御朱印でめぐる鎌倉三十三観音(四日目)


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2022年12月10日(火) 快晴  (夫婦二人旅)
 
鎌倉駅東口からバスで「大仏前」迄行き、11:00スタートして、徒歩にて四観音を巡る。
 今回は四ヶ所の観音しか回らないので朝ゆっくりのスタートにした。


〔コース〕 (~バス・電車、…徒歩)
 鎌倉駅東口~(京急バス)~大仏前バス停…
高徳院療養所跡碑…(昼食)…長谷寺…オルゴール堂…御霊神社…星の井…虚空蔵菩薩…六地蔵…極楽寺坂碑…成就院…伝上杉憲方墓…極楽寺極楽寺駅~(江ノ電)~鎌倉駅東口


【高徳院】 11:00~11:25
 鎌倉観世音第二十三番
 拝観時間:8:00~17:30(10月~3月は17:00) 拝観料:300円
 住所:長谷4-2-28

 宗派  浄土宗
 山号寺号  大異山高徳院清浄泉寺(だいいざん こうとくいん しょうじょうせんじ)
 創建  不明
 開山  不詳
 開基  不詳

 高徳院は、鎌倉のシンボルである大仏を本尊とする寺院だが、創建・開山・開基も不明、大仏の鋳造も建長四年(1252)に鋳造が開始されたこと以外は謎につつまれている。仏像としては鎌倉で唯一国宝に指定されている。

 参道に入り、2016年に修復が完成した『大異山』の扁額が懸かっている仁王門をくぐる。
  

 仁王門をくぐったら左手の券売所で拝観料を払い境内に入り、手水舎を回り込むと目の前に国宝の鎌倉大仏が。数十年ぶりの御対面である。
 大仏の重量は約12t、仏身高11.31m、台座を含めると13.35mである。

【国宝 鎌倉大佛因由】 
 この大佛像は阿弥陀仏である。源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局(いだののつぼね)が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。零細な民間の金銭を集積して造ったもので、国宝や王侯が資金を出して作ったものではない。初めは木造で暦仁元年(1238)に着工し六年間で完成したが、宝治元年(1247)大風で倒れたので、再び資金を集め、慶長四年(1252)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。原型作者は不明であるが、鋳工として大野五郎右エ門や丹治久友の名が伝へられる。大仏殿は建武元年(1334)と慶安二年(1369)とに大風に倒れ、その都度復興したが、明應七年(1498)の海潮に流失以来は復興せず、露像として知られるに至った。大正十二年(1923)の大震災には台座が崩れ、仏像は前に傾いたが倒れなかった。大正十四年(1925)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。昭和三十五、三十六年(1960-61)の修理では、前傾している頭部を支える頸部の力を、強化プラスチックで補強し、大正修理でなされた耐震構造を改め、大地震の際は、台座と佛体が離れる免震構造が施された。この強化プラスチックの利用と免震構造は、日本の文化財としては最初のものである。

総高(台座共)  一三、三五米
青銅佛身 高    一一、三一二米
面     長    二、三五米
眼     長    一、〇〇米
眉     長    一、二四米
口     広    〇、八二米
耳     長    一、九〇米
眉間白亳 経    〇、一八米
 〃    高    〇、一五米
螺髪(頭髪)高   〇、一八米
 〃    経    〇、二四米
螺  髪  数    六五六ヶ
佛 体 重 量   一二一トン(三万二千六百七十貫)

 大仏の周りには、大仏殿の疎石が並んでいる。近年の調査で高さが40m近い巨大建築だったことが明らかになっている。
 疎石はもともと60基あったとされているが、現在は56基残っているそうだ。明応七年(1498)の大地震で損壊し、以降露座になっている。
 写真の様に、大仏様は前かがみに佇んでいる。それは鎌倉時代の流行であるとの説や参拝者と目を合わせる為という説がある。
  

 大仏に向って右手の休憩所に大わらじが掲げられている。
 


【大仏様の藁草鞋】
 常陸太田市松栄町(旧郡戸村)の松栄(まつざか)子供会によって奉納された、長さ1.8m、幅0.9m、重量45㎏にも及ぶ藁草履です。
 この草履の制作・奉納は、戦後間もない1951年、「大仏様に日本中を行脚し、万民を幸せにしていただきたい」と願う、茨城県久慈郡(現常陸太田市松江町)の子供達によって始められました。
 松栄町会はその事績も後世に伝えつつ、1756年以降、3年に一度巨大な藁草履の制作を試み、当院への寄進を続けておられます。

 大仏の裏手に回ると、大仏の左後ろに寒月堂が建っている。


【寒月堂と観音像】 
 丹青に彩られたこの建物は、もとはソウルの朝鮮王宮にあったもので、1924(大正13)年、杉野喜精氏によって当山へ寄贈されました。 鎌倉三十三観音霊場23番札所ともなっている当山では、今日、この建物の中に江戸後期の作品とみられる木造の観音菩薩像を安置しています。 

 大仏の右後ろには与謝野晶子の歌碑が建っている。
   
かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は
   美男におはす夏木立かな    晶子

  


 その前には紅葉がまだ綺麗に残っていた。
  


 御朱印は大仏右手の寺務所で頂けるが、書き置きになる。納経料300円。
   


【桑ヶ谷療養所跡碑 (右側) 11:27
 バス通り(県道32号線)に戻って南下。次の左折道を入った直ぐ左側の民家の前に桑ヶ谷療養所跡碑が建っている。


     桑ヶ谷療養所跡
 今を遡る七百年の昔永仁年間鎌倉幕府執権北條時宗公が極楽寺僧良観房忍上人に命じ貧民救済の目的を以て療養所を設けたるはこの桑ヶ谷戸なりと云う。又文永年間大干魃による飢饉の際施粥の炊き出しをなしたるもこの地なりと伝えらる。
○来年去りて静かに偉人の善行を回顧すれば松韻風と共に来り我等に訓うるものあらん。茲に桑ヶ谷の歴史を伝え往時を偲ぶよしがとせんとす。
 極楽寺縁起に曰く、 或凶年ナル則集飢人深沢谷而施粥救餓と、また曰く 「爰元帥平時宗朝臣、請シテ上人一朝設齊延、間訊答話之因、及上人談千元帥公曰 治療病人者、八福田之随一ニシテ而仏菩薩之最行也、公開之不一感歎焉、故療病於桑谷、以集闔国之病者、而施治療」と。以てこれが証とすることを得べし 

【昼食 11:35~12:10
 次の「長谷観音前」信号の手前右側の二階にある「鎌倉土鍋ごはん kaedena.」で、ランチセットを頼んだ。
 写真は、『豚と高菜の土鍋ごはん』(1,500円)
  


【旅館對僊閣(たいせんかく) 12:12
 「長谷観音前」信号を右折して直ぐの左側に對僊閣という古い旅館が建っている。


【旅館對僊閣】
 鎌倉市景観重要建築物等第19号(平成12年10月1日指定)
 對僊閣は、明治末期よりこの場所で旅館業を営んでいます。4つの欄間窓、高欄、組子が密な格子窓を持った華やかな北側ファサードは、創建当初の姿をよく留めています。鎌倉における戦前の和風旅館として、歴史的にも大変重要な建物です。 

【長谷寺】 (右奥) 12:15~12:55
 鎌倉観世音第四番
 拝観時間:8:00~17:30(10月~2月は16:30) 拝観料:400円
 住所:長谷3-11-2

 宗派  単立(浄土宗)
 山号寺号 海光山慈照院長谷寺(かいこうざん じしょういん はせでら
 建立  天平8年(736) 
 開山  徳道上人(とくどうしょうにん)
 
 本尊の十一面観音像は日本最大級の木造の仏像です。
 寺伝によると、開山の徳道上人が大和国(奈良県)初瀬の山中で見つけた樟
(くすのき)の巨大な霊木から、二体の観音像が造られました。
 一体は大和長谷寺の観音像となり、残る一体は衆生済度の願いが込められ海に流されたといいます。その後、三浦半島の長井浦(現在の初声あたり)に流れ着いた観音像を遷し、建立されたのが長谷寺です。
 境内の見晴台からは鎌倉の海が一望でき、また、二千株を超えるアジサイをはじめ、四季折々の花木を楽しめます。
     鎌倉市

 左の「旅館對僊閣」、その斜め向かいの「鎌倉オルゴール堂」を見て進むと突き当りに長谷寺山門が見えてくる。

  

 山門左手の受付で拝観料を払い境内に入ると、目の前には二つの池を配し浄土を表現したという綺麗な庭園が広がる。
 写真は手前の妙智池
  

 「妙智池」と「放生池」の間を左に、山門から真っ直ぐの道を行けば本堂に登れるが、まず、「放生池」の奥へ進むことにした。
 すると、「放生池」のほとりに可愛い和み地蔵が佇んでいた。
  


 更に奥に進むと左に弁天堂、右に大黒堂が建っている。


【弁天堂】
 
寺伝によれば当山の八臂(はっぴ)の弁才天像は、弘法大師が廻国修行の折、当山の岩窟に参籠し感得して自ら刻まれた尊像といわれ、江戸時代には「出世弁才天」の名で世に知られていました。現在その尊像は観音ミュージアムに収蔵されています。(通常非公開)
このご本尊に代わり、堂内には「福徳弁才天」がお祀りされ、広く皆様にご利益をお授けしています。

 「弁天堂」の隣には堂内に弁天を祀る弁天窟がある。
 写真で右側の鳥居が入口、左の弁天堂側が出口になっている。 
  
  ここが入口。
  
  二つ上の写真の通り入口と出口は近いが、内部は折れ曲がった道が続き、思っていた以上の長さがある。
  堂内は薄暗く、壁面には弁才天とその眷属である十六童子彫刻されている。

  


 「和み地蔵」まで戻って、右の石段を上る。石段の途中に福壽地蔵を祀る地蔵堂がある。
  

 更に上った所の紅葉が綺麗だった。
  


 登り切って右手に鐘楼が建っている。
 現在の梵鐘は昭和五十九年に新鋳したものだが、観音ミュージアムには文永元年(1264)の銘を持ち、鎌倉でも常楽寺、建長寺に次ぎ三番目に古い梵鐘が展示されている。

  

 鐘楼の隣には阿弥陀堂が建っている。
 阿弥陀如来座像は、伝承によると源頼朝の厄災消除を祈願して造立されたもので、後年「厄除阿弥陀仏」として信仰を集めたとのこと。
 上品上生の印相を示す丈六の阿弥陀像は鎌倉でも希有な存在で、鎌倉六阿弥陀のひとつに数えられている。
   

 「阿弥陀堂」の左隣に本堂観音堂)が建っている。
 内部は撮影禁止のため観音様は写せないが、全身総開帳中の最大級の木彫仏に、しばらく見入ってしまった。
 2021年はご本尊造立1300年を迎え、その記念行事として2021年3月18日から2022年12月18日まで『御足参り(みあしまいり)』が毎日実施されていた。
 例年は12月18日の「観音会」のみ行われている全身総開帳で、千円の志納金を払えば内陣に入り、記念品の手ぬぐいを通じて観音さまの足に直接触れることが出来る。
 あと8日で『御足参り』が終わるのでぎりぎり行けて良かった。


 本尊の十一面観世音菩薩像
は、像高三丈三寸(9.18m)にの及ぶ本邦最大級の木造物です。
 当山に伝わる縁起によれば、養老五年(721)に楠の巨大な霊木から二体の観音像が像顕され、そのうちの一体が大和長谷寺の本尊となり、残る一体は衆生済度を祈願し、海中へ奉じられたといいます。
 その後、太平八年(736)に至り、相模国の長井浦(横須賀市長井)の洋上に忽然と顕れた尊像は鎌倉へ遷座され、当山開創の礎となりました。
 錫杖を右手に執り、岩座(金剛宝盤石)に立つ尊容は長谷寺に祀られる観音像特有の姿として「長谷寺式」と呼ばれています。
     長谷寺のパンフレットより

 本堂の左隣に観音ミュージアムがあるが、この日は臨時休館で残念ながら入館出来なかった。
 下の写真で中央が本堂、その右隣が観音ミュージアム。
  

 上の写真を写している後ろに見晴台があり、由比ヶ浜や三浦半島が望める。
 見晴台の脇には「海光庵」という食事処があり『お寺のパスタ・お寺のカレー・大吉だんご』等が用意されている。
  

 「観音ミュージアム」の左手に経蔵(輪蔵)があり、内部にマニ車が備えられている。




【輪蔵】 
一切経(仏教経典のすべて)を収める建物を経蔵と呼び中央の八角形の回転式書架を輪蔵と言います。

輪蔵の腕木を押して一回転させると一切経すべてえ読んだと同じ功徳が得られると言われています。

輪蔵は観音縁日(毎月18日)等に回すことができます。



【マニ車(摩尼車)】 
円筒状の側面にマントラが刻まれ中には経文が多数収められています。

マニ車を回転させるとその数だけ経典を唱えるのと同じ功徳があると言われています。

 「観音ミュージアム」と「経蔵」の間の小道を上って行く眺望散策路は、梅雨を迎える頃には「あじさい路」となり、通路の両側に40種類を超える紫陽花が咲き誇りる。
 紫陽花の季節でないので上らなかった。
  

 御朱印は本堂の中で頂けたが混雑時は書き置きになる。納経料300円。
  


【御霊神社 (右奥) 13:12~13:18
 「長谷観音前」信号に戻って南下。江ノ電の「長谷駅」横の踏切を渡って突き当りを右折。
 「星の井通り」信号を越えて次の左折道角に「力餅屋」がある。御霊神社(俗称:権五郎神社)の祭神鎌倉権五郎景政にちなんでつくられた「権五郎力餅」を買うつもりだったが、残念ながら本日は休みで購入できなかった。
 その御霊神社はここを左折して、江ノ電の踏切を渡った所にある。
  

 
 境内撮影禁止のため社殿を鳥居手前から写した。


【御霊(ごりょう)神社】 
 御霊とは、強く尊い祖先の御霊(みたま)の意で、神社の創建は、平安時代後期と伝えられています。桓武天皇の子孫で「鎌倉武士団」を率いた鎌倉権五郎景政を祀っています。
 景政は、「後三年の役」(1083年~)に十六歳で出陣して勇名をはせ、その後現在の鎌倉・湘南地域を開発した領主です。地元では「権五郎さま」と呼ばれ、親しまれています。
 毎年九月に行われる「面掛(めんかけ)行列」は、伎楽や舞楽、田楽などの古い面をつけた面掛衆が練り歩く珍しい祭事です。
     鎌倉市

【星の井 (右側) 13:22
 「力餅屋」に戻って、その隣が「あっぷるぱい孝太郎鎌倉本店」。
 その先に星の井があり、蓋がかぶっている井戸、石碑、標柱、説明文が立っている。


【星の井(ほしのい)】 
 この井戸は、鎌倉十井の一つで、星月夜の井、星月の井とも呼ばれています。
 昔、この井戸の中に昼間も星の影が見えたことから、この名がついたといわれています。
 奈良時代の名僧・行基は、井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建てて虚空蔵菩薩をまつったという伝説もあります。
 井戸の水は清らかで美味だったので、昭和初期まで旅人に飲料水として売られていたそうです。
     平成11年12月 社団法人鎌倉青年会議所 

星月井 
星月夜ノ井ハ一星ノ井トモ言フ鎌倉十井ノ一ナリ
坂ノ下ニ屬ス
往時此附近ノ地老樹蓊欝トシテ晝尚暗シ故ニ稱シテ星月谷ト曰フ
後轉ジテ星月夜チナル井名蓋シ此ニ基ク
里老言フ古昔此井中晝も星ノ影見ユ故ニ此名アリ
近傍ノ婢女誤テ菜刀ヲ落セシヨリ以來星影復タ見エサルニ至ルト
此説最モ里人ノ為メニ信ゼラルルガ如シ
慶長五年六月徳川家康京師ヨリノ歸途鎌倉ニ過リ特ニ此井ヲ見タルコトアリ
以テ其名世ニ著ハルルヲ知ルベシ
水質清冽最モ口ニ可ナリ
   昭和二年三月建 鎌倉町青年團

星の井寺(虚空蔵堂)】 (右側) 13:24~13:30
 「星の井」の隣に星の井寺があり日本で三体しかないと言う虚空蔵菩薩が安置されている。
 石段上り口右側に立つ『本尊 虚空蔵菩薩』と刻まれている石標は元禄十年三月十三日建立のもの。
 左側の標柱には『日本唯三体 虚空蔵菩薩像安置』と書かれている。
  

 石段を上りきった直ぐ右側に小さな「星の井水神」の祠が置かれ、正面に虚空蔵堂が、左手前に舟守地蔵の祠が建っている。

【明鏡山円満院星の井寺】 (御本尊虚空蔵菩薩安置) 
 天平年間、聖武天皇の御代に諸国行脚中の行基僧正が当地の古井戸「星月の井」に明るく輝く明星の光が移るとのうわさを地元民から聴き、井戸をのぞくと中に虚空蔵菩薩のお姿が写し現われていた。行基はそのお姿を仏像に彫り当地にお堂を建立し安置した。
 かの像は明星の照曜の如き光を放ち、鏡に影の移る如くでありました。以後数百年経って幕下の征夷大将軍源頼朝公はこの菩薩を崇敬し、この菩薩像を内陣仏の秘仏とし、仏師運慶に外陣仏を作らせた。これが前立尊であるという。秘仏虚空蔵菩薩はわが国では唯三体の木彫の仏像で大変貴重な仏像であります。
 これに加えてこの御仏は明星と一体で、その分身であり限りない智恵をそなえた御仏で、経典では虚空蔵菩薩は、西方香集世界の教主で娑婆世界の苦難する人々の利益のために無不畏陀羅尼を説くことを、釈迦・敷蔵の二仏に許された御仏であります。即ちその本尊に礼するものは三世十方一切の諸仏を礼することと同じであるといわれます。
 又、虚空蔵菩薩を本尊として修行する虚空蔵求聞持法では心を静かにしこの真言を唱えれば天より明星が口に入り、菩薩の威はあらわれて頭脳は明晰となり記憶力は増進するといわれております。
 秘仏であるが衆生に縁を結ばせるべきであるとして三十五年一度に開帳し衆生にその「お姿を拝する事が許されました。
 近代に至り熱心な信仰者の意に添うようにを毎年正月十三日に開帳し善男善女もそのお姿を毎年拝することが出来るようになりました。
 正月十三日の初護摩供養には、丑年寅年の人々の守本尊として、また、智恵、記憶力をお授け下さる虚空蔵様として地元民をはじめ各地より善男善女が参詣に集まります。    

【舟守地蔵】 (虚空蔵境内安置)
 いつの時代に開眼されてお地蔵であるか不明であるが往年より海上安全、大漁満足、新宮安泰、海難、水難除け、その他船舶水に関係した一切の事業に従事しておられる人々に大きな功徳をお授け下さるお地蔵として近郷、近在の人々に深く崇敬されております。
 また、その昔より願主の心清く精進すれば願い事を数日で成就させていただける有難いお地蔵様であるとも言い伝えられております。
     昭和五十九年七月 虚空蔵堂護持会

 このお堂は現在、向かいの「成就院」が管理しており御朱印も「成就院」で頂ける。
 創建  伝 天平年間(729~749年)
 開山  伝 行基
 開基  不明
 拝観時間 8:00~17:00(冬期~16:30) 


【日限六地蔵尊】 (右側) 13:31
 「虚空蔵堂」の直ぐ先少し坂を登った所に日限六地蔵が祀られている。


【日限六地蔵尊】 
 当地蔵尊は道行く人々を御守下さり、お地蔵様の眼のとどく範囲で事故がおきても大事にいたらないと云はれ、また善男、善女が邪心を捨て心を清くもち願い事を期日を極めておすがりすれば、その期日までに功徳がいただける有難いお地蔵様であるとして、いつの世か日限地蔵と稱されるようになったと言い伝えられております。
 近年なり盗難・悪戯が激しく、こともあろうに心ない酔漢により佛像が破壊されるに至りました。これ等保護のためやむなく見苦しいシャッターを取り付けました。
     日限六地蔵護持会

【極楽寺坂碑 (右側) 13:32
 更に少し登った右カーブする所に極楽寺坂碑が建っている。


極楽寺坂 
此所往古疊山ナリシヲ極樂寺開山忍性菩薩疏鑿シテ一條ノ路ヲ開キシト云フ
即チ極樂寺切通ト唱フルハ是ナリ
元弘三年ノ鎌倉討入リニ際シ大館次郎宗氏江田三郎行義ハ新田軍ノ大将トシテ此便路ニ向ヒ
大佛陸奥守貞真ハ鎌倉軍ノ將トシテ此○ヲ堅メ相戰フ
   昭和七年三月建 鎌倉町青年團

【成就院】 (左側) 13:34~13:53
 鎌倉観世音第二十一番
 拝観時間:8:00~17:00(11/1~3/1 ~16:30) 拝観料:志納 トイレ無し
 住所:極楽寺1-1-5

 宗派  真言宗大覚寺派
 山号寺号  普明山法立寺成就院(ふみょうざん ほうりゅうじ じょうじゅいん
 創建  承久元年(1219年)
 開山  弘法大師(こうぼうだいし)
 開基  北条義時(ほうじょうよしとき)

 かつて弘法大師(空海)が諸国巡礼の折に護摩供養の修法を行ったと云われる跡に、承久元年(1219)、鎌倉幕府三代執権北条義時が創建。1333年新田義貞の鎌倉攻めで焼失し西ヶ谷に移った。
 元禄元年(1688)に中興の祖:祐尊により元の地に再建され、現在に至る。

 「日限六地蔵尊」の向かいに成就院の東側階段がある。
 階段の入口に寺標が立ち、階段の途中に東結界門がある。

  

 階段を上りきった所で振り返ると由比ヶ浜が綺麗に見える。
  

 階段を上りきった向かいには西側の階段があり、左手に山門が建ち、扁額には『普明山』と描かれている。
 山門の左脇には大きな宝塔が建っていた。
  

 山門をくぐると正面に本堂が建っている。本堂の扁額には『成就院』と描かれている。
  

 成就院の境内にはいくつかの見所がある。
 本堂の前を右回りで巡ってみる。

 最初に置かれているのが成就院建立時の五輪塔の一部である。
  

 二つ目は、伝 文覚上人像(複製)
 説明板には「荻原守衛(碌山)が文覚
(もんがく)像制作に影響を与えた像」と書かれていた。
  

 三つ目は、『聖徳太子千三百年御忌記念建立』と書かれた和貴という夢殿を模した石造物。
  

 四つ目は、子安地蔵菩薩子生石
(こうみいし)。『安産・子育・子授けに功徳あり』とあった。
  

 五つ目は、本尊御分身 縁結び不動明王像(ご縁日 二十八日)。
  

 六つ目は、龍が乗ってる水盤(手水)。訪れた時はコロナ感染防止のため手水は停止していた。
  

 七つ目は、宗祖 弘法大師立像
  

 最後は、山門に座る可愛いなで蛙
  

 山門を出て左へ、西結界門より帰る。
  

 御朱印は本堂左手の庫裡の前に書き置きが御守等と共に置いてある。納経料300円。
  
  


伝上杉憲方墓】 (左側) 13:56
 極楽寺切通に下りて左へ85m。赤い桜橋の手前、アパートへの細い階段を上がった奥に上杉憲方墓がある。
 入っていいのか心配になる道だが、入口左に石標が立っているので、安心して入って行ける。
  




【伝上杉憲方墓】 国指定史跡(昭和2年4月8日指定)
 この場所はかつて西方寺と呼ばれる寺院の一角であった。極楽寺切通の出入口付近の斜面を人工的に削り、方形に造り出した空間に石塔が建ち並んでいる。上杉憲方の墓と伝えられる安山岩製七重層塔1基を中心に、その妻の墓塔と伝えられる凝灰岩製層塔1基と、凝灰岩製五輪塔4基、その他五輪塔の残欠が散在する。
 七重層塔の現存高は約290㎝で、相輪の頂部を欠いているが、全体的な残存状況は良好である。塔身に浮き彫りされた金剛界四仏の様相や、均整の取れた塔全体の形から、13世紀前半頃のものと推定される。
 上杉憲方(1335-94)は山内上杉氏の祖であり、武蔵国・安房国などの守護や鎌倉公方を補佐した関東管領を務めた。山ノ内に所在する明月院の開基としても知られる。この七重層塔を上杉憲方の墓とするには年代が合わないが、彼の墓が極楽寺にあると伝えられ、また、この付近に永和5年(1379)銘の彼の逆修塔(生前供養のための塔)も存在することから、この地が彼ノ墓所であるとの伝承が残されている。
     平成31年2月 鎌倉市教育委員会

【極楽寺】 (左奥) 14:02~14:16
 鎌倉観世音第二十二番
 拝観時間:9:00~16:30 拝観料:志納
 住所:極楽寺3-6-7

 宗派  真言律宗
 山号寺号  霊鷲山感応院極楽律寺(りょうじゅせん かんのういん ごくらくりつじ
 建立  正元元年(1259)
 開山  忍性菩薩(にんしょうぼさつ)
 開基  北条重時(ほうじょうしげとき) 

 開山は良観房忍性。奈良西大寺叡尊門下で戒律を学ぶ。弘長二年(1262)に北條業時
(なりとき)に招かれて多宝寺住持となり、その後文永四年(1267)に極楽寺に開山として迎えられました。
 極楽寺は正元元年(1295)に深沢に創建され、後に開基となる北条重時が現在地に移転したといわれています。元寇に際しては、幕府の命により異国降伏の祈祷を行い、また、鎌倉幕府滅亡後も勅命により国家安泰を祈る勅願所としての寺格を保ちました。かつての寺域は広大で、中心の七堂伽藍を囲むように多くの子院、そして療病院などの病院施設もあったことが当寺に伝わる絵図からわかります。
     鎌倉市

 桜橋を渡ってすぐ左折すると右側に極楽寺がある。
  

 茅葺きの山門前に上記説明文等が立っている。
  

 山門をくぐると桜並木の参道が続く。
  

 桜並木が切れた左手の客殿の前に極楽寺の井がある。


【極楽寺の井】 
 山門前を掘りおこした時に発見された井戸です。
 鎌倉石を八段積み上げての大きなものです。
 こヽで開山忍性菩薩が粥を施したと伝えられます。
 昔の人々にとって憩の井戸であったろうと思われます。

 その右手に八重一重咲分け桜が植わっている。


【八重一重咲分け桜】 
 北條時宗公がお手植えと伝えられ、現在の桜はその古株より発生したものである。
 一枝に八重と一重とが混生し、淡紅色の極めて美しい桜である。一名御車返しと云う。
 原産地は鎌倉桐ヶ谷と言われ、この桜は当地に存在する唯一のものである。

 その先右手に千服茶臼・製薬鉢が置かれている。


【千服茶臼・製薬鉢】 
 開山忍性菩薩が施薬悲田院、癩病所を設けた折に使用されたものと伝えられる。
 往古社会救済事業をなした極楽寺の貴重な遺品の一つである。

 参道の突き当りに本堂が建っている。


【極楽寺】 
当山は北条重時公の発願にして、正元元年(1295)の創建と伝えられる。
重時はその業半ばにして薨じ、その男執権 長時及び業時兄弟によって、文永年間(1264-1266)東西八丁、南北七丁に及ぶ寺域に七堂伽藍、四十九院を完備せる壮大な寺院が完成された。その後相次ぐ天災兵火の為当初の建物は失われ、現在、文久三年(1863)の再建なる山門及び本堂、大師堂、客殿が残るのみである。
開山忍性菩薩は勧学院を興して律の教学を広める一方、施薬院、悲田院、施益院、癩宿、馬病舎等を設け、病者、貧者の救済に努めた。現在境内に残る千服茶臼、石造製薬鉢にその名残りを止めている。又土木事業も盛んにし、極楽寺切通しを開いたことも有名である。その徳行は世に称えられ、嘉元元年(1303)八十七才で没した後、後醍醐天皇により菩薩号を送られている。

 御朱印は本堂左手の社務所で頂ける。但し、書き置きはないので朱印帳が無ければ頂けない。納経料300円。
  


【極楽洞】 14:18
 桜橋に戻って、橋の上から東側を望むと、江ノ電のトンネルが見える。これが極楽洞である。
 橋を渡った西詰に説明板が立っている。


【極楽洞】 鎌倉市景観重要建造物等第33号(平成22年11月24日指定)
 極楽洞は、「江ノ電」の愛称で親しまれている江ノ島電鉄株式会社が所有する煉瓦造りの坑門で、右手の桜橋から見ることができます。アーチの頂部に2箇所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいもので、今なお建設当時の原形をとどめています。
 江ノ電が極楽洞を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を偲ばせます。

【江ノ島電鉄(極楽洞・千歳開道)】 
 江ノ島電鉄は明治35年(1902年)に開業し、ほぼ当時の線路で営業している電車としては日本で最古である。
 極楽洞は、江ノ島電鉄唯一のトンネルで明治40年(1907年)竣工。藤沢方には極楽洞、鎌倉方には千歳開道と表示されており、建設当時の煉瓦張りがそのまま残されている。
 平成22年(2010年)、鎌倉市の景観重要建造物などに指定されている。
 延長209m、高さ5.285m、幅3.940m

【極楽寺駅】 14:21
 桜橋の西側に江ノ電の極楽寺駅がある。


桜橋から望む極楽寺駅


【江ノ島電鉄(極楽寺駅)】 
 江ノ島電鉄は明治35年(1902年)に開業し、ほぼ当時の線路で営業している電車としては日本で最古である。
 極楽寺は明治37年(1904年)開業。駅舎はかなり古い(昭和10年代)木造形式で、緑豊かな街並みの中に鎌倉らしい佇まいを見せる。
 平成11年(1999年)に関東の駅100選に選ばれている。
 駅舎の裏手に広がる石積擁壁は建設当時のもので、擁壁の上には駅名の由来にもなっている真言律宗の極楽寺がある。

 極楽寺駅で終了。江ノ電で大船へ。  



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