川崎宿(前半) (鮫洲駅 → 京急川崎駅) <旧東海道3回目>
2002年3月16日(土) 晴時々曇り
二人旅。(京浜急行「鮫洲駅」〜京急「川崎駅」)
2013年5月21日(火) 曇のち晴
京急「鮫洲駅」(13:40)から「京急蒲田駅」(15:45)までを再度歩く(一人旅)。
2013年5月24日(金) 晴
「京急蒲田駅」(10:00)から「川崎駅」入口(13:10)までの一人旅。
(注1:文中で街道の左側、右側とは京都に向っての左右)
(注2:このページでは、三回分をまとめた形で編集する為、途中経過時間は省略)
【嶺雲寺】 (右側) 鮫洲駅入口から約10分
旧東海道を南下して信号のある交差点を過ぎて、軽く枡形にカーブしたすぐ先右側に嶺雲寺があり、本堂が奥に見える。
このお寺には『浜川のえんま様』と親しまれる閻魔堂があるが、見ることは出来なかった。
【吉田屋】 (右側)
嶺雲寺のすぐ先に、創業安政三年(1856)というそば処吉田屋がある。店は新しくなっているが、駐車場入口に江戸道と刻まれた石碑が建っていた。矢印は人差し指の形をしていたので新しいものだろう。
【勝島運河 花海道】 (左奥)
吉田屋から3分ほど進んだ右側に「二十番 花海道入口 後 勝島運河 花海道」と刻まれた石標が立っているので、そこを左折するとすぐ、船だまりがある勝島運河に出る。
土手の手前右側には「新浜川公園」があり、トイレもある。 勝島運河の護岸は、近隣の商店街が中心となって花畑を作っているので、特に春は桜や菜の花できれいな遊歩道となっている。 |
【土佐藩・浜川砲台跡・屋敷跡】 (左奥)
「新浜川公園」から旧東海道に戻らずに、そのまま勝島運河に沿って進むと、すぐ立会川にぶつかり、道は右に曲がってゆく。
その曲がり角に土佐藩・砲台跡の説明版が立っていて、足元に数個の石が置かれていた。
また、その後の倉庫には帆船と坂本龍馬が描かれていた。
【土佐藩・鮫洲抱屋敷跡 土佐藩・浜川砲台跡】 浜川橋のたもとから立会川が海にそそぐところまでが、土佐藩抱屋敷であった。幕府への「指出」によると八六九坪が抱屋敷の広さである。(抱とは拝領と異なり買入れ、借用していたものである。) ここは土佐から送られて来る物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に上げていた。 ペリー来航の嘉永六年(1853)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府に提出し許可を得て、翌年、砲台を造った。浜川砲台といわれた。 砂浜のやわらかい土地を、石、土砂で埋め立て、二三〇〇坪に拡大させている。砲台は八門を設置していた。警備陣は品川下屋敷を宿所としてこの砲台に配置されていた。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ、連絡路は現在の立会川商店街の道路であり、その距離、約二百メートルである。 若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっており、この道を毎日歩いていた。 |
【浜川橋(涙橋)】
土佐藩・砲台跡から旧東海道に戻ると立会川に架かる浜川橋に出る。
【浜川橋】 立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。 この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。現在の橋は、昭和九年(1934)に架け替えられたものです。
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【坂本龍馬像】 (右奥)
品川宿から来て浜川橋を渡る一本手前の道を右折すると「立会川駅」に着くが、駅の手前の仲町稲荷入口に坂本龍馬の像が建っている。
【立会川 二十歳の龍馬像】 嘉永6年(1853)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬(1835−1867)は土佐品川下屋敷近くにあった浜川砲台の警護にあたります。 当地は後に海運貿易の亀山社中の設立・薩長同盟などの斡旋など、近代を切り拓いた龍馬が志を立てたゆかりの地と言えます。 地元有志、品川龍馬会の人々のはたらきで、桂浜にあるものと同じ姿の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、近頃の時代の閉塞感とあいまって、龍馬の事跡に思いを致す人々の、ブロンズ像であればとの強い願いを受けて、東京京浜ロータリークラブは関係者と密に語らい議って、二十歳の龍馬像としてここに建立したものです。 なお、この像には、平成11年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。 平成22年11月15日 |
【浜川神社】 (右側)
浜川橋を渡り、大通りを横断すると左側に「しながわ区民公園入口」が現れる。寄ることはしなかったが、広い公園の左奥には「大井競馬場」が、南端には「しながわ水族館」がある。
公園入口を過ぎ、左手「鈴ケ森中学校」の向かいに厄神 濱川神社と刻まれた石柱と「浜川神社文書」の説明板が立っていたが、一般民家と同じ門扉と上への階段があるだけで近くに神社が見当たらない。
あたりをキョロキョロしたところ中学校よりの歩道から見上げたら鳥居の上部と千木が見えた。門が閉ざされていたので、入っていいものか分からず素通りした。
ケ | 【浜川神社文書】 品川区指定有形文化財(平成14年2月26日指定) 浜川神社は、江戸時代・天明の頃に、修験者・教光院了善が厄神大権現として祀ったことに始まる。明治維新後、神社となり浜川神社と称した。 厄神の信徒は上総・安房にも及び現在に至っている。 浜川神社文書は、前身である厄神社(厄神大権現)および浜川神社に関する文書と証文類で構成されている。保存状態もよく、大井地区の歴史だけでなく、江戸時代から近代に至る神社史を知る上でも貴重な資料である。 平成十四年三月三十一日 品川区教育委員会 |
【鈴ヶ森刑場跡】 (右側)
浜川神社のすぐ先、第一京浜国道(国道15号線)と合流する三角地に鈴ヶ森刑場跡がある。
往時はもっと広い場所(74m×16.2m)だったが、現在は樹木に覆われた狭い場所に「火炙台」、「磔石」、「鯉塚」、「髭題目を刻んだ石碑」、「鈴ヶ森刑場受刑者之墓」、「鈴ヶ森遺跡碑」、説明板等が並んでいる。
北側の隣接地には大経寺が建っている。
下の写真で、火炙台は、真ん中に穴があいている丸い石。
この写真の左隣には磔石という同じく真ん中に穴があいている四角い石が置かれている。
火炙台 髭題目碑 |
【鈴ヶ森遺跡】 東京指定旧跡(昭和29年11月3日史跡指定、昭和30年3月28日旧跡指定) 鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安四年(1651)に開設された御仕置場の跡です。大井村鈴ヶ森の刑場は、東海道に面し、規模は元禄八年(1695)実施の検地では間口四〇間、奥行九間であったとされます。東海道(現在は第一京浜)の拡幅等により旧態を留めていません。大経寺は御仕置場に隣接し処刑者の供養のために建てられた寺で、髭題目を刻んだ石碑は池上本門寺二五世管主日(にちぎ)の筆によるもので、元禄十一年(1698)若しくは元文六年(1741)の建立とされます。 この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされます。江戸の刑制史上重要な遺跡です。 平成二四年三月 建設 東京都教育委員会 【火炙台】 八百屋お七を初め火炙の処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された 真中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ縛り付けて処刑されたのである 鈴ヶ森史跡保存会 【磔台】 丸橋中弥を初め罪人がこの台の上で処刑された 真中の穴に丈余の角材が建てられその上部に縛りつけて刺殺したのである 鈴ヶ森史跡保存会 |
【磐井の井戸】 (右側) 「鈴ケ森刑場跡」から約13分
鈴ケ森刑場跡から第一京浜国道に合流し、「しながわ水族館」最寄駅である京急「大森海岸駅」前を過ぎた右側磐井神社前の車道側に磐井の井戸が残っている。
【磐井の井戸】 大田区文化財 当社社名の由来となったこの井戸、「磐井」と呼ばれる古井で、東海道往来の旅人に利用され、霊水又は、薬水と称されて古来有名である。 この位置はもと神社の境内であったが、国道の拡幅により、境域がせばめられたため、社前歩道上に遺存されることになった。 土地の人々は、この井戸水を飲むと、心正しければ清水、心邪ならば塩水、という伝説を昔から伝えている。 昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会 |
【磐井神社】 東海七福神の弁財天 (右側)
本殿の右奥に江戸文人石碑群がある。
【磐井神社】 大田区文化財
式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社である。『三代実録』によれば、貞観元年(859)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また平安時代(十世紀)に編纂された『延喜式』の神名帳に記載されている。
別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、 当社の由緒書によれば、江戸時代には、徳川家の将軍も参詣したことが記されている。
万葉集の「草陰の新藺の崎の笠島を 見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、ここの笠島弁天を指したものという説もある。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会
【鈴石・烏石(非公開)と江戸文人石碑群】 大田区文化財 鈴石は、社伝によれば、延暦年間(782〜806)に武蔵国の国司であった石川氏が奉納した神巧皇后ゆかりの石とされる。これを打つと鈴のような音がしたことから、「鈴ケ森」の地名の由来となったと伝えられる。 また烏石は、烏の模様が浮き出た自然石で、江戸時代の書家、松下烏石(?〜1779)が寄進した。鈴石・烏石は、ともに屋内に保管されている。 江戸文人石碑群は、この烏石の寄進の由来を記した烏石碑をはじめ、松下烏石の門人等が建立寄進したもので、向かって右から次のように並んでいる。 狸 筆 塚 文化六年(1809) ○ (=退 )筆 塚 天明六年(1786) 竹岡先生書学碑 寛政八年(1796) 烏 石 碑 元文六年(1741) これらは、かつて弁天池周辺にあったが、神社の境内整備に伴って現在地に移された。 昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会 |
【美原通り】
「平和島口交差点」を過ぎた次の信号の左側にあるガソリンスタンドの所から、左へ真っ直ぐ伸びる細い道である三原通りに入るのが旧東海道。 赤レンガ敷きの「三ハラ通り商店街」には上部が磨かれた石の椅子が点々と置かれており、ちょっとした休憩が出来るのが嬉しい。 左の写真で街路樹の下に置かれているのが石の椅子。 旧道に入ってすぐ右側「おこのみ焼・まんまる」の前に美原通りの説明板が立っている。 【美原(三原)通り】 (右側) 東海道の名残である美原(三原)通りは、旧大森村の小字である北原・中原・南原を通る事から「三原」と呼ばれ、現在は「美原」と美称されている。江戸時代のこの付近は品川宿と川崎宿の中程に位置し、旅人の休憩のため設けられた「間の宿」としにぎわっていた。 |
すぐ先左側が「大森スポーツセンター」で、「焼鳥・美福」の前に魚市場跡の説明板。
【魚市場(現大森スポーツセンター)】 (左側)
平成元年(1989)に、現在の大田市場に移る迄、この地に大森魚市場があった。明治13年(1930)この地に移転。その頃より江戸前の魚貝類ばかりでなく、列車、自動車、船などで静岡や千葉などから運ばれてくる水産物も取引されるようになった。
次いで左側の「海苔問屋・川島屋」の前に貸しボート屋と馬頭観音の説明板が二つ並んで立っている。
【貸しボート屋】 (左側) 魚市場(現大森スポーツセンター)の南側に、昭和40年頃まで入江があり、(川島海苔店経営の)ボート乗り場があった。そこには多数のボートが係留されており、行楽客が海辺へ漕ぎ出してボート遊びを楽しんでいた。 【馬頭観音】 (左側) 不入斗(いりやまず)(現在の大森北)にあった馬力屋が、大正時代に火災にあい、馬が焼死した。その供養のために祀られた馬頭観音である。戦後の昭和20年代に、現在地へ移されている。 |
その向かいに美原不動尊。すぐ先左側に汐湯の説明板。
【汐湯(海水湯)】
北原のこの辺りに、「海水の湯」という屋号のお風呂屋があった。
海から直接海水を取り入れて沸かす汐湯(海水湯)で、海水と井戸水を1対2の割合で混ぜて沸かしたものだったといわれる。
汐湯の向いに親不孝横丁の説明板。
【親不孝横丁】 (右側)
美原通り繁栄の思い出に、北原の「親不孝横丁」がある。
「海の湯」の向い側から国道に抜ける小道で、カフェーやバーなどが軒を連ねていたという。
すぐ先左側に繁華街・美原通りの説明板。
【繁華街・美原通り】 (左側)
太平洋戦争前の美原通りは、方々から人の集まる盛り場でもあった。
大森日活(映画館・旧豊年館)、大森劇場(芝居小屋)、福寿亭(寄席)などがあり、夜店も立ち並び活気にあふれていた。
続いて、右側「石川歯科クリニック」前に和中散の売店の説明板。
【和中散の売店】 (右側)
江戸時代から、大森名産として「海苔」「麦わら細工」とともに、「大森和中散」(旅人の道中常備薬)が有名であった。東海道大森に和中散売薬所は3軒あり、中原にあった店は江戸に最も近く、宝永年間(1704〜11)から昭和十一年(1936)頃まで販売していた。
和中散の説明板から2分程進んだ右側に中兵の氷の説明板が立っている。
【中兵の氷】 (右側)
中兵の氷は有名だった。氷の貫目売りのほか、人気のあったのは、かき氷であった。10cm×30cm(約一貫目)の氷を大きなカンナで削る。目が荒く口の中に入れても、なかなか溶けないかき氷で、あずき、砂糖水をかけただけの”水(すい)”、イチゴやメロン等の味のものもあった。
「環七美原通り交差点」を渡った右側に中原と南原の境の説明板が立っている。
【中原と南原の境】 (右側)
東海道の名残である美原(三原)通りは、旧大森村の小字である北原・中原・南原の「三原」を通ることから名付けられた。その中原(中町)と南原(南町)の境界は、このあたりである。
【内川橋】
環七通りから5分位で内川に架かる赤い内川橋に着く。
橋を渡る手前右側に内川案内板、左側に旧東海道の説明板が立っている。
【内川のあらまし】 かつて内川は山王や駒込・池上の沼の水や湧水を集めて流れる全長5Kmほどの川で、 六郷用水と合わせて低地の農業用水として使われていました。 また、水道が引かれるまでは飲み水としても貴重な水源となっていました。 自然も豊かで、コイ・フナ・ナマズといった魚や、トンボやコガネムシなどの昆虫、 川岸にはイチジクなどもあり、子どもたちの遊び場としても人気の高い場所でした。大正6年以降、新田橋から内川橋まで現在のように直線に改修されてからは、 川幅が広げられ川底も深くなり海苔舟が行き来できる川となりました。 現在内川は大田区の北部大森地区を西から東にまっすぐ流れ、平和島運河に注ぐ流域面積3.25Km2、延長1.55Kmの二級河川です。東海道線より下流が法定河川区間となっており、その上流は下水道幹線として整備されています。 また、河口部には高潮対策として防潮水門と排水機場が設置されています。 近年下水道の普及や水質浄化に伴い、ボラやサッバといった魚や、カニなども見られるようになり、また、河口には水鳥の集る干潟が残るなど、今でも人や水辺の生物にとっての身近な自然空間として重要な役割を担っています。 「わたしたちの内川」より |
【旧東海道(美原通り)】 大田区文化財
東海道は、江戸時代初期に幕府が整備した、江戸日本橋を出発点とする五街道の一つで、江戸と京都を結ぶ、最も重要な交通路であった。参勤交代の大名行列のほか、一般の旅人にも大いに利用された。
昭和二年(1927)、東海道は拡幅改修され、第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのは、この美浜通りと六郷地区の一部だけとなった。
旧東海道は、かつて三原通りと言われた。三原とは、字名の南原、中原、北原の三原のことで、美称して美原になった。
歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」(鶴屋南北作)で有名な旅籠「駿河屋」のあった「するがや通り」は内川橋の際から分かれる。
昭和五十一年二月二十五日指定 大田区教育委員会
【するがや通り】
内川橋を渡ってすぐ左側にするがや通りの説明板が立っている。
【するがや通り(羽田道)】
するがや通りは、内川のたもとに旅籠駿河屋がったことから名付けられた。東海道の内川橋際から分岐し、羽田弁天や川崎大師の参詣道だったことから羽田道、江戸道などと呼ばれる。羽田の魚貝や糀谷の玉ねぎ等の産物を運ぶ道でもあった。
【梅屋敷公園】 (右側)
内川橋から170mで、「第一京浜国道」と羽田方面に向かう「産業道路(国道131号線)」の分岐点である「大森警察署前交差点」に出る。旧東海道は右の「第一京浜国道」を進む。
「大森警察署前交差点」から京急の「大森町駅」と「梅屋敷駅」を右横に見て20分進んだ右側に、大田区立・聖蹟蒲田梅屋敷公園がある。
小川も流れる緑豊かな公園で、園内には復元された里程標が立っていて「距日本橋三里十八町」(13.7Km)と刻まれている。
【梅屋敷の由来】 梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(1818〜1829)に、梅の木数百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています。当時は、後の十二代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、 とくに梅の開花期には非常なにぎわいを見せたようでした。 大田区 |
【梅屋敷と和中散売薬所跡】 大田区文化財
「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(1688〜1716)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。
このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。
文政年間(1818〜1830)の初め、忠左衛門の子久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。
亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会
【明治天皇と梅屋敷】 (2013年には見つからなかったが、2002年に訪れた時にあった説明板)
梅屋敷は、明治元年(1868)から明治三十年(1897)の間に明治天皇の九度行幸がありました。
天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、明治六年(1873) 三月六日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、この梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたといわれています。その後、昭和八年(1933)に史跡として保存指定を受け、昭和十三年(1938)に東京市へ寄付され、現在に至っています。
昭和六十三年 大田区土木部
【里程標(復元)】 昔、梅屋敷山本家の門の傍に自然石の里程標の石碑がありました。その高さは1mほどでその表面には、 木戸孝允、伊東博文らが梅屋敷で新年会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後里程標は姿を消しましたが、資料をもとに復元しました。 大田区 |
【六郷神社】 日本橋から四里(15.7Km) (左側)
梅屋敷公園から数分進んだ呑川に架かる夫婦橋を渡れば「京急蒲田駅」。
以前は国道上に空港線の踏切があって渋滞していたが、今は高架になったのでスムーズに進むことが出来るようになった。
「京急蒲田駅」から第一京浜国道をひたすら歩いて30分強、左側に六郷神社の東海道沿いに建つ鳥居が見え、神社への脇参道が続いている。鳥居の手前右側には大きな由緒と江戸名所図会が掲げられており、左側には東海道跡の標柱が立っている。
正式な神社への参道は、この一つ先の道を左折して少し入った所にあり、先ず、梶原景時寄進と云われる太鼓橋が、次いで鳥居、その後に神門、手水舎があり、真っ直ぐ奥に本殿が建っている。
六郷神社の狛犬は社殿前に無くて、神門をくぐった社殿手前を脇参道の方に少し向かった所に鎮座している。
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【六郷神社由緒】 社紀によれば、源頼義、義家親子が、天喜五年(1057)この地の大杉に源氏の白幡を掲げて軍勢をつのり、岩清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いにふるい、前九年の役に勝利をおさめたので、その分霊を勧請したのが、六郷神社の創建とされています。 文治五年(1189)源頼朝もまた奥州制定のみぎり、祖先の吉例にならって戦勝を祈り、建久二年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。今なお境内に残る大きな手水石は、このとき頼朝が奉納したものであり、神門前の太鼓橋は景時の寄進と伝えられます。 天正十九年(1591)十一月、徳川家康は十八石の朱印地を寄進し、慶長五年( 1600)六郷大橋の竣工に際しては、神威をたたえて祝文をたてまつり、当社の神輿をもって渡初式を挙げました。また、鷹狩りの途中にもしばしば参詣したと史書にみえます。当社が巴紋とともに葵紋を用いている所以で す。 江戸時代には六郷八幡宮とも呼ばれていましたが、明治五年(1872) に東京府郷社に列し、同九年より六郷神社と改称して今日に至っています。 なお当社には、毎年一月七日に行われる流鏑馬(東京都無形民俗文化財)と六月の祭礼時に少年少女が奉仕する獅子舞が伝承されています。 |
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2002年はあらゆる花が記録的に早く咲き、六郷神社を訪れたときは桜と桃の競演が見られ、この時期に訪れる事が出来て幸運だった。 特に本殿の脇に植えられている一本の桃の木が、赤・白・ピンク・絞りに咲き分けて、とても綺麗だった。 左の写真は2002年3月16日に撮影した桃の木。 |
【旧東海道跡碑】 (右側)
六郷神社の脇参道から第一京浜国道に出た所で、国道へ行かずに左の側道を行くのが旧東海道。第一京浜は六郷橋に向かって徐々に高くなってゆく。
側道に入って3分位進んだ右側に旧東海道跡と刻まれた石柱が立っている。
左側面には「六郷の渡し跡へ」と刻まれていた。 この旧道は、上記六郷神社の『江戸名所図会』の解説に載っている様に、江戸時代の幅員を比較的よく残している道との事。 |
【観乗寺】 (左側)
旧東海道跡碑のすぐ先にある観乗寺は、普段なら何の変哲もない寺だが、2002年に訪れた時は、枝垂桜がとても綺麗だった。
左の写真が2002年3月16日に撮影した枝垂桜 |
【宮本台緑地】 (右奥)
観乗寺を過ぎ、次の「六郷土手交差点」を右折して第一京浜の高架をくぐると、反対側に宮本台緑地(丸い公園)があり、そのまま進めばすぐ京急「六郷土手駅」に至る。
宮本緑地内には、六郷橋のおいたちや渡し場をめぐる歴史の散歩道(各渡し場を明記した多摩川の地図と渡し場跡)と題する説明板があり、旧六郷橋の橋門と親柱が当時の姿のまま保存されている(下記写真参照)。
【六郷橋のおいたち】 貞享五年(1688)の大洪水で橋が流失してから、江戸の玄関口である東海道を横ぎる多摩川は、もっぱら渡船によって交通していた。 八幡塚村名主鈴木左内は、幕末から明治初年にかけての交通量の増加を目前に見て、明治七年、左内橋(木造橋)を架橋した。 しかし、木造橋では、破損のたびごとに幹線道路が、渡船に頼るという時代逆行をまねき、その上、自動車の発達もともなって、強度上からもその近代化が急がれた。 木造橋の鉄橋への架け換え計画は大正三年にはじまったが、大正九年、東京府と神奈川県で工費を相互に負担することで、着工のはこびとなった。大正十四年に開通した橋は、タイドアーチ式の近代的なもので、その長さ四四六メートル、幅十六・四メートルにおよぶ長大橋であった。 しかし、交通量の激増、車輌の重量化に対応できなくなり、昭和六十年、新六郷橋が架橋された。 この緑地には、旧橋の橋門と親柱を当時の姿のまま保存している。 |
【六郷の渡し】
徳川家康が征夷大将軍に任ぜられる前の慶長五年(1600)に、東海道の多摩川に橋が架けられた。その後何回かの補修や、洪水により流失すると、以後は架橋することなく渡船場が設けられ、船で川を往来するようになった。
最初は江戸町人が請負っていたものが、元禄四年(1691)からは今の大田区の八幡塚村の請負いとなり、人が六文、本馬が十五文、軽尻が十文と渡船料を徴収した。
【矢口の渡し】
新田義興の憤死した矢口の渡しは、「太平記」によって人々の知るところであるが、平賀源内(1729−79)作の浄瑠璃「神霊矢口渡」が歌舞伎で上演されて、いっそう一般に知られるようになった。その当時の矢口の渡しはどのあたりであったろうか。
中世の頃の渡し場は現在の新田神社のあたりではないかと考えられ、その後川筋の変化に従って現在の矢口の渡し跡の場所に移動したものと推定される。
戦前の渡しは、大人二銭、自転車五銭位で利用されていたが、昭和二十四年多摩川大橋の完成をみて、渡しはその使命を終えた。
【丸子の渡し】
江戸と相模を結ぶ主要な街道の一つに中原街道があった。この道は調布清掃事務所の近くで多摩川を渡船で川崎側と連絡していた。
明治十三年(1880)下沼部村戸長の文書によると、その渡船賃は次のようであった。
男女供一人金五厘・牛馬一疋八厘但口取を除く・人力車一輪七厘但空車・大車一銭五厘挽夫を除く・ 小車八厘但挽夫を除く・馬車六銭・諸荷物二人持六銭・以上一個一銭、
但水嵩一尺毎に、歩行人力車共三厘宛増・馬五厘増・荷馬一疋七厘・荷車八厘、 水深三尺に満水は馬・荷車・荷馬の通行を禁ず。 五尺に満水は歩行人力車共通船を禁ず。
【北野天神】(止め天神) (右奥)
宮本台緑地の向かいに通称止め天神と言われる北野天神があるが、緑地からは横断歩道も無く、天神側には柵があって直接いけない為、一旦第一京浜の高架をくぐって旧東海道側に戻り、多摩川土手手前まで進んでから土手下の細道を再び右折して行かなければならない。
鳥居の右手前に「止め天神」と刻まれた石柱や「六郷の渡し・日本橋へ四里半」と書かれた木柱が立っている。
また、その右手には六郷の渡し跡と題する説明板も立っている。
参道途中左側には「天神様の細道・通りゃんせ通りゃんせ」と書かれた木柱が立っていて、社殿手前まで細道が続いている。その木柱の後ろに落馬止め天神の碑があり、由来が刻まれていた。
更に、参道右側には千年石・万年石と刻まれた二つの丸い石があり、その由来もあった。
【落馬止め天神 由来】 此処からほど近い旧東海道の一角に土地の古老達が"柳生様"と呼んでいたところがあります。 八代将軍吉宗公の御乗馬が暴走してあわやと云う時に将軍の"落馬を止めた"北野天神の御加護にあやかったものと云われています。 昔から馬の乗り方を"天神乗り"と云うように天神様は乗馬の師でもありました。 馬術の基である馬のために馬屋を此処においた柳生家の心情がうかがわれます。 将軍の"落馬を止めた"天神様の評判は東海道を行き来する旅人達に依り遠くまで広がり、大名や武士は"落馬止め天神"と呼び文武の拠り所としました。然し近郷の村人や町人は敢えて落馬という呼び名をはぶいて"止め天神"と呼ぶようになりました。 人の身にふりかかる悪い事を一切"止め"て下さる天神様として、昔から 今日まで多くの人に崇敬されております。 昭和六十年五月吉日 文責吉崎武守 |
【千年石・万年石 由来】
江戸時代、天神さんの祭りの時、氏子が力自慢のため、かついだりかかえた力石を村人が相談の上、 自分達の一生が達者で働けるようにと願い、千年石を鶴さん、万年石を亀さんと名づけ、老若男女にそれは親しまれました。天神さんの縁日にはその鶴亀の力石をお互いになで合い、御利やくにすがりました。
"ボケ"ないですこやかな生涯を長寿でまっとうしたい人は、鶴さん(千年石)亀さん(万年石)の力石にやさしく手をふれて下さい。
平成三年十月廿五日 文責吉崎武守
【六郷の渡し跡】 大田区文化財
「六郷の渡し」は、旧東海道における八幡塚村と川崎宿間の渡しで、 江戸の玄関口の渡し場として、交通上極めて重要であった。
架橋の記録は永禄年間(1558−69)慶長年間(1596−1614)がある。その後貞享五年(1688)洪水により流失してからは橋をかけず、渡船によって交通が行なわれた。
渡しのようすは広重の錦絵や地誌叢書類によって知ることができる。
明治七年(1874)以降、地元八幡塚村篤志家鈴木佐内によって、木橋がかけられ 有料で通行させていたが、数次の流失にあった。現在の橋は昭和五十九年(1984)に架橋されたものである。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会
【六郷橋】 【六郷の渡し】 (左側)
北野天神から再び、第一京浜の高架をくぐって、左側の旧東海道に戻ると、六郷橋に上がれる歩道橋があるので、それで土手及び橋の上に上がって、左側の歩道で橋を渡る。
多摩川の真中で東京都から神奈川県川崎市に入る。
六郷橋を渡り終えた所の欄干に、渡し舟を模したモニュメントが取り付けられていた。
渡り終えた川崎側の土手左手に「明治天皇六郷渡御碑」、及びその時の様子を描いた青銅の「武州六郷船渡図」や「史跡東海道川崎宿 六郷の渡し」の説明板、「厄除川崎大師」の石灯籠、更に「長十郎のふるさと」と題された川崎歴史ガイドも立っている。
下の写真で、中央が「明治天皇六郷渡御碑」、右が「厄除川崎大師」の石灯籠、左の六郷橋・歩道橋の欄干の上に乗っているのが渡し舟のレプリカ、「明治天皇六郷渡御碑」の後に「長十郎梨のふるさと」の説明板。
【史跡東海道川崎宿 六郷の渡し】 関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。 そこで慶長 五年(1600)徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)七月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。 渡船は
、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永六年(1709)川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。
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【長十郎梨のふるさと】 川崎歴史ガイド
多摩川沿いにどこまでも続いていた梨畑。 明治中頃、病害に強く甘い新種が大師河原村で生まれた。 発見者当麻辰二郎の屋号をとり、「長十郎」と命名されたこの梨は川崎からやがて全国へ。
【川崎宿】 日本橋から4里半(17.7Km)、次の神奈川宿迄2里半(9.8Km)、三条大橋へ121里15町(476.8Km)
天保14年(1843)の人口2,433人、総家数541軒、本陣2軒。脇本陣0軒、旅籠屋72軒。
安藤広重の東海道五拾三次の内・川崎『六郷渡船』 富士山を望みながら、川崎宿へ向う行商人や旅人、川崎大師参りの女達が乗っているところを描いている。 |
現在の六郷橋 |
旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所などの公的施設をはじめ、旅籠や商家など350軒程の建物が約1400mの長さにわたって軒を並べ、賑わいを見せていた。
古文書や絵図から宿の町並みを探ってみると、旅籠は約七十軒を数え、油屋・煙草屋・小間物屋・酒屋などが店を広げる一方、大工・鍛冶屋・桶屋ほか多くの職人や農民も居住しており、活気にみちた都市的景観を認めることができる。
もともと、川崎宿のあたりは砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には、冠水の被害に見舞われる地域であった。そのため、旧東海道は砂州の微高地上を通るように配慮がなされ、さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛土が施されたという。
現在でも砂子(いさこ)から小土呂(こどろ)辺りを歩いていると旧街道筋が周囲よりも幾分高いことが良く分かる。
川崎宿は、慶安・元禄年間の大地震や宝暦十一年(1761)の大火など度重なる災害に見舞われ、明治維新以降も関東大震災や空襲などで、往時の景観は全く失われてしまった。
しかし、大きな変貌を遂げてきた今日の町並みの中に、宿の成立にかかわる地形や寺院の配置など、川崎宿のおもかげを見ることができる。
(「砂子(いさご)一丁目交差点」手前左側に立っていた川崎宿の説明板より)
【六郷の渡しと旅籠街】 (右側)
多摩川を渡れば川崎宿。
旧東海道は、六郷橋を渡って渡しの碑等を見たら、最初の十字路を右折して「京浜第一国道」の下をくぐり、斜めの道を行く。
最初の十字路を左折する道が川崎大師への大師道である。
国道をくぐった十字路の右側に江戸名所図会と共に六郷の渡しと旅籠街・川崎宿の家並の説明板が立っている。
【六郷の渡しと旅籠街】
家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。舟を下りて川崎宿に入ると、街道筋はに賑やかな旅籠街。幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤家、小土呂じゃ小宮・・・」。なかでも万年家とその奈良茶飯は有名だった。
奈良茶飯は、大豆や小豆、栗などを入れて炊き込んだもの御飯。
【川崎宿の家並】
旅籠六十二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、 油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など、合計三百六十八軒。
−文久三年(1863)の宿図から−
【大師電気鉄道・六郷橋停留所跡】 (右奥)
六郷の渡しと旅籠街の説明板の前、車道側に「川崎宿観光ガイド 大師電気鉄道・六郷橋停留所跡 →50m先」の案内板が立っているので、それに従って国道の高架に沿って細い道を入って行くと、多摩川の土手下に現在の「京急大師線」が走っている。
線路の上から国道高架下を覗くと、メンテ用通路としか思えない様な、非常に細い停留所跡を見ることが出来る。 |
【東海道川崎宿史跡めぐり】 (左側)
六郷の渡しと旅籠街の説明板がある所から、街道は斜めに曲がって川崎宿の中心へ入ってゆく。
斜めに入ってすぐの左側に、「旧東海道」と刻まれた石標が立っていた(下の写真)。この先、川崎宿内には同様な石標が多数見られる。
石標のすぐ先、左側にある『Everyday Low Price』で我が家でも御贔屓のディスカウント・スーパーマーケット「オーケー(OK)」の前に東海道川崎宿史跡めぐりと題した案内板が掲げられている。
ここから「八丁畷駅」迄の地図と点在する名所の位置、及び簡単な説明文が載っているので、大変参考になる。
【東海道川崎宿】 徳川幕府により、東海道に宿駅伝馬制度(街道沿いに宿場を設け、公用の旅人や物資の輸送は無料で次の宿駅まで送り継ぐという制度)が敷かれたのが慶長6年(1601)のこと。川崎宿はそれよりおくれること22年後、元和9年(1623)品川〜神奈川両宿の伝馬負担を軽減するため開設されました。宿駅は小土呂・砂子・新宿・久根崎の4つの村で構成していました。 |
【六郷の渡し】
慶長5年(1600)、六郷川(多摩川)に六郷大橋がかけられましたが、元禄元年(1688))大洪水で流されて以来、享保133年(1728)にベトナムから長崎に初めて象が来て、東海道を通って江戸へ来た時も、象は舟で川を渡りました。
明治天皇が初めて江戸に入る際は、舟を沢山出し、その上に板を並べて臨時の橋を作り、その上を通られたそうです。
【万年と万年横丁】
川崎で一番大きな茶屋だった「万年」は江戸側から川崎宿へ入ってすぐの所にありました。万年前から川崎大師への参詣客が通った道には、新田屋、会津屋などの茶屋もあり大変賑わっていて、「万年横丁」と呼ばれました。
万年の名物だった奈良茶飯は「東海道中膝栗毛」という当時のベストセラー本の中で、弥次さん喜多さんも食べたほど有名でした。
やがて宿泊もまかなうようになった万年には、幕末には大名や駐日総領事のハリスなども宿泊しました。
【川崎稲荷】 (右奥)
「スーパーOK」のすぐ先、府中街道の「本町交差点」の手前の細道を右に入った所に川崎稲荷がある。
小さな稲荷社で、柵に囲われていた為、中に入れなかった。
【川崎稲荷社】 史跡東海道川崎宿 戦災で社殿や古文書が焼失したため、創建など不明。現在の社殿、鳥居は、昭和二六年(1951)頃再建された。 東海道川崎宿、新宿にあった「馬の水飲み場」からここ稲荷社の前を通る道は「稲荷横丁」と呼ばれ、この稲荷横丁の少し崎に大師用水に架かる石橋があり、これを渡ると府中道に合流し、一方反対に東海道を横切ると真福寺の参道となり、大師道へとつづいていた。 八代将軍徳川吉宗が紀州から江戸城入りの際、この稲荷社地で休息したと伝えられている。 川崎市 |
【真福寺】 (左奥)
先ほどの東海道川崎宿史跡めぐりに記載されていた庚申塔を見るために真福寺に寄り道。
【「史跡めぐり」に記載されていた真福寺の説明文】
本尊の薬師如来は、古くから眼の病気など多くの病気に効能があると信じられています。境内には、寛文5年(1665)銘の庚申塔があり、市内最古級、最大です。庚申塔の前にある石製香は国内でも古いものと言われています。
行き方は、「本町交差点」を左折してすぐ右斜めの道に入って第一京浜国道に出る。第一京浜に当たったら2ブロック南下した右側に真福寺がある。
鉄製の門は閉まっていたが、鍵が掛かっていなかったので失礼して入らせて頂いた。庚申塔は脇門を入ったすぐ内側の右角に建っている。
庚申塔の隣には弘法大師立像、向かいにミニ五重塔が建っていた。
真福寺の脇から旧東海道へ戻る時はちょっと恥ずかしい思いをしなければならない。それは第一京浜と旧東海道の間は、かの有名な堀之内だからである。旧東海道に出た時は、ソープランド街から出てきたように見えるので、やましいことが無くても人の目が気になってしまう。恥ずかしい人は府中街道に戻ったほうが良いだろう。
【庚申塔(附 石造鉢形香炉)】 中国には道教という思想があり、庚申信仰もその一つとして、平安時代にわが国に伝わり、江戸時代から庶民の間にも広まりました。 庚申信仰とは、六十日ごとに巡ってくる庚申の夜に眠ってしまうと、三戸(さんし)という虫が体内から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪過を報告するので、庚申の夜は眠らずに、庚申待といって、健康長寿を祈願するものです。そこで庚申塔が、礼拝の本尊として建てられるようになりました。 本庚申塔は、江戸時代の寛文五年(1665)に建てられたもので、正面には阿弥陀如来立像が、台座部には腰を落とした姿勢の猿が三匹正面を向き、この世での罪過は「言わざる・聞かざる・見ざる」というポーズをとっています。 また、台座部正面には「武州橘郡河崎新宿」の銘と十二名の造立者の名前が記されています。これによって本庚申塔は、東海道川崎宿を構成する村の一つである新宿に住んでいた人々によって発願造立されたことがわかります。 なお、本庚申塔の前には、「貞享五年」(1688)の銘を刻んだ石造形香炉が据えられています。 川崎市教育委員会は、昭和六十三年十一月二十九日、本庚申塔を川崎市重要郷土資料に指定しました。 平成二年二月 川崎市教育委員会 |
【田中本陣】 (右側)
旧東海道に戻り、「本町一丁目交差点」を渡ったすぐ右側に田中本陣と田中休愚の説明板が立っている。往時の建物は残っていないが、平面図が載っていた。更に、その隣に『川崎歴史ガイド』の田中本陣と休愚の説明板も立っていた。
【田中本陣(下の本陣)と田中休愚】 川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、寛永五年(1628)に設置されている。田中本陣はその場所が最も東、すなわち江戸に近いため「下(しも)の本陣」ともいわれた。 本陣は大名や幕府の役人、勅使など武士階級専用の宿であった。その構造は、武士階級を宿泊させるために、当時一般の民家には許されなかった門や玄関構え、上段のある書院など、書院造りを取り入れた空間と、本陣の主(宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家などが幕府から選ばれた)の一家の生活空間との二つを併せ持っていた。建物の改造や再建には幕府や諸藩から助成を受け、半官半民的な運営がなされた。 本陣は参勤交代の導入により、多くの大名が街道を旅するようになるとともに栄えたが、江戸後期には、大名家の財政難や参勤交代の緩和により、衰えも目立った。安政四年(1857)、アメリカ駐日総領事ハリスが、田中本陣の荒廃ぶりを見て、宿を万年屋に変えたことは有名である。 明治元年(1868)、明治天皇の東幸の際、田中本陣で昼食をとり、休憩したとの記録がある。明治三年(1870)、新政府は天然痘流行を機に各地で種痘を行ったが、川崎では十一月から十二月にかけて六回、田中本陣で行う旨の布達が出されている。 宝永元年(1704)、四十二歳で田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、幕府に働きかけ六郷川(多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、渡船賃の収益を宿の財政にあて、伝馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。さらに商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、するどい観察眼によって幕府を論じた「民間省要」(みんかんせいよう)を著した。これによって、享保の改革を進める八代将軍吉宗に認められ、幕府に登用されてその一翼を担い、晩年には代官となったのである。 |
田中(兵庫)本陣は、寛永五年(1628)に設けられた宿内最古の本陣である。ここ出身の休愚は宿の財政再建に尽力した人物で、当時の農政を論じた「民間省要」の著者としても知られる。
【宝暦十一年の大火】 (右側)
田中本陣から次の交差点手前右側に『川崎歴史ガイド』の宝暦十一年の大火と題した説明板が立っている。
【宝暦十一年の大火】 川崎歴史ガイド・東海道と大師ルート
川崎宿二百年で最大の火災。
小土呂から六郷渡し場まで町並みはほぼ全焼。宗三寺、一行寺も焼けた。再三の火災から立ち直った川崎宿だが、今、宝暦以前の歴史文献は見当たらない。
【助郷会所】 (左側)
交差点を超えたすぐ左に『川崎歴史ガイド』の助郷会所の説明板が立っている。
【助郷会所】 川崎歴史ガイド・東海道と大師道
宿駅に常備する伝馬人足の不足を補う助郷制によって近在農村より徴用された人馬は、助郷会所に集められた。助郷制は、川崎周辺の農村の労働負担となり、窮乏を招く要因となった。
【一行寺】 (右奥)
宝暦十一年の大火と助郷会所の説明板の立っている次の道に「一行寺100m先」の標識や『川崎歴史ガイド』の説明板が立っている所を右折した突き当たりに一行寺がある。
門は閉ざされていたが、右手の通用門に鍵が掛かっていなかったので、こちらも失礼して中に入らせて頂いた。
入ると寺の建物は現代風で、門の内側左に『史跡東海道川崎宿』の説明板が立っていた。
下記文章で、歴史的な碑や墓があるとの事だが特に探すことはせずに早々に立ち去った。
【一行寺】 川崎歴史ガイド・東海道と大師ルート 浄土宗一行寺は、江戸時代の初め川崎宿の整備が進む頃に開創し、閻魔信仰で大いに賑わった。また非常の際は、田中本陣の避難所にも当てられていた。 【一行寺】 史跡東海道川崎宿 川崎が東海道宿駅として正式に起立するのは、元和九年(1623)のことであり、それとともに宿駅の機構や、町の整備も進められた。浄土宗一行寺もその頃開創の寺院で、本陣(兵庫)が火急の場合、宿泊者の避難所にもあてられた。 「仮山碑」は、時の名主稲波氏が宿民中村翁の庭園を讃えて詠じた詩文を刻んだものであるが、明治十年廃園となり、のち昭和三十五年、現在地へ移築したものである。 なお、境内には川崎宿で寺子屋「玉淵堂」をひらき、大田南畝などとともに交誼のあった能書家浅井忠良の墓や、富士講の大先達として幕末期に著しい宗教活動を展開した西川満翁の墓がある。 川崎市 |
【宗三寺(そうさんじ)】 (右奥)
一行寺から街道に戻り、次の十字路を渡った白壁の角に曹洞宗 宗三寺の大きな石柱が、その横に『川崎歴史ガイド』の説明板が立っている。
壁の先を曲がると、駐車場の奥に山門があり、『史跡東海道川崎宿』の説明板が立っていた。
こちらも供養碑等は見なかった。
【宗三寺】 川崎歴史ガイド・東海道と大師ルート 宗三寺は、中世の河崎庄において信仰を集めた勝福寺の後見とみられる宿内一の古刹である。寺内には、かつて宿の賑わいの中で働いた飯盛り女を供養する石造物が今に残る。 【宗三寺】 史跡東海道川崎宿 中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、その時代荘内勝福寺という寺院があり、弘長三年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後進とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。 『江戸名所図絵』に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、本尊はひくい肉鬢、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紐を結び、大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。 川崎市 |
【砂子の里資料館】 (右側)
宗三寺から街道に戻り、次の十字路の手前になまこ壁の砂子の里資料館が建っている。
川崎宿の模型が展示されている私設と思われる資料館で、毎月変わりで浮世絵を中心とした展示が行われている様である。
特に開港当時の横浜絵の所蔵を誇っているとの事で、この日も『横浜絵に見る・近代日本の黎明』(第一回)が開催されていた。
入館料 無料。 開館時間 10:00〜17:00。 休館日 日曜・祭日
【川崎宿の宿場図】 (右側)
砂子の里資料館次の「砂子一丁目交差点」手前右側に、川崎宿の宿場図と宿場の説明が書かれた案内板が立っている。
川崎宿の内容は、上記【川崎宿】を参照。
【中の本陣】 (右側)
川崎宿の宿場図の左脇に中の本陣の説明板が立っている。
【中の本陣】 川崎歴史ガイド・東海道と大師ルート
この付近にあった惣兵衛本陣は、佐藤・田中両本陣の間に位置することから、通称「中の本陣」とも呼ばれたが、江戸後期に至り、廃業した。
【問屋場】 (左側)
川崎宿の宿場図の向かいに問屋場の説明板が立っている。
【問屋場】 川崎歴史ガイド・東海道と大師ルート
伝馬人足、飛脚、本陣の休泊などの宿場業務を監督する問屋場。
川崎宿では、約三十名の問屋役人が昼夜交代で勤務し、その職務は繁忙をきわめた。
3回目の旅終了。「砂子一丁目交差点」・「京急川崎駅」。
今回の記録:街道のみの距離は、9.2Km(鮫洲駅入口〜砂子一丁目交差点)
日本橋から、四里二十九町(18.9Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、 2日で12.5Km(鮫洲駅〜京急川崎駅) 総計37.0Km