成田街道(3) 西船橋駅 ~ 「津田沼駅入口」信号
2017年2月4日(土) 快晴
「西船橋駅」入口の信号を10:30スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは成田山に向っての左右です)
「本八幡駅~西船橋駅」← 「目次」 →「津田沼駅入口信号~志津駅入口信号」
【龍神社】 (右奥) 10:45~10:55
国道14号線を暫く進み、左側の「船橋中央病院」を過ぎた先を右折して、更に次の道を右折すると突当りに龍神社がある。
鳥居をくぐり、溶岩に乗っている狛犬の間を抜けると右手に拝殿があり、拝殿の前にも一対の狛犬がいる。
【龍神社のいわれ】 龍神社は西海神の鎮守で大綿津命を祀る 仏名を娑竭羅(しゃから)龍王という 阿須波の神ともいわれる 明治以前まで大覚院が別当をしていたと伝えられ 同寺の山号を龍王山と称する 万葉集巻三十に 庭中の阿須波の神に小紫さし 我れは斎はむ帰り来までに の歌が伝えられている 境内にある小さな池には弘法大師の石芋や片葉の蘆の伝説が残されている 氏子中 平成十五年一月建立 |
拝殿の後ろに建つ本殿の彫刻は見事だった。
境内に小さな池があり、池面は網で覆われていたが、後ろに龍の像と弘法大師加持石芋片葉蘆之碑(下の写真で、逆三角形の石碑)が建っていた。
【弘法大師の伝説】 空腹を感じていた弘法大師が、当神社を訪れた時、境内の池で芋を洗い、それを焼いていた農夫に分けて欲しいと頼んだ所、その農夫は「これは石芋で食べられない」と断った。 大師が去った後で芋は石になり食べられなくなったという。 もう一つの伝説は、付近の湿地に生えていた蘆を弘法大師が杖で払った所、片葉の蘆になったという。 |
【大覺院】 (左側) 11:02
街道に戻って、二つ目の信号(二股)を左斜めの旧道に進む。ここで国道14号線は右に別れて行く。
分れ道の手前左側に立つ消火栓の赤いポールに、『←船橋大神宮』の看板が付いている。
旧道に入ってすぐ左側に大覺院がある。通称あかもん寺と呼ばれ、その名の通り赤い門が建っている。
もとは鎮守龍神社の別当であり、海上安全を祈る寺であった。
【入日神社】 (右奥) 11:07~11:12
その直ぐ先、JR総武本線の前で道は三本に分かれ、真中の車道は跨線橋で線路の上を越える。
歩行者は右側の側道に進み、地下歩道で線路の下をくぐって反対側に出る様になっている。
右の側道に入って直ぐ右に入る道があるが、その入口に『式内元宮 入日神社 入口』の標柱が立っている。
その標柱のある道を右折すると、直ぐ右側に鳥居と脇参道があり、入日神社に突当る。
上の写真の狛犬に出迎えられて四段の石段を登ると、右手に小さな社殿がある。
【入日神社の由来】 当町鎮守「式内元宮入日神社」は皇統第十二代景行天皇の王子日本武尊が東夷御征討の砌り伊勢湾方面より海路を利用し先ず上総の国に上陸、次いで軍団は上総の国を出帆せられ下総の国に入るに及んでこの地に上陸された。上陸地点は現在地に当ると伝へられている。その後村人によって日本武尊の上陸を記念し且つその御偉徳を偲び併せて郷土守護、五穀豊穣、豊漁の神として社を建立し崇拝して来たのが即ち入日神社である。祭神は天照大神と日本武尊を祀り古くから船橋大神宮意富比神社の元宮と言ひ伝えられている。 |
左手には、鳥居とその先は総武本線を跨ぐ為に高くなっている国道14号線に登る石段が見える。
一段高い国道に遮られてしまったが、正式の参道はこちらである(左下の写真は社殿側から、右下は国道側から撮影したもの)。
【海神念仏堂】 (右奥) 11:16~11:24
街道に戻って、地下道で線路をくぐると直ぐ右後ろへの道があるので、その三叉路を右折すると左側に海神念仏堂がある。
「海神念仏堂」の看板がある所を左折すると石仏が並んでおり、突当りに観音堂が建っている。
【観音堂の由来】 この観音堂は、元禄十四年(1701)に江戸神田鍋町の冨商である高麗屋佐次右衛門が建立寄進したものである。 堂内には、同じく佐次右衛門が奉納した三十三躰の観音像が安置されている。これは佐次右衛門が、前年の元禄十三年(1700)九月に死去した父の他、数人の菩提を弔うために寄進したものである。 中央の一躰は厨子に納められてやや大きく、あとの三十二躰は小像で左右に二段に並んでいる。 この群像は「三十三観音」ではなく、西国三十三番札所の観音像を彫ったものとされている。 今では毎年八月十日に開帳し、供養をしている。 なお伝説では、この高麗屋は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、加藤清正に連行された者の子孫だという。 奉納者・高麗屋と海神念仏堂との結びつきは、次のようにいわれている。 『元禄年間、新開の行徳道の傍らにある念仏堂に、念仏に明け暮れる了故房という修行者がいた。その念仏はすばらしく、往来の人が感涙をもよおすほどであった。ある日、ここを通った高麗屋も念仏を聞いて感激のあまり、宗派まで変えて了故房に帰依し、本堂を改築寄進し、さらに観音堂を建立寄進して、先祖代々の位牌まで納めて信心した』 海神念仏堂 |
この観音堂の左脇には、元禄七年の道標が建っている。
本来は、先程地下道をくぐって出てきた最初の三叉路に建っていた。
道標の正面には二行で『右いち川みち 左行とくみち』、右側面には『是よりいち川』、左側面には『是より行とく』、裏面には三行で『甲 海神村 元禄 七歳十月廿六日 戌 講中間』と刻まれている。
【元禄七年銘 道標】 元禄7(1694)年10月26日の銘がある、市内最古の道標です。もとは70mほど北東寄り、現在は陸橋下となっている三叉路に建てられていました。 道標正面の「右 いち川みち」は、この三叉路のある船橋市海神から、市川市八幡を経て同市市川へ至る道(佐倉道の一部)を示し、「左 行とくみち」は、船橋市山野町、市川市原木を経て同市本行徳へ至る道(行徳道)を示します。 佐倉道は、江戸から佐倉城下に達する道でした。その先が成田へと続いており、江戸中期頃から、成田参詣の隆盛と共に、成田道とも呼ばれるようになりました。 行徳は、日本橋と行徳を川で結ぶ「行徳船」の発着場でした。行徳と海神を結ぶ行徳道は、楽で早い船旅を好む成田参詣者で賑わいをみせた道でした。 |
観音堂の向いに、海神念仏堂が建っている。
念仏堂の手前左手の墓地の前に、阿弥陀如来像の説明板が建っていた。
【木造阿弥陀如来立像】 市指定文化財(有形・彫刻) 昭和42年3月20日指定 この念仏堂の開基は不明であるが、墓地に慶安4(1651)年の墓もあることから創建年代はかなり古いと考えられています。元禄年間には江戸神田の高麗屋佐次右衛門という者が観音堂を寄進し、また、芝増上寺住持となった祐天上人の教化によって、浄土宗の寺院の形を整えたものと思われます。しかし、その後は信者が集まって念仏を唱える堂になって、現在に至っています。 堂内に安置されている阿弥陀如来立像は寄木造、平安時代末期前後(12世紀頃)の作であります。端麗優美な仏像で美術的にも優れており、専門仏師に手になるものと考えられます。縁起によればこの仏像は当地の善光寺という寺にありましたが、寺が廃絶し、一時小金の東残漸寺移されたものを、高麗屋佐次右衛門がこの堂に納めたといわれています。 墓地内には、慶応4(1868)年の戊辰戦争の際に海神で戦死した福岡藩士らの墓もあります。 船橋市教育委員会 |
【西向地蔵】 (右側) 11:33
街道に戻って、「青少年センター前」信号の次の丁字路手前右側に西向地蔵がある。
この場所には説明板等は無いが、次の丁字路を越えた「割烹いなりや」の向い(右側の歩道上)に御成街道と共に西向地蔵の案内碑が建っていた。
この先、船橋宿内では同じような案内(石)碑が沢山見られる。
【御成街道】 船橋から下総台を、ほぼ直線に貫いて、東金にいたる道である。 この道は東金鷹狩りなどの為、慶長19年(1614)家康の意を受けた、佐倉城主・土井利勝が、街道沿いにある96の村々に分担させて、達成させたものとされている。 「一夜街道」とも呼ばれ一ヶ月足らずの、たいへんな突貫工事であったといわれている。 【西向地蔵】 昔の船橋宿の入口で、地元の伝承では罪人のお仕置場であったと言う。 ここには市内最古の石仏である万治元年(1658)の地蔵がある。 左下の写真で、一番右が万治元年の地蔵尊。右から二番目が元禄九年(1696)の聖観音像。左から二番目が延宝八年(1680)の阿弥陀如来像。 |
【船橋宿】
船橋の地名の起りは、これから訪れる海老川の渡しに由来する。日本武尊が東征の途次、海老川を渡ることが出来なかった時、地元民が小舟を並べて橋の代わりとしたと言う。
船橋宿は、西から東へ海神村・九日市村・五日市村からなる3村の総称であった。この3村の南寄りを佐倉道(成田街道)が通っていた。
宿場の中心は九日市村で、本陣・問屋場が置かれ、旅籠屋も九日市村だけに許可され、天保以降は二十九軒に定められた。
この宿は、成田街道最大の宿場であり、交通量や旅籠の利用者ともに多かった。船橋宿で最も有名なのは「八兵衛」の通称で呼ばれた飯盛女であった。
また、江戸時代は将軍家に魚を献上する御菜浦(おさいのうら)だった。
<昼食> 11:40~12:25
西向地蔵の直ぐ先左側にある、慶応元年(1865)創業の「割烹いなりや」で鰻定食を食べた。
【稲荷神社】 (左奥) 12:29
「割烹いなりや」の左側の細道を入った先に稲荷神社があり、説明碑は「いなりや」の前に建っている。
(福)【稲荷神社】 お稲荷さんは、農民には豊作を祈る神、漁師には大漁を祈る神、商人には商売繁盛を祈る神であり、いわば非常に守備範囲の広い神様です。 江戸時代になると、家々の屋敷神として爆発的に広まり、本社の伏見稲荷から分けて祭られました。このお稲荷さんも、元は地元のある家が伏見から分けてもらったものと伝わりますが、効験あらたかなので、地区の守り神として信仰されるようになりました。そのため、この神社の脇の道は稲荷横丁と呼ばれるようになりました。 多くの神様は、現世のご利益を祈ってお参りされますが、特にお稲荷さんは幸福をもたらす神の代表的存在です。 |
この稲荷神社の説明碑からは、簡単な地図と、マルで囲われた漢字が一字ずつ記されていた。
【猿田彦神社】 (左奥) 12:37
次の「本町一丁目」信号を左折、その次を左折し、二股を右に入った所に猿田彦神社があり、説明碑は「本町一丁目」信号の手前に建っている。
社の前には石の鳥居が建ち、社には『猿田彦神社 庚申堂』の看板が掲げられていた。
(健)【猿田彦神社】 猿田彦は天孫降臨の神話の中で、邇邇芸命(ににぎのみこと)の道案内をした神として知られます。皇室の遠祖邇邇芸命が、高天原から地上へ降りる時に光を照らしとされる神様なのです。長身で天狗のように鼻の高い神様で、天鈿女命(あめのうずめのみこと)と夫婦神になったという話もあります。 江戸時代になると、神道系の庚申塔として造立されるようになり、また道祖神と同じだとされる場合もあります。 この猿田彦神社も、脇の小道は古い時代からの道だと推定されるところから、悪疫が入ってこないように願って、道の神様として祭られたものでしょう。健やかな日を送れるように祈りましょう。 |
【太宰治の植えた夾竹桃】 (左奥) 12:41
「本町一丁目」信号に戻り、そのまま真直ぐ(南下)渡って少し行くと、左手に「市民文化ホール」があり、敷地に入ったすぐ左前方に太宰治の植えた夾竹桃がある。
また、傍らの石碑には『太宰治「十五年間」よりと題する』、下記説明文中にある太宰の文章が刻まれていた。
【太宰治の植えた夾竹桃】 この夾竹桃は、太宰治(明治四十二年~昭和二十三年)が、昭和十年夏から昭和十一年秋にかけて、千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一、九二八番地(船橋市宮本一丁目十二番九号)に借家住まいをしていた時に、その敷地内に植えられたものですが、昭和五十七年十二月、その敷地が整備されることになり、改めてこの地に移植された。 太宰治は、当時、「めくら草子」の中でこの夾竹桃を植えた時の様子を書いておりますが、戦後の作品「十五年間」では、次のように、この夾竹桃に対する自分の愛着ぶりを書き遺しました。 私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで「ダス・ゲマイネ」といふのや、また「虚構の春」などといふ作品を書いた。どうしてもその家から引き上げなければならなくなった日に、私は、たのむ!もう一晩この家に寝かせて下さい。 玄関の夾竹桃も僕が植ゑたのだ、庭の青桐も僕が植ゑたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れてゐない。 昭和五十八年三月 船橋市教育委員会 船橋中央ライオンズクラブ寄贈 |
【道祖神社】 (左奥) 12:49
再び「本町一丁目」信号に戻り、街道(本町通り)を東に進んだ次の交差点を左折、その次を右折するとすぐ右側に道祖神社がある。
説明碑は信号の手前に建っている。
(愛)【道祖神社】 道祖神社は道六神とも呼ばれ、元々は村境や辻に祭られ、町や村に悪霊や悪疫が入るのを防ぐ神でした。この道祖神も古道である御殿通りの、集落のはずれに祭られたものと思われます。 しかし、道祖神は非常に古くから信仰された神様なので、様々な祈願に応える機能を持つようになりました。元々の厄除け的なものから、足、耳の病を治すはたらき、さらには子授けや夫婦和合の願いを叶える神様としても信仰されるようになったのです。 この道祖神社の境内には、偶然ですが仏教の中の”愛の仏”である愛染明王の石仏も移されています。 |
道祖神社の敷地内左手には、三峰神社も祀られていた。
【明治天皇船橋行在所】 (右側) 12:53
街道に戻って、直ぐ右側に「千葉銀行」があり、その銀行の前に明治天皇船橋行在所の説明文と碑が建っている。
【明治天皇船橋行在所】 県指定史跡(昭和9年12月18日指定) 明治天皇は千葉県に陸軍の演習や牧畜耕耘(こううん)事業などを御覧になるため、明治六年を初めとして明治四十五年までに一〇回、延三五日にわたって在県された。最初のご来県は明治六年四月二十九日から五月一日まで、近衛隊演習をご覧になるための、大和田原へのお出ましのときである。この本県への最初のお出ましの第一日目に昼食をとられたのが、当時の船橋町九日市の旅館業桜屋、山口丈吉宅(現在地)であった。その後、明治八年五月、第二回のご来県の折、同月二十九日にはこの山口方に泊られた。これは本県で最初に民間に宿泊された家である。その後も山口方をしばしばご利用になり、通算して宿泊一〇回、昼食五回、御小休二回に及び、本県で最も多く立ち寄られている。 昭和二三年六月二九日、明治天皇に関する他の諸遺跡は全て指定を解除されたが、ここだけが継続指定されている。 |
【ひろせ直船堂】 (右側) 12:58
次のブロック、「損保ジャパン」の隣に和菓子の廣瀬直船堂(ひろせちょくせんどう)がある。
大正七年の建築で、船橋市・景観重要建造物に指定されている。
店の奥に山岡鉄舟直筆の額が飾られているそうだが、写真を撮る為に手前で左側に渡ってしまったので、見逃してしまった。
【森田呉服店】 (左側)
廣瀬直船堂の向いに、こちらも古い森田呉服店があるが、本日は閉まっていた。
【厳島神社】 (左側) 13:02
森田呉服店の一つ挟んで隣に厳島神社があり、説明碑は少し手前に建っている。
(学)【厳島神社】 厳島神社というと、瀬戸内海に浮かぶ安芸の宮島が有名です。当社もその厳島神社を勧請したもので、田心姫命・市杵島姫命・多気津姫命を祭っています。元来この三女神は海の神でしたが、市杵島姫命は「市」の守り神ともなり、また弁才天と結びついて水神、学問、技芸の神様としても信仰されました。 この厳島神社も、地元では”弁天様”と呼んで親しまれ、周辺の人々から信仰されて来ました。 海上守護の神、水の神、市場の神等として人々の願いを叶えてきたこの神様は、学芸成就・合格祈願の願いにも、きっと応えてくださるでしょう。 |
【歴史の散歩道コース】
直ぐ先の「本町四丁目」信号を左折すると突当りに公園がある。この場所には昭和33年迄、旧船橋市役所があったとの事。
その公園の入口右側に『歴史の散歩道コース』と題する、近隣地図と説明文が載っている案内板が立っている。
本町通りの右手(南側)には多くの寺院があるが、何れも私達は行かなかった。
【歴史の散歩道コース】 船場宿の中心は、船橋大神宮の門前町として発達した本町通りです。本町通りは海老川をはさんで五日市と九日市にわかれます。この地名は、昔、市がたったなごりですが、江戸時代には、旅籠や商店・民家がたちならんでいました。 本町通りの北側にある御殿通りの名まえは、この道に面して将軍家の船橋御殿が建てられたことに由来します。この御殿に徳川家康と徳川秀忠が宿泊し、東金・佐倉地方に狩に出かけています。現在、この跡地の一角に日本一小さな東照宮がまつられています。 また本町通りの南側、本町3丁目西部には寺院が多く寺町になっています。さらに海老川河口は、河岸や漁港に利用されました。 |
【御蔵稲荷神社】 (左奥) 13:06~13:09
公園の左側には、御蔵稲荷神社がある。
【御蔵稲荷の由来と謝恩の碑】 この稲荷神社は御蔵稲荷と呼ばれ、祭神は宇賀魂神である。この神は元来作物、食物の神であり、土地の守護神でもある。神社周辺は歴史的由緒が深く、様々な史話を伝える。江戸初期の慶長末年、現在地周辺に初代徳川家康が船橋御殿を建て、二代秀忠、三代家光が度々宿泊休憩をした。四代家綱により廃され、跡地は富氏に与えられた。三代家光の正保年間に、その一角に九日市村の飢饉に備え穀物を蓄えておく御蔵が建てられ、当時、郷御蔵と呼んだ。御蔵のお陰で当地では延宝、享保、天明の飢饉にも餓死した者はいなかった。寛政三年御蔵は出水の為流失、御蔵への感謝をこめ地元民が浄財を募り稲荷祠の社殿を大きく建直し、四季折々の祭を行って来た。慶応四年船橋宿一帯は戊辰戦争の兵火のため大半が焼失させられた。その復旧工事中の翌明治二年土取り中御蔵稲荷東北、郷蔵跡地あたりから、渡来銭の詰まった大瓶三口が出土した。瓶は高さ四尺(一、二メートル)中国銭貨の洪武通宝、永楽通宝等二百五十貫余(約九四〇キロ)も入っていた。地元では馬六頭で葛飾県庁に届けたが、一部恩恵に浴した者もあったという。その後明治二十一年に、経緯を刻んだ「銭瓶遺跡之碑」を建立したが、昭和中期頃失われた。 昭和初期文人太宰治氏は鄙びた御蔵稲荷を好み、その作品にも書き残し、いくつかの口絵写真でも、御蔵稲地を背景に使っている。昭和三十年代に急激な都市化により、船橋地名の起りであり、山、里、町、浜の文物交流の動線であった海老川が毎年の様に溢れ、氾濫がくりかえされた。昭和三十六年浸水家屋敷二三八戸であったものが昭和六十一年には二、四二六戸と増大、当町会の三分の二が泥水に浸り、物心両面での困苦は筆舌に盡しがたいものがあった。その都度町会集会所を兼ねていた御蔵稲荷社殿が、避難所、食事の炊き出し所として、被害町会民のために役立った。地元民相集い、災害対策協議会を結成、市に要望、大橋和夫市長の英断と、国、県関係機関の尽力により、六百三拾八億九阡万余の巨費を投じ海老川改修工事が、平成四年に完成、治水百年と言われるが、十余年の月日をもっての完工は、見事であり感謝の外言葉もない。いま町会が、平和で明るい生活が営めるのも心ある先人と、歴代町会長初代高村信三、二代新井善二郎、三代森内繁、四代栗原孝明、五代山崎正樹と役員が中心になり、一致団結「自主運営」と「互助」の心での努力が、今日の成課として結実した。この度社殿及び自治会館が、町会員の浄財と、市、県の補助金をもって新築落成、これを祝し、御蔵稲荷の由来と町会の成り立ちを含め、いく多の関係諸氏に深甚なる感謝の意をもってこの碑を建立する。 平成七年七月九日 |
また、境内には郷蔵跡の説明板も立っていた。
【九日市村郷蔵跡】
飢饉にそなえ穀物をたくわえたり、年貢米を一時的に保管したりするため、村々に建てた倉庫を郷蔵(ごうぐら)あるいは郷御蔵とよんだ。九日市村の郷蔵は江戸時代寛永年間の終わり~正保の初めころ(1640年代)に建てられたと伝えられ、150年ほど後の寛政3年(1791)に津波で失われた。以後は再建されなかったが、名主が貯えを預かり保管することになった。
宝永4年(1707)の船橋御殿地跡絵図には、敷地とともに「郷御蔵」と記されている。
九日市村は現在の本町・湊町・北本町の町域にあたる。
平成10年3月 船橋市教育委員会
【つるや伊藤】 (左奥) 13:12
御蔵稲荷神社前の「御殿通り」を左(西)に行き、一本目の道を右折すると直ぐ、創業安政元年(1854)のつるや伊藤の古い建物が建っている。
創業以来「染め・織物」を中心にキモノ全般から旗・幕・のぼり・のれん・手拭・祭用品・舞台設備などを手掛けて、数々のTV番組で紹介された店である。
太宰治がこの店で、『着物の洗い張りを依頼したが、料金を踏み倒された』との新聞記事もある。
【船橋御殿跡・東照宮】 (左奥) 13:16
「御殿通り」に戻って、その次の道を右折した突当りに日本一小さな東照宮がある。
鳥居の後ろに説明板が立ち、五段の石段を上った所に、下記写真の通り、東照宮が左に、御殿稲荷が右に建っている。
【船橋御殿跡と東照宮】 市指定文化財(史跡) 昭和40年3月17日指定 徳川家康は狩猟を好み、各地に狩猟用の「お茶屋」又は「御殿」とよばれる休憩所や宿泊所を建てさせた。慶長十九年(1614)家康は上総土気、東金で狩猟を行ったが、船橋御殿の建造もその頃であろうと推定される。家康は元和元年(1615)十一月ここに宿泊した。家康の宿泊はこの一回だけであったが、秀忠はその後狩猟のたびに立ち寄ったと考えられる。将軍家の東金狩猟が寛永七年(1630)頃に終止した後も船橋御殿は存続していたが、寛永末年頃(1670年代)に廃止となったようである。船橋御殿の面積は約四〇四アールで、海老川西側の土手に囲まれた地域であった。その後、この地は大神宮宮司の富氏に与えられ、開墾されて畑地となった。 東照宮は富氏が建立したもので、この場所が御殿の中心であった場所であると伝えられている。 一九九二年三月 船橋市教育委員会 |
【川奈部書店】 (右側) 13:23
「本町4丁目」信号に戻って、交差点の向いにある川奈部書店は、太宰治がよく通った書店とのこと。
この店でも、太宰治が代金未払いだったとの噂があるが、噂だけらしい。
【本陣跡】 (右側) 13:25
直ぐ先、海老川の手前に「クレアホームズ」という大きなマンションが建っている所が、何も説明等は無いが、ここが本陣跡らしい。
下の写真は、海老川から撮影したもの。
【海老川橋】 13:26~13:31
海老川に架かる海老川橋を渡る。橋の中央の両側には船の先端部が模られ、その舳先には龍に乗った女神(?)が飾られている。
船の内側には両側ともに由来が書かれ、特に左側の欄干には『船橋地名発祥の地』、『長寿の橋』と記された柱が立ち、泉重千代翁が120歳の時の手形等のレリーフも飾られている。
【由来】 古い伝説によれば 船橋という地名の起りは この海老川の渡しに由来する 古代の英雄が東征の途次 此地の海老川を渡ることが出来なかったとき 地元民が小舟を並べて橋の代わりとし 無事向こう岸に送り届けたという 海老川は長く住民に親しまれてきた 春堤に風吹けば花蝶遊び 秋淵に水澄めば魚鱗踊るといった時代を経 近年の都市化の中で浸水被害が繰り返され 流域住民にとって”恨みの川”となったが 今 市政五十周年の記念すべき年に当り 国 県の御協力を得 市の総力を結集し 河川及び橋梁を改修”希望の川”として蘇ることとなった 昭和六十二年七月二十五日 船橋市長大橋和夫撰文 |
【太宰治旧居跡】 (左奥)
「海老川橋」を渡り、京成のガードをくぐって直ぐ左折、そこから右へ細道も含めて5本目(3本目の十字路)を右折して、次を左折した先に太宰治旧居がある。
私達は4本目と聞いていたのでそこを右折した為、見つけられなかった。十字路3本目で行動すべきだった。
【船橋大神宮】 (右側) 13:42~14:07
街道に戻って、次の「大神宮下」信号を渡った所に船橋大神宮の脇参道がある。
石段を登ると先ず船玉神社が建っていて、祠の前は船の舳先が模られている。
続いて、八劔(やつるぎ)神社神輿奉安殿と八坂神社神輿奉安殿が繋がって建っている。
この二つの奉安殿内には、それぞれ神輿が祀られていて、神輿自体がお宮(御神体)という珍しい神社である。
八劔 八坂
その隣に受付があり、ここで御朱印を頂ける。
受付の前を左に曲がると、大神宮の本殿である意富比(おおひ)神社がある。
「船橋大神宮」は通称で、正式名は「意富比神社」である。
【意富比神社の歴史・由緒】 (左の写真は拝殿) 古代 景行天皇四十年(110)、皇子日本武尊が東国御平定の途次、海上の一艘の舟の中に神鏡を発見。その頃旱天に苦しんでいた住民を救う為、又東国御平定の成就を祈願する為その神鏡をお祀りされたところ、ご神徳の顕現がありました。これが当宮の創始であります。 同じく五十三年、天皇御自身が御東行された折、武尊ご功績をご追憾なされ「意富比神社」の称号を賜りました。この名称が現在でも当宮の正式な名称となっております。 初めに日本武尊が神鏡を奉斎された場所は現在の神社より西に位置する湊郷海神あたりでした。後に現在の地に遷座されたと伝えられています。 平安(前略) 天喜年間(1053~58)には源頼義、義家親子が社殿を修造、その後仁平年間(1151~54)には船橋六郷の地にご寄附の院宣を賜り、源義朝が之を奉じ当宮の再建に携わりました。その文書には「船橋伊勢大神宮」と記載があり、当時から朝廷や武家からの崇敬が篤かったことが窺えます。 鎌倉(略) 江戸 江戸開府の頃より徳川家康公の崇敬が篤く、度々参詣され、当宮に社領を寄進、本殿、末社等を造営し、以来江戸時代を通じて代々の将軍より、五十石収穫相当の社領の寄進が幕末まで続きました。 明治(一部略) 慶応四年(1868)から勃発した戊辰戦争下では、旧幕府軍の拠点の一つとなり激戦の中、本殿・拝殿・摂末社にいたるまで全焼。その後明治六年(1873)に本殿が造営されたのに始まり明治二十一年頃までに本殿拝殿が竣功。それ以降は、大正十二年、昭和三十八年、同五十年、六十年に摂末社、鳥居、玉垣、参道に至るまで随時造営が成され、平成二十二年にはご遷座一九〇〇年をむかえる。 近代 現在の主境内地の面積は約四千七百坪(約一万五千五百平方メートル)になります。 パンフレットより |
意富比神社の拝殿に向かって、南側にある京成本線「大神宮下」駅から真直ぐ進む道が正式な参道である。
拝殿に向かって右方向に進み、「大鳥神社」前を左折した右側高台に灯明台が建っている。
【灯明台】 千葉県指定文化財(有形・民俗) (昭和37年5月1日指定) かつて、船橋沿岸を航行する船は、意富比神社(船橋大神宮)の境内にあった常夜灯を目印にしていました。 この常夜灯は慶應4(1868)年の戊辰戦争で社殿とともに焼失しました。 明治13(1880)年に現在の灯明台が再建され、明治28(1895)年に停止するまでの間、政府公認の私設灯台として利用されました。 標高27mの丘の上にあり、浅間神社のあった場所に建てられたので、「浅間山灯明台」といいました。 建築様式は和洋折衷の「擬洋風建築」で、1階・2階は和風、3階の灯室が西洋式灯台の意匠を取り入れた六角形のつくりになっています。 光源は石油ランプ3基に錫製の反射鏡3基を組み合わせ、光の到達距離は約6海里(約11km)あり、その当時の最新式の設備でした。 船橋市教育委員会 |
その先、突当りに極彩色の常盤神社が建っている。
【常盤神社について】 常盤神社は、江戸時代には「関東一宮両御神社」「関東一宮船橋両社」と本社意富比神社と並び称されていました。 平戸藩主松浦静山の甲子夜話巻三十一には「神祖の御宮にて官より造らるる処は七ヶ所なりと云。日光山、久能山、上野、紅葉山、仙波、世良田、船橋(大神宮の座す地なり)是なり」と記され、昔は日光山、久能山等の東照宮と同視されていました。 社伝によると「有徳院様(吉宗公)にも東宮は格別めでたき御宮と上意あらされ候。(略)尊慮にも船橋大神宮は関東一の宮殊更伊勢大神宮との勅号も有之。東照宮様も御鎮座あらせられ候へば、伊勢日光へ参宮相成がたき者は船橋へ参宮いたし候へば、伊勢日光参拝いたし候も同じ」と上意あらせられたと伝わっています。 略記 天正十九年(1591) 常盤の御箱とう物に開運の陣弓を添えて家康公本社に納める。 慶長十三年(1608) 本社遷宮祭の時、家康公は日本武尊の像を作って本社に祀る。 元和 八年(1622) 秀忠公が家康公の前歯や四将の木造を奉納し、常盤神社を造営する。 寛永十六年(1639) 家光公が秀忠公の像を納め祀る。 社殿の規模 社殿の大きさは「文政十三年(1830)の頃には本殿は五間四面位、拝殿は六間に五間位あるだろうと、言われていた。周囲には、玉垣を廻らしてあったという。」【成田道の記】 また、文化十一年(1814)の遊歴雑記には「茅葺の御門ありて扉の上の方には、菊の御紋、下の方には葵の御紋と片扉に二ずつ木地の高彫りにして四つの御紋を彫り付けたり、菊の御紋を並べ付けられしは最珍らし。」とありました。 これらの社殿は戊辰の戦火に焼失し再建された社殿は、九尺四方の木造瓦葺きの小祀でした。 この度造営された社殿は本殿間口三間、奥行二間、高さ二十五尺、唐門間口一間半、高さ十七尺、漆塗り彩色仕上。本殿最上部の千木には、菊唐草の文様を彫り込みました。 ご造営相成りました本殿には、中央に日本武尊、左に東照宮様と井伊、本多、酒井、榊原の四将を、右に秀忠公に加え、御歴代の将軍様をお祀りいたします。 (宮司記) |
【西福寺】 (左側) 14:11
「大神宮下」信号に戻り、家康が「東金御成街道」を造った時の切通しである坂を上って東へ進む。
坂を上りかけた途中左側に西福寺があり、境内に入って直ぐ右に、四基の庚申塔等が建っている。
左から元禄九年(1696)、二つ目不明、三つ目文政十年(1827)の観音像か?一番右は文政十一年。
【馬頭観世音】 (右側) 114:30
更に坂を上って暫く進み、「東船橋」に入った右側の「県立船橋高校」のグランドが途切れた所に、馬頭観世音が祠に安置されている。
像の右側に『馬頭観世音』、左側に『文化四年丁卯四月吉日』(1807)と刻されている。
【国交省船橋防災センター・ディーゼル機関車】 (右側) 14:33
その隣に国交省関東地方整備局船橋防災センターがあり、北口門の内側左手の「船橋工作跡地」に、昭和24年のディーゼル機関車が展示されている。
休日だったが、たまたま職員が訪れていていたので、機関車の傍で撮影させて貰った。
【ディーゼル機関車】 機関車の概要 この機関車は、昭和24年に建設省関東地方建設局(現 国土交通省関東地方整備局)が購入し直営工事に使用したものです。主に小貝川、江戸川、利根川などで堤防のための土運搬に使用され、昭和40年頃まで稼動していました。 形式はD7型と呼ばれるもので、60馬力のディーゼルエンジンを搭載しており、鋼製1m3積土運搬車を20台程度けん引して時速約15Kmで走りました。 仕 様 製 作 会 社: 加藤製作所 型 式: D7(P) 自 重: 7.0t 軌 間: 610mm 寸 法: 全長 3,835mm 全幅 1,454mm 全高 2,235mm 軸 距: 1,295mm 最大けん引力: 1,750Kg 最 大 速 度: 22.0Km/h 機 関: 製 作 会 社 日 野 型 式 DS-10 定 格 出 力 60ps 定格回転数 1,300rpm |
【庚申塔等】 (左側) 14:42~14:50
直ぐの「中野木」交差点で、右方向に併走している国道14号交点を終点とする国道296号と合流する。
これより「酒々井交差点」まで、この国道296号(成田街道)とお付き合いすることになる。
「中野木」交差点手前左側の小公園に、屋根に覆われた四基の庚申塔等が建っている。
一番右の庚申塔は、接近しているブロックに隠れて読み難いが『天保五年』(1834)、右から二番目は『享保十八年十一月吉日』(1733)、三番目は『文政三(この下が擦れていた)』(三年なら1820年)、一番左は年号不明の石塔。
【地蔵堂】 (右側) 14:52
「中野木」交差点を渡った直ぐ右側のステーキハウス「ブロンコビリー津田沼店」の先に地蔵堂が建っている。
【由緒沿革】 古老の言に依れば本尊石佛地蔵尊は安政年間に悪疫流行せしため、原田氏先代(今より七代位前)が土地を寄進し、西福寺住職に請い、住職亦その願を容れ、自ら十萬遍を誦して奉安せしものにて、霊験あらたかな徳兵衛地蔵と俗誦す。徳兵衛は隣地原田氏の屋號なり。 大師像は篤信家文左衛門宅にありしものを詣ずるものの不便を考えて此處に奉遷せるものなり。 明治初年迄は堂宇なきも地元信者により建立せらる。原田家との境界に目通り丈余の椎の樹あり、當初植えたものと傳えらる。 (中略) 當初敷地二十八坪ありしが國鉄道路新設により賣却二十五平方米(約十一坪)となる。現在西福寺境外佛堂にて昭和四十三年三月新築。仝年五月地元信者と共に落慶供養を奉修す。 昭和四十三年五月二十四日 船橋山西福寺住職 権大僧正 義典敬書 |
【成田街道入口・道標】 (左側) 14:59
その先、「成田街道入口」信号を渡った左角に道標が建っている。
【御成街道(東金街道)について】 御成街道(東金街道)は、慶長十八年(1613)十二月徳川家康の命を受けた佐倉藩主土井利勝が三日三晩で遺成したと伝えられています。 家康の東金への鷹狩等のための作られたとも言われ、船橋から東金まではほぼ直線で結ばれています。徳川家康・秀忠・家光が御成街道を通り東金周辺で鷹狩等を催しました。将軍や大御所がお通りになる=お成りになると言うのでお成り街道と呼ばれたと言います。 (前原1丁目)は成田街道と東金街道との分岐点です。明治十二年(1879)に成田山の信徒と地元前原の有志が建てた遺標があり、前面には「左成田山道」と刻まれています。また、右側面は「成田山従是房総街道」(御成街道を房総街道としています。)左側面には「成田山道」と刻まれています。 江戸時代、主要な街道などには、一里ごとに一里塚をおいて松などの木を植え旅人の目印としていましたが、船橋を過ぎると一里塚は次の様に置かれていました。 ①一里塚 習志野市実籾 ②向山 千葉市花見川区積橋 ③焼塚 千葉市若景区若松町 ④提灯塚 千葉市若景区千城台東 ⑤権の古木 千葉市若景区豊田町 ⑥一里塚 八街市上砂 ⑦殿山 東金市黒田 一里塚 東金市油井 |
【庚申塔・道標】 (左側) 15:05
成田街道は、この「成田街道入口」信号を左折する。
左折して右カーブする左側に庚申塔や不動明王道標等が六基、屋根に覆われて建っている。
『庚申塔の由来』と題する説明板は後ろに立っているが、塗装が剥がれて殆ど読めなかった。
一番右の不動明王像の道標の正面には『右なりた道』、左側面には『安永六年丁酉秋九月建 願主 日本橋左内町 和泉屋甚兵衛 当巴 世話人 伊勢屋富蔵』、右面には『左とうかね道」と刻まれている。
総武線の上を越え、「津田沼駅入口」信号で本日の行程を終え、ここを右折して730m先の津田沼駅へ向かう。
3回目の旅終了(15:30)。津田沼駅。
【本日の記録】
現代の街道のみの距離は、6.2Km(「西船橋駅入口」信号~「津田沼駅入口」信号)。
累計:水戸街道と成田街道の追分(「中川大橋東」信号)から、17.9Km。
寄り道を含めた実歩行距離は、10.4Km(本八幡駅~西船橋駅) 累計:32.2Km
5時間 17,700歩。