御朱印でめぐる鎌倉三十三観音(二日目)
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2022年6月12日(日) 晴一時雨 (夫婦二人旅)
鎌倉駅より路線バス(5番乗り場から鎌20系統)に乗り、終点の「大東宮下」バス停を9:32スタートして徒歩にて五観音を巡る。
〔コース〕 (…徒歩 ~バス)
鎌倉駅東口~(バス)~「大東宮下」バス停…永福寺跡…瑞泉寺…東御門碑…西御門碑…太平寺跡碑…来迎寺・八雲神社…石川邸…筋替橋碑…静久(昼食)…鉄の井…川喜多映画記念館…寿福寺…扇谷上杉管領屋敷跡碑…藤谷黄門遺跡…浄光明寺…泉の井…相馬次郎師常之墓…岩船地蔵堂…底脱の井…海蔵寺…伝阿仏尼の墓…太田道灌邸𦾔蹟…結の蔵…鎌倉駅旧駅舎時計台…鎌倉駅西口
【永福寺(ようふくじ)跡】 9:37~9:46
終点の「大東宮下」でバスを降り、「鎌倉宮」の鳥居前を進み、突き当りを左折して「鎌倉宮」の右側の緩やかな道を上って行く。
5分ほど進むと左側に広大な永福寺跡が現われ、入口に大正九年建立の石碑と説明板・案内図・復元図が立っている。
跡地に入ると大きな池と、池に面して三つの堂の基壇が整備されている。
復元図 |
【永福寺跡】 国指定史跡(昭和42年6月19日指定) 永福寺は源頼朝が建立した寺院で、源義経や藤原泰衡をはじめ奥州合戦の戦没者の慰霊のため、荘厳なさまに感激した平泉の二階大堂長寿院を模して建久3年(1192年)、工事に着手しました。 鎌倉市では、史跡の整備に向けて昭和56年から発掘調査を行い、中心部の堂と大きな池を配した庭園の跡を確認しました。堂は二階堂を中心に左右対称で、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂の両脇堂が配され、東を正面にした全長が南北130メートルに及ぶ伽藍で、前面には南北100メートル以上ある池が造られていました。 市では昭和42年度から土地の買収を行っており、今後は史跡公園としての整備事業も進めていく予定です。 平成13年10月 鎌倉市教育委員会 |
【瑞泉寺】 9:52~10:30
鎌倉観世音第六番、 鎌倉二十四地蔵尊第七番(どこもく地蔵尊)
拝観時間:9:00~16:30 拝観料:200円
住所:二階堂710
宗派 臨済宗円覚寺派
山号寺号 錦屏山瑞泉寺(きんぺいざん ずいせんじ)
建立 嘉暦2年(1327)
開山 夢窓疎石(夢想国師)(むそうそせき/むそうこくし)
中興開基 足利基氏(あしかがもとうじ)
鎌倉公方(鎌倉府の長)の菩提寺として、鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列せられた格式ある寺院です。
山号の錦屏山は、寺を囲む山々の紅葉が錦の屏風のように美しいことから付けられたといわれています。また境内は、四季を通じて様々な花を楽しむことが出来ます。
開山の夢窓国師は、後醍醐天皇や足利尊氏も深く帰依し、鎌倉~南北朝期に禅宗で重きをなした僧です。作庭にも才を発揮し、昭和四五年に発掘、復元された仏殿背後の庭園は国師の作として、国の名勝に指定されています。
「永福寺跡」の東角が二股になっていて、右の二階堂川に架かる「通玄橋」を渡る。
更に坂道を上ってゆくと右側の石垣の上にアジサイが沢山咲いていて、酸性・アルカリ性土壌の管理がされているのか、花の色も赤・青・緑・白など種々混ざり見事だった。
写真には写っていないが、更に赤色や青色の群生があり、この時期に訪れることが出来て良かった。
道が細くなった三叉路の真ん中が瑞泉寺の入口。寺標には『旧関東十刹第二位 錦屏山瑞泉寺』と刻まれている。
この参道の奥に総門が見えている。
修理中の総門の脇を抜け、その先の受付小屋手前に”吉田松陰と瑞泉寺”の説明板が立っている。
【長州藩士吉田松陰と瑞泉寺】
かつて、吉田松陰の伯父「竹院和尚」が住職を務めていた瑞泉寺。嘉永六年(1853年)5月、松蔭は伯父を瑞泉寺に訪ね、語り明かし、ともに鎌倉・江ノ島を巡りました。その後、ペリーの浦賀来航を間近に見た松蔭は、翌年、下田で密航を企てる直前にもここを訪れています。山門の前には「松蔭吉田先生留跡碑」があります。
受付小屋で拝観料200円を払って石畳を進むと、右側に『夢窓国師 古道場』と刻まれた石碑が建っている。
右上の写真の石段を少し上ると、下の写真の左・男坂、右・女坂に分かれている所に出る。男坂は苔むして注意が必要だが、どちらを上っても山門に繋がる。
男坂の登り口に”文学案内板”と上記”瑞泉寺の説明板”が立っている。
”文学案内板”には、瑞泉寺ゆかりの文人として、大宅壮一(評論家)・大佛次郎(小説家)・梶山季之(小説家)・川端康成(小説家)・久保田万太郎(小説家、劇作家、俳人)・久米正雄(小説家)・高浜虚子(俳人)・立原正秋(小説家)・永井龍男(小説家)・山崎方代(歌人)・吉野秀夫(歌人)が挙げられていた。
山門にたどり着くと、山門手前左奥に「松蔭吉田先生留跡碑」と刻まれた石碑が建っていて、右手前には神奈川県教育委員会の説明板が立っている。
【国指定史跡 瑞泉寺境内 国指定名勝 瑞泉寺庭園】 (昭和46年11月8日文部省指定)
創建は、嘉暦二年(1327年)、錦屏山と号し、開山は夢窓疎石、臨済宗円覚寺派に属する。
徧界一覧亭も創建と同時期に建てられ、亭の前庭を兼ねた書院庭園もそのころ造られたものと思われる。
南北朝時代に入ると、鎌倉公方足利基氏が帰依したため公方の塔所となり、関東十刹に名をつらね、疎石派の拠点として関東禅林に重きをなした。
現在、寺内に古建築は残っていないが、発掘復元された池庭と、十八曲して一覧亭にいたる登坂路の遺構はよく保存されている。また、寺背の山に多くのやぐら群をふくむ境内地がほぼ全域にわたって保持されていることは貴重である。
平成十五年三月 神奈川県教育委員会
山門をくぐって庭(左下の写真)へ入ったら左へ進む。 左の突き当りに鐘楼(右下の写真)が建っている。
鐘楼の前を右折すれば本堂(左上写真の屋根・左下の写真)への遊歩道になる。本堂は、通常閉め切り。
【大雄寶殿(仏殿)】 右 開山夢窓国師座像 中央 本尊釋迦牟尼佛 左 阿弥陀如来 千手観音 鎌倉市文化財 水戸黄門様奉安 札所六番 |
本堂の手前を左に回り込むとどこもく地蔵堂が建っている。
【どこも苦地蔵尊】 鎌倉市文化財 札所七番 昔むかし お地蔵様が扇谷の辻におわせし時 之を守る堂守貧窮逃亡を企る 暁の夢に地蔵尊「どこもどこも」と宣う これ何処も苦なりとの教えと八幡宮寺の僧に論され 堂守は一生地蔵尊を守りしと 「どこも苦地蔵尊」の名の由来なり |
本堂裏手に、夢窓国師が岩盤を削って造った名勝瑞泉寺庭園がある。天女洞、池、中島、橋、滝などを備えた岩庭。
残念ながらこの日は手入れ中で池には水が入っていなかったし、全景を写せるアングルには作業道具が写り込んでしまい、この二枚しか選べなかった。
御朱印は、本堂手前の道を本堂に向って右手に入った庫裏で頂ける。
玄関で声をかけてお願いする。但し、朱印帳が無ければ受けてもらえないので注意。納経料は志納(私は一般的相場の300円を支払った)。
【荏柄天神社】
「瑞泉寺」を後に「鎌倉宮」の鳥居前まで戻り、鳥居を背に真っ直ぐ下る。
最初の右折道を曲がると直ぐ右手に荏柄天神社がある。
【荏柄天神社】 長治元年(1104)創建と伝わる。治承四年(1180)頼朝が鎌倉に入り、ここを大蔵幕府の鬼門の守護神とする。以降、足利、北条、豊臣、徳川各氏にも崇敬される。 福岡の「太宰府天満宮」、京都の「北野天満宮」とともに日本三古天神に数えられる古社。 |
【東御門(ひがしみかど)碑】 10:48
天神前を進み、次の十字路の右手に東御門の碑が建っている。
【碑文】 大蔵幕府ニ四門アリ 方位ヲ以テ名ヅク 其東ニアルモノヲ東御門ト謂フ 今轉ジテ地名トナル 法華堂ノ東方一帯ノ地即チ是ナリ 大正十五年三月建 鎌倉町青年團 |
碑の隣に小学生手書きの説明板が立っていた。大蔵幕府の政庁は、清泉小学校一帯にあった。
【東御門】
東御門とは、大蔵幕府の東側にあった幕府の門です。東御門の近くには、やぐらがありました。このやぐらは東御門の近くの山をくずしている時にぐう然見つけられた物です。やぐらの中には沢山の五輪塔がありました。東御門には清泉小学校にそって小さな流れがあります。この流れは、大蔵幕府を守っていた堀かもしれないと言われています。今は、東御門のこの石碑だけが残っています。地名は、西後門と呼ばれています。
【白畑神社】 10:52
西に進み、左側「清泉小学校」グランドの先の十字路の右角に公園があり、そこを右折した突き当りの石段(下の写真)を登った所に源頼朝の墓がある。
ここから右に入った所には「島津忠久の墓」、「大江広元の墓」、「北条義時の墓」がある。
以前に、これらの墓は全て訪れているので、今回は寄っていない。
その登り口の左側に白畑神社がある(下の写真の左側に鳥居が建っている所)。
【白畑神社 由緒】 この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髪の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。 正治元年(1199)一月十三日頼朝公が亡くなると ここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した。 その後鶴岡八幡宮の供僧「相承院」が奉仕して祭祀を続け 明治維新に際し寺は白畑神社に改められ源頼朝公を祭神として門日に至っている。 現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和四十五年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。 |
【法華堂跡】
「白畑神社」の前に法華堂跡の石碑が建っている。
【薩摩藩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ法華寺跡】 法華寺跡の東谷奥には、頼朝を補佐し幕府の土台を築いた大江広元、広元の四男である長州毛利氏の祖・毛利季光、頼朝にゆかりのある薩摩島津氏の祖・島津忠久の墓が並びます。いずれも江戸後期に薩摩藩・長州藩によって整備されました。 【碑文】 堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ死後其の廟所トナル 建保五年五月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝の難ヲ避ケタルハ此の處ナリ 寶治元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ一族郎党五百餘人ト偕ニ自盡シ満庭朱殷ニ染メシ處トス 大正十五年三月建 鎌倉青年會 |
十字路の公園の前に立っていた『鎌倉ものがたり 一色先生の足跡板』と題する案内板にかわいいイラストと共に西御門のことが載っていた。
【西御門(にしみかど)】
西御門は、かつて源頼朝が御所を建てた「大蔵」(おおくら)の地の西側に位置しており、この御所には、「侍所」(さむらいどころ)「問注所」(もんちゅうじょ)「公文所」(くもんじょ)といった役所が作られ、いわゆる「鎌倉幕府」の武家政治の中心があったため、「大蔵幕府(跡)」と呼ばれています。
かつての御所があった場所には今、その名を刻んだ石碑が残されており、御所を取り囲む4つの門「東御門」「西御門」「南御門」「北御門」のうち「西御門」だけが、今もこうして町名に残り、鎌倉のまちの歴史を語っています。
漫画「鎌倉ものがたり」では、実際の地名「西御門」がそのまま使われて描かれており、「西御門の姫君」と呼ばれる女性が、一色先生の妻、亜紀子夫人に「鎌倉のかぐや姫伝説」を話す第10話「西御門のかぐや姫」に登場します。
【西御門碑】 10:56
十字路に戻って先に進むと、道は突き当りになる。その突き当り左手に西御門碑が建っている。
【碑文】 西御門ハ法華堂西方ノ地ヲ謂フ 大藏幕府西門ノ前面ニ當レルヲ以テ此名アリ 報恩寺保寿院高松寺来迎寺等 地ニ在リ今高松来迎ノニ寺ヲ存ス 大正十五年三月建 鎌倉町青年團 |
【太平寺跡】 11:02
上記「西御門碑」を右折して道なりに北進する。右側に『右来迎寺』の石柱が立っている所を右折すると、すぐ来迎寺の石段に当たる。
この石段の左下に大平寺跡の碑が建っている。
【碑文】 大平寺ハ比丘尼寺ニシテ相傳フ 頼朝池禅尼ノ舊恩二報イン為其ノ姪女ノ所望ヲ聴キ姪女ヲシテ開山タラシメシ所ナリト 足利ノ代管領基氏ノ族喬清渓尼ノ中興スル所トナレルガ 天文中里見氏鎌倉ヲ鹵掠セル時住持青岳尼ヲ奪ヒテ房州二去リテヨリ遂二頽破セリ 今ノ高松寺ハ寛永中紀州徳川家ノ家老水野氏ガ其ノ太平寺ノ遺址ヲ改修セルモノナリ 昭和六年三月建之 鎌倉町青年團 |
【来迎寺】 11:02~11:18
鎌倉観世音第五番、鎌倉十三仏霊場第十番(阿弥陀如来)
拝観時間:9:00~16:00 拝観料:志納
住所:西御門1-11-1
宗派 時宗藤沢山清浄光寺末
山号寺号 満光山来迎寺(まんこうざん らいこうじ)
建立 永仁元年(1293)
開山 一向上人(いっこうしょうにん)
本堂には本尊・阿弥陀如来座像と、南北朝時代の仏師・宅間浄宏の作と伝えられる地蔵菩薩像が安置されています。この地蔵菩薩像は、近くにあった報恩寺(廃寺)の本尊でした。
本尊脇の如意輪観音像は「土紋」の装飾が鮮やかです。「土紋」は鎌倉特有の仏像装飾の技法で、練った土で作った文様を貼り付け、浮き彫りに似た効果を出すものです。厄除けと安産に御利益があるとされます。
鎌倉市
来迎寺の石段右側に建つ石柱には『鎌倉観音第五番札所 鎌倉地蔵第二番札所 鎌倉十三佛第十番札所』と刻まれている。
上記石段を上った左手に庫裏があり、御朱印はこちらで頂ける。
更に石段を上った左に本堂がある。本堂は通常閉め切り。
御朱印は庫裏でインターフォンを押して頂く。納経料300円。
【西御門八雲神社】 11:18
来迎寺石段手前の左側に西御門八雲神社がある。
【西御門八雲神社】 祭神 素佐男命(スサノウノミコト) 建立は定かではありませんが『風土記稿』に因れば字大門の天王社がもとだと考えられます 現在の社殿は 天保三年の建造だと言われています 素佐男命は『古事記』『日本書紀』でも知られる神様で 特に素佐男命は乱暴で天照大神が怒って天の岩戸に隠れた神話や八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した伝説はよく知られています |
【石川邸】 11:22
『右来迎寺』の石柱が立っている所に戻り、更に右奥に進むと石川邸がある。内部には入らなかった。
【石川邸(旧里見弴邸)】 鎌倉市景観重要建造物等第8号 平成6年2月1日指定 石川邸は、大正15年に作家里見弴の住宅として、建てられた建物です。里見弴自らが設計に携わったと言われるこの建物は、玄関ポーチ、2階バルコニーの存在が印象的で、建築家ライトの造形を取り入れたそのデザインは、当時は非常に斬新であったことが想像されます。 主屋の奥には、高床式、茅葺き屋根の茶屋があり、このコントラストも非常に印象的です。 建築年 大正15年(1926) 和風別棟は昭和4年(1929) 公開日/毎週木曜日~日曜日 開館時間/11:00~17:00 入館料/300円 *カフェ利用の方は入館料はいただきません |
【筋替橋碑】 11:35
石川邸から元の道を戻って『西御門碑』の脇を通り、金沢街道に出る。
出たら右折すると、直ぐの左カーブする右側の歩道上に筋替橋の碑が建っている。
【碑文】 鎌倉十橋ノ一ナリ 寶治元年(皇紀一九〇七)六月三浦泰村一族ノ叛亂ニ際シ北条時頼ノ外祖タル安達景盛ハ其ノ一族ソ共ニ兵ヲ率ヰ此ノ橋ノ北邊ヨリ康村ノ第ヲ攻メシコト東鑑ニ見エタリ 又文平二年(皇紀一九二五)三月鎌倉ニ於ケル商家ノ営業地域ヲ數ケ所ニ限定セル触書中ニ「一所須地賀江橋」トアルハ即チ此附近ノ事ナリ |
【昼食】 11:43~12:13
前回訪れた「宝戒寺」前を右折して鶴岡八幡宮の三ノ鳥居へ向う。鳥居の少し手前左側にある「静久」で昼食(小天丼セット ¥1,100)。
日曜日だが、メイン道路より僅かに外れ、且つ12:00前だったので空いていた。12:00過ぎれば混んできたが、味は普通だった。
【鉄の井(くろがねのい)】 12:18
鶴岡八幡宮の鳥居前を通り、付き当たったら左折する。その左角に鉄の井が碑と共にある。
【鉄の井】 この井戸は、鎌倉十井の一つです。 かつて扇ヶ谷に所在した、新清水寺に蔵されていたと伝わる鉄観音像の首がこの井戸の中から掘り出されたことから、この名がついたといわれています。 平成11年12月 【碑文】 鎌倉十井ノ一ナリ 水質清冽甘美ニシテ盛夏ト雖涸ルルコトナシ 往昔此井中ヨリ高サ五尺餘ノ首許リナル鐵観音ヲ掘出シタルニヨリ鐵井ト名付クトイフ 正嘉二年(皇紀一九一八)正月十七日丑ノ剋秋田城介泰ガ甘縄ノ宅ヨリ出火シ折柄ノ南風ニ煽ラレ火ハ薬師堂ノ後山ヲ越エ壽福寺ニ到リ郭内一字ヲモ残サズ焼失セシメ 餘焔ハ更ニ新清水寺窟堂若宮寶藏同別當坊等ヲ焼失セシメタルコト東鑑ニ見エタリ 此観音ハ其ノ火炎ニカカリ土中ニ埋レシヲ掘出シタルモノナラン 尊像ハ新清水寺ノ観音ト傅ヘ後此ノ西方ナル観音堂ニ安置セラレシモ明治初年東京ニ移セリトイフ 昭和十六年三月建 鎌倉青年會 |
碑の右隣に井戸が現存する。
【川喜多映画記念館】 12:21
「鉄の井」の直ぐ先を右折すると、程なく右側に川喜多映画記念館がある。
【鎌倉市川喜多映画記念館】 鎌倉市川喜多映画記念館は、この敷地内にあった旧川喜多邸母屋を、周囲の景観と調和のとれた鎌倉らしい佇まいを楽しむことができる、和風の平屋建てに建て替えたものです。 この記念館は、本市における映画文化の発展に資するため設置したもので、映写機を持った映像資料室、映画に関する資料等の展示室等を備えています。 また、敷地内にある旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)は、哲学者の和辻哲郎(明治22年-昭和35年)が江戸後期の民家を居宅として使用していたものを川喜多夫妻が練馬区からここに移築したものです。 なお、敷地内の遊歩道は、鎌倉らしい緑の中を散策できるように整備したもので、記念館をご利用ならない方でも自由にご散策いただけます。 |
【源氏山碑】 12:26
「巌窟不動尊(不動茶屋)」の前を過ぎ、JR横須賀線の「扇ヶ谷踏切」を渡ると正面が「寿福寺」になる。
「寿福寺」入口を左手の方から回り込むと、源氏山碑が建っている。源氏山は「寿福寺」の背後の山である。
【碑文】 源氏山ハ初メ武庫山ト云ヒ龜ヶ谷ノ中央ニアル形勝ノ地ナルヲ以テ又龜谷山トモ稱セリ 源頼義義家親子奥州征伐ノ時此山ニ旗ヲ立テタルヨリ或ハ旗立山卜名付ク 山ノ麓壽福寺境内付近ハ爾来源氏世々ノ邸宅タリシ地ナリト云フ 源氏山ノ名称ハ之二起因セルカ 旗竿ヲ建テシトイフ故跡ハ今尚ホアリ 昭和三年三月建之 鎌倉青年會 |
【寿福寺】 12:26~13:50
鎌倉観世音第二十四番、鎌倉五山第三位、鎌倉二十四地蔵尊第十八番(延命地蔵尊)、鎌倉十三仏霊場第四番(普賢菩薩)
拝観料:志納 中門内非公開
住所:扇ケ谷1-17-7
宗派 臨済宗建長寺派
山号寺号 亀谷山壽福金剛禅寺(きこくざん じゅふくこんごうぜんじ)
建立 正治2年(1200)
開山 明菴栄西(みょうあんえいさい)
源頼朝が没した翌年、妻の北条政子が明庵栄西を開山に招いて建立した鎌倉五山第三位の寺です。鎌倉幕府三代将軍の源実朝も、再三参詣しました。
栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、『喫茶養生記』を著わすなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。
裏山の「やぐら」(中世の横穴墳墓)には、源頼朝、母・政子の墓といわれる五輪塔があります。
墓地には俳人・高浜虚子や作家・大佛次郎などが眠っています。
上記「源氏山碑」の後ろに見えるのが、寿福寺の総門。
総門をくぐると鎌倉で最も美しいと言われる長い石畳が続く境内に入る。
また、総門をくぐったすぐ右手に寿福寺境内の説明板と共に『山門不幸の為 暫くの間 御朱印を中止させて頂きます』の案内板が立っていた。
石畳の突き当りに中門があり、特別な時期を除いてここから先は立ち入ることは出来ない。
石畳と中門 中門から写した仏殿 |
【寿福寺境内】 国指定史跡(昭和41年3月22日指定) 亀谷山寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)は、正治二年(1200年)に頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺であります。 この地は、もと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといわれています。墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔が二基あります。 現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂い、また仏殿前に四株の柏槇があり、往時のおもかげを残しています。 平成八年三月三十日 神奈川県教育委員会 |
御朱印は、この中門を右に入った庫裡で頂けるはずだったが、上述の如く『暫く中止中』の案内がここにも掲げられていた。
仕方が無いので、この門を左に入った墓地に行く。
この墓地には、高浜虚子と大佛次郎の墓もあるが確認しないまま政子の墓(やぐら)の前迄来てしまった。
その先に政子の子で三代将軍源実朝の墓(やぐら)がある。
【八坂大神(相馬天王)】 13:50
寿福寺の左隣に八坂大神が建っている。
【由緒】 建久三年 相馬次郎師常己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まる その後現在の地に奉遷する 世に相馬大王と称するはこの故である 神幸式は五日十二日の両日に行われてゐたが今では十二日のみとなった 中世御神幸の神興荒ぶるを以て師常館の巌窟に納め新たに調進したと傳へられる独特の六角神輿は宗社である京都祇園八坂神社の形を伝承したものである 享和元年 慶応元年に社殿の改築が行われた 明治六年村社に列格される |
【扇谷上杉管領屋敷跡碑】 11:55
「寿福寺」の右手にある「寿福寺踏切」を渡って、横須賀線の東側に出ると直ぐ「護国寺」がある。
その寺の駐車場前に扇谷上杉管領屋敷跡の碑が建っている。
下の写真で碑の後ろの三角の屋根が護国寺の本堂。
【碑文】 内大臣藤原高藤十三代ノ裔ニ重房アリ 宗尊親王ニ従ヒテ鎌倉ニ下リ 食邑ヲ丹波國上杉荘ニ賜リテ始メテ上杉氏ヲ稱セルガ 其ノ曾孫憲顕管領基氏ノ執事ト為リテヨリ一族勢力ヲ関東ニ占ム 門葉數家重房五世ノ孫顕定扇谷家ヲ創ム 文明ノ交扇谷家六代ノ主定正賢臣太田道灌ヲ用ヒテ家聲ヲ揚クルヤ 世ニ宗家山内ト共ニ両上杉又ハ両管領ト稱ス 此ノ地即テ其ノ邸址ナリ 大正十一年三月建 鎌倉青年會 |
【藤谷黄門(ふじがやこうもん)遺跡】 12:59
「護国寺」の先の突き当りを右折すると、程なく左側に「浄光明寺」の入がある。
その入口の左側に藤谷黄門遺跡の碑が建っている。右側には浄光明寺の説明板と『冷泉為相(れいぜいためすけ)卿𦾔跡』と刻まれた石碑が建っている。
【碑文】 冷泉為相卿ハ為家ノ子ナリ 従二位中納言トナル 和歌所ノ事ニ由リ兄為氏ト争論ノ末ソノ母阿佛尼ト共ニ鎌倉ニ来リ幕府二訴フ 遂二藤谷ニ寓シ藤谷殿ト稱セラル 藤谷百首ト呼ビ世ニ傳誦セラルゝ和歌ハ此地ニテ詠出セラレシ者ナリ 網引地蔵ハ其ノ建立二係ルト云フ 卿ノ墓ハ其ノ後山ノ頂ニ在リ 五輪塔ニシテ月巖寺殿玄國昌久ノ八字ヲ刻セシト謂フモ今ハ漫滅シテ字體ヲ辨ゼズ 昭和四年三月 鎌倉青年會 |
【浄光明寺】 12:59~13:48
鎌倉観世音第二十五番、鎌倉二十四地蔵尊第十六番(網引地蔵尊)、、鎌倉二十四地蔵尊第十七番(矢拾地蔵尊)、鎌倉十三仏霊場第九番(勢至菩薩)
拝観時間:10:00~16:00 拝観料:志納 本堂(仏殿)・収蔵庫・山上\200(木・土・日・祝日10:00~12:00、13:00~16:00)
住所:扇ケ谷2-12-1
宗派 真言宗泉涌寺派
山号寺号 泉谷山浄光明寺(せんこくざん じょうこうみょうじ)
建立 建長3年(1251)
開山 真阿(真聖国師)(しんあ/しんしょうこくし)
開基 北条長時(ほうじょうながとき)
鎌倉幕府六代執権・北条長時が、開山に真阿を迎えて建立しました。北条氏の帰依が篤く、また、鎌倉公方(鎌倉府の長)の保護も受けました。
本尊の阿弥陀三尊像(国重文)は宋(現在の中国)の影響を受けた美しい造形です。中央の阿弥陀如来像の衣の装飾には、「土紋」といわれる鎌倉地方独特の技法が使われています。
裏山には歌人藤原定家の孫で、歌道の名門冷泉家の始祖為相(ためすけ)の墓があります。母の阿仏尼は、京から鎌倉への紀行文『十六夜日記』の作者です。
鎌倉市
浄光明寺の参道を進むと、格のある五本の筋塀の先に山門が建っている。
鎌倉市文化財に指定されている門で、横から見ると上部に鬼瓦が乗っている。
〔(市文)木造 浄光明寺山門〕 もとは近隣の英勝寺の総門でしたが、その後、一時民間人の手に渡り、大正十五年(1926)に当寺に寄進されました。瓦葺の四脚門で、英勝寺が創建された寛永年間のものと思われます。 浄光明寺のパンフレットより |
山門をくぐって直ぐ左手に楊貴妃観音が祀られている。
その左前方には客殿が建っていて、軒下には龍の彫刻が彫り込まれている。ここは本堂ではない。
客殿の左側に庫裏が、右側には菩提樹の木が植えられている。この時期、葉の付根から花が咲いているのが見られた。
山門から右手には鐘楼と不動堂が建っている。
山門から真っ直ぐの道(客殿の側面)を進むと有料拝観エリアになる。上述したように、木・土・日・祝日の10:00~12:00、13:00~16:00(雨天?)しか拝観出来ないので注意。
私達が比較的観光客の少ない平日でなく、日曜日に訪れたのはここを拝観する為である。
正面の階段を上り、途中から右に回り込むように更に階段を上ると受付の前に出る。ここで200円を払うと受付の人が親切丁寧に解説して下さる。
受付から正面に見えるのが仏殿(本堂)。納められている三世仏(さんぜぶつ)は、左から、阿弥陀如来(過去)・釈迦如来(現在)・弥勒如来(未来)。
【市指定文化財 浄光明寺仏殿(本堂)】 浄光明寺仏殿は、鶴岡八幡宮寺本喬僧都が、母の菩提を弔うために資金を提供し、寛文八年(1668)に再建されました。 元々は浄光明寺本尊である阿弥陀三尊像が安置されていましたが、本尊が収蔵庫に遷座されたことにともない浄光明寺の本山である京都泉湧寺仏殿に倣って三世仏を造像し、過去・現在・未来にわたる仏法の興隆を祈願しています。 堂内奥には室町時代頃の作と考えられる開基・北条長時の座像(向って右)と開山・真阿和尚(真聖国師)の座像(向って左)を安置し、堂内右手前には境内の経塚遺跡から出土した常滑窯の大甕を(鎌倉時代)置いています。 ちなみに、仏殿再建に資金提供した本喬僧都の墓で、傍らには、その母親の墓も建てられています。 |
仏殿の右側に大伴神主家墓所がある。
【大伴神主家墓所】 鎌倉市指定史跡(平成7年10月13日指定) ここは鶴岡八幡宮の神主を代々務めた大伴氏の墓所で、記録の上では第十代持時〔文明十三年(1481)没〕からの墓が営まれたことが知られ、現在確認されるだけでも第十五代清道〔寛文九年(1669)没〕から二十三代清綱まで九基の神主墓と、その家族の墓塔があります。 墓塔は笏形碑、円頂形碑、舟形碑とさまざまで、特に奥のやぐら内にある笏形の墓塔は、碑面に鳥居と笏が配されており、他に類を見ることができない神道特有の墓塔です。 初代の神主は大伴清元といい、文治二年(1186)あるいは建久二年(1191)に鎌倉幕府によって任ぜられてと伝えます。以後二十五代までその職にありましたが、明治四年(1871)頃に神仏分離の影響を受け、同職を離れたようです。 当初は鎌倉時代以来の伝統を持つ大伴家の記念物として、また、鎌倉の中近世史を研究する上でも貴重な史跡です。 平成三十年三月 鎌倉市教育委員会 |
仏殿の左側に収蔵庫があり、本尊である阿弥陀三尊像(国重要文化財)が祀られているが、ここの内部だけは撮影禁止となっている。
〔(国重文)木造 阿弥陀如来及両脇侍座像(阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩〕 北条長時の孫である久時によって、正安元年(1299)の造像された浄光明寺の本尊です。慶派の作風を基調としながらも、宋風美術の特徴も見られ、中世の鎌倉のみで流行した「土紋」と呼ばれる装飾技法が用いられた仏像としては最古のものです。中尊の阿弥陀如来が説法印を結ぶ点に浄光明寺教学の特徴が現われています。 浄光明寺のパンフレットより |
収蔵庫の右隣に観音堂が建っている。
鎌倉三十三観音の一つである千手観音が安置されているとの事だが非公開で見ることは出来ない。
観音堂の右隣のやぐらは、鎌倉幕府最後の執権(十六代)である北条守時の墓である。
「網引き地蔵」と「冷泉為相の墓」へは、「守時の墓」の横から山の上に登る。ご覧の通り狭い上、濡れている時は登り難い。
階段を登った最初の開けた場所に出ると奥にやぐらがあり、中には網引地蔵が安置されている。
標柱の正面には『市指定有形文化財 彫刻 石造地蔵菩薩座像 一躰』、右面には『指定 昭和四十五年十一月十一日』と書かれていた。
鎌倉二十四地蔵尊の第十六番になっている地蔵尊。
〔(市文)石造 地蔵菩薩座像(網引地蔵)〕 鎌倉屈指の石仏で、漁師の網に懸かり海から引き上げられたとの伝承から網引地蔵と呼ばれています。背中の銘文に当寺第三世長老性仙和尚が正和二年(1313)に供養したことが記され、冷泉為相によって造立されたとも伝えられています。 浄光明寺のパンフレットより |
「網引地蔵尊」の左手よりもう一段上ったところに冷泉為相の墓が建っている。
〔(国史跡)冷泉為相墓〕 「十六夜日記」の作者として知られる阿仏尼の子で、嘉暦三年(1328)に没した冷泉為相は、祖父藤原定家の歌伝書を相伝して冷泉家を興した人物です。為相は浄光明寺の西北の谷である藤ヶ谷に住み、鎌倉歌壇の指導者として活躍しました。墓塔は宝篋印塔で、鎌倉時代末から南北朝時代初め頃の型式を示しています。 浄光明寺のパンフレットより |
また、ここからの鎌倉の町並みと海が美しい。
帰りに庫裏で頂いた御朱印。納経料300円。
【泉の井】 13:50
「浄光明寺」を出て、左の方(「浄光明寺」に向って右)へ少し行くと泉の井がある。
【泉の井(いずみのい)】 この井戸は、鎌倉十井の一つです。 十井の中では、比較的原形がよく残されています。 こんこんと清水がわき出た往時の勢いこそありませんが、今でもきれいな水が出ています。 平成11年12月 社団法人 鎌倉青年会議所 |
【相馬次郎師常(もろつね)之墓】 13:56
「泉の井」から線路沿いの道に戻り右折。直ぐ先の最初の道を右折すると、突き当りに相馬次郎師常之墓(やぐら)がある。
【碑文】 師常ハ千葉介常胤ガ第二子ニシテ相馬氏ヲ嗣ギ巽荒神ノ邉ニ邸ヲ有セシガ 元久二年十一月十五日歳六十七ヲ以テ端坐合掌ノ裡ニ決定往生ヲ遂ゲ 其結縁トシテ僧俗ノ人々集リ拝セシトイフ 窟中ノ寶篋印塔ハ即チ師常ノ墓ナリ 昭和七年三月建 鎌倉町青年團 |
【岩船地蔵堂】 13:59
横須賀線のガード手前の三叉路右角に岩船地蔵堂が建っている。
【岩船地蔵堂】 亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫を、供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。 木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御息女之守本尊也』との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。『北条九代記』にも、許嫁との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。 このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養しました。 心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通りください。 平成十三年十一月吉日 海蔵寺 |
地蔵堂の直ぐ先のJR横須賀線「扇ヶ谷ガード」をくぐろうとした時、突然の雷雨に合い、ガード下で雨宿り。 13:59~14:18
雨漏りはしたが傘を持ってきたおかげで上半身はぬれなかったが、足下はかなり濡れてしまう様な豪雨だった。
あと数分雨が降るのが遅かったら、海蔵寺で濡れずに雨宿りが出来たと思ったが、ずぶ濡れの人を見て、ガード下だったことには幸いと思わなければ。
【底脱の井】 14:22
ガードをくぐって真っ直ぐ暫く進むと「海蔵寺」に行き着くが、その入口右側に底脱の井がある。
写真の水は濁っているが、先ほどの豪雨の為で、本来はもう少し綺麗だと思う。何故なら「海蔵寺」を参拝した後に見たらやや濁りが取れていたから。
【底脱の井(そこぬけのい)】 この井戸は、鎌倉十井の一つです。 中世の武将の安達泰盛の娘・千代能が、ここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず」とうたったことから、この名がついたといわれています。 井戸の底ではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です。 平成11年12月 社団法人 鎌倉青年会議所 |
【海蔵寺】 14:22~14:55
鎌倉観世音第二十六番、鎌倉二十四地蔵尊第十五番(岩船地蔵尊)、鎌倉十三仏霊場第七番(薬師如来)
拝観時間:9:30~16:00 拝観料:志納(十六井は\100)
住所:扇ケ谷4-18-8
宗派 臨済宗建長寺派
山号寺号 扇谷山海蔵寺(せんこくざん かいぞうじ)
建立 応永元年(1394)
開山 心昭空外(源翁禅師)(げんのうぜんじ)
鎌倉時代、七堂伽藍を持つ規模の大きい寺があったと伝えられますが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、その後、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で、上杉氏定が心昭空外を招いて再建され、扇ガ谷上杉氏の保護を受けて栄えました。
この寺には多くの言い伝えがあります。空外は「那須の殺生石」の話で有名です。仏殿の薬師如来座像は「啼き薬師」、「児護(こもり)薬師」といわれ、胎内に仏面を収めており、啼薬師伝説があります。
門前には、「千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」と歌われたと伝えられる「底脱の井」や、鎌倉時代の遺跡である「十六の井」もあり、水の寺といわれています。
鎌倉市
入口を入ると正面に男坂呼ばれる山門への石段が見える。因みに女坂は入口右手の坂を行き、数段の石段を上って総門より入る。
山門を額縁に見立てると、庭と赤い傘と本堂に趣が出る。
山門の正面が本堂。
【本堂(龍護殿)】 大正十二年(1923)の震災で倒壊したのち同十四年の再建。内殿欄間の雲龍彫は文化九年(1812)、額は延宝九年(1681)霊芝の華。間切戸雲龍・山水の絵は狩野探信の筆になり、正面四枚戸の牡丹唐獅子の絵は藤原義信の筆。 海蔵寺のパンフレットより |
本堂手前の左手に仏殿。
【仏殿(薬師堂)】 安永五年(1776)浄智寺から移築し、翌年入仏供養を行った。薬師三尊像(鎌倉市指定文化財)・十二神将像・伽藍神像などを安置する。 海蔵寺のパンフレットより |
その手前右手の赤い傘の先には鐘楼。
”十六井戸”は、赤い傘の反対方向の細道を行くのだが、ここからは有料の為、赤い傘の下に置かれている箱に拝観料200円を入れてから向う。
左に曲がって、ブレてしまったが下の写真の崖に掘られたトンネルをくぐって右手に進む。
民家の先、右手に十六井戸がある。
【十六井戸】 境内の南の隅の巌窟中にある鎌倉時代の井戸。窟の中央に石造の観音菩薩像をまつり、その下方に弘法大師像を安置する。井戸の名は窟底に径七十㎝、深五十㎝くらいの井十六穴がおのおの清冽な水をたたえているのにちなむ。 伝承では金剛功徳水と名づけられ、観音菩薩が中興開山に夢に告げて曰く「末世の衆生信心つたなくして身に難病をうけて定業を終えずして死す、故に弘法大師に告げ金剛功徳水を以って加持し、この水を授け、薬を煎じて与えれば、悪病ことごとく払い蕩除(はらいのぞ)けたのだが、鎌倉は数度の天災のため井埋もれり、禅師願わくはこの井を掘り出し掃除をなさば、清水湧き出て再び霊験あらわれん」と。夢からさめて禅師がその通りにすると観音菩薩が出現し、窟中の水を加持し衆生に施したところ霊験あらたかであった。 察するに、その数十六とは、十六(金剛)菩薩(薩・王・愛・喜・寶・光・憧・笑・法・利・因・語・業・護・牙・拳の各菩薩)を表現しているもので、その菩薩に供え捧げる水が閼伽(あか)という功徳水である。 一部の歴史家には墓所と称する説もあるが、湧水地と十六という数字を思えば、墓所とは考えられない。 ない、扉右壁に黄檗宗万福寺木庵禅師の偈がある。 海蔵寺のパンフレットより |
御朱印は、本堂の右側にある庫裡(入口の小さな鐘を撞いて呼び出す)で頂ける。納経料300円。
【伝阿仏尼墓】 15:02
「海蔵寺」から横須賀線の線路に戻り、線路伝いに鎌倉駅方面に行く。
程なく駅に向って右手の崖を削った「稲荷神社」があり、その隣に阿仏尼の墓(やぐら)がある。
【太田道灌邸𦾔蹟】 15:06
「阿仏尼墓」の先、右側に「英勝寺」の洋風の入口があり、総門はその先にある。
その総門の右手前に太田道灌邸𦾔蹟の碑が建っている。
【碑文】 此ノ地ハ武略文藻兼ネ備ヘ忝クモ武蔵野は萱原の野と聞きしかどかかる言葉の花もあるかなテフ叡感ニサヘ預リタル道灌太田持資ガ江戸築城前ノ邸址ナリ 寛永十一年今ノ英勝寺ト為ル 其ノ創立者水戸藩祖頼房ノ准母英勝院ハ道灌ノ嫡流太田康資ノ女ナルヨリ晩年将軍家光ヨリ特ニ此ノ地ヲ授リテ之ニ住スルニ至レルナリ 孤鞍雨ヲ衝イテ茅茨ヲ叩ク少女為ニ遺ル花一枝ノ詩趣アル逸話ハ道灌ガ壮年猶此ニ在リシ日ニ於テ演ゼラレシ所ノモノナリ 大正十年三月建之 鎌倉青年會 |
総門の左手前には「英勝寺」の説明文が立っていた。
説明文を読んで訪れたくなったが、入口まで戻るのが面倒になり今回は見送った。拝観料300円。
【英勝寺】
初期の江戸城を築城した大田道灌の子孫で、徳川家康に仕えたお梶の方(英勝院)が道灌の屋敷跡に建てた尼寺です。お梶の方が一緒に行くと戦に勝利したことから、改名して、お勝という名になったそうです。
お勝の方は、水戸徳川家の初代頼房の養母であったことから代々水戸家の姫が住職を務めています。江戸時代は水戸御殿と呼ばれたほど格式が高く、総門には三葉葵の紋を掲げ、さながら武家屋敷のような境内でした。
仏殿、祠堂、唐門、鐘楼は江戸時代初期の建築で、これだけよくそろい、当寺のままで残っている寺は少なく貴重です。
鎌倉市
【結の蔵】 15:14
駅へ向って更に進むと、右側に住宅に再生された蔵が建っている。
【結の蔵】 この建物は秋田県湯沢市に明治21年に建てられた造り酒屋の酒蔵でした。 それをほぼ原形のまま移築し、歴史都市鎌倉で土壁等の伝統的技術を使い、住宅として再生させました。 移築再生は、わが国に古くから残る相互扶助制度である”結”に習い、多くの人々の力添えにより進められました。 その精神を永く記憶に留める意味で「結の藏」と命名しました。 建築年 1888年(明治21年) 移築年 2004年(平成16年) 元の用途 酒藏 現在の用途 賃貸住宅 規模 間口7.3m、奥行16.5m |
【旧鎌倉駅時計台】 15:20
鎌倉駅西口にある時計台は、大正五年(1916)駅舎が改築された時に設置されたもの。
昭和五十九年(1984)に新しい駅舎に建て替えられた時、市民の願いで時計塔として残された。