御朱印でめぐる鎌倉三十三観音(五日目)


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2022年2月28日(火) 快晴  (夫婦二人旅)
 『鎌倉三十三観音めぐり』も最終回になった。
 最終回は、北鎌倉周辺の七観音めぐりだが、2回目に訪れた「寿福寺」で山門不幸の為に御朱印を頂けなかったので、再度訪問して無事御朱印を頂いてから北鎌倉へ向った。
 鎌倉駅西口を10:30スタート。


〔コース〕 (…徒歩)
 鎌倉駅東口寿福寺…薬王寺田中智学師子王文庫跡…亀ヶ谷
坂…妙光院建長寺龍峰院(昼食)…明月院浄智寺東慶寺円覚寺佛日庵北鎌倉駅


【寿福寺】 10:37~10:53
 鎌倉駅西口より「今小路」を北上して寿福寺へ。最初に庫裡で御朱印を頂く。
 総門から境内に入るとすぐ右手に『
御朱印は書き置きのみ 受付とさせていただきます 数に限りがある事をご容赦願います』と掲げられていたので一安心。ここで御朱印を頂けないと最後の「佛日庵」で結印を頂けなくなる恐れがある為。
 参道を進み突き当りの中門を右に入り庫裡に向う。
 庫裡の入口に『関係者以外は立入り禁止』の張り紙があるが、御朱印を頂く方は入って良い。
  

 脇を通り中に入ると、庫裡の玄関脇に『霊場 鎌倉地蔵尊第十八番 鎌倉観世音第二十四番 鎌倉十三佛第四番 朱印所』の看板が掲げられている。
 その横の台の上に書き置きの御朱印が3種収められているケースが置かれていて、この中から希望の御朱印を取りだし、浄財箱に300円を納める方式となっている。
  

 頂いた御朱印納経料300円。
  


 無事に御朱印を頂いた後、前回訪問時に見逃してしまった、大佛次郎と高浜虚子の墓を探しに中門左手奥の墓地に向う。
 墓地への階段を上り、真っ直ぐ進むと左手に大佛次郎の墓がある。
  

 続いて右手方向崖下のやぐらに高浜虚子の墓がある。
  


【薬王寺】 11:00~11:06
 「寿福寺」を出て、直ぐ先の「寿福寺踏切」を渡り、線路沿いの道を進み、二日目に訪れた「「岩船地蔵堂」の前を右折する。
 曲がって直ぐ左側に薬王寺がある。


【薬王寺】
 
 宗派  日蓮宗
 山号寺号 大乗山薬王寺
 建立  永仁元年(1293)
 開山  日像上人

 もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。
 徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川・蒲生家と縁が深く、寺紋に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした。
 明治初期の廃仏毀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し
現山容を整えました。
 本堂正面の日蓮座像は、第十一代将軍家斉公の命により幕府が造立、説法形の口を開けた珍しい像です。
     鎌倉市

 本堂手前の右手に徳川忠長の供養塔が建っている。


【駿河大納言 徳川忠長公 供養塔】 
 駿河大納言徳川忠長公(三代将軍 家光公弟)は、粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、二十八才で自刃せられ所領も没収された。
 悲歎やるかたない奥方 松孝院殿(織田信長 次男 信雄の息女)は、時の当山三世恵眼院日珖上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み追善供養の為に当供養塔を建立した。
     昭和四十九年四月 鎌倉市文化財指定

【田中智学師子王文庫跡】 11:10
 「薬師寺」の先で上り坂になり、ややひだりカーブする右手に田中智学師子王文庫跡の石柱が建っている。
 田中智学(1861-1939)は、日蓮主義運動を展開した宗教家。
  


【亀ヶ谷坂(かめがやつざか) 11:13
 この先、亀ヶ谷坂と称するきつい上り坂になり、坂の途中右側に説明板が立っている。


上述「文庫跡」辺り

 坂の頂上付近から説明板(左の白い板)を撮影

【亀ヶ谷坂】 国指定史跡
 この道は、扇ガ谷と山ノ内とを結ぶ、亀ヶ谷坂と呼ばれる切通です。切通とは、山を切り開いて造られた道のことで、交通を容易にするとともに、防御の拠点ともなっていました。
 亀ヶ谷坂が造られた正確な時期はわかりませんが、13世紀の中ごろには切通として整備されていたようです。『吾妻鏡』によれば、幕府が鎌倉市中の7箇所の商業区域の1つとして「亀谷辻」を指定しており、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と、鎌倉市中を結ぶ亀ヶ谷坂は、経済的にも、軍事的にも、重要な場所だったことがわかります。
 江戸時代には「鎌倉七口」の1つに数えられるようになり、現在も生活道路として利用されています。
     平成24年3月 鎌倉市教育委員会 

【建長寺境内】 11:23~12:18
 「亀ヶ谷坂」を下ったら、突き当りを右折する。
 程なく建長寺天下門が左手に見えてくる。
  

 天下門をくぐり、駐車場を進むと左手に総門が現われる。


【総門】 
 建長寺は、鎌倉時代、建長五年(1253)、禅によって国の興隆をはかるため、執権北条時頼公の発願により、中国の禅僧・大覚禅師(蘭渓道隆)を開山として創建された、日本で最初の純禅の大道場です。
 建築は、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に連なる中国の禅宗様式にもとづいています。
 今の総門は、江戸時代、天明三年(1783)に京都・般舟三昧院で建立されたものを昭和十五年に移築しました。
 額「巨福山」(大きな福をもたらす寺)は、中国僧、一山一寧(一山国師)禅師(建長寺第十世)の筆です。

 総門をくぐって右手の拝観受付で拝観料を払う。
 この左手に建長寺の御朱印所があるが、御朱印帳をここで預けてしまうと、「妙高院」と「龍峰院」の御朱印が貰えなくなるので、出来上がるまで待合室で待つ。

 
拝観時間:8:30~16:30 拝観料:500円
 住所:山ノ内8


【妙光院】
 鎌倉観世音第二十七番
 寺務所受付時間 概ね9:00~16:00  一般公開していない。

 
宗派  臨済宗・建長寺派
 山号寺号 建長寺塔頭・若昇山妙光院(じゃくしょうざん みょうこういん
 創建  貞和二年(1346)頃
 開山  貞山聞悟(こうざんもんご) 諡号:覚海禅師

 開基  不明

 妙光院は、建長寺境内塔頭(塔所)。
 覚海禅師が隠棲していた庵を、貞和二年に塔所としたもの。

 建長寺の御朱印を頂いたら、まず妙高院に行く為、拝観受付の直ぐ先の細道を右に入る。
 裏参道を左へ進むと直ぐ右手に妙高院の階段と門が見えてくる。
  


 妙光院は一般公開していないが、御朱印を頂く場合に限り本堂参拝は可能。
 山門横の通用門を開けて境内に入ると右手に本堂、左手に庫裡がある。
 御朱印は庫裡で呼び鈴を押して頂ける。納経料300円。
  


【建長寺】
 鎌倉観世音第二十八番 鎌倉五山第一位
 
 宗派  臨済宗建長寺派
 山号寺号 巨福山建長寺
(こふくさん けんちょうじ 正式名:巨福山建長國禅寺
 創建  建長五年(1253)
 開山  蘭渓道隆
(らんけい どうりゅう)
 開基  北条時頼
(ほうじょう ときより)

 鎌倉幕府第五代執権北条時頼が中国の蘭渓道隆を迎えて創建した日本最初の禅宗専門道場。
 往時は千人を越す雲水が修行していたと伝わる。
 
度重なる災害等でその都度再建され、現在の堂宇は殆ど近世に再建や移築されたもの。
 けんちん汁はここが発祥といわれている。

 「妙高院」から建長寺の堂宇が真っ直ぐ連なる参道に戻ると、まず大きな三門に出会う。


【三門】 国重要文化財
 三解脱(げだつ)門の略。空・無相・無作を表しこの三門をくぐることによってあらゆる執着から解き放たれることを意味します。
 開山様の言葉に「福山は揮(すべ)て松関(しょうかん)を掩(と)じず無限の清風来たりて未だ已(や)まず」とあり、建長寺はあらゆる人々(修行者)に門を開放している事を表しています。
 楼上には、釈迦如来・十六羅漢・五百羅漢(修行を完成された人)を安置しています。
 この建物は江戸時代・安永四年(1775)に万拙硯誼(ばんせつせきぎ)和尚などの努力によって再建されました。創建当初は三門後方左右に大座禅堂、大食(じき)堂がありました。 

 三門の右手に鐘楼が建っている。


【梵鐘】 国宝 重さは二、七トン
 この鐘は、北条時頼公の発願により広く施主をつのり、開山大覚禅師(蘭渓道隆)の銘文、関東鋳物師の筆頭である物部重光によって建長七年(1255)に鋳造されました。
 銘文の中に、「建長禅寺」とあります。
左奥は、西来庵。開山大覚禅師を祀る塔頭。現在は、建長寺派専門道場を兼ね、雲水の修行道場です。(非公開)


「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」
この俳句は明治二十八年(1895)九月、夏目漱石によって作られました。
親友の正岡子規は、この句を参向に「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」を作りました。

 三門の後ろが「柏槇(びゃくしん)の庭」で、囲いの中に名木の柏槇が植わっている。


【建長寺の柏槇】 かながわの名木百選・鎌倉市指定保存樹木
     和名:イブキ(ヒノキ科)
 開山蘭渓道隆が中国から持ってきた種子を建長寺創建の際にまいたと言われている。
 樹勢も旺盛で、県下の代表的な名木として知られている。
     樹   高 十三メートル
     胸高周囲 六、五メートル
     樹   齢 約七百六十年(推定)
 イブキはビャクシンとも言い、東北南部から九州の海岸に生える常緑高木で、社寺や庭園によく植えられ、禅寺を象徴する樹木です。
 樹高二十七メートル、胸高周囲八メートル、樹齢千五百年に達するものもあると言われている。

 「柏槇の庭」の後ろに仏殿が建っている。
 建長寺の殆どの堂宇内部や仏像等の撮影は可能である。




【仏殿】 国重要文化財
 建長寺の本尊・地蔵菩薩を安置。
 北条時頼公と開山大覚禅師(蘭渓道隆)の衆生済度の願いが込められています。
 毎月一日・十五日の祝聖(しゅくしん)、二十三日・二十四日の開山例月忌、開山忌などの法要がここで行われます。
 現在の建物は、創建当初より四代目のものといわれ、東京・芝・増上寺にあった徳川二代将軍秀忠公夫人(お江の方、家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けました。
 仏殿前の庭園の白檀は開山禅師のお手植え、古木は樹齢七百六十年です。

 「仏殿」の後ろに法堂(はっとう)が建っている。




奥が千手観音、手前は釈迦苦行像のレプリカ

【法堂】 国重要文化財
 昔は、建長寺全体が修行道場であり、山内にいる僧侶全員がこの法堂に集まって、住持の説法を聞き、修行の眼目としました。388人僧侶がいた記録があります。修行道場は、西来庵に移り雲水は、そこで修行しています。現在は法要・講演・展覧会などに使われています。
 この建物は江戸時代・文化十一年(1814)に建長寺派の寺院により再建されたものです。
 関東最大の法堂で、現在は千手観音を本尊としています。天井の雲龍図は建長寺の創建七百五十年を記念して、小泉淳作画伯によって描かれました。

【雲龍図】
 建長寺法堂天井画  2000年 水墨画  小泉淳作 1924-2012
 建長寺創建750年を記念し奉納された、縦10m×横12m(疊約80畳分)の巨大な雲龍図。約5分の1の「小下図」と呼ばれる習作を描いたのち、実際の天井画を制作。画面は48分割された麻紙で構成されています。完成後に組子と呼ばれる支持体をもって天井に組み上げられ、2002年10月30日に点眼法要が執り行われました。
 建長寺「雲龍図」の龍は5本の爪を持っています。もともと日本の龍の爪は3本で、朝鮮半島では4本、そして古代中国王朝皇帝の象徴のみが、5本の爪を持つ「五爪(ごそう)の龍」とされていました。建長寺では、この最も位の高い「五爪の龍」が描かれています。また同時期に小泉画伯により制作された京都建仁寺法堂「双龍図」にも、同じく「五爪の龍」が描かれています。
 法堂天井に雲龍図が上げられるのは理由があります。もともと法堂とは住職が壇上に上がり仏教の教えである「法」を説く場所でした。そして、龍は大自然の力を秘め、雲を呼び雨を降らすと言われておりました。「法堂で住職の説法を聞く人々に”法”の雨が降りそそぎ、染み渡るように」との願いが込められて、雲龍図が掲げられているのです。

 「法堂」の後ろは「大庫裡」で、「法堂」から左の参道を進むと唐門が現われる。


【唐門】 国重要文化財
 この唐門は、桃山風向唐破風(屋根の端の山形をなす所が、反曲した曲線状になっている破風)で漆塗りの四脚門です。透彫金具が各所に使用され、仏殿の装飾技法とよく似ています。
 寛永五年(1628)、東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠公夫人(お江の方、家光の母)の霊屋の門として建立。その後、正保四年(1647)、仏殿・西来門と共に建長寺に寄付され、方丈(龍王殿)の正門として使用。
 平成二十三年(2011)、解体修理がほどこされ、輝きをとりもどしました。)

 「唐門」の右手から「大庫裡」との間を進むと方丈の入口になる。


入口

内部

唐門内側(左後ろの建物は「大庫裡」)

【方丈(龍王殿)】 
 方丈とは、本来住持が居住する場所です。現在は法要・座禅・研修の場所として使われています。
 この建物も、総門と同じく京都・般舟三昧院より昭和十五年に移築されました。
 建物は享保十七年(1732)の建立で、元は皇室のお位牌を安置するためのものでした。

 「方丈」の回廊を裏手に回ると庭園が見られる。

【庭園】 国史跡
 蘸碧池(さんぺきち)を中心とする庭園は開山大覚禅師(蘭渓道隆)の作庭。創建当時よりあります。寺院の池は寺の前にあるのが普通ですが、建長寺は最奥に位置します。
 この池のまわりには、得月楼・大客殿・方丈などがあり、檀那や貴賓の応接に用いられました。
 創建七百五十年を記念して平成十五年に大改修をして現在に至っています。
 東側の総二階の建物は得月楼と称し、創建七百五十年を記念して平成十四年に建設されたものです。
 蘸碧池とは、緑の木々の色が青い水にひたって輝いていることを表しています。

 建長寺入口で頂いた御朱印納経料300円。
  



【龍峰院】
 鎌倉観世音第二十九番
 寺務所受付時間 9:00~16:00  一般公開はしていない。

 宗派  臨済宗建長寺派
 山号寺号  蓬莱山龍峰院(ほうらいさん りゅうほういん
 創建  徳治二年(1307)
 開山  約翁徳倹
(やくおう とっけん)
 開基  北条貞時
(ほうじょう さだとき)

 建長寺の塔頭である龍峰院へは、唐門前から左の脇道へ出て少し進むと左奥にある。
 龍峰院も一般公開していないが、御朱印を頂く場合に限り本堂参拝は可能。
 山門右横の通用門を開けて境内に入り、竹垣に囲われた参道を正面の本堂へ向かう。
 この寺の境内は、紅葉の時期に訪れるとさぞかし綺麗だろうと思われた。
   
 
 御朱印
は案内に従って本堂の右手奥に進み、呼び鈴を押して頂ける。納経料500円。
  


【昼食】 12:20~12:52
 建長寺門前の「鎌倉五山別館」にて、『けんちんそば』(1000円)を食べた。


【明月院】 13:05~13:38
 鎌倉観世音第三十番
 拝観時間:9:00~16:00 拝観料:500円
 住所:山ノ内189


 宗派  臨済宗建長寺派
 山号寺号  福源山明月院(ふくげんざん めいげついん
 建立  名月庵:永暦元年(1160)
      禅興寺:文永五年(1268)頃
 中興開山  密室守厳(みっしつしゅごん)
 中興開基  上杉憲方(うえすぎのりかた)
 史跡名  国指定史跡明月院境内(昭和59年2月9日指定)

 平安後期、この地の武将山内俊道の供養の為に、嫡子経俊が創建した名月庵が始まりです。約百年後に、北条時頼建立の最明寺を、時宗が開山に蘭渓道隆を迎え禅興寺として再興。更に約百年後、室町には関東管領上杉憲方が庵を院に改め、禅興寺の塔頭に併せ支院の首位に置き、寺容を整えました。
 方丈には本尊聖観世音菩薩、開山堂に歴代禅師、左のやぐらは上杉憲方の墓、総門近くの禅興寺旧跡に時頼の墓等が祀られています。又、鎌倉十井の一つ「瓶ノ井」があり、今も使用されています。丸窓の先に広がる往時を偲ばせる庭、巡る季節に六月の姫あじさい、秋の紅葉、春は枝垂れ桜。その時々に「花の寺」の表情を見せてくれます。
     鎌倉市

 建長寺前から「北鎌倉駅」方向に行き、JR横須賀線の踏切に着いたら踏切手前を右斜めの道へ入る。
 突き当たりを右折して「明月院通り」を進むと明月院総門に辿り着く。
  

 総門左手の拝観口で拝観料を払い境内に入る。
 総門裏側から真っ直ぐ延びる階段を上り、山門をくぐる。
  

 山門の先に本堂が建っていて、扁額には方丈と書かれていた。
  


 本堂には有名な丸窓があり、裏庭園が覗ける。
  

 本堂の向かいには枯山水庭園がこぢんまりとある。
  

 本堂の左に宝物庫があり、その左手に瓶の井
(かめのい)がある。


【瓶の井(つるべの井)】 
 鎌倉十井の一つ。
岩盤を垂直に掘り貫いて造ったとみられ その内部が水瓶のようにふくらみがあることから『瓶の井』と呼ばれ、鎌倉十井の中でも現在使用できる井戸としては数少なく貴重な存在である。
 鎌倉十井とは
江戸時代水質があまりよくなかった鎌倉の地において数多くある井戸の中でも特に良質の水が湧いたと伝えられる十の井戸。 

 瓶の井の左手に開山堂が建っている。


【宗猷堂(開山堂)】 
 このお堂は禅興寺隆盛時代(1380年頃)明月院境内に建立されていた宗猷堂(そうゆうどう)を後に開山堂として。
 堂内の中央には中興開山密室守厳禅師の木像、向かって左に最明寺、禅興寺、当院の歴代住持の位牌が祀られている。

密室守厳禅師は建長寺開山蘭渓道隆禅師(大覚禅師)の五代法孫
(一三九0年六月九日示寂)

 開山堂の左手にやぐらがある。


【明月院やぐら(羅漢洞)】 
 「やぐら」は中世鎌倉時代特有の洞窟墳墓である 間口七メートル 奥行き六メートル  高さ三メートルで鎌倉市内現存の最大級。内部壁面中央に釈如如来、多宝如の二仏、左右両面には十六羅漢を浮き彫りにし中央には明月院中興開基関東管領上杉憲方を祀ると伝えられる宝篋印塔。その前方に禅宗様式を象った鎌倉石の香炉が据えられている。このように壁面に彫刻がなされているやぐらは大変珍しく貴重である。
 このやぐらは元々、永歴元年(1160年)平治の乱の際京都にて戦死したこの地の武勇山内俊通の菩提供養のためにその子経俊によって造られたとも伝えられる。
 凝灰岩質であるため永年による風化が著しく彫成年代は詳びらかではなく今後の解明が待たれる。
 前述の上杉憲方は上杉重房から四代目の曾孫で、山内上杉家の祖、憲方の子孫、上杉憲政(1523~1579年)の時、北条氏康との戦いに敗れ越後の長尾景虎を頼る。後に上杉の家名を譲り渡す。永禄四年(1561年)のこと。
長尾景虎は戦国時代の武勇、後の上杉謙信。 

 やぐらから左下に降りてゆく途中の大きな石の上にモミジが枝を伸ばしている。


石の上で成長していくモミジのパワーを感じてください。
どっしりと腰を据えた山の石。
たまたま落ちた根が発芽し、土も水もない石に根を張り、枝を伸ばしたモミジ。
何年の歳月が流れたのでしょうか。

 総門近くまで戻って右奥に進むと時頼公墓所がひっそりと佇む。


【北条時頼公墓所】 
宝篋印塔・五輪塔等の部材を組み合わせた石塔が石積みの壇上に安置されている。このあたりから現在のJR横須賀線が通る付近一帯は時頼公が寂した故地である。(諸説あり)父は時氏、母は松下禅尼、次男として安貞元年(1227)生誕、松下禅尼は安達景盛の娘で賢母と言われ「徒然草」一八四段に登場する祖父第三代執権職泰時の善政のあと、兄、経時からその職の委託を受け寛元四年(1246)十九才で鎌倉幕府第五代執権職に就く。ますます北条政権を確固たるものに築き一族の全盛期を迎えると共に臨済禅に深く帰依した。建長五年(1253)中国の高僧大覚禅師(蘭渓道隆)を開山に迎え我国最初の禅の専門道場建長寺を創建。康元元年(1256)にこの地最明寺に大覚禅師を戒師とし三十才の時出家する。僧名は覚了房道崇と号す。執権職と幼少の嫡子時宗ではなく長時にゆずる。弘長三年(1263)十一月二十二日三十七才の生涯を終える。毎年命日に市内の建長寺派の住持。徒弟が参集し法要を営む。

 御朱印は本堂右脇の授与所で頂ける。書き置きだった。納経料500円。
  


【鎌倉ものがたり】 13:44
 明月院からJRの線路に戻った小公園に鎌倉ものがたりの説明板が立っていた。

【北鎌倉 鎌倉ものがたり 一式先生の足跡板】 
 北鎌倉駅を中心とする、主に町名としては「山ノ内」にあたる地域は「北鎌倉」と呼ばれ、地元の方々や観光客の皆様に親しまれている一方で、「北鎌倉」という名称の由来は意外と知られていませんが、一説では」「北鎌倉駅」の名称からともいわれています。
 大船~横須賀間で横須賀線が開通した明治22年(1889年)、今の鎌倉市にあたる地域には「大船駅」と「鎌倉駅」の2駅しかありませんでしたが、近隣住民からの陳情を受けて、新たに駅が建設される運びとなります。
 この陳情の1~2年後には「新駅名に関する意見具申」として、「鉄道唱歌」に歌われる」「北は円覚、建長寺」から引用して「北鎌倉」はどうか、とする意見が提出され、これを受けてかどうかはわかりませんが、駅名称は「北鎌倉」に決定。その後、「北鎌倉」の名称が地域に定着していったものと考えられています。
 漫画「鎌倉ものがたり」の中では、建長寺、円覚寺、東慶寺といった名刹はもちろん、鎌倉の地理を象徴する地形である「切通」の一つ、亀ケ谷切通しや、地元の方々には知られていても、観光客の方には知られていない「隧道」(ずいどう)なども描かれ、作者である西岸良平先生の鎌倉への造詣の深さが伺われます。
     鎌倉市

 この後、JR横須賀線の踏切を渡る。
  


【浄智寺】 13:49~14:23
 鎌倉観世音第三十一番 鎌倉五山第四位 鎌倉十三佛第六番
 拝観時間:9:00~16:30 拝観料:200円
 住所:山ノ内1402

 宗派  臨済宗円覚寺派
 山号寺号  金宝寺山浄智寺(きんぽうざん じょうちじ
 建立  弘安四年(1281)
 開山  兀庵普寧(ごつたんふねい)、大休正念(だいきゅうしょうねん)、南洲宏海(なんしゅうこうかい)
 開基  北条宗政(むねまさ)、北条師時(もろとき)
 史跡名  国指定史跡浄智寺境内(昭和41年2月28日指定)

 鎌倉五山の第四位であり、豊かな緑におおわれた境内は、国の史跡に指定されています。総門の手前にある古い石橋のたもとには、鎌倉十井の一つである甘露ノ井があり、その先には、印象的な苔むした参道の階段と、上に鐘楼がある珍しい山門があります。
 仏殿には、室町時代に造られたという三世仏座像(向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勒)が安置されており、それぞれ過去・現在・未来を意味するといわれています。また、境内一角の洞窟には、鎌倉・江の島七福神の一つである布袋尊がまつられています。
 国指定重要文化財に指定されている地蔵菩薩像や「西来庵修造勧進状」などは、鎌倉国宝館に預けられています。
     鎌倉市

 踏切を渡って直ぐ左奥(40m)に浄智寺がある。
 鎌倉街道から左折して小路を入って行くと、小さな石橋と簡素な総門が見えてくる。
  

 石橋が架かる小さな池の向こう側には鎌倉十井の一つ甘露の井がある。
  

 総門の前には上述の浄智寺説明板(鎌倉市設置)、浄智寺境内説明板、文学案内板等が立っていた。
【浄智寺境内】 国指定史跡(昭和41年2月28日指定)
 鎌倉五山第四位、臨済宗円覚寺派、金寶山浄智寺は、弘安四年(1281年)北条時頼の三男宗政が二十九歳で没後、間もなく、宗政夫人と幼少の師時を開基にして、宗政の菩提を弔うため創建されました。
 中国の、宋の名僧、兀端普寧と大休正念、及び日本僧南洲宏海の三人が開山になっています。これは、当時開山に招かれた宏海が、任重しと身をひき、師の大休正念を迎えて入仏供養をおこない、すでに世を去っていた師僧の兀端普寧を開山としたためです。
 創建当時の伽藍は、外門、山門、行堂、仏殿、方丈、庫裏等を備え、塔頭は十一院に及んだということです。
 永い間には、たたずまいも変化し、現在は、看門寮、山門、鐘楼門、仏殿、書院、隠寮、庫裏等の堂宇が柏槙や杉木立の中に点在しています。
 境内は、周囲を緑の山にかこまれ、昔ながらの、広大な寺域を残しており、地理的環境と鎌倉五山の伽藍遺構を後生に伝えるため、国の史跡として保護されています。
     平成九年三月三十一日 神奈川県教育委員会

 総門をくぐり、受付へ続く石段を登る。
  
 

 鐘楼門手前の受付で拝観料を納めて境内へ。
  

 鐘楼門をくぐり、順路に従って直進すると右側に本堂(曇華殿)が建っている。
 ご本尊は三世仏(阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来)。
  

 本堂の左手から本堂の裏側に回り込むと観世音菩薩立像が拝観できる。
 立て札には
『鎌倉三十三観音三十一番 木像観世音菩薩立像 南北朝時代造』と記されていた。
  

 本堂の裏は庭園になっていて右手に書院が建っている。
  

 その先竹林が現れるのでここを右折する。
  

 上の写真の道を進み、突き当たりを左折した先の崖下に石塔群(やぐら)がある。
  

 その奥の洞穴が横井戸


【横井戸】 
 山の水をためて用水に使うため、かなり古い時代に掘ったものと思われます。三十数年まではコウモリの棲家になっていました。

 竹林道の分岐に戻った所に狸の置物が。
  


 その先に進むと左手に隧道があり、入り口の立て札に
『布袋尊は、トンネル先の洞窟です。』と書かれていた。
  

 隧道をくぐって左手奥に進むと洞窟があり、その中に布袋尊が祀られている。
   

 布袋尊から隧道脇の小道を通って元に戻ると書院前の庭に出る。
 この書院内に御朱印所があり、ここで御朱印を頂く。納経料500円。
  


【東慶寺】 14:26~14:40
 鎌倉観世音第三十二番
 拝観時間:8:30~16:00 拝観料:志納
 住所:山ノ内1367

 宗派  臨済宗円覚寺派
 山号寺号  松岡山東慶総持禅寺(しょうこうざん とうけいそうじぜんじ)
 建立  弘安8年(1285)
 開山  覚山志道尼(かくざんしどうに) 
 開基  北条貞時(ほうじょうさだとき) 

 鎌倉幕府の第八代執権北条時宗の夫人・覚山志道尼が開創。夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることができなかった時代に、駆け込めば離縁できる女人救済の寺として、開山以来、六百年近く縁切り寺の寺法を引き継いできました。後醍醐天皇の皇女・用堂尼の入寺以後は、松岡御所と称され、寺格の高い尼寺として名を馳せるようになり、室町時代には鎌倉尼五山第二位の列せられていました。明治時代になると寺法に終わりを告げ、釈宗演禅師を中興開山とする臨済宗円覚寺派の禅寺となりました。
 境内にはウメやハナショウブ、アジサイなど様々な花が植えられ四季を通じて楽しめます。学者や作家の墓が多いことでも有名で、鈴木大拙、西田幾多郞、岩波茂雄、和田哲朗、安倍能成、高見順、小林秀雄らの墓があります。
     鎌倉市

 「浄智寺」から鎌倉街道に戻って左折、少し進んだ左側に東慶寺の門がある。ここに鎌倉市の説明板が立っている。
 門を入り、山門へ続く階段を上る。
  

 山門に『境内全域 撮影禁止』と掲げられている為、残念ながら境内を撮影することは出来ない。
 唯一の写真は、入り口から見上げた山門への階段と山門である。

   

 山門を入り、梅が綺麗な参道を進むと左手に「鐘楼」、右手に「書院」、「本堂」、「水月堂」が並び、次いで「松岡宝蔵」が建っていて、聖観音立像も拝観できる。
 ちなみに、東慶寺の旧仏殿は横浜市中区の「三渓園」に移築されている。「三渓園」は我が家のほぼ隣にある日本式庭園である。

 御朱印は、「松岡宝蔵」で書き置きが頂ける。納経料500円。
  


【円覚寺境内】 14:45~15:40
 拝観時間:9:00~16:30 拝観料:500円
 住所:山ノ内409

【円覚寺】 鎌倉五山第二位
 
宗派  臨済宗円覚寺派
 山号寺号  瑞鹿山円覚寺(ずいろくさん えんがくじ)
 創建  弘安五年(1282)
 開山  無学祖元(むがくそげん) 
 開基  北条時宗(ほうじょうときむね) 


 元寇(文永・弘安の役)で亡くなった兵士を弔うために、鎌倉幕府第八代執権北条時宗が中国の高僧無学祖元を迎えて創建した禅宗寺院。
 鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。

 「東慶寺」から再び鎌倉街道に戻り左折。
 直ぐ先、「円覚寺」の道標がある次の右折道が、円覚寺の参道になる。
 池の真ん中を通り横須賀線の踏切を渡ると円覚寺の寺標が立つ入口で惣門が見える。左手直ぐ傍に北鎌倉駅があるが、かつてはここも円覚寺の境内だった。
 円覚寺は山を切り開いて出来たお寺なので、ここから段で少しずつ山に登って行く様に造られている。
  

 総門をくぐり、受付で拝観料を払う。
 ここで朱印帳を預けると佛日庵で最後の御朱印が貰えなくなるので、預けない様に。
  


 受付を済ませ階段を上ると大きな山門が現れる。
 円覚寺の殆どの建物は関東大震災で倒壊したが、この山門は残った建物の一つである。
 山門と仏殿の右手の山に鐘楼(国宝)と弁天堂があるが帰りに寄ることとする。


【山門(三門)】 県重要文化財
 山門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の煩悩を取り払う門とされます。山門を通って娑婆世界を断ち切り、清浄な気持ちで佛殿の本尊さまをお参りしなければならないとされます。
 現在の山門は1785年(天明五年)開山五百年遠諱の年に大用国師(誠拙周樗)によって再建され、「円覚興聖禅寺」の扁額は伏見上皇(北条貞時の時代)より賜りました。
 楼上に十一面観音像・十二神将・十六羅漢をおまつりしてあり、毎年六月十八日に楼上で観音懺法(観音さまに懺悔をする儀式)が行われます。
 また毎年八月には山門を取り巻いての盆踊りがにぎやかに行われます。
     大本山 円覚寺 三宝会

 山門の先、数段上がった所に円覚寺の本尊を祀る仏殿が建っていて、その手前右手にビャクシンの古木が聳えている。




仏殿の毘盧遮那仏(宝冠釈迦如来)と天井画

【仏殿】 
 円覚寺の本尊さまをおまつりしてある建物で、関東大震災で倒壊しましたが、昭和三十九年に再建されました。
 本尊さまは冠を被っておられるので、宝冠釈迦如来とよばれます。華厳の盧舎那仏とも称されます。本尊さまは1282年(弘安五年)佛殿開堂の際に安座されましたが、1563年(永禄六年)の大火で焼失、お顔のみが救出されました。後に江戸時代、天甫昌円によって1625年(寛永二年)佛殿が再建される際に体部が補造されました。その時、本尊さまの両脇に梵天、帝釈天がまつられました。「大光明寶殿」の扁額は1387年、後光厳天皇より賜りました。
 開山毎歳忌、達磨忌、臨済忌、祝聖などの諷経や毎朝の暁天座禅がここで行われています。
     大本山 円覚寺 三宝会

 仏殿の左手には、一般の人が座禅をする道場である居士林の門が見える。


【居士林(濟陰庵)】 
 明治の頃より円覚寺では、在家の人の座禅(居士禅)が盛んになり、山岡鉄舟、鈴木大拙、夏目漱石などの多くの居士が参禅しました。
 大正十一年にこの濟陰庵(さいいんあん)に居士の座禅道場として居士林が開設されましたが、大正十五年に焼失、早大濟陰団が中心になり復興運動を起こしました。幸いなことに柳生新陰流の剣道場を、柳生基夫氏(徹心居士)が寄付を決断され、昭和三年にこの濟陰庵に移築して開単となり、以来八十年近く、学生や社会人が中心となって雲水と同じように修行する学生座禅、土日座禅会を運営してきました。
 堂内には本尊の不動明王がまつられ、「頭燃を救うが如し」の扁額が掲げられ、心の安らぎを求めて座禅に来る人を待ち受けています。
     大本山 円覚寺 三宝会

仏殿の後ろに方丈の正門である唐門(勅使門)が建っている。




【唐門】 
 方丈の正門である唐門は天保十年(1839)の建立です。
 屋根の形が弓を横にした様な形をしていますが、これを「唐破風」といいます。
 松と鳥、獅子や象(または漠)、扉には龍・雲・波濤など、見事な彫り物が見られます。

 唐門の右脇から方丈の庭に入ると、方丈に向かって右手に柏槇が植えられている(撮影忘れで写真は無し)。
【柏槇(ビャクシン)】 市指定天然記念物
 大木は円覚寺開山、無学祖元禅師により植えられたとの言い伝えから、七百年以上の樹齢だと言われております。幹の中心に樹木医による治療跡が見ることができます。開山様との御縁で平成二十四年に京都、南禅寺に若木が移植されました。
     大本山 円覚寺 三宝会


 方丈に向かって左手には、百観音霊場がある。




霊場からから望む方丈

【百観音霊場】 
 百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称とされています。
 円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙叟尊者が百体の石仏を岩窟に奉安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
 円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。
 昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印をいただいていましたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わったものとされています。行く先々の霊場で観音さまの由来を知り、観音さまの御利益にあずかり、観音さまを念じながらお参りされると、心が清浄になり安心をえられることと思います。

【方丈】 
 本来は住職が居住する所を方丈といいましたが、現在は本山行事の中心的な場所となっています。正面向かって右手の奥に「大書院」「小書院」が配置され、右手前の部分は禅宗寺院の台所である「典座」になっております。今の方丈は震災後昭和四年に新築され、平成十年に改修工事が行われました。日常は壇信徒の法要、日曜説教、座禅会、本山各種研修会、宝物風入、更には講師を招いての夏期講座やチャリティーコンサートなどに使用されています。
     大本山 円覚寺 三宝会

 唐門に戻り、左手の道に出る。出た直ぐ先に妙香池がある。


【妙香池(みょうこうち)】 
 総門前の白鷺池と並び、円覚寺創建当初から知られた放生池である。建武二年(1335)頃の円覚寺境内絵図にすでに見られる。今回江戸時代初期の絵図に基づき、自然風の姿に戻し「虎頭岩」と呼ばれる岸の露出岩盤を景観の中心として復元した。
     平成13年3月 文化庁 大本山円覚寺

 妙香池の池を上げって行くと、左奥に国宝の舎利殿がある。


【舎利殿】 国宝
 円覚寺の舎利殿には「佛牙舎利」と尊崇されるお釈迦様の歯牙をおまつりしております。
 その由来は将軍源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものです。この舎利殿は鎌倉にあった太平寺(尼寺・廃寺)の佛殿(鎌倉時代末~室町時代初期に再建)を移築したもので、中国、南宋時代の建築様式に学んだ禅宗様建築の代表的な遺構です。関東大震災に倒壊しましたが、昭和四年に復元しました。
 内部正面に佛舎利をおまつりする宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥壇があり、観音菩薩と地蔵菩薩がまつられています。隣は円覚寺派の厳格なる修行道場となっており、円覚寺開山 無学祖元禅師をおまつりした開山堂とともに円覚寺随一の幽邃(ゆうすい)の地となっています。
 正月の三が日、五月の連休日と十一月の宝物風入などの特別期間以外は修行の為、拝観を制限させて頂いております。
     大本山 円覚寺 三宝会



 舎利殿への分かれ道に戻り、妙香池からの真っ直ぐの道に進むと、すぐ左手に鎌倉三十三観音最後の寺、佛日庵がある。

【佛日庵】
 鎌倉観世音第三十三番
 拝観時間:9:00~16:30(11月~3月 16:00) 拝観料:100円(線香付)
 住所:山ノ内434


 宗派  臨済宗円覚寺派
 正式名 円覚寺塔頭佛日庵
(えんがくじたっちゅう ぶつにちあん
 創建  弘安七年(1284)以降
 開基  北条氏

 弘安七年に没した北条時宗の廟所として創建されたが、北条氏滅亡後は次第に衰退した。
 室町時代末期の天文年間(1532~55)に鶴隠周音が開基廟の南に住んでいた玉泉軒を佛日庵と改称し、円覚寺の塔頭として中興した。


 佛日庵の入口
  

 入口を入って直ぐ右の受付で拝観料を払い、御朱印帳を預け、お線香を頂く。
 その左側に方丈があるが、まず右手の開基廟に行ってお線香をあげる。


【開基廟
】 
 圓覚寺大檀那である北条時宗・貞時・高時をお祀りしてあります。
 廟所とは、石碑を建てその上にお木像を祀るお堂を建てたものが正式のお墓で、国に特に業績のあった人のみ許されたものです。
 時宗公は、一二八四年四月四日に亡くなられています。つまりは、圓覚寺が建立されてから二年後のことです。時宗公が亡くなられた後に開基廟が建立されたようですが、現在の開基廟は江戸時代一八一一年に改築されたものとされています。
 新編相模風土記によれば、お堂の下に各遺骨を納めた石櫃があるとの伝えが記されています。
 また、幾度の戦火をくぐり抜け、ずば抜けた才能で幕府をまとめあげていたことから、学問の神・開運の神と崇められていました。

 開基廟の左手前に臥龍梅の古木が植えられている。
  

 方丈(本堂)に戻ってお参り。本尊は延命地蔵菩薩座像。


【方丈】 
 本来は住職が居住する所を方丈といいましたが、現在は本山行事の中心的な場所となっています。正面向かって右手の奥に「大書院」「小書院」が配置され、右手前の部分は禅宗寺院の台所である「典座」になっております。今の方丈は震災後昭和四年に新築され、平成十年に改修工事が行われました。日常は檀信徒の法要、日曜説法、座禅会、本山各種研修会、宝物風入、更には講師を招いての夏期講座やチャリティーコンサートなどに使用されています。
     大本山 円覚寺 三宝会

 鎌倉三十三観音巡りの最後の御朱印を頂く。納経料500円。
 結願印も頂く。他の三十二カ所の御朱印が押されていなければ貰うことが出来ない印。

  



 佛日庵を後に円覚寺の佛殿まで戻り、出口に向かって左手の鐘楼に上る。
 鳥居のある石段を登るが、鳥居左側に『洪鐘道』と刻まれた石碑が、右側には灯籠が建っている。


【洪鐘(おおがね)】 国宝
 1301年(正安三年)に鋳造された国宝の洪鐘です。北條時宗の子、貞時公が国家安泰を祈願して鐘の鋳造を鋳物師に命じましたが、鋳造がうまくゆかず、江ノ島の弁天さまに七日間参詣したところ、ある夜の夢の中で円覚寺の白鷺池の底を掘ってみよというお告げがあり、その通りにしてみると池の底より龍頭形の金銅の塊を発見、それを鋳造してこの洪鐘を造ったといわれています。
 この霊験に感謝された貞時公は江ノ島の弁天さまを洪鐘の神体として「洪鐘大弁才功徳尊天」と名付けて弁天堂を建立しました。
     大本山 円覚寺 三宝会 

 141段の階段を上ると弁天堂が建っている。


【円覚寺 弁天堂】 
 執権 北条時貞(時宗の子)が7月7日夜江の島弁才天に参籠し天下太平、万民和楽を祈り霊夢を感じて大鐘を鋳造(正安3年、1301年)し、当山に奉納した。あわせて弁天堂を建立し、弁才天を祀り当山の鎮守とした。以来霊験あらたかにして祈願すれば必ず感応を蒙むといわれて来た。又、この境地は眺望絶景にして遠く富士山をも望むことが出来、多くの人々より賞賛されてきた。
 因に当弁才天の祭礼は11月28日である。又、60年毎の巳の年に大祭を行い、江の島弁才天と当山との間で盛大にとり行われる。
     平成14年2月 大本山円覚寺

【弁天堂】 
 弁財天を祀る。洪鐘鋳造の折、江の島弁財天の加護によって円成したと伝えられることを由来とする。
 鐘の完成は正安3年(1301)8月7日、爾来61年目ごとに3日間弁財天を開帳して洪鐘祭を行い、今日まで続いている。
     平成13年10月 文化庁 大本山円覚寺

 弁天堂の左後ろに鐘楼が建っている。




【洪鐘(梵鐘)】 
 正安3年(1301年)に北条貞時が国家安泰を祈って鋳造、寄進した時の住持は西潤子曇、鎌倉第一の大鐘で国宝に指定されている。
 物部国光の作で、形が雄大でありながら細部にまで緻密な神経がゆきわたり技法も洗練されている。
 鎌倉時代後期を代表する梵鐘である。
     平成13年10月 文化庁 大本山円覚寺

 最後に受付で円覚寺の御朱印を頂く。
 円覚寺は三十三観音に入っていないが、鎌倉五山第二位なので五山を揃える為に頂く。

  




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