成田街道(1) 亀有駅 ~ 本八幡駅

2016年11月20日(日) 快晴
 「亀有駅」に10:05降り立ち、「中川橋」を今回の成田街道道草ハイクのスタートとする。
 実際には、ここは水戸街道佐倉街道の共通路で、佐倉街道(成田街道)は新宿の外れから水戸街道と分かれて始まる。

(注:解説で街道の左側、右側とは成田山に向っての左右です)

「目次」 →「本八幡駅~西船橋駅」


【こち亀像 (亀有駅ロータリー) 10:05
 「亀有駅南口」からロータリーに出た所に、こち亀像が建っている。

〔こちら葛飾区亀有公園前派出所〕 ようこそ こち亀の町へ! 両津・中川・麗子がお出迎え!像
 
1976年に「週間少年ジャンプ」(集英社)で連載を開始して以来、日本国内のみならず、世界中で多くの人々に愛され続けている漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。物語の舞台であり作者秋元治先生の出身地であるここ亀有には、主人公の両津勘吉をはじめ多くの銅像があり訪れた人々を楽しませています。
 この「ようこそ こち亀の町へ!両津・中川・麗子がお出迎え!像」は連載40周年を記念し、亀有で初の彩色した銅像として15体目に建立されました。両津勘吉、中川圭一、秋元・カトリーヌ・麗子の三人が並ぶこの銅像は、一緒になってポーズをとり記念撮影ができることで両さんたちをより身近に感じられるようにとの願いをこめて建立されました。
     平成28年8月7日建立 亀有地区商店街協議会・葛飾区 秋元治・アトリエびーだま/集英社

【亀有橋の親柱 (亀有駅左前方) 10:07
 ロータリー前道路左手の信号を渡って左斜めの道へ進んだが、その道の入口(マクドナルド前)に亀有橋の親柱だった石柱が建っていて、その隣に「こち亀」の中山像も建っていた。

 この「石柱」は、昭和5年亀有銀座通りが新しく整備され、通りが東井掘り用水を渡る所に亀有橋を架けた時の「親柱」です。再開発事業により亀有橋は除去されましたが「親柱」を元の位置に近いここに移設しました。

【中川橋】 10:18
 環七通りに出たら右折し「イトーヨーカドー」の前を通り、江北橋通りと交差する「亀有二丁目」信号を左折すると中川に架かる「中川橋」に出る。
 この道は水戸街道だが、今回の成田街道スタート点とする。
  


【中川橋橋詰のタブの木 (左側) 10:21
 「中川橋」を渡った「中川橋東詰」信号の左側に、かつて此処にあったタブノ木のモニュメントが保存されている。
 また、切り株の後ろには旧中川橋の親柱が二本設置されている。

【中川橋橋詰のタブの木】
~中川の歴史~

 中川は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ一級河川であり、利根川水系の支流です。起点は埼玉県羽生市街地にあり、起点を示す石標が設置されています。
 江戸時代初期までは利根川や荒川の本流でしたが、利根川の東遷事業などで本流が変わり、隅田川と利根川の間を流れる川で「中川」と呼ばれるようになりました。
 江戸時代の中川には橋がひとつもなく、当時の中川橋周辺には、旧水戸街道の亀有村と対岸の新宿町を結ぶ「新宿の渡し場」がありました。近くには「柴又の帝釈天」があることなどから、参拝客や街道を往来する人で大変賑わっていたようです。
~タブの木の経緯~
 中川橋東詰にあったタブの木は、昔から街道を往来する人々の”道しるべ”であったと伝えられており、地元住民から長く親しまれてきました。
 しかし、平成4年から始まった中川橋架替え事業に伴い行った樹木調査の結果、移植が不可能な状況であったため、やむなく伐採されることとなりました。
 現在植えられているタブの木は、伐採に先立って穂を採取し、育てた苗木です。また、”旧中川橋の名残”として、苗木の他、以前のタブの木の一部で製作したモニュメント、及び旧中川橋両岸の親柱を設置しております。

【西念寺 (右側) 10:27~10:38
 次の信号を右折して、少し進むと右側に西念寺がある。
 参道を進み、山門をくぐると左側に石仏が数体並び、正面に平成元年新築の本堂が建っている。
 本堂前の左側に開基由来の石碑が立っていた。

【開基由来竝无(?)縁碑】 (一部書けない文字が有り、近い文字を充てた)
 當寺は足利八代将軍義政公應永年間浄圓入道此の地に菴を結び専修念佛道場となし延壽百餘歳にして文安五年七月二十五日歿す謚して漏(?)譽覺林圓大徳と云ふ慈に當時學徳兼備の僧法譽智総上人殿堂の創設を企つるも上人は義政将軍の歸向厚きにより關東大本山鎌倉光明寺第十四代に特請せらる由て九代将軍義尚公高弟の貞林上人に御筆先境内地參千八百餘坪と紫衣金襴を賜て創建を命じられ始て西念寺成る故に貞林上人を開山と定めたりと傅ふ爾来五百年間幾多災忌に罹り開基の小碑企し尚を當寺の内佛に保存す昭和七年市域擴張に際し檀徒相謀り記念碑を建立し浄圓入道の徳を敬仰す又無縁の佛を集め塚を造り地蔵大菩薩を安置す依て此の由来を刻して後代に傳ふ者なり 伏願くは有縁の徳志者この諸靈の為め一庁の香花を捧げ永く冥福を祈らせ玉へと爾か云ふ
     昭和九年三月建之 當
山三十三世禅誉定信 謹白
           鱗原天涯書 森田春鶴


 本堂手前左手に南葛八十八ヶ所鯖大師御堂の石碑と祠が建っている。
  

 本堂前から左側の墓地に入ると、鯖大師堂の後ろに生簀守
(いけすもり)の墓解念仏(ときねんぶつ)供養碑が五基並んで建っている。 


左二基が墓、右は供養碑
【生簀守の墓(二基) 附矢作藤左衛門銘供養碑】 葛飾区登録史跡(平成5年2月19日登録)
 本区には将軍家がしばしば鷹狩りに訪れましたが、この時、食膳に供する魚として新宿付近にある生簀の魚を献じたといわれています。
 『新編武蔵国風土記稿』巻之二十六によると、「池守を矢作藤左衛門といひ、月俸を賜りしとそ、子孫今も村内に居れり」とあることから、これが生簀を守った矢作家の祖先の墓であることがわかります。
 供養碑においては、一部剥離のため年号は不明ですが、観音像の舟形浮き彫りで、背面には「矢作藤左衛門 逆修壷覚壽位」の後刻があります。
     葛飾区

右の二基 (右は上記供養碑)
【解念仏供養碑】 葛飾区登録有形文化財(平成4年2月5日登録)
 この供養碑は、舟形光背に仏像を高肉彫りしたもので、刻銘によって解念仏供養の造立と判明できます。
 「解」は「斎(とき)」からきたもので、斎の意味から、昼の食事の前に行なう念仏講の供養碑であるといえます。
 一基は、八臂観音立像です。享保7年(1722)に篤信の2名、心誉は順修、蓮誉は逆修菩堤のために造立し、法名等は追刻されています。他の一基は地蔵立像です。刻銘等はみられませんが、ほぼ同年代のものと思われます。二基ともに彫技優秀であり、解念仏の信仰習俗をこの地に導入した稀な例です。
     葛飾区教育委員会

【水戸街道と成田街道の追分】 10:45
 水戸街道に戻って直ぐ右側に「日枝神社山王保育園」があり、街道はこの前で枡形になり、左折する。
 保育園の前に、『郷土の先覚者中島守利翁像』(元衆議院議員)が建っている。
 次の枡形で水戸街道は左折して行くが、成田街道はここを右折して、「中川大橋東」交差点を渡った所から始まる。
   
左水戸街道、右成田街道


【角柱三猿浮彫道標 (右側) 11:00
 「中川大橋東」信号を横断して、細い道を直進する。
 しばらく進んで、左側の「亀有警察署亀田橋駐在所」を過ぎたら左折する。以前は角に蕎麦屋があったが今は廃業している。
 左折してすぐ右側に、角柱三猿浮彫道標(一番左)と地蔵像等が三方ブロックに囲われて安置されている。

  【角柱三猿浮彫道標】 葛飾区指定有形民族文化財(平成6年(1994)2月22日指定)
 元禄6年(1693)に建てられた区内に現存する最古の道標です。道標上部の正面、左右側面にかなり磨耗している仏形坐像又は三猿と思われる浮彫があります。
 碑文には、正面に「これより右ハ 下川原村 さくら海道」、右面には「これより左 下の割への道」と書かれ、左面には年号が記されています。
 千住宿から分かれる水戸佐倉道は、新宿町の南で常陸国水戸と下総国佐倉へ向かう道に分かれます。「下河原村」は新宿町の小字名、「下の割」は東葛飾領の南の地域(現在の江戸川区)をさします。
 都内及び下総方面の各地における道標は、現在のところ元禄または宝永年間のものが最も古いようです。
     葛飾区教育委員会

【崇福寺 (左側) 11:10~11:20
 直ぐの広い道に出たら右折して、新金線貨物線の「高砂踏切」を渡る。
 少し進んだ次の信号の左側に崇福寺がある。
 信号手前左角に山門が建ち、門前左に大きな馬頭観世音碑、右に説明板が立っている。

【曹洞宗 海島山 崇福寺】
 徳川家康が江戸幕府を開く三年前の慶長五年三月(1600年)香山泰厳和尚が日本橋浜町に崇福庵を建立しました。
 慶長十八年(1613年)上野厩橋藩(前橋城主)酒井雅楽頭忠世(さかいうたのかみただよ)の帰依により堂舎を建立し、国府台の総寧寺を本寺とし名称を崇福寺としました。1657年、明暦の大火ににて焼失した為、忠世の孫、忠清の代に、浅草松清町(現在の浅草郵便局一帯)に千三百坪の土地を拝領し移転、本堂を再建しました。以来酒井家の江戸菩提寺として永く栄えました。その為酒井家の家紋である「剣鳩酸草(けんかたばみ)」を寺の紋として使用しています。
 酒井家は、徳川氏の最古参の譜代筆頭で、徳川幕府の大老四家の一つに数えられ、一族から大老や老中を輩出し、代々雅楽頭を任じられていました。また江戸城大手門付近の酒井家上屋敷の中庭には平将門公の首塚があり酒井家により手厚く祀られ、崇福寺の住職も首塚に供養に出向いていました。
 大正十二年九月の関東大震災にて被災し、昭和三年六月浅草よりここ高砂に移転、同八年本堂・山門・鐘楼等を再建しました。酒井雅楽頭歴代の墓所は群馬県前橋市の龍海院にあり、ここ崇福寺は酒井雅楽頭家、伊勢崎藩酒井家の墓所となっております。 


 山門をくぐりと正面に鐘楼、右手に本堂がある。
  

 本堂の左に建つ灯籠の左横に小さな春ちゃん地蔵が建っている。

【春ちゃん地蔵】
 浅草崇福寺跡地で発見された三百年前の地蔵形の墓石。
 二〇〇九年八月、浅草郵便局裏の寺跡地は、マンション工事の為、更地になっていました。呼ばれるように進み、手を合わせたその場所から、偶然にも関東大震災のあった九月一日に、掘り起こされて出て来ました。
 浅草から移転の時に忘れ去られたお地蔵様が、八十年ぶりに日の目を見て、自分の寺に戻ることが出来ました。
 昔の墓石台帳にも載って居らず、水子供養のお地蔵様として祀られていたようです。


 更に、本堂の左手に回ると裏が墓地で、正面に酒井家墓所がある。

【酒井家墓所】
 酒井雅楽頭忠清(うたのかみただきよ)の三男忠寛(ただひろ)は兄の忠挙(ただたか)より二万石を分与され、伊勢崎藩を立藩し九代まで続き幕末となりました。浅草の崇福寺には初代と六代を除く伊勢崎藩酒井家歴代藩主、忠清の弟忠能(ただよし)などの酒井家一族が埋葬されていましたが、この地に移転の際に合葬されました。
石塔があるのは左奥より
酒井宗魯大居士、三代酒井忠温(ただはる)
酒井培堂大居士、七代酒井忠恒(ただつね)
彰徳院殿穆山南瑛大居士、九代忠彰(ただあきら)
敬徳院殿慈海貞浄大姉、妻 敬子

【さくらみち (左側) 11:31
 10分弱進んで、京成金町線の「高砂第4踏切」を渡ると、左側に「桜道中学校」があり、そこから桜並木となる。
 その並木入口にさくらみちと題する石標が立っていて、裏面に旧佐倉街道、左側面に佐倉街道の説明文が刻まれている。

【さくらみち】
 佐倉街道は、
かつて江戸から佐倉に通じる街道として栄えていました。
 日本橋から葛飾区の新宿までは水戸街道と共通路線を通り、新宿の町はずれから分かれ、上小岩村(江戸川区)をぬけ、江戸川を渡しで越え、下総の村々を経て佐倉に達していました。東海道等の五街道に匹敵する程の重要な道でありました。
 当時、この佐倉街道を通行した大名は下総佐倉藩の堀田氏をはじめ房総方面の大名あわせて十数藩に及んだといいます。
 なお、この街道は江戸中期以降、江戸から成田山や千葉寺に参詣する大勢の旅人があったので成田千葉寺道(なりたちばでらみち)とも呼ばれていました。
 現在は柴又七福神めぐりのコースとしても利用され、また防災非難広場である江戸川河川敷へのルートに指定もされています。

<昼食> 11:45~12:30
 北総線のガードをくぐり「柴又五丁目」信号を直進する。
 この信号を左折するとすぐ「新柴又駅」で、駅前(南側)の地下にある「庶(もろもろ)」にて昼食をとる。定食は安くて品数も多く、美味しかったので大満足。


【親水さくらかいどう (左側) 12:34
 街道に戻り、江戸川区に入った所に親水さくらかいどうと題する石標が立っている。
 その石標の後ろに健康の道 距離490メートルという案内板が立ち、そこから暫くの間、残名ながらあまり綺麗とは言えないせせらぎが流れていた。
  
 

 少し進んで、次の信号手前左側に親水さくらかいどうの説明板が掃除用具を入れる小屋に掲げられていた。

【親水さくらかいどう】
 この道は、江戸時代「佐倉街道」と呼ばれ、千住より小岩を経て千葉、佐倉に至る参勤交代の道筋として江戸末期には成田詣りの道として利用されて来ました。
 また、水路は明治に入り永年水不足に苦しんでいた農民の願いを、石川善兵衛氏が中心となって、江戸川の水を取り入れたものです。その後農業用水から排水路として利用され、下水道の整備によりその使命を終えました。このように歴史的由緒のある水路は、魚の泳ぐせせらぎと桜並木の散策路として生まれかわりました。
     平成元年四月 

【三谷橋 (左側) 12:43
 少し進んで振り返ると三谷橋と書かれた石柱が置かれている。
 かつては、水路に架かる橋がここにあったのだろう。
  


水神】 (左側) 12:45
 江戸川の土手にかかる手前に水神と大きく彫られた石板と「親水さくらかいどう」の絵図が掲げられている掃除用具小屋が建っていた。
 健康の道はここで終わる。
  


【上小岩親水緑道 (右側) 12:47
 水神の前を右に入ると上小岩親水緑道が1Km近く、京成の線路まで続いている。
 下の写真の橋を渡った所に善兵衛樋と水碑樋の説明板が立っている。

【善兵衛樋と水神碑】 史跡
 江戸時代からこの付近の水田は小合溜から用水を引いていた。しかし流水にあたり水量も少なく特に旱天がつづくと目の前に江戸川の豊富な流れを見ながら水不足で苦しんでいた。
 明治十年には大かんばつがあり収穫は皆無に近かった。小岩田村の石井善兵衛を中心に附近の村民が力をあわせて江戸川から掘割をつくり、水を引き、一帯の水田に給水する工事をおこし翌十一年五月に完成した。はじめ共和圦樋と命名されたが時の東京府知事が巡視して石井善兵衛等の功績を賞し改めて善兵衛樋と命名されたものである。
 水神碑は石井善兵衛翁の遺功碑で、その功績を記し功労者四十名の名が刻まれている。
     諸湯和四十八年三月江戸川区教育委員会 

【慈恩寺道の道標 (右側) 12:48~12:52
 上記善兵衛樋と水神樋の上に慈恩寺道の道標説明板が掲げられ、その裏側の祠に地蔵像と馬頭観世音と共に慈恩寺道の道標が建っている。
 慈恩寺は、日光御成街道(6)で直ぐ傍まで歩いているし、そちらの街道にも慈恩寺道の道標があった。かなり遠くから目指す道標があるものだとびっくりした!



【慈恩寺道の道標】 江戸川区登録有形文化財
 この地蔵菩薩立像を刻んだ道標は、区内で最も古いものといわれ、霊場参詣者の信仰によって建てられたもので、埼玉県の慈恩寺に行く旅人によって、大事な道標であった。
 銘文からみると、正徳三年(1713)に建立されたもので、岩附・千住の二方向と、そこまでの距離が示されている。
     銘 文
 正面  地蔵菩薩立像
 右脇  奉供養西国坂東秩父百箇所
      諸願成就所
 左脇  正徳三癸巳天七月廿四日
      愛宕山 法林寺
 右面  是より右岩附慈恩寺道岩附迄七里
      これより左千手道 新宿迄壱里
                  千手迄弐里半
     昭和五十三年十一月 江戸川区教育委員会

【江戸川堤 12:56~13:06
 江戸川堤の下の車道(県道451号)に出て南東に進む。私達は行かなかったが、土手の上に登って歩くのも良いかもしれない(下の写真・左)
 少し進むと道は二股に分かれ、県道は右下に下がって行くが、成田街道は左の土手下の道を土手に上らずに進む(下の写真・中)
 そのまま340m程進むと、はっきりした二股道に出るので、ここは右の道に入って行く(下の写真・右)
 因みに、右の写真に写っている鶏に寄っていったら、こちらに羽を広げて向かってきた。かなり気性の激しい鶏だった。
    


【小岩田(こいわだ)天祖神社】 (右側) 13:07
 二股を右に入ってすぐ右側に小岩田天祖神社がある。
 境内左手には遊具とトイレがあり、その後ろには江戸川区保護樹のタブノキ・ケヤキ(2本)・イチョウ(2本)が聳えている。
  
 


【真光院 (左側) 13:12
 その直ぐ先左側に真光院があり、門前の祠の前には青面金剛馬頭観世音が祀られている。
 祠の中には仏像に混ざって可愛いドラえもんの石造も祀られていた?

【真光院】
 真言宗豊山派で稲荷山遍照寺と号し、慶長七年(1602)に法印良鑁(りょうばんが開山したと伝えられています。本尊に木造阿弥陀如来立像を安置しており、寺宝として弘法大師筆と伝えられる「鼠心教」を所蔵しています。
 昭和四十七年(1972)に茅葺の本堂から鉄筋コンクリート造に建て替えられました。門前に青面金剛と馬頭観音が祀られ、境内には樹齢二百年といわれるケヤキとスダジイがそびえています。
■木造閻魔王坐像(区登録有形文化財)
 寄木造りのこの像は、本堂内に祀ってあります。像高約八十一センチ。左手には掌を仰向けて膝の上にのせ、右手に笏を握っています。顔は忿怒の相で口を開き、胸飾りに日月をあらわしています。
 銘はありませんが、江戸時代後期に、檀家によって家族の供養のために寄進されたもので、その頃の作と考えられます。
     平成六年(1994)三月江戸川区教育委員会

【光ヶ嶽(てるがたけ)観音堂】 (右側) 13:18~13:22
 少し進んだ左側にあるコンビニ(セブンイレブン)の斜め向かいに公園(北小岩四丁目児童遊園)があり、その奥に光ヶ嶽観音堂が建っている。
 下記文中に出てくる正真寺は、江戸川土手を進んで最初の二股を左に入った直ぐ先の右側寺に所在する。



【光ヶ嶽観音堂の由来】
 正真寺境外仏堂の観音堂は 光ヶ嶽(てるがたけ)観音堂と号し弘法大師の大曼荼羅戒壇前にて鋳造された小金像をお祀りしています
 光ヶ嶽観音は一寸八分(約六センチメートル)ほどですが 室町時代末期の武将里見義豊 義俊の守り本尊で 常に甲冑に収め戦場に赴いたと伝えられております
 その後 観音像は千福寺(現存せず)に安置されましたが 里見家子孫に至って供養を怠ったところ 文禄元年(1592)地元の沖田家祖先豊前の枕元で大きな音が響き 驚いた豊前が跳び起きると 観音像が立っていたといいます
 翌朝豊前が千福寺に詣でるとそこに 観音像はなく 豊前は屋敷内にお堂を建立 以来 観音像は江戸 明治 大正 昭和 平成と通じて北小岩の信仰となったものです
 地元の由緒ある文化財と言えるでしょう
 またかつてのお堂は火災 戦災で被害を受けた人たちに貸し出されたり お年寄りの集い踊りの稽古場にも利用され 馴染み深い観音堂なのです
 地元の皆様のご協力を得て 堂宇再建の機にその由来を記す
     平成十九年八月吉日 正真寺住職 田嶋信雄 世話人一同

伊予田の観世音道石造道標】 (左側) 13:27
 京成本線「江戸川駅」手前の左側にある「Cafe Wakatake」(以前は「若竹寿司」だったが、カフェに代わっていた)の前に伊与田の観世音石造道標(下の写真で三基中、左の石碑)が建っている。
 最初は、ここよりやや北の旧観世音道の入口にあったが、その後「糀屋商店」前に移設され、更に平成17年(2005)に現在地に移設されたとのこと。
 正面の銘文は三列で『安永四未ノ年 二り六丁  是よりあさくさくわん世おん道  伊与田村中』、右側面は『舟ばし迄三り 右いちかわ道』、左側面は『左にいしゅく道 いわつきぢおんじ迄七り』と刻まれている。
 この道標の右側には、新しい石標が立っていて『江戸川区登録有形文化財 伊予田の観世音道石造道標 造立安永四年』と刻まれている。
 また、その前には少し小さい文久二年(1862)の道標が建っており、正面に『左成田みち』と刻まれている。
   


【北野神社 (右側) 13:32
 「江戸川駅」下のガードをくぐるとすぐ右側に北野神社がある。

【北野神社】 
 旧伊予田村(現在の北小岩三・四丁目)の鎮守です。江戸時代にはこの地にあった稲荷神社と北方の北野神社が明治四十二年(1909)に合祀され、今の北野神社となりました。昭和三十九年(1964)には一里塚近くにあった須賀神社を合祀し、そこで行われていた芽の輪くぐりをここで行うようになりました。祭神には稲荷神社の倉稲魂命と北野神社の菅原道真、それに須賀神社の素戔鳴尊を加えた三柱を祀ってあります。
■茅の輪くぐり(区指定無形民俗文化財)
 直径三メートルに及ぶ大きな茅の輪を作って境内に立て、氏子たちが家族の氏名や年齢を書いた人形
(ひとがた)を持って芽の輪をくぐり、無病息災を願う夏越しの行事です。毎年六月二十五日の例祭日に行われます。茅の輪くぐりが終わると大祓いの式を行い、昔は人形を江戸川に流しました。素戔鳴尊が茅の輪で流行病を防ぐことを村人に教えたという故事による行事です。
     平成六年(1994)三月 江戸川区教育委員会


 社殿の前には、東京で唯一現存すると云う力石が三個置かれていた。説明板は擦れて読み難かった。

【力石】
 江戸時代から昭和の初期まで多くの集落で行なわれていたのが「力石」を用いての力くらべ(力持ち)である
 本力石は日本一の力持ちといわれた三ノ宮卯之助(1807-54)が持ち上げたとされる 東京で唯一現存する力石で 卯之助の名前と三十八貫目と印されている

【佐倉道地図 (左側) 13:36
 北野神社を出て次の三叉路(正面に、中華料理「昇龍」がある)手前左側に、佐倉道等の街道地図御番所町跡の案内板が立っている
(下の写真で妻が見ている所)
 下記文中にある角屋旅館は、以前この案内板の前に建っていたが、現在は写真で分かる通り、新しい民家に変っていた。

【御番所町跡】 江戸川区登録史跡 北野神社~蔵前橋通り(道路部分)
 ここは旧伊予田村に属し、佐倉道と元佐倉道の合流するところで南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌、『新編武蔵国風土記稿』の伊予田村の項にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云」と書かれています。
 御番所町は、『徳川実記』延宝二年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)に当るものと考えられます。現在も残る角屋旅館のほか、筑前屋、清水屋などの旅籠屋を兼ねた小料理屋をはじめ、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋などが並んでいたと伝えられます。東西道の江戸川に突き当たる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に大きな道標が望めました。道標は今も現位置にあり、道路の様子も旧状をとどめています。そのほかにも、江戸川畔にあった常燈明(宝林寺内)や、関所役人中根家の墓(本蔵寺墓地)など、当時にゆかりのある旧跡が良く残っています。

     江戸川区教育委員会


 地図は、日本橋から始まり、両国橋、竪川通り、平井の渡し、逆井の渡し、行徳道、元佐倉道、小岩周辺、佐倉道、東金街道、成田街道などが描かれ、小岩周辺は、別に拡大図があって、小岩市川関所、小岩の渡し、社寺、道標等とその説明があった。
①御番所町跡
 北野神社(ちの輪くぐり)・御番所町の慈恩寺石造道標・宝林寺(江戸川畔の常燈明、地蔵菩薩庚申塔)・本蔵寺の説明
②小岩市川の渡し跡
 小岩市川の関所跡。
③伊予田の観世音石造道標
 区登録有形文化財
 北小岩4-37-2糀屋商店
④中小岩の成田道石造道標
 区登録有形文化財
 北小岩4-3-8森氏宅

⑤十念寺
 大師堂内に庚申塔河原道石造道標・庚申塔市川道石造道標(共に区登録有形文化財)があります。
⑥小岩田の庚申塔ばんどう道石造道標
 区登録有形文化財
 北小岩7-27-5正真寺内
⑦慈恩寺道の石造道標
 区登録有形文化財
 北小岩8-29先 小祠内
⑧八幡神社
 地元ゆかりの北原白秋の歌碑、地蔵菩薩庚申塔(地蔵堂内、万治元年銘、区内最古、区登録有形文化財)があります。
⑨一里塚跡
     江戸川区教育委員会

 上の写真で、中華料理店の前を左折して江戸川に突当り、渡し舟で対岸の市川に渡るのが江戸時代の成田街道。
 かつて江戸川の手前に小岩市川の関所があったが、今は何もない。関所跡は対岸の市川側にある。
 現在は舟渡りが出来ないので、右の道へ進んで「市川橋」を渡り対岸に向かう。


【御番所町の慈恩寺道石造道標 (右側) 13:42
 その右の道に入って直ぐ右角に御番所町の慈恩寺道石造道標がブロック塀の前に建っている(上の写真で右端のブロック塀の向こう後ろ)

【御番所町の慈恩寺道石造道標】 区登録有形文化財・歴史資料(昭和58年(1983)3月登録)
 江戸時代、庶民の間には霊場崇拝の風習が盛んになりました。坂東三十三観音もそのひとつで、埼玉県岩槻市の古刹慈恩寺は、十二番札所として関東各地から参詣人を集めていました。
 このあたりは、むかし御番所町といわれたところで、この先にある江戸川河川敷には、小岩市川の関所がありました。
 この道標は佐倉道と元佐倉道の合流点にあって、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると道筋のほぼ正面に見えたと思われます。
 銘文は安永四年(1775)に建てられたもので、岩附・江戸・市川の三方向を示しています。
    銘 文
正面  右せんじゅ岩附志おんじ道
     左リ江戸本所ミち
右面  左リ いち川ミち
     小岩御番所町世話人忠兵衛
左面  右 いち川みち
     安永四乙未年八月吉日
     北八丁堀 石工 かつさや加右衛門
       平成十五年二月 江戸川区教育委員会

【宝林寺 (右側) 13:45~13:51
 上記道標の直ぐ先に宝林寺がある。
 参道に入ると、寺の門手前右側に、庚申塔を含む石仏が並んでおり、この後ろにも石仏群がある。
 左の庚申塔は文化元年建立で、その右隣の地蔵菩薩像庚申塔は下記説明文参照。
   

 正面の門を入ってすぐ右に常燈明が建ち、傍に説明板も立っている。墓地には入らなかった。

【宝林寺】
 真言宗豊山派に属し、愛宕山地蔵院と号します。もとは千葉県国分(市川市)の金光明寺の末寺です。起立は文秀法印(慶長十二南・1607没)で、本尊は不動明王です。本堂前には常燈明が、墓地には旧伊豫田村(現在の北小岩三丁目ほか)の開拓者・篠原伊豫の墓と伝わる宝篋印塔があります。

常燈明 区登録有形文化財・建造物(昭和56年(1981)1月登録)
 もとは小岩市川の渡し場に建てられていました。昭和九年に河川改修のためここに移されました。この渡しは江戸時代には成田詣での人たちで賑わいました。この常燈明は千住総講中の人たちによって天保十年(1839)に建てられました。灯籠の高さ二m、台石は五段に組まれていて、高さは一・八二mあります。
寶林寺所在の地蔵菩薩像庚申塔(寛文十年銘) 区登録有形民俗文化財・民俗資料 (昭和59年(1984)2月登録) (右上の写真)
 参道入口に他の石仏群と共に祀られています。舟形で地蔵菩薩立像は半肉彫、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。像高は一四四cm、寛文十年(1670)に建てられました。
     平成十八年一月 江戸川区教育委員会

【本蔵寺 (右側) 13:52
 宝林寺の左隣に本蔵寺があるが、説明文のみ見て境内には入らなかった。

【本蔵寺】 
 当寺は、元和八年(1622)浅草新寺町に起立され、京都妙顕寺開基龍華樹院日像菩薩の「像」の一字をもって大雄山本像寺と称し、妙顕寺の末でした。延享二年(1745)の同寺「略縁起」は、加賀中納言前田利光の母寿福院尼が一寺を草創したのがはじまりと伝えています。明治四三年に下総真間弘法寺末の晴立寺と合併し、春立山本蔵寺となり、春立寺のあった現在地に移転しました。
 春立寺は、小岩市川関所役人を代々つとめた中根氏の館あとといわれ、菩提寺と伝えられています。現墓地には、中根平左衛門家の代々合葬墓があります。
 以下「像」の説明文略
     
平成十二年九月 江戸川区教育委員会

【市川関所跡 (左奥) 14:02~14:06
 国道14号線(千葉街道)の「江戸川」信号に出たら左折して、江戸川に架かる「市川橋」を渡る。
 渡り終えてすぐ左の土手道に入ると少し先に市川関所跡がある。
 橋を渡っている時にも左前方に木の門が見えるし、土手道に入る入口にも関所跡の案内柱が立っている。


市川関所跡

江戸川を挟んだ対岸の小岩を望む
【市川関所跡】 
 江戸時代以前も江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌師の宗長が、その時の紀行文「東路の津登(つと)」のなかで、市川に渡りがあったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。
 やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡場で旅人を調べる「定船場」が設けられた。古くから渡があり市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。
 時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けられていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。
 「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され、対岸の二村が一対で一つの関所として定められていた。そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。また、江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では、二~三艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、二〇人前後の船頭や人夫を雇っていた。そのため「御関所附渡船之村方」とも呼ばれた。
 慶応から明治へと時代が変った時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となり、明治二年(1869)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治三十八年(1905)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運行は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。
     平成十六年七月 市川市

【庚申堂 (右側) 14:14
 次の「市川広小路」交差点で歩道橋を使って国道の反対側に下りると、信号手前の右角に庚申堂が建っている。その手前には「観音寺」がある。
 観音堂には鍵が掛かっていなかったので扉を開けて中を覗くと、邪気を踏みつけた青面金剛が浮彫にされていて、上部は折れたらしくセメントで補修されていた。
 右側面には『安永三』(1774)、左側面には『これより行とくみち』と刻まれている。
 ここは行徳道との追分で、この交差点より南に行くのが行徳道、北西に行くのは松戸街道である。
 
(左下の写真で、左方向に行くのが行徳道、向かってくる道が成田街道で後ろが成田方向。左奥が「観音寺」、左手前に庚申堂が建っている)
    


胡録神社】 (左側) 14:19
 「市川広小路」交差点で左側に渡って直ぐ先に胡録神社があり、境内に入ってすぐ左側に、祠に入っている道祖神が祀られている。
   


【日蓮宗真間弘法寺(ぐほうじ)石標】 (左側) 14:27
 国道を少し進んで、左「市川小学校」を過ぎた左側のコンビニ(セブンエレブン)に接している道の入口に日蓮宗真間弘法寺の大きな石標が建っている。
 真間山 弘法寺は、この道を北へ900~950m行った高台にある伏姫桜
(ふせひめざくら)と呼ばれる枝垂桜(次項、一番下の写真)で有名な寺である。
 私達は、2008年3月30日に行っているので寄らなかったが、桜の季節には近隣の散策を含めて是非行って欲しい寺である(近隣の名所は次項参照)。
  


いちかわ・文学の散歩道】 (左側) 14:29
 次の信号を右折すれば、JR「市川駅」。この信号を左に少し入った所に、いちかわ・文学の散歩道と題する絵図が掲げられている。
 この信号手前の上記「真間弘法寺」石標の建つ道を北に上ると、「万葉の道」を経て京成電鉄の踏切を越えると「大門通り」。
 その通りの「入江橋」を渡ると、「継橋」の傍に日本最古の碑(万葉顕彰)。その先を右に入ると手児奈霊堂真間の井・北原白秋歌碑等がある。「継橋」を真直ぐ進むと弘法寺の石段。


 参考に、2008年3月30日に散策した時の写真と説明(文面は全て当所の説明板から一部抜粋したもの)を載せる。

【真間の継橋】 
 その昔、市川市北部の台地と、その南に形成された市川砂洲との間には、現在の江戸川へ流れ込む真間川の河口付近から、東に向かって奥深い入江ができていた。その入江を『真間の入江』とよび、手児奈の伝説と結びつけて伝えられた『片葉の葦』やスゲ等が密集していた。
 国府台に下総国府の置かれたころ、上総の国府とつなぐ官道は、市川砂洲上を通っていた。砂洲から国府台の台地に登る間の、入江の口には幾つかの洲ができていて、その洲から洲に掛け渡された橋が、万葉に詠われた『真間の継橋』なのである。この継橋は、
   『足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋やまず通わむ』
の歌で有名となり、読み人知らずの歌ではあるが、当時の都びとまで知れわたっていたのである。

【手児奈霊堂】 
 奈良時代のはじめ、山部赤人が下総国府を訪れたおり、
手児奈の伝承を聞いて、
   『われも見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児名(奈)が奥津城処(おくつきどころ)
詠ったものが万葉集に収録されている。

 手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)に弘法寺の日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。
 手児奈は美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人々が争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽くしたとか、その他色々と形を変えて伝えられている。
 真間の地は、万葉の時代から今日に至るまで、多くの作品にとりあげられている
【真間之井と亀井院】
 万葉の歌人高橋虫麻呂は、手児奈が真間の井で水を汲んだという伝説を聞いて、
   『
勝鹿
(かつしか)の真間の井を見れば立ち平し 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ』
の歌を残した。この真間の井は亀井院にある井戸がそれであると伝えられている。
 亀井院は寛永十二年(1635)弘法寺の日立上人が貫主の隠居寺として建立したもの。
【真間山 弘法寺】
 弘法寺は、略縁起によると、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養する為に建立した求法寺がはじまりであり、その後平安時代、弘法大師(空海)が七堂を構えて「真間山弘法寺」とし、さらにその後天台宗に転じたとされる。
 江戸時代は紅葉の名所として知られる。元禄八年(1695)には水戸光圀も来訪したと言われる。

旧三本松】 (中央分離帯) 14:33
 市川駅入口の信号を渡った中央分離帯に、市川市が立てた旧三本松の標柱と『名所三本松』と刻まれた石碑が建っているが、説明文等は無かった。
 以前は三本松が植えられていたが、昭和三十三年(1958)に伐採されたそうだ。
   


【青面金剛 (左側) 14:37
 少し先の左側「市川消防局西消防署」の次の角・「市川一丁目」と「新田五丁目」の境・京成「市川真間駅」へ行く細い道の歩道上に青面金剛と三猿が刻まれた道標が建っている。後ろには「イオン」が見える。
 かなり擦れて一部判読困難だが、右側面に『西 
市川八丁 江戸両こく三り十丁 北真間寺七丁 国分寺十二丁』、右側面に『東 八わた十六丁 中山一り 市川新田』と刻まれているとのこと。

  


【新田胡録神社 (左側) 15:03
 国道途中のコンビニ(ローソン)で15分休憩。
 「新田5丁目」信号の先に新田湖録神社があり、敷地内の右角で街道寄りに三猿しか見えない形が崩れてしまった庚申塔が建っている。
   


【弘法大師像道標 (左側) 15:05
 次の道、左角に弘法大師像の道標が建っている。
 正面の大師像の下に『寛政十一未年 富村講中 七月吉日』(1799)、左側面に、変体仮名で『すかの(菅野)道』、右側面に『右 やわた道』と刻まれている。
 また、その後ろにはもう一つの道標が建っており、正面に『東京開運女人會』、左側面に『左 宮久保山道』と刻まれている。
  


【諏訪神社 (左側) 15:09~15:18
 二軒挟んだ隣に諏訪神社がある。
 一之鳥居をくぐり、両側に立派な黒松が並ぶ細い参道を進むと、二之鳥居の先に社殿が建っている。

【諏訪神社の由来】
鎮座 諏訪大社は啓國悠遠の御代より信濃国諏訪の地に鎮座の事国史に明かにして我が国最古の神社の一つである。
祭神 建御名方神
(以下略)


【保存樹木】
 黒松(クロマツ)
 市川市保存樹木協定第104~137号(平成20年3月18日協定)
     協定者 諏訪神社


 ここの諏訪神社には、総本山の諏訪大社と同じ様に、社殿を囲んで四本の御柱が立っている。

【御柱】
 全国諏訪神社総本山である信濃の国「諏訪大社」に於ける式年造営御柱大祭は古代から伝わる原始的な奇祭として有名な祭事です。

 平田諏訪神社は平成十八年度例大祭に伴い御柱奉上の神事を行い、一番、二番の御柱を謹んで奉建いたしました。
     平成十八年十月十五日 諏訪神社氏子会

【市川市市民談話室 (左側) 15:30~15:37
 街道に戻って十数分、「本八幡駅前」信号で本日の成田街道歩きを終了とし、右折してJR総武線の本八幡駅から帰宅したが、その前に、この信号を渡った左角のビルにある市川市市民談話室の1階に入って、街道関係の資料を貰う。
 但し、ここは2017年3月末をもって閉館するとのこと。



1回目の旅終了(15:40)。本八幡駅。

本日の記録】
 現代の街道のみの距離は、8.3Km(水戸街道と成田街道の追分~「本八幡駅前」交差点)。
 累計:水戸街道と成田街道の追分(「中川大橋東」信号)から、8.3Km。
 寄り道を含めた実歩行距離は、12.0Km(亀有駅~本八幡駅) 累計:12.0Km
 5時間35分 19,500歩。

「目次」 →「本八幡駅~西船橋駅」