川崎宿(後半) (京急川崎駅 → 子安駅) <旧東海道4回目>

2002年3月21日(木) 晴

 二人旅。(「京急川崎駅」~京急「子安駅」)

2013年5月24日(金) 晴
 「京急川崎駅」(13:30)から「京急鶴見駅」(15:50)までの一人旅。


2013年6月1日(土) 晴
 「京急鶴見駅」(10:05)から京急「子安駅」(12:40)までの一人旅。

(注1:文中で街道の左側、右側とは京都に向っての左右)

 (注2:このページでは、三回分をまとめた形で編集する為、途中経過時間は省略)


「川崎宿(前半 )」 ← 「目次」 → 「神奈川宿」



【川崎宿と明治維新】 (左側)
 「砂子
(いさご)交差点」手前の左側に、川崎宿と明治維新の説明板が立っている。
【川崎宿と明治維新】 川崎歴史ガイド・東海道と大師ルート
 東海道の宿場となって二百年余り後、最盛期の川崎宿が迎えた明治維新。伝馬、飛脚から電信、郵便へ。明治五年には鉄道も開通。 宿場時代は終わり、川崎は近代都市へと歩き始めた。


【東海道と大師道】 (左側)
  「砂子交差点」を渡った左側に『旧東海道 いさご通り 川崎宿』と書かれた大きな標柱が立っており、そのすぐ先に東海道と大師道の説明板がある。
【東海道と大師道】

 東海道。江戸から京都まで、道のりは百二十五里二十町、およそ五百二キロ。

 徳川家康により特に重視され、整備が急がれた街道である。大名行列の多くがここを通り、物資が行き交い、東西の文化交流が進んだ。

 東海道川崎宿は元和九年(1623)、他の宿に遅れて宿駅となり、今の小川町あたりから六郷橋まで、小土呂、砂子、新宿、久根崎の四町で構成された。江戸後期から幕末にかけて、旅籠や茶店などが一段と多くなる宿場の最盛期には、渡し舟を乗り降りする旅人、川崎大師へ向う参詣客などで大いに賑わった。川崎大師は当時から日帰り参詣のできる関東屈指の霊場として、広く江戸庶民の人気を集めていたのである。

 江戸と京都を結ぶ東海道。その宿駅として、また同時に、それに続く大師道に拠点として栄えた川崎宿であった。


【佐藤本陣跡地】 (右側)
 次の十字路の手前右角のコンビニが入っているビルの窓ガラス内に佐藤本陣跡地の説明板が掲げられている。
 そこには、説明文の他に、『東海道分間延絵図 川崎宿(一部)』と『歌川広重 東海道五拾三次之内 関 本陣早立』の浮世絵(現三重県亀山市の関宿の浮世絵で、
第37回【関宿】参照)が載っていた。
【佐藤本陣(上の本陣)跡地】 
 本陣は江戸時代、大名や幕府の役人、勅使などが街道を旅する際に宿泊するために、各宿場町に設置された公認の武士階級専用の宿舎である。
 川崎宿が最も栄えた頃には、京都に近い方から、上(佐藤本陣)、中(惣兵衛本陣)、下(田中本陣)の三つの本陣があった。
 佐藤本陣は、十四代将軍徳川家茂も京都に上がる旅中に宿泊したと言われている。
 本陣は、宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家が幕府に選ばれて、その主人が運営に当った。
 本陣には、当時武器階級の建築様式であった門や玄関構え、上段のある書院が設置され、主人にはしばしば名字帯刀が許された。
 門を入ると、敷台と玄関からなる「玄関構え」があり、そこで本陣の主と来客の武士とが正式に挨拶を交わした。
  門の外にはその日宿泊する大名の紋所の入った提灯が下げられ、大名の権威を象徴する関札が宿入口と本陣前に掲げられた。
     東海道川崎宿二〇二三(川崎宿起立四百年(2023年)にむけて、その文化と歴史をまちづくりに活かそう)


【佐藤惣之助生誕の地】 (左側)

 佐藤本陣の斜め向かい「川崎信用金庫本店」の南側角に佐藤惣之助生誕の地碑が建っていて、「青い背広で」の詩と共に本人の肖像も掲げられている。

 詩人佐藤惣之助は明治二十三年十二月三日に生まれ、昭和十七年五月十五日に五十二才で世を去った。生家は川崎宿の上本陣佐藤家で、現在位置の北隣の砂子二丁目四番地がその旧地である。

 惣之助は、大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名編を世に出し、不滅の地歩を築き、また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導育成にあたった。さらに俳句・歌謡・小説・随筆にすぐれた業績を残し、釣・義太夫・演劇・民謡研究・郷土研究・沖縄風物の紹介など、趣味の世界における多方面の活躍も驚くべきものがある。

 歌謡作詞では「赤城の子守唄」「人生劇場」「新妻鏡」「男の純情」「青い背広で」「湖畔の宿」「人生の並木路」「すみだ川」など、人々の胸をうち、心に通う歌詞の故に今もなお愛唱されている不朽の作品が多い。

 ここにその事績を慕う郷党ら相集い佐藤惣之助生誕地記念碑建設委員会を組織し、市内在住の彫刻家の巨匠円鍔勝三郎に嘱し、惣之助の肖像と、嗣予佐藤紗羅夫氏の揮毫になる「青い背広で」の一部を銅碑に彫出して掲げ、記念とする。

     昭和五十四年五月十五日

【青い背広で】
 青い背広で こころも軽く 街へあの娘と 行こうじゃないか
 紅い椿で ひとみも濡れる 若い僕らの いのちの春よ
 近年は、阪神球団歌である「六甲おろし」の作詞者としても話題になっている。


【旧橘樹郡役所跡記念碑】 (左側)
 「川崎信金」前の交差点を渡ったすぐ先の「川崎消防団第二分団」の横に旧橘樹郡役所跡記念碑が立っている。
【「旧橘樹郡役所跡記念碑」設立の記】
 
明治十一年(1878)の郡区町村編制法により、神奈川町成仏寺に橘樹郡役所が設置され、橘樹郡内十町百十一村の行政を司った。明治二十一年(1888)同町内に郡役所が新設され、その後郡制が施行されると、郡長のもと各地代表の郡会議員により、道路・治水・教育・産業などが議せられた。
  明治三十四年(1901)神奈川町の横浜市編入により、橘樹郡の中心は、産業開発著しい川崎町に移り、大正二年(1913)現在地の川崎町砂子に威風堂々とした郡役所が建てられ、川崎・保土ヶ谷二町と十七村の行政に当った。郡南部の臨海埋立地には京浜工業地帯が形成され、人口増加による都市化が進む一方、北部農村地帯も私鉄の沿線開発や近郊農業の発達などにより大きく変貌した。
 大正十三年(1924)七月、川崎に市制が施行され、大正十五年(1926)郡役所は廃止された。その後川崎・横浜の市域拡張により、昭和十三年(1938)には半世紀にわたり親しまれた「橘樹郡」の名も消えることになった。
  郡役所の川崎移転から九十年。 ここに有志相集い、川崎市制八十周年を記念して、往年の地に「旧橘郡役所跡記念碑」を建立し、万葉集にも歌われた橘樹の名を永久に留めることにした。
     平成十六年三月三十日 旧橘郡役所跡記念碑設立委員会


【小土呂橋】 (右側)

 2本目の駅前大通(新川通り)と交差する「小土呂橋交差点」を渡って大通りを少し右に入った道路側に、かつての小土呂橋の親柱が2本保存されている。
 説明板には、昭和6年撮影の『かつての小土呂橋』と題する写真が添えられていたが、大通りをイメージすると期待を裏切られる様な小さな橋だった。

【小土呂橋】

 この通りに幅五メートル程の流れがありました。新川堀と呼ばれ、ここからさらに渡田大島を経て海へ注ぐ用水でした。この堀が東海道と交わるこの地点に架けられていたのが「小土呂橋」です。

 小土呂は砂子・新宿・久根崎とともに昔、東海道川崎宿と呼ばれた四町の一つで古くからの町名です。

 橋の名残は今、バス停や信号の名に見られるばかりですが、この先にあったいくつかの橋のうち、昔の流れに沿って「新川橋」、「さつき橋」は今もその名をとどめています。
 この写真にある橋の親柱が残されていたのをここに移設し、当時をしのぶよすがとしました。
 昭和五十九年小川町町内会市制六十周年を記念して。

     川崎市文化財団 東海道川崎宿2023 川崎区役所 


【教安寺】 (右奥)
 小土呂橋から3分程進んだ次の信号を右折すると60m程で教安寺がある。
 下記説明に書かれている燈籠六字名号碑は、案内板などが無く、どれがそうなのか良く分からなかったので、写真は山門を載せる。

 【教安寺】 史跡東海道川崎宿
 江戸時代後期、幕藩体制の動揺にともなう社会不安の増大や、農村における貧富差の拡大などは、人々の将来に対する危機感をつのらせた。そのような状況下に富士山に彌勒の浄土を求めた新興の庶民信仰である「富士講」は、関東一円で爆発的な流行をみた。さらに当時「生き仏」と崇められた浄土宗の高僧、徳本上人は、全国各地を遍歴して念仏を勧め、浄土往生を願う農民たちにやすらぎを与え、彼の赴くところ、おのずから一つの信仰集団が生まれ、「六字名号碑」の建立が行われた。
 教安寺に残る燈籠は、富士講の有力な先達であった堀の内出身の西川満翁が組織した「タテカワ講」によって建立されたものであり、境内の六字名号碑は同じく宿民によって建立されたものである。
     川崎市

【川崎宿京入口】 (右側)

 教安寺から街道に戻って、次の右角の駐車場に川崎宿京入口の説明板が立っている。「小川町バス停」前で、向かいは、ビジネスホテル「アイル・イン川崎」。
 京入口の説明板の隣に関札が掲げられ、その隣に前回「OK」の前にあったのと同じような東海道川崎宿史跡めぐりの案内板が立っている。

 

【川崎宿京入口】 史跡東海道川崎宿

 宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出ると謂ゆる八丁畷の一本道、土居内は八三二間、このなかに小土呂、砂子、新宿、久根崎の宿を構成する上記四つの町があった。

 江戸時代後期における人口は七七〇戸、三、一〇〇人余りであり、伝馬役を負担する農民のほか、旅籠、大工、傘職、仏師、左官、桶職、経師、指物師などさまざまの商人や職人が住んでいた。文久二年(1862)外国人遊歩区域となった当宿には、この土居付近に外人警護のため第一関門が設けられ、以下保土ヶ谷宿まで十九ヶ所に設けられた関門番所には、宿役人二名、道案内 三名などが詰めて警戒にあたり、非常の際には半鐘を鳴らし、隣の番所と連絡をとったのである。

     川崎市

【関札】
 棒鼻の石垣の上にはその日その宿場にお泊りになる大名の関札が掲げられていました。
 本陣の前にも掲げられたこの関札には立派な檜の板が使われ、毛筆で堂々とした書体で記され、非常に大切にされました。これを粗末に扱ったために事件や紛争になって処罰された者が出た事件もあったほどです。
 左は川崎市民ミュージアムに保存されている実際の関札を複製した物です。
 「加藤遠江守宿(かとうとうとうみのかみやど)」と書かれています。
     東海道川崎宿2013 川崎区役所
【江戸時代のこの辺りは・・・ 京口棒鼻跡」 東海道川崎宿史跡めぐり
 川崎宿の京都側の出入り口にあたる京口の棒鼻がこの辺りにありました。棒鼻には、切石を積んだ石垣があり、土居や見附などとも呼ばれました。江戸時代初期に作られた宿場の棒鼻では、石垣でその入口を狭くしたり、門を設けたりしており、防衛的な意味合いも強かったものと考えられています。
 石垣の上は平らになっており、その上に矢来がおかれ、その日その宿場に宿泊する大名の高札がかかるようになっていました。
 文久二年(1862)、川崎宿は外国人遊歩区域となり、この付近には外国人警護のための最初の関門関所が設けられました。保土ヶ谷宿まで19ヶ所の関門関所がありました。
 現在、教安寺の山門前にある灯籠はもとは、この京口棒鼻に建てられてもので、受台には宿内安全と彫られています。


【麦の郷】 (右側)
 次の大きな「川崎警察署東側入口交差点」を渡って、少し進んだ左側にある「川崎警察署」向かいに日進町町内会館「麦の郷」がある。
 そこに「麦の郷」の由来と、「芭蕉の句碑と川崎宿絵図」が掲げられていた。
【日進町町内会館「麦の郷」の由来】 
 
京急八丁畷駅前に松尾芭蕉の句碑があります。
 元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵をあとに故郷伊賀上野へ向かいました。芭蕉を見送りに来た弟子たちは、名残を惜しんで六郷川(多摩川)を渡って川崎宿に入り、このあたりまで来ました。そして別れを惜しんで弟子たちと句を詠みあいます。
 弟子たちに対して、芭蕉が呼んだ句が
       「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」です。
 芭蕉はこの年の10月大阪で不帰の客となりました。享年51才。弟子たちにとって、この場所での別れが、本当の別れになりました。
 弟子たちが詠んだ句は、旧東海道沿い川崎警察署のすぐ近く、ビパース日進町1階「芭蕉ポケットパーク」で見ることができます。
 平成16年(2004年)、日進町町内会館は新しく建て替えられ、その機に、松尾芭蕉の句碑にちなみ会館名を「麦の郷」と名付けました。

【芭蕉の句碑と川崎宿絵図 江戸時代後期】 
 
川崎宿は全長約1.5Kmで、そのほぼ中央に宿駅業務をとりしきる問屋場と高札場があり、その上手に佐藤、下手に田中の二つの本陣がありました。旅籠には奈良茶めしで有名であった「万年屋」など72軒がありました。そのほかに教安寺・一行寺・宗三寺などの寺院、川崎宿の鎮守である山王社(現在の稲毛神社)があり、これらの寺社は現在も同じ位置にありますので、往時の宿場の様子を推察する手がかりとなりましょう。この芭蕉の句碑は上手の棒鼻(宿場入口)附近に文政13年(1830)、俳人一種によって建立されたもので、そののち現在の位置に移されました。この棒鼻を出るといわゆる八丁畷の並木道になります。旅人は、富士の雄姿をながめながら次の宿へと足をはやめたことでしょう。
     日進町婦人会 川崎市教育委員会


【芭蕉の句碑】(麦の別れ) (右側)

 日進町町内会館のすぐ先、京急本線が旧東海道に接する右側三角地が、芭蕉が弟子達と関東での最後の別れとなった麦の別れの場所で、後年芭蕉を偲んで建てた芭蕉の句碑が建物に守られて保存されている。
 2002年3月の時は青々とした麦が、2013年5月の時は黄金色に近い麦の穂が見られた。説明板を含め、麦の色以外は以前と全く同じ景色であった。



 【芭蕉の句碑】
 俳人松尾芭蕉は
、元禄七年(1694)五月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある

   麦の穂をたよりにつかむ別れかな

の句にたくしました。

 芭蕉は、「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風」を確立し、同じ年の十月大阪で、

   旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

という辞世の句をのこし、五十一歳の生涯をとじました。

 それから 百三十余年後の文政十三年(1830)八月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。

     昭和五十九年十月 川崎市教育委員会

【麦の別れ】

 元禄七年(1694)五月十一日(現在の六月下旬)に俳人松尾芭蕉が江戸深川の庵をたって郷里伊賀国拓殖庄へ帰る時、江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの 現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べ乍ら休息しました。そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送りて」と題して各人が俳句を読みあいました。弟子たちの句にたいし芭蕉は

   麦の穂をたよりにつかむ別れかな

と辺歌し弟子たちの親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しました。

 川崎宿の八丁畷あたりになると人家はなくなり街道の両側は一面の田畑でした。このあたりによしず張りの掛茶屋ができ酒や一膳飯を売っていました。芭蕉はこの年の十月大阪で亡くなったのでこれが関東での最後の別れとなりました。

     芭蕉の碑保存会 川崎史話小塚光治著より抜粋


【八丁畷 
 芭蕉句碑の先、突き当たりが京急「八丁畷駅」で、上にはJR南武線の駅も立体交差している。
 旧東海道は、八丁畷駅前の踏み切りを渡って線路の左側に移る。
 踏み切りを渡ってすぐ左に折れると駅舎の後ろの鉄柵に囲われた中に、慰霊塔、小さな地蔵八丁畷の由来と人骨と題する説明板が立っている。更に、「旧東海道 下並木」と赤ペンキで書かれた丸い石も置かれていた。

   【八丁畷の由来と人骨】
 江戸日本橋を出発点とする東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(現在の横浜市鶴見区尻手・元宮・市場のあたり)へいたります。この区間は八丁(約870メートル)あり、畷といって、道が田畑の中をまっすぐにのびていましたので、この道を八丁畷と呼ぶようになりました。
 八丁畷の付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても、道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、東京大学の人類学の専門家によって科学的に鑑定され、江戸時代ごろの特徴を備えた人骨であることが判明しました。
 江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命しています。おそらく、そうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。
 不幸にして落命した人々の霊を供養するため、地元では昭和九年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建てました。
     平成元年三月 川崎市教育委員会


 慰霊塔の向かいには、旧東海道の大きな石標と「東海道川崎宿史跡めぐり」の案内板が立っている。
【江戸時代のこの辺りは・・・ 八丁畷(はっちょうなわて)」 東海道川崎宿史跡めぐり
 宿はずれのこの辺りは、隣の市場村まで、田んぼに囲まれたまっすぐな畷道(なわてみち)が続いていました。
 かつては道の両側合わせて松28本、杉249本、榎7本の並木(寛政年間・石井家文書)もあり、現在の下並木の地名の由来だそうです。上並木という地名もありましたが、現在は公園の名前としてのみ残っています。
 市場村との村境には棒示杭が建っていました。木造だった棒示杭は、現在残っていませんが、絵図などを見ると非常に立派なもので、建替えに代官の許可がいる公的なものでした。川崎宿に幕府の役人や地方の大名などをお迎えする際、川崎宿の名主や問屋の役人は、この棒示杭まで、お出迎え、お見送りしました。
 また、ここから神奈川方面、約1Km先には、日本橋を出てから5番目の一里塚が残っています。


【熊野神社】 (右側)
  JR南武線の高架をくぐり、「市場上町交差点」で川崎市から横浜市鶴見区に入る。その次の信号右側に熊野神社がある。
 鳥居をくぐった右手には、横浜市立市場小学校発祥の趾碑が建っているが、説明文等は無かった。

【熊野神社略記】 
 弘仁年中紀州熊野宮御神霊を勧請す 旧市場村の熊野耕地通称八本松の所に鎮座 其後天保年中道上耕地に遷座(現在元宮)す 明治五年東海道線敷設の為現地に遷座

【市場(村)一里塚碑】 (左側)
 熊野神社から次の信号の手前、「市場橋バス停」前に市場一里塚がある。
 塚に当たるところには、鳥居と小さな神社(祠)が祀られており、入口左の標柱には「市場一里塚」、右の石碑には「武州橘樹郡 市場村一里塚」と刻まれていた。
 境内には、新しい説明文の他に古い市場村一里塚由来記が刻まれた石碑や可愛い双体道祖神も祀られていた。



 

【市場の一里塚】
 
慶長9年(1604)徳川幕府は江戸から京都までの街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。

 里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4Km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。

 ここは、江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。明治9年(1877)地租改正にあたり払下げられ、左側の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。

 昭和8年(1933)6月「武州橘樹群市場村一里塚」の碑が建立されました。

 平成元年(1989)横浜市地域文化財に登録されました。

     平成5年3月 横浜市教育委員会文化財課 財団法人横浜国際観光協会


【市場村一里塚由来記】
 昔街道一里毎に塚を築き塚上に榎を植えて標示とした。 これを一里塚といい、江戸日本橋を起点に東海道に造られた。 市場村一里塚もその一つで、今(昭和三十八年)から三百六十年前、即ち慶長九年、 徳川家康が東海・東山・中山の諸道を修理する時築いたもので、明治初年までは 相對して道の両側に同じ塚があったが取りこわされ一方のみ残る。 日本橋から数えて五里(二十粁)に當る。 永い間風雨にさらされ土が崩れ流れるので、地元有志これを惜しみ、 昭和二十五年八月、大谷石をもって土止めをし、こえて三十八年五月補修を加え、この碑を建つ。
     昭和三十八年五月 熊野神社宮司 一里塚保存会代表


【一里塚公園】 (左側)
 市場一里塚の隣に、2013年整備されたばかりの一里塚公園がある。
【市場西中町一里塚公園】
 「市場西中町一里塚公園」は、現存する一里塚の横にあることから、地域の要望により命名され、平成25年3月に整備されました。
 一里塚は、慶弔9年(1604)徳川家康が街道を整備する際に、里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4Km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えたものです。ここは江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。一里塚は、明治9年(1876)地租改正で民間に払い下げられ、現在、民有地の一里塚はほとんど残っていません。
 市場村一里塚は、地元の人々の史跡を残そうとした努力もあって、昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場一里塚」(添田担書)の碑が建立され、当時の場所に現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。平成元年(1989)には、横浜市地域文化財として登録されました。
 公園の園名柱は一里塚の碑をイメージしてデザインされました。昔から一里塚が地域に愛され残されてきたように、この「市場西中町一里塚公園」が地域に親しまれることを祈ります。


【庚申堂】 (右側)
  一里塚公園から、信号を渡って次の十字路先の右側に立派な庚申堂が建っている。庚申堂の隣に下町稲荷

 詳細な説明文は無かったが、下記の文が掲げられていた。
   
庚申地蔵 記 宝暦四年十月庚申(1754年) 願主 鈴木仁右衛門

 また、改修記録もあった。
  
 昭和五十八年四月吉日(1981年)庚申堂大改修  平成二十四年六月吉日(1012年)庚申堂補修・塗装

【金剛寺】 (右奥)
 庚申堂から少し進んだ十字路の右奥に金剛寺の山門が見える。

 説明板等は無かったが、山門前に「玉川八十八ヶ所霊場第十一番・東国八十八ヶ所霊場第十番・東海三十三ヶ所観音霊場第九番」の立札が立っていた。
 手入れの良い庭の奥に本堂が、その左手には赤いエプロンを掛けた比較的新しい六地蔵が祀られていた。

【鶴見川橋】 
 金剛寺
から街道に戻るとやや登り坂となり、鶴見川に架かる近代的な鶴見川橋を渡る。
 その橋の手前左側にポケットパークがあり、鶴見川橋の説明と江戸名所図絵「鶴見橋」「鶴見橋」界わいの情景、また、バクの案内板と称する「鶴見川橋周辺案内や地図」等が設置されていた。

 【鶴見川橋】 
 「鶴見川橋」は徳川家康が東海道を整備した慶長6年(1601)ごろ架けられたといわれており、東海道とほぼ同じ歴史をもっています。
 大正末期頃までは「鶴見橋」の名前で多くの人に親しまれ、日本橋をあとにした旅人が東海道で初めて渡る橋で、長さ25間、幅3間といわれておりました。 (多摩川は元禄元年の大洪水以降"渡し舟"でした。)
 橋の周辺は視界が開け、橋上から大山や箱根連山が見えたという風光明媚な場所でありました。
 暴れ川と呼ばれた鶴見川は、いくたびも洪水をくり返し、橋は流され架け替えられてきました。
 古くからの歴史に育まれた鶴見川橋は、平成8年に鶴見川をひとまたぎするアーチ橋として生まれ変わりました。
     平成10年8月 鶴見区役所 鶴見歴史の会

【「鶴見橋」界わいの情景】
 鶴見橋(現、鶴見川橋)からの風光明媚な眺めや、市場・鶴見界わいの様子を記した紀行文、歌、俳句、絵などが数多く残されています。江戸時代の書物や歌から、当時の風景を抜粋してみますと、

 右のかなた、はるかに田の面を打ちこえて山々つられり。
 左は青海原にて、いと景よろし・・・・・・。
    「甲申旅日記」下田奉行・小笠原 長保

 この橋から見えた富士や箱根の山々や、海原に浮かぶ帆かけ舟などは、多くの旅人や文人たちの心をとらえました。

 うち見れば碁盤のような梨の棚、白勝ちに咲く花のひと村
    蜀山人(大田南畝))

 界わいは、名産だった梨の木が一面に続き、街道沿いの茶店では鶴見名物の「よねまんじゅう」が売られていました。 また、橋のたもとには当時の産物などが運ばれた「市場河岸」があったことを伝える風景画も残されています。
     平成10年8月 鶴見区役所 鶴見歴史の会
【バクの案内板】
 鶴見川 源流から39.7Km 河口から2.8Km 鶴見川流域はバクの形をしています
①旧東海道と鶴見川橋
 江戸日本橋から来た場合、最初に渡る橋であった鶴見川橋(当時の名称は「鶴見橋」でした)は、「東海道五十三次」や「江戸名所図絵」に描かれ、ここからの眺めは海原や富士山が臨め、茶屋などが多く賑わっていたといいます。
②市場一里塚(市登録文化財)
 江戸幕府は東海道に、日本橋から一里(約4Km)毎に5間四方の塚(里程の目標と人馬の休憩のための目安になるよう道の両側に榎などの木を植えたもの)を築きました。 ここは5番目の塚に当たり、市内最初の一里塚です。現在は左側が残されています。徒歩約6分。
③箱根駅伝記念像
 お正月に開催される東京箱根間往復大学駅伝競走の鶴見中継所に、鶴見区制70周年を記念して建てられました。 鶴見区制実施は昭和2年(1927)10月1日です。徒歩約11分。
④鶴見神社
 推古天皇の時代の創建と伝えられる横浜最古の社です。境内より弥生時代から鎌倉期に及ぶ多数の祭祀土器が出土しました。神社のお神輿は鶴見川に流れ着いたと伝えられています。昔の祭礼で行われた田祭神事が昭和62年(1987)に再興され、毎年4月29日に「鶴見の田祭り」として盛大に行われています。徒歩約8分。
⑤総持寺
 曹洞宗の大本山。元享元年(1321)、能登(現在の石川県)に開かれましたが、明治31年(1898)の火災で焼失し、明治44年(1911)に現在地に移転しました。広大な約50万㎡の敷地には、大祖堂をはじめ数々の伽藍が緑の木々の中に点在しています。宝物殿には国重要文化財、市指定文化財などが所蔵されています。(宝物殿の観覧は有料です。)徒歩約15分。
⑥佃野公園
 面積約7,400㎡の公園。鶴見の夏の風物詩「鶴見川いかだフェスティバル」の会場となっています。災害時には物資揚陸地点としても活用されます。徒歩約7分
     2003年3月設置 鶴見区役所区政推進課企画調整係 鶴見みどころガイドの会


鶴見橋関門旧跡碑】 (左側)
 鶴見川橋を渡るとすぐ先左側に鶴見橋関門旧跡があり、説明板とともに「旧東海道鶴見橋」の標柱が立っている。
 標柱の側面には「旧名称 武州橘樹郡鶴見村三家
(さんや)」と書かれ、標柱の足元には「鶴見橋関門舊蹟」と刻まれた石碑がある。また、石碑には、更に、「東海道武蔵國橘樹郡神奈川領鶴見村三軒家」、「茲領 付屬者明治三庚牛三月従民部省被差免也」も刻まれていた。
 
2002年に訪れた時は標柱より低かった木が、2013年には標柱に覆いかぶさるほど高くなり、植物の成長には驚かせられた。


3013年撮影

2002年撮影
 安政6年(1859)6月、横浜開港とともに神奈川奉行は、外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に関門や番所を設けて、横浜に入るものを厳しく取り締まりました。

 鶴見橋関門は、万延元年(1860)4月に設けられ、橋際のところに往還幅四間(約7メートル)を除き、左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋で塗られたものでした。
 文久2年( 1862)8月、生麦事件の発生により、その後の警備のために、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に、20ヶ所の見張番所が設けられました。鶴見村には第五番の番所が鶴見橋際に、その出張所が信楽茶屋向かいに、また、第六番の番所が今の京浜急行鶴見駅前に設けられました。
 明治に入り世情もようやく安定してきたので、明治4年(1871)各関門は廃止されました。なお第五番・第六番の御番所は、慶応3年(1867)に廃止されています。
     昭和63年3月 鶴見区役所 


【寺尾稲荷道 道標】 (右側)         

 鶴見橋関門旧跡のすぐ先右側の「鯉ヶ淵公園」前の歩道上に馬上安全 寺尾稲荷道と刻まれた大きな道標が立っていて、右側面に「従是廿五丁」、左側面に「寶永二乙酉二月初牛・寛延三庚牛十月再建・丈政十一戌子四月再建之」と刻まれている。
 但し、ここに立っている道標は複製で、本物はこれから訪れる鶴見神社の境内に設置されている。
 また、寺尾稲荷社は、ここから西へ直線距離で2.7Km「鶴見区馬場三丁目」の「上寺尾小学校」近くに、馬場稲荷社と名前が変わり現存している。

 【⑧寺尾稲荷道 道標】
 
江戸時代、ここは寺尾稲荷社(現、馬場稲荷社)へ向かう道との分岐点で、このように「寺尾稲荷道」と記された大きな道標がたてられていました。寺尾稲荷社は、馬術上達や馬上安全の祈願で知られ、江戸からの参拝者も多かったといいます。また、この道は菊名へ向かう寺尾道や川崎へ向かう小杉道にもつながる、この地域の大切な道でした。なお、当時の道標は、現在、鶴見神社境内にあり、ここにあるのはその複製です。
 左上の写真で分かるように、道標のすぐ横に説明板も立っている。
 ここから鶴見駅迄の鶴見東口駅前通りに立つ説明板には、『旧東海道スポット』と題する地図が
併記され、地図と説明板の番号を照らし合わせることで位置が分かる為、これから先の旧跡を見逃すことはない。

【東海道分間延絵図】 (右側)
 「鯉ヶ淵公園」の隣に「鶴見図書館」があり、その前に旧東海道と題した説明と東海道分間延絵図第一巻(部分)及び現在の旧東海道広域地図が掲げられている。
【⑦旧東海道】
 古代から多くの人に利用されていた東海道は、17世紀のはじめ、徳川家康により江戸と京都を結ぶ重要な街道として整備されました。宿場が設けられ、距離の目安として一里(約4Km)ごとに道の両側に一里塚を築きました。市場西中町には、この一里塚が片側だけ、今も残っています。 海に面して景色が優れていた鶴見や生麦は、川崎宿と神奈川宿の間の「間の宿(あいのしゅく)」としてにぎわい、名物「よねまんじゅう」を商う店や茶屋が繁盛したといいます。


【鶴見神社】 (右奥)
 次の「鶴見駅東口入口交差点」を渡った先の道を右折すると鶴見神社があるが、正式な参道は、もう一本先の斜め後へ戻る道である。

 鳥居をくぐると大きな溶岩石の上に狛犬が乗っており(暗いが左の写真参照)、拝殿うしろの本殿も溶岩石の上に建っていた。

 拝殿右側に、先ほど複製で見た寺尾稲荷道道標の本物が移設されている。

【寺尾稲荷道道標】 横浜市地域有形民族文化財(平成18年11月1日登録)
 寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋(元鶴見川橋)付近から寺尾・小杉方面への分岐天にあった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社境内に移された時に、移されたと思われます。昭和三十年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行った際、 道標が埋没しているのが発見されました。
   正面には「馬上安全 寺尾稲荷道」
   右側面には「是より廿五丁」
   左側面には「宝永二乙酉二月初午
           寛延三庚午十月再建
           文政十一戌子四月再建之」
 とあり、二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さをうかがい知ることができます。
 寺尾稲荷は、寺尾城址の西山麓に祀られ、現在は地名が馬場となったことから馬場稲荷と呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。
     平成十九年三月 横浜市教育委員会

 その他に、鳥居をくぐった右側に鶴見の田祭り再興の碑、右側の狛犬の後に鶴見神社境内貝塚の説明板等が立っているが、神社自体の由緒は見当たらなかった。

【鶴見の田祭り再興の碑】
 昔より当社旧杉山大明神に田祭りの行われしが明治初年廃絶せり。
 復活の念篤き有志相集いて昭和六十二年再興せり。
 十年の春秋を経ぬればこれを後世に絶ゆることなく伝承せむとして記念の碑を建立するものなり。
     鶴見田祭り保存会
【鶴見神社境内の貝塚】 横浜市指定史跡(平成20年11月11日指定)
   時代 弥生時代末期~古墳時代前期
 この貝塚は、横浜市北部を流れ東京湾に注ぐ鶴見川の河口近くの沖積低地に位置します。平成二十年二月の発掘調査で、本殿前の東西約五~八m、南北約十mの範囲に、厚さ七十~八十㎝の貝層が良好な状態で遺存することが確認されました。 また、周辺からは、貝塚と関連が想定される古墳時代前期の縦穴住居跡も発見されています。この貝層を構成する貝種は、二枚貝ではカガミガイ・ハマグリ、巻貝ではイボキサゴが主体であり、八種類以上の鹹水産貝種からなっています。
 一般に貝塚は、縄文時代のものが多く知られますが、この時期のものが良好に保存されている例は少なく、貴重な遺跡です。
     平成二十一年三月 横浜市教育委員会


【信楽茶屋】 (左側)
 鶴見神社の参道を通って斜めに旧東海道と合流した右後左側の「らーめん 信楽茶屋」前の歩道上に、『江戸名所図会』(下の写真)と共に信楽茶屋の説明板立っている。

【⑥信楽(しがらき)茶屋】
 信楽茶屋は、東海道の立場として栄えた鶴見村の中で最も大きな茶店でした。「江戸名所図会」にも描かれ、古いのれんをほこり、繁盛しました。竹の皮に包んだ梅干を売り、大山石尊(現・大山阿夫利神社=伊勢原市)祭礼の時には、ことににぎやかだったといいます。(図会では「鶴見村」を誤って「生麦村」と記しています)
 *立場:宿場と宿場の間にある「間の村」で、人や馬が休憩したところ

【身録道(みろくみち) (右側)
 鶴見神社の参道を通って斜めに旧東海道と合流した右側に身録道の説明板が立っている。
 この斜め向かいには、上記【⑦旧東海道】と同じ内容の④旧東海道の説明板が立っている。

【⑤身録道】
 ここから杉山明神(現・鶴見神社)へ向かう参道は身録道と呼ばれていました。境内に富士塚があり、富士信仰を広めた食行身録(じきぎょうみろく)の像がまつられているからです。江戸時代は富士信仰が盛んでしたが、富士山に登ることはなかなかできないので、富士山を模した塚を築き、これに登り、参拝したのです。各地に多くの富士塚が築かれました。

【名主・佐久間家】 (右側)
 身録道の説明板から少し鶴見駅方向へ進んだ右側に名主・佐久間家の説明板が立っている。

【③名主・佐久間家】
 ここには、江戸時代に、代々、鶴見村の名主を務めた佐久間家の屋敷がありました。
 代官用の玄関・敷台をもつ当時の建物が2001年(平成13年)まで、ここに残っていました。名主は村人に年貢やお触書など幕府の命を伝える一方、さまざまな交渉事に村人を代表してあたる村の世話役でした。当時、鶴見川がしばしば氾濫し、村に大きな被害を与えていましたが、こうした災害時にも、村人のために尽くしたと伝えられています。

【鶴居堂(かっきょどう) (左側)
 名主・佐久間家の説明板の向かいに鶴居堂の説明板が立っている。

【②鶴居堂】
 ここは、せきの特効薬「苦楽丸」で街道筋に知られた「鶴居堂」を営む黒川四郎左衛門の屋敷がありました。鶴居堂の名は、ある日、4羽の丹頂鶴がこの屋敷の庭先に舞い降りてきたことに由来しています。鶴居堂は明治の末ごろに姿を消したそうですが、「苦楽丸」の看板を掲げた「黒川薬局」の建物が昭和20年代の初めまで、現在の鶴見銀座商店街(ベルロードつるみ)のマルハチ文具店のあたりにありました。

<お土産情報> 
 旧街道は右に「JR鶴見駅前広場」、正面に「京急鶴見駅」が見える大通りに出る。その右角に上記【⑦旧東海道】と同じ内容の①旧東海道の説明板がみたび立っていた。
 旧東海道は、大通りを横断して左へ、京急のガードをくぐったらすぐ「京急鶴見駅」の左側の道(東口)へ右折する。
 ここで、「京急鶴見駅前」においしい店が2軒あるので紹介する。二つとも鶴見駅に行ったときは必ず購入する程のお気に入りである。価格は2013年現在。
【よねまんじゅう】

 大通りに出た所で横断せずに左折して、京急のガードをくぐった少し先の左側に創業90年の「清月」菓子店がある。
 ここで売っている、江戸時代の鶴見名物を近年復活させたよねまんじゅうがお勧め。
 ごく薄い羽二重餅で餡を包んだ小振りの和菓子で、饅頭ではなくやわらかい大福の食感。こし餡・白餡・梅餡の3色あり、箱入りの他、バラ売りもしてくれ一個85円。夏は冷やして食べると最高。

 『江戸名所図会』によると「海道に架す所の橋の号も又鶴見橋と呼べり。水源は多摩郡小野路・都築郡長津田・橘樹郡馬絹の辺より発して、恩田川・早淵川・矢上川・鳥山川・佐江戸川の川々落合ひ、鶴見村に至る。故に鶴見川の号あり。」と記され、また挿入鶴見橋の図には「橋より此方に米饅頭を売家多く此地の名産とす」とうたわれている 。
【コーヒーあんぱん】
 「京急鶴見駅東口」の旧東海道に戻り、駅東口を過ぎたすぐ先右側の「エスプラン」は、各テレビ局がパン特集の際に必ず紹介するパン屋で、ここのコーヒーあんぱんがお勧め。一個170円でこちらも冷やして食べると美味しい。店でも冷蔵ケースに置かれている。


【總持寺】 (右奥)

 京急鶴見駅から約400m(5分)進んだ十字路に立つ案内板に従って右折し、JR線を歩道橋で渡ると曹洞宗大本山總持寺の参道に出る。
 参道入口の左側常夜灯の前にある電話ボックスは、大正時代風のボックスで現在の電話機の上に昔のハンドル式電話機のレプリカが置かれていたのがユニークだった。
 参道の左側に鶴見大、広い境内を通り抜けた奥に鶴見大附属高校がある。参道の途中には「千年の森」と刻まれた石碑があった。
 高校生が沢山通う広い参道を進むとまず総門三松関
(さんしょうかん)があり、その先に大きな三門が建っている。
 三門をくぐって右手向唐門を見ながら右に曲がり、金鶏門をくぐると右前方に大祖堂が、左前方に仏殿が見える。
三松関】
 総門の扁額には「三樹松関
(さんじゅしょうかん)と書かれ、總持寺中興の祖である石川素童禅師が揮毫されたもので、總持寺の祖院がある石川県能登には、みごとな龍の形をした三本の松があったことに由来しているとのこと。
【三門】 
(下・左の写真)
 総門をくぐり、七堂伽藍の最初に出会うのが三門。昭和44年の落成で、鉄筋コンクリート造りでは日本一の大きさとのこと。左右に仁王像が納められている。
【向唐門】 
(左から二番目の写真)
 後醍醐天皇以降、歴代天皇より勅願寺として仰がれたので「勅使門」の名を残したとのこと。
【大祖堂】 
(左から三番目の写真)
 本堂客殿。千畳敷の大道場で、諸種法要や修行が行われる場。
 2013年に訪れた日は、10名出席の法要で、僧侶が約70名。若い僧が多かったのでおそらく修行も兼ねた法要と思われる。仏壇の前を、お教を唱えながら僧侶がぐるぐる回っているのは壮観だった。
【仏殿(大雄宝殿)】 
(下・右の写真)
 七堂伽藍の中心部に配置されている殿堂で「大雄宝殿」の扁額が掲げられていた。
     


【慶岸寺】 【子育て地蔵】 (右側)
 總持寺から旧東海道に戻って少し行くと、第一京浜国道の「下野谷入口交差点」に出るので、これを渡って直進方向(国道からは左斜め)の道へ進む。
 旧道に入るとすぐJR鶴見線のガードをくぐる。ガード下の左側に「旧国道架道橋」の銘板が掲げられ、右側のトンネルが「国道駅」入口である。
 ガードをくぐれば「生麦魚河岸通り」で、この先しばらくは鮮魚店が軒を並べている。

 ガードから200m程の右側に子育て地蔵尊の扁額が架かるお堂があり、その奥に慶岸寺があるが、謂れ等も無く見るべきものも無かった。
  
鶴見線のガード  子育て地蔵尊と慶岸寺  生麦魚河岸通り


【道念稲荷神社】 (右側)
 「蛇も蚊も祭」の垂れ幕が架かる旧道を慶岸寺から数分進むと、右側に道念稲荷と刻まれた丸い石標と赤い鳥居が18本並ぶ神社が見えてくる。
 参道入口右側に蛇も蚊もの説明板が、また、翌日開催される祭りの立て看板「横浜市指定無形民族文化財 蛇も蚊も 現地公開日六月第一日曜日午前八時三十分 本宮道念稲荷社」が立っていた。
 奥まった所に建つ本殿前の旗竿の支柱に道念稲荷の謂れと発起人の名前が刻まれ、その後に蛇も蚊も発祥の地碑が建っている。

 【道念稲荷】
 當道念稲荷は新編武蔵国風土記稿橘樹郡巻之九 神奈川領生麦村の条に記述ある古祠なり。
    當社別當生麦山龍泉寺

【蛇も蚊も発祥の地】
 道念稲荷神社 蛇も蚊も発祥の地
   蛇も蚊も出たけ
    日よりの雨け
     東部本宮町・西部本宮町

【蛇も蚊も】 横浜市指定民族文化財(平成4年11月1日指定)
   行事の日 六月第一日曜日
   保存団体 本宮蛇も蚊も保存会
 蛇も蚊もは、約三〇〇年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。この行事は、旧暦の端午の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の六月六日になり、近年は六月の第一日曜日に行われるようになっています。
 萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで、「蛇も蚊も出たけ、日和(ひより)の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。もとは、原地区(神明社)が雌蛇、本宮地区(稲荷神社)が雄蛇を作り、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、現在は両社別々の行事となっています。
     平成二十四年二月 横浜市教育委員会


【翌日の6月2日(日曜)に車で「蛇も蚊も祭」に行ってきた】
 萱で作った長い蛇を、頭は大人が胴は子供たちが持って、神主の先導で「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回り、一軒一軒、玄関や縁側から蛇の頭を突っ込んで悪霊を食べるような行動をしていた。

      


【生麦事件発生現場】 (右側)
 道念稲荷神社から数分進んだ右側の民家のフェンスに生麦事件発生現場の説明板が掲げられている。

   説明文は漢文調で分かりにくいので、写真をそのまま載せる。 
   【生麦事件について】
 文久二年(1862)、薩摩藩の島津久光一行が江戸をたち帰途の途中、ここ生麦村に差し掛かったところ、乗馬したイギリス人リチャードソンら4人が行列の前に現れた。「下に下に」の意味が分からない狭い道路で騎乗のまま横切った為、無礼と見た久光の共の者が4人に斬りかかり、リチャードソンは死に、二人が重傷を負った。
 薩摩藩が犯人引渡し要求に答えない為、翌年英国公使は幕府に謝罪状の提出と賠償金、薩摩藩に賠償金と犯人処罰を要求した。幕府は応じたが、薩摩藩は拒否したため7月薩英戦争が勃発した。


 左下の写真が事件発生現場。
 右手前民家のブロックの上のフェンス左端に説明板が小さく見える

【神明社】 (右側)
  幅の広い道路を渡って、「キリンビール横浜工場」が見えてきた手前右奥に、赤い鳥居が見えるのが神明社

 「生麦神明公園」内にある小さな社で、境内左手には遊具があった。鳥居左のフェンスの端に立っているのは、「横浜市指定・蛇も蚊も」の標柱。
 この神社の謂れ等は無かったが、先ほどの道念稲荷神社とほぼ同文の『蛇も蚊も』の説明板(平成五年版)が立っていいて、こちらが原地区の蛇になる。

 右手、ブルーシートのテントで覆われた中に沢山の萱の束が干されていた。明日の祭り用の蛇を作った残りかも知れない。

【蛇も蚊も】 横浜市指定民族文化財(平成4年11月1日指定)
   行事の日 六月第一日曜日
   保存団体 本宮蛇も蚊も保存会
 蛇も蚊もは、約三〇〇年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。この行事は、旧暦の端午の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の六月六日になり、近年は六月の第一日曜日に行われるようになっています。
 萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで、「蛇も蚊も出たけ、日和(ひより)の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。もとは、原と本宮で一体づつ作り、原のものが雌蛇、本宮のものが雄蛇だといって、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、現在は両社別々の行事となっています。
     平成五年三月 横浜市教育委員会

【生麦事件碑】 (右側)
  左側キリンビールの敷地内の旧東海道に沿って2013年現在、首都高「横浜環状北線」の工事(H23.12.9~H27.5.10)が行われていた。
 神明社から4分進んだ右側のポケットパークに高速道路工事の為に仮移設された生麦事件碑と標柱が立っている。

   標柱には、横浜市教育委員会やキリンビール等が後援した「生麦事件130年追悼記念祭 平成四年八月十一日」と書かれていた。
 但し、この場所に置かれるのは平成28年末までの予定で、高速道路工事が終われば本来の第一京浜(国道15号線)に旧道が合流した少し先の左側に戻る
(左の地図参照・地図の下の空白部分がキリンビール工場)

 近くに生麦事件参考館がある。傍にあった地図を見逃したこともあるが、予約制と聞いているので行かなかった。
   【生麦事件碑】 横浜市地域史跡(昭和63年11月1日登録)
 文久二年八月二十一日(西暦1862年9月14日)、勅使大原重徳を奉じて幕政改革の目的を達し、江戸を出発した薩摩藩島津久光の一行は、東海道沿いの生麦村で騎乗のイギリス人四名と遭遇、行列の通行を妨害したとして護衛の薩摩藩士がイギリス人一名を殺害、二人に深手を負わせました(生麦事件)。この事件は、翌年薩英戦争を引き起こしました。
 明治十六年(1883)、鶴見の黒川壮三は、イギリス商人リチャードソンが落命した場所に、教育学者中村敬宇に撰文を依頼し遭難碑を建てました。

     平成二十二年十二月 横浜市教育委員会

【碑文表】
舊蹟
 文久二年壬戌八月二十一日英国人力査遜
 殞命干此處乃鶴見人黒川庄三所有之地也
 荘三乞余誌其事因為之歌々曰
 君流血号此海壖我邦変進亦其源強藩起首
 王室振耳目新号唱民権擾々生死疇知聞萬
 国有史君名傳我今作歌勒貞珉君其含笑干
 九原
 明治十六年十二月 敬宇中村正直撰
【碑文裏】
 彫刻師 飯島吉六

【訳文】
 文久二年壬戌八月二十一日英国人力査遜
(リチャードソン)此処に殞命(いんめい)
 乃ち鶴見の人黒川荘三所有の地なり
 壮三余に其事を誌さんことを乞う
 因て之が為に歌う、歌ひて曰く
 君此の海壖
(かいぜん)に流血す
 我邦の変進も亦其れを源とす
 強藩起って王室振るう
 耳目新たに民権を唱う
 擾々
(じょうじょう)たる生死疇(たれ)か聞いて知る
 万国に史
(ふひと)有り君が名を伝う
 我れ今歌を作って貞珉
(ていびん)に勒(きざ)
 君其れ九原に含笑せよ
 明治十六年十二月    敬宇中村正直撰


【キリンビール横浜工場】【キリン横浜ビアビレッジ(Beer Village)】 (左側)
 旧東海道が京浜第一国道に合流したすぐ左手に、キリン横浜ビアビレッジの入口がある。
 ビアビレッジ敷地内には、ここでしか飲めないオリジナルビールを提供するレストランが2棟と広い芝生があり、下の写真の建物に入ると、ブルワリーツアー(工場見学)が出来る。

 2002年当時は、いつでも自由に見学コースを回って最後に試飲が出来るシステムがあった。その時は長い間歩いてきた上、すきっ腹に2杯のビールを飲んでいい気持ちになった為、ここで終了することにして、ここから近い子安駅より帰宅した。
 ところが、2013年に行った時は自由見学が無くなっており、要予約の見学ツアーのみになっていた。2時間先まで予約が埋まっていた為、楽しみにしていた試飲はあきらめて街道に戻ることにした。

【キリンビール横浜工場の歴史】
 明治三年(1870)、アメリカ人W・コープランドにより横浜山手に初めて醸造所が開かれたことより、横浜は日本のビールの発祥の地として歴史に記されている。小さな赤レンガ造りのその醸造所はスプリング・バレー・ブルワリーと呼ばれ、のちにキリンビールへと引き継がれた。
 今でも我が家に近い横浜市中区の北方小学校に「ビール井戸」が残されており、隣のキリン公園にはビール発祥の地であることを記念して「麒麟麦酒開源記念碑」が建っている。
 1888年、キリンビールの前身会社が商品名「キリンビール」発売。
 1907年、麒麟麦酒株式会社創立
 1926年、現在の横浜工場完成(敷地面積約19万㎡)。
 1991年、キリン横浜ビアレッジが生まれる。
【工場見学の案内】
 所要時間;:約70分(製造工程案内50分、試飲20分)
 受付時間;10:00~16:30(毎時00分、30分スタート)
 案内人数;2名~100名
 休   館;月曜日(祝日は営業、翌日が休業)、年末年始 但し土・日・祝日は製造ラインが休止の為、映像での案内となる。

【偏照院】 (左側)
 キリン横浜ビアビレッジを後に、JR貨物線の「東海道生麦ガード」をくぐって第一京浜を西へ7分程進んだ「子安通り信号」を過ぎた左側、京浜急行の線路の奥に偏照院がある。



 踏み切りを渡ったすぐの山門をくぐった境内左側に赤い前掛けをした六地蔵、その横に『横浜市指定名木古木』のイチョウが、その左奥に『同』タブノキがある。

【相応寺】 (右奥) 2002年訪問

 「新子安駅入口」を過ぎ、産業道路の高架をくぐると26Kmポストがあった。更に「入江橋」を渡ると「京急子安駅入口交差点」に到着した所で偏照院から約20分。
 2002年の4回目はこの駅で終了としたが、その前に駅反対側の相応寺に寄り道をした。但し、2013年の時は行かなかった。

 京急とJR東海道線・横浜線のガードをくぐった所に相応寺がある。
 山門横に地蔵堂が建っていて、その前に『子安 厄除 子育地蔵尊』の標柱と新しい地蔵が立っていた。

【蓮法寺】 (右奥) 2002年訪問

 相応寺の前を左に進んで第二京浜国道(国道1号線)出ると、国道沿いの高台に蓮法寺がある。
 急な階段を上らなければならないが、浦島太郎伝説が伝わる寺で、浦島父子の供養塔がある。供養塔の後には亀の石造もある
(下の写真参照)

【浦島伝説関係資料】 横浜市地域有形民俗文化財(平成7年11月登録)

 横浜市神奈川区にも伝わる浦島太郎伝説は、観福寿寺に伝えられていた縁起書に由来すると考えられ ますが、同寺は慶応四年(1868)に焼失したため、縁起の詳細については確認できません。しかし『江戸名所図会』『金川砂子』などの文献には縁起に関する記述がみられ ます。

 それらによると、相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。太郎が 二〇歳余りの頃、澄の江の浦から竜宮にいたり、そこで暮らすこととなった。三年の後、澄の江の浦へ帰ってみると、里人に知る人もなく、やむなく本国の相州へ下り父母を訪ねたところ、 三百余年前に死去しており、武蔵国白幡の峰に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は、神奈川県の浜辺より亀に乗って竜宮に戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という内容です。

 この浦島伝説が伝わっていた観福寿寺の資料は、同寺とゆかりの深い慶運寺(神奈川宿で紹介)と、大正末期に観福寿寺が所在した地に移転してきた蓮法寺 (本寺)に残されています。

 蓮法寺の供養塔三基は、若干の欠損と近年にいたって手の入った形跡が認められ ますが、浦島伝説を今日に伝えるものです。

     横浜市教育委員会



 4回目の旅終了。京浜急行「子安駅」。

 今回の記録:街道のみの距離は、7.1Km(砂子一丁目交差点~子安駅入口交差点)
         日本橋から六里二十二町(26.0Km)

           寄り道を含めた実歩行距離は、 2日で13.2Km(京急川崎駅~子安駅)  総計50.2Km


 

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