成田街道(2) 本八幡駅 ~ 西船橋駅
2016年12月3日(土)
「本八幡駅」に9:45降り立って、「本八幡駅前」信号から再開。
(注:解説で街道の左側、右側とは成田山に向っての左右です)
「亀有駅~本八幡駅」← 「目次」 →「西船橋駅~津田沼駅入口」
【葛飾八幡神社】 (左側) 9:50~10:20
千葉街道(国道14号線)の「本八幡駅前」信号から直ぐ先、歩道橋の手前を左折すると葛飾八幡宮の標柱と一之鳥居が建ち、由緒も掲げられている。
【下総国総鎮守 葛飾八幡宮 御由緒】 御祭神 誉田別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・玉依比売命 御沿革 当宮の御創建は平安の昔(寛平年間)、宇多天皇の勅願により、下総国総鎮守八幡宮として御鎮座以来歴朝の御崇敬あつく代々の国司・郡司をはじめ国民の信仰ふかく、当国における葛飾文化・八幡信仰の中心となり中でも平ノ将門の献幣・源頼朝の改築・太田道灌の修覆・徳川家康の神領御朱印地五十二石の寄進等顕著な御社歴がある。 今の御社殿は大正二年に改築され、大正八年・昭和二十六年・昭和五十九年四月執行の三十三周年式年大祭に修築整備されたものである。 御神徳 文教の祖神・産業振興・殊に濃、漁業の守護神・厄除開運・安産育児・縁結びの守り神等の御神徳を有せられる。 御社宝 神木千本公孫樹(国指定天然記念物) 不知八幡森(国指定保安林) 元享の銅鐘(県指定文化財) 随身門(市指定文化財) 御例祭 九月十五日(農具市二十日まで) |
奥に進み京成本線の踏切を渡り、二之鳥居をくぐると、市指定有形文化財の随身門が建っている。
随身門をくぐって更に進むと、もう一つの門があり、その左手に社務所(御朱印を貰う)、門の右側に葛飾八幡神社の説明が掲げられていた。
【葛飾八幡神社】 寛平年間(889~898)宇多天皇の勅願によって勧請された社で古来より、武神として崇敬されていました(旧社格は県社)。 治承四年(1180)源頼朝は安房国から下総国府へ入ると、自ら参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190~1199)には千葉常胤に命じて社殿を修復させたと言われています。 また、文明十一年(1479)太田道灌は白井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城の際、関東の安泰を願って参拝し、社殿の修理を行ないました。更に天正十九年(1591)には、徳川家康が社領として朱印五十二石を寄進しています。 明治維新の神仏分離の時までは、当宮境内には上の東叡山寛永寺の末寺が、別当寺として存在していました。現存する鐘楼は往時を物語る貴重な遺物です。また、山門は仁王像が行徳の徳願寺の山門に移されて、その後に左右両大臣像が置かれ随身門と呼ばれるようになりました。この随身門は市指定有形文化財です。 本殿の東側にそびえる「千本公孫樹」は、天然記念物として国の指定を受け、また、寛政五年(1793)に発掘された元享元年(1321)在銘の梵鐘の銘文からも東宮創建の古さがうかがえます。 当宮の祭礼は九月十五日から六日間にわたって行われ、俗に「八幡のぼろ市」とよばれる近郷に名高い農具市がたち、一時は関東三大農具市のひとつに数えられました。 二月の初卯祭は湯立神事、御神楽、宮司舞などをもって祭事が進められる特殊神事です。 平成二十八年三月 市川市教育委員会 |
上記写真の門の右向かいに川上翁遺徳碑が建っている。
【川上翁遺徳碑】 市川市で最初に梨栽培を始めたのが川上善六です。善六は、寛保二年(1732)一月、八幡村に生まれました。幼少の頃から祖父を助け、父に仕えて農業に励みましたが、生活は苦しかったと伝わります。 善六が梨栽培を始めたのは明和七年(1770)のことです。梨栽培に没頭していましたが成果があがらず、梨栽培が盛んな美濃の国(現、岐阜県)を訪れ、良種な梨の接ぎ穂を得て持ち帰りました。その後、葛飾八幡宮の別当寺であった法漸寺(現、廃寺)の境内で梨栽培を本格させたと言います。(『葛飾誌略』参照)。 やがて江戸の市場で、取り引きがされるようになると、梨栽培は八幡を中心に広がり『江戸名所図絵』にも、梨栽培の様子が描かれています。 善六は、祖父や父によく仕え、梨栽培を興したことを理由に代官から褒美を受けています。また梨栽培で財をなしても決して驕らず、温恭実直に世を送ったと伝わりますが、文政十二年(1829)八月、八十七才で歿しました。なお善六は孟慶と号すなど知識人として知られ、村人から『梨祖』と仰がれたと伝わります。 大正四年(1915)その遺徳を後世に伝えるため、この遺徳碑が建てられました。 平成二十四年 市川市農業青少年クラブ |
上記写真の門を入った左手に梵鐘の説明板が立っているが、現物は何処に置かれているか分からなかった(下の写真は説明板に載っていたもの)。
【梵鐘(元享元年在銘)一口】 県指定有形文化財(昭和34年4月24日指定) この梵鐘は寛政五年(1793)正月十九日、境内のケヤキの大樹が暴風で倒れたさい、その株根から出土したものと伝えられています。 総高一一七・二㎝、口径六六・七㎝、鐘の下部にあたる池の間の上下に型継ぎの跡があり、鐘身が三段に鋳上られ、それに笠形の部分と龍頭が組み合わされて鋳造されたものです。 上下帯は無丈で、乳は一区内に四段五列の合計八十個をつけており、二個の撞座は丸形の中に先のとがった八弁の蓮花文を刻み、龍頭の方向と平行に位置しています。 池の間には縦帯をはさんで銘文が陰刻されていますが、それによると、葛飾八幡宮は寛平年間(889~898)、宇多天皇の勅願によって建立されたこと、源頼朝の崇敬が殊に篤く、社殿は海(東京湾)に面して建てられていたこと等が知られます。 元享元年(1321)十二月十七日、右衛門尉丸子真吉によって寄進されたもので、この銘文は当時八幡宮の別当職にあった、法印智円が書いたものと思われます。元享元年は後醍醐天皇の治世で、特に正中の変(1324)・元弘の乱(1331)と時代の激変する時に当ります。 また、この梵鐘の笠形部分には字体の異なる細字で「応永二十八年(1421)三月廿一日」と三行に刻されていますが、この紀年については諸説があって明らかではありません。 平成二十八年三月 市川市教育委員会 |
門を入った正面に本殿、その左隣に神楽殿が建っている。
神楽殿の中には、大絵馬が掲げられていた。
【神楽殿大絵馬】 正面に掛けられている絵馬は幕末に奉納されたもので当神社の御祭神である神功皇后(向かって右から二人目)の「新羅出兵」を描いたものです。 尚、中央には皇后の臣下である武内宿禰(すくね)が描かれ、また皇后の胎内には当神社の主祭神である応神天皇(八幡様)が宿られていると神話(古事記・日本書紀)は伝えています。 社務所 |
本殿の斜め向いには鐘楼が建ち、その右下には力石、左下には源頼朝公・駒どめの石が置かれている。
【源頼朝公 駒どめの石】 源頼朝公は、治承四年(1180)以仁王より平氏追討の令旨を受けて挙兵したが、一敗地にまみれ、安房国に逃れた。 再起を図った源頼朝は千葉氏等の援軍を得て、下総国府(現国府台)に参会した折、当宮を参拝し戦勝と武運長久を祈願した。その折、頼朝公の馬がこの石に前脚を掛け、ひずめの跡を残したことから「駒どめの石」といわれる。 社務所 |
本殿の右隣には、見事な千本公孫樹が聳えている。
【千本公孫樹 一樹】 国指定天然記念物(昭和6年2月20日指定) 多数の樹幹が寄り集まって、まるで根元から一本の大樹がのびているように見えるところから、千本公孫樹の名で呼ばれてきました。推定樹齢は千二百年を超えると言われています。 樹高ニ三m、根回り一〇・二m、目通り(人間の目の高さ)一〇・八mで、根回りより目通りの方が太くなっているのも特徴の一つです。かつて落雷にあい上部が折れて、その後枝幹が支えあうように伸び、今のような樹形になったと言い伝えられています。 『江戸名所図会』には「此樹のうつろの中に小蛇栖めり、毎年八月十五日祭礼の時、音楽を奏す。其時数万の小蛇枝上に顕れ出づ。衆人これを見て奇なりとす。」とあり、この他にも古くは『下総国舊事考』『下総名勝図絵』』『葛飾記 下巻』『金ヶさく紀行』などにも記載され、近代では高浜虚子や伊藤左千夫がこの地を訪れ、千本公孫樹を見事に描写しています。 古来千本公孫樹には白蛇が棲むと言われ、その姿を見たものは幸福を授かり、長寿になるとの言い伝えがあります。また、乳の出ない婦人が公孫樹の「気根」と呼ばれる乳房の形に似た瘤を削り、煎じて飲むと、乳の出が良くなるという言い伝えから、育児守護の信仰があります。(現在は国指定天然記念物につき、樹の保護の為削ることはできません。) 平成二十八年三月 市川市教育委員会 |
【不知八幡森(しらずやわたのもり)・不知森神社】 (右側) 10:22
千葉街道に戻って、反対側に渡るとすぐ先に不知八幡森があり、真中に小さな不知森神社が建っている。
また、神社の左側には『不知八幡森』と刻まれた碑と合わせて三基の碑も建っている。
この森の斜め向は「市川市役所」である。
【不知八幡森(通称 八幡の藪知らず)】 江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。そして「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かせず。」とか、「藪の間口漸く(ようやく)十間(約一八メートル)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹み(くぼみ)の竹薮にして、細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などさまざまの雑樹生じ・・・・・」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪知らずは入ってはならない所、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。 入ってはいけない理由については、 ・最初に八幡宮を勧請した旧地である。 ・日本武尊が陣所とされた跡である。 ・貴人の古墳の跡である。 ・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。 ・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。・・・・・ といろいろ言われてきました。中でも万治年間(1658~61)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。 「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。 またその理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生池」の跡地であったからではないかとも考えられます。 古代から八幡宮の行事に「放生会(ほうじょうえ)」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必用で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。 市川市周辺地域は中世に千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられえてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。 「不知八幡森」の碑は安政四年(1857)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。 市川市教育委員会 |
【坪井玄道生誕の地】 (左側) 10:34
街道を少し進み、「市川インター入口」信号を過ぎた、八幡宿の東端になる所に流れる真間川に架かる「境橋」を渡る。
川を境に「八幡」から「鬼越(おにごえ)」に入る。
その橋を渡った直ぐ左に、坪井玄道誕生の地と題する説明板のみが立っている。
【坪井玄道生誕の地】 坪井玄道は嘉永五年(1852)一月九日、当時の東葛飾郡鬼越村のこ地で、農業坪井嘉助の二男として誕生。幼名を仁助といい、十四歳の時江戸に出て英語を学びました。 明治五年(1872)東京師範学校が創設されると、アメリカ人教師スコットの通弁官(通訳)として教壇に立ち、自らも英語と算術の授業にあたりました。 明治十一年(1878)政府は体育教師の養成機関として体操伝習所を設置、アメリカから医師リーランドを招きましたが、この通訳に選ばれたのが玄道で、彼が体操教師としての道を開いたのは、実にこの時からだったのです。 リーランド帰国後は、玄道が主任教師となりました。彼は『戸外遊戯法一名戸外運動』を出版し、老若男女誰にでもできる運動を作り上げることに懸命となり、また『普通体操法』と題した教科書の刊行に尽力して、広く体操の普及に務めたのです。 玄道が体操研究の目的で、ヨーロッパに留学したのは明治三十四年のことで、留学先では、滝廉太郎・岩谷小波等と交流があったことが、残された絵葉書などからわかります。帰国後はさらに新しい舞踏や行進運動の紹介と指導にあたりました。 ところが、自由主義的な健康で明るい豊かな人間づくりを目指した玄道たちの、「体操遊戯併用」による体育論を展開した「普通体操」は定着しませんでした。これは、わが国が日清・日露戦争を経験する明治三十五年ころから、軍国主義的な兵式体操や合理的なスウェーデン体操が普及するようになり、大正二年(1913)になると、これを採り入れ作成された永井道明による「学校体操教授要目」が、文部省から制定交付されるに至ったからです。 玄道は大正十一年(1922)十一月二日、七十歳で世を去りましたが、彼の大きな業績は、わが国にこれまでなかった欧米スポーツの中から人々にあったスポーツを選び、紹介や普及に努めたことです。体操のほか、今日一般に競技されている野球・ボート・卓球・サッカー・テニス等をも紹介し、普及に尽力しており、わが国体操の父とまで仰がれました。 平成十六年一月 市川市教育委員会 |
【木下(きおろし)街道追分】 (左側) 10:48
街道途中の左側にあった「常開寺」に寄ってみたが、特筆する様な寺では無かった。
その先「鬼越二丁目」信号に出るが、ここは、左へ分かれる木下街道との追分になっている。
この信号の右手に、蔵を持つ旧家が建っている。
現在の木下街道は愛称で、市川市「鬼越二丁目」交差点から、中山・鎌ヶ谷・白井を経て、印西市「中ノ口交差点」までの県道59号線市川印西線が正式名となっている。
今はこの信号が起点となっているが、江戸時代には、銚子からの魚介類や醤油を利根川の水運で木下河岸に陸揚げし、木下街道を陸運し、江戸川の行徳新河岸から再び水運で江戸市中まで運んだと云われる。
【東山魁夷記念館】 (左奥) 11:05~12:25
東山魁夷記念館の案内があったので、予定に無かったが寄り道することにした。
「鬼越二丁目」信号を左折して「京成本線」の踏切を越え、緩やかな上り坂を1Km弱行った左側に記念館はある。
開館時間 午前10時~午後5時
休 館 日 月曜日(祝日に当る時は翌日)年末年始
拝 観 料 510円(65歳以上:400円)
【東山魁夷の世界】 市川市東山魁夷記念館は、20世紀の日本を代表する日本画家、東山魁夷が生涯の大半を過ごしたゆかりの地である市川市に、2005年11月に開館しました。 東山魁夷は、戦後まもない1945年(昭和20年)から1999年(平成11年)に逝去するまでの、およそ半世紀にわたり市川に住み、「私の戦後の代表作は、すべて市川の水で描かれています。」との自身の言葉とおり、市川で重ねられたその輝かしい画業は、市川の誇りです。 つねに自分をみつめ、修行僧のようなその生き方は、描いた清謐な絵の中に投影されています。 市川市東山魁夷記念館は、「人間・東山魁夷」をコンセプトに、資料展示と作品展示を通してその偉大な業績を顕彰し、情報を発信していきます。 【建物の概要】 建物は、東山魁夷の人間形成、東山芸術の方向性の両面に影響を与えた留学の地ドイツに想をえた八角形の塔のある西洋風の外観となっています。 八角形の塔の入口を入ると、館内は右手に展示室棟、左手には多目的室、ミュージアムショップ、カフェレストランなどがあります。 (パンフレットより) |
<昼食>
館内のカフェレストラン「白馬亭」で昼食(上野精養軒のハヤシライス)をとった。
【高石神社・日枝神社】 (左側) 12:34~12:41
「鬼越二丁目」信号に戻って、街道の左手にある高石神社に木下街道側から入る。
鳥居をくぐり、石段を登った右手に高石神社の社殿建ち、その裏手に日枝神社が建っている。
両神社の説明文は、高石神社の左隣にある社務所の壁に掲げられている。
【高石神社由緒】 御祭神 神巧皇后 由緒 神功皇后(應神天皇の母、仲哀天皇の妃)三韓征討後、應神天皇を筑紫に出産 社殿に、南総大多木城主正木内膳亮時総が、故あって奇石を得、これを祭ったので、「高石神」と称したという。また、往古、鬼越村と一村であったが、分村して、神号を村名としたという。 本社の創建年代は不詳だが、中山法華経寺所蔵の文書には、室町時代の永享3年(1431)の条に、高石神社の記載がある。 *餅投げ(2月1日) 氏子が小餅を持参し祭典(御奉謝祭り)に参加、終了後、神職役員と散餅し、半数は持ち帰る。これを食べると、悪い風邪にかからないと言われる。 |
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【日枝神社】 御祭神 猿田彦命 由緒 猿田彦命、天孫降臨の時、天之八衡にて邪眼にて防げたが、天鈿女神(あめのうずめ)に制された。天孫の先頭に立ちし国神にて異形なりと。衡の神とす。 当村八番舗五関寅之助先祖三左衛門なるもの、延宝元年2月(1673年)自分所有地へ壱社を創立する。則、日枝社と号す。同5年(1677年)極月(十二月)、中川八郎左衛門の手代金沢孫市殿御縄入の節、同人名請にて弐畝弐歩を除地(免租地)とす。 その後、村内末社となる。 |
高石神社の石段を上がった左手(上の写真で灯籠のこちら側)に道標が建っている。
擦れて読みにくいが、手前が『天保四巳年正月吉日』、その裏の街道側は『南無妙法蓮華経 高石大明神』、右側は『是より左のた□町余』と刻まれているようだ。左側は擦れが少ないものの変体仮名が読めなかった。
【法華経寺】 (左側) 12:46~13:52
街道に戻って、その先左側の「小栗原蓮池公園」より船橋市本中山に入る。
最初の信号直前に左矢印で「中山鬼子母神 法華経寺 入口」と書かれた案内看板が掲げられている。
その信号を右折すればJR総武線「下総中山駅」、左折すれば「京成中山駅」で、「京成中山駅」脇の踏切を渡って長い参道(約700m)を進めば法華経寺に至る。
踏切を渡るとすぐ法華経寺の黒門が建っている。この黒門から再び市川市に入る。
【大本山 法華経寺 黒門 附扁額】 市川市指定有形文化財(昭和36年指定) この門は法華経寺の総門で、全体が墨塗りとなっているため黒門と呼ばれています。建立年代は明確ではありませんが赤門(仁王門)の創建と同じ、江戸時代の初期頃と考えられます。 門の形式は高麗門(こうらいもん)と呼ばれる形式で、四角の本柱二本と丸い控柱二本で構成され、本柱の上には細長い切妻屋根を掛け、本柱と控柱の間にも一段下げて直角に切妻屋根を掛けます。もともと高麗門は城郭の外門に設けられたので板扉が付けられますが、黒門には門扉が付いた痕がなく、当初から吹き通しの門でした。 建立後、度々の修理が行われましたが、これは控柱が掘立で五〇年程度での取替えが必要なこと、屋根葺替えや塗装が主なる修理内容です。本柱など本体構造は当初の状態で残っています。 なお、正面中央に掛かる扁額は掛川城主太田資順の筆で、裏面に寛政五年(1793)の刻銘があり、門の附指定です。全体に彩色が施され、文字は浮彫りになっています。 如来滅後 閻浮堤内 本化菩薩 初轉法輪 法華道場 平成二十一年七月より十七か月を要して解体修理を施し、基礎を新たにコンクリート造に改め、控柱を取替えて従来の掘立柱を継承した。また、屋根の銅板を葺替えたほか、腐朽していた本鼻等を取替えて塗装を塗り替えた。併せて扁額も修理を施した。 平成二十二年十一月 大本山法華経寺 市川市教育委員会 |
黒門をくぐった直ぐ先の右側に、市の施設である細長い庭園の精華園がある。
四足門をくぐると左手に管理棟があり、庭園に入ると、つるべ井戸、裏木戸門、四阿(あずまや)、芝生道へと続く。
管理棟
開館時間:午前9:30~午後4:30(正午~午後1時は休憩時間、入館は午後4:00まで)
休館日 :毎週月~木曜日・年末年始
庭園
開館時間:午前9:00~午後5:00(但し、12月28日~1月4日は閉園となります。)
【精華園】 平成4年9月石井はな氏より寄贈 石井家が江戸時代の中頃(享保年間1716~36)この地に居住され、近代に入って文房具店を開き、その後店名を「精華堂」と名付けて書店を併設し、中山町の発展に寄与された場所です。 市川市 |
長い参道を進んで行くと、やがて大きな山門(赤門)仁王門が現れる。
山門の右手には、『立正安国を説くお祖師さま』と記された日蓮聖人像が、左手には「いちかわ歴史の散歩道」と題する法華経寺の境内図が掲げられている。
山門の扁額には、『正中山』と書かれている。
山門をくぐると、両側に沢山の寺が並ぶ桜並木の石畳道になり、その先の龍渕橋を渡るとやっと法華経寺の境内に入る。
【龍渕橋】 欄干には擬宝珠のかわりに「ざくろ」が取付けられています。これは鬼子母神の象徴で、小松原の法難のとき鬼子母神が顕れて日蓮を救ったといい、後に若宮の館でその時の姿を彫り、常忍に守護神とするよう授けたところから鬼子母神が法華経寺の守り本尊となったものです。 |
赤い欄干の龍渕橋を渡ったすぐ左側に法華経寺の説明板が立っている。
【日蓮宗大本山 法華経寺】
正中山(しょうちゅうざん)法華経寺は、祖師日蓮の足跡がみとめられる日蓮宗の霊跡寺院・大本山です。
中世、この地は八幡荘谷中郷と呼ばれ、下総国守護千葉氏の被官である富木常忍と太田乗明が館を構えていました。彼らは曽谷郷の曽谷氏とともに、日蓮に帰依してその有力な檀越となりました。時に鎌倉時代の中期、建長年間(1249~55)頃のことです。
彼らの館には持仏堂が建立され、のちにそれが寺院となったのが法華経寺の濫觴(らんしょう)です。若宮の富木氏の館は法華寺、中山の太田氏の館は本妙寺となり、当初は両寺が並びたって一寺を構成していました。この両寺が合体して法華経寺と名乗るのは、戦国時代の天文十四年(1545)以後のことです。
富木常忍は出家して日常と名乗り、法華経寺の初代貫主となり、二代目は太田乗明の子日高が継ぎました。そして千葉胤貞(たねさだ)の猶子である日祐が第三代貫主となった鎌倉末期から南北朝期ごろ、法華経寺は隆盛の時代を迎えます。千葉胤貞は当時、守護ではありませんでしたが、千葉氏の有力な一派として威をはり、下総・肥前などの土地を寄進して、日祐の後押しをしています。日祐は胤貞の亡父宗胤の遺骨を安置し、名実ともに法華経寺を胤貞流千葉氏の氏寺とし、その後の法華経寺の基礎をつくりました。その後、室町時代をへて江戸時代に至ると、ひろく庶民にまで信仰される寺院となります。
法華経寺には、祖師日蓮の書いた「立正安国論」「観心本尊抄」の国宝や重要文化財をはじめとして多数の聖教(仏典)類が保管されています。これは千葉氏のもとで文筆官僚の任にあたっていた日常が熱心に整理保存に意をそそいで以来、寺内の宝蔵や坊で厳重に保管されてきた結果です。現在は境内の奥の堅牢な聖教殿で保管されており、その伝統はいまも確かに受け継がれています。
また、日蓮自筆の聖教の裏からは、鎌倉時代の古文書が発見されました。これを紙背文書といいます。これは富木常忍が提供した千葉氏関係の事務書類を、裏返して著作の料紙として日蓮が使用した結果、偶然のこされたもので、歴史に残りにくい人身売買や借金の実態など、当時の東国社会の生々しい現実を知る貴重な資料となっています。
寺内にはその他、重要文化財の法華堂・祖師堂をはじめとする堂舎、絵画や古記録・古文書などの数々の文化財があります。また周辺には日蓮が鎌倉にむけて船出したという二子浦(現船橋市二子周辺)の伝説など、日蓮にまつわる伝説も豊富に残されています。
これらにより大本山としてはもちろん、さながら文化財の宝庫として、法華経寺の名は全国に知られています。
平成十年十二月 市川市教育委員会
境内に入って右前方には、重要文化財の五重塔が建っている。
【法華経寺五重塔】 重要文化財(大正5年5月24日指定) 建築年代 江戸時代 元和八年(1622) 構造形式 三間五重塔婆 瓦棒銅板葺 この五重塔は本阿弥光室が両親の菩提を弔うために、加賀藩主前田利光公の援助を受けて建立したものです。塔の総高は九八尺(約三十m)で近世の五重塔としては標準的な規模となり、東京都大田区池上にある本門寺の五重塔(重要文化財)や台東区上野の寛永寺五重塔(重要文化財)とほぼ同じですが、他のものと比較すると軒の出が少ないので細長い感じを受けます。 建築様式は和洋を主体として造られていますが、最上重のみは禅宗様になっています。これは明治四十五年に半解体修理が施された際に変更されたものとみられます。また、初重の正面は両開きの桟唐戸、両脇には窓枠に等間隔に格子をはめ込んだ連子窓を取り付けた伝統的な形式を守っています。 塔の内部には中心に心柱、その外側には四天柱と呼ばれる四本の柱を立て、さらに禅宗様須弥壇(仏像を安置する檀)を置き、木造釈迦如来・多宝如来坐像(県指定文化財)を祀っています。四天柱をはじめとして内部は極彩色や朱漆で塗られ荘厳にされています。 昭和五十五年に修理が行われて外部に弁柄塗りが施されました。 平成十一年三月 市川市教育委員会 |
五重塔の手前左手に祖師堂が建っている。
【法華経寺祖師堂】 重要文化財(昭和60年5月18日指定) 構造形式 桁行七間、梁間七間、一重、比翼入母屋造、正面向拝三間、背面向拝一間、こけら葺、附棟札 十一枚 祖師堂は宗祖日蓮聖人をお祀りするお堂で、最初は鎌倉時代の正中二年(1325)に上棟した小規模な五間堂でした。その後、焼失などのため数回の再建があり、現在の祖師堂は江戸時代中期の延宝六年(1678)に上棟されたものです。 建物は大規模な七間堂で、屋根を二つ並べたような比翼入母屋造の形式を持つのが特徴です。このお堂の他に比翼入母屋造の屋根を持つものは全国でも岡山県にある吉備津神社本殿(国宝)だけです。堂内は、正面の吹き放し外陣、内部の広い内陣、それに両脇の脇陣と背面の後陣に区切られています。内外陣境の上部には揚格子、下方には結界と呼ばれる取り外し可能な仕切りを入れ、また内脇陣境にも同様な結界がありますが、大きな行事の際には、これらを開け放って堂内を広く使うことができるように工夫されています。これらは日蓮宗の仏堂によく見られる特有の形式です。内陣は本来板敷きですが、現在は畳を敷き詰めてあります。天井は格縁天井といい、碁盤目状の縁の部分は黒漆塗りで、天井板には桔梗紋が描かれているほか、内陣周りの上部は極彩色塗りで荘厳にされています。 祖師堂は関東地方では数少ない大型日蓮宗仏堂の典型で、その規模や形式は当時の庶民信仰の動向を知る上での一指標として位置付けられるとともに、建立年代が明確な建築物としても重要です。 昭和六十二年から始まった解体修理は十年の歳月を費やして平成九年に完了し、建立当時の姿に復元されました。 平成十一年三月 市川市教育委員会 |
五重塔の左後ろには、大仏(銅造釈迦如来坐像)が鎮座しているのだが、2017年現在修理中で台座のみになっている。
大仏の後ろには鐘楼堂が建っている。
大仏の左脇を通って方丈門をくぐれば、法華経寺本院がある。
本院の奥に鬼子母神堂がつながっている。
祖師堂の後ろからは本院まで回廊でつながっており、その途中に宝殿門が建っている。
宝殿門くぐり、軽い山道を登って行くと聖教殿がある。
【聖教殿】 この建造物は「聖教殿」と申します。 中山法華経寺には、日蓮大聖人の御真筆、国宝、観心本尊妙、立正安国論を始め重要文化財六十四点、その他が格護されてありますが、盗難、火災、虫害、湿気の害等を長きに亘って受けないよう、近代科学の教えるところをとり入れた保存方法が講じられています。 この宝殿が建設されたのは、昭和六年でありました。 計画の発議は、そのほゞ七年前、当時の法華会理事長 東京帝国大学教授 法学博士 山田三良氏を中心に法華経寺、日蓮宗宗務院、其の他多方面の協力によって実行された事業であります。建物の設計者は、東京帝国大学教授 工学博士 伊東忠太氏でありました。 宝殿の建設と同時に「聖教護持財団」という財団が組織され、今日も引続き御真蹟の保存護持に当って居ります。 御真蹟は毎年十一月初旬に展覧されています。 法華経寺 |
宝殿門に戻って、左の細道を進むと清正公堂がある。
【―諸願成就祈願堂―清正公大神衹堂】 当堂御奉安の清正公大神衹は、俗に「清正公さま」と呼んで親しまれ、その昔より徐災・開運・合格・必勝等諸願成就の強い功力のある非常にあらたかな神衹として知られ広く世衆の信仰をあつめて来ました。 素直な心で深く信仰し祈願することによって願いが成就し、災難を除き運が開かれて、必ず幸福が得られると言われております。 |
その右隣に宇賀徳正神、更にその隣に法華堂がある。
法華堂に掲げられている本阿弥光悦が書いた扁額の写真は、かなりかがみこんで、囲いの隙間から撮らなければならないので大変だった。
【法華経寺法華堂】 重要文化財(大正5年5月24日指定) 建築年代 室町時代後期 構造形式 桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、銅板葺 附棟札 五枚 法華堂は法華経寺の本堂で、釈迦・多宝両尊像を本尊としています。堂の創建は文永年間(十三世紀後半)に富木常忍(ときじょうにん)が若宮の館に建立し、後にこの中山に移されたと伝えられ、銭四貫文で建てられたことから四貫堂とも呼ばれています。現在の法華堂は様式から室町時代後期に再建されたものと思われます。もとは祖師堂と同じ地盤に建っていましたが、江戸時代中期に行われた祖師堂の建替えに伴ってこの場所に移されました。 建物は桁行五間、梁間四間の小規模な五間堂で、屋根の銅板葺は江戸時代後期の改造によるもので建立当時は茅葺でした。内部は正面一間の柱間を大きくとった吹き放しの外陣と一室の内陣からできています。柱や須弥壇(仏像を安置する檀)の配置などからは、内陣の奥行きを大きく取ろうとした工夫が見られます。なお、外陣正面にある「妙法花経寺」の扁額(市指定文化財)は本阿弥光悦によって書かれたものです。 法華堂は禅宗様を基調としながら和様を巧みに取り入れた形式で、日蓮宗仏堂としては最古に属する貴重な遺構です。 平成十一年三月 市川市教育委員会 |
法華堂の向いには四足門(しそくもん)が建っている。
【法華経寺四足門】 重要文化財(大正5年5月24日指定) 建築年代 室町時代後期 構造形式 四脚門、切妻造、こけら葺 四足門はもと鎌倉の愛染堂にあったものをこの地に移したと伝えられています。法華経寺では、はじめ本院の玄関門としていましたが、明治になって法華堂の現在の場所に移されました。建築年代は形式より室町時代後期と思われます。 この門はほぼ純粋な禅宗様の様式で造られ、本柱を棟近くまで延ばし、この前後に控柱を立てて、これらを海老虹梁という湾曲した腰の強い梁で繋ぐ珍しい構造です。柱の断面はやや楕円形でこれも他に例のないものです。 さらに彫刻類の装飾が多いことも特徴のひとつで、それぞれ室町時代後期に多くみられる文様や形をよく現しています。これらの装飾は全て正面を意識して造られていることから、もとは側面の両側に塀を付属させた入口門であったと考えられます。また建具は和様の板唐戸を用いて様式的な変化を持たせています。柱、虹梁(梁の一種)など主要な部材には欅、その他の部分には檜・杉・桜などを用いています。 昭和十年に解体修理が行われ、大部分の部材が新しいものと取り替えられましたが、使用可能なものは文化財の保存の意味から再用しています。 平成十一年三月 市川市教育委員 |
法華堂の隣には刹堂があり、その左後ろには龍王池があるが、行かなかった。
なお、龍王池の後ろから本行院の脇を通って北へ行くと、400m弱で東山魁夷記念館に行けることが分ってがっかり。
【二子(ふたご)藤の池】 (右側) 13:59
街道に戻って、すぐ左に「妙圓寺」、その先「子之神社」、「稲荷神社」を過ぎ、左手「多聞寺」の向いの小路を入った所に、葛飾湧水群の一つであるニ子藤の池がある。
かつては綺麗な泉だったのだろうが、復元された今は只の池になっていた。
【葛飾湧水群 ニ子藤の池】 ニ子の池には、溜(ため)が多くありました。これらの溜はいずれも良好な湧水を誇り、田圃や生活に密着した存在のほか、茶道の水として珍重された名水もありました。 なかでも「ニ子藤の池」は藤の古木に由来があり、街道を往来する人々に親しまれていました。また、昭和20年代後半までは水田への引き水や、水稲の種籾を浸けて発芽を促すタナヤ(種井)として利用されていたことからも、「タナヤの池」とも呼ばれていました。春になると、溜さらい、川さらいを共同で行い、その時ウナギ・コイ・フナ等が多量に獲れたので、それを魚屋に売って慰労会の費用にしたこともあったといわれています。 船橋市西部に位置する旧葛飾地域は、かつての海岸線の面影を残す松林や由緒ある寺社が数多く残されています。ニ子藤の池の北側には日蓮上人ゆかりの地であることを示す宝珠山多聞寺があり、一説によると、鎌倉時代に日蓮上人が中山への往来の際、「ニ子浦」から鎌倉へ向けて船出したというのは此処が「降り津」であったと伝えられています。 昭和40年代に入り、ニ子の溜の多くは都市化の進行により利用価値がなくなったことで、次第に荒れ果てたり、埋めたてられてりしまいましたが、このニ子藤の池は平成10年3月に地元の協力によって復元され、旧葛飾地域の特色であった湧水や溜が連なる「葛飾湧水群」を偲ぶ貴重な史跡となっています。 |
【ニ子浦の池】 (右側) 14:03
次の道を右に入ったすぐの所にニ子浦の池がある。
こちらも、お世辞にも綺麗とは言えない濁った池だった。
【ニ子浦の池】 船橋市は「人と環境に優しい都市づくり」をめざしています。 「湧水保全整備事業」は、「市民との協働による環境共生拠点づくり」を目的に市が行っているものです。 かつて、この地には、「溜(ため)」と呼ばれる湧水が多くあり、濃作業や日常生活に利用され人々に親しまれていました。周辺の都市化に伴い荒廃の進んでいたこの湧水を、地域の皆さんとの協力により整備しました。 池の名前は、昔、この辺りが”ニ子浦”と称され、日蓮上人が、鎌倉との往来に際し利用した”降り津”であったという伝説を残したいという地域の皆さんの願いをこめてつくられまし。 |
【庚申塔】 (左側) 14:08
左側「東中山一丁目」バス停の直ぐ先、左に入る道の入口に、文政六年(1823)の庚申塔が建っている。
正面に『如日月水明 庚申塔 能徐諸霊冥』と刻まれていた。
【葛飾神社の池】 (左側)
左側の「東明寺」を過ぎて「中山競馬場入口」信号の一本手前の道を左へ入ると、葛飾神社の池があるが、先程見た二つのニ子の池と同じだろうと思って見に行かなかった。
現在ここに神社はなく、葛飾神社は「中山競馬場入口」信号の直ぐ先にある。
【薬師如来庚申塔】 (左奥) 14:20
「中山競馬場入口」信号を左折して、次の右の小道へ入るとすぐ右側の崖の途中に、薬師如来坐像の庚申塔、その下に青面金剛像の庚申塔が建っている。
薬師如来像の庚申塔は、寛文十年(1670)の造立で、正面上部に『庚申待結衆念願 奉造立薬師如来 成就二世安楽攸』と刻まれているので庚申塔と分かる。
船橋市で二番目に古いと云われる、貴重で珍しい庚申塔である。
青面金剛像の庚申塔は、右側面に『享保二十乙卯天十月吉日』(1735)と刻まれていた。
【如意輪観音庚申塔】 (左奥) 14:22
その先をそのまま進むと左に如意輪観音像の庚申塔が三基建っている。
一番右の庚申塔の像の右側に『十九夜講中』、左側に「元文五庚申年十月十九日』と刻まれていた。
その他は、良く分からなかった。
【宝成寺(ほうじょうじ)】 (左奥) 14:28~14:40
そのまま細道を進むと丁字路にぶつかるので、そこを左折して京成本線の踏切を渡ると、すぐ左側に宝成寺がある。
門を入るとすぐ右側に成瀬氏の墓の説明文が立っている。
【成瀬氏の墓 附墓誌】 市指定文化財(史跡)(昭和45年5月20日指定) 成瀬正成は幼少より徳川家康に仕え、家康の子義直が尾張徳川家を創設した際、お付家老として後見した。正成は当初、栗原郷に四千石を与えられ、やがて三万石余の犬山城主となった。正成の跡は、長男政虎が犬山城主を継ぎ次男之成(ゆきなり)が栗原藩を継いだが、栗原藩は之成の子之虎が早逝して廃絶し、幕府直轄地となった。当寺は江戸時代の初め頃に成瀬氏の江戸における菩提所の一つとなった。 墓所に入り南側の駒型の大きな墓は第七代犬山城主政寿(まさなが)のもので、県内最大級の大きさである。西側にある駒型の墓は之成のもので堀杏庵の筆になるという字を刻している。ほかに之成の殉職者三名の墓もある。 昭和四十四年に正寿の遺骨を犬山市の白林寺に移すため墓石の下を発掘したとき、その墓誌が発見された。また、その後、墓所の整理・縮小を行った際、正寿の甥の成瀬鍋吉の墓誌も発見されている。 一九九二年三月 茂春山宝成寺 |
境内に入って、山門をくぐると本堂に続く。
本堂の左脇を通り、後ろの小高いところに登って行くと、成瀬家墓所がある。
【成瀬氏の墓 附 墓誌】 市指定史跡(昭和45年5月20日指定) 現在の船橋市西部、旧葛飾町一帯はかつて栗原郷といわれ、江戸時代初期に大名成瀬氏の領地でありました。ここ宝成寺にある成瀬家の墓所は、船橋市で唯一の大名の関係の墓です。 成瀬正成は徳川家康の側近の一人で、天正18(1590)年に家康が関東に移封(いほう)されるとすぐに栗原郷4千石を与えられ、その後関が原の合戦などの武功で石高を加増され、大名に列しました。やがて家康の九男義直が尾張徳川家を創設すると付家老として後見役に任ぜられ、元和3(1617)年に尾張犬山城主となりました。正成の死後、犬山城主は長男政虎が継ぎましたが、正成は生前次男之成に栗原郷4千石を譲っていたので、之成が栗原藩の2代目となりました。その後之成は39歳で没し、栗原藩成瀬家は断絶しました。一方犬山の成瀬家は存続し、明治時代は子爵になり、子孫が犬山城を所有しました。宝成寺は江戸における成瀬架家の菩提寺とされていたので、一族の墓の一部が営まれ、明治9(1876)年までの墓碑が残されています。 墓地内には、之成とその殉死者3名の墓碑があります。殉死者を副葬した大名の墓は非常に珍しいものです。また、駒型の墓は第7代犬山城主正寿のもので、台石を除いた高さは約3.6m、幅90cm、厚さ40cm余りで、県内では最大級の墓石です。 昭和44(1969)年に正寿の遺骨を国元の白林寺に移すため墓石の下を発掘した際、正寿の墓誌が出土し、その後墓地の整理を行なった際には、正寿の兄成瀬信濃守正賢の子である成瀬鍋吉の墓誌が出土しました。この二つの墓誌の存在は非常に稀であり貴重なものです。 船橋市教育委員会 左上の写真:左側の大きなのが第7代正寿、右側の中央が第2代之成の墓。之成の墓の裏面に『殉死三人』と刻まれ、その下に三名の名が載っていた。 左下の写真:左端が之成、手前が正寿、向いの半分隠れているのが鍋吉、その右側の高いのが正賢、その右隣の3基が殉死した家臣三人の墓。 |
【道祖神】 (左側) 14:45
法成寺を後にして街道に戻る直前の右側に、溶岩に挟まれた銅葺屋根の祠が建っている。
中は見えないが、天保九年(1838)の道祖神が安置されているとのことである。
【葛飾神社】 (左側) 14:47~14:52
街道に戻ってすぐ左側に葛飾神社がある。ここは、社殿の後ろに聳えるクロマツが見事な神社である。
【葛飾神社由緒】 風光明媚景勝の地、勝間田の池(現 勝間田公園)のほとり丘の上の、熊野権現神社の此の地に、大正五年一月十三日 一郡総社葛飾大明神を千葉県東葛飾郡葛飾村本郷一四一番地〔現 船橋市文化財 西船六丁目葛羅の井〕(昔、葛飾大明神御手洗の井戸)の西側台地より此の地に奉遷奉斉し、熊野権現社へ合祀し村社葛飾神社と改称し現在に至る。里人悉く慕い敬い奉る。 例大祭 十月十四日 十月十五日 |
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【葛飾神社のクロマツ】 市指定文化財(記念物・天然記念物)平成24年3月30日指定 正面の神社本殿を囲む玉垣の中に聳え立つこのクロマツは、幹が二股に分かれて社殿を覆うように枝が笠状に伸張しており、南側から眺める姿は、社殿と一体化しているような美しい景色を成しています。クロマツの樹高は13m、幹周り3.42m、葉張り16.5mで、市内では最も太いクロマツです(平成23年3月計測値)。クロマツはマツ科マツ属の常緑針葉高木で、本州、四国、九州に分布し、オマツとも呼ばれています。 葛飾神社は元の勝間田の池(現在の勝間田公園)の西高台にあります。この池は、万葉集に詠まれた大和国西の京、唐招提寺と薬師寺の近くにあったという勝間田の池になぞらえられ、その名は寛延2(1749)年刊行の『葛飾記』などに登場して、下総の歌名所の一つとして数えられるようになっていました。(※) 勝間田の池は天保7(1836)年刊行の『江戸名所図会』(長谷川雪旦画)の挿絵に描かれており、池の脇には熊野宮(熊野神社;現在の葛飾神社地)が描かれ、そこに松林を見ることができます。葛飾神社はかつての葛羅の井の西の地にありましたが、大正3(1814)年に熊野神社へ合祀されることになり、同5(1916)年にこの地へ移され、村社葛飾神社と改称され現在に至ってます。 このようなことからも、葛飾神社のクロマツは江戸時代から今日に至るまで、人々に親しまれていたことがうかがわれます。 ※勝間田の池は昭和40年代に埋め立てられて、公園に変りました。 船橋市教育委員会 |
【道標兼庚申塔・無線電信所道】 (左奥) 14:55
葛飾神社の隣にある「勝間田公園」を過ぎた最初の道(「みずほ銀行」の角)を左折した直ぐ先、Y字路の「葛飾自治会館」隣にブロック塀に囲われて道標兼庚申塔と小さな祠が並んで建ち、手前には大正六年(1917)に建てられた無線電信所道と刻まれた道標も建っている。
庚申塔は、三猿が浮彫になっていて、右側面に『寛政十二庚申載』(1800年)、左側面に『十一月吉祥日建之』、台座の文字は読みにくいが『是より かまがやみち』と刻まれているとのこと。
無線電信所道は、左側面に『東 船橋方面ニ至ル 西 市川方面ニ至ル』、右側面に『従是北八百餘間至無線電信所 大正六年行啓ヲ奉迎に付國懸郡費補助ヲ受耕地會沿道民ノ寄附並村費等金四千餘円ヲ以テ葛飾村ニ於テ大改修工事ヲ施行セル記念ノ建之』と刻まれている。
ここから北に八百余間(約1.5km)行った所に、現在「行田公園」等になっている半径400m弱の円形の道に囲われた場所(「中山競馬場」の南東)がある。
このサークル状になっている場所に、大正四年(1915)日本海軍が開所した海軍無線電信所があった。
太平洋戦争の時、真珠湾攻撃部隊に送信された暗号電文『ニタカヤマノボレ1208』は、海軍省からここにあった無線塔を経て全艦隊に伝えられたことで有名である。
本日の予定は「船橋駅」までだったが、予定に無かった「東山魁夷記念館」に道草をしたので、距離も短く時間も早いが「西船橋駅」で終了とする。
2回目の旅終了(15:00)。西船橋駅。
【本日の記録】
現代の街道のみの距離は、3.4Km(「本八幡駅前」信号~「西船橋駅入口」信号)。
累計:水戸街道と成田街道の追分(「中川大橋東」信号)から、11.7Km。
寄り道を含めた実歩行距離は、9.8Km(本八幡駅~西船橋駅) 累計:21.8Km
5時間分 16,700歩。