日光御成街道(5) さぎ山記念公園 ~ 岩槻一里塚
2016年10月16日(日) 晴
「大宮駅」から国際興行バスで、「さぎ山記念公園」バス停に向い、ここを10:25出発。
(注:解説で街道の左側、右側とは幸手に向っての左右です)
「東川口~さぎ山記念公園」← 「目次」 → 「岩槻一里塚~鹿室信号」
【地蔵尊と供養塔】 (右側) 10:33
「さぎ山記念公園入口」の次の「上野田」信号を過ぎた直ぐ右側に地蔵尊と文化二年(1805)の石塔が並んでいる祠が建っている。
石塔の正面には『文化二乙丑年施主 為諸病悉除村中安全 十一月吉日祥日村中』と刻まれていた。
【光徳寺】 (右側) 10:51
地蔵尊から15分強歩いた「膝子下」バス停の先に光徳寺がある。
徳川家光以降代々寺領を賜り、将軍の日光社参時に小休所をした寺である。
その他特筆することはないので入口から写真だけ撮って境内には入らなかった。
【膝子(ひざこ)一里塚】 (右側) 10:54
光徳寺から直ぐ先、「膝子会館」前の「膝子自治会防災倉庫」横に膝子一里塚が東塚(右側)だけ残っている。
【膝子一里塚】 さいたま市指定史跡(昭和39年1月13日指定) 一里塚は、江戸日本橋を基点に主要街道に一里(約四キロメートル)ごとに設けられたもので、道の両側に大きさ五間(約九メートル)四方の塚を築き、榎などを植え、往来の目安とされてきました。 この一里塚は、江戸時代の初期に築かれたもので、江戸から八里、岩槻へ一里の日光御成道上にあります。当時は、道路の両側に塚を築き、塚上に榎が植えられていました。現在は、明治初年に西側が取り払われたために、東側の塚のみ残ります。この塚も道路改修などで築造当時よりも小さくなり、榎も二代目が植えられています。 なお、日光御成道は、江戸時代将軍が日光東照宮へ参拝するに際し通行するもので、江戸の本郷追分から王子、岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻を経て、幸手で日光道中に合流する六宿十二里の道でした。 平成二十二年十二月 膝子自治協力会 さいたま市教育委員会 |
榎の大木の右下には、弘法大師像と一石六地蔵が建ち、安永二年(1773)の大師像の台座には『奉納 秩父坂東四国西国供養』と刻まれていた。
左下には『史蹟 膝子一里塚』と刻まれた石柱が建っている(標柱の後ろ)。
【筆塚】 (左側) 11:03
見沼代用水が御成道に接してきた「膝子」信号を渡ったすぐ左に筆塚が建っている。
脇には朽ちた切り株が残り、後ろには見沼代用水が流れている。
【筆塚誌】 茲ノ筆塚ハ故森田久蔵ノ日常用ヒタル絵筆ヲ遺言ニヨリコノ地ニ埋メタル記念碑デアル久蔵ハ弘化元年二月二日生レ幼ニシテ絵描キニ趣味ヲ持チ農作業ノ傍ラ勉強シ明治ノ中期長男ノ熊次郎ニ家業一切ヲ譲リ三十三年上京シ秋元素幽ノ門下生トナリ修業研鑽シ久信ト号シ三十五年四月ヨリ日本美術協會ニ入會シ會員トナリ同志ト交遊シ晩年ヲ絵描ニテ送リ大正八年十二月三日逝ク七十七歳 |
【庚申塔】 (左側) 11:07
筆塚の直ぐ先にある貸しコンテナの前に年号が擦れて読めない庚申塔が建っている。
【地蔵尊・馬頭観世音】 (左側) 11:22
「七里総合公園」入口前を進み、信号のある「七里中学校入口」前の二股道を右に取る。
「七里第二団地」バス停の直ぐ先左側、祠に入った地蔵尊とその傍らに小さな馬頭観世音が建っている。
【道標】 (右側) 11:34
左側に「老人ホーム見沼さくらの杜」がある二股道を右に進む。
右に進んで直ぐの左への道の角に現代の道標が立っていて、進行方向に『綾瀬川・大橋450m』、歩いて来た方向に『満蔵寺1700m、膝子一里塚2200m、光徳寺2400m』、左方向に『大宮・氷川神社5500m、見沼代用水東縁・半縄橋600m』と表示されていた。
上記道標の右下に正徳三年(1714)?の朽ちかけた小さな道標が建っている。傍らには案内板が立っていたが、かなり擦れて殆ど判読不能の状態だった。
<昼食> 11:50~12:20
深作川に架かる「古簀子(すのこ)橋」を渡り、「新簀子橋」信号で国道16号線を横断し、突当りの信号を右折して、綾瀬川に架かる「大橋」を渡る。
「大橋」を渡った直ぐ右側にある蕎麦処「砂場」で昼食とする。
【わらべ人形像】 (左側) 12:33
「大橋」を渡った次の信号(手前右にセブンイレブンがある)で、日光御成道は左に弧を描くように回る。この馬蹄形をした部分は、昔は「馬坂」と呼ばれた坂道だった。真直ぐ行かず何故大きく曲がっているのか良く分からない。
現在の道筋は、セブンイレブン前の信号を左折し、東武野田線の踏切を渡って右カーブし、東北自動車道の高架下をくぐる。
旧道はくぐったら直ぐ右折するのだが、現在は線路があるので曲がれない為、その先の踏切へ迂回する。
迂回した踏切を渡って線路の反対側に出たら、東北道に沿って南下するが、すぐ道は左斜めに曲がって行く。
再び、「大橋」から真直ぐの道に戻った所(国道122号)で左折し、岩槻宿へ入って行く。
その国道合流点左角に『人形のまちいわつき』を象徴するわらべ人形像が建っている。
【岩槻宿】
城下町でもある岩槻宿は、江戸から四番目、八里三十三町(35.0Km)の距離にある。
天保十四年(1843)の『日光御成道宿村大概帳』によると、宿高3172石、戸数778軒、人口3378名、町並17町10間、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、問屋場2ヶ所(市宿町と久保宿町にあり交代で業務を行なっていた)。
特産物の岩槻木綿はその名を広く知られ、近隣の農村で作られた木綿は岩槻に運ばれ、御成道の陸路や綾瀬川・元荒川の舟運で江戸などへ出荷された。
伝統産業である人形作りは、いつごろから始まったかははっきりしないが、天保年間(1830~1843)には行なわれていたと云われる。
【久伊豆(ひさいず)神社】 (右側) 12:35~12:40
わらべ人形像の直ぐ先右側に久伊豆神社がある。
街道沿いに建つ赤い鳥居をくぐって参道を進むと正面に拝殿、後ろに本殿が建っている。
【久伊豆神社】 久伊豆(ひさしいず)神社の御祭神は、国土開発・生成化育・子孫繁栄を掌る大己貴命(おおなむらのみこと)(大国主命)です。 天文年間(1532~1533年)頃勘解田盛之という人が当地に来て田圃を拓き濃人となりこの地に留まるようになったのがこの村の祖ともいわれています。元亀年間(1570~1573)、時の岩槻城主太田資正は、岩槻城の西方箕輪郷の一部向原を分け、村高八百七十五石を以って加倉村と改めました。その頃濃人が祀っていた久伊豆(ひさしいず)大明神を村の鎮守「久伊豆(ひさいず)神社」として神璽を奉じて中島の地に遷し祀られました。 明治五年に村社となり、翌明治六年十一月十一日本殿の落成を見、同二十九年十一月に拝殿が再建されました。正面の扁額に久伊豆(ひさいず)神社・稲荷社・宗像社・籠神社・水神社と掲げられており、いくつもの神様が祀られていることが分かり、それぞれの神様がこの加倉地区・加倉の人々をお守りくださっております。久伊豆(ひさいず)神社は加倉の鎮守様(氏神様)であります。 御祭礼日 毎年十月十九日 |
拝殿とその手前左側の手水舎との間に庚申塔が二基と鈴木先生頌徳碑が建っている。
右側の大きい庚申塔は『元禄十五年』(1703)、左側の小さい方は『享保十三年』(1728)と刻まれ、共に岩槻型と呼ばれる像容で、他では見られないものとのこと。
【浄国寺】 (左側) 12:43~12:56
久伊豆神社の直ぐ先左側に、浄国寺があり、やや長い参道を進んで立派な中門をくぐると正面に本堂が建っている。
【浄国寺】 浄国寺は、岩槻城主太田氏房の発願によって、天正十五年(1587)に建立され、同十九年、徳川家康から、寺領五十石を寄進されました。江戸時代初期には、関東十八檀林(浄土宗の僧侶養成機関)の一つとなった名刹です。また、元和九年(1623)、阿部正次が岩槻藩主となった後は、同家の菩提寺になりました。 |
本堂の左手に回ると岩槻藩主阿部家の墓がある。
【岩槻藩主阿部家の墓】 さいたま市指定史跡(平成18年3月30日指定) 平成二十一年三月 宗教法人 浄国寺 さいたま市教育委員会 |
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左の写真で、 右奥の五輪塔が『阿部正次の墓(1565-1647)』 真中の五輪塔が『阿部定高の墓(1635-1659)』 左手前の五輪塔が『家臣の墓』 |
中門を入った、本堂に向かって左手に三代藩主定高の母の供養塔が建っている。
【岩槻藩主阿部家の墓】 さいたま市指定史跡(平成18年3月30日指定) 三代定高の母・正寿院の供養塔です。正寿院は、松平隠岐守定勝の娘で、二代藩主阿部重次の後室となり、三代藩主定高、四代藩主正春を生みました。父・定勝は、徳川家康の異父弟で、母は家康の生母於大の方(伝通院)です。従って、正寿院は於大の方の孫娘、家康の姪にあたります。 |
【人形歴史館】 (左側) 13:00
街道に戻って信号を渡って左に人形歴史館東久があるが入館はしなかった。
【人形の東久(とうきゅう)】 岩槻の人形師福田東久氏、その東久のお店に隣接して人形歴史館があります。 さらに工房も開放し多くのお雛さまファンの拠点になっています。 系統立てて集めたコレクションは有名で、他にも裃雛コレクションでは、数、質ともに日本一を誇ります。 人形歴史館ではNHK大河ドラマ「篤姫」に使われた江戸のお雛さまなど見所もいっぱい。一年中お雛さまと出合えます。 東久氏のお雛さま解説も聞きどころです。 ※人形歴史館(大人入場料300円・中学生以下無料・水曜定休) |
【埼玉県の人形の歴史】
岩槻の人形の歴史は、寛永十三年、伏見の人形師が日光から江戸に向う途中、岩槻にとどまったのを始まりとする説、また、元禄年間に京の仏師が病から岩槻に定住し、人形の頭を作ったのが始まりとも伝えられています。
いすれにしても、古くは江戸時代より、江戸に通じる街道を往来する旅人に親しまれ、幕末の人形作りの名人によって、岩槻人形の名は全国に知られるようになりました。
以来埼玉県は全国でも有数な人形の産地として、さまざまな人形が作られています。土呂で作られた土雛や、室町雛を改良した裃雛、やまと人形、木目込み人形など、高度な技術を要する作品も数多く見られます。
岩槻を中心に熊ヶ谷、越ヶ谷、鴻巣等、埼玉県で製造される日本人形の種類の豊富さは、他の産地では見られないことです。
【北条氏房岩槻城大構加倉口】 (左側) 13:03
次の「児童センター入口」信号を渡った左側に、『ここから 日光御成道 市宿(いちじゅく)通り 昔の町屋』と書かれた木の案内板と、その左脇に北条氏房岩槻城大構加倉口と書かれた木柱が立っていた。
【岩槻郷土資料館】 (右側) 13:05~13:25
その次の「本町1丁目」信号を渡った右側に、旧岩槻警察署だった岩槻郷土資料館が建っている。
館内には、大昔のくらし、岩槻のあゆみ(岩槻城や遷喬館に関する資料)、くらしの道具、岩槻城の模型等が展示されている。
【さいたま市立岩槻郷土資料館】 当館の建物は、昭和五年(1930)に新築・竣功した旧岩槻警察署庁舎です。梁などの天井回りや窓に見られるアーチ状の造形をはじめ、随所に施された装飾は、大正期の建築様式の面影をとどめています。警察署庁舎の名残りの空間構成とともに、当館の隠れたみどころとなっています。 開館時間 午前9時~午後4時30分 休 館 日 毎週月曜日(休日を除く) 休日の翌日(土曜日・日曜日・休日を除く) 年末年始(12月28日~1月4日) 入 館 料 無料 |
建物右側の駐車場入口に『市宿通り 観光みどころマップ』が掲げられ、左側には『城下町岩槻散策案内』と『市宿町』の石柱が立っていた。
【城下町岩槻散策案内】
戦国時代から江戸時代にかけて、岩槻城の城下町や日光御成道の宿場として都市形成が進んだ岩槻。その当時、岩槻城内では「本丸」「三の丸」「新曲輪」などの名称が付けられ、城下の武士が住む地区(武家地)の通り名は「小路」、庶民が住む地区(町屋)は「町」と呼ばれていました。
そうした地名や景観は、1970年代以降、急速に失われてしまいましたが、入り組んだ街路や地域の通称などの形で、今でもそこかしこにその面影をとどめています。それらは、岩槻城や城下町の一面を伝え、岩槻の豊かな歴史的環境を形作る、大切な歴史的遺産です。
【高札場】 (左側) 13;27
郷土資料館の直ぐ先左側にある「八百屋安兵衛」の前に高札場が復元されていて、その隣の家の前に説明板が立っている。
【高札場と市宿通り】 江戸時代に幕府や岩槻藩が定めた・犯罪手配・火災防止等を木札に書き高く掲げ、庶民に知らせるため人の集まる・道辻・船乗場・宿場に設けられた広報版です。 例えば生類憐み令・渡来銭通用禁止令享保の改革の贅沢禁止令・キリシタン禁止令がありました。 市宿通りの新町横丁辻にも高札場がありました。 現在、日本橋品川河岸・木曽街道馬籠宿・妻後宿・倉賀野・甲州街道府中などにあります。 ※市宿通りは、徳川将軍が日光東照宮を社参した日光御成道で、六斎市の(一と六の日)の発祥地として市が開かれ、当時は大変賑わいました。近くには八雲神社(市神様)が鎮座されています。 問屋場とは 旅人の荷物を次の宿場まで運ぶ場所で、通信業務(伝馬制)があるため馬役人を揃えた場所です。経費は、間口より地元で費用負担して不足の時は、補うための助郷制がありました。 市宿通り道路整備協議会 平成ニ十五年五月吉日 |
【田中屋本店】 (右側) 13:28
高札場の斜め向いに、嘉永年間創業の和菓子店田中屋本店がある。
平成三年に蔵づくりの建物を改修したとのこと。
【芳林寺】 (左側) 13:31~13:45
「本町二丁目」信号を渡ったすぐ左側に芳林寺がある。
右手にフェンスに囲われた寺の広い敷地がある長い参道を進むと、途中に山門があり、更にその奥の正門を入ると本堂が建っている。現在本堂は修理中だった。
【岩槻城・太田道灌・芳林寺】 岩槻城は、室町時代に古河公方足利成氏(しげうじ)の執事扇谷(上杉家)持朝の命を受け、長禄元年(1457)太田道真・道灌父子が築城したと伝えられる。 文明十八年(1486)、太田道灌が神奈川県伊勢原にあった主君・上杉定正の館で暗殺された時、父の道真と道灌の養子・太田資家(岩槻城主)が伊勢原に行き、道灌の遺骨や遺髪をもらい受けてきたと言われている。 そして、それらは埼玉県越生町の龍穏寺と芳林寺に分けて丁重に葬られ、今日まで供養されている。 また、芳林寺は太田三楽斎資正が、東松山城(埼玉県東松山市)の城代難波田正直の娘婿として活躍していた頃に、同地ゆかりの地蔵堂を岩槻に移したと伝えられ、資正の嫡男・太田氏資(岩槻城主)の時代に名前を地蔵堂から「芳林寺」と改めて、母・芳林妙春尼の御霊をはじめ。多くの合戦で亡くなった将兵や町内外の檀家の方々の御先祖の御霊を供養して、現代までで続いている由緒ある禅寺である。 |
上の写真の山門をくぐると右側に鉄柵に囲われた太田道灌の像が建っている。
【太田道灌公の像】 この太田道灌公の騎馬武者像は、東京都葛飾区柴又在住の世界的にも著名な彫刻家である冨田(とだ)憲二・山本明良両先生(彫刻工房、十方舎)の作品です。 |
鉄柵の前には六地蔵と『右 日光御成街道』と刻まれた道標が建っている。
奥の正門を入るとすぐ左側に芳林寺の由緒が刻まれ、その後ろには太田氏資(うじすけ)の銅像と地蔵堂が建っている。
【曹洞宗太平山芳林寺由緒】 当寺は、釈迦如来を本尊とし、静岡県藤枝市にある龍池山洞雲寺の末寺にして、覚翁文等禅師(洞雲寺四世)を開山とする禅刹である。 境内墓地から応永、享徳年号の墓石が発見されていることから、古くから当地に寺院が存したものと思料されるが、所伝によると、比企郡松山城に在った太田道灌公が延命地蔵尊を尊信し、松山城を築くにあたり堂宇を建てこれを祀り太平山地蔵堂と称したが、その後、文明十八年(1486年)七月二十六日道灌公が主君扇ヶ谷上杉定正に謀殺されるや、その遺骨(遺髪とも云う)を堂側に埋葬して、香月院殿春苑道灌大居士と諡したのであった。 しかし、永正十七年(1520年)八月火災に罹り烏有に帰したため、その後、曾孫・太田三楽斎弾正公は居城であった太田道真公・道灌公父子が築城した岩槻城下の当地にこれを移し、再建全く成って大鐘を掛け宝殿が空にそびえたという。そして五十石を寄進され常住の資に充てられた。 なお、道灌公が相州伊勢原の上杉定正の館で暗殺された時、父の太田道真公と道灌公の養子・太田資家公(岩槻城主)が、道灌公の遺髪や分骨をもらい受け、越生町の龍穏寺と岩槻の芳林寺に埋葬したとの言い伝えもある。 資正公の正室であり、岩槻城主・太田氏資公の母公が生前に禅門に帰依して芳林妙春尼と号していたが、永禄十年(1567年)三月八日逝去するにおよび陽光院殿芳林妙春大姉と諡し、開基となしてその法号に因み、寺号を芳林寺と改めたのであった。 また、氏資公は北条氏康の娘(長称院)を妻に迎え、小田原北条氏に属していたが、永禄十年八月二十三日里見氏との上総三船山の合戦で、殿軍を努め討死したので、その亡骸を当寺に埋葬し太崇院殿昌安道也大居士と諡した。 天正十八年(1590年)徳川家康公関東入国に伴い、高力清長公が岩槻城主に封ぜられるや、当寺の荒廃しているのを嘆き大修理を加え復興した。 そして、嫡男・高力正長公が慶長四年(1599年)三月二十二日卒したとき当寺に葬り、快林院殿全室道機大禅定門と諡したのである。この間いくばくもなくして火災に遭い堂宇悉く灰燼に帰したが、高力忠房公がこれを再び復興造営した。 それ以来年月を歴てまたも文化八年(1811年)二月十八日焼失し、現在の本堂は天保十二年(1841年)五月再建したものといわれる。 明治四年(1871年)県庁が一時岩槻に置かれた際、一部仮庁舎として使用されたとも伝えられている。 昭和五十三年十月 太平山芳林寺 岩槻市観光協会 石碑建立志納金寄付者御芳名(略) 平成二十年八月盂蘭盆 再建 |
また、由緒の左下には、里程標が建ち、『江戸日本橋 九里』、『白鶴城本丸 半里』、江戸の裏側に『京三条大橋 百四十二里』と刻まれていた。
本堂の左側は墓地になっており、墓地に入って右手中程に太田氏資宝篋印塔があり、『太田氏資公・太田道灌公・芳林寺妙春尼御霊廟・』と刻まれた石標、また、宝篋印塔の説明板の他に、太田氏資公事績、太田道灌公事績等の碑文も並んでいる。
【太田氏資公事績】 天文十二年」(1543)岩槻城主太田三楽斎資正の嫡男として誕生。初名源五郎資房。 武勇に勝れた若武者であったが、関東における情勢の変化により父資正と政治的に対立。家臣たちに推載され永禄七年(1564)岩槻城主となり、領地の経営に力を尽くした。 小田原北条氏に属し、北条氏政の妹を妻に迎え、名を資房から氏資と改める。 永禄十年(1567)八月二十三日、里見氏との上総三船台の合戦で、北条郡の殿軍を努め、家臣五十三騎と共に討死享年二十五才。従五位下大膳太夫。芳林寺開基。 法名 當寺開基太崇院殿昌安道也代居士 當寺三十二世誌 【太田道灌公事績】 太田資清入道道真の嫡男、源六郎資長従五位下、左衛門大夫、備中守、のちに剃髪して道灌と号した。 扇谷上杉定正の家宰として仕え、長禄元年(1457)、父道真とともに江戸城・岩槻城・川越上を築き、各地の乱を平定するなど、主家や関東の安寧のためその知略の才をいいかんなく発揮した。 また、つねに古今の兵書を読んでは軍法の道に達し、和歌や漢籍にも通じるなど文武兼備の名将として名高い。 しかし、道灌公の威徳を恐れた山内・扇谷の両上杉氏により、「謀反の企てあり」として、文明十八年(1486)七月二十六日、相州糟屋の上杉定正の館において謀殺される。享年五十五才。 亡骸は荼毘に付されたのち、分骨をゆかりの地である岩槻の當寺にも埋葬したと伝えられる。 大正七年十一月十八日追贈従三位 法名 香月院殿春苑道灌大居士 當寺三十二世誌 |
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【太田氏資宝篋印塔】 市指定文化財(史跡) (昭和53年3月29日指定) この宝篋印塔は、上総三船台で討死した岩槻城主太田氏資の供養のために建立された供養塔である。材質は砂岩、総高一・一四メートル、塔幅三二センチメートル、正面に次の銘文が刻まれている。 当寺 神衹 梵字(阿字) 昌安道也 開基 居士 永禄十一年八月二五日 氏資は、関東戦国期の勇将太田三楽資正の嫡子で、父資正が関東管領上杉氏側に属し、武蔵の国に勢力をのばしてきた北条氏康・氏政父子と対峙し援軍要請のため留守の間に、氏資は北条氏の勢いに屈し、これと和したため、永禄七年(1564)資正と弟政景は常陸の国に逃れ氏資は北条氏の女婿となり父資正の跡を継いで岩槻城主となった。以後氏資は北条氏麾下(きか)の守将として領国支配に当り、同十年八月、上総三船台において里見氏と戦い討死した。 この後一時期北条氏の直接支配を経て、岩槻城は氏資の娘小少将に配された氏政の子氏房によって継承された。 岩槻市教育委員会 |
太田氏資公御霊廟の左手に高力正長公御霊廟と刻まれた石標と宝篋印塔が建っている。
【高力正長公事績】 徳川家康に仕え、仏高力といわれた岩槻城主高力清永の長男として、永禄元年(1558)三河国に生まれ、元亀三年(1572)の三方ヶ原合戦を初陣として、長篠合戦や甲州攻め、長久手合戦等に戦功をあげた。 天正十五年(1587)駿府で大番頭を勤め、慶長四年(1599)従五位下土佐守に任ぜられたが、同年三月二十二日惜しくも病没。行年四十二才。 法名 快林院殿全室道機大膳定門 |
本堂の右横に下記の面白い逸話が記された石板が建っていた。
【埼玉県庁が最初に設置された芳林寺】
明治四年(1871)十一月十四日、埼玉県・入間県の設置が太政官布告で令達された際、県庁の位置は埼玉県は岩槻とされ、ここ芳林寺に最初の県庁舎が設置されました。
当寺の岩槻は城下町として賑わっていましたが、岩槻で県庁の事務を執ったのはわずかの間、まもなく浦和に移転してしまいました。
その当時の逸話が、北條精一氏の著書に記されています。
「廃藩と剣客の悲哀」
岩槻町長秋葉保雄氏の話
廃藩置県となって、「埼玉県庁を埼玉郡岩槻町に置く」ということになって、県庁の仮庁舎は岩槻町芳林寺内に置かれたものです。その頃は、南埼、北埼に分かれていなくて埼玉県埼玉郡と呼んでいた。岩槻藩は二万三千石大岡司膳正の城下町であった。
明治四年、芳林寺に仮庁舎が置かれ、初代の県令(知事)は鹿児島県士族野村盛秀が任命され、大書記官が白根多助、大参事が吉田清秀という人だった。大岡藩からも平野正信、児玉親廣などという人材が県史に採用された。
当時の話として、岩槻町は県庁を邪魔者扱いして追っ払ったので、県庁が浦和に移されたように伝えられているが、これはとんでもない間違いで、事の真相はこうなんです。
藩士で家老格の家柄―名前は憚るが剣道達者な男があった。旧幕府時代は剣道ができれば立派に家門が立っておったのであるが、廃藩置県の後は剣術では飯が食えない。この男が県庁へ仕官したい希望を抱いていたが、頭が出来ないので採用されない。それを遺恨に思って、芳林寺の仮庁舎へ長刀の落し差しかなんかで出かけて、さんざん嫌味を並べて毎日のように暴れたのですな。藩中で相当勢力があったし、うるさく暴れるので、こんなうるさいところへ県庁は置かなくてもよいとついに移転となったものです。この男が嫌味を並べて暴れさえしなかったら、岩槻は県庁所在地として、今頃は県の首都で大いに発展していたろうと思うのです。そう思うと、この没常識漢の仕打ちがうらめしくも思われる。
「武州このごろ記」 北條精一著 日本公論社 昭和十年七月刊
【藤宮製菓】 (右側) 13:51
街道に戻って直ぐ先右側に藤宮製菓店がある。
昭和29年創業だが蔵造りの店構えが良かったので紹介。
【岩槻宿本陣跡】 (右側) 13:53
藤宮製菓の一、二軒隣にある「埼玉懸信用金庫岩槻支店」が本陣跡で、建物もそれらしく造られている。
【遷喬(せんきょう)館】 (右奥) 14:01~14:10
「岩槻駅入口」信号を越えた次の信号を右折し、曲がり角に案内板がある最初の道を左折すると右側に藁葺き屋根の遷喬館がある。
開館時間 午前9時~午後4時30分
休 館 日 毎週月曜日(休日を除く) 休日の翌日(土・日・休日を除く) 年末年始(12月28日~1月4日)
入 館 料 無料
【岩槻藩遷喬館】 埼玉県指定史跡(昭和14年3月31日指定) 遷喬館は、江戸時代後期の寛政十一年(1799)に岩槻藩の学者児玉南柯(なんか)が青少年の教育のために創立した家塾で、後に藩校となりました。最盛期には梅林を伴った広大な敷地の中に、武芸稽古所、菅原道真を祀る菅神廟(天神社)、南柯の自宅「梅亭」、築山・池泉、展望台などが設けられていました。 現存する建物は、遷喬館の学舎(校舎)として使用されていたもので、十五畳と九畳からなる二間続きの教場を備えています。 江戸時代には全国に多くの藩校がありましたが、県内において保存されている藩校は、遷喬館が唯一のもので、昭和十四年三月三十一日に埼玉県の文化財(史跡)に指定されました。 平成十八年三月 さいたま市教育委員会 |
【児玉南柯】 延享3年(1746)~文政13年(1830)
児玉南柯は、江戸時代後期の岩槻藩の藩士です。名は「琮(そう)」といい、「南柯」は46歳から名乗り始めた儒者としての号です。
豊島家の長男として甲府で生まれ、11歳で岩槻藩士・児玉親繁の養子となります。16歳で藩主・大岡忠喜の小姓となり、その後、江戸藩邸に勤めました。
優れた儒者であり、郡奉行・御側用人・御勝手向取締方など藩の要職を歴任する有能な行政官でもありました。
また、43歳で職を辞してからは、藩主の侍読を務め、私塾でのちに藩校となる遷喬館を創設し、藩士の子弟らの教育あたるなど、優れた教育者でもありました。
85歳で病のため亡くなり、遷喬館近くの浄安寺に葬られました。
【「遷喬館」の名前の由来】
「遷喬館」という名前は、中国の書物『詩経』の「出自幽谷遷于喬木」という一節に由来したものです。意味は「学問を欲し友を求める」ことを、「鳥が明るい場所を求めて暗い谷から高い木に飛び遷(移)る」姿にたとえたもので、この言葉は遷喬館の会約にも書かれています。「遷喬館」という名前は、「ここで学ぶ子どもたちに高い目標を持ってほしい」という南柯の願いがこめられているものと思われます。
パンフレットより
遷喬館の正門入口に裏小路と刻まれた説明付石標が建っている。
【裏小路】
岩槻城内侍屋敷の路名。横町との境・裏小路口から渋江小路に至る。江戸時代の終わり頃、この小路に面する一画に児玉南柯が藩校の遷喬館を開いた。
【鈴木酒造・酒造資料館】 14:14~14:22
遷喬館の角を右折し、遷喬館裏口前を通り、突当りを左折、次を右折すると右手に清酒「万両」の醸造元鈴木酒造がある。
正面に回ると一階が店で、二階が酒造資料館となっており、自由に見学が出来る。
【天神小路】 14:34
遷喬館から来た道と、鈴木酒造との角に、天神小路と刻まれた説明付石標が建っている。
天神小路は鈴木酒造前の小路である。
下の写真で、奥が遷喬館からの道、左の塀が鈴木酒造。
【天神小路】 岩槻城内侍屋敷の路名。横町との境・天神小路口から諏訪小路に至る。通りに面して天神社があることが名前の由来。通り中程を南に折れると、林道口門を経て大構外に出る。 平成元年七月一日 岩槻市教育委員会 |
【諏訪神社】 14:34
鈴木酒造から岩槻城址(北東方向)に向うため、天神小路(昔の侍屋敷)の点滅信号を二つ越え、突当りを右折して諏訪小路(昔の武家屋敷)に入る。
「岩槻商業高校」の先を左折すると諏訪神社の参道になる。
【諏訪神社】 諏訪神社の祭神は、岩槻城守護の軍神として信濃国諏訪上社より勧請した建御名方命で、当社は、市内にある久伊豆神社や八幡神社、天満宮とともに城主や家臣の祈願所となっていた。 当社の創立年代は不明であるが、阿部氏在城当時の武州岩槻城絵図では、現在の地にすでにその存在が書かれているので、それ以前か、あるいは岩槻城が築城されたとき、北方に鎮座する久伊豆神社と同様、鬼門除けとして創建されたものと思われる。 当時、神社の運営は大字太田の旧大岡氏家臣を中心とした氏子によって行なわれていたと伝えられるが、現在は当地区自治会の人々によって行なわれている。 なお、祭礼は毎年八月二十七日である。 昭和六十年三月 埼玉県 岩槻市 |
【岩槻城址】 14:40~14:55
諏訪神社の左横の細道を突き当りまで進めば、岩槻城(岩槻城址公園)で、突当りに絵図と説明文が掲げられている。
【岩槻城】 岩槻城は室町時代に築かれた城郭です。築城者については太田道灌とする説、父の太田道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々です。 16世紀の前半には太田氏が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三舟山合戦(現千葉県富津市)で太田氏資が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなりました。 北条氏は、天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正18年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主となりました。 江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。 室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。 岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪が、沼地を挟んだ南側に新曲輪がありました。主要部の西側は堀によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていました。また城と城下町を囲むように大構が造られました。 城というと、一般的に石垣や天守閣がイメージされますが、岩槻城の場合、石垣は造られずに、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を造るという、関東では一般的な城郭でした。 現在では城跡のなかでも南端の新曲輪・鍛冶曲輪跡(現在の岩槻公園)が県史跡に指定されています。どちらの曲輪も戦国時代末に北条氏によって造られた出丸で、土塁・空堀・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀が見つかっています。 岩槻市 |
説明板が立っている突当りを右手の方に行けば、野球場の向かいに黒門(長屋門)と裏門が移築保存されているが、時間の関係で行かずに、真直ぐ岩槻城址公園に入ることにした。
広大な芝生で、多目的広場、わんぱく広場、ピクニック広場、テニスコート等があり、菖蒲池に架かる赤い八つ橋(下の写真)が綺麗だった。また、北東の端には、ロマンスカー「きぬ」号展示広場もあった。
【二の丸跡】 15:00
岩槻城址公園の東側道路に出て左(北)に行き、「きぬ」号の前を過ぎた直ぐ右手に「明戸天満宮」が建っている。
その天満宮から一本左(西)の道を北上して県道2号線に突当った、岩槻駅に向って右側(レンタル店「ゲオ」の向い)に二の丸跡の石標が建っている。
【二の丸】 本丸の東にある。車橋を経て三の丸に通じる。初めは岩槻城主の居所として、後には日光社参の際の将軍宿泊所として使われた。 郭内にあった一対の老杉は道灌箸立杉と呼ばれる名木であった。 平成元年七月一日 岩槻市教育委員会 |
高齢な母を抱えている為、急いで東武野田線の「岩槻駅」に戻り、大宮経由で帰宅。
二人だけなら何時に帰っても良いので、もっと道草出来るのだが、遠出すると終了時間が早くなるのは、この様な理由による。
戻る途中にある、三の丸跡、時の鐘、大龍寺、岩槻一里塚、願生寺、大正館等は次回紹介とし、今回は一里塚まで進んだことにした。
5回目の旅終了(15:25)。岩槻駅。
【本日の記録】
江戸時代の街道のみの距離は、5.7Km(さぎ山記念公園~岩槻一里塚)
本郷追分から、八里(31.4Km) (日本橋からは一里を加える)。
寄り道を含めた実歩行距離は、11.8Km(さぎ山記念公園バス停~岩槻駅) 累計:55.6Km
5時間 19,000歩。