江戸 (日本橋 → 三田駅) <旧東海道1回目>

2001年12月29日(土)  晴

 年末ぎりぎりだが、なんとしても東海道五十三次開通400周年記念の年に開始したかったので、道連れなしの一人でスタート。
 (日本橋の道路元標〜都営地下鉄「三田駅」)。


2013年3月7日(木)  晴 

 再度、日本橋から2001年度と同じ三田駅まで、寄り道をメインに考えて、妻と二人で歩いた。
 日本魚河岸跡を10:15スタート。


(注1:文中で街道の左側、右側とは京都に向っての左右)

(注2:到着時間も含め、記載無きは2013年時点に改訂)


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【江戸・日本橋】 次の品川宿迄2里(7.9Km)、京都・三条大橋へ125里33町(494.5Km)

安藤広重の東海道五拾三次之内・日本橋『朝之景』

大木戸が開かれ、「お江戸日本橋七つ立ち」をする参勤交代の大名行列が描かれている。

旅人は、暁け七つ(午前4時〜5時頃)に出発し、成人男子で一日に10里(約40Km)歩く。

日本橋から出発すると、川崎で昼食、一泊目は戸塚となる。

2013年現在の日本橋(南詰東側から撮影)


 

 日本橋が開通したのは、慶長八年(1603)旧暦の三月三日。


【日本橋】 10:25〜10:32

 日本橋北詰の西側に日本国道路元標(複製)と里程標(石碑)がある。

 道路元標の本物は日本橋の真中、道路の中央に設置されている。

 (左の写真は2001年撮影した複製の道路元標)

 この道路元標そばに里程標があり、西方面の下記都市への距離が刻まれている。

 北方面は、旧中山道1回目を参照。

「横浜市29粁」「甲府市131粁」「名古屋市370粁」「京都市503粁」「大阪市550粁」「下関市1076粁」「鹿児島市1469粁」

 

 北詰東側の「乙姫広場」は日本橋魚河岸跡で、記念碑(乙姫像)と石碑には『日本橋魚市場発祥の地』と刻まれている。

【日本橋魚河岸跡】

 日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町、小田原町、安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
 中でも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
 この魚河岸は、大正十二年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
 現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。

     平成十九年三月 中央区教育委員会

 

 日本橋の照明灯装飾品


 麒麟

獅子

【日本橋】 国指定重要文化財 (下記高札場跡に立つ説明板)

 日本橋がはじめて架けられたのは、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。

 幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。

 現在の日本橋は東京市により、石造ニ連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある道路元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。

 平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、同十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保存しています。

     平成十二年三月 中央区教育委員会

【日本橋】 日本国重要文化財 (下記高札を模した建造物の前の碑)

構造 形式

 石造二連アーチ橋 高欄付(青銅製照明灯を含む)

 附 東京市道路元標 一基

所有者

 国(建設省)

指定年月日

 平成十一年五月十三日 指定(建第二三六二号)

指定の意義

 明治期を代表する石造アーチ道路橋であり 石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である

 また 土木家 建築家 彫刻家が協同した装飾架橋の代表作であり ルネサンス式による架橋本体と和漢洋折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており 意匠的完成度も高い

 建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定

 

南詰西側は高札場跡で、現在は日本橋由来記など日本橋に関する説明文が掲げられている。高札場の説明文はないが、高札を模した建造物が建っている。

   【日本橋由来記】 (左の写真の高札を模した建造物に嵌め込まれている説明文)
 日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府諸大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンテ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス奮記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富賈豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雑閙沸クカ如ク橋上貴賎ノ来往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ白帆近ク碧波ト映帯ス眞ニ上圖ノ如シ
 明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
     昭和十一年四月 日本橋區

【道の起点としての日本橋】 ( 上の写真で高札の左横に立つ石碑に嵌め込まれている説明文)

 中央区日本橋1丁目〜港区新橋1丁目
 日本橋は古来街道の起点として広く親しまれ現在も交通の要衝として知られている。慶長8年に日本橋が架設されて以来、火災などによって改築すること19回を経て、明治44年3月石橋の名橋として現在の橋に生れ変わった。また日本橋から銀座にかけての中央通り一帯は近代的な街並で日本経済の中心地として今なお活況を呈している。

【日本橋橋詰の愛称】 

 日本橋の歴史は、慶長8年(1603)に家康の江戸幕府開府の際、南北の交通路として木橋が架設されて以来、幾度の変遷を経て、現在の石橋が明治4年4月に完成し平成3年4月には80才を迎えました。

 これを記念し、平成2年7月から平成3年5月にかけて広場の整備を行い、平成3年5月には完成式典が行われました。

 整備にあたっては地域の方々の意見をもとに、日本橋橋詰を都心のオアシスとして、人々の待ち合わせや地域の活性化になればと考え実施しました。

 この整備工事に合わせ、愛称を一般募集するとともに、その愛称を末長く親しんでいただくため、記念碑として保存することとしました。

     平成3年10月3日 建設省 東京国道工事事務所

南詰東側の「滝の広場」(交番前がある所)あたりは、かつての晒し場跡である。

 「さらし場」とは、女犯僧や心中者の生き残り等が人通りの多い場所に罪状を書いた高札と共に首かせをかけて見せしめのために長時間晒された場所である。


【北町奉行所跡】 (右奥) 11:10

 日本橋を出立して最初の「日本橋交差点」を右折するのが甲州街道で、東海道は直進する。

 「日本橋交差点」を渡って、すぐ先右側にある「丸善」で『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩』という古地図と現代図が併記されている図書を購入。価格も高く、持ち歩くには大きい本だが、名所・旧跡の位置や説明等が詳しく、鬼平や忠臣蔵の世界等も楽しめるので良い買物をした。今後はこの本をコピーして東京散歩に行こうと思う。(「丸善」には15分間滞在)

 ここで北町奉行所跡に寄り道する為、「丸善」のある「日本橋二丁目交差点」を右折して「東京駅八重洲北口」に向う。

 ところが、見当を付けた場所に見当たらず、うろうろする中、「大丸」デパート前に交番が見つかったことで場所が判明した。

 警察官が「非常に分かりにくい所にある」と、近い場所にも関わらず地図を示して丁寧に教えてくれた。行ってみたら本当に聞かなければ絶対に分からないだろうという場所に北町奉行所跡の説明プレートがあった。

 その場所とは、「外堀通り」の八重洲北口(出口)から二つの「大丸」ビルの間を抜けて「八重洲北口改札」前を右折すると「大丸北入口」があり、そのまま「大丸」のショウウインドウに沿って進むとすぐ、外に出る小さなガラス扉がある。その扉手前の壁の下方に北町奉行所跡説明プレートが嵌め込まれていた。

 八重洲北口の「JR東海ツアーズ」から見て斜め左の外部出口手前だが、足元にあるので気をつけないと見逃す恐れがある。

 (左の写真の『←ここ』にプレートが嵌め込まれている)

【都旧跡 北町奉行所跡】 (大正7年4月指定)

  江戸町奉行は徳川幕府の職制の一つで、寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていた。江戸町奉行は老中の支配に属し、配下の本所奉行、道役、小伝馬町牢屋、寄場奉行、町年寄りを統轄した。その職掌は府内の行政、司法警察の一切にわたっていた。定員は二名で南北両奉行に分かれ、月番で交代に執務したが時に応じて増減された。原則として旗本が任命され役料は三千石芙蓉間詰で勘定奉行の上座輩下に与力、同心などがいた。
 「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉影元(遠山金四郎)は天保十一年(1840)三月から三年の間、北町奉行の職にあった。

     昭和四十三年十月一日 東京都教育委員会


【歌川広重住居跡】 (左奥) 11:25

 東海道(中央通り)に戻り、「八重洲通り」と交差する「日本橋三丁目交差点」を左折して、次の細道を右折するとすぐ右側に歌川広重住居跡の説明板が立っている(「ブリジストン美術館」の裏)。

 説明板には古地図が載っていて、早速私が買ったばかりの古地図と比べてみた。それらによると、玄関は説明板が立っている道路側でなく、次の道を右折した道に面した南西向きだったことが分かる。

 説明板は、2001年当時のものから少し改訂された2007年版に変わっていた。

 浮世絵師歌川広重(1797〜1858)が、寛永二年(1849)から死去までのおよそ十年間を過ごした住居跡です。

 広重は、幕府の定火消同心安藤源右衛門の長男として、八重洲河岸(現在の千代田区丸の内二丁目)の火消屋敷で生まれました。十三歳のとき父母を失い、父同様定火消組同心になりましたが、文化八年(1811)十五歳のとき歌川豊広の門人となり、翌年には広重の号を与えられ、歌川を称することを許されました。

 天保三年(1832)霊岸島の保永堂から出した「東海道五拾三次」以来、風景画家として著名になり、江戸についても、「東都名所」、「江戸近郊八景之内」等を遺しています。特に、晩年に描いた「名所江戸百景」は、当時大鋸町と呼ばれていたこの地での代表作です。

 住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中村狩野家屋敷の隣にあり、二階建ての独立家屋であったといいます。

     平成十九年三月 中央区教育委員会


【江戸歌舞伎発祥之地】 【京橋大根河岸青物市場蹟】 (右側) 11:35
 再び東海道に戻り、地下鉄銀座線「京橋」駅を過ぎた「東京高速」道路下の右側に江戸歌舞伎発祥之地の碑が建っている。

【江戸歌舞伎発祥之地】

 寛永元年二月十五日 元祖猿若中村勘三郎 中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ 江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す

     昭和三十二年七月建立 江戸歌舞伎田史保存會

 江戸歌舞伎発祥之地の後ろに京橋大根河岸青物市場蹟が建っている。

【京橋大根河原青物市場蹟】

 遠く寛文の初め江戸数寄屋橋辺に處の人数名打倚りさゝやかなる青物の市を立てしに遠近の村村より作物多く集りぬ是等の廛はゆききの人或いは附近の人人に之を鬻ぐ数年ならずして廛の数増加し漸く市場の形整い江戸府民のため無くてはかなわぬ機関とはなりぬその後火災に羅りしにより東海道の要路にあった且つ衰運の便ある京橋川の北岸紺屋町へ移転す偶この市場への大根の入荷殊更多しきにより世の人大根河岸と呼び遂に京橋大根河岸市場と称うるに至るかくて二百余年を経たる明治十年京橋川南岸の太刀売と称する甘藷問屋数名を加入せしめ問屋三十七軒仲買十七名を数うるに至りしかば府尹の認可を得て組合を設立しここに始めて大市場としての規模完成す大正十二年九月大震災の厄難に遇いしも組合員は鋭意復興に努力し以前に優る盛況を呈す時に問屋六十八名仲買百五名なり昭和十年二月中央卸売市場法実施の一環として東京市中央卸売市場の開設さるに際し国家の要請否みがたく父祖三百年愛着の絆を断ちて・・の地を去り築地木場に入り問屋は一体となりて會社を起し仲買は旧態のまま開業すその後第二次世界大戦のため幾多の変革ありしも戦後再び旧状に復し業況益好調を極む斯る折ネ・京橋青物市場蹟記念碑建設の議起り期成會を組織しして之が実現に努め暫くその工を竣えたり依てここにその由来を記し開設以来二百八十余年の歴史を回顧し其盛時を偲ぶたよりとなす
     昭和三十四年六月 藤浦富太郎撰 江川碧潭書


【京橋跡】 (左側) 11:40
 江戸歌舞伎発祥之地碑反対側の高速道路下に、かつての京橋の擬宝珠欄干の親柱とその脇に説明文が建っている。

 説明文は昭和初期の文章で難読だったため、下記の転載文は正確性に欠けるかもしれない。

 京橋は古来より其の名著なる創架乃年ハ慶長年間なるしの如し明暦以降屢々架換へたれ天正十一年末現橋に改築せらる此の橋柱は明治八年石造り架換へられた当時の擬宝珠欄干の親柱ふして橋名の書ハ明治代詩人佐々木支陰乃揮毫と係るものなり

    昭和十三年五月

 京橋の名は、江戸から京都へ向う道の最初の橋という意味で名付けられたと言う。


【煉瓦銀座の碑】 (左側) 11:42

 京橋跡のすぐ隣に煉瓦銀座の碑ガス灯が建っている。

【煉瓦銀座の碑】 

 明治五年(1872)二月二十六日 銀座は全焼し 延焼築地方面に及び 焼失戸數四千戸と称せらる

 東京府知事 由利公正は罹災せる銀座全域の不燃性建築を企劃建作し 政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す

 煉瓦通りと通称せられ 銀座通り商店街形成の濫觴となりたり

     昭和三十一年四月二日

【煉瓦とガス燈】

 明治初期我が国文明開化のシンボルとして、銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明は、ガス燈が用いられた。

 床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時のままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、明治7年の実物を使用、燈具は忠実に復元。


【銀座発祥の地(銀座役所跡)】 

 現在の銀座二丁目左側の道路側に銀座発祥の地碑があったはずだったが、今回「ティファニー」に見惚れて碑を見逃してしまったので、2001年に写した説明文を載せる。

 慶長十七年(1612)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す当時町名を新両替町と称しも通称銀座町と呼称せられ明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる

     昭和三十年四月一日建之 銀座通連合会


南町奉行所跡】 (右奥) 12:45

 有楽町駅中央口前広場(有楽町イトシアと交通会館の前)の駅出口から地下へ下りるエスカレーター施設の壁に、再現された石組と共に南町奉行所跡の説明板が嵌め込まれている。 説明板には「大岡越前守御屋敷」墨書札や発掘現場の写真、有楽町駅附近の現在地図と古地図も記載されている。

【南町奉行所跡】 東京都指定旧跡(大正7年4月指定)

 江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など他方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれて月番で交代に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。

 南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。

 再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業所内でベンチなどに活用しています。

     平成19年(2007)10月 千代田区


【銀座柳の碑】 (左側) 13:08
 銀座八丁目の高速道路をくぐった左側の郵便局前に銀座柳の碑が二世の柳の前に建っている。

 碑には、西条八十の詩と中山新平の譜面が刻まれている。

 左の写真で、右側の木が銀座の柳二世である。

 植えてうれしい銀座の柳

 江戸の名残りのうすみどり

 吹けよ春風紅傘日傘

 けふもくるくる人通り


【日比谷神社】 (左側) 13:15

 旧東海道は新橋駅前で、「中央通り」から「第一京浜」と名前が変わり、「ゆりかもめ」とJRのガードをくぐって浜松町へ向う。

 JRのガードをくぐったすぐ左側に日比谷神社がある。

 旅の安全を祈願して先へ進む。

 次の「新橋五丁目交差点」を右折して750m程行った突き当りを左折するとすぐ、愛宕山があり頂上に愛宕神社が建っている。愛宕山は海抜26mに過ぎないが、江戸時代は目立つ山で多くの参詣客がここの眺望を楽しんだそうだ。私達は行かなかった。

 「浜松町一丁目交差点」で街道は少し左に曲る。次の「大門交差点」手前右側に芝大神宮がある。ここも街道から見ただけで寄らなかったが、江戸の町火消「め組」と力士の大喧嘩の舞台として有名。


【旧芝離宮恩賜庭園】 (左奥) 13:40〜14:15

 「大門交差点」を左折し、JRのガードをくぐれば浜松町駅の海側に旧芝離宮庭園がある。入園料:150円。

【江戸の風情を今に残す大名庭園】 

 当庭園は、今に残る江戸時代の大名庭園としては、最も古いものの一つです。作庭の時期は延宝6年(1678)から貞享3年(1686)までと推定されています。

 池を中心とした回遊式泉水庭園で、力強く豪華絢爛な築山上の石組は往時のおもかげを偲ばせています。

 園内の見どころとして池泉、中島、西湖の堤、雪見灯籠、藤棚などがあります。

 昭和54年6月に国より名勝の指定を受けました。

【旧芝離宮恩賜庭園の由来】

 延宝6年(1678)、徳川将軍家から埋立地であったこの地を拝領した老中大久保加賀守忠朝はここに屋敷を造り、作庭を始めました。庭は貞享3年(1686)までに完成し、「楽寿園」と命名されました。これが本庭園の起源です。

 「楽寿園」は典型的な回遊式庭園で、園景の中心には江戸の水辺庭園特有の潮入の池があり、干満によって景色が変化するよう工夫されていました。池泉の中央部には中国杭州の西湖堤を模した堤や蓬莱山を表した中島など中国の趣を取り入れ、築山のうえから白帆の行きかう沖合の海の展望にも意を注ぐつくりでした。その後、大久保氏より数氏を経て宮内省が買い上げて明治9年「芝離宮」となりました。

 明治24年には迎賓館としての役割を果たすために園内に洋館を新築し、以来、多くの外国貴賓を迎えました。

 大正12年の関東大震災で洋館等が消失したものの翌13年1月、昭和天皇の御成婚を記念して東京市に下賜され、市では震災復旧を行い、同年4月に「旧芝離宮恩賜庭園」として一般に公開しました。

 現在は周囲の埋め立て、林立するビルにより潮入の機能、海の展望は失われましたが、中島の蓬莱山をはじめとする石組の妙は昔日の面影を残しております。昭和54年、文化財保護法により「名勝」に指定されました。

 総面積は43,175.36uです。


【濱松町-町名の由来】 
 下記文章は、2001年に場所は忘れてしまったが、大門交差点を過ぎた辺りの左側に立っていた説明板『濱松町・町名の由来』を転載したものだが、2013年現在も同じものが立っているかは確認出来ていない。もしかしたら「金杉橋」を過ぎた所かもしれない。

 武蔵野の東南端、広く海に面したこの辺りは、その天然資源も豊かなる為、古くより人間生活が営まれ、古墳時代の遺跡として今も芝公園台上に残る、大古墳跡に見られる如く集落を形成。漁業を中心とする活動が盛んであったと思われ、その関係か古く由緒ある社寺(芝大神宮等)が近隣に現存する。その後乱世を迎え太田道灌、平川城(江戸城の前身)を築く頃には、町らしき形態に成長したと考えられ、天正十八年(1590)徳川家康の江戸城入城を見、城下町計画に着手。慶長三年(1598)その菩提寺増上寺を麹町より現在地に移転、更に武家を中心に町年寄、特権商人、地元住民による東側海浜地帯の埋立工事完成。慶長六年(1603)東海道を現国道15号線上に定め、此の東西両側には日常生活用品から産業用資材まで各種商人が軒を連ね商業地域の中心となり、その両後背に大名屋敷が並ぶ江戸の町が出現した。当時此の町は増上寺代官と兼務であった、名主奥住久右衛門の支配下で「久右衛門町」と呼ばれ、元禄年間には遠江(静岡県)浜松出身の権兵衛と言ふ名主と交替した事より、これ以後「濱松町」に改名され、明治、大正、昭和、平成と受継がれ現在に続いている。江戸では歴史ある数少ない「古町」のひとつである。

 尚、当町内には多くの史跡、旧跡(慶応義塾跡、新銭座跡、東京市電車庫第一号跡等)が点在している。

     (文責)加藤辰太郎


【金杉橋】 14:28
 「大門交差点」に戻り、その先の「首都高速」下に架かる金杉橋を渡る。

 かつては、ここまでが江戸市街の内とされた。

 現在は左の写真の様に、屋形船や釣り船が多数つながれている。


【七曲がり】 (右奥) 14:40

 「芝一丁目交差点」右角に、芝エリアの地図が掲げられていて興味深い旧跡が載っていたので寄り道をすることにした。

 ここまで、道中に掲げられていた地図をチェックしてきたが、ここの地図は名所案内的なものだった。

 それによると、この交差点から右に少し入った所にオランダ公使宿館跡(西應寺)七曲がり薩摩屋敷跡があるという。

 「芝一丁目交差点」を右折すると、次の十字路は直進が行き止まりと書かれていたので、そこを右折すると最初の左折道が七曲がりの入口となっている。

 この七曲がりの歩道には赤レンガが敷き詰められて実に綺麗な道となっているので、是非訪れて欲しい場所である。

 (左の写真は、6番目の曲りである「港区立芝小学校」前)

 西應寺は七曲がりの南側にあるのだが、後で行こうと思って忘れてしまった。


【薩摩島津藩上屋敷跡】 (右奥) 14:50

 七つ目の七曲がりを右折して、次の「芝3丁目交差点」(日比谷通り)を右折すると、すぐ左側に「セレスティンホテル」が建っている。

 そのホテルの左後ろに「芝さつまの道」と題する薩摩島津藩上屋敷跡の説明板が建っている(下の写真)


 島津藩上屋敷は広大で、東は「七曲がり」から西は「桜田通り」まであり、「セレスティンホテル」あたりがほぼ中央部だった。

 ここを見学後、都営地下鉄「三田駅」まで直行して帰宅した。



【江戸東京重ね地図(安政三年・1856年)】 (上の古地図の説明)

 江戸時代の芝周辺には、多くの大名屋敷がありました。なかでも島津藩の上屋敷は、周辺地域最大規模の屋敷であったことが分かります。上屋敷は、現在の第一京浜から日比谷通りをはさみ、三田通り(桜田通り)まで東西800m、南北約300mの敷地を有していました。

 当時の面影は、現在の首都高速都心環状線の下に流れる「古川」や上屋敷東端にあった「芝七曲がり」に見て取れます。



【江戸切絵図 芝高輪絵図(安政四年・1857年)】 (下の切絵図の説明)

 芝周辺の陸地化は、発掘調査の結果、弥生時代の頃にはだいぶ進んでいたことが明らかになりつつありますが、本格的な開発は江戸幕府の成立以降ととともに始まります。

 その頃の海岸線は現在のJR線の「田町」駅より内陸寄りにあり、この場所一帯は江戸の街づくりが進むにつれ、多くの大名屋敷や町屋、寺社などが軒を連ねるようになります。また当時の東海道(現在の第一京浜道路)の辺りには、江戸入り、旅立ちの人々のための一服茶屋も並んでいました。


【西郷隆盛・勝海舟会見の地碑】

 都営地下鉄浅草線「三田駅」すぐ手前の「三菱自動車工業」前に江戸開城 西郷南州・勝海舟 會見之地碑が建っている。

 三田駅入口に日本橋から5Kmの標示があった。

【田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内】

 この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸 100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。

 この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られてくる米などを、ここで陸揚げされ ました。

 現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線で す。

 また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。



1回目の旅終了

 2001年:15:00 都営地下鉄「三田駅」 2時間

 2013年:15:10 都営地下鉄「三田駅」 4時間55分

 今回の記録(2013年):街道のみの距離は、5.0Km (日本橋〜都営地下鉄・三田駅前)

                日本橋から、一里十町(5.0Km)

                寄り道を含めた実歩行距離は、10.3Km (JR総武線・新日本橋駅〜都営地下鉄・三田駅)
                歩数:14,850歩(2015年)


 

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