贈された松と本陣跡の説明板、一番手前には石柱が立っている。

 石柱の正面には「品川宿本陣跡」、側面には「右後 北馬場を経て新馬場駅北口」と刻まれている。

【品川宿本陣跡(聖蹟公園)】 

 江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところで、品川宿には初め南北品川宿に一軒ずつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。

 大名などが宿泊すると本陣には大名の名を記した関札をたて、紋の入った幕をめぐらしました。

 明治維新後、京都から江戸へ向った明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところです。

【土山町から寄贈された松】

 この松は旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、四十九番目の宿場があった滋賀県甲賀郡土山町より品川区に寄贈されたものです。

 今後、品川宿の松として三十年、五十年と地域の方々と共に育てていきたいと考えています。

 また、旧東海道の南「街道松の広場」には浜松市から、「南品川二丁目児童遊園」には三島市より、同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。


 ここから暫くの間、旧東海道を離れて、第一京浜国道(国道15号線)沿いに寄り道。


【品川神社】 東海七福神の大黒天  (第一京浜国道右側)

 聖蹟公園からすぐの国道357号線(山手通り)直前の道を右折して250m程行った第一京浜の「北品川三丁目信号」に出ると、対面に品川神社の鳥居と階段が見える。

 鳥居の手前左側に由緒が、右側には新東京百景の石柱が立っている。

 正面階段の途中で左側に建つ鳥居をくぐると富士塚への登山道になる。ミニ富士だが、一合目から九合目までの標柱も立っている。

 眺望の良い頂上広場の裏側から下りた所に富士塚の説明板が立っており、そのまま品川神社の本殿へ続く。

 本殿の右側から裏に廻り込み、更に進むと板垣退助の墓がある。

【品川神社御由緒】

 今からおよそハ百年程前の平安時代末期の文治三年(1187)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理之当スを当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。

 やがて鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊公が、「宇賀之売命(お稲荷様)」をさらに室町時代中期の文明十年(1478)に、太田道灌公が、「素盞鳴尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。慶長五年(1600)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当地へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就中のお礼として仮面(天下一嘗の面) 、神輿(葵神輿)などを奉納されました。

 また、寛永十四年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ「 御修覆所(神社の建物の再建・修復などは総て幕府が賄う)」となり、元禄七年(1694)・嘉永三年(1850)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護をうけました。
 時代は明治に移り、 同元年(1868)十一月には明治天皇様が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために当社を含んだ都内十の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願をされました。

 大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和三十九年(1964)氏子各位のご協力により現在の社殿が再建されました。

【品川神社富士塚】 品川区指定有形民俗文化財(昭和53年11月22日指定)

 富士塚は、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士山の遥拝場所として、あるいは実際に富士山への登山ができない講員のために造った築山である。
 品川神社の富士塚は、明治二年(1869)、北品川宿の丸嘉講社三百人によって造られた。神仏分離政策で一時破壊されたが、明治五年に再建し、大正十一年(1922)第一京浜国道建設の時現在地に移築された。
 江戸後期に盛んだった民間信仰を知る上で、たいせつな文化財である。

【品川神社富士塚山開き】 品川区指定無形民俗文化財(昭和61年3月14日指定)

 毎年七月一日に近い日曜日に、講員一同が白装束で浅間神社神前で「拝み」を行う。
 その後、はだしで富士塚に登り、山頂の遥拝所や小御嶽の祠でも「拝み」をして下山し、社殿に戻ってから平服に着替える。
 かつては盛んだった行事であるが、現在も行っている富士講は大変珍しい。
     平成二十三年三月三十一日 品川区教育委員会

 左の写真は、富士塚の裏側(品川神社本殿前)

【板垣退助墓】 品川区指定史跡(昭和53年11月 22日指定)

 板垣退助は、天保 八年(1837)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、討幕運動や戊辰戦争(1868)に参加して功績をあげた。明治七年(1874)に愛国公党を結成し、自由民権運動を起こした。 明治十四年(1881)に自由党を結成して総裁となり、近代日本政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者たちを感激させ湧かせた。明治二十九年(1896)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(1900)に政界を引退した。大正八年(1919)に亡くなり、この地に葬られた。

     平成七年三月三十一日 品川区教育委員会

 右側が板垣退助の墓。


【東海寺】 (第一京浜右奥)
 第一京浜に戻り、京急・新馬場駅前の「北品川二丁目交差点」を右折して190m程の左奥に沢庵和尚の寺・東海寺がある。

 東海寺は、初代住職の沢庵が第三代将軍徳川家光の信頼を受けた大寺であったが、明治になると衰退した。 漬物の「たくあん」が考案された地でもある。

【東海寺梵鐘】 品川区指定有形文化財(昭和53年11月22日指定)

 東海寺は寛永十五年(1638)に三代将軍徳川家光の信任をうけていた沢庵禅師のために、建立されたものである。

 本鐘は元禄五年(1692)住持天倫宗忽が撰文し、名工といわれた幕府の御用鋳物師である椎名伊予守良寛によって造られたものである。総高198センチメートル、口径106センチメートル、撞座は竜頭の側面方向に二か所、乳は乳の間ごとに縦横五箇ずつ配列されている。

     平成十二年三月三十一日 品川区教育委員会


【東海寺大山墓地】 (2002年に訪れた場所)  (第一京浜右奥)

 2002年の時は東海寺には寄らなかったが、この先の離れた所にある、東海寺大山墓地は訪れた。

 東海寺の先を左カーブするとJR東海道線のガードが現れるから、それをくぐる(東海禅寺入口から280m)。

 ここの墓地には、沢庵の墓(史跡)があり、丸長の自然石の墓石は漬物石を連想させる。

 更に墓地の奥(新幹線と東海道本線に挟まれた地)の東海道本線寄りに、江戸中期の国学者加茂真淵の墓(史跡)や井上勝の墓がある。

【沢庵墓】 史跡(大正15年10月20日指定)
 江戸時代初期の禅僧で名は宋彭、沢庵は号。
 但馬国(兵庫県)に生まれ幼少の頃出家して禅を学び各地を就業して信望を集め慶長十四年(1609)大徳寺の住持となった。寛永六年(1629)幕府の忌諱に触れることがあって出羽国上山(山形県)に追放された。四年後に許されてその後は第三将軍家光に重用され、寛永十年(1633)江戸品川東海禅師の開山に迎えられ晩年を送った。正保二年(1645)十二月没七十三才。
 書画、俳句にもすぐれ茶道に造形が深かった。
 その創案と言われる大根の香ずけは沢庵の名で知られている。
     東京都 

【井上勝墓】 初代鉄道頭(1843(天保14)年〜1910(明治3)年)
 ”鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩主の三男として生まれた。15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要線路の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓所として東海道本線と山手線(現在は新幹線も併走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。


【清光院】 (第一京浜右奥)

 第一京浜に戻り、目黒川に架かる東海橋を渡ったらすぐ川沿いの道を右折する。更に、突き当りを左折すると程なく左側に清光院がある。

 この寺の奥にある奥平家墓地に、高さ3mを越える巨大な五輪塔が何基も聳えているのは壮観である。

【奥平家墓域】 品川区指定史跡(昭和53年11月22日指定)

 周囲を瓦積みの土塀で囲み、入口には石門のある約五百五十平方メートルに及ぶこの地が奥平家歴代の墓域である。

 墓域には二代藩主奥平家昌以下各代にわたる八十九基の墓碑が配列されており、とくに家昌夫妻と姉雲松院の墓三基は三メートルを超える見事な五輪塔である。この墓域は都内でも数少なくなった大名墓地として、また十万石級譜代大名の墓地様式をよくとどめるものとして貴重である。

 奥平家は徳川家の譜代大名で、初代定昌は美濃において十万石を領した。その後、古河・宇都宮・山形・再度宇都宮に転封され、さらに九州豊前の中津藩主として幕末まで続いた大名である。

     平成十六年三月三十一日 品川区教育委員会


【本光寺】 (第一京浜 右側)
 第一京浜に戻るとすぐ右側に本光寺がある。

 この寺の境内には品川区で唯一の三重塔が建っている。

 また、この寺には、沢庵和尚が二人の高僧の禅問答に立ち会ったことを示す「品川問答の碑」があるとのことだったが、かなり捜しても見つける事が出来なかった。

 由緒ある黒松もどれかは分らなかった。


【願行寺(がんぎょうじ) (第一京浜左側) 

 本光寺を出て次の「南品川四丁目交差点」を渡って左折したすぐの所にある願行寺境内に、しばられ地蔵尊が安置されていて、地蔵尊の後ろには地蔵首が何体も置かれていた。

【願行寺】

 願行寺は、鎌倉光明寺八世長蓮社観誉祐崇(1426〜1509)によって開創されたが、行基菩薩が開基であるという伝説も残っている。寺伝によると、室町時代末の寛正三年(1462)頃、ひとりの念仏聖が品川の海辺に草庵を結んで 念仏を唱えていたが、その後、文明年間(1467〜87)末に、開山である観誉祐崇がその草庵を現在地に写して一字を建立したと伝えている。

【しばられ地蔵尊の由来】

 今から三百七年前の承応元年にこゝへお迎えされた「願行寺のしばられ地蔵」として新編武蔵風土記にも記されている。宝暦(二百十年前)から天保(百三十年前)へかけては松平土佐守奥方が代々帰依してお堂を修建した。

 地蔵菩薩の誓願は病や災難や貧に苦しむ者の身代わりとなって苦労を引き受けてやる(代受苦)を言うこと。だから自分はいつも縄でしばられて功徳は気の毒な人に分け与えておいでになる。願かけをする者はお首を一ツそっと持ち帰って毎日お題をして願いが叶ったらお首を二ツにしてお返しをする。

 心からお慈悲にすがる者には霊験あらたかであった数々の話が伝えられている。


【海蔵寺】 (第一京浜右側)

 「南品川四丁目交差点」に戻り、交差点を渡ったすぐ先の左側に海蔵寺がある(本光寺から来たら右折)。

 この寺の山門を入ってすぐ右手の稲荷社の横を入った奥に首塚と呼ばれる無縁塔群が建っている。

【海蔵寺無縁塔群(首塚)】 品川区指定史跡(昭和53年11月22日指定)

 山門を入って右手奥の塚は江戸時代、品川にあった溜牢(牢屋)でなくなった人々の遺骨を集めて、宝永五年(1708)に築かれたものです。鈴ヶ森刑場で処刑された人の遺骨の一部も埋葬され、 「首塚」と呼ばれるようになりました。また、この塚にお参りすると頭痛が治るということから、古くより「頭痛塚」とも呼ばれています。この塚には天保の大飢饉(1833〜39)で亡くなった二百十五人を祀る「二百十五人塚」合葬されています。

 このほか、当寺院には慶応元年(1865)に建立された「津波溺死者供養塔」や、大正四年(1915)の「京浜鉄道轢死者供養塔」などがあります。いずれも引き取り手のない死者や不慮の死をとげた者の霊を供養してきたため、本寺は俗に品川の「投込寺」と言われました。

     平成六年十月三十日 品川区教育委員会


【天龍寺のレンガ塀】 (第一京浜右奥)

 海蔵寺を出て次の変形十字路の右角に天龍寺があり、山門から真直ぐ続くレンガ塀が見られる。

 目黒川沿いのこのあたりは、日本の近代工業の発祥の地。当時は煉瓦造りの工場が多く、今でもその名残でレンガ塀があちこちで見られる。
     (お休み処で頂いた「東海道品川宿なるほどマップ」より)

【馬頭観世音】 (第一京浜右奥)

 天龍寺前の変形十字路を左折したすぐ左側に馬頭観世音が祀られている祠が建っている。
       


【高村智恵子記念詩碑(レモン哀歌の碑)】 (第一京浜右奥)

 馬頭観世音を後に、少し進んだ先右側の東関森稲荷神社あたりからゼームス坂と呼ばれる登り坂になる。

 更に、稲荷神社から5分程進んだ右側「ユニーバーサルドラックストアー」が建っている前の道(角に案内板が立っている)を右折して70m上がると、レモン哀歌の碑が右奥に建っている。黒いつや石に「レモン哀歌」と題して高村光太郎の詩が刻まれている。

 この日、整備作業していた為、碑の周りが雑然としていたのが残念だった。

【ゼームス坂】 (「東海道品川宿なるほどマップ」より)

 1925年前後に流行した銅版ぶきのファサードをもつ建物が今も数軒残っているエリア。坂の名前は、この地に住み品川を愛したイギリス人航海術士J.M.ゼームス(1839〜1908)に由来する。

【高村智恵子ゆかりの地 文学詩碑】 (「東海道品川宿なるほどマップ」より)

 美術家・高村智恵子(1886〜1938)が最後の日々を送ったゼームス坂病院があった場所。夫で彫刻家、詩人の高村光太郎(1883〜1956)が智恵子を詠った詩集「智恵子抄」は多くの日本人に親しまれている。この碑には、智恵子とレモンにまつわる詩が刻まれている。


 再び聖蹟公園前に戻り、国道357号線(山手通り)の「東海道北品川交差点」から旧東海道の旅を続ける。


【朝日楼跡】 (右側)

山手通りを渡ってすぐ左側に品川宿交流館本宿お休み処がある。その向いの冠木門が建つ場所が、往時旅籠屋だった朝日楼跡である。

 今までこの跡は駐車場だったが、ビジネスホテルを建てる計画があり、2013年6月現在調査中であった。完成予定は平成26年2月20日。

 冠木門はどうなるのだろう?

【旅籠「朝日楼」跡と冠木門】

 ここはかつて、旅籠「朝日楼」があった場所です。

 現在は所有者である大塚製作所のご厚意で、地域のおまつりなどにはイベントスペースとして開放していただいています。

 この度は「江戸東京・まちなみ情緒の回生」事業に伴い、品川宿のまち並景観整備にご協力いただきました。


【荏原神社】 東海七福神の恵比寿 (右側)

 お休み処を過ぎると、目黒川に架かる品川橋を渡るが、その右隣に架かる赤い橋のたもとにあるのが、南品川の氏神である荏原神社

 2002年に訪れた時(2月11日)は、丁度緋寒桜が満開でとても綺麗だったので、その時の写真を載せる(下の写真)

 毎年6月初旬に行われる、海に入って神輿をかつぐ海中渡御が有名。



【荏原神社神輿海中渡御】 品川区認定文化財

 毎年六月七日に行われる祭禮の一行事で、神輿を海中に入れもみあうものである。江戸時代に海中から出現した神面を年一回神輿につけて海中に入れ、ノリの豊作と魚貝類の豊漁を祈願したことに始まる。

 現在は、海岸が埋め立てられたため神輿を船にのせて海上に出て、浅瀬のきれいなところで、海中渡御を行っている。

     昭和四十七年三月十五日認定 東京都品川区教育委員会


【品川橋】

 品川橋に戻ると、渡る手前の左詰に橋の説明板が掲げられている。

 品川宿は、この橋を境に北品川宿と南品川宿に分かれていた。

【品川橋の今昔】

 この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。

 「品川橋」は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には「境橋」と呼ばれていました。また別に「行合橋」「中の橋」とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。

 「品川橋」がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。

     平成三年四月一日 品川区


【百足(むかで)河岸】 【浦高札場】 (左側)

 品川橋を渡りきる前、左側の橋の上に東屋がある。

 渡って左折するとすぐ橋詰に百足河岸の説明板が立っている。

【南品川宿河岸(俗に百足河岸)】 品川橋際の目黒川沿岸

 江戸時代、品川領の村々では、年貢米を目黒川や陸路をつかってこの河岸まで運び、幕府の浅草御殿に送っていました。

 この南品川宿河原のことを俗に百足河岸と呼んでいました。百足河岸と呼んだのは、南品川宿河岸のそばに百足屋という大きな旅籠屋があったからだといいます。

 更に左へ進んだ二股の左の道に浦高札場の説明板が立っている。

【浦高札場】 新品川橋南岸付近

 江戸時代、全国津々浦々に建てた高札を浦高札といい、品川浦の浦高札は南品川猟師町の入口、今の新品川橋南岸附近に設けられていました。もとは四枚掲げられていましたが、御城米船が難破したときの処置や心得を発したものと、抜荷買いを禁止する旨を記した浦高札の二枚が現在残っています。


【南品川宿】 

 品川橋を渡ると南品川の商店街に入って行くが、商店街入口左側に建つ「城南信用金庫」の角に是より南品川宿の説明板が立っている。

【東海道 品川宿】 是より南 南品川宿

 日本橋から東海道を上り、目黒川を渡ると南品川宿に入ります。

 この高札の場所は、脇本陣跡(現、城南信用金庫)で、百足屋(広瀬)浜兵衛が営んでいました。

 品川宿を南北にわけていた目黒川は、大正時代末頃まで大きく蛇行し、荏原神社の北側を流れていました。

 東海道から神社への道を天王横町といい、今の鳥居の向きから往時が推定できます。

 東海道を南に進み、先に見える信号の左角が継立業務等を行なう宿場の役所問屋場跡(現、製菓実験社)で、その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所も設けられました。
     品川宿場通り商会 城南信用金庫品川支店


【街道松の広場】 (右側)
 商店街を3分程進んだ右側に街道松の広場という公園があり、入口に浜松宿から寄贈された松が植えられている。

【品川宿の松】 

 この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、二十九番目の宿場があった静岡県浜松市の有賀慶吉氏より品川区に寄贈された樹齢約ハ十年の黒松です。

 斜めに傾いた幹は、風雨に耐えながら旅人を見守った当時の松並木を忍ばせる見事な枝ぶりです。

 松の名称は、寄贈された有賀氏より「品川宿の松」と命名されました。

 また、約百五十メートル南の「南品川二丁目児童遊園」には、三島市より同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。
     平成五年三月吉日 寄贈


【三岳】 (右側)

 右側「南品川一郵便局」を過ぎ、信号を渡って少し進んだ右側の「東洋鍼灸院」の壁に三岳の説明板が掲げられていた。

【三岳】

 現在、南品川二丁目の通称「三岳」と呼ばれているところは江戸時代には二日五日市村の集落のあった処で、三岳神社の近くであったことから、そのように呼ばれるようになったとされています。


【児童公園・街道松】 (右側)

 「東洋鍼灸院」のすぐ先に児童公園があり、その入口に三島宿から寄贈された小振りの松が植えられている。

 公園内には、趣のある木製燈籠や、奥に火の見櫓風の遊具があった。

 この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、十一番目の宿場があった静岡県三島市教育委員会より品川区に寄贈されたものです。

 今後、品川宿の松として三十年、五十年と地域の方々と共に育てていきたいと考えています。

 また、約百五十メートル北の「街道松の広場」には、浜松市より同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。
     平成五年三月吉日 寄贈


【袋井の松】 (左側)
 右側にある「品川のお閻魔様」として有名な長徳寺を過ぎ、「城南小学校」の校門向いにこちらも小振りな袋井の松が植えられている。

【袋井の松】

 この松は旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取りもつ縁で、二十七番目の宿場があった静岡県袋井宿高尾の村岡利夫様より私たちのまちに寄贈されたものです。また、この松の植樹にあたっては「サンクタス品川管理組合」の皆様のご理解とご尽力をいただきました。今後、品川宿の松として三十年、五十年と地域の方々と共に大切に育てていきたいと考えております。

 なお私たちのまちには、この他にも五つの宿場から同じ趣旨で寄贈された街道松が植えられています。
     平成十三年七月吉日 旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会


【天妙国寺】 (右側)
 袋井の松の斜め向かいに天妙国寺の門柱があり、参道を入ると赤い山門、その先に本堂が建っている。

 

 この寺の墓地には、浪曲の桃中軒雲右衛門、歌舞伎で有名な切られ与三郎とお富、剣豪・伊藤一刀斉などの墓があるとの事だが、広い墓地で標示もない為、見つける事は出来なかった。

 但し、本堂右手の墓地に入ってすぐの所に「浪曲聖地 桃中軒雲右衛門の墓 この墓内にあり」と刻まれた墓碑と石の釣鐘が置かれていた(下の写真)


【桃中軒雲右衛門の墓】 品川区指定史跡

 桃中軒雲右衛門は、明治・大正時代の浪花節(浪曲)の名手。前幕で覆った立ち机を前にしての口演、陰三味線という型を考案し、琵琶や清元の節調を加味した荘重豪快な節を創始した。また、はじめて台本を作成して内容を高めた。

 得意の演題は赤穂浪士の事跡「義士銘々伝」でレコードの普及とも相まって絶大な人気を博した。

 雲右衛門は寄席から劇場へと進出するなど浪曲界の黄金時代を築き、浪花節中興の祖といわれている。浪曲史上に偉大な足跡を残した人物である。

 雲右衛門は、明治六年(1873)十月二十五日に生まれ、大正五年(1916)十一月七日に四十三歳で亡くなり、この地に葬られた。
     品川区教育委員会 


【松岡畳店】 (右側)
 天妙国寺のすぐ先右側に歴史を重ねた松岡畳店がある。

 看板の文字も右から書かれている程古い畳屋である。

 畳職人の仕事場兼住宅で、低い二階建ての構造は、昔、海に近く浜風が強かった為、それを防ぐ知恵だったと云う。


【品川(ほんせん)寺】 東海七福神の毘沙門天 (右側)

 松岡畳店の先で、ジュネーブ平和通りを「南品川交差点」で渡ると程なく品川寺に着く。

 この少し手前の左側に保土ヶ谷の松」と新鮮組ゆかりの「旅籠屋釜屋跡」の説明板が立っているとのことだが見逃してしまった。

 品川寺の入口に江戸六地蔵の第一番が街道の安全を見守っている。

 地蔵の脇を通って奥に進み、品川寺の山門をくぐると、左手に洋行帰りの鐘、右手に大イチョウが聳えている。

 2002年には、地蔵菩薩と梵鐘の説明板があったが、2013年に訪れた時には探しても見当たらなかったので、2002年時の説明を載せておく。

 イチョウの説明は2013年のもの。

【銅造地蔵菩薩坐像】 東京都指定有形文化財(昭和45年8月指定) 江戸六地蔵第一番

 像の高さ2.75m。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得、江戸六地蔵第一番として、宝永五年(1708)に造立したものである。

 像の衲衣(のうえ)部をはじめ蓮辨、石基などに寄進者等の名を陰刻し、奉賛者がいかに多かったかがしのばれる。

 なお、江戸六地蔵は次のとおりである。

   東禅寺  台東区東浅草二丁目

   太宗寺  新宿区新新宿二丁目

   真性寺  豊島区巣鴨三丁目

   霊厳寺  江東区白河一丁目

   栄代寺  江東区=消滅

      昭和五十四年三月二十日建設 東京都教育委員会

【梵鐘】

 「洋行帰りの鐘」と呼ばれている、明暦三年(1657)鋳造の鐘。

 慶応三年(1867)パリ万博に出品されたのち行方不明となったが、スイスの博物館に収蔵されていたのが分かり、昭和 五年60年ぶりに返還される。

【品川寺のイチョウ】 品川区指定天然記念物(昭和53年2月14日指定)

 本樹は幹回り5.35メートル、樹高25メートル、推定樹齢約六百年という古木であるが、整然とした樹姿を見せ、その樹勢も極めて旺盛であり、幹や大枝からは、多くの乳が垂れている。

 本区内の数あるイチョウのなかでも、ひときわ目立つ存在であり、かなり離れた地点からも眺めることができ、壮観である。

 また約六百年という樹齢は、本寺が歴史の古い寺であることを実証するもののひとつである。

     平成十五年三月三十一日 品川区教育委員会


【海雲寺】 (右側)  (2002年に訪れた場所)

 品川寺のすぐ先右側に海雲寺がある。

 「江戸三十三観音霊場番外札所 千體荒神 海雲寺」の表札が掛る山門を入ると、奥に「品川の荒神さん」と呼ばれる「かまどの守護神」を祀る千躰荒神の社がある。海雲寺はその右隣りになる。

 千躰荒神殿には火消し纏(まとい)の格天井(ごうてんじょう)がすばらしい(下の写真参照)

 その他、橘右近・広沢虎造の納額、島崎楼奉納のガラス絵鶴の図など多数ある。

 また、海雲寺の境内には「正直者の平蔵」を供養した平蔵地蔵があるが見逃した 。

2002年撮影

【千躰荒神堂奉納扁額】 品川区指定有形民俗文化財

 千躰荒神王は火と水の神として、また台所の神としても有名である。堂内に懸けられている扁額は信徒の奉納によるものであり、全部で二十七面ある。文字額及び雌雄二鶏図が多く、格天井の中央に龍の図が、その周りに纏図が描かれている。文久元年(1861)作の雌雄二鶏図は、ガラスの上に彩色された貴重な資料であり、また、昭和十年に奉納された浪曲家廣澤虎造夫妻による文字額もある。
     品川区教育委員会


【品川千躰三宝荒神の由来】

 古くからお台所に荒神様をお祀りする習わしがございます。荒神様はお台所で一番大切な火と水をお守り下さる神様であります。 それでお台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされています。品川の千躰荒神は江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されてまいりました。今を去る三百余年前の島原の乱に鍋島甲斐守直澄公がお年十八才で出陣なさいましたが、肥後天草の荒神が原にありました荒神様にお詣でなり、必勝祈願なさって出陣なさいました所、甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現れ、その行動は荒神王の荒れさせ給うはかくやと思われるすさまじさで、流石の暴徒も敵し得ず鎮定しました。以後鍋島家ではこの尊像を守護なさいまして、東京都高輪二本榎木の別荘に遷座し、篤い信心のもとにお祀りしてありましたものを、因縁あって、昭和七年寅三月に当山に勧請し奉ったものであります。それからはあらゆる階層の人々の参詣も多くなり、ついに江戸年中行事の一つにもなり、この尊像を信仰する人々の受けました霊験利生は数えきれないものがあります。 


【旧仙台坂】 (第一京浜国道右側)

 旧東海道は、海雲寺から数分進んだ県道420号線を信号で渡るが、ここで寄り道。

 県道を右折して第一京浜国道の「南品川三丁目交差点」を渡ると上り坂になり、前方に車専用のトンネルが見える。

 この坂は仙台坂と呼ばれ、左角に説明標柱が立っている。

【旧仙台坂(くらやみ坂)】 

 江戸時代(1603〜1867)に、この坂の中程から上にかけて仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があったことから、東大井四丁目と南品川五丁目の間のこの坂は仙台坂と呼ばれていました。

 しかし、現在は青物横町に抜ける坂道が拡幅され交通量が増加したために、その坂の方を一般的には仙台坂と呼ぶようになり、こちらは旧仙台坂と言われるようになりました。


【泊船寺】 (第一京浜国道右側)

 旧仙台坂の標柱の後ろ(「南品川三丁目交差点」を渡ったすぐ左側)に泊船寺がある。

 松尾芭蕉とその弟子たちの座像があることで有名な寺だが、本堂は閉ざされ像を見ることは出来なかった。

 こじんまりとした寺だが、境内にはガラスケースで覆われた「芭蕉像安置」の石碑と、句碑が多数あった。


【越前鯖江藩間部家下屋敷跡】 (第一京浜国道 右奥)

 第一京浜国道を南下して「京浜急行鮫洲駅」前を右折すると大井公園がある。その公園入口右側に越前鯖江藩間部家下屋敷跡の説明板が立っている。

【旧・越前鯖江藩間部家下屋敷跡(元:陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡)】 東大井4丁目

 この地より高台に向う一帯には、越前国(現・福井県)間部下総守の下屋敷があった。

 もともとは、万治元年(1658)に仙台藩伊達家が麻布(現・港区)下屋敷を返上して、新たに大井村に拝領した下屋敷であった。この屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている。元文2年(1737)に、鯖江藩間部家大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換し、間部家の下屋敷となった。その後、一部は再び伊達家の所有となった。

 安政2年(1855)頃の鯖江藩主間部下総守詮勝(あきかつ)は5万石の家録があり、上屋敷は常盤橋御門内(現・千代田区大手町)にあった。

※上記大名屋敷の所有関係は、安政3年頃のもの

     品川区教育委員会


【山内豊信(容堂)の墓】 (第一京浜国道 右奥)

 大井公園入口前を左折し、突き当りの門を右に登った「立合小学校」と「大井公園」の間に幕末の四賢侯と呼ばれる山内容堂の墓がある。

 「贈是一位山内豊信公之墓」の他、「嶋津常侯之墓」、「山内豊範妻栄子之墓」、「山内家合祀之墓」等が並んでいる。

 公開時間は9:00〜17:00で、12月29日から1月3日までは見学できない。

【山内豊信(容堂)の墓】 品川区指定史跡(昭和53年11月23日指定)

 山内豊信は容堂と号した。文政十年(1827)に分家の山内豊著の長子として生まれ、嘉永元年(1848)に宗家を継いで第十五代の土佐国高知藩主となり、人材を登用して藩政の刷新に努めた。一方、国政についてもいろいろと論議し、策を建てて多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えた。

 進歩的で強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたが、文久二年(1862)に再び政治の場に復し、大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に力を尽くした。明治元年(1868)に維新後の新政府の内国事務総長となったが、翌年隠退し、明治五年に四十五歳の若さで亡くなった。遺言によって大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていた現地に葬られた。

     平成十一年三月三十一日 品川区教育委員会


【鮫洲八幡神社】 ( 旧東海道右奥・第一京浜国道左側)

 山内容堂の墓から第一京浜に戻り、鮫洲駅前の歩道橋を渡って、駅舎の下をくぐったすぐ右側に鮫洲八幡神社がある。

 神社のまえを真直ぐ進めばすぐ旧東海道に戻れる。

 八幡神社 の鳥居をくぐって正面本殿をお参り後、本殿左手の小さな鳥居をくぐると「富士浅間大神」が祀られている。更に、先に進むと亀が沢山棲んでいる池があり、池の右には「厳島神社」等の祠が建ち、池を左に回ると八幡神社由緒と鮫洲周辺案内図が立っている。

 案内図には地図と共に、来福寺・嶺雲寺・梶原稲荷神社・山内豊信(容堂)墓・海晏寺・品川寺の簡単な説明文が載っていた。

【鮫洲八幡神社】

 旧御林町(のち大井鮫洲町、現在は東大井一丁目、同二丁目の一部、同四丁目)の総鎮守です。

 創立の年代はさだかではないが、寛文の頃(1661〜1672)には、すでにあったとされています。境内には漁師町の鎮守らしく漁業関係者が寄進した灯籠や狛犬があります。

 祭神には、誉田別尊、気長足姫尊、並びに昭和四年ハ月十四日に合祀された白山神社の伊弉諾尊、伊弉冉尊が祀られています。

 また、境内には稲荷神社(通称 出世稲荷社 御祭神 宇迦之御魂命)、厳島神社(通称 弁天社 御祭神 市杵島姫命 鮫祠)、漁呉玉神社(通称 水神社 御祭神 綿津見神)の末社も鎮座しています。

【御林浦(漁師町)】 

 江戸時代、東京湾を臨む品川には、品川浦と御林浦の二つの漁村があり、江戸城御用の鮮魚を納める御菜肴八ヵ浦の一つとして発展しました。この御林浦は、南品川と北浜川の間(東大井一丁目、二丁目の一部)の漁村をいいました。ここでの漁獲物の多くは、芝金杉や本芝(港区)の魚問屋で売りさばかれていました。また、海苔の養殖採取も盛んでした。海岸の埋め立てが進み、昭和37年(1962)の漁業補償協定の成立で、江戸前漁業の終わりをむかえました。

【鮫洲の地名のおこり】 

 鮫洲はサミズともいわれ、地名の起こりは、

(1)「サミズ」は砂水と書き、海岸が干潟になった時、砂の中から清水が出てくることから、この名になったという。

(2)海晏寺伝に「建長3年品川の海上に大鮫が死んで浮きでたのを漁師が腹を裂いたところ、腹中から木造の観音像が出現し、人々に不思議な恩をさずけた」ということから門前を鮫洲と呼んだという。

(3)この浜辺に鮫があがったことがあるので鮫洲となったという。

  などの説があります。



2回目の旅終了

 2002年:京浜急行「鮫洲駅」より帰宅

 2013年:鮫洲八幡神社で区切りとする

 今回の記録:街道のみの距離は、4.7Km(都営地下鉄・三田駅前〜鮫洲駅入口)
         日本橋から、ニ里十七町(9.7Km)

           寄り道を含めた実歩行距離は、 2日で14.2Km(三田駅〜鮫洲駅) 総計24.5Km


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